『朝倉涼子の思惑』

情報統合思念体の把握していた規定事項に反して、涼宮ハルヒによりSOS団が設立された。
この事項に関与しているのは、この惑星に於いての観察活動を統括する長門有希が、涼宮ハルヒに
"最も近い位置"での観察をなし崩し的に担当を請け負う形になってしまった。
それ故、自身の立場を懸念した涼子はある一つの計画を立案し、密かに行動に移していたのである。

長門有希にSOS団設立にあたっての変更指令を告げられてから数日が過ぎ去った木曜日の事。
澄み渡った蒼窮の下、涼子は胸を躍らせる想いで通学路を駆けていた。
一人の少年が必ず通学時に使用する自転車を、駐輪場に停めて必ず通る小道の先の交差点で、偶然を
装って接触するという物だった。
然し、人間とは気まぐれな生き物であり、未来や過去の同期を取ってしても測れない人物の挙動を探
るのには困難を要した。
それ故の数日に渡る分析であり、ようやく念願の待ち伏せが成就する。気だるそうに歩を進めるキョ
ンの前に、偶然を装い弾む様に前に飛び出した涼子は驚嘆と共に声を発した。
「わっ!びっくりした……」
「うおっ!」
涼子は狙い通りの結果に口端が緩み、キョンは純粋に驚愕する。
「何だーキョン君か……、驚かせないでよね、もう」
少し拗ねたように見せ、上目遣いで若干背の高いキョンを見上げる。涼子の艶かしい笑みを当てられ、
キョンは高揚で顔を真っ赤に染め上げ堪らず視線を逸らした。
はたして、涼子の企みは計画通りに始まったのだった。

(偶然……だよな)
横に並ぶ朝倉涼子の横顔を目線だけで眺め、そんな事を思案しながら感嘆の息を漏らした。
贔屓目に見なくても、ティーンズ雑誌などに出ていてもおかしくない、鶴の様なスラリとした長い手足。
端正に整った美貌。艶に輝く青黒いロングストレートの髪。何より鼻孔をかすめる甘い香りが、情熱を
……持て余す。
そんな欲望を持て余したキョンの弛んだ顔を、唐突に涼子が訝しげに覗き込んだ。
「どうしたの?」
「いっ、いや、何でもな痛っ!」
慌てたキョンは、足をもつれさせたたらを踏み、傾いだ身体は慣性のまま後ろに倒れ危うく転がり掛けた。
なにしろそこは傾度三十度は越えるだろう、急な坂道だ。故に、簡単に転びもすれば転がるのもまた容易な
のだ。
「ちょっ……、やだっ大丈夫?」
「あっ、……ああ。すまない」
差し出された涼子の手を取り、その手の柔らかさに感動しつつ腰を上げた。
キョンは恥ずかしそうに真っ赤に高揚した顔を歪め、から笑いをする。
ややあって、最初こそ怪訝な面持ちでいた涼子も釣られて笑い、いつしか二人して自然に笑い合っていた。
「ははっ結構ドジ何だね、キョン君」
「それほどでも」
「褒めてないって!」
そうして自然に振る舞える朝倉涼子は、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースの
中でも最も人間に近しい機構を持った端末として造られた所以だ。
それから、二人して北高までの道すがら、他愛もない話で盛り上がった。

*

最近はキョンに対しての接触が密になった朝倉涼子。これに対して快く思わない人物が居た。
未だに登校した生徒はまばら、その中に欝々としたオーラを周囲に放ち、窓硝子が溶けんばかりに爛々
とした瞳で睨み付けている少女が居た。
涼宮ハルヒである。
彼女が見たのは、先日設立したSOS団団員その一と、何かと目立つクラス委員が、二人して仲良く登校
してきたのを見付けたのだ。何故だか、腹が立った。胸の奥にもやもやとした、漠然とした感覚が更に苛
立ちを加速させる。しばらくして、教室に入って来た少年、珍妙な綽名で慣れ親しまれているキョンを、
「チッ……」
舌打ちをし、侮蔑を孕んだ視線で睨み付けてやった。
「おう……」
はたして、キョンは明らかな動揺を見せた。
(何よ、朝っぱらからデレデレしちゃって……)
別に自分が気にするでもない事に、何故こんなにも自分が苛立っているのか、よく分からなかった。
だけど、この鬱憤を晴らす為に後でシャーペンの先で背中でもつついてやろうと決めた。

唐突に寒気を感じたキョンは、恐らくその発生元と思しき人物を見て、その侮蔑を孕んだ視線と視線が
絡み合い、戦慄した。
(い、いつにも増して不機嫌だな……。出来れば関わりたくは無いが、関わらない訳にはいかんだろう
な……)
そんな思考を逡巡し、覚束ない足取りで自分の席に向かう。
「おっ、おはよう、涼宮……」
だが、ハルヒは不機嫌オーラを垂れ流し状態にあり、視線を一度合わせ、
「ふんっ」
会話をする余地すら与え無かった。
(やれやれ……)
今日一日、この不機嫌オーラを背に過ごすかと思うと気が滅入りそうだ、と、キョンはかぶりを振った。

*

涼宮ハルヒが不機嫌だ――というだけで、周囲は触らぬ神に祟り無し、もとい触らぬ変人に祟り無しと
言った感じで、教師すら避ける程だった。
未だ同好会としてすら認可されていないSOS団が設立された当日の内に、文化部部室棟3階にある文芸

部室の隣に部室を構えるコンピュータ研究会、略してコンピ研からの最新型PCの脅迫まがいの奪取に付け

加え、翌日の放課後にバニーガール姿でビラ配りをする、という奇行に走った涼宮ハルヒは、瞬く間に希代の

変人として名を轟かせ、今では北高における時の人となりつつあった。
涼宮曰く、「任意同行よ」の元連れ拐われて来た美少女、朝比奈みくるは精神的被害を一番被っていた。
セクハラ写真のネタにされたり、無理矢理バニーガール姿に着替えさせられビラ配りに同行させられたり。
だが、一日休んだだけでめげずにSOS団が不法占拠をしている──本来は文芸部室である──に通い続け

ている健気な姿には感銘すら覚える。
一方、SOS団の中に強制的に組み込まれた文芸部部長である長門有希は、不変不動の大仏よろしく窓際

の席に鎮座している。この眼鏡娘は涼宮ハルヒに感化されず、あくまでマイペースに過ごしている。
その後、九組に転校してきた、涼宮曰く"謎の転校生、古泉一樹"。
彼は別に被害は被っていないと思われる。どの様な勧誘を受けたのか、キョンには知る由も無いが。涼し
げな表情でやんわりと涼宮に対して応対する辺り、当たり障りのない人間だと思われる。
そして、今悩める人として、本日二時限目に行われている英語の授業の最中、頬杖を付きギラギラとした
熱い眼差しで黒板を忌々しげに睨み付けている少年が居た。
眼からレーザを出して黒板を炭化させてやろうとしている訳では、ない。
ただ、先刻から背中をチクリチクリと先のとがった……シャーペンで突かれているのだ。
その少年というのは、言わずと知れた涼宮ハルヒの奇行における第一の犠牲者である珍妙な綽名の男、
キョンである。
(一体俺が何をした!?何故、ここまで執拗に鬱憤を晴らす為の的にされなければならん……!)
彼の心中は決して穏やかでは無かった。
それもそうだ。二十分程チクリ、チクリと背中を蹂躙されれば堪ったものではない。
だが、ここで思惑通りの行動を取ってしまえば、涼宮の思う壷だ。
(男には耐えねばならん時がある、それが今なんだ!)
無駄に意気込み、無駄に眼をギラ付かせ異様な雰囲気を周囲にたらしめていた。

(つまんないつまんないつまんない!)
犯人である涼宮ハルヒは、完全に無視を決め込まれ不満を募らせていた。
(何よ、あの女にはヘラヘラ下手に出る癖に、あたしの相手は出来ないって訳!?)
その時、思わず力が入り、今までより強く、深く、シャーペンの先がキョンの背中に刺さった。
「あっ」
ハルヒは間の抜けた声を出し。
「あんっ……」
キョンの間抜けな悲鳴が静まり返った教室内に響いた。
そこかしこで、二人のやりとりを眺めていた何人かの笑いを堪える声が漏れる中、力無く机に突っ伏した
キョンは、憤然と体を起こし勢いを殺さず後ろ振り返り、怒りのまま叫んだ。
「何しやがる!」
笑いを堪えるのに必死だったハルヒは、
「な……何よ……くくっ」
「な、何笑ってんだよ……」
「あ……あんたが、へ、変な声出すから、くっ、ぶふぅ!」
「失礼な奴め、大体好きで出した訳じゃない!」

二人のやり取りを見ていた朝倉涼子は自分の予想通り、涼宮ハルヒの精神状態が少年の行動一つで感化
された事に満足していた。
しかし、涼宮ハルヒの満足気な笑顔、キョンの一挙手一投足を見て、処理不能のエラーが蓄積されて行く。
こんなの嫌。気が付けば、そう感じていた。
居ても立っても居られなくなり、制止に入る。本来授業中なのだから、二人の行動は異端である。
「二人共、今は授業中だよ」
故に、クラス委員長としては自然な行動である。
絵に書いた様な美人のクラス委員長、というのが朝倉涼子であり、皆が感嘆の声を漏らすのも頷ける。
キョンも申し訳なさそうに席に着き、しかし、涼宮ハルヒは「ふんっ」と鼻を鳴らして再び不機嫌になった
のを最後に見て、涼子は前に向き直った。

*

昼休みにて、ハルヒが学食に向かった頃合いを見計らって、中学からの腐れ縁の国木田に加え、国木田と席
が近かった為に会話を持つ様になった谷口が弁当を片手にキョンの机に集った。
いつもの様に、各々他人の席に腰を下ろし、弁当の小包を開いた。
キョンは鞄の中から、通学途中コンビニで買った菓子パンを取り出すと、
「あれ?キョン。今日は弁当じゃないんだ?」
と、国木田が不思議そうに菓子パンを見詰めて言う。
「ああ、親が最近忙しいらしくてな」
「それなら涼宮と学食に行けば良いじゃないか」
谷口が間に茶々を入れる。
「あのな、別に俺はアイツと常に一緒じゃないんだ。心休まる一時ぐらい有ってもいいだろ?」
「……お前達、付き合ってるんじゃないのか?」
谷口が素っ頓狂な事を口走る。
危うく一口食べた菓子パンを吹き掛けたキョンは慌てて訂正する。
「誤解を招く様な事を言うな!そんな訳無いだろ!?」
「あれ?僕も付き合ってるものだと思ってたけど」
おかずを丁寧に切り分けながら平然と国木田。
「全く……遺憾だ」
各々、他愛も無い雑談を交しながら箸を進めていた。
「なあ、キョン。お前一体どんな手法を使ったんだ?」
それまでの雑談を切り上げ、谷口が白米を咀嚼の途中にも関わらず、唐突に主語の抜けた問掛けをする。
「何の話だ?」
キョンは怪訝な面持ちで答える。
「何って、朝倉涼子だよ」
谷口は机に身を乗り出し、視線は話題の少女に向ける。
「ああ、僕も気になるな。今日、朝一緒に登校してたんでしょ?」
「ああ、朝偶然会ってな。それで一緒に来ただけだが」
何の気無しに答えるキョンも、ふと視線を少女に向けようと視線を泳がせる──がそこには彼女の姿は
無かった。
「何の話?」
唐突に、話題の少女の声が直ぐ側で発っせられた。
「えっ?」
「へっ?」
「ん?」
三者三様の間抜けな声を上げ、唖然とする。
「私の名前、聴こえたから。ねぇ、何の話してたの?」
思いも寄らぬ本人による詰問に、三人共声を詰まらせ、ややあって口を開いたのは谷口だった。
「いや、別に何でも無いんだ。なあ、キョン?」
「あ……、ああ。特に何も……はは、は……」
苦し紛れ……といった二人の様子を訝る様に見つめ、困った様に眉根をしかめた涼子は、キョンの手元
を見て呟いた。
「あれ?キョン君お弁当やめたんだ?」
予想外の質問に、漸く平静を取り戻しつつあったキョンに追い討ちを掛ける。
「えっ?ああ、これは、だな。親が最近い、忙しくて」
キョンは声を上擦らせながらも言い切ると。
「ふーん……、もし良ければ私がお弁当、作ってあげようか?」
「まじでか?あ……でも」
突然の申し出にしどろもどろになるキョンを見て、涼子は満面の笑みで告げた。
「遠慮しないでいいよ?こう見えて料理は得意なの。じゃあ明日から持って来るから楽しみにしててね?」
それだけ言うと、スカートを翻し、元の女子グループの所に戻って行った。
ともあれ、残された三人はと言うと。
「なあ、一体どういう事だキョン?」
「羨ましいなあキョン。クラスメイトから手作り弁当だなんて」
(全く……、何でこうなるんだ……)
嘆息を漏らしながら、谷口に体を揺さぶられ、詰問を受ける(主に谷口から)羽目となったキョンで
あった。

*

日も暮れて、昼間の喧騒が嘘の様に辺りは闇夜の静寂に包まれていた。
その中を一際目立つ美少女、朝倉涼子は鼻唄等を唄いながら帰途にいた。
今日、彼女は上機嫌という感覚を初めて知った。
最初は戸惑いはしたものの、いつもは作り笑いしか出来ない自分から、自然と顔が綻び笑みを作って
いた。悪くない、実に悪くない気分だった。
帰りに寄ったスーパーで、思ったより材料を選ぶのに時間を費やしたりもした。それに食材を必要以
上に買い込んでしまった。
「どうしよう……、でも、沢山食べて貰えばいいか」
それに、今日は長門さんにシチューでもご馳走しよう。
そう呟きながら、足取りは至って軽やか。分譲マンションのエントランスを抜けエレベータに乗り目
的の部屋に辿り着く。礼儀作法としてチャイムを一度鳴らしたが、反応はない。
「何時もなら帰ってるのに、長門さん何処行ってるのかしら?」
まあ、居ないなら仕方ない。諦めて、床に置いた荷物を拾い上げ顔を上げると。
「あ、朝倉?」
「え、キョン君?それに長門さん……」
訪ね人は予想外の人物を引き連れて、三人は邂逅を果たした。

*

テレビもねぇ、ソファーもねぇ、生活感の欠片もねぇ!と、何処かで聴いた節を危うく口遊みそうに
なったキョンはぐっと堪え、改めてリビングに視線を泳がせた。が、やはり何もない。あるのは部屋の
真ん中に火燵が無造作に置かれているだけだった。
「その辺りに座っててね、直ぐに作っちゃうから」
朝倉の言葉に甘えて、というのもおかしな話ではあるが、家主である長門はコタツに入り微動だにせ
ず、戸惑いながらもキョンは長門の対の位置に腰を下ろした。
トントントン……と、包丁が規則正しいリズムでまな板を叩く音だけがリビングに響く。
キョンは居心地の悪さを紛らす為、思い付いたまま言葉を発した。
「な、なぁ長門。お前と朝倉の関係って何だ?友達か?」
「……恐らく」
「そっ、そうか」
長門相手に会話を成立させるのが、如何に難儀か思い知らされる。
そもそも此処にキョンを連れて来たのは長門であり、彼女は涼宮ハルヒに関する重要事項を伝える為
に彼を呼び出したのだ。
その手法は、本に待ち合わせ場所である光陽園駅前公園と時間を書いた栞を挟んで渡すという個性的
な物であったが。元々読書を好まないキョンは、借りた本を自室に放置していた。
それから二日が経ち、長門に本を読むように催促され、栞の存在に気付き、現在に至るという訳だ。
(長門からわざわざ呼び出すくらいだ。何か余程大事な用事なんだろうが。何故、何も言わないんだ?
朝倉がいるからか?)
視線をキッチンに移す。
上機嫌で料理を作っている朝倉に、長門と大事な話があるからと切り出すには中々勇気がいる。
再び正面にいる長門に視線を戻すと、
「お茶、いる」
突然、お茶を要求された。
訝る様に顔を顰めたキョンを見て、長門は改めて言い直す。
「いる?」
ようやくその言葉で理解したキョンは頷きで返す。
それを了解と見て取った長門は、そろそろと火燵から腰を上げてキッチンに向かう。その足取りは、
忍者よろしく音も立てていなかった。
そんな少女の背中を目線で追いつつ、改めてキョンは彼女の表現の乏しさに違和感を覚えた。
(人付き合いが苦手だとしても、ここまで感情表現に乏しくなるものだろうか……?)
彼女、長門有希はまるで動く人形の様な不自然さを持っていた。それも、十五年生きてきた人間とは
思えない程に。

*

意外な珍入者に、具材を刻んでいた手を休め傍らに置いてあったハンドタオルで手を拭った。
「どうしたの?長門さん」
涼子はキッチンの入り口で佇む長門に声を掛けた。
「お湯」
と、一言告げた後、長門はシステムキッチンの下側の収納棚を開き、目当ての薬鑵(やかん)を手に取り
水を入れ始めた。
一連の無駄の無い動きを横目で眺めながら、涼子は一番気になる懸案事項を長門に聞く事にする。
「ねぇ、長門さん。今日、どうして彼を此処に連れて来たの?」
涼やかな嫌味の無い声で。
長門はゆっくりとした挙動で小振りの肢体を涼子に向けた。
「彼は涼宮ハルヒに関して、"鍵"となる人物に当たると上層部に報告した。その結果、彼に涼宮ハルヒに
対して迂濶な行動を取らせない様にする為、彼に真実を告げる様指示が下った」
長門の凛とした、それでいて透き通る声で饒舌に語る。差し出された薬鑵を受取り、火に掛けながら沸
き上がる困惑を必死に隠す。
(嘘……、まさかそんな事になるだなんて。でも、そうなるのは時間の問題だったはず……でも)
再び長門を正面に見据え、涼子は汗ばむ掌を握り締めた。
「もしかして、"私達"の事も?」
そう言葉にするのがやっとだった。動揺を察知される訳にはいかない。
何故、そう何故だか分からないが、彼に自分が造られた存在だと知られたく無かった。
長門は頷き、揺るがない意思をその双眸が語る。
「無論、"私達"の存在を含め彼に伝える。でも、心配しないで」
「……?」
この後に及んで何を心配するなと言うのだ。涼子は首を傾げた。
「あなたの事は伏せておく。だが、余り涼宮ハルヒを刺激しない様に」
瞬時にその言葉の意味を理解した。
刹那。
「何の話、してるんだ?」
話題の当人が割り入って来たのだ。これには流石に涼子も動揺を隠せず、長門は至って平然としていた。
「な、何かな?」
上擦りそうになる声を抑えつつ、それだけを絞り出す。
「何って、お湯沸いてるぞ」
「あっ」
キョンの指差した方向に視線を送ると、いつの間にかお湯が沸騰し、蒸気が立ち込めていた。
急いで火を止め、引きつった笑みを二人に向ける。
キョンはやれやれ、といった感じで苦笑し。長門は顔を顰めている様に見えた気がする。
「ごめんね」
涼子は広げた両手の指先を合わせて、何と無く謝っていた。

*

差し出された湯飲みを手に取り、一口含む。
(市販物……だろうな)
別に茶葉に関して知識がある訳でも無い。そんな自分が香りや風味に感想を述べるのも気が引けたキョン
は、黙ってそのまま湯飲みを置く。
それを何かのサインと見たのか、先程まで淡々と緑茶を堪能していた(実際はどうだか知る由もない)長
門がようやっと口を開いた。
「おいしい?」
「えっ?」
「お茶」
「あっ……う、美味いよ」
「そう」
今までで一番会話が続いた気がする。キョンは驚愕と幾ばくかの喜びを感じて、会話が終わらない様口を
開く。
「家の人は?」
「いない」
「いや、いないのは見れば解るんだが……。出掛けていて……とかか?」
「最初から私しかいない」
「ひょっとすると、一人暮らしなのか?」
「そう」
高級マンションに高校生になったばかりの女の子が一人暮らしとは、色々とワケありなんだろうな。と、
キョンは怪訝な面持ちで目の前でお茶を啜る少女を眺めた。
しかし、勘繰る様な真似はしなかった。
「長門、そろそろ俺をここに連れてきた理由を教えてくれないか?」
長門はコトリ、と湯のみを火燵の天板の上に置き、しかし一向に語る事も無かった。
「学校では出来ない話って何だ?」
長門はキョンの詰問にようやく重く閉じられた口を開いた。
「涼宮ハルヒの事」
凛とした透き通る様な声で。
「それと、私の事」
口を噤み一拍置き、「あなたに教えておく」と言った後再び黙り込む。
(どうにかならないのか、この話し方は)
キョンは若干の苛立ちを抑えつつ、聞き返した。
「涼宮とお前が何だって?」
キョンは長門が困惑や躊躇と言った感情を、無表情の顔に僅かながら浮かべた感情の起伏を見逃さなかっ
た。
「うまく言語化出来ない。情報の伝達に齟齬が発生するかもしれない。でも、聞いて」
そして、リビングまで漂ってきたシチューの香りが、腹の蟲を鳴かせる前に長門は語り出した。


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