「それでさ、みくるちゃんが羊になってね、あたしが鞭でこう、ビシバシと……」
 
 不思議探索ツアーの中休み、いつもの喫茶店でのブレイクタイム。
 もはや、真面目にこの町に不思議を探し求める気など、こいつにはないのではないだろうか?

 しかし、それはまったく持って賢明な判断であると言えるので、回を重ねるごとに、ただのSOS団の親睦を深める会になりつつあるこの時間を否定したりはしない。
 ハルヒは付け合せのマカロニチーズを残したハンバーグランチの皿を脇に寄せつつ、自らが夢に見た、果てしなく粗末な異世界の話を、オレンジジュースを肴に、俺たちに向けて熱く語っている。
 それを聞き流しつつ、俺は今日、朝から絶え間なく感じ続けている奇妙な違和感のようなものを、飴玉でも舐め溶かすかのように持て余していた。
 
 気温は朝からナイフのごとく痛烈で、風はやや強め。このところ降らない雨の所為で、いささか土ぼこりの多い土曜日。
 午前中のくじ引きでは、古泉とのツーショットデートというハズレ籤を引き、ある種、ハルヒのそれよりも念仏的な、奴の異世界にまつわる論説を、煙草臭いゲームセンターの空気を肴に聞かされ続けた。おかげで無駄に平行世界の概念に詳しくなった気がするが、数時間前に奴が何を話していたかは、もはや思い出せない。
 嗚、ありふれた冬の土曜日。
 そんな中、俺は自分の中に渦巻く、奇妙な焦りのようなものを、延々と引きずり続けていた。
 

 
 目覚めた瞬間、窓から差し込む陽光を目にした瞬間から。輪郭の見えない、長い既視感のような不気味な淀みが、俺の胸の内側の、そこらじゅうに張り付いていた。
 そしてその粘りは、ただ今日と言う日を淡々と生きればいい筈の俺の心に、不要――であるはずの――何かに追われているかのような、危機感のはしくれを植えつけていた。
 
 「それはまさに、僕の言う平行空間の理念に当てはまると思いませんか?」
 
 そんなおかしな感慨に追われているからこそ。俺はあろうことか、このただでさえ喧しい事この上なかったSFシナリオ再生マシンに、余計な焚き付けをしてしまうなどという、凡ミスを犯してしまった。
 
 「たった今、この世界と平行して、同じ時間軸を辿っている世界があるとします。
  その世界で、たとえば貴方が、何らかの問題を抱えている。
  貴方は、一刻も早くその問題を解決に導かなくてはならない。
  そして、そんな局面に面している貴方の発する……一種の危機信号のようなものでしょうか?
  それがこちら側の世界の貴方のもとへと、貴方の言う焦りのような形で届いている……と」
 
 もし、その説が正しいものなら、まったくはた迷惑な話だ。
 なぜなら、今、どこぞの平行世界で、俺がジュラシック・パーク的絶体絶命の危機に襲われているとして。そのエマージェンシーを、何故別の次元を生きている俺がキャッチせねばならんのだ。そんなもの、俺にはまったく関係ない話じゃないか。
 
 「ええ、本来ならそうでしょう。ですが、可能性として。
  別次元の貴方が面している事態というものが、今、この次元の貴方……
  ひいては、この世界そのものにまで影響を及ぼし得るようなものだったとしたら。
  今、二つの世界の距離が、限りなく近い距離まで接近している。
  向こうの世界で、貴方がその危機に飲まれる事があれば

  この世界の貴方にまで異変が発生するかもしれない……
  だとしたら。貴方はすぐにでも、その接近している平行世界へと飛び移り、問題の解決に貢献しなければならないのですよ」
 
 SF映画の筋書きとしては、平凡すぎて逆に悪くないとすら思うが。
 しかし、意味も無くただ焦らされたところで、俺には世界なんぞを飛び越える術などない。そもそも、もしそんな事態が、この世界のどこかで発生しているとして、俺になにやらしなければならんことがあるとすれば、大概の場合、長門やら、お前やら、朝比奈さんやらが、俺を導いてくれるはずじゃないか。というか、そうでなかったら、無力な俺はただジリジリと尻に火をつけられる思いをするばかりだ。向こうの世界の俺は、SOS団の団員の中の誰かに助けを求めるべき場面で、迷わず最も無力な俺を選択するほどに、思考回路の機能がいかれちまってるとでも言うのだろうか?
 
 「はは……すべては、たとえばの話ですよ。
  確かに、これまでに幾度か発生したような、世界の存続や

  涼宮さんの精神にまつわる事態が発生しているとしたら
  我々のうちの誰かしらが、貴方を導く立場となっているはずですから。
  長門さんや朝比奈さんのほうは存じませんが

  少なくとも僕の機関は、そのような異常事態の発生を感知してはいません。
  涼宮さんの精神状態も非常に良好、このところは僕のアルバイトもご無沙汰です。
  あるいは……そうですね。そんなあまりにも平坦すぎる日常に

  貴方の精神のほうが退屈なさっているのではないでしょうか?
  貴方の感じている不快感と言うものは、もしかしたら、涼宮さんが
  閉鎖空間の原材料としているものと同質のものなのかもしれません」
 
 俺の閉鎖空間。
 おそらく何気なく発したのであろう古泉の言葉が、ささくれに突き刺さる小さなトゲのように、俺の心を刺した。
 ふと、思い出す、ひと月前の事件。
 俺がこの世界を作り出した。そんな世迷言のような出来事。
 
 ああ、あれは―――夢、では、ないはずだったか。
 最も、今となっては、それが夢でも夢でなくても、俺が忘れてしまったが最後、そのままこの次元の歴史の片隅に置き忘れられてしまうような、空ろなもの。
 
 「……もし、俺のヤツが出来る時があったら、そのときはよろしく頼むぜ」
 「ええ、善処しますよ。できるだけ、AIのレベルは下げて置いてくださいね」
 
 会話の間、延々と惰性のように動かされていた俺の両手が停止する。過剰装飾といわざるを得ない大げさな打撃音と共に、俺の操作していたキャラクターが宙を舞う。見慣れたような、見慣れぬような、YOUR LOSEの文字。
 
 「なるほど、確かに今日の貴方は、いつもとはいささか調子が違うようですね」

 

 そのようだな。
  

 

      ◆
 

 
 「ほら、キョン、あんたの番」
 
 数時間前へとタイムスリップしていた俺の意識を引っ張り戻したのは、冷や水の如きハルヒの呼び声だった。
 気がつくと、俺たちのテーブルに散乱していたランチメニューの空き皿はあらかた下げられ、ドリンクのグラスによって作られた五角形の中心に、四本の割り箸が握られたハルヒの右手が突き出されていた。
 
 「ああ、悪い」
 
 テーブルに着くほかの面々を見回すと、古泉のやつはすでに籤を引き終えたらしく、無印の割り箸を片手に、例の薄ら笑いを浮かべながら、俺の顔に注目している。ハルヒの両隣に座る朝比奈さんと長門の視線もまた、俺の手元とハルヒの手元に注がれている。
 時計を見ると、午後一時四十五分。そうだ、もう午後の分が始まる頃合か。
 俺は総勢の注目を浴び、奇妙な緊張を覚えつつ、割り箸の生えたハルヒの握りこぶしへと手を伸ばし、人差し指の第二間接辺りに引っかかっていた一本を引き抜いた。
 
 
      ◆
 
 
 「ほら、引いたぜ」
 
 割り箸の先端には、赤いマジックで印がつけられている。とりあえず此れで、引き続き古泉の異次元論を聞かされるルートは免れたわけだ。
 俺は赤い印を見せびらかすように、テーブルの中心に向けて、割り箸を持つ手を差し出した―――
 

 

  

 しかし。その赤い印を見せるべき相手は、誰一人存在しなかった。

 

 
 俺の目の前にあるものといえば、空きグラスの散乱したテーブルと
 窓ガラスに切り取られた、いかにも寒々しそうな午後の光景だけだった。

 
 
 「ハルヒ?」
 

 
 どれくらいの間かの沈黙の後。俺はたった今まで、目の前で握りこぶしを作っていたはずの、我がSOS団団長の名前を呟いた。
 しかし。呟きに反応を返してくれる人間は、そこには誰一人としていない。
 
 ……何か、催し物でも始まったのか?
 
 俺はテーブルと椅子との間の、狭い空間を縫うようにして腰を上げ、周囲を見回した。
 
 「ハルヒ、古泉?」
 
 先ほどまで――つい一瞬前まで、だ――俺の周囲に屯していた筈の人々の名前を呼びながら
 
 「長門……朝比奈さん」
 
 誰一人として、人と呼べるものの姿の無くなった店内を見回す。
 そう。俺の記憶が確かならば、俺たちのテーブルの蓮向かいのテーブルでは、頭のはげた中年の男が、スポーツ新聞を読みながら紅茶のカップをすすっていたはずだった。
 丁度この席から見渡せるキッチンでは、長い髪の毛を後ろで結った男が、忙しなく調理器具を扱っていたはずであり、レジカウンターでは、エプロンドレスを纏った若い女性が、営業スマイルの出来損ないのようなものを携えながら、思いを馳せるようなぼやけた目で、代わり映えの無い内装の店内を見回していたはずだった。
 
 それら、すべてが。
 使い古された表現を使うならば、煙のように。
 忽然と、姿を消してしまっているのだ。
  
 
      ◆
 
 
 それからしばらく。俺は突然始まってしまった、大規模なかくれんぼの鬼役に努めた。
 まず喫茶店内。キッチンを覗き、普段は足を踏み入れることの無い、大型冷蔵庫の中まで足を踏み入れた。物陰と言う物陰を探し、終いには手洗い場を――一瞬躊躇った後に、女性用のそちらまでもを調べた。
 閉じたトイレのドアを、順番に開けていくという作業は、なにやら背筋に寒いものを感じるものではあったが……無駄に高鳴る左胸を押さえつけながらも、俺はそれを、備え付けられているトイレの数だけやり遂げた。
 そして、最終的に。喫茶店の中には、誰一人の姿も無いという結論へとたどり着いた。
 
 レジスターの使い方を知らないので、五人が飲食した分の料金を精算せずに店を後にしたことは責めてもらっても困る。店を出る前から予測はしていたことではあったが――どうか外れて欲しい予測であったのだが――冷たい風の吹く街をいくら歩き回れど、鏡面に映る自分の姿以外に、人の姿を見つけることは出来なかった。
 俺は駅前のロータリーを歩き回った後、自転車のカギを外し、ペダルを踏み込んだ。半ばやけくそになっていたのか、かなりのスピードを出していたし、横道や信号なども一切気にせずに突っ走った。しかし、風を切る俺を阻むものなど、何一つ現れなかった。せいぜい、風に乗ったスーパーの袋が、俺の前を横切っていったくらいだ。
 
 自宅に戻り、あらゆる部屋のドアを開いて周り、シャミセンを弄り回すか、寒い中アイスを咥えた妹の姿を探す。しかし、妹はおろか、どこかしら日向を見つけては転がりまわるシャミセンの姿すら見つけられなかった。居間のテレビを付けて見たものの、あらゆるチャンネルは砂嵐。自室のPCはと言えば、起動はするものの、インターネットは一切繋がらない。
 ちょwwwwwwwwwwwwwwwwwww街に俺しかいないwwwwwwwwwwwwww
 そう口に出そうとしてみたが、どう発音すべきかわからない記号があまりにも多すぎた。
 

 

      ◆

 

  
 廊下に出て、自室の扉を閉めた時点で、ようやく諦めがついた。
 分かった、認めよう。
 何かが起きているのだ。

 

 

      ◆

 
 
 居間で途方にくれていて、分かったことがいくつかある。
 まず一つ。俺を残してすべての人間が消え去ってしまったこの町には、冬の昼下がり、午後零時四十六分以外の瞬間が訪れることは、決して無いらしい。足の速いはずの冬の太陽は、いくら待てど決して沈むことは無かった。太陽は沈まず、冷たい風は吹き続ける。尽きることの無い土ぼこりが、どこかからどこかへと運ばれてゆく。それを迷惑がるのは、俺一人のみ。
 

 

 
 居間で呆けていると、だんだん俺自身までもが消えてしまいそうな危機感に襲われ、再び街に出る。
 駅の近くまで歩いて戻った後で、自転車を自宅へ置き忘れたことに気づき、この後、どこへ向かうにも徒歩で向かわねばならないという面倒な事態に陥ってしまった。しかし、今更自転車一つの為に自宅へ戻るのもまた面倒に思い、結局、俺はスニーカーの底をすり減らしながら、再び駅前へと戻ってきた。念のためにと、喫茶店を覗いてみるが、やはりそこに人の姿は無い。どうせ夕暮れ時になっても、カラスの鳴き声なども聴こえてはくれないのだろう。そもそも、夕暮れ時が訪れる気配すらないのだから困ったものなのだが。
 
 「涼宮ハルヒの精神状態は、良好じゃなかったのか」
 
 当ても無く街を歩きながら、誰にとも無く呟く。
 今までに経験した異変の中でも、この度のスケールのでかさは、ある意味では此れまでと比較にならない。
 今までならせいぜい、ハルヒと、俺と、その周囲を巻き込む程度のものだった。
 しかし、今回はどうだ?
 キョン以外全員消失。
 どこのパロディ映画のタイトルだ。
 

 
 あるいは、逆に。俺一人が、つい先ほどまで(もはや先ほどでもないほど、時間が経過しているのだが)の世界から追放され、この静けさと寒々しさ以外の何者も持たない街へと放り込まれてしまった。という可能性もあるかもしれない。冷静に考えれば、そちらのほうが幾分か現実的な話のように思える。
 そうだ。前にもこんなことがあったじゃないか。
 あの時は、俺ともう一人……俺をその場所へ引きずり込んだ張本人を引き連れて、ではあったが。
 
 「……閉鎖空間、か」
 
 いつの間にかたどり着いていたのは、土曜の午後。部活動に勤しむ生徒たちの為に解放された校門の前だった。
 誰の気配もしない学校。この感覚には、以前とはいささか異なるものの、見覚えがある。すべてが灰色に包まれたあの世界に比べれば、この光景は、随分と彩りが溢れてはいるが……それ以前に。閉鎖空間と言う単語と同時に、今日、午前中に耳にした、古泉の言葉が脳裏を過ぎった。
 
 「貴方の感じている不快感と言うものは、もしかしたら、涼宮さんが
  閉鎖空間の原材料としているものと同質のものなのかもしれません」
 
 去年の春。涼宮ハルヒは、神の力を用いて、この俺を巻き込み、もともとの世界とは異なる、まったく別の世界を創造しようとした。ハルヒ自身が作り出し、ハルヒ自身が迷い込んだ、生まれたての世界を、俺は訪れたのだ。
 

 
 そして、もう一つの事実。
 幻に消えてくれてもかまわないと、ついさっきまで考えていた、ひと月前の出来事。
 この俺が、世界を作り変えた、あの事件。
 
 
 まさか、この俺が?
 

 

 あの一件をきっかけに、もし、たとえば、俺にハルヒと同じような力が備わっていたとして。
 俺はあのときのハルヒと同じように、新たな世界を作ろうとしてるってのか?
 しかし、理由はなんだ? 俺は昨日までの世界に、不満を感じていた覚えなど一つも無い。ましてや、自分以外をすべて放棄してまで、世界を作り直す理由など……

 
 思考をめぐらせながら歩くうちに、俺は自然に、SOS団の部室へとやってきていた。
 長方形に並べられた机、備え付けられたコンピューター。『団長』の印の置かれた机。本棚に詰め込まれた無数の書物に、ついたての向こうのハンガーラック。いくつかのコスプレ衣装。ロッカーからはみ出したボードゲームの山、電子ポットと団員の人数分の湯のみ、茶筒、急須……すべてがありのままだ。俺はダッフルコートを脱ぎ、自分の席の椅子の背に掛け、私服のシャツのボタンを一つ開けた。そして、石油式のストーブと電子ポットのスイッチを入れる。やがて、ストーブは独特の匂いと共に暖気を発し始め、ポットの中の液体が沸騰する。
 茶筒から適当に茶葉を取り出し、普段、朝比奈さんが行っていた一連の動作の見よう見まねで、一人分の玄米茶を淹れる。やがて、ティーカップに注がれた味のしない緑色の液体を啜りながら、コートを掛けた椅子に腰を掛け、息をつく。部室内の時計は、12:46を示している。どこを訪れても同じ数字だ。
 念のために、ハルヒの机に備え付けられたコンピューターの電源を入れてみる。しかし、表示されるものは、俺の自室のPCと似たようなものだった。せめてもの心の救いは、mikuruフォルダの中身までもが消失してしまっていないことだろうか?
 幾度かインターネットへの接続を試みた後、諦めた俺は団長机を離れ、窓際の椅子に腰を掛ける。そこは普段、長門が読書に勤しむ為の席だった。
 
 「長門」
 
 口の中でくすぶらせるように、その名前を呟く。

 
 ……そう。もしも、仮に、救いがあるとするならば。
 俺が縋れるのは、長門しかいない。
 しかし、おそらくこれから長門の家を訪れたところで
 俺はかたくなに道を開けぬであろうパスコード式の門に阻まれ、途方にくれるだけだろう。
 

 

 長門。
 そう。またしても、俺は長門を頼っている。たったひと月前に……もう、あいつに苦労はかけまいと、思ったばかりなのに。 

 

 
 ティーカップを手に持ったまま、俺は本棚の前へ赴き
 そこに並べられている、まるで別世界のような背表紙たちを眺めた。
 そう。長門と俺を繋ぐもの――
 
 
 ―――その瞬間。
 今朝がたから、俺の頭にこびりつき続けていた、あやふやな既視感が。
 はっきりとした輪郭を持ったビジョンとして、俺の目の前を横切った。
 
 
 土曜日の昼下がりの文芸部室。午後一時に歩み寄る時間。
 ストーブの匂いと、ティーカップを持つ右手。
 目の前に並んだ、古びた背表紙の数々……
 
 
 それは、ひと月前のあの日。
 こことは別の世界で、長門と二人で訪れた部屋と同じ状況だ。
 俺はあの日、あの世界でも……こうして、本棚を眺めていた。そして、何かを探していた。数々の覚えの無い題名の中から、たった一冊の本を―――あの時は思い出せなかったそのタイトルを、今なら思い出せる。
 
 
 「ダン・シモンズ『ハイペリオン』」
 
 

 
 その名前を口にすると同時に。
 俺の目はまるで魔法にでも掛けられたかのように
 本棚の隅で、斜めに傾いている、その背表紙を捕らえた。
 

 

 
 これでこの本を手に取るのは、三度目になる。
 一度目は、長門と会って数日目、あいつから直接手渡された日。
 二度目は、ひと月前。あの世界で、古泉一樹から手渡された。
 そして、三度目。俺はようやく―――自らの手で、この本を手に取ることになる。
 俺は右手に持ったティーカップをテーブルの上に置くと、一つ深く呼吸をし、そして、まだいくらかぬくもりの残っている指先で、その本の背表紙に触れた。
 

 
 
 ―――それと同時に。いつだか感じたのと同じ、世界が自分と共に、コーヒーの渦に融けて行くかのような、あの違和感に襲われた。
 地面と天井が重なり合い、その間で、自分の体が引き伸ばされては、また元に戻って行く。長い長いめまいのような感覚。
 まるで永遠に続くかのようなそれが終わったとき。俺の耳に、長くに渡って追い求めていたざわめきが聴こえてきた。ハイペリオンを右手に抱えたまま、飛びつくように窓際へと駆け寄り、閉ざされたガラス窓を開け放つ。冷たい外気が竜巻のように部屋に舞い込み、カーテンが音を立ててなびく。
 それと同時に、俺の耳にはっきり届く……俺ではない、無数の人々が産み出す雑音。
 見下ろした中庭には、北高のジャージを見に纏った、何人かの人影が確認できる。
 俺の見間違いではない。そこには俺以外の人間が存在していた。
 そして、窓枠に掛けた自分の手を見て気づく。先ほどまで身に纏っていた私服のYシャツではない、分厚い生地によって作られた重たいブレザー。北高の制服。
 冷たい外気を背に、部室内を振り返ると、そこには団長机も、団員の為の長方形の机も無い。先ほどまで俺が持っていたティーカップを載せた机も、どこかへと消え去ってしまっている。あるのはたった一つの会議用の机と、三つの椅子。そして、パソコンの備え付けられた机がひとつ。

 

 

 そこはSOS団の部室ではなかった。
 ひと月前まで俺が在籍していた、長門有希を部長とする、文芸部の部室だった。
 状況を理解するのに、時間は掛からなかった。
 そう。俺は、還って来てしまったのだ。
 俺の手によって、削除されたはずの記憶の世界へと。
 長門がいて、朝倉が消え、ハルヒが死んだ、あの世界へと。
 
 
 しばらくの間、俺は冷たい外気を背負ったまま、その場で途方にくれていた。
 やがて、動き始めた時計が一時を回りだした頃。
 俺の中で、一つの仮説が組み立てられた。
 
 一月のある土曜日の午後、一時前。正確には、十二時四十六分であったのだろう。それは俺が、ちょうどひと月前に、世界を十二月十八日へと巻き戻した、その瞬間だったのだ。
 そして、それと同じ時間に……俺の作り変えた世界は、止まってしまった。

 朝倉の工作と、長門の力によって、俺が世界を作り変えた。問題は、そこにあったのだ。
 
 俺が世界を作り変えたのは、朝倉がデータ化したという、いわば『涼宮ハルヒの力』の海賊版だった。
 本来の力の持ち主でもなく、それを流用するだけの力も持たない俺が、そんな粗雑なものを用いて世界を構築する事が、そもそも不可能なことだったのだ。だから、あの世界は、つい数分前のあの時間。十二時四十六分を持って、停止してしまった。そして俺は……俺と長門を繋ぎ続けたハイペリオンによって、俺によって作り変えられる前の世界へと還って来た。
 それは、長門の力なのか?
 違う。いわばそれは、強制終了のようなものだろう。
 過ちは正されていなかった。過ちは過ちのまま、俺の知らないところで回り続けていた。そして、俺はそこに引き戻されたのだ。
 今度こそ、過ちを正すために。
 
 しかし。
 この世界が、ひと月前のあの世界であるならば。この部室には、足りないものが一つだけある。
 
 「……長門?」
 
 そう。朝倉涼子の作り出したデバッグモードを起動した瞬間。俺の隣には、あの眼鏡の長門がいたはずなのだ。今、俺の帰ってきたこの部室が、あの瞬間の直後の世界のはずならば、この部屋には、まだ長門がいるはずだった。しかし。物陰すらないほどに見通しのいい部室内に、その姿はない。
 
 一瞬考えた後、俺は右手にぶら下げたままのハイペリオンのページを繰った。あるいはまたそこに、俺を導く為の何かが残されているかもしれないと考えたのだ。しかし、いくらページをめくれど、本をさかさまにして揺さぶろうとも、そこから恵の何かが零れ落ちる事は無かった。……そうだ。長門がこの世界に残してくれたものは、あの小さな栞一枚だけだった。そして、その栞の手がかりの果てに……俺は再び、この場所にやってきてしまった。もう、俺を助けてくれるものは何もない。俺は自らの手で捜さなくてはならないのだ。長門が俺と朝倉に託したこの世界を、本当に正すための術を。
 そして―――もう一人の長門。
 俺と共に、この部室を訪れていたはずの、眼鏡の長門の行方。
 俺はコートを着ることも忘れ(そもそも、俺の着てきたダッフルコートは、SOS団員としての俺の椅子と共に消えてしまっていた)部室を飛び出した。そうだ。いくら部室にいないとはいえ、まさかあの眼鏡の長門までもが、朝倉のように消えてしまったと決まったわけではない。俺があの部室から姿を消してから、こうして舞い戻るまでに、多少の時差があった可能性もある。となれば、長門はただ、部室を離れ、どこか別の場所へと行ってしまっただけかもしれない。俺は階段を駆け下りながら、ポケットから携帯電話を取り出し、電話帳から長門の番号を検索した。

 しかし、それとほぼ同時に。携帯の画面が、メール受信中の幾何学的模様へと変わり、機体が振動する。
 

 
 新着メール 1通 長門
 

 
 その無機質な電子文字が、どれほど俺を安心させてくれただろうか。よかった。あの長門は、どこにも消えてはいなかったのだ。階段の踊り場で足を止め、俺はメールの受信ボックスを開く。
 
 
 from:長門
 Sub :無題
 ------------------------
 26575
 -----------END----------
 
 
 たった僅かな文面。ある種、口数の少ない長門らしいメールでは有る。しかし、その五つの数字が一体何を示すのだろうか?
 俺と長門の間にまつわる、五つの数字。
 その答えが出るまでに、そう時間は掛からなかった。
 それは長門と朝倉が、決して俺に教えようとしなかった、二人のマンションの玄関の電子ロックのキーナンバーだ。
 俺たちが三人で、あるいは、長門と俺との二人であのマンションを訪れるとき、俺は決まって後ろを向かされ、番号を察することが出来ないように、目隠しまでされたこともあった。
 
 「だって、深夜に突然訊ねてこられたら怖いものね」
 
 イタズラの言い訳をするように笑う朝倉の表情が、俺の脳裏を過ぎる。
 俺はそのメールに対し、何らかの返事を返すべきかと迷った挙句、メールを打つのももどかしく、『そっちに行く』と短く返信した後、再び階段を駆け下り、下駄箱を目指した。
 
 
 
      ◆
 
 
 
 街は校内同様、人と言う人の溢れかえる、有るべき姿を取り戻していた。
 風は冷たく、Yシャツにセーター、ブレザーを着ているのみの俺にはいささか厳しいものだったが、今は一刻も早く、再びあの眼鏡の長門に会いたい一心が逸り、気に留まらなかった。時空を超えてひと月ぶりに履いたローファーを喧しく鳴らしながら、俺は長門のマンションを目指した。

 やがて、マンションの正門にたどり着いた俺は、先ほどのメールを開き、そこに記されている通りに、五つのキーを押す。一瞬の間を置いて、背の高い電動の門が、僅かな音と共に左右に開かれる。誰の同伴も無く、俺がこの敷居をまたぐのは初めてのことだ。幾度か訪れたロビーをまっすぐに進み、エレベーターのスイッチを押す。エレベーターの位置を示す電子数字は、最上階であり、長門の部屋のある階である七階を示している。

 
 ―――早く降りて来い。焦らしてるつもりなのか。
 

 そのとき。俺の逸る気持ちをなだめるかのように。ポケットの中で、携帯電話が振動した。あわてて機体を開くと、そこには長門からの新たなメールが届いていた。
 

 
 from:長門
 Sub :無題
 ------------------------
 4 2 6 2 7 5
 -----------END----------
 

 
 六つの数字によって綴られた、先ほどとよく似ている文面。しかし、今回は数字の間が開いている。今度こそ、意味がわからない。すでにマンションのキーは解除されたのだ。この先に、何か数字が必要な場面などあるだろうか?

 携帯電話を片手に困惑する俺の耳に、エレベーターが到着したことを知らせる。重たいドアの開く音が届く。
 ……良く分からんが、とにかく、今は長門の元へ急ごう。
 気早に扉を閉めようとするエレベーターにあわてて飛び乗り、階数を選択するボタンに手を伸ばす。長門の部屋は、七階だ。迷わず七のキーを押そうとした、そのほんの一瞬前に。俺はたった今、自分
 ……思えば、不思議なことだ。
 あの眼鏡の長門が、俺がこの世界に舞い戻るのとほぼ同時に、マンションのロックのキーを教えた。まるで、俺をこのマンションへと導くように。そして俺がその導きの通りに、この場所にたどり着いた。それと同時に届いた、この暗号のような数字の羅列。
 
 
 誰かが、俺を導いている。
 それも、きわめて奇妙で、非科学的な方法で。
 誰が?
 このメールの送り主が。
 あの、眼鏡の長門が?
 
 
 ……ほんの少しの間、躊躇った後に。俺は七のキーから指を逸らし、四階のキーを押した。やがて、エレベーターは動き始める。やはり、とても僅かな音を立てて。

 エレベーターは俺の指示の通り、二階、三階を通過し、四階で停止する。重たい扉が開き、狭苦しいエレベーター内に、寒気が流れ込む。エレベーターの前には誰もいない。
 俺は四回の廊下に降りることなく、続けて、二階への移動を示すキーを押した。扉が閉じ、エレベーターが下降を始める。三階を素通りしたエレベーターが、二階の廊下にて停止し、口を開ける。
 次は、六階。
 ……二階。エレベーターには、誰一人として乗ってこない。
 七階。
 本来なら、俺が真っ先に訪れていたはずの階層だ。
 しかし、長門の部屋へと続く廊下へ踏み出すことなく、俺は最後のキーを押した。
 五階。
 エレベーターは、下降して行く。五階。俺がこのマンションで訪れたことのある、もう一つの階層。でたらめに移動を強いられたエレベーターの扉が、いい加減痺れを切らしたようにひときわ重々しい音を立てながら口を開ける。
 
 
 そこには、見慣れたセーラー服に身を包んだ、一人の少女の姿があった。
 白い肌に、青み掛かったロングヘアー。
 そして、いつかどこかで見たような……液体ヘリウムのように、色濃く、澄んだ瞳。
 
 
 「久しぶり」
 
 
 朝倉涼子だ。
 
 ひと月前のあの日、俺と長門と、三人での晩餐を最後に
 俺たちの前から姿を消していた。
 あの朝倉涼子が、心の内側を見透かしたような微笑を携えて、姿勢良く立っていた。
 
 「―――!」
 「ダメよ、まだ、喋ったら」
 
 言われるまでも無く、俺の喉は、内臓のどこかのかけらが謝って詰まってしまったかのように引きつっていて、声など出せはしなかった。
 朝倉はそれに追い討ちを掛けるように、白い人差し指を俺の目の前に突き出し、言葉を発することを諌める旨を口にする。
 
 「いい? あとは、黙ってみてて」
 
 くるり。と、スカートのすそを躍らせながら、朝倉涼子は俺の隣の僅かな隙間に滑り込むように、エレベーター内へ乗り込んできた。そして、うろたえる俺をよそに、一階へ向かうことを指示するキーを押す。エレベーターはものも言わず、のっそりと移動を始める。
 時間が、奇妙なほどにゆっくりと経過している気がする。五階から一階へ、たった四階分の移動だというのに、俺にとってそれは、十数分にも及ぶ、長い待ち時間のように思えた。
 朝倉は、俺の動揺など少しも気にするそぶりを見せず、ただ、柔らかな微笑を携えたまま、閉ざされた扉をじっと見つめていた。
 やがて、エレベーターは一階へ到着し、重たい口を開く。朝倉は、おそらくとても奇妙な表情をしているであろう、俺のことをちらりと見た後に、何も口にすることなく、黙ってエレベーターのキーを押した。
 七階。
 長門の住む、七○八号室がある階層だ。
 ゆっくり、ゆっくりと。エレベーターが上昇して行く。
 
 「ねえ、まだ喋っちゃダメよ。……ごめんね、騙すような真似して。でも、これが一番手っ取り早かったから」
 
 エレベーターが四階から五階へ移動している最中に、朝倉はそう呟き、俺の目の前に、見覚えのあるデザインの携帯電話を差し出した。朝倉のものではない。それは俺の記憶が確かならば、あの眼鏡の長門が所持していた携帯電話だ。
 
 「私が盗んだわけじゃないの。ただ、今日。私はこの場所にいて、この電話を持っていたの。
  それって、つまり、こうしろってことだと思うの。だから、許してね。
  ……ほら、もうすぐよ」
 
 意に介せぬ言葉を紡いだ後で、朝倉が、エレベーターの現在地を示す電光数字を見上げる。エレベーターはすでに六階を通り過ぎ……
 やがて、俺たち二人の目の前で、7の値を示した。
 ごうん。ようやく仕事を終えた。とばかりに、エレベーターが呻く。
 
 「いらっしゃい、キョン君」
 
 朝倉が微笑み、呟く。
 エレベーターの扉が開くと同時に、俺の目の前は、光に似た眩い何かに包まれた。
 
 

 

 

 
 つづく
 


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