月曜日。
 この日がダウナーでメランコリーな気分なのは何もハルヒに限ったことでなく、全世界の8割以上の人が大凡不快感を露にしているんじゃないかと思う今日この頃であるが、俺はその一周りも二周りも、いいやグロス単位で絶望のどん底に陥っていた。
 その理由は、喫茶店やファーストフード屋をハシゴした胃もたれが原因でもなく、かといって日曜日にむりやり付き合わされた妹の買い物が原因でもなく、では何が原因かというと、朝方下駄箱に入っていた一通の手紙である。
 いや、手紙なんて大層なものじゃないな。ノートの切れ端に慌てて書いたような、しかし女の子然とした文字は、どう読んでも『放課後誰もいなくなったら、一年五組の教室にきて』としか読めなかった。
 差出人の名前は無く、ついでに言うと宛先もかかれていない。こじつけるなら、俺以外の人間に送るはずだったラブレターを、間違えて俺の下駄箱に入れてしまったお茶目な上級生、なんて解釈も出来る。
 ノートの切れ端に愛の言葉を必死で書くバカヤロウがいるか! なんてツッコミは無しだ。雰囲気だ。雰囲気。
 それはともかく。
 俺は悟った。
「ついに、来たか」
 達観した赴きで、下駄箱の前に立ち尽くした。
 頭の中に蘇るのは、白銀の一閃、孤立した教室、意のままに形を変える椅子。
 デジャビュ等という生易しいものではない。あの時の思い出が、まるでスクリーンに映りだされたかのように鮮明に再生されているのだから。B級ホラー映画よりよっぽど恐ろしいぜ。見せてやりたいものだ。
 できることなら、この既定事項は規定して欲しくなかった。未来人を恨むべきか、それとも異世界人を恨むべきか。
 ……いや、本当に恨むべきは宇宙人なのだが。
 表向きは一年五組のクラス委員、そしてクラス委員長。谷口のみならずクラスの羨望の的。
 如かしてその実態は、エイリアンの手駒、急進派の先鋒、ナイフの達人にして暗殺者。
 朝倉涼子が、動き出したのだ。

 登校するや否や、俺は部室に向かって走り出した。答えはもちろん、朝倉涼子の猛追を対処できる奴に連絡するためだ。
 六組のクラスに向かわなかったのは何となくである。多分九曜はいつもクラスにいるんじゃなくて、部室でじっとしているような、そんな気がしたからだ。
 平常時なら2回ノックをする事も忘れない俺だが、この時ばかりは急いでいた上にテンパっていた。ハルヒのごとくノーロックで入ることを誰が責められようか?
 果たして俺の読みどおり、九曜はパイプ椅子に座るでもなく、掃除用具入れの前にただひっそりと佇んでいた。
「九曜、やっぱりここにいたか。よかった。早速だが頼みがある。多分今日俺は朝倉涼子に襲われるはずだ。それを何とか食い止めて欲しい」
「――――」
「お前にも分かるだろ? あの朝倉涼子は長門と同じような存在で、その中でもちょっとイカレタ精神を持つ派閥なんだ。ほっておいたら何をしでかすか分からん。だから早急に対処して欲しい」
「――――」
「いいか、放課後だぞ。団活が終わった後、俺は自分のクラスに向かうんだ。その後アクションを取ろうとする朝倉を足止めしてくれ。場合に依っちゃ消しても構わん。いいな」
「――――」
 ……本当に分かっているのだろうか?
「――――消す…………とは――――?」
「この世から消し去ってくれってことだ」
「――いい―――――の……?」
「ああ、俺が許す。無理なら転校したことにしても構わん」
「―――把握…………」
 未だ天蓋の方向を向いてほけけけーっとしている九曜だが、本当に大丈夫なのだろうか?
 しかし、こいつしか頼れる奴はいないし……困ったな、こりゃ。

 教室に戻ると、佐々木が頬杖ついて何やら鼻歌を歌っていた。曲調から察するに、最新ヒットJ-POPのサビの部分である。
「よう、ご機嫌だな」
 こっちは暗澹な気分だってのに、と心の中で付け加える。
「やあ、キョン。そんなにご機嫌に見えるかい? 確かに今の僕のフィーリングとしては、バッドと言うよりはグッドに傾いでいると自認しているけど、まさか他人に気付かれるほどフィーソーハッピーを振りまいているとは思わなかったよ」
 得意の佐々木節も絶頂らしい。今更だが、何故こいつはルー語を多用するのだろうか?
「実は昨日、橘さんとショッピングに出かけたんだ。北口駅のショッピングモールや商店街を回ったんだけどね。彼女がとても熱心に聞き回るから、ついつい買いすぎちゃったんだ。いや、面目ない」
 何を買いすぎて、何が面目ないのだろうか? 少し聞いてみたい気もしたが、しかしそんな気にはなれなかった。俺の頭の中には本日一番の懸念材料である朝倉涼子のことで頭が一杯である。
 その朝倉涼子は既に自席に座ってノートをカリカリやっている。恐らく予習という奴で、俺にはとんと縁がないものだ。
 今からおよそ数時間後の後、彼女は俺を殺そうと襲ってくるだろう。この教室を舞台にして。
 考えれば考えるほど汗が出てくる。思わず湿った手を握り返してやる。武者震いなんて格好の良いものじゃない。今にでも折れそうな心を必死で繋ぎとめるので精一杯なんだ。
「……キョン、どうしたんだい、ぼーっとしちゃって」
「……あ? ああ。ちょっとな」
 佐々木の声で我を取り戻した。
「キョン、何だか様子がおかしいよ。心拍数が上がって、動悸も目に見えて分かる。気分が悪いのかい?」
 確かに気分は穿き捨てたいくらいに悪いさ。だけど、その理由を佐々木に言うのは気が引ける。
 もし俺が置かれた状況を、佐々木に説明したらどうなると思う? 多分佐々木も朝倉の野望を阻止せんがためにこの教室に居座ろうとするだろう。
 しかし、それこそ一番まずい。
 朝倉が俺を狙った理由は、涼宮ハルヒという観察対象に刺激を与えるためのものであり、それ故俺が狙われたのだ。
 この世界ではハルヒと佐々木が入れ替わっている以上、佐々木が観察対象になっているだろうし、その佐々木の目の前で俺が凄惨な目に会ったとしたら、世界がどうなってしまうか想像もつかない。
 せめて、佐々木の目の届かないところで散った方がこの世界のためにはいいだろう。
 ……いや、散る気は元々無いんだが。ともかく、佐々木を巻き込みたくないってのは確かだ。
「朝倉さんを見ては呆然としてたようだけど、もしかして彼女と何か会ったの?」
 心配しているようにも見えるが、実はただのジト目を突きつける。
「何にも無いさ。何にも」
「……なら、いいけど」
 無意味に強がる俺に対して、佐々木は信用しきれてない返事を返した。


 妙に疲れているのにも関わらず、あるいは眠い授業No.1の古典の朗読中にも関わらず、俺のノルアドレナリンは最高潮にまで分泌しまくりで、毎日これくらい起きていられれば期末試験でもっといい点数が取れるななどとほざきつつ、本日の授業は終了した。
 正直なところ、今日ほど放課後が来て欲しくない日もなかったね。いつもは早く放課後にならないかとぼやいているのだが。
 しかし、ここを乗り越えない限り俺達は元の世界に戻る事もない。意を決して部室へと向かった。
 因みに佐々木は掃除当番だ。
 無造作に部室のドアを開けたところで、小柄なメイドさんが下着姿を披露してくれるなんて事はこの世界ではありえないことなのだが、それでも丁寧に二回ノックするのはすでに慣例化されたことである。
 そのメイドさんも今春卒業したと言うのに、この癖だけは一向に治まる気配を見せない。この調子だと後半年はかかりそうだ。
「ちぃーっす」
 部屋の中にはやはり九曜のみ。藤原はこちらから呼び出さない限りこの部室に来る事はない。たが、呼び出したらちゃんと来るわけで、そう言う意味では素直な奴である。
 俺は朝と同じく、九曜に再三言い聞かせた。
「頼むぞ九曜、五時半になったら教室に向かうからな」
「――――」
「朝倉が迫ってきたら得意の技で消し去ってくれ。あるいは隔離でもいい」
「――――」
 ……大丈夫かな、本当に?

 それまで然してする事も無いので、俺は部室を漁って朝倉の猛追を回避できそうなアイテムが無いかを探していた。
 とはいえ、日用品から趣味品まで分類問わず蒐集するハルヒと違い、佐々木はそれほどこの部室に備品を置いていなかった。せいぜいお茶用にと俺が家から持ってきた年代物のポットと湯呑み、そして急須だけである。
 さすがにポットじゃ戦えないだろうし、湯呑みにお湯を入れて朝倉に一撃ってのもどうかと思う。ミスったら反撃終了だ。それ以前に朝倉はお湯を熱いとは思わないだろうし。
 掃除用具入れの中にある、古びたモップの方がまだ使えそうだが、やっぱり朝倉の前では無意味かもしれない。というか朝倉に傷をつけようと考えるのが無理な相談だったかもしれない。
 ならば防御に徹するかと辺りを見渡すが、やっぱりソレらしきものは見当たらない。せいぜい塵取りを胸元に仕込んでおくくらいか。ナイフの一閃を受け止めるくらいの役には立ちそうだ。
 ……格好悪いが仕方あるまい。一応持っていこう。
 そうこうしていると、掃除の終わった佐々木がやって来た。「キョン、今から橘さんと出かけるから。後は頼んだよ」と一言の後そそくさと部室を後にした。
 ……佐々木がいたところで役に立たないだろうから別に構わんのだが、俺が恐怖の念に駆られているのに橘と遊びに行くとは。少々納得がいかない。とは言え、佐々木に文句を言ったところで何も解決しないので何とか自分を抑えることにする。
 更に時は回り、長針であと一目盛り分進めば五時半という時間まで進んだ。
「いよいよだな……」
 無理やり気合を入れ、鉄製の塵取りを腹の中に隠す。動き辛いが機能重視だ。何せ俺の命がかかっているんだからな。
「念のためもう一度言うぞ。ピンチになったらちゃんと救ってくれよ」
 九曜に一言言い残して、部室を後にする。


 意を決し、一年五組の引き戸を開ける。
 瞬間、夕日が入り込み、一瞬だが俺の視界はゼロになる。しかしそれも数秒で納まり、教壇の前で立つ女生徒の輪郭が次第に見えてきた。
「お前か……」
 多分、二年前も同じ事を言ったと思う。
 プリーツスカートから白く伸びる脚が異様に目立つ。
「そ、以外でしょ?」
 これも恐らく二年前と同じ。
 やはり、朝倉か……
 心の中で軽く舌打ちをした。
 念のため軽く辺りを見渡すが、誰かが隠れているような雰囲気ではない。九曜がやってきて情報閉塞空間を解除している様子も無い。ましてや谷口辺りがビデオカメラを片手に撮影している様子などサラサラ無かった。
「それで、何の用だ?」
 分かりきっている質問をする。
「人間はさあ、よく『やらなくて後悔するよりも、やって後悔した方がいい』って言うよね。これ、どう思う?」
「よく言うかどうかは知らないが、言葉通りの意味だろうよ」
 鮮明に蘇ってきた記憶の通り言葉を返した。
「じゃあさ、たとえ話(記憶と一緒なんで以下略)あなたならどうする?」
 ちなみの俺のやり取りも以下略だ。このまま暫く俺の記憶通りのやり取りが行われる。
 そして。
「でもね、隣の方にいる人は強敵で、急な接近で猛追しているの。だから現状はうかうかしてられない。手をつかねていたらどんどん良くないことになりそうだから。だったらもう現場の独断で強行に進めちゃってもいいわよね?」
 さて、そろそろ朝倉が迫ってくる頃か……なんとし出てもここは死守しなければならない。
 しかし、朝倉のセリフ、俺の記憶にあるのと何かが違うような気がするのだが……気のせいか?
「でも、何も動じない観測対象に、あたしはもう飽き飽きしてるのね。だから……」
 やっぱり何か違うような気がする。それ故俺の繰り出す返答にも少々戸惑いが入る。
「つまり、何が言いたいんだ?」
「あなたに告白して、佐々木さんを出し抜く」
 ……やっぱりそう来る……ん?
「あなたが、好きでした」


 突如、朝倉が俺に抱きついてきた。


 コトン、と俺の腹に入れていた塵取りが落ち、場違いに響き渡った。
 待て。
 待て待て待て待て待て。
 今何と言った? 『俺が好きでした』だと? ホワイ、なぜ?
「冗談はやめろ」
 俺の脳内既定事項とは丸っきりかけ離れた現実に、頭の中は錯乱状態だ。
「冗談じゃないわ。初めてあなたと会った時からキュンときた。今まで言い寄ってきた男子はたくさんいたけど、言い寄りたいと思ったのはあなたが始めてだった。でも、いくらアクションかけてもあなたは気付いてくれなくて……」
 朝倉が俺をギュウギュウと締め付ける。と言っても俺を絞殺させるためのものじゃなくて、俺を離したくないという意志を表すためのものだろうか、それほど苦しいものじゃない。
 それどころか朝倉の髪の毛の香りが微かに香ってきてなんともいえない。シャンプーの香りの他に、彼女自身の匂いも一緒に漂ってくる。今日体育があったからひとしおだ。もう、たまんないです。
 それに……それに、気付いてないのか、それともわざとなのか。
 俺はとっさに防御しようと、右腕を前のめり状態で繰り出していたのだが、それを包み込むかのように朝倉は抱擁している。
 つまり何がいいたいのかというと、朝倉の胸と胸の間に俺の右腕が挟まっている。
 朝倉が力を込める度に右腕が弾力を感じ、動くたびに柔らかいものが擦れる感覚が伝わってくる。
「朝倉……ちょ、止めろって。当たってるぞ!」
「うん、それ無理」朝倉は妙に熱っぽい吐息で「だって、当ててるんだもの」
 爆弾発言をかましやがった。
「……佐々木さんがあなたのいる前で着替えを始めた時、直ぐに分かったわ。これはあなたを篭絡するための策略だって。佐々木さんもわたしと同じ気持ちだったんでしょうね。静観するより行動すべきだって」
 朝倉の声が耳にかかり、なんとも言えない感触が全身に響き渡る。強弱つけて喋っているのはこいつの作戦だ。間違いない。
「だから、わたしも負けじと行動に出ることにした。負けないわ。絶対」
 朝倉、お前何か勘違いしてないか!?
「何を? あなたのこと? ううん、それはないわ。あなたがこう言うの好きなのはわかってるの。自慢じゃないけど、わたしも佐々木さんに負けないくらいのプロポーションだと思ってるんだけどな」
 朝倉は腕を使って、豊満な胸をグイッと挟み込んだ。そうでなくとも分かる胸の谷間がより誇張される。
 おまけに朝倉は見事な太腿を使って、俺の腰辺りをカニバサミ。じたばたしても身動き一つ取れない。と言うか朝倉! 擦りつけてくるな!
「お願い、わたしと付き合ってください。佐々木さんには悪いけど、わたしだってあなたが好きなのよ。この気持ちは譲れない。もしオッケーなら……このまま、わたしと……」
「…………」
 朝倉の言葉に俺絶句。まさかのどんでん返しだ。
 朝倉が狙っていたのは俺の命じゃなくてハートだったってか?
 直訳するとどっちも俺の心臓なんだがそう言う意味じゃなくてだな、うん、混乱しているぞ俺も。
 でもな、容姿端麗でプロポーションも上々で、おまけにAAランクプラスの美少女に衝撃の告白をさたことなんて想定するか普通?
 おまけに局部を押し当てられて『好きにしていいよ』見たいな事言われたら普通の人間はショートするに決まっている。
 だから一言言わせてもらう。
「どうすればいいんだよ!」



 ――その時である。
 なんとも形容しがたい気配が、辺りを包み込んだ。
「……何!? 何なの!?」
 朝倉が悲鳴を上げ、起き上がる。
 朝倉から解放された俺もその場から立ち上がって……
「――――」
 九曜! 来てくれたのか!
「――――観測者…………に――――徒なす事は……許されない……」
 九曜が右手を上げたかと思うと、

 パシィィィィイィィィイィィィイィィィィィィイィィィン

 耳に劈く高音を残しながら、朝倉は消滅した。
 長門のときとは違って容赦ない仕打ちだ。
「――――」
「た、助かったぁ……」
 九曜、お前が来てくれて助かったぜ。正直なところお前が来てくれる可能性は半分以下だったからな。でもおかげで朝倉の魔の手から生き延びられた。実のところもう少しあのままの体制でいたかった……いやそれはともかく、
「ホント、疑ってすまなかった」
「――いい…………」
 しかし今回は妙策をついてきやがったな、ホントに。ああやって油断させておいて後から俺をグサリとでもする気だったんだろう。パターンが変わるだけで本当に恐怖感じるのな。末端とは言え、流石は宇宙人だな。
「――宇――宙…………人――――それは……何――?」
 とぼけなくていい。あの朝倉涼子のことだ。俺を殺すように仕向けてきた、宇宙からの暗殺者だろ?
「――違…………う――」
 はあ?
「彼――女…………普通……――――あなた……と――――同じ…………匂い――」
 ええと、それは何ですか? あの朝倉涼子は普通の人間だったと?
「――――不正解を……撤回――」
 ってことは、朝倉は本当に俺に告白してきただけで、『あなたを殺して佐々木の出方をみる』とかじゃ無かったってわけ?
「――――不正解を……撤回――」
 がくっ
 ……思わず頭を垂れてしまう。
 なんだそりゃ。そう言うことなら早く言ってくれよ。心配しすぎて損したじゃないか。
「それは――大丈夫…………」
 何が?
 九曜の指差す方向を見て――
「うげっ!」
 思わず叫んでしまった。
 そこにいたのは、先ほどショッピングに出かけると言って出て行った佐々木と橘の姿。
「キョン、前々から怪しいとは思ってたけど、やっぱり朝倉さんとよろしくやってたんじゃないか。一体いつ朝倉さんを手篭めにしたんだい? それと狙われていると言うのは、君の操のことだったのかい」
 し、知らん! 関係ない! 無実だ!!
「くっくっくっ……無実と言うより、君は無知だね。君が放つそのオーラは、何人もの女性を不幸にしているのだから。今回の事は帰着次第涼宮さんにも報告しておくから。なに、心配は要らない。少し話を変えて報告するから彼女の能力の事は話さないよ」
 何時にも増して喉を鳴らす音が大きい佐々木だが、一体何が楽しいのだろうか?


 ついでに、橘にもメッチャ怒られた。
 佐々木がいなくなった後、『関係の無い人間を巻き込んだり消去したりしないでください!』ってな。
 俺は平謝りで橘に詫びた後、九曜に朝倉を元に戻すよう説得した。
 九曜は分かったような素振りを見せて朝倉をこの世界に呼び戻したのだが、どうやら失敗したらしく、世界と世界の狭間に落としてしまったとの事。呼び戻すにも九曜の力で数週間必要らしい(何故かは知らない)。
 仕方ないので、『朝倉はカナダに短期間留学した』と言うことでこの場は納まった。
 橘もしぶしぶ納得してくれたが、今後このようなことがないようにキツク言っておいてくださいと、俺が説教された。
 なあ、俺が全部悪いのか?


 怒涛の如く襲ってきた朝倉は既に消え去り、これで俺が杞憂としている懸念事項は全て消え去った。
 後の課題は当日を待って元の世界に戻るのみとなり、ほっと胸をなでおろしているところだ。
 だってそうだろう? あと4日でこの忌々しい世界から解放されて、元の世界に戻れるんだ。
 そりゃあの橘京子が元に戻るわけだからうざったいことこの上ないが、でもここの橘京子と比べればどっちがいいかと言われて『絶対こっちの世界の橘の方がいい!』と諸手を上げて賛成できないわけだ。
 何だかんだ言って、ここの世界の橘とは性に合わない。そう言うこった。
 こちらの世界の橘に言わせりゃ、自分達はさっさと使命を果たしたい。そのためには俺達をさっさと元の世界に戻したい。だから俺達とよろしくやる必要性も無い。
 ってなわけで、それはそれで妥当だろう。
 だが。
 何を思ったのか、こちらの世界の橘を、もっと言うとこの世界自身を気に入ってしまった奴がいた。
 そいつが最後の最後でとんでもないことをしでかすのだった。


 月曜日がとてつもなく激動だったためか、次の火曜日、その次の水曜日、そして更に次の木曜日は呆気に取られるくらい何事も無く進んでいった。
 変わったことといえば、朝倉が突如転校(正確には短期留学)してしまったことくらいか。
 その真相を知っている佐々木はふふんと鼻を鳴らしたのみに留まり、朝倉のアパートを探索するぞなど言う輩との違いを見せつけた。
 俺は俺で違った意味で衝撃的だった朝倉の襲撃にホッと一息入れつつも、本気だったら少し惜しい気もするなと悔恨を携えながら日々の生活に身を委ねていた。
 その木曜日だったろうか。それまで陽気だった佐々木に、ある変化が見られたのは。

「キョン」
 なんだ? 佐々木。
「明日で、この生活も終わりだね」
 うーん、そうだな……
「寂しくはないかい?」
 寂しいと言えば寂しいが、ここは俺達の世界じゃないからな。
「うん、そうだね……」
 ……佐々木?
「……盛者必衰、奢れる者も久しからず、か……」
 何だ、それ?
「古典の授業を寝倒しているキョンには永遠に分からないかもしれないね」
 悪かったな。

 やけにボーッとしていると言うか、上の空と言うか。心がここに在らずって感じだった。
 それが意味しているのは、元の世界への憧れか、この世界の名残か。そこまでは分からなかったが。

 だが、佐々木の言葉の意味は、その翌日に明らかとなった。



 さて、その金曜日。
 本日はお日柄もよく、絶好の帰還日和と相成りまして……と言う具合にはいかなかった。
 お天道様は俺達が元の世界に帰るのを見たくないのだろう、本日は終日曇り予報であった。
 降水確率こそ低いものの、雲はかなり厚く、太陽が隙を縫って現れる確率など朝比奈さんが長門の情報操作を使わずして、WBC日本代表ピッチャー陣から軒並でホームランを打つ叩く可能性に匹敵していた。
 しかしながら雨天ならぬ曇天で順延するわけには行かず、というか屋内だから雨が降ろうが雪が降ろうが関係なく決行される。ならそんな話するなよと言われるかもしれないが前置きは作文においてシチュエーション作りという重要な役割を果たすのだ。
 長々とすまなかった。つまりここからが本文である。
 いつも通りに学校に来た俺は、今回もまた自分のクラスに駆け込む前に部室へと寄ることにした。
「よう」
「あ、おはようございます。残念ながらまだ次元断層は開いてませんよ。予定では今日の放課後ですが、多少の誤差はありますからね。こうやって待機していたのです」
 だと思ったよ。
 いつもはそこで九曜が一人でダッシュ記号を懇々と紡ぎ続けるのだが、今回は九曜一人だけではなかった。
 自称、『異世界の番人』、橘京子である。
 彼女は朝早くからここで待機しており、俺達が帰還する準備をしていた。
「そりゃ、早く帰って欲しいですからね。不定分子がこの世界に長時間滞在されると、それだけで他の世界から狙われる的になっちゃいますから」
 結構恐ろしいことをしれっと言いやがったな。
「少し過激に言いましたけど、強ち嘘でもないのです。前にも述べたとおり、あなた方の世界は最重要監視特区なのです。それはつまり、他の世界の方たちもそう思っているわけです。いつ狙われてもおかしくないの」
 俺達の世界は、そんなに物騒だったのか……
「普通の人間じゃ分からないと思いますよ。ほんの一握りの、特別な存在がそう思っているだけで。……でも、そんな人たちが危険なんですけどね」
 橘は流し目で九曜を見据える。しかし九曜は反応すらしない。
「……まあいいわ」
 しかし、何時狙われてもおかしくないような区域だと言うのに、何故他の世界の奴らは俺達の世界を攻めようとはしないんだ?
「それはね。あなた達の世界の中心にはあたし達すら把握できないような、巨大な次元の歪みがあるの。異世界の移動に長けているあたし達だってそこに飛び込んだら元の世界に戻ってこれないような、尋常じゃなく歪曲した点があるの」
 まさかと思うが、それもハルヒが引き起こしたって事になんるのだろうか……いや、多分そうだろう。あえて聞かないようにする。
「詳しくはあなた達の世界に言ってみないと分からないんだけど、でもそちらに向かうのには結構有勇気がいるのよ。あたしが橘さんを連れ戻したのも苦労したんだらね。他の世界から見れば、あなた達の世界はそれほど不安定な世界なの。だから手が出せない」
 そんな危ない世界だったのか、俺達の世界は。そう言えば古泉も言ってたな。この世界はハルヒによって不安定になっているみたいなことを。朝比奈さんだって時空の歪みがどうたらこうたらと……
「橘、もしかしてその歪みってのは、今から四年ほど前……いや、この時間軸で言うと三年ほど前に、突如発生したってわけじゃあるまいよな?」
「あなた達の時間軸に合わせて結構よ。そうね、異変が見られたのは今からもう五年近く前のことになるわね。それがどうかしたの?」
 やっぱり……
「……いや、別に。そんな危険なところにまで出張ってきて橘を救出してくれたんだからありがたいと思ってな。それについては礼を言っておくよ」
「ふふ、どうも。それで、さっきの話の続きだけどね。うーん……」
 橘は両腕を上げ、背伸びをしながら喋りだした。
「あなた達の世界は多分どの世界の人間も監視しているわ。うかつに手を出せないだけ。それが今回、偶然にもあなた達はこの世界にやってきた。となると、興味本位でこの世界に異世界人が押し寄せてくる可能性がある。それは避けたいの」
 俺達が不法侵入者だって事は分かってるさ。だからこうやって帰ろうとしているんだ。それで我慢してくれないか?
「ええ。すんなりとこちらの言い分を飲んでくれたからね。あなたがいて本当に助かったわ。他の人じゃ話にならなさそうだもの」
 そりゃどうも。
「……本当は、少し名残惜しいけどね」
「なんだ、いきなり」
「あたしってさ。こう言う仕事柄、結構頻繁に転校してるの。次元断層の補習や、特区の異常監視だとかでね。だからあまり友達もいない。この前の学校なんて、二週間前に転校しちゃったのよ。この高校で3つ目。普通ありえないでしょ?」
 確かに、普通ありえない。この時間軸では5月中旬だから、平均すれば二週間で学校を変えている計算になる。橘の言葉には間違いが無い。
「だからお友達もいないの。……ううん、いない事は無いけど、直ぐに変わっちゃうから、連絡も滞っちゃって。そのまま音信不通になっちゃう場合が多いの」
 何故か寂しそうな表情を見せる橘に、俺はなんと言っていいか分からず「そうか」とだけ伝える。
 俺の愛想の無い返答にもめげず、橘は「でもね」と続けた。
「少しの間だったけど、佐々木さんと凄く仲良くなった。多分今まで知り合った中で一番と言っていいほど遊んだわ。それも毎日。ショッピングにも行ったし、プリクラも撮ったし。ほら」
 彼女の、ワイン色の携帯電話には佐々木とツーショットで取られたプリクラが貼られていた。
 一枚じゃない。それこそ携帯電話を埋めつくさんがばかりに貼ってある。しかも全部異なる。フレームも、文字も、キャラクターも、ポーズも、全て異なっていた。
「この人なら本当の友達になれる。本気で考えたわ」
 よかったじゃないか。
「……でも、それは叶わぬ願い。それは彼女がこの世界の人間じゃないの。だから、あたしは本当の事を佐々木さんに話さなかった。記憶を失っている、彼女の世界の橘さんだと信じ込ませた」
 そう、この橘は未だ佐々木に真相を話していなかった。俺は橘なりの策があるのだろうと思って、敢えて何も言わないようにしていたのだが……まさかここまで引き摺ってしまうとはな。
「しかし、このまま黙っているわけにも行くまい。本当の事を知ったら、あいつは悲しむぞ」
「……うん。言わないとね。でもここまで来てそんな事を言うのも……って思って。佐々木さんを悲しませずに分かれる方法も考えたの。ありきたりだけど、これは夢だったとか、あるいは佐々木さんの記憶を消してしまうとか」
 九曜の力を借りれば可能だろうが、本当にお前はそれで満足なのか?
「……仕方ないわ。あたしの責任なんだもん。そして、もし佐々木さんがそれを拒否したなら……」
 グッとコブシを聞かせたかと思えば、
「……なんでもないわ。それより、授業がもうすぐ始まるわ。あなたは念のた授業に出たほうがいい。また昼休みにでも来てちょうだい」
 ああ、わかったよ。
 片手をヒョイと揚げて教室へと戻る事にした。


 さて、この時の話を佐々木にしておくべきか、せずに別れとするか。
 この辺はエ〇ゲーじゃなくてもキーポイントの一つだろうな。
 どちらの選択肢も正解になり得る。そしてどちらの選択肢も不正解となり得る。
 もちろんどちらもハッピーエンドということもあるだろうし、その逆もありえるわけだ。
 これが一般的なゲームと同じならば、ここで一旦セーブして、とりあえず片方の選択肢を選んでみようとなるのだが、今回はそれが不可能だ。
 仮に時間を戻したとしても、人の心までは元に戻らない。それは俺たちが既に経験済みだ。
 だから、一発で決めなければいけない。


 なーんてね。
 難しく言っては見せたが、俺の腹積もりはとうの昔に決まっている。
 こうすることが、佐々木にとって、そして橘にとって最良だってことにな。
 だから、俺は考え込まずに教室へと戻るんだ。
 それが最良の結果だと信じているから。



 教室に戻ってくれば未だメランコリー状態から脱出できていない佐々木が、いつもの如くボーっと空を見上げていた。
「よう」
「…………」
 訂正しよう。いつも以上に腑抜けである。
「佐々木、今日の準備はしてきたか?」
「……んん? ああ。予習を忘れたのかい? 困るな、キョンったら。これだから君の親御さんは……」
 どうしたらそっちの話に持っていけるんだ? 俺が言っているのは、放課後の準備だ。
「うん……そうかい……英語のノートはここだから……」
 だめだこりゃ。


 授業が始まっては終わり始まっては終わりを繰り返し、早いもので時計の針は昼食時間を指していた。
 そそくさと飯をかっ込み、向かう先は当然部室。次元断層がどうなっているか気がかりだ。
「佐々木、先に行くからな」
 しかし佐々木は返答を返さない。
 どうしたんだ、さっきから本当に?
「うん……色々と、考察すべき事があって」
 なんだ、それは?
「一期一会、一意専心……」
 今度は四文字熟語か。現代語もちゃんと勉強してないよ、俺は。
「…………」
 俺のぼやきに、なおも佐々木は沈黙したままだった。
 仕方が無いので一人で文芸部室へと向かい、そして扉を開ける。
「……まだ、開いてないようだな」
「ええ。でも遅れてるってわけじゃないみたい。あなたには分からないかも知れないけど、あたしには次元の歪みが少しずつ発生していのがわかるの。この分なら予定通り放課後くらいには次元断層が発生しそう」
 そうか。ならみんなにそう伝えておくよ。
「お願いね。……それと、ちょっと」
 なんだ?
「……気がかりなことがあるの。あたしにはこうやって次元断層を知って、その中を移動する能力があるんだけど、それが弱まっているような感触を受けるの。まだ些細な程度だけど、なんとなくそんな気が」
 お前の体調が良くないとか、そんな理由じゃないのか?
「確かに、今日の日の出前からここにいたからその可能性はあるんだけど、でも調子の悪い時とは違う感触なの。力がでないというより、力をだせないみたいな、ちょっとニュアンスが違う何かが……」
 ははん、分かった。
「俺の勘だが、多分佐々木との分かれが辛いんだろ。それで無意識に力を自制しているんじゃないのか」
「そう……かも……」
 橘の声は、一層哀愁を漂わせていた。

 昼休みも終わりが近づいてきたのでまたまた手ぶらで教室へと戻るのだが、その前に二年の教室へと向かって藤原に報告しておく。『元の世界に戻りたければちゃんと放課後に部室に来い』とな。
 二年の教室では、いつも通り藤原が面白くもなさそうに席に座って首を傾げていた。
 ったく、何時までたってもしゃーない奴だなと思い、声をかけようとした瞬間。
「いよぅ! 少年、上級生のクラスに何か用かなっ!」
 威勢のいい声が響き渡った。鶴屋さんである。
 鶴屋さんは多分俺の上履きの色を見て下級生と判断したのだろう。この際上級生でも下級生でも何でもいいんだが。
「あ、はい。えーと、藤原……さんにちょっとお話があって」
 この世界での鶴屋さんとは初体面である。念のため藤原をさん付けで呼ぶことにする。
「おや、そうなのかい。彼はスーパー面白い人っさね! チミのような下級生になつかれるのも分かる気がするよ、うん!」
 廊下中に声が響き渡る。
 鶴屋さん、いくらなんでも買いかぶりすぎでしょう。あいつは面白いどころかかなり無愛想ですよ。どこをどうしたら面白い人になるんだろうか?
「ま、彼を温かい目で見守ってやってくれたまえ! 結構化ける素質、アリだから」
 はあ……。期待しないで待ってます。
「じゃ! 気をつけて帰るんだよ! 二人とも!!」
 帰る? 二人とも?
 ……やはりこの世界の鶴屋さんも、勘が鋭いらしい。

 ちょっとした乱入者の会話もそこそこに、藤原との言伝はもっとそこそこにして自分の教室へと戻り、そして午後の授業が始まる。
 佐々木はやはりメランコリーな状態で、気のせいか昼休みが始まる時間よりも更に増しているような気がした。
 何だかおかしいな、と思ったのはこの頃が最初だった。
 事実、放課後になると佐々木は更に奇異な行動を示すようになった。


 本日最後の授業である世界史の授業など全く耳に入ることもなく、教科書の年表を開くだけ開いて時間が流れるのをまだかまだかとヤキモキしていたのだが、それも先ほどのチャイムでようやく心のひずみから解放された。
 今日は二人とも掃除当番ではないため、速攻部室に向かって次元断層に向かうことが出来る。一分一秒でも早く帰りたい。
 だが。
「…………」
 佐々木は、午後一の授業からずっと爆睡しており、未だ目を覚ます様子は無かった。
「どうしたんだ佐々木、調子でも悪いのか? それとも単に眠っているだけなのか?」
「……いや」
 あ、起きてたのか。
「時間が無いぞ、早く行かないと」
「……すまない、キョン。少し頭が痛くてね。後から行くから先に行ってくれないか」
「……わかった。準備が出来たらまた来るからな」
「……ああ」
 佐々木の調子がおかしいのが気にかかるが、それだけに構っている暇は無い。俺は再び一人で文芸部室まで突っ走った。

 文芸部室には、先ほどまでとは違った光景が見られていた。
「次元断層か……」
 俺達がこの世界に来ることになった、白い光。そうとしか形容の出来ないものが、掃除用具入れとなっているロッカーからあふれ出ていた。
 この次元断層の光、本来は一瞬しか光らない(はず)。事実、橘が元の世界から消えてしまった当時は、橘の姿を消した後直ぐに消えてしまった。俺達が移動する際ずっと光ってたのは、九曜の能力の賜物によるものである。
 しかし、今回は九曜がそれをやっている傾向は見られない。この次元断層を保持しつづけるには、九曜ですら苦痛で顔を歪める程のエネルギーが必要なんだ。
 今回この穴を保持しつづけているのは――
「…………」
 無言で立ち尽くす、橘。
 とは言え、彼女も相当な力を使うのだろうか。見てくれこそ平然を保っているが、口を「へ」の字に曲げて踏ん張っている。
『……おかしいわ』
 その橘が口を開いた。次元断層の前に立っているからか、それとも全神経を前方に広がる白い壁に集中しているからだろうか。橘の声はくぐもっているように聞こえた。
『いつもなら、この程度の次元断層を保持するくらいワケないんだけど、今日に限っては少し気疲れするわね。これは早く皆を呼んでもらって、お帰り願った方がいいかも。みなさん集まりましたか?』
 いや、藤原は多分もうじき来ると思うんだが、佐々木がちょっと調子が悪くてな……
『……調子が悪くても構いません、早くここまで来てもらってください。次の次元断層が何時来るか分かりません……』
 分からない……? 確か周期的に来てるんじゃなかったのか?
『それは予測の話です……それに前にも仰いましたが、周期が遅れているのも事実なんです……次回はもしかしたら、数年……いや、数十年単位になるかも……』
 マジか、それは?
『だから……早く皆さんを呼んできてください……早く!』
 途切れ途切れになる橘の声に、2秒で部室を後にした。

 途中こちらに向かう藤原がやたらと荷物を抱えて部室へと向かっていたので『早く行け!』と煽っておいたのだが、よくよく考えれば元の世界に戻る時、肉体以外はこの世界に置き去りになるからあんなに荷物を抱えても仕方ないだろうとツッコミが閃いた。
 藤原のことだから別段どうだって構わない。それよりも問題なのは佐々木だ。
 あいつの倦怠感だか怠惰感が突如現れたのは偶然なのかもしれないが、このタイミングで発生するのは余りにもドンピシャすぎる。
 加えて橘の不調だ。ここまで偶然が一致するとなると、もはや偶然の一言で済ますわけにも行かない。
 あるいは、橘の言う他世界の侵攻者が佐々木の精神を破壊しようと目論んでいる可能性だってある。
 これは、早急に帰ったほうがいい。佐々木が動けなきゃ引き摺ってでも、抱きかかえてでも部室まで持っていくべきだ。
「佐々木!」
 教室の扉をがむしゃらにこじ開ける。
 挙動の不審さに、思わず目を丸くするクラスメイト一向……は、この場にはいなかった。これも偶然の一つだろうか。本当に偶然と言うのは恐ろしいものだ。
 そして、教室の角の机に寝そべっているのは、もちろん佐々木。
「起きろ! 次元断層が開いている!」
「……ん」
 かすかに目を開けた。
「……ああ、キョン……橘さんはどこ……今日は光陽園駅近くにあるブティックに行く約束を……」
「目を覚ませ、そんなことをいっている場合じゃないだろ、今は!」
 やっぱり、おかしい。
「こうなったら強硬手段だ!」
 俺は佐々木の手首をグイと掴み、そのまま左肩に載せる。そのまま軽く引っ張り、佐々木の腰を俺の右腕でガッチリとホールドした。
 所謂お姫様抱っこってやつである。
 高校の校舎内でこんなことをしたら話題の的になること止む無しだが、見た目を気にしている場合じゃない。
「そおりゃぁぁぁ!」
 気合一閃、破竹の快進撃を続けるハルヒの如く廊下を駆け抜ける。
「キョーン……やだぁ……エッチ……」
 ――艶かしく笑う佐々木が、妙に寒寒と感じた。


 下校中の生徒が数多群れる中にも関わらず、佐々木を抱えて走る俺は誰一人として視界に入ることなく部室棟まで駆け抜けることが出来た。
 部室棟には文化系のマイナー部員がいることにはいるが、2年間ほぼ毎日この部室棟を行き来した中で他の部活の部員に出くわした事は殆ど無い。
 普段は殆ど活動せず、せいぜい文化祭が近くなってくるとモソモソと活動しだすか、あるいはコンピ研のように部室内に入り浸っている奴らしかいないからだ。
 つまり、この部室棟でも特別誰にも会うことなく我が団の部室へと辿り着くことが出来た。
『文芸部室』
 上から『SOS団』などという間に合わせで作ったプレートなど貼り合わせていない。貼り付けたのはハルヒだったし、すぐにでも帰宅予定だったから用意する必要もないと思ったからだ。
 その部室の外に俺達はいる。摺りガラスを通してでしか奥を見渡すしか方法が無いが、心なしか白い光が更に増しているようにも見えた。
 ざわつく心を抑え、佐々木を降ろしその場に座らせた。
 こいつが目を覚まさないのもおかしいが、それよりも異常事態が起きてそうな部室の方が気にかかる。
 そして勢い良くドアを開いた。
「……な!」
 そこには、思いがけない光景が広がっていた。
 俺の予想通り、光が殊更に大きさを増している。
 先ほどは俺がくぐって入れる程度の、大体1メートルほどの大きさでしかなかった次元断層が、今やその倍にまで大きさを膨らましていた。
 そして、もう一つの異常点。
 橘京子の体が、透明なゼリーのように透き通り始めたのだ。
 他の二人……九曜と藤原だが、あまりの出来事に何も出来ず、その場に呆然と立ち尽くしているような感じだ。最も、九曜は何も考えてないだけに過ぎないかもしれないが。
『ああ……やっと来た!』
 橘の声が、更にくぐもっていた。
『次元断層が大きさを増しているの! 有史以来、最高速で広がっている! このままじゃこの世界が飲み込まれてしまう……!』
 苦痛にうめく橘の声が、事態の恐ろしさを語っていた。
「せ、世界が飲み込まれるとはどういうことだ!? 次元断層に消え去るってことか!」
『いいえ……この世界を飲み込もうとしているのは……恐らく、あなた達の世界……こちらの世界は……あなた達の世界に……飲み込まれてしまう……』
「な……!?」
 何故今更そんな大事に!?
『多分……彼女……佐々木さんが……引き起こした……』
『…………!?』
 俺と藤原。そして九曜までも一斉に佐々木の方を振り向いた。
「……くくくく」
 すやすやと眠る佐々木は、いい夢でも見ているのだろうか。場違いに喉を鳴らした。


『ごめんなさい……あたしが……いけなかったの……』
 次元断層を制御している橘から溢れたのは、悔恨の言葉だった。
『多分…………何時までも……一緒にいれたらいいね……なんて願ったから……佐々木さんがそれを本気にしちゃって……』
 まさか、佐々木の奴……
『彼女…………この世界が富に気に入ってたみたい……向こうの世界じゃライバルがいるみたいだし、それにあなたにちょっかいを出した朝倉さんも消えてしまったし……何より、あなたと同じ高校だったのが、とても嬉しかったみたい……』
「…………」
『それに、あたしを本当に可愛がってくれた…………だから、今日が近づくたびにどんどん無気力……いいえ、自分の世界に閉じこもっちゃった…………』
 心なしか、橘の声が小さくなっていく。それに合わせて橘の透明度もアップしていた。
『多分……彼女の能力が……無意識に解放し……世界を融合しようと…………』
 世界の融合……か。
 俺の記憶の中に、同様の事件が蘇ってきた。
 もしかしたらあの時のハルヒも、同じようなことをしたかもしれない。
 以前現世に愛想を尽かしたハルヒが新世界を構築しようとした事件。古泉は『新しく世界を創造する』と発言していたが、実際のところその見立ては半分正解で、半分不正解。
 確かにあの時あの場所に呼ばれた奴はハルヒを除けば俺一人だったかもしれないが、それは『あの時』の話である。
 ハルヒは言った。「この世界にだって太陽は登る、みんなにまた会える」と。
 それは新世界を構築した上で、その後に旧世界の人間を呼び出そうとしたとも考えられる。
 それが全く同じモノなのか、それともハルヒの都合のいいように塗り替えられた偽者なのか。そこまでは分からないが。
 そして、潜在的にハルヒと同等の力を持っている佐々木。彼女もそれと同じようなことをしている。
 そんな気がした。佐々木が眠りに入ったのは、もしかしたら世界の融合を行うためなのかもしれない。
 そしてこの橘が透明に……いいや、この世界から消え去ろうとしているのは、おそらく佐々木が構築した世界に呼び出された、唯一の人間であるから。あの時の俺がそうであったように。
 直ぐに佐々木の妄想した世界に取り込まれなかったのは、佐々木の能力がハルヒ以上に不完全だったから。
 かなり俺の予想と妄想を加えた空絵事かもしれない。全く見当違いの話をしているかもしれない。
 しかし、今佐々木の能力を覚醒しつつあるのは事実だ。


「橘!」
 俺は必死で叫んだ。
「俺の世界ではな、お前が佐々木の精神を安定させる能力を持っていたんだ! お前のやり方如何で、佐々木の暴走を止められるはずだ! というかお前しか止められない!」
 以前俺がハルヒの新世界構築を止めさせたように、佐々木の新世界構築を止めることができるはず。しかし今回その役目を負っているのは俺ではない、あの橘だ。
『でも……どうやって……』
「恐れる事はない、そのまま佐々木に取り込まれてみろ! 佐々木はお前を消そうとしてるんじゃなくて、お前と話をしたいだけなんだ!」
『……でも、あたしが消えたら次元断層が……』
「大丈夫だ、九曜がその場を留めてくれる! できるな、九曜!」
「――――」
 コクリと、こいつにしては今まで以上に無い意思表示。
「だから話して来い、佐々木と! そして元の世界に戻るよう説得するんだ!」
『……わかりました。命に代えても説得します!』
「……おいおい、お前の命が散ったら悲しむのは佐々木なんだぞ。いいか。生きて戻って来いよ」
 険しい表情で望んでいた橘は、俺の言葉に笑みを取り戻した。
 そして――

『……………………』
 ――音も立てず、橘はこの世界から消え去った。



「ん……ここは……」
 目を覚ましたのは、北口駅傍にある、ベンチの上でした。
「おめざめかい、橘さん?」
 あたしの目覚めを待って、暖かく声をかけてくれる人がいました。
「佐々木さん……」
「突然倒れちゃったから驚いたよ。もう気分は大丈夫なの?」
 え、ええ。
「くくっ、それはよかった。それでは参るとしようか」
 あの……どこへ?
「決まっているじゃないか。今日行くことにしていたブティックにだよ」


 佐々木さんは始終ご機嫌で、あたしの前を歩いていました。
 本日ウィンドーショッピングしにいくブティックに、佐々木さんはとても恋焦がれていましたから。
 佐々木さんは語ってくれました。『親友と呼べるほど親しい人は片手で数えるくらいしかいないけど、橘さんは間違いなくその中に入るね』と。
 つまり、それくらい仲良くなっていたのです。
 彼……キョンと徒名される彼はもちろん親友の一人なのですが、それとは別の感情も持っているそうです。それに彼は異性。女の子同士の気持ちを本気で話し合える相手ではありません。
 特に、その彼を同じく狙っている女性がいるそうで、彼女こそが最大のライバルと本人も自覚していたみたいです。
 お互い知らない仲じゃないですし、決して犬猿の仲ってわけじゃないようですが、それでも言えることと言えない事が存在し、言えない事に関しては多少なりとも鬱憤が溜まっていたみたいなのです。
 一番の鬱憤は、彼とその彼女が同じ高校にいること。でも自分は進学を志したから別の高校。
 当時は仕方ないかと思っていたみたいなのですが、彼女が彼に接近してるのを見て、彼への想いが再燃したそうなのです。
『親友』と認めてくれた佐々木さんは、その様に語ってくれました。


「……この前もさ、二人で歩いているとこを見たんだ。二人は同じ学校に通学しているから当然と言えば当然なんだけど……僕にとっては阻害された気分なんだ」
 そんなこと無いですよ。たまたまじゃないですか。たまたま。佐々木さんもよくその集まりに招待されるんでしょ?
「うん……そうだけど」
 なら大丈夫ですって。まだ望みは在ります。頑張ってください!
「ありがとう、橘さん」


 あたしはできるかぎり佐々木さんの応援をしました。これだけ気の合う人もいませんでしたし、なにより佐々木さんもあたしを慕ってくれました。
 その中で、気になる一言がありました。
「……橘さんが、ずっとこのままだったらいいのにね」
 え? それはどういうことですか?
「いや、あなたはあなたのままでいてくれた方が、わたしは助かるの。まかり間違っても、記憶を取り戻してくれない方がね……」
 佐々木さんは、元の世界のあたし――橘京子と、この世界のあたしを、同一人物だと思い込んでいるようなのです。
「本当のあたしって、そんなにダメダメ人間なんですか?」
「うん」
 即答でした。
「駄目と言うか、空気の読めないところがあってね。おかげで散々苦労させられたんだ。歯に衣を着せぬ言動が物議を醸し出してね、いつもてんやわんやの大騒ぎになってしまうんだ」
 ……向こうの世界のあたしって、一体何者かしら? しっかりしてほしいものね。
「でも、今の橘さんは違う。記憶を失っているせいか、そんな言動は全く見られない。ずっとこうであってほしいものだ」
「……記憶が戻ったあたしは、嫌い?」
「嫌いと言うほどじゃないけど、何と言うか……もう少し身をわきまえてくれたらそれでいいんだけどね」
 そうですか……わかりました。頑張ります。
「くくく、あなたは今のままでいいのよ」
 佐々木さんの笑みは、とても朗らかでした。



「……これ、似合うかな?」
「ええ。とっても」
「……ちょっと露出が多すぎやしないかい?」
「それくらいの方が佐々木さんのスタイルのよさを引き出していますよ」
「そう……かな?」
「さしもの彼も気になって仕方ないんじゃないですか?」
「くくく……確かにキョンは劣情豊かだからね……わかった。これを買うよ」


「すっかり橘さんに言いくるめられちゃったな。ウィンドーショッピングのつもりが、本当のショッピングになってしまうなんて」
「だって、佐々木さんがいかにも背中を押して欲しそうな顔をするんだもん」
「ふふふ、否定しないわ」
『あははははっ』


「このお店、最近出来たばっかりだけど、ケーキがとても美味しいと評判のお店なんだ」
「何時の間に調べたんですか、佐々木さん。あたしも知りませんでした!」
「甘いものしか興味を示さない橘さんを出し抜くのには苦労したよ」
「あ、あたしそんなに食いしん坊じゃありません!」


「3……2……1……はい、ポーズ!」
「うわぁ、今変な顔になった!」
「くくく……橘さんらしい顔じゃないか」
「ふんだ! こうなったら佐々木さんの顔に悪戯書きをしてやるんだから!」
「あっ、こら! やったな! ならこっちは……」
「額に肉なんて今時流行らないのです!!」


「チョコレートサンデーにミントアイストッピングで!」
「まだ食べるの、橘さん」
「えへへ、甘いものは別腹っていいますしね」
「甘いものしか食べてないじゃないか」
「あれ、そうでしたっけ?」
「……橘さんらしいや」


「佐々木さん、今日は楽しかったのです」
「ああ、わたしも楽しかったよ」
「また、こうやって遊びたいですね……」
「うん、そうだね……」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」



「……あの、佐々木さん。あたし黙ってたことが……」「わたしも黙ってたことがあるんだ」
 あたしの言葉を遮って、佐々木さんは喋りだしました。
「橘さん、ごめんね。わたしの我侭につきあわせちゃって。本当ならもう帰らなきゃいけないのに」
「いいえ、そんなこと……」
「……あなたのおかげで、いい思い出ができた。久しぶりにスッキリ話し合える親友ができた。わたし、元の世界に戻っても一生忘れないから」
「佐々木さん、それって……」
「……ん? どうしたの、橘さん」
「……ううん。なんでもないです。でもひとつだけお願いがあります」
「なに」
「元の世界に戻ったら、『あたし』と仲良くやってくださいね。絶対ですよ」
「……うん、わかった。約束する」
「あとね、さよならは言わないわ」
「何故だい?」
「だって、『あたし』はいるもの。その世界に。佐々木さんと一緒に」
「……ええ」
「だから、また会いましょう!」
「きっとだからね……」
「ええ。きっと……」


 ――クリームに溶かし込んだような世界が、徐々に薄れてきました。
 ――この世界が、あたしに別れを告げているのだと思います。
 ――それはつまり、佐々木さんとの……
 ――いいえ。違います。
 ――だって、あたしは約束したんだもの。
 ――『あたし』を通じて、きっと繋がりあえるって……



 ――また、会いましょう――



 …
 ……
 ………

 ――目が覚めると、そこは北高とは異なる机と椅子が並んでいた。
 周りには佐々木と九曜。そして藤原が横たわっている。
 恐らく意識を失っているのだろう。多分俺と同じように……
「んん……」
 北高の制服とは異なる、黒い制服に身を包んだ佐々木が目を覚ました。
「ここは……光陽園学院……?」
 ああ、どうやらそのようだ。
「俺達は戻ってきたんだよ。元の世界に」
「その声は、キョン……なのかい……?」
 ああ、俺だ。まさか声を忘れたわけじゃなかろうな。
「い、いや、そう言うわけじゃないけど……」
 それより大丈夫か? 怪我とか無いか?
「……ん、少し頭がフラフラするけど、概ね健康体だよ」
 そうか、それはよかったな。無事戻ってこられたみたいだし。
「うん、そのようだね」
「……後悔しているのか、橘のこと」
「いいや」少し寂しそうな顔をした佐々木はそれでも気丈に振舞った。「橘さんと約束したからね。『また会いましょう』って」
 ……あの時の言葉は、俺の脳裏にも響き渡った。
 理由は理屈は良く分からないが、宇宙人以下特殊な人間がおしくらまんじゅうするくらいごっちゃになっているこの世界だ。それくらいの不思議があったところで別に構わない。むしろそれが当たり前とさえ感じるね。
「彼女にはわるいことしちゃったかな。それだけが気がかりで」
「それは大丈夫さ、佐々木」
 何故、と言う顔をする佐々木に対して言ってやった。
「彼女も、お前に会えたことをとても嬉しく思っていたからな。じゃなかったら『また会いましょう』なんて言わないさ」
「……うん」

 ダウナーでメランコリーだった佐々木の顔に、笑顔の灯火が復活した。


「それより、ほら」
 俺はある一点を指差した。
「『橘京子』の代わりは、あそこにいるぜ」
「……本当だ」
 クスクスと笑って、佐々木は彼女の元へと寄り添った。
「ほら、起きて。起きてったら」
「…………んあ」
「くくく、涎なんか垂らしちゃって。君は何時までたっても乳飲み子を演じつづける気かい?」
「……う、うあ」
「全く。これじゃ『知人』から『親友』になるのは遠い遠い未来のことかもしれないな」
「……しゃ、しゃ、しゃ……」
「頼むよ。物理的に出会うことの出来なくなった、もう一人の『親友』のためにもさ……」
「しゃしゃきしゃぁ~ん!!」
「こ、こら! そんな顔で抱きつかないで! 涎と涙で服が汚れるじゃない!!」
「うぁぁぁ~ん! よかったぁ~! よ゛か゛っ゛た゛ぁ゛~!!!」
「……ふう、やれやれ」

 泣きじゃくる橘に、佐々木は頭を撫でてやった。
 佐々木の頬にも流れるものが見えたのは……ああ、見間違いということにしておこう。

「――――」
 九曜。お前も気がついたのか。次元断層の制御、ご苦労さんだったな。
「――――」
 どうだ、少しは人間の気持ちがわかっただろ。
「――――」
 異世界の橘だってな、みんなのために体を張ってくれたんだ。そんなや奴が怖いわけが無かろう。
「――――」
 お前ももっとあいつらに接して、人間の心ってモノを理解したらいいんじゃないのか?
「――――分かりえない……かも――――しれない……けど――――」
 けど?
「――――やって…………みる――――」

 佐々木も橘も元に戻ったし、九曜も少しは人間に興味を持ったみたいだし、これで一件落着かな。
「そういえば佐々木、橘が元に戻らないとああだとかこうだとか言ってたみたいだが、あれは何だったんだ?」
「ああ、そうだ、思い出した!」佐々木は橘を揺らし、「橘さん、例のアレ、早く出して!」
「あ、はいっ!」
 橘、何を探している?
「イヤリングです! それも相当高価な品です!」
「なぜそんなものを……?」
「バレンタインデーの時、佐々木さんにご迷惑をおかけしましたからね。あたしが組織のお金を着服して買った品をキョンくんに渡そうと思ったのです。そしてキョンくんが佐々木さんにプレゼントすれば佐々木さんの面子が保たれるのです!」
 ……うーん、どう考えても違うと思うが……
「あたしの計画は完璧なのです! 黙ってみててください!」
 あのな橘。そう言うのは黙ってやれば俺も佐々木も面子が立つってもんだと思うのだが、いくら残り少ないからってバラす必要ないだろ。
 そんな俺のぼやきもものともせず、橘はゴソゴソとブレザーのポケットを弄り、
「あーっ! ない!」
「な、なんだってぇ!!」
「あれ……確かここに入れたはずなのに……おかしい、ありません! まさか喫茶店に置き忘れたとか……」
「この……バカ橘ぁぁぁぁー!!」
「ひいいいい、す、スミマセェン! 今すぐ取りにいきますぅ~」
 ……とりあえずは、いつもの二人だな……

 めでたしめでたし……でいいのか?


「あ、あの……」
 どうした、藤原?
「ぼ、僕の名を知ってるなんて……まさか僕に興味があって、それで接近してきたとか……?」
 はあ? 何言ってるんだお前?
「――服装…………ここの制服……」
 九曜のツッコミに、自身の服装を見て思い出した。
 そう言えば向こうの世界にとびだった際、ここの時間が凍結されているんだった(異世界の橘談)!
 ってことは俺はまだ光陽園学院の制服のままで、しかも女装したままだった……
「僕はオールオッケーさ。そうだ。もらってないけどホワイトデーのお返しをしようじゃないか。この熱い口付けで……」
「やめろぉぉおぉっぉおぉぉ!!」
「ぬべしっ!!」

 渾身の力を込めたアッパーカットで、変態藤原を沈黙させた後、俺はこの場を去った。

 めでたくなしめでたくなし。
 ……って、やっぱりこのパターンか……



 なお、橘が忘れていった相当高価なイヤリングとやらは、もちろん喫茶店にも無く、どこか違うところに置き忘れたのか、あるいは誰かにひったくられたのか……ともかく、橘の手には戻らなかった事だけ付け加えておく。



橘京子の消失(エピローグ)に続く


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