「…………、……きて……」
 ――声が……聞こえる――

「……くん、………ったら……」
 ――俺を呼ぶ声――

「……むー、……おき……よ……」
 ――どこかで、聞いたことのある――

「……おき…………なら……」
 ――しかも毎日聞くこの声は――


「えいっ!」
「ぐふぉ!!」


 朦朧としている頭で必死に状況把握をしている俺は、砲丸投げの玉を腹部に直撃したかのような鈍い痛みを伴って、完全に覚醒した。
「ってえな! 起こす時はもっと優しくしろって言ってるだろうが!」
「だって、キョンくんったらなかなか起きないんだもん」
 ぷくっと膨れる顔はいつもよりも殊更幼く見えるが、それもこいつが今まで行ってきた業というものだろう。怒られたくなかったら無茶な起こし方をするなと再三言い聞かせているのに、この癖だけは一向に治る気配を見せない。
 間違いなく俺の妹である。
「ごはんだよ~ あっさごっはんだよ~」
 幼稚園のお遊戯で覚えたかのような、『ご飯の舞』(命名:俺)を踊りながら、布団の中から俺の手を引っ張り出す。一つ忠告しておこう、妹よ、蕪じゃないぞ俺は。
「きょおの~おっかずは~ せぇんまいっづっけ~」
 千枚漬けは確かに蕪だな……などと感慨にふけっている場合じゃない。
 俺はといえばまるっきり成長の兆しを見せない妹に向かってこう呟くしかなかった。
「やれやれ……」
 ――スマンスマン、そんなことをしている場合ではないな。
 幸か不幸か、妹が俺の脳を刺激してくれたおかげで記憶が蘇ってきた。
 確か俺は、佐々木や藤原と共に九曜が用意した次元断層とやらの入り口に突入したはず。
 あの時――

 




 ――九曜が口を紡ぐと、机の下に潜んでいた白い光は更に大きさを増し、俺たちを飲み込めるほどまでに成長した。
「この先――たどり着ける……彼女――」
 ……そこにいるって訳か。
「わから――ない……可能性の……一つ」
 全世界、いや、全宇宙を統治できるような超々広範囲型リサーチャー麾下の九曜すら『わからない』ということは、可能性とやらもかなり低そうだな。
「九曜さんは僕を媒介にして可能性の低いパラレルワールドを抹消してくれたから、幾分は楽になったと思うよ。確率で言うと億や兆単位でゼロが消えただろうしね。まあ、それでもGⅠ全てのレースにおいて三連単を命中させる確率よりも低いかもしれないが……」
 突然しゃしゃり出てきた佐々木は良く分からない例えを言い放った後、
「……それでも、行かなければいけないんだ。早く橘さんをみつけないと、キョンに……」
ん? 俺がどうかしたのか?
「あ、いや、なんでもない。こっちの話だ。ともかく、」普段あまり見せることの無いリーダーシップを発揮した佐々木は九曜と、そして俺の手を取り「行きましょう」と声を発した。
 ……そうだな、早くいってやらないとあいつも可愛そうだ。普段からKYKYと言われているだけあって、あいつ一人で他の世界で上手くやっていけるとは思えないからな。早く救ってあげなきゃ野垂れ死にすること請け合いである。
 俺は佐々木の右手をグッと握り返し、俺なりの決意を示す。やや緊張していた佐々木の表情が幾分緩んだように見えた。九曜の力を目下に体験して、少々ビビッていたのだろうな、やっぱり。そういった部分では女の子っぽいのにもったいない。
 言葉で特殊人間共の能力を理解しているつもりでも、実際目の当たりにしないとわかんない事だ。実際俺だって朝倉に閉じ込められた際、初めて長門有希という人間(正確にはヒューマノイドインターフェイスだったな)を否応無しに知ることになったんだからな。
 百聞は一見に如かず、とはよく言ったものだ。

 そして皆が一応に手を繋ぎ、白い光――机の下の引き出しに向かって歩みを進める。
 俺の左手は佐々木の手、そして右手には藤原の手。
 左手側からは緊張に満ちているのだろうか、暖かくもしっとりとした感触。これは今の佐々木の心情をトレースしたと考えれば疑問に思うことは何もない。
 しかし、右手から感じる煩悩丸出しの感触が大問題だ。何を勘違いしたのか、『大丈夫か? 怖くないか? 僕が守るから心配要らないよ』等と意味不明な言葉を紡ぎながら俺の手をさするように握ってくるため、さっきから鳥肌だらけだ。
 きしょいことこの上ないのだが、しかし一から俺がこうなってしまった経緯を話す暇はない。さしもの九曜でも、この次元断層の入り口をキープできる時間はあまり残っていないようだ。
 先ほどから苦悶に満ちた表情がそれを物語っている。のっぺら坊並にクールフェイスな宇宙人がこの表情だから、普通の人間にとっては表現できないほどの苦痛かもしれない。
 このままパラレルワールドに潜り込むぞ。説明は後からでもできるさ。
 九曜は俺の意志を感じ取ったのか、左手を白い光に向かって指差し、『こっち――』と先導しながら先へ進む。続いて佐々木、俺、藤原。手の繋がっている順番どおりに後へと続く。
 机の引出しはもちろん俺たちよりも小さく、普通ならばその中に入ることなど到底不可能だ。しかしどういった原理なのかは知らないが、俺たちは机の下の引き出しに吸い込まれるように進入することができた。
 自分達が小さくなったという実感はまるで無く、例えるならばこの空間内に異次元の座標が乱立し始め、三次元で存在している俺たちの物理法則を蔑ろにしているというような、そうでないような……つまりは宇宙人パワーってこった。
 光は更に増している。あたり一面は真っ白で何も見えない。それどころか、劈く高音と響く低音が鼓膜を無用の長物とさせている。匂いや触感、味覚においては反応する事さえ儘ならない。
 ――五感では何も感じることの無い世界。
 しかし、脳には直接響いた。

『これは……』
『橘の……』
『……声?』

 俺たちの声も、耳からではなく脳に直接響き渡った。
『――恐らく……』
 九曜、この声のする方向はわかるか?
『非線形的雑信号――過多……判定不能――でも……』
 白一色の世界の中で、何故か九曜が振り返ったように見えた。
『彼女――の……導き――大丈夫……』
 彼女……ここでいう『彼女』は、恐らく佐々木のことだろう。先ほど佐々木を基調として呼び出したもの……何かはわからないが、橘との繋がりを保つ友情のような愛憐のような、そんな繋がりを辿って橘を探すのだろう。
 頼んだぜ、九曜、そして佐々木。
 相変わらず白ベタで塗りつぶしたような世界だが、しかし二人の『意思』を感じることができた。何故かといわれれば分からないが、第六感を認識しやすい場所なのかもしれない。
 ――その証拠に――

 先ほどから舐めまわすかのように手を絡めてきた、藤原のドスケベ感満載の感情が、足の小指まで伝わってきやがった。
 ……やめろ、おまいは。

 ――そんな藤原のリアクションを力の限り無視し歩みを進めると、白色のオーラが更に増して、俺の記憶はそこで途絶えたわけだが……

 




 さて、と。先ずは現状確認だな。
 今まで俺が寝ていたのは間違いなく俺の部屋であり、布団から枕、そして寝巻きにしているスウェットまで俺の記憶と違えるものは何も無い。
 辺りを見回せば、俺の勉強机にスタンドライト、ハンガーには上下の制服が飾ってあり、そして中学校の頃から貼ってあるお気に入りのロックバンドのデカールまで、何一つ変わらなかった。
 本当に俺はパラレルワールドとやらへやって来たのだろうか? 俺が今まで過ごしてきた世界と何一つ変わらないが……
 元の世界に戻ってきましたという嫌な結末もあるのだが、そうネガティブに考えても仕方あるまい。こう言うときは橘京子の如く前向きに物事を考えよう。
 そう考えた俺は、よいこらしょとじじいくさい声を上げて起き上がる。とは言え、この部屋を見渡しただけじゃ特に変わったことなど……
「……ん?」
 ……いや、あった。
 ほんの些細な相違点だが、しかし俺の中に潜む記憶と照らし合わせてみると異なるとしか言いようが無い。
 だがそれは俺の部屋レイアウトでも制服でもなかった。
 もっと身近な存在で、かつ分かりやすいところにあった。
 俺が感じた相違点。それは。

「つぎの~おっかずは~納豆汁~」
 それは、未だ歌い踊り続けている妹の存在だった。


 妹の違いに気付くことになったその理由は、彼女の行動ではなく、体格によるものである。
 と言っても、太っているとか痩せているとか、そう言った意味ではない。彼女は確かに俺の知っている妹なのだが、一回り……いや、二周りほど小さくなっているのだ。
 いくら同い年の子達より若く見られがちな我が妹でも、齢を重ねるごとに身長体重胸囲座高その他諸々の特性はその数値を増していくものであって、小さいなりにそれ相応の成長を見せるのだが、しかし彼女は俺の知っている妹と比べてやはり小さかった。
 よくよく考えると、毎朝喰らうあの衝撃もいささか弱いものだった気がする。
 もうじき中学生へと進級するうちの妹は、いくら小柄な体型だといっても片手で持ち上げるのは少々苦しくなってきたほどである。
 その妹が俺を起こす際に行う秘儀、『フライングボディプレス』は、ここ最近ではとみにその威力が増し、『砲丸玉』から『ボーリングの玉』に変わったんじゃないかと本気で考えたくらいだ。
 だが。
 冒頭の部分で俺が受けた衝撃は『砲丸玉』レベルであった。分別のつき始めた妹が手加減を覚えた、とも考えられるが、つい最近まで『分別』・『手加減』、共に縁遠かった妹がそんな殊勝なことをするわけがない。
 何だこの違和感は? これじゃまるで……
「早く、ご飯食べないと学校に遅刻しちゃうよ」
 一人考え込んでいた俺は、いつの間にか歌を歌い終わった妹に少々呆れ顔でそう言われた。
 言われて時計を見れば、確かにギリギリの時間である。飯を食わなければ多少余裕があるが、そうでない場合は汗をかかずして学校にたどり着くのは少々骨である。ボーダーラインすれすれ、ってやつだ。
 そうか、すまん、サンキュと礼を言ってダイニングへ向かう……って、こんな時にボケをかましてみるだけまだ余裕があるのはこう言った体験を何度もやってきた俺の経験値がふんだんにあるからだろうな。
「おいおい、今は試験期間で休みじゃないか。そんな手には乗らないぜ」
 しかし妹は頭にクエスチョンマークを載せたまま器用に首を傾け、
「しけんきかん? 休み? うーんと、春休みはね、昨日で終わりだったから、今日から学校行かなきゃダメなんだよ」
 妹に春休みと試験休みとの違いは説明してやったのにまだ分かってないようである。
 それにいくら俺が寝ぼすけさんでも休みと休みじゃ無い日の区別はつく。一日の半分以上を寝て過ごすシャミセンと一緒にしないでくれ給え。
「しゃみせん?」
 妹は更に顔を傾げた。
 シャミセンというのはだな、群がっている野良猫集団の中からハルヒが拾いあげた三毛猫で、驚くこと無かれ、なんとオスの三毛猫だ。メンデル先生すら交配することのできない希少種だと言ってもいいぞ。……って、何を真面目に語ってんだ俺は?
 そういえばいつもは俺のベッドの上かはたまた布団の中で蹲っているシャミセンが、俺たち兄妹のやりとりを聞いて『ふぎゅあにゃ』と鬱陶しそうに姿を現すのだが、現時点ではその姿を見出す事ができていなかった。恐らく、どこか遊びに行っているのだろう、特に気にすることでもない。

 妹よ、シャミセンの存在まで忘れたのか? 記憶障害が発生しているとなれば、鼻の穴に大根おろしの汁を入れることをお勧めしよう。あるいは頭を叩いて血行を良くしてやろうか。
  俺がそう言うと、しかし妹は苦虫を噛み潰したような顔をして、「変なキョンくん」と言った。……うん、これは仕方ないな。正直真面目に答えてないし、妹を揶揄しているから言われて当然だ。
 しかし、この後の妹の発言が俺の平穏だった心を掻き立てることとなった。
「今日から高校生なのに、大丈夫?」
 ……は?
「いいなぁ、キョンくんばっかり制服着れて。わたしも早く着たいな~。でもあと二年も待たなきゃいけないもの」
 えーと、ちょっと待て。
 俺が今年から高校生ということは……つまり、高校の一年生ということになるな。
 俺の記憶が正しければ、確か次の新学期でめでたく高校三年生に進学する予定であって、五歳年下の妹も四月からようやく制服が着れると言ってはしゃいでいたから間違いないはずなのだが……
 しかし妹は何と言った? 『あと二年待つ』と制服が着れる? ……ってことは妹は小学五年生?
 だとすると俺は高校一年生で辻褄が合うし、妹の言い分はピッタリ合うわけで。
 待てよ待てよ。もしそうなら、俺がさっき感じていた違和感共々整合性を兼ね揃えることになるが……
 ――聞いてみるしかない。
「おい」妹に向かって「今日は西暦何年何月何日だ?」
「どうしたのキョンくん、いきなりそんなこと聞いて?」
「いいから答えろ。『小学五年生』になったんだからそれくらい答えられるだろ?」
「うん、わたし五年生だもんね!」

 ……どうやら今日の日付を聞く必要はなさそうだ。
 俺はおよそ二年前にまでタイムスリップしてきたらしい。

 




 結構衝撃的な事実を知らされた割に驚かなかったのは、過去に時間軸を何度も弄くり倒した某未来人と某宇宙人がタッグを組んで俺のこめかみの辺りで阿波踊りをしていたせいだろうな。
 冬から夏に戻って更に冬に逆戻りした時と比べれば、季節がほぼ同じだからそんなに違和感も無い。これも俺の人徳の成せる技だろう。
 この世界における時代設定を悟った俺は会話を打ち切り、飯は要らないからと告げて妹を部屋から締め出し、
「さて、と。先ずは現状確認だな……」ってさっきも言ったか。
 とりあえずもう少し俺の部屋を探って何が一体どう変わったのかを調べてみることにする。
 先ずは制服。
 ブレザーは翡翠と翠玉が入り混じってくすんだような色で、ネクタイは緋色。見知った北高の制服だが、ただししわ一つ無くピンピンとハリのある様はどう説明すべきか。
 クリーニングでしわ取りオプションをつければあるいは可能かもしれないが、そんな無駄金をかけるほど我が家の経済事情は芳しくない。と言うかやってくれない。
 つまりこの制服に殆ど袖を通していないって状態なんだろう。根拠はないがそう考える以外に他は無い。
 続いて制服を手に取り、ポケットを弄る。胸ポケットには生徒手帳が納まっているはず。
 ……よし、あった。
 折り目が無く痛んだ様子もない風体は、まさしく新冊そのもの。……まあ、生徒手帳なんて殆ど見開かないから何時までたっても新品みたいなもんだけどな。
 だが注目すべきはそこではない。大抵生徒手帳には本学の学生であることを証明云々と書かており、学生証の役割も兼務している。本人確認並びに学生証明にも使われ、携帯電話や公共交通機関の運賃等、学割料金を適用する際には必須のアイテムである。
 本校でもそれは例外ではなく、見開きのページに写真付きでデカデカと掲載されており、これを見れば俺が高校の何年生かすぐに把握できるのである。
 なお、SOS団を設立する際に参照したのがこの生徒手帳であるのはご存知のとおりである。
 偉そうに長々語ったが、別に大した内容ではないので、知っている人は飛ばしてくれても構わない。って、もう遅いか。
 微妙な一人ボケツッコミを交わし少し空気が寒くなったところで生徒手帳の見開きページを見る。そこには俺の学生証が貼り付けてあり、そして書かれている内容から高校一年生であることが判明した。
「高校一年生になったというのは本決まりだな……」
 しかし、疑問に思うところもある。
 高校一年生である事は分かったが、単にタイムスリップしただけと言う可能性も捨てきれない。佐々木の言うパラレルワールドにやってきたという確証が欲しいところだ。
 続けて他の可能性を探るべく部屋の中を物色する。部屋を見渡して目に付いたのは――携帯電話。
 以前……というかこの時間軸では現在なのだろうが、俺の記憶の中では過去に所有していた携帯電話だった。
『だった』というのは他でもない。去年(俺の記憶の中の去年な)、とある事件をきっかけにして機種変更をしてこの携帯(今手にしてるヤツだ)のお役は御免となり、そのままショップに引き取られていったんだ。
 新機種に換えた早々ハルヒがぶっ壊しやがって、また新しく手配するために散々骨を折らされたんだが、その時の話は以前したような記憶があるんで今回は省略。
 俺の中では過去のものとなっているこの携帯の操作方法をなんとか引き出し、電話のメモリを確認してみる。
 思ったよりもすんなりと操作方法を思い出し、画面には登録された電話番号やメールアドレスの一覧が表示された。
 およそ俺が当時入力したものに間違いないだろう、当然ながらこれから知り合うであろう涼宮ハルヒの携帯電話の番号や、同じく長門有希のマンションの電話番号もインプットされていない。朝比奈さんや古泉も然りである。
 もしかしたら佐々木の電話番号くらいなら入っているかもと期待していたが、当時は佐々木が携帯電話を持っていることなぞ知らなかったし、家の電話番号は中学校の連絡網に書いてあるからわざわざ登録する事も無かった。
「当然橘の電話番号なぞ入っているわけ無いし……手がかりなしだな、こりゃ」
 やや諦めモードで携帯電話をベッドに放り投げようかとした、その時。

 プルルルル……

 携帯電話の電子音が、静謐気味の部屋に響き割った。
 半ば反射的に画面を確認する。
 表示された番号は固定電話のもの。それもこの市内からかけてきたものである。しかし携帯電話に登録されていない番号からの着信では当然ながら誰がかけて来たのかわからないし、それに見覚えも無い。
 変な勧誘電話だったら嫌だし面倒くさい。だから俺は知らない番号からかかってきても取らないようにしている。重要な用事があるなら留守電に入れるはずだ。
 とは言え、現状では情報が少なすぎる。せっかくの好機を、俺の中途半端でどうでも良いスタンスで無に帰したらそれこそ本末転倒である。
 やれやれと息を継ぎ、観念気味の赴きで親指とボタンを触れ合わせた。
「もしもし」
『やあ、キョン』
 こんな挨拶で話し掛けるヤツは俺の記憶の中で一人しかいなかった。
「佐々木? 佐々木か?」
『うん、そう。僕だよ』
 声を聞く限り、俺の知っている佐々木に違いなかった。
 だが俺が今いる世界は俺の住んでいた世界ではない。この佐々木も俺の知っている佐々木と何かが違う可能性がある。うちの妹と同じように。ここは一つ探りを入れた方がいいだろう。
「ひ、久しぶりだな。どうしたんだこんな時間に?」
『ああ、全く久しぶりだね。卒業式以来かな?』
 ――卒業式以来、か。
 やはり俺の記憶にある佐々木と、この世界の佐々木は俺の知っている佐々木と同一人物ではないのか――
 そう思った瞬間、佐々木はとんでもないことを口走った。
『……それとも、光陽園学院で白亜の如き光源に包まれて以来、とでも言ったほうがいいかな?』

 




「な……!」
『くっくっ……どうやらその様子だと、僕の知っているキョンに相違ないようだね』
「佐々木、お前もこの世界に飛んできたのか!?」
『ああ、どうやらそのようだね。いやはや、本当にこんな非現実的なことが起こり得るなんて、驚嘆に値するよ』
 その口調だと何か分かっているような感じだな。すまないが状況整理をしたい。教えてくれないか?
『それは構わないが……正直僕が得た情報もキョンのそれとあまり変わりないのではないかと思うよ。今現在わかっているのは、僕達はおよそ2年前まで時間が逆戻りしたこと、そして今日が高校の入学式であること。それくらいだ』
 そうか、確かに俺が知っている情報と変わりないか。やっぱりタイムスリップしてきたと考える他ないのだろうか。
『くくく』と喉を鳴らす音が聞こえた後、『それは正解だが、しかしそれが完全に正しいわけではないようだ。あの時九曜さんも仰っていたが、ここはパラレルワールドだ。ただ単に時間を巻き戻した世界であるはずがないさ』
「佐々木、その言い方だと他に何かわかっていることがあるんじゃないのか?」
『ああ。ここがパラレルワールドである明確な理由があるからね、僕には』
 何だと?
『間違いなくパラレルワールドだよ。殆どの事象においてオリジナルの世界と変わらない。だがディファレントな部分は確実に存在している。そこに気付くのはそれほど難しいものではなかったよ』
「その、ディファレントな部分ってのは一体何なんだ?」
 俺が聞き返すと佐々木は
『くくくっ、キョンはまだ気付いてないのか。でもそれは仕方の無いことだろうね。キョンにとってその違いを見つけるのは些か難儀なことだと思うよ。少なくとも今の段階では』
 パラレルワールドである理由――その理由を見つけるのは、佐々木にとっては簡単。しかし俺にとっては難しい。つまり佐々木にとっては元の世界と異なる部分があり、そして俺にはその部分がない。
「――ってことでいいのか?」
『うん、確かにその通り。キョンより僕の方が元の世界と異なっていると考えて差し支えない。それ故キョンより僕の方が先にこの世界の異変に気付いた。そう言うことだろうね』
 で、何なんだその違いと言うのは?
『それはね……』と若干含みを持たせるような喋り方をした後、『実際目の当たりにした方が早いだろうよ』
 おいおい、ここまで来ておあずけとは性格悪いな、お前も。
『お楽しみは最後まで取っておいて、焦らすのがいいのさ』
 やっぱり性悪だ、こいつ。
『大丈夫。少なくとも今日中には分かるはずさ、その時のキョンの驚く顔が見物だ』
「分かったよ。どうせ今教える気はないんだろ。ならその時が来るまで待つことにするさ。でもなるべく早く教えておくれよ。この世界に長居しててもいけないだろうからな」
『ああ、全くそのとおりだ。それじゃキョン』何故かしばしの沈黙の後、『また、後で』
 そう言って佐々木は電話を切り、俺も携帯電話をベッドの上に置いた。
「ったく、悪趣味なヤツだ」
 どうやら佐々木はこの世界の正体に気付いているようで、そしてそれこそこの世界が単なるタイムパラドックスの産物ではないことを物語っており、当初の予定通りパラレルワールドへと誘われたことを裏付けるものである。
 少々もったいぶった性格のせいで全体像を把握するには至らなかったが、しかし今日中には分かるだろうとの事だし、佐々木の口調からそれほど危険な世界と言うわけでもなさそうだ。
 ならば今後俺の取るべき手段は……
「とりあえず、このまま学校へ行くか」
 時計を見て、始業時刻までそれほど時間が無いことに気付いた。慌てて新品の制服に手を取り着替え始める。
 このまま部屋の中にいても進展は無いだろうし、かといって学校以外の場所で新規の発見は望むべくもないだろう。ならば行く先は学校しか残っていない。

 ここで少し疑問に思う人がいるかもしれない。
 元の世界と関連の無い学校に行く必要なぞないのではないか、高校の一年からということはこれまで常時頼りにしていた人たちが集まってない時期だろうから、今向かっても有意義な情報は集まらないんじゃないか、とね。
 確かに、ことSOS団に関しては設立が5月も何日か過ぎた辺りであり、それまでハルヒ本人とそれを取り巻く各勢力のエージェントたちとのコンタクトも皆無だった。恐らく今の状態で話し掛けて状況を説明しても痛い人扱いされるのが関の山だ。
 ハルヒとまともに対話できるようになったのはゴールデンウィークが開けて暫くたってからだったし、朝比奈さんはハルヒが拉致してきたから今連絡を取ったところで鶴屋さんに投げ飛ばされるだけだろう。古泉に至っては転校前だから在学すらしていない。
 それでも、長門はいるはずだ。
 長門有希という存在は、涼宮ハルヒの動向を探るためにこの時間軸で言うところの3年間からずっと調査し続けているはずだ。そして入学式である今日ですら、文芸部室の椅子に独り座って黙々と読書をしているに違いない。
 この世界が完全にオリジナルの世界を襲来しているとは限らないが、だが可能性にかけるとしたらそこしかない。
 彼女の導きがあれば、本来の目的である橘京子を探り当てる事もずっと容易くなるはずだ。
 九曜の力でこの世界に飛んできたのはいいが、現状ではその九曜の存在が明らかとなっていない。光陽園学院に潜伏している可能性は高いが、それよりも同じ学校にいる長門のほうが頼みやすいし、何より九曜と違って意思疎通が容易だ。
 長門の協力は欠かせない。九曜の代わりといっては失礼だが、今はあいつにすがするしかないだろう。
 なるべく長門に負担をかけさせるようなことはしたくないのだが……仕方あるまい。この一件が終わったらあいつの喜びそうな場所にでも連れて行くか。漫画喫茶などいいかもしれないな、本ってのは文字以外に絵も重要な構成要素の一つだ。それを教えるために連れて行くべきだと俺は思う。決して俺個人の趣味を反映させているわけじゃないからな。


 というわけで、思慮や策略やその他諸々思うところがあり学校に行くことにした俺だが、その学校で思いもかけない事件に遭遇することになる。
 佐々木の見せた性悪な態度や含みのある口調は、全てそこに集約するためのものであったのだろう。
 ホント、人を弄ぶのが好きな奴だな、あいつは。

 




 高校に向かう俺を阻止しようと立ちふさがる勢力や、この世界について一から十までこと細かく説明してくれるような悪党などがいれば、物語は収束に向かい俺も楽できるのだろうが、生憎この世界でもそんなご都合主義とは無縁のようである。
 何事も無く無事高校にたどり着いた俺はやっぱり何事もなく席に座ってただただ時間が過ぎるのを待っていた。
 そういや俺が初めて通学路を歩いたときは、やれ3年間毎日登山することになるんだなと暗澹な気分に陥ったり、その気持ちを携えたまま入学式に参加して、もうすでに新入生としての自覚を肥だめの中に捨て去っていたんだったと言うことを思い出した。
 正確には覚えてないが、入学式で見渡した限り、俺の記憶から逸脱したような人物がいたとは思えないし、だだっ広い体育館でお経を唱えているかのようなヅラ校長のステイタスもピッタリ一致している。
 まるで俺が過去に逆戻りしてもう一度高校一年生からやり直している。そんな感じだった。
 ただ、この世界は単なる時間遡行された世界ではないらしいし、それは今朝の佐々木との電話で判明したことでもある。あまり油断しないようにしたいね。
 とはいえ……ここまで全く俺の記憶が同じだと、とりあえず今はボーッとさせていただきたい。もうすぐ始まるであろう、高校生活で初めてのホームルームまで。
 つまり、衝撃的な出会いを果たしたハルヒとの初めてのご対面の時。
 ただ闇雲に時間を過ごしているのはその時を再現するためでもある。
 ――当時の俺はハルヒの存在など全くの想定外であったから、その時が来るまでハルヒという存在に声をかけてはいけないだろう。
 ――ハルヒがあの支離滅裂な自己紹介をしなければ、宇宙人未来人超能力者その他色々な人物や出来事が全て無に帰すのではないか。
 そんな危機感が俺の全身を駆け巡り、ハルヒの存在を確認せずこうしてずっと黒板とにらめっこをしているのである。
 何度も言うようだが、この世界は俺が経験してきた世界とは異なるわけで、過去の実績と異なることをしたところで然したる問題ではないのかもしれないが、しかしそれができないのは既定事項に囚われた未来人の悲しい性なのかもしれない。

 とまあ、色々と述べては見たが、つまりただじっと待っているのは暇なのである。だからこうやって独り物思いに耽っているってわけだ。
 ただ、辺りを見渡しても俺が一年の時にクラスメイトだったヤツしかいないわけで、特に面白みが無い。面白みがあるとすれば……
 ……いや、俺としては面白くないのだが、朝倉涼子まできちんと復活していることだ。
 過去学級委員長に任命されたことのある彼女は、この世界でも訳隔てなくクラスメイトに接しており、谷口的ランキングで言うところのAAランクプラスのオーラを振りまいている。
 この世界が俺の知っている世界と同じ運命を辿るなら、一ヶ月の後に俺はこの教室で命を狙われることになるだろう。
 そして何度も言っているのだが、俺の知っている世界とここは異なる。もし朝倉がそのことに気づいているのであれば、もっと大胆に、かつ迅速な行動をとる可能性だってある。
 間違いなく要注意人物ナンバーワン。
 もちろん何の能力も無くなったただの人間である可能性も無いわけではないのだが……

 ……ふう、疲れた。
 暇だからと言って妄想を振りまきすぎた。
 もっと気軽に考えてもいいかもしれない、佐々木みたいに。
 早いこと今日を終わらせて、佐々木にコンタクトを取った方がいいな。でなきゃこっちが気疲れしてしまう。
 さっさとホームルームの時間になって、あの自己紹介をしてほしいものだ。あれがきっかけで世界は動き出すのだろうからな。
 頼んだぜハルヒ。クラスの皆を震撼させた、あの迷台詞を決めてくれ。


 しかし、俺の期待はこの後大きく裏切られることになる。
 そしてそれは、この世界が俺の知っている世界とは異なる、所謂パラレルワールドへ来たことをことを裏付けるのに十分すぎるであろう事実を突きつけたのである。


 チャイムが鳴って数分後、時間にルーズな一人の教師が、入学式当日だと言うのに全身ジャージという場も空気も弁えない格好で教壇の上に立った。
 自己紹介を聞くまでも無い。
 ハンドボール部顧問、担当科目は体育。
 これから最低2年間はクラスを共にする通称『ハンドボール馬鹿』、岡部であった。
 岡部は自分の名前をデカデカと黒板に書いた後、やれこのクラスはどうたらこうたらと、およそ2年前に聞いたことと同じような内容を話し出し、俺はと言うと岡部の熱血指導ぶりはこの世界でも有効なのだと変なところで感心していた。
 延々15分以上自己紹介……というよりハンドボールという球技とハンドボール部の紹介を受けた後、今度は俺たちクラスメイトの自己紹介となり、出席順に始まった。
 岡部のインパクトある自己紹介とは裏腹に、クラスの奴等の自己紹介は冷めたものである。どこぞの中学出身で名前はこうでどうぞよろしくと言ったさしさわりの無い言葉で、各自順調に紹介を終えていった。
 あまりにも淡白な自己紹介に途中岡部が趣味とか入りたい部活を付け加えるよう指導したのだが、それでもやっぱり差し障りの無い趣味や部活ばかりで面白みにはかけており、岡部は少々気に入らない顔をしていたりする。
 もっとも、岡部が気に入らないのはハンドボール部に入りたいと言う輩がいないのが一番の要因であると思われるが……ま、それは敢えて突っ込まないようにしておこう。
 そして回ってきた俺の番。とは言え俺も当り障りの無い自己紹介をするに留まる。ここで俺が目立つ必要性はないし、それにインパクトある自己紹介が聞きたいなら次の奴がしてくれる。
 次のソイツの自己紹介は、それまで一番インパクトのあった岡部の自己紹介を悠々5倍は超えるくらい衝撃的なものになる。
 あの時は俺自身があっけにとられていたが、今回はどう出るか分かっている。皆の驚く顔を見て回るのも面白い、特に岡部が見ものだ。
 そんなことを考えながら適当に自己紹介を流し、着席する。そして間もなく後ろのそいつが席を立った。
 さて、とうとう来たか。今のうちに構えておくか……
 ――そして、そいつは口を開いた。
「こんにちは、みなさん。始めまして」
 ……ん? どうしたんだハルヒ。何て普通の挨拶なんだ。お前らしくも無い。
「――中学からやってきました……」
 は? ちょっと待て。お前は東中出身だったろうが。それにその中学校名は俺と同じじゃないか。
 それにこの声、ハルヒというより……まさか……?

 ――普通の自己紹介。
 ――出身校の違い。
 ――声の違い。

 それらを総合すれば俺の記憶と異なることなど容易に判断でき、それらが俺の記憶よりも早く後ろを振り向かせてしまった要因になり得るのに十分であろう。
 俺の記憶とは明らかに異なる。既定外の行動に対して規定されない行動を返すのは、決して既定事項から逸脱しているとは言えない。俺の行動は決して間違ってないと言うことだ。
 まあ簡単に言えば、反射的に振り向いてしまっただけなのだが……
 そして――

「…………!!」

 ――思わず声にならない悲鳴をあげてしまった。
 淡々と自己紹介を続ける彼女に対し、俺の頭の中は半ば真っ白になる。
 振り返った先にあったのは、確かに俺の知っている人物だった。
 しかし、その人物はハルヒではなかった。
 ハルヒとは全く正反対の、普通の自己紹介を続ける人物。それは――


「佐々木と言います。どうぞよろしくお願いします」
 ――淡々とした自己紹介の後、彼女は俺に目線を合わしクスリと笑って席についた。

 




「なるほどね……俺よりも早く異変に気付いたのはそう言うことだったのか」
 高校生活第一日目はホームルームと入学式のみで幕を閉じ、新入生たる俺たちは早々に帰宅の途に向かうことになっている。
 既に大多数の人間がこのクラスからいなくなり、未だ残りつづけているのは俺と佐々木の二人だけになっていた。
 ある意味ハルヒの自己紹介よりも衝撃的だった佐々木の自己紹介は、つまりこの世界が俺たちの知っている世界とは根本的に違うことを決定的なものに仕立て上げた。
「ああ、まさしく驚愕モノだったよ。朝目が覚めて、今日が2年前だったと気付いたときも結構驚いたけど、それよりも高校の制服が北高のものに変わっていたときはさすがに動揺を隠せなかったね」
 俺よりもSF的経験が少ないはずの佐々木だが、それでも俺よりも肝が座っているのは彼女の性格の成せる技であろう。俺が初めて非現実的な経験をしたときは腰が抜けたぜ。というかあの時は身動き止められたんだけどな、朝倉に。
「一応話には聞いていたから、多少なりとも心の準備はできていたからね。制服を着込んで北高へと向かうのにそれほど抵抗は無かったよ。ただ僕一人がこの世界に飛ばされてきたかと思うと不安でね。だからキョンに連絡を取ってみたんだ」
 それが朝の電話だったわけか。しかし、よく俺の電話番号を覚えていたな。この当時はお前に番号を教えてなかったし、それに家の電話からかけてきたということはお前はまだ携帯を持ってなかったということだろうし。大したもんだよ。
「数学の公式の数々は忘れても、キョンのプロパティだけはきっちり留めているからね。他にも、キョンの家の住所や電話とFAX番号、身長体重スリーサイズから揉上げの長さに背中のほくろの数、着ていた服や食べた物は毎日記憶して……コホン、冗談だよ」
 ほ、ホントに冗談なのか……? 今佐々木の目が血走ってたように見えるが……
「あ、当たり前じゃないか! 決してキョンの部屋の本棚に埋没させてある、如何わしい映像が納められた光ディスクの本数など有効数字2桁しか知らないし、その映像でどの部分がお気に入りだとか、それを実践すれば涼宮さんを出し抜けるとかそんなことは考えてないから、本当に!」
 …………。
 この世界から戻れたら、DVDを処分することにしよう。凄く残念だが……
「と、ともかく!」少し顔を紅くした佐々木は「これからどうすればいいと思う?」
 そうさなぁ……このまま暫く過ごしてみるってのもいいとは思うが、本来の目的は橘京子の救出だからな。彼女を探しに行くってのが先決だろう。
「うん。で、橘さんの行方の検討はついているのかい?」
 をう。
 意味不明な声を上げて、俺の中の時間が止まった。
「そうかい、だと思ったよ」
 両手を挙げて参った参ったと言うようなポーズを取る佐々木。誰の真似をしてるのだ?
 確かに、橘がどこにいるのかわからない。携帯電話の番号でも登録していれば別だろうが、この時代の俺は橘の存在など知るよしもなかっただろうし、当然その番号の登録もされていない。
 あいつがどこに住んでいるとか、どこの高校に通っているとかという情報も皆無だ。こちらからコンタクトをするには、ゴキブリに曲芸を仕込むくらい難しいことだろう。
 だが、解決法は何も一つじゃない。
「俺には検討つかないが、でもこの高校には頼りになる奴がいるはずだ。そいつに声をかけてみる。行くぞ佐々木」
 言って俺は席を立ち、とある場所へと向かった。


 初めてそこに行ったときは、ハルヒによって市中引き摺り回しされたかの如く無理矢理強制連行されたことを覚えている。
 階段を下りて外に出て別校舎に入り、そして再び階段を登ってそこにたどり着いた俺は、
「ここだ」
 ややきょとんとした顔で佐々木は「ここは……文芸部?」
 入り口の前で斜めに傾いでいるプレートを見て答えた。
 そう。文芸部。そして涼宮ハルヒ率いるSOS団のアジトでもある。
「ここに来れば、あいつがいるはずだ」
「誰だい? 涼宮さんがいるとでも? だけど彼女がいるべき席に僕がいたってことは、彼女はここにいない可能性が高い。もしかしたら僕が通っていた高校に進学したのかも知れない」
 ハルヒがこの高校にいなかったことは確かに気になるが、しかしそれによって俺の心は掻き乱れたりはしなかった。以前にも同じようなことがあったし、あの時だってちゃんと元の世界に戻れたし。
 それに今回は俺一人だけではない。俺の記憶や体験談が有効な人間が最低一人はいるのだから、少しは気が楽だ。
 さらに言うと、元の世界からこの世界に来た人間は他にあと二人いる。あの二人も恐らくこの世界に飛んできているはずだ。
 そして佐々木の記憶が俺と同じということは、彼も彼女の記憶もオリジナルであろう。それはつまり、各々の能力も有していることになる。俺の記憶がなくなり、普通の人間になったあの世界に飛ばされた時と比べれば大きなアドバンテージになる。
 いくら非協力的だからと言っても、この世界に飛ばされたことを望んでいる訳じゃないだろうし、力になってくれるはず。
 幸い二人のうち一人の行方は見当がつく。俺たちをこの世界に飛ばした張本人、周防九曜が通うのはこの坂の下にある光陽園学院だ。
 特に九曜。制服は用意してないが、門の前で張っていれば現れるだろうし、もしこの部室の中に俺の知っている人物がいなかったとしても、そちらに行けば何とかなるはずだ。というかこれは最終手段なんだけどな。
「とりあえず、身近に協力してくれる人からコンタクトを取るのが先決だ。行くぞ」
「ねえ、この中に誰がいるんだい、答えてくれよ、キョン」
 不安の色を見せる佐々木の問いかけに、俺は答えなかった。今朝の電話で、自分に起きていた改変を教えてくれなかった佐々木に対するちょっとしたお返しさ。
 それくらいは構わないだろ?

 トントン。
 一応念のためにノックする。まさか朝比奈さんが生着替えしていると言うことはないだろうが、俺の知る人物とは違う人がいる可能性だってあるし、もしそうだとしたらさすがに気まずいからな。最低限のマナーは守るべきだ。
 もし中にいるのがハルヒだったりしたら『なんだキョンじゃない。なにノックなんかしてんの』と怒られるのだろうが、今回はそれはなさそうだし、仮にそうだったとしてもまだ予測範囲内だ。
 しかし……というか俺の予想通りというか、俺のノックに対して返答はなかった。中に誰もいないのか、それともノックに無反応な人間がそこにいるのか……恐らく後者だろう。
 さらに念を入れて『失礼します』と言ってからドアノブを回す。開いた隙間から恐る恐る中の様子を探る。
 スチール製の本棚、古びた長テーブル。そしてパイプ椅子。
 俺の記憶と寸分違わないものがその中に散在していた。
 間違いない、俺の知っている、文芸部室に間違いない――って、あれ?
「…………」
「キョン、どうしたんだ、ダビデ像のようにボーッと突っ立って。何か見つけたのかい?」
「……ああ。見つけた」
 見つけた、という言い方が正しいのかどうなのかはわからないが、ともかく色々物議を醸しそうなソレが存在していたことだけは事実だ。
 こうやって固まっていても仕方あるまい。中に入ろう。そして佐々木、お前も見るがいいさ。
「くっくっ、どうしたんだ、そんなにもったいぶって。そんな常識外の存在がそこに鎮座しているとでも――」
 予想通り、佐々木は沈黙した。
「なるほどね……確かにキョンの記憶にないものだろうね、ここには」
 まあな。他の場所にいるんなら別にここまで驚かなかったかも知れないが、まさかここで登場するとは思っても見なかったものでな。
 やや引きつった態度で会話をする二人を尻目に、ソレは相変わらずの沈黙を続けていた。

 ――この部屋にいるのは、ハードカバーを手にした長門有希――
 ……ではなく。
「――――」
 長門有希とは違う次元の沈黙を放つ宇宙人、周防九曜。
 北高の制服を着た彼女は、何をするでもなくずっとその場に立ちつくしていた。

 




「まさか、お前もここにいたなんてな……」
 ぼそっと漏らした俺の言葉にも反応する素振りを見せない。元々コミュニケーションが得意な奴ではないし、正直返事を期待していたわけでもない。
「九曜さん、教えて欲しい。どうしてわたしたちはここにいるの?」
 しかし佐々木はそう思わなかったらしく、俺の後ろから乗り出すように現れ、そして九曜に問い詰めた。
「ここは――別の可能性……あなたの考えた――IFの世界……」
「IFの世界……?」
「橘……京子を――観測できる……別の可能性――」
 橘京子を観測できる別の可能性が、IFの世界? なんのこっちゃ?
 一つ一つの単語は理解できても、文節となり文章となると全く意味が通じなくなるのは九曜独自の喋り方に由来するものだ。だが佐々木はそれを気にする素振りも見せず、うんうんと頷きそしてブツブツと喋り始め、
「そうか……ありがとう九曜さん。ようやく解ったよ」
 解ったらしい。って本当か?
「ああ。まずこの世界についてだが、確かにここはパラレルワールドなんだ。僕たちが過ごしてきたオリジナルの世界とは多少の違いが見受けられる。それがIFって言葉に置き換えられるんだ」
 IF……英語で『もしも』や『仮に』などという意味である。……失敬、そんな解説はいらないか。
「つまり……」
 佐々木は言葉を切って、そして発表した。

 ――『もしも』、北高に進学してきたのが『涼宮ハルヒ』さんではなく、『僕』だったら――

「ここはそう言う世界なんだろうね」
「概ね――ビンゴ……」
「そしてパラレルワールドと言う言葉から、世界が2つ……あるいはそれ以上の世界が並行して存在している。そうじゃないかな、九曜さん?」
「不正解を……撤回――」
 本来なら一瞬の間を置かずして『何寝言言ってるんだ佐々木。勉強のし過ぎで脳みそがだいぶお疲れのようだな』などと言いたくなるところなのだが、しかし俺は『なるほどな』とだけ言葉をかけるに留まった。
 なぜなら、佐々木の言うIFの世界と言うのは既に体験済みだからである。

 ――長門が起こした世界改変。
 廃棄予定だったジャンク情報の処理能力が追いつかず、それなのに誰にも助けを求めることなく一人苦しみながらも淡々と作業を行い、そして起こってしまった悲劇。
 ――『もしも』、『涼宮ハルヒ』が何の能力を持たない『一般人』だったら――
 佐々木が説明したように言い換えるとこんなところだろうか。
 確かにあの時の一件と今回の一件。力の出所や目的などが違うから単純な比較はできないが、創造された世界がオリジナルの世界に準拠しているとなると二つの世界は確かに酷似しているものだろう。
 そして、異なる部分もまた。
 先ほど佐々木が説明してくれた、二つの世界の混在。
 各自の能力が消失されたあの世界は、元の世界を違う可能性で塗り替えた、上書きの世界。
 対してこちらは、元の世界とは別に作られた世界に別の可能性を植え込んだ、複製を弄くった世界。
 PC上のデータベースで言えば、前者は元のファイルを少し編集してそのまま上書きされたファイル。後者はバックアップを取って、片方を編集している状態。そんな感じだろう。
 およそ佐々木が言いたかったのは、こんなことであろう。なるほど。
 しかし。
「佐々木。では橘この世界に来ていると言う確信はあるのか?」
 俺が一番に感じた疑問ぶつけると、佐々木は
「無きにしも非ず、と言ったところだね。絶対とは言い切れない。しかし可能性の高いものから順次リサーチしていくしかないのもまた事実だからね」
 佐々木が言うには、橘は佐々木とハルヒの立場を入れ替えることを目的として我々に近づいてきた。ならばその願いが叶っているこの世界に入り浸ってると考えても不思議じゃないだろう、とのことだが……
 あいつが望んでいたのは、『立場』じゃなくて『能力』だったと思うんだが。
「それは建前だ。彼女……いや、彼女が所属する『組織』が必要としているのは、その筋でのアドバンテージ。彼らが神格化している偶像に『能力』を付け加えれば、より多くの人を引き込めるからね。早い話、タチの悪い宗教みたいなもんさ」
 自分のことを偶像呼ばわりするとは、佐々木も『組織』にあまり良いイメージを持っていないみたいだ。橘のようなやつに引っかきまわされいてたら分からなくも無いが。
「オリジナルの世界では『機関』の方が優勢だけど、涼宮さんと入れ替わったこの世界では、『組織』の方が活発化しているだろう。つまり橘さんが考える理想の世界になっている、そう考えたんだ」
 なるほど……
「九曜さんがここにいたのは予想外だったけど、でも居てくれた事に越したことはないしね。彼女を見つけるために大いに力になってくれるだろうし」
 そうだ、思い出した。
「九曜、お前はそうすると長門と入れ替わったってことになるのか?」
「――――かもね……」
 かもね、ってお前……
「詳しくは……分からない。この世界は――匂いが…………不安定――」
 大さじ3杯分くらい意味不明だが、恐らく九曜でも予測不可能な世界であるということだけは雰囲気で分かった。
「それじゃ、この世界のハルヒや長門や朝比奈さんなんかの存在は……?」
「――ブラウン運動……」
 ランダム、ってことだろう。こいつの思考パターンから考えるとそんな意味に違いない。何となく分かってきた。
「キョン、こう言っちゃ失礼かもしれないけど、涼宮さんやその他の人はこの際気にしなくていいと思うよ。オリジナルの世界では存在しているだろうし、この世界に居る必要性も無いからね。いま必要なのは橘さんの存在だけだ」
 うむ……確かにそのとおりかもしれない。例え長門が存在したとしても、力になってくれなければ意味が無い。九曜と入れ替わっていると言うことは、最悪の場合敵対している可能性もあるわけで、余計なコンタクトをして返り討ちになるのは非常に困る。
 この世界の3人娘の性格がどのようなものなのかは果てしなく気になるが、ここは一つ涙を飲んで無視することにしよう。
「それでキョン、その橘さんの存在についてだけどね」佐々木は人差し指を立てて、「九曜さんと僕がそれぞれ長門さんと涼宮さんと入れ替わっているならば、橘さんも入れ替わっているんじゃないかと考えるんだ」
 ああ、ならば橘は古泉と入れ替わっているてことになるのか!?
「うん、その通り。これで橘さんがそこにいたら早速ミッションコンプリートだ」
 佐々木は嬉しそうに喉を鳴らした。
「ということでキョン、すまないけど古泉さんのクラスに案内してくれないか?」
 了解。あいつのクラスは特進クラスだから少し離れたところにあって……ん?
「? ……どうしたんだい?」
 重要なことを忘れてた。
「佐々木、お前の考えで行くと、橘は古泉のクラスにはいないぜ」
「な……どうして?」
「古泉はな、この時期まだこの学校に来てなかったんだよ。あいつは5月に転校してきたんだ」
「ええっ!? 初耳だよそんなこと!」
「そりゃあ、お前にそんなこといった覚えも無いし、言う必要もなかったからな」
「ちょっと待って、ということは、あと一ヶ月はこの世界で暮らさないといけない、ってことに……」
 そうなるな……
「はあ……」
 ぐったりと肩を落として本気で凹む佐々木。気持ちは分からんでもないぞ。俺だって朝倉涼子という不透明感たっぷりの懸念材料もあるわけだし、なにより橘ごときを救い出すために貴重な人生一ヶ月分を余分に費やすだなんて本気で困る。
「いや、そういうことじゃなくて、あと一ヶ月もしたら終わっちゃうじゃないか」
 何が?
「……! いや、えーと、今やってるドラマだよ」
 一瞬ドキリとした表情を見せた佐々木は平静を装って答えた。
 我慢しろって。録画している友人をあたるとかよ○つべを漁るとかして見りゃいいじゃないか。
「そ、そうだね、そうするよ」
 不満を洩らした割にはあっさりと俺の提案を聞く佐々木。様子がおかしいのは火を見るより明らかである。
 何か隠していそうだが……とりあえず気付かないフリをしてみる。
 しかし……橘のためとは言え、一ヶ月この世界に付き合うのも馬鹿らしい。
「九曜、お前の力で一ヵ月後の世界に飛ぶことはできないのか?」
「―――――――――」たっぷりダッシュを並べた後「――可能…………だけど――無意味――」
 無意味?
「何もしない……ならば――――何も――――しないと…………同義――――時間と言う――物理量が…………加算される――だけ…………」
「ああ、なるほど」ポンッと胸元で手を鳴らし、「フラグを立てなきゃ何事もなく終わってしまうエ○ゲーと同じってことだよ」
 あのー、佐々木さん? お前今しれっととんでもない事を言わなかったか?
「仕方ないね、キョン。このまま一ヶ月過ごすことにしよう。僕達の何気ない行動でフラグが立つかもしれない。もし間違えてバッドエンドになりそうだったら、時間をまき戻せばいい。進めることができるなら巻き戻しも可能なんでしょ、九曜さん?」
「――――」
「うん、分かった。なら早速行動を開始しよう。僕とキョンが付き合っていることをカミングアウトするのは今から一週間後くらいがいいかな。それともゴールデンウィーク前のサプライズとして……いやいや、もう一つイベントをこなしてから……」
 良く分からない例えその2で場を混乱させた後、佐々木は一人でなにやらブツブツ言いながら指折り数えていた。俺の詰問などまるで無視。
 ……なぁ佐々木、お前この世界をエ○ゲーと勘違いしてないか?

 




 橘が居なくなった途端、取って代わるように胡乱な人物へと豹変した佐々木は軽く放って(というかこちらの相手もしてくれなかったわけだが)この日は解散となり、翌日改めて九組を探索しようということになった。念のため。
 そして翌日。早速俺と佐々木は九組へと向かい(九曜は余りにもスローだったから置いてきた)、クラス内を散々見渡したのだが、やはり橘の姿を発見することはできなかった。もちろん古泉の姿を発見する事もなかったが。
 このクラスの人物を全て覚えているわけではないが、坂の下の高校生とエクスチェンジした記憶も含め何度か見る顔ばかりであったし、オリジナルの世界との相違は古泉が橘と入れ替わっていると考えるのが妥当だろう。
 となれば、やはり一ヶ月は黙って過ごす羽目になるわけだ。やれやれ、なんてこった。
 橘、お前のために一ヶ月束縛されることになったんだから、その分慰謝料請求するからな。覚悟しとけよ。
 ということでつまり、高校一年の春を再び過ごし始めることになったわけである。

 さて、どうしようもんかね。
 俺の記憶にあるとおりだと、この頃は特に目立ったイベントがあるわけでもなく、その日暮らしで時間が刻一刻と過ぎたように思えるのだが、それでも涼宮ハルヒという人物が存在した以上、突飛的言動の片鱗を垣間見ることができていた。
 しかしこの世界ではその涼宮ハルヒが存在していない(いるかもしれないが佐々木曰くフラグには関係の無い)ということで、今まで以上に何も無い一ヶ月を過ごすことになる。
 早く帰りたいという気持ちはあるものの、どうせ叶わぬことだ。ならば気分を変えて、ちょっとしたタイムバカンスだと思えばそれでいい。ハルヒも橘もいない世界は宛ら束の間の休日だ。久しぶりに気苦労無しで生活できる。やったぜバンザイ。
 ――の、はずだったのだが。
 しかしこの世界においては、オリジナルの世界以上に珍事が発生していたのだ。
 どうせだからその一部を紹介しよう。
 という事で、珍事その1。
 ポンジー藤原がこの学校の生徒になっていた。
 ハルヒの代わりに佐々木、長門の代わりに九曜、そして未だ見ぬ古泉が橘が入れ替わったと考えるなら、その考えも当然予想の範疇にあるわけだ。
 ならばこちらも確認してみるかと一年九組のクラスを確認したついでに二年のクラスを拝見しに行ってきたのだが、その時判明した。
 つまり俺の予想通り、朝比奈さんの代わりにこの在籍してたのだ、藤原が。
 以下、その時の顛末を述べる。

 この時間は休み時間だから皆がそれぞれの知り合いと雑談をしているのは当然の光景であるが、そんな中一人椅子に座ってふてぶてしく黒板を眺めている奴がいた。
 言うまでも無く藤原である。
 元々お友達がいなさそうな性格をしているのだが、さらに突然一人でこんな世界にやってきたんだ。不機嫌になるのも仕方の無いことかもしれない。
 あいつにも、今回の一件について話した方がいいな。
 そう思って上級生のクラスに入り込もうとした瞬間、一人の女性が彼の前に忽然と姿を現した。
(あれは……鶴屋さん!?)
 進路変更。慌てて引き返し、ドアの前で様子を探ることにする。
「いようっ! 少年! 春だってのにそんな辛気臭い顔をしてちゃ陽気だって逃げていくよっ! もっと笑顔で陽気に学園生活を満喫しようじゃないかっ!」
「な、なんだあんたは!?」
「うーん、ホームルームで自己紹介したけど聞いてくれなかったのかなっ。あたしは鶴屋っていうんだ! 席も近いことだし、よろしく!」
「ああ、そうかい。僕は藤原だ」
「ほほおー! 藤原というからには、何だか古臭そうなイメージが付きまとうねっ。時の権力者然り、ハチロク然り。もしかして昔ながらの貴族出ってことはないのかいっ!?」
「ふん、そんな分けなかろう」
「うーん、残念っさ。なら逆に未来から来た時間調停者とか!」
「……! な、何を言ってるんだ!?」
「ふふふ、冗談に決まってるにょろ!」

 ……さすが鶴屋さん。あの無愛想な藤原も彼女にかかればタジタジである。
 そしてあの何かを悟ったかのような言い回し。俺の知っている鶴屋さんと同じである。彼女ならば色々と助けになってくれるかもしれないが……しかし今は話し掛けるわけには行かない。
 答えは簡単。今の俺は、鶴屋さんとの面識がないからだ。
 鶴屋さんを始めて紹介されたのは確かあの草野球の時だったから、少なくとも今回知り合うことはないのかもしれない。
 残念と言えば残念だが、しかし二ヶ月以上もこの世界に滞在する気にはなれない。涙を飲んでグッと我慢しようではないか。
 帰ってきたら藤原にどんな絡みをしたのか聞いておくことにしよう。


 話を元に戻そう。珍事その2。
 俺に対する谷口の扱いが異なっている。
 元々谷口と話すようになったのは席が近かった事もあるのだが、その際涼宮ハルヒという人物に対して警鐘を鳴らしてくれたことを覚えている。元々同じ中学校だったし、色んな情報が入ってきたのもあいつだった。
 しかし、俺の後ろの席に座る人物が違うだけで、その様子は一変した。
 以下、俺と谷口、そして国木田の会話である。

「なあ、お前の後ろの席の佐々木って奴。お前らと同じ中学校だろ?」
 ああ。そうだ。
「あいつ、どうなんだ?」
 どうって、何が?
「だから、性格とか、学業とか、その他風紀的なことだよ」
「もしかして、彼女を狙ってるの?」
「まあ……その、なんて言うか。俺的ランキングにおいて、このクラスの一位を決めるためだ」
 谷口は北高の一年女子全員を格付けしており、その上Aランク以上の女子はフルネームで覚えていた……って、俺の世界の谷口と一緒だな。
「うちのクラスは佐々木と朝倉、あの二人が現在の候補だ。容姿の面から双方Aランク突破は確実。あとは性格やその他で補助点数を充て、総合ランキングが決めるわけだが、ついでにクラスの一押しも決めようと思ってんだ」
 オリジナルの世界では一押しは朝倉一人だけだったのだが、そこに佐々木が参戦してきた形になる。
「面倒見の良さそうなのは朝倉だが、しかし佐々木の優しさも捨てがたい。そこでいい情報があったら教えて欲しい。頼む」
 俺的注:『佐々木の優しさ』と言うのは、谷口が不注意で落とした食べかけのパンを嫌な顔一つせず黙って掃除してくれたときの事だろう。佐々木曰く、自分の机の周りが汚いままだと嫌だったから、仕方なく掃除してあげたとのことだが。
「彼女の性格は絶対良いに決まっている。朝倉も良さそうだが、また違った意味での良さって奴だ。甲乙つけがたいが、あの時の微笑みは二階級昇進も夢じゃない。もしかしたら北高で唯一のトリプルエーが誕生するかもしれないしな」
 ……ははあ、まだ佐々木と話したこと無いから色々と勘違いしているな。佐々木の本当の性格を教えたらどれくらいランクが下がるか見物だ。ならば教えてやろうじゃないか、佐々木の本性を。あのな谷口、佐々木は……
「佐々木さんはね、結構変わってるんだ」
 しかし、先陣を切ったのは国木田であった。
「まず口調がおかしい。女性と喋っている時は女の子っぽいんだけど、男子と喋る時は気難しくて神経質っぽい男性のような喋りに変わるんだ。気があって声をかけるのはいいけど、愚痴や薀蓄を語るような口調で話をされちゃ気が削がれると思うよ」
「な、別にそう言う意味で言ったわけじゃ……」
「それに彼女、気になる人がいるみたいだし……ね」
 国木田は意味ありげな目線を俺に向け、どういう意味なのか同意を求めてきた。
「……な! まさかキョン、お前らそう言う関係なのか!?」
 違う。断じてそんな仲じゃない。
「そうは言ってもね、キョン。彼女は市外の進学校を受験するって聞いていたのに、蓋を開けてみたら彼女は北高に来ていたんだ。中学の時のクラスでもこの話題には喧喧諤諤としてたけど、誰かさんを追っかけるためだった考えれば、なるほどさもありなんと納得できる結果に落ち着くんだ」
 市外の高校の受験に失敗したって可能性もあるだろ。
「それはないよ。実は僕もあの高校受けてきたんだ。親に言われて嫌々だけどね。でもそこで彼女の姿を見かけなかったんだ。同じ中学なら受験番号も近いから、彼女が受験していればその場で分かったはずなんだ。でも彼女はいなかった」
「それは何か? こいつと同じ高校に行くためにわざわざ蹴ったってことか?」
「多分……いや、おそらくね。佐々木さんの親交関係は良く分からないけど、キョンより仲の良かった女子もザラにいなかったと思う。それにキョンと話す時の佐々木さんはとても欣快だったしね」
「……つまり、昔の男が忘れられなくて、未だ尽くそうとする健気な少女ってわけだ……」
 こらこらこら。待て待て待て。
 国木田の根拠の無い憶測が、谷口の余計な妄想を深めているのが分かった。このへんでストップさせなければ絶対勘違いする。俺は慌てて会話に入った。
「だから俺はあいつとはそんな関係じゃ……」
 しかし、遅かった。
「お前ってば、女を泣かせるタイプだったのか!!」
「な!」
「くうぅー! 何という薄幸の美少女なんだ、佐々木さん! 俺はあなたに全面協力致します! 今の話を聞いてあなたのランキングは朝倉を抜いて優々トップに踊り出ました! トリプルエー確定です!」
 というわけで、ハルヒ並に人の話を聞かない谷口は、何を勘違いしたのか北高女子一年総合ランキング一位に佐々木を指名してその日は幕を閉じた。
 佐々木とハルヒが変わっただけで、谷口のキャラはこうも変わるのだろうか。俺は今更ながらこの世界がパラレルワールドだったということに感謝した。本当の世界でこれだったら生きていけない。
 因みに、俺は谷口的ランク番外編、非道鬼畜ランキング部門で堂々の一位を獲得したことを付け加えておく。
 うれしくねー。


 珍事その3。
 先の谷口のせいで、俺という人間がとてつもなくスケコマシだという噂が広まってしまい、4月も終わる頃には一部を除きうちのクラスの女子は俺に取り合おうともしなくなってしまった。
 このクラスの女子で俺に話し掛けてくるのは、今や健気な女性で同性異性問わずクラスの人気者になった佐々木と、そしてもう一人。
「ねえ、あなたに対して変な噂が流れてるけど、あまり気にしないほうがいいわ。大丈夫、根も葉もない噂だって、あたしも皆に言い回ってるからそのうち治まるわ」
 第三者にすら親身になってくれる朝倉涼子だけだった。
 委員長みたいに気を使ってくれるのは、彼女が委員長だからである。このまえのロングホームルームで決まった。この世界でもやっぱり学級委員長にふさわしいようである。
 だが、俺の知っている朝倉は俺の命を狙ってきているはずで、この世界においても油断はできないのは先に述べたとおり。
 ……とはいえ、この状況だと朝倉の言葉は天使の囀りにも近しいものがある。こう言われれば顔が緩んでしまうのは仕方の無いことだろう。
 それを見た谷口の負のオーラが更に助長されてしまうのは……俺のせいではないと願いたいね。
 そして佐々木、お前も何故こっちを見て睨んでるんだ?

 




 そんなこんなで俺や佐々木、そして九曜と藤原がこの世界に来て一ヶ月が過ぎた。
 これだけ無駄な一ヶ月を過ごしたことは他に無いだろう。朝から晩まで甲子園を見続けて過ごす夏休みよりも酷い。藤原の言葉を借りるならとんだ茶番に付き合わされたといってもいいだろう。
 しかし、俺達の苦労はこれで報われるはずだ。
 長期連休が終わりを迎え、新しい月が始まる。
 それは即ち、橘京子の所属する『組織』が、彼女を送り込むために転入手続きを終えた頃だろう。
 そして橘を連れ戻し、これでこの世界ともオサラバ。
 一ヶ月ぶりに元の世界へと戻ってこれるのだ――
「何ぼうっとしてるんだい、キョン」
 後ろから俺を呼ぶ佐々木の声が聞こえた。
「足が疎かになっている。あと30%は早く漕がないと、僕達は遅刻してしまうだろう。因みに僕は生徒指導室のお世話になりたくないな」
 ならそこから降りて走れ。そうすりゃ今より早く辿り着ける。
「後無体なことを言わないでほしいな。か弱い女の子に乱暴なことを言うと、またクラスの女子を敵に廻すことになりかねないよ。誰のお陰で女子の誹謗中傷から免れたと思っているだんい?」
「へいへい、佐々木様のお陰ですよ」
 確かに佐々木のおかげで女子からの信用を取り戻すことができたのだが、しかし正直に言うと佐々木の貢献度は贔屓目に見て半分。それよりもロングホームルームの時間、委員長の朝倉が皆に毅然と言ってくれた時の方がよっぽど助かった。
 だが本音を漏らすと不機嫌になること請合いだろうから敢えてそう言わざるを得ないのである。
「分かればよろしい。……そうそう、妙案を思いついた。通学中足取りの重い僕を見かけたキョンが、調子悪そうだ大丈夫かと自転車の荷台に乗せてってやろうと声をかけたから遅くなってしまった。これでどうだい。口裏合わせておこうか?」
 ったく、口の数だけは減らないやつだ。

 ……さて、今の俺達の状況がわかってもらえただろうか。感のいい人間ならば大体理解しえたのだろうと思われるが、それでも分からんと言う人のために少し解説しよう。
 俺は今、自転車の荷台に佐々木を乗せて通学しているのだ。
 はい、説明終わり。
 ……はいはい、もっと詳しい説明ね。分かってるよ。
 何故そんなことをしなければいけないのかと言うと答えは簡単だ。今日の朝、つまり連休が明け今週始めて学校に行くことになった日、何を思ったのか佐々木は俺の家を訪ね、そして一緒に学校へ行こうといいだしたのだ。
 何故かと問い質しても、別にいいじゃないか、減るものじゃないしと言うだけで取り付く島も無い。ああだこうだ言ってるうちに急がないと遅刻するわよと母親にどやされ、仕方なく佐々木を乗せて全速力で漕いできたのだ。
 本来なら今日は早く学校に着いて、転校生がいるかどうか確認しようと思ってたんだ。そこで橘を目にすれば話は早いしな。少しでも早く元の世界に戻れるチャンスだったんだぞ。
 今からじゃ急いで行っても転校生の顔を拝めそうに無い。早くても一時間目の終了後の休み時間だ。
「そうだね」
 そうだね、って、何て悠長に事を構えているんだ。
「……いや、久しぶりだっだからね、こうやってキョンの荷台に乗せて貰うのは。過去のメモリーを想起したところで誰にでも咎められるものじゃないと思うんだけどね」
 佐々木を荷台に乗せて、足繁く塾に通ったのはもう2年も前になるのか。確かに久しいと言えばその通りだ。もっとも、ここでは数ヶ月と経ってない光景だろうが。
「キョンはさ」佐々木は列車の窓から顔を覗かせる子供のような顔をして「こうやって僕と通学するのは、嫌かい?」
 嫌ってことはないが、ただ毎日となるとこれはこれで結構しんどい。たまにはお前が自転車を漕ぐ立場になってくれれば考えてやる。お前も自転車通学だろう。それでどうだ?
「妙案だ」佐々木は喉を鳴らしながら「けれど無理に一台で通学する必要もなかろう。それならば最初から二人別々に通学すればいいんじゃないかな」
 お前が提案したんだろうが。
「僕は二人で一緒に通学することを提案したのであって、一台の自転車で通学することを提案したわけじゃない。キョンがお望みなら、それでも構わないけどね」
 喉を鳴らす音が一際大きくなった。機嫌のいい時は、決まってこう言う笑い方をする奴だった。
「佐々木、シュレディンガーの猫って知ってるか?」
「コペンハーゲンによる収縮解釈とエヴェレットによる多世界解釈があるが、どちらをお望みかな?」
「……いや、なんでもない」聞いた俺が馬鹿だった。

「……結局ね、今日で最後なんだよ、この世界とは」
 それまで喉を鳴らしていた佐々木は、それまでと打って変わって抑揚の無い口調で進行方向に左90°顔を背け、そしてポツポツと喋りだした。
「こうやって、おんぶに抱っこできるのは今日限りだろう。元の世界に戻ったらそう言うわけにはいかない」
 学校が違うからな。
「ああ、そうだね……」
 ローテンション気味の佐々木のテンションは更にマイナス成長を遂げ、そしてそれ以降沈黙が続くことになってしまった。

 




 坂の下の駐輪場に到着した時には予鈴まであと五分を切っており、俺達は高冷地トレーニングの如く坂を一気に駆け上る羽目になった。それでも遅刻という最悪の事態を免れたのは、俺の日頃の行いが良かったせいだろう。
 教室のドアを開けると同時にホームルームを知らせるチャイムが鳴り響いたのだが、ドアを開ける音を掻き消すには至らず、俺達を除く全員の目線が一気に集中した。別に遅刻したわけじゃないからそんな目で睨まなくてもいいじゃないかと思うんだが。
 中でも、恨めしそうな目線を送る谷口と、暖かく見守るような国木田の微笑みが特に目障りだ。変な勘違いをするんじゃない。
 ……ん、今別の視線を受けた気がするが……気のせいか?
「キョン、何故か突き刺さるような視線を感じないか?」
 俺だけに聞こえるよう、佐々木は小声で語りかけた。お前も感じたのか。ってことは気のせいじゃないんだろうが……一体誰だ?
「おい、そこの二人。ホームルーム始めるから早く席につけ」
 直後に入ってきた岡部の声で我に返り、慌てて席につく。
 と同時に、先ほどの視線もなりを潜めた。一体なんだったんだろうな、あれは。

「……キョン、起きて。授業終わったよ」
 ……ん? ああ? そうか……
「本当に君は変わらないね。こんな時だってのに居眠りをするなんて大したもんだよ」
 古典の独唱なんてお経を聞いているに等しいからな。
「まさに馬の耳に念仏だ」
 うるさい。
「それよりもキョン、九組に向かうよ。転校生を確認するんだろ?」
 っと、そうだった。いけねいけね。
 俺は目覚めの儀式として両頬をパンパンと叩いて立ち上がった。

 さてさて、これでようやくこの世界ともお別れだ。いよいよ元の世界に戻れる。
 正直なところ、こちらの世界のハルヒや長門が一体何をしているのか見てみたかったが、元の世界に戻ると言う二者択一をされるならば俺の提案は無かったことにしていただこう。
 何だかんだ言っても、俺は元の世界に戻りたいのである。この世界に不備を感じているわけではないが、それでもここは俺の世界じゃない。
 帰巣本能と言うのは何も小動物だけが備えている能力じゃない。旅行や勤め先から帰省し自分の家に辿り着いてホッとするのは、帰巣本能の一部が潜在的に働いている証拠じゃないかと思うんだ。
 帰ったら何をしようかね。読みかけの本を読むのもよし、テレビを見るのもよし。それよりも残っている宿題を片付けるのが先決だが、それでも自分のベッドでゆっくり寝る事を励行したいね。
 複製された世界では落ち着けなかったから、少しくらいはいいだろ?

 だが。
 そうは思わない奴がいたのか、それとも別勢力の干渉があったのか。俺の願いは空しく散ることになってしまった。


 佐々木と共に急いで九組へと駆け出す。廊下は走っちゃいけないのだが、今はそんなことを言っている場合じゃない。
 早くしないと休憩時間が終わってしまう。少なくとも休憩時間が終わる前に、この世界に飛ばされた人物……つまり俺、佐々木、九曜、藤原、そして橘の全員を集め、もう一度次元断層へと飛び込まなくてはいけない。
 次元断層の入り口、言い換えれば俺達がこの世界へとやって来た入り口はこちらの世界にもあり、驚くこと無かれ、この学校の文芸部室のロッカーに存在しているらしい。この世界で始めて九曜と会った時に聞いた話だ。
 この次元断層の入り口と言うのは、どの世界でも殆ど同じ場所に存在するらしいのだが、この『殆ど』というのが曲者だ。
 超広領域を統括し、超巨視的な見解を持つ天蓋領域からすれば有効数字にして100桁以上一致するのであろうが、しかし俺達人間の目からすれば誤差の範囲は数百キロメートルにも及ぶだろう。
 こう言うところでは長門達の宇宙人の方がまだ人間と言うものを理解しているような気がするが……それは今回の一件とあまり関係が無いのでこれ以上は口にしないようにしておく。
 九曜はあの日(入学式当日)以来再び次元断層の監視をしている。あの日あそこにいたのはその理由もあるらしい。まかり間違って誰も入らないようにするためである。
 ……が、あいつはちゃんと授業に出ているのか心配になってきた。
 ともかく、そこに皆を集めなければいけない。俺と佐々木は二手に分かれてそれぞれ藤原と橘を回収して文芸部室へ行く算段を立てた。
 階段を駆け降り向かいの校舎まで一直線。藤原がいるクラスをガン見して……発見。
 しめた、鶴屋さんはいない。
 形振り構わず藤原の下まで駆け寄っておいと声をかけ、返事を待たずして彼の制服の袖を無理やり引っ張り再び走り出す。藤原が何やら叫んでいるが気にしている暇は無い。
 溢れんばかりのパワーがあるのはハルヒが異世界にいる俺に力を貸してくれてるからだな、などと心のどこか浮ついた部分でそんなことを思いながら、文芸部室に向かうため再び階段を降り、渡り廊下に向かい……
「キョン!」
 寸でのところで飛びとめられた。呼び止めたのは、佐々木。
「どうしたんだこんなところで。そろそろ休み時間が終わるぞ! 早く橘を連れて来い!」
「それが……」歯切れの悪い口調で、「橘さん、見当たらないんだ」
 は?
「教室を見渡してもそれらしい人はいないし、第一転校生がやってきた素振りすらないんだ」
 そんな訳あるか。古泉はこの時期にやってきている。SOS団は古泉を連れてきてようやく完成したんだ。その時の記憶は俺の心の片隅に保冷状態で摂ってある。
「クラスを間違えたとか、学年を間違えたとか……そんなことはないのか?」
「一度キョンと一緒に行ったじゃないか。早々忘れるもんじゃない」
「……わかった。部室棟に向かうのは後回しだ。九組に行く。藤原、お前もついて来い」
「ついていくのは構わないが、少しぐらい説明したらどうなんだ。時間平面が安定しないこの世界でどのように調整すればいいか……って、こら、置いて行くな!」
 藤原のぼやきに付き合うことなく、俺と佐々木はもう一度九組へと向かった。
 途中、二時間目を知らせるチャイムが鳴り響く。しかし今はそんな事に構っている暇は無い。
 むしろ全員が席について好都合だ。橘を確認し易いはずだ。
 誰もいない渡り廊下を疾走して校舎を移動。そして一番端っこにあるクラスまで小走りで走り出す。
 授業が始まっているから堂々見るわけには行かない。こっそりと覗き込む。
 そして、確認した。
 佐々木の言うとおり、橘の影も形もないことを。


 どういうことだ、一体? 橘の身に何が起きているというのだ?
 授業開始から遅れること数分。散漫とした表情で自分のクラスに戻った俺は、佐々木と共に白いんだか微笑ましいんだかいまいちピンとこない目線を再び浴びることになった。
 担当教官がまだ教卓の前に陣取っていなかったのは幸いだが、仮に叱られたとしても遅刻に反省することは無かっただろう。それよりも現状の方がよっぽど気にかかるんだから。
 だってそうだろう? 佐々木の仮説を信じるならば、この世界の勢力図はそれぞれ対立している組織同士入れ替わっているはずなんだ。
 ハルヒと佐々木が入れ替わっているのを基調として、長門の立場に九曜、朝比奈さんの立場に藤原。ここまで何の問題も無い。
 ならばこの時期に、古泉に代わって橘が転校してきたとしても、何もおかしくはない。
 この世界の規律因果則は大凡そのように成り立っているはずだ。
 しかし、何故橘は姿を現さない?
 (少し、整理するか……)
 ノートを開き、シャープペンを手にして世界の相違点を羅列した。

 




 ○パラレルワールドにおける世界のまとめ

 1.ハルヒを取り囲む集団と佐々木を取り囲む集団の立場が入れ替わっている
 2.ハルヒとその取り巻きはこの世界には存在しない(※)
 3.一年に変な女がいるという噂は流布していない(佐々木はハルヒと違い、まともな生活を送っているため)
 4.時間にしておよそ2年の開きがある
 5.この世界の人間じゃないのは、俺、佐々木、藤原、九曜、橘(※)
 6.それぞれ特殊能力は元の世界から引き継いでいる(※)
 7.元の世界とこの世界の因果関係は無く、仮にこちらの世界が崩壊しようとも元の世界には影響がない(※)
 8.朝倉の正体は、この世界における対人用情報コネクト端末(※)
 9.谷口のランキング

 




 ……うーん、こんなところか……
 シャープペンを唇の上にのせて踏ん反り返る。あ、因みに(※)は未確認、あるいは未確定事項だ。
 正直、この情報だけではなんとも言えない。それに未確認の事項も多すぎる。
 これはもう少し待って、様子を見るより他ないかもしれない。
 ちくしょう、5月になれば少しは事が進むと思っていたんだが、とんだお門違いだぜ、こりゃ。
 そりゃあハルヒが佐々木に入れ替わったから色々とやりにくくなったって事もあるだろうが、でも各勢力が監視をし始めてもいい頃だろうが。
 元の世界じゃ3年前から張ってるんだぜ。しかもそれぞればれない様少しずつ距離をおいてさ。
 結局みんなハルヒによって無意識のうちに人質に取られたような形にはなったんだけどな、SOS団が設立した5月の……
「……あーっ!!!」
 ――クラスの全員が俺の方を振り返る。
 しまった、重要なことに気付いて思わず声を上げてしまったが、今は授業中だった。
「……ど、どうしましたか? 何か質問でも?」
 いえ、その……
「先生」
 俺の返答を待たず、後ろの席の女子生徒が手を上げた。
「多分彼は黒板の書き写しをしている時に、間違いに気付いたんじゃないかと思います。ほら、因数分解の和と差の積の部分。共通因数の括りだしが間違っています」
「おお、そうか、すまんね」
 再び黒板の方を振り返り、指摘した部分を修正し始めた。
 俺はと言えば黒板とは逆の方向、つまり後ろの席の女子生徒である、得意げな顔をした佐々木を見据えながら暗澹たる気分で溜息をついた。
 どうやら借りを作っちまったようだな……やれやれ。


 キョン、何か思いついたようだね、橘さんの行方に対する重要なヒントと見受けられるが詳細をお聞かせ願いないだろうか。
 休み時間になるや否や、爆ぜるような笑顔を突きつけた佐々木は矢継ぎ早に言葉を口にした。
「まあ待て。念のため確認したいことがあるんだ」
 対照的に努めて穏健な対応を取る。今この場で言うわけには行かない。
「まず職員室に行って、転校生がいるかどうかを聞くんだ。そして今後転校予定の生徒がいるかもな」
「正攻法、というわけか」
 そうだ。それによって俺の予想が正しいか判断できる。
「わかった。ならば聞きにいこう」
 そう言って佐々木は俺の制服の裾を掴み、静々としながらも力強く歩き出した。
 今朝の哀切たる様はどこに消えてしまったのだろうか? というか何時の間にこんなに気性の激しい人物へと変化したんだこいつは?
 とまあ、そんな事情はさておき、職員室へ赴き、我らが担任岡部教諭に事の詳細を聞き出した。
 学生人事の内部情報なぞ一介の高校生に話してくれるかという不安もあったのだが、当の本人はそんなことなど気にする様子も無くあっけらかんと答えてくれた。『いや、そんなこと知らないな』と。
 親切に九組の担任にまで声をかけて確かめてくれたのだからありがたい。こちらの世界の岡部は相当親切な人らしい。
 ……いや、元の世界の岡部がつっけんとんと言う訳でもないんだが、多分俺に関わりたくないんだろうな、ハルヒのせいで。
 その件に関しては俺が元の世界に戻ってからゆっくり岡部に尋問することとして、それよりもほぼ俺の予想通りの展開になっていると考えてよさそうだ。
 そろそろこの世界の正体も読めてきたし、全員を集めて会合を開くとしよう。

 




 昼休み。
 一同を集めて文芸部室で会合を開いた。
 俺はハルヒの定位置、部屋の中央から窓側に依った場所に立つ。
 パイプ椅子に座るのは佐々木と藤原。藤原は面倒くさそうに長机に頬杖をついていた。因みに俺と古泉の定位置の部分。
 そして、長門の定位置にいるのは周防九曜。もっとも、こいつは座って本を読むのではなく、その場に立ち尽くして天蓋の方向を見ているだけだが。
「我々は橘を追ってこの世界までやって来た。既にお気づきの通り、この世界は元の世界に準じており、大きく異なるのはその勢力図だけだ。自分達の立場や能力には変動がないだろう」
 佐々木は鷹揚に頷き、藤原はそっぽを向く。そして九曜は冷徹な沈黙。三者三様ではあるが肯定の意味を示している。
「そして、恐らく橘もこの世界の法則には抗えないだろう。この法則に依れば、彼女は5月に転校することになっている。しかし、未だその姿を見せてはいない」
 最初はどうして橘だけこの法則が適用されないのかと動揺したりもしたのだが、しかしようやく判明した。
「俺は重要なフラグを見逃していた」
「重要な……」
「フラグ……?」
 そう、しかも2つだ。
「な……2つだと!?」
「キョン、どうして今までそれに気付かなかったんだ? 一つだけならともかく、2個も見逃せばトゥルーエンディングなど夢のまた夢だ」
 佐々木、それは違うぞ。最初からハッピーエンドを迎える訳じゃないんだ。エ○ゲーだって何度もバッドエンディングを迎えてようやく真のエンディングを迎えるものだろ?
「うむ。確かに。最近だと最初の一回はわざとバッドエンディングを迎えさせる悪辣なのもあるしね。プレイ時間が一定時間を超えないとバッドエンディングになるのなんて、もやはクソゲーといっても差し支えない。あれには流石の僕も憤慨したね」
「……ああ。そうだな」
 エ○ゲーを引き合いに出した俺に、それ以上の珍解答をする佐々木。腐の方向に向かいつつあるのは……橘のせいということにしておこう。
「そういうわけで、俺達がこの世界で行った行動は間違ったことになる」
「それじゃ、この世界でいくら待ってても橘さんは現れないと?」
 そう言うことになる。
「だとして、どうする気だ? 世界をリセットするつもりか? 言っておくが、過去の時間に遡進することはできないからな。この世界でTPDDを使用したらどんなことになるか分からん」
 大丈夫、お前の力を借りなくても、この世界の時間を戻すことはできる。な、九曜。
「――――」
 次元断層とやらを通って、一ヶ月前のこの世界に戻れることは可能なんだろ? 沈黙は肯定とみなすからな。
「――――」
「と、言うわけだ。少々遺憾であるが、もう一度この世界の初めからやり直して、正しい答えを導き出すしかない」
 二人は嬉しいような悲しいような、複雑な趣で「ああ、わかったよ。しょうがないな」とか「橘がいなければ仕方あるまい」と納得してくれた。
「よし、そうと決まったら戻るぞ。準備はいいか?」
「あ、ちょっと待って」
 どうした、佐々木?
「先ほどキョンが話していた『2つのフラグ』について教えてくれないか? そのフラグを立てなきゃまた同じことになってしまうのだろう? ルーティーンワークはさして嫌いじゃないけど、二度手間と言うのは避けたいからね」
 道理だ。というか、そのうちの一つは佐々木にやってもらわないといけないことだったから、どちらにしてもお願いするつもりだった。
「で、一体何なんだ、そのフラグとやらは」
 それはだな……

 




「……! なっ……! 本気か、キョン!」
 えらく本気である。
「そ、そんな恥ずかしいことできるわけが無い!」
 気持ちはわかるが、事実だから仕方あるまい。
「もっと他のソリューションだってあるはずだ、よく考えてみてくれないか?」
 仮にそんな方法があっても、実践したところでフラグは立たないぜ。全ては『ソレ』から始まったといっても過言じゃない。逆にいうと、今回は『ソレ』が無かったから間違った可能性へと世界が動いてしまったんだ。
「うう、しかしだな……」
 その場で崩れ落ち、愕然とする佐々木。疲弊困憊する彼女の姿を見て、
「くくくっ、はははっ。これはとんだ茶番だ。時間は不可逆的にしか進行しないが、始点は必ずしもゼロではない。それを裏付けるとはな…… この世界に飛んできて良い事は匙にも満たなかったが、ようやく楽しめそうだ。ゼロ次接遇以来の娯楽だ」
 嘲笑めいた喋りが部室内に蔓延した。
 藤原、火に油を注ぐんじゃない。佐々木のポーズが失意体前屈になってるじゃないか。
「いや、だってこれは……うぷぷぷ」
 あーあ、佐々木の顔に縦線が入ってきた。しかも『ず~ん』って効果音つきで。
 ありゃかなりショックなんだろうな……
 勘違いしないで欲しいが、決してこいつを笑わせるためだとか、佐々木をコケにするためのお願いじゃない。それが証拠に、俺は大真面目に話しているつもりだ。
 それに、あいつだってそうだったんだし……
 だから佐々木を立ち直らせるために、言ってやったのさ。
「橘をさっさと連れ戻して、元の世界に戻るために必要な措置なんだ。お前だって早く帰りたいだろ? 確か見たいドラマかなにかあるんじゃなかったけか?」
「……! そ、そうだった。僕にはやるべきことがあったんだった……」
「上手く言えたらご褒美もやろう。デ○アナのバッグがいいか? それともヴ○トンの方か? どっちでもいいがハルヒには内緒だからな」
「やるっ!」
 ありがとう単細胞。
 かくして、俺達は九曜の案内の元、一ヶ月前のこの世界に逆戻りすることになったのだ。


 あ、そうそう。2つのフラグのうち、残ったもう一方は『古泉が転校してきたのは実は5月の中旬で、連休明けの日ではなかった』という事実だ。
 つまり今日は元々転校生がやってくる日じゃなかったのだ。
 ……ああ、俺が悪かったよ、すっかり失念してた。だから佐々木の目を晦ませて誤魔化したんだ。第一佐々木の行うべきフラグが立たなければ、どれだけ待ってても橘はやってこないだろうし。
 あと、バッグの費用は、橘を救出した代金として『組織』から捻出してもらうことにするんでよろしく。

 ……誰だ、俺のことを『甲斐性なし』と呼ぶ奴は?

 




 過去に戻ってやり直すというのは、つまりゲームの世界でリセットボタンを押して都合の良い世界に塗り替えることに他ならず、まさかゲーム以外で本当にそんなことができるとは夢にも思わなかった。
 時間を遡行した経験は過去にも二回ほどあるわけだが、その時と違って何度でもやり直しが利くし、それに元の世界に影響を及ぼさないのであれば正直なところ何をやってもオッケーということである。
 そう言った意味では非常に楽しい世界じゃないかと思うね。
 だけど、ここは俺がいるべき場所じゃない。俺だけじゃなくて佐々木達もそうなんだが、この世界は俺達の世界とは似て非なるもの。そして俺達はこの世界に在らざる存在なのである。
 そんな世界に長居をしている理由は、もちろんこの世界に迷い込んだであろう橘京子を救い出すためなのであるが、困ったことにどこにいるのかまでは分からない。
 推測はできるのだが、決定的な証拠も無い。加えて藤原や九曜の能力も完全に行使することができないとなれば、何としてでもフラグを立てて、橘を転校させなければいけないのである。
 佐々木はエ○ゲーでこの世界を例えていたが、それは強ち間違っているわけではなく、正しい選択肢を選ばなければ、俺達は元の世界に帰ることすらできないのだ。
 リセットは何度でもできるようだが、ゲームばかりやってちゃロクな大人にならない。子供の頃に散々親に言われた台詞だが、今ならその意味が分かる気がする。
 というか、こっちが疲れる。
 決して面白いゲームでもないが、しかしクリアをしなければいけない。
 俺達に課せられた使命は、まさにそんなものだった。


 こめかみの辺りにただならぬ感触を感じた俺は反射的に起き上がり、妹の顔面ドロップを受けることなく起床することができた。
 妹は重力に逆らうことなくそのまま落下。俺の身代わりとなった枕にニードロップをかました。
 こら妹よ。いくらなんでも寝ている人にニードロップをかまそうなんざ人としてどうかと思うぞ。
『だってキョンくん、何回乗っても起きなかったんだもん』とは妹の弁で、俺は妹の習性その3、『ボディアタックで起きなかったらニードロップをする』とド○クエ宜しく深く心の中に刻み込んだ。
 直ぐに起きなかったのは多分色んな意味で疲れが溜まってんだろうと勝手に解釈し、しかしながら目覚めはバッチリであったことから特に問題ないのだろうとこれまた勝手に判断した。
 一ヶ月前、始めてここにやってきた時と同じ行動をする。
 真新しい制服に真新しい鞄。確認はしてないが教科書類も全て新品。
 そう、一ヶ月前に戻ってきたのだ。

 念のために妹に今日の日付を確認し、間違いないことを悟った後、お古の携帯電話を手に取った。
 佐々木に連絡を取るためだ。無事に戻ってきたら連絡を取り合うことを約束していたのだ。
 佐々木の家の電話番号を調べるため、携帯電話を操作する。ここ一ヶ月で大分操作方法も思い出してきた。前回よりも数秒速いペースで操作し、ショートカットキーを使ってサ行の電話番号を一覧する。
 そして。
「……載ってない、か……」
 一度は登録したのだが、時間が戻っているのであれば当然であろう。
 しかし、こうなる事は予想済み。一応念のためにと佐々木の家の電話番号を諳んじれるようにしておいたのだ。
 何かにメモする事も考えたが、ワープした時点でその紙を紛失してしまうことも予想される。
 時間をリセットしても戻らないのは、己の記憶のみ。ならば脳に直接叩き込むより他は無し。
 同じ市街地だから市外局番も同じ。その後の番号も然して覚えにくいものではない。順々にボタンを押して、発信ボタンに手をかけると、ディスプレイされた番号と同じ番号から着信が来た。
 紙一枚の差で向こうが早かったか。別に勝負していたわけではないが、少し悔しかった。居留守使って掛けなおそうか。
 嘘だよ、そんな辺鄙な部分でプライド勝負している場合じゃない。
「もしもし」
『やあ、キョン、久しぶり。かれこれ一ヶ月ぶりだね』
 その一ヶ月と言うのは、卒業式から一ヶ月ぶりという意味か、それとも5月の連休明けから一ヶ月ぶりという意味なのか、どっちなんだ?
「もちろん5月の連休明けから……なんだけど、時間を逆戻りしているから少しおかしい気がするね」
 違いない。
「無事戻ってこれたんだね」お前もな。「まあ、ね。確認も終わったし、このまま北高に向かうとするよ。あまり気乗りしないけど……」
 以前よりも早く電話を切った佐々木は、どこかローテンションだった。
 その理由は、すぐにわかるさ。

 




 妹に起こされたのが幸いしたのか、それとも朝の電話が短かったことが功を奏したのか。ともあれ今回は時間に余裕を持って北高の坂を登りあがることができた。
 慣れない坂を一生懸命登りあがる新入生(といっても同級生だが)を見てアドバンテージを感じてしまうのはどういったことだろうか。はっきり言ってリサイクル原料ほどの役にも立たないチンケなプライドなんだけどな。
 そのチンケなプライドは入学式が始まってからも健在で、同じ学校、同じ学年で、3回も入学式を受けたのは全世界を見渡しても俺一人なんだろう、どうだすごいかまいったかとズラ校長の言葉に耳を傾ける生徒達にアピールしてみた。
 そんな時間つぶしをしながら教室へと戻り、そして累計3回目となる高校初のホームルームが始まった(初めてが3回目って、何かおかしいな)。
 岡部の自己紹介も、部活の誘いも、そしてその他生徒の自己紹介も3回目となる俺だが、自身の自己紹介も3回言ったことになる。大体同じ事を言ったんじゃないかと思うけど、多少違ったところで些末な問題にしか過ぎないだろう。
 しかし、何もかもが3回目ではない。均衡は俺の次で破られる。
「よし、それじゃ次」
 俺の後ろの奴がすっくと立ち上がり、出身校と名前を流暢な言葉で紡ぎだす。ここまでは問題なかった。
 そして――
「た、ただの人間には興味ありません! こ、このなかに……う、宇宙人、未来人、超能力者……あ、あと異世界人がいたら、わ、わたしのところにきなさいっ! いじょお!!」
 ――多分、俺を除く皆が一斉に振り向いたんじゃないかと思うね。さあて、俺もそろそろ振り向くか。確か『ここ、笑うとこ?』とか考えながら振り向くシーンだったけな。
「…………」
 俺の顔を見た瞬間、即座に着席してその場に蹲った女子高生はもちろんハルヒではなかった。
(……辺りを見渡してから憮然とした表情で着席しろって。あと最後の声が裏返ってた。それ以外は及第点かな)
 声を潜めて喋る俺の言葉に何も反応せず、佐々木は顔を伏せたまま玄武岩のように沈黙していた。
(キョン……恨むからね……)
 あ、喋った。
 もっと落ち込んでいるかと思ったけど、思ったより元気そうでだったんで何より。
 佐々木、よかったな。ここの学園生活は楽しくなりそうだぞ。
 お前の通ってる高校には物理法則を揺るがすような出来事がなかったんだろ? 丁度いい、この世界で物理法則どころか万有の規律をもひっくり返すつもりで遊んでみたらどうだ? どうせ元の世界には影響無いんだしさ。
 魔法以上のユカイな高校生活があれば向かうトコ無敵に違いないぜ。


 とりあえずはめでたしめでたし。


 ……って、橘を連れ戻すのが目的だったっけ。



 ※橘京子の消失(中編)に続く

 

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最終更新:2020年03月12日 00:35