プロローグ

 

たぶん……いやきっと予感はあったのだろう。その日、電車の窓越しに見える街はどんよりとした雲に覆われて肌寒く、いまにも雪が降ってきそうだった。あの日と同じように。
いつもと同じように電車に乗り、見慣れた景色を眺めながら、今日あった出来事や明日の仕事のことについてぼんやりと考えていた。
車両の中はわたしと同じ帰宅途中のサラリーマンで、通勤ラッシュには及ばないものの、そこそこ混み合っていた。ガタン、ガタンという電車の音と車内のざわめきがわたしの耳に届く。
いつもと同じ何気ない日常のひとコマ。こうやって昨日と同じように今日が過ぎていくことに一抹の空しさを感じながらも、どこかでそれを諦めて見ている自分がいる。
大人になるということは、あらゆる可能性を秘めた何者でもない子供から、何者かになるということ。存在を確立する代償として可能性を奪われる。
それは誰でも同じ。いつまでも子供のままでいることはできないのだから。いまは小さな子供でも、いつかは大人となり社会へと踏み出すのだから。
そう、頭では理解しているつもり。それでも、繰り返す日常の息苦しさを感じるたびに、社会人ではなく学生だった頃は確かに持っていたはずの何かを失くしてしまったような焦燥感に襲われる。
一方で、わたしが学生時代と比べて何も変わっておらず、このような感傷が現在の鬱屈した不満や思い通りにいかない現実からの逃避であることも認識している。
だが、それを認識してもなお、わたしの心は学生時代に持っていた何かを失くしてしまったためにポッカリと穴が開いてしまったような気持ちに陥るのだ。
小さく溜息をついて再び窓の外に視線を移すのと同時に、車内に停車駅を告げるアナウンスが流れ、ガタン、ガタンという音がキーッというブレーキ音に変わった。
電車が家と職場のちょうど中間の駅に停まり出入り口の扉が開くと、冷たい冬の風とともに少々騒がしい男女の二人組がわたしの乗る車両へと乗り込んできた。
「公共マナー」という言葉が頭をかすめ、その騒々しさにすこし顔をしかめながらも、どこかで聞いたことのある声だなと思いチラリと彼らの姿を見て、わたしは思わず息を呑んだ。
乗り込んできたのはキョンと涼宮さんだったのだ。ふたりはわたしが電車に乗っていることには気がつかず、他愛ない痴話げんかをしながら空いていた席へと腰を下ろした。
初恋の人と恋のライバルに帰宅途中の電車で偶然であった。客観的に見ればただそれだけの出来事。だが、わたしにとってはそんな軽い一言で片付けられるものではなかった。
彼らの姿を見た瞬間、わたしの中の時間は止まり、車内のざわめきはまったく聞こえなくなった。電車の外の世界は一瞬にして消滅し、車内にはキョンと涼宮さん、そしてわたししか存在していない。
周囲にいる乗客はわたしにとってまるで意味をなさない置物と化していた。身動きひとつとれず、ただ呆然と彼らふたりの行動を眺めていることしかできなかった。学生時代と同じように。
キョンの顔を見て、郷愁に胸がかきむしられようにせつない。そのしぐさのひとつひとつ、指先の動きから表情のほんのちょっとした変化、心臓の鼓動する動きさえもが、まるですぐ近くで観察しているかのように鮮明に見える。
その声は乾いていたはずの心を揺さぶり、記憶の底へと押し込んでいたはずの苦い想い出の封印を解き放つ。
あの日の情景がよみがえり、キョンの手が顔が目の前にあるような錯覚に陥る。わたしを呼ぶキョンの声、その温もり、幻だと分かっていても手を伸ばすと届きそうだ。
確かに触れたはずの唇の余韻がわたしに失恋の苦さを思い出させ、涙が溢れそうになるのをぐっと堪えた。
ずっと、ずっと彼らの傍に、キョンの隣に寄り添いたいと思っていた。だが、その願いは叶わぬままふたりの姿を遠くから眺めているだけで年月だけが過ぎ去っていった学生時代。
だが、チャンスは突然巡ってくるものだ。あれは確か来年に卒業を控えた学生生活最後のクリスマスも終わり年の瀬が迫った日のことだった。あの日も今日と同じように雪の降りそうな肌寒い日だった。

 


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