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 全身を包む柔らかく暖かな液体、そこは何一つ危険の無い穏やかな場所。
 この上ない安らぎの中で私は生きていた。
 時折、私がいる場所を外から誰かがそっと押す事があった。
 それが誰なのかを知りたくて、私は押されている場所を押し返してみる。
 すると――
「あ、起きてるのね。……ふふ、元気かな? ママですよ~」
 優しい声が私の居る空間に直接響いてくる。
 その声を聞くと何故か私は嬉しかった。
「あ~もう、早く会いたいわ」
「どんな子なのかな?」
 自分をママだと言うその人は、私に何度も何度も話しかけてくれる。
 その内容の殆どは意味がわからなかったけれど、ママの声を聞けるだけで私は満足だった。
 けれど――
「ふぅただいま」
 ママとは違う、低い声。
「遅い! 罰金!」
「……その口癖、いい加減にどうにかしないか? 俺の小遣いが残ってないのは知ってるだろ」
「だ~め。ほら! お金が無いならいつもみたいに体で払うの!」
「へいへい」
「――へへ~。おかえりなさい!」
「おい! 急に抱きつくな! 子供が潰れるっ?!」
 ……その低い声が聞こえると、ママの興味は私から離れてしまう。
 自分の事をパパだと名乗るその低い声の人が、私は嫌いだった。

 


 ママによると、パパは不器用らしい。
「ほら、そんなそっとじゃ赤ちゃんにわからないでしょ?」
「お前はそう言うけどな……強く押したら出てきちゃうんじゃないかって不安なんだよ」
「馬鹿ね~出るわけないじゃない。ね、押し返してくるのがわかるでしょ?」
 嫌、パパには押し返したくない。
「……わからん」
「ちゃんと触りなさいよ! ふふ……男の子かな~? 女の子かな~?」
 私の事?
「最近は調べさえすれば産まれる前に性別はわかるらしいぞ」
「そんな味気ない事するわけないじゃない」
「お前は知りたいのか知りたくないのか、どっちなんだ?」
「だーかーら! 知りたくて知りたくないの!」
 ……それってどっちなんだろう?
「でも男の子だったらパパにだけは似ないでね? 優柔不断でいい加減でスケベで……」
 そっか、パパってそんな人なんだ。
「今日の夕飯、作るの止めていいか」
「駄目!」
「……へいへい」

 


「じゃ、産んでくるね」
「えらく余裕な妊婦だな」
「このあたしを誰だと思ってるのよ」
「納得だ」
「ま、あんたはその固いソファーでせいぜい歯痒い顔して待ってなさい」
「へいへい」
 なんだろう、ママは凄く楽しそう。
 これから何をするんだろう?
「さ~いよいよね。ふふっもうすぐ会えるからね~」
 会えるの?
 ママに会えるの?!
 ――暗かったその場所から抜け出した時、あまりの眩しさに私は目を閉じていた。
 でも、ママの顔が見たくて一生懸命に目を開こうと力を入れる。
「……あ、あれ? この子泣かないわね……」
「呼吸は?」
「――正常です。喉ももう通っているはずなんですが……」
 ママ? ママはどこ?
 色んな人の間を手渡されていく中、私はママを探していた。
 急に寒くなってしまった体に次々と触れる誰かの手。
 そして――
「……やっと会えたね」
 ようやく目を開いた私を愛しそうに見つめるその人の声は、あの暗い場所で聞いていた声と
同じだった。
 潤んだ大きな瞳を縁取る長い睫毛、恐る恐る私の体を手にとって、力を入れたら壊れてしま
うみたいにそっと抱きかかえてくれる。その胸からは、暖かい陽だまりの様な匂いがした。
 この人が、私のママ。
 やっと会えた。

 


「女の子か」
「何よ、不満なわけ?」
「お前も子供も無事だったのに不満があるわけないだろうが」
「当たり前よ! ……ふふ、凄いのよ? この子。産まれてから一度も泣いてないの! お医
者さんに向かって一回「あー」って言っただけなの! 赤ちゃんの産声ってね? 本当は体内
から出たくないって悲鳴なんだって。つまり、それだけ外に出たかったって事よね!」
 意味はわからないけど、ママは嬉しそう。
「俺としては陣痛が来ても平然としてて、泣きもせず出産をこなしたお前の方が理解不能なん
だけどな」
「何か言った?」
「別に」
「ふふ……あたしに似て本当に可愛いわぁ……さすが、あたしの子よね」
「俺の遺伝子は無視かよ。で、名前はどうする? お前が赤ちゃんの顔を見てから決めるって
言い張ってたから何も「有希!」
「……はぁ?」
 私の名前は有希。
「だって有希みたいに大人しくて可愛いじゃない! だから……あ、でもあんたが有希ちゃん
大好き~とか言ってたら、何だか浮気されてるみたいでむかつくわね」
「自己完結が早すぎだ」
「じゃあ有希はやめて……雪って意味でスノーってのはどう?」
 訂正、スノー。
「この子は日本人だぞ」
「ん~……じゃあ……サノウってのは?」
 再度訂正、サノウ。
「脳の片方の発達が良さそうな名前だな」
「シノウはありあえないし、スノウも駄目なのよね……セノウとか?」
 再々度訂正、セノウ。
「背中に何か載せるのかよ」
「そのう……うん、そのう! 決まりね! 漢字も思い浮かんだわ、花園の園に、生まれるっ
て書いて園生!」
「……お前が一度言い出したら聞かないのはわかってるが、本当にそれでいいんだな? この
子の一生に関わるんだぞ?」
「もちろんよ! 園ちゃん、ママですよ~」
 確定、私は園生。
「……まあ、いい名前だとは思うけどな」
 私は園生、パパは嫌い。
「でしょ!」
「きっとこの子は有希みたいに何でも出来て、みくるちゃんみたいにメイド服が似合う可愛い
子に育つに違いないわ!」
「……俺はお前にも似て欲しいんだけどな」
「え?」
「……いや、なんでもない」
「ちょっと! 今なんて言ったのよ! こら! もう一回大きな声で言いなさい! 携帯で録
音するから!」
「聞こえてたんじゃねーか!」

 


 母によると、私はとても大人しい子供だったらしい。
 夜泣きも好き嫌いもせず、親の言いつけはきちんと守る。
 ただ――
「ね? 園ちゃんお願い。ママはどうしても仕事に行かなくちゃいけないの」
 それはいい。
 貴女の仕事は理解している。
「だから、今日はパパがお休みだからパパと一緒に居て?」
 それが納得できない。
「大丈夫だって、な? 園」
 無理。
 そう言い切る私を2人は困った顔で見ていたが、困っているのは私の方。
 保育所、もしくは1人であれば構わないのに、何故パパと一日過ごさなければならないのか
教えて欲しい。
「何でこんなにパパを嫌うのかしら……あんた、園に何かしたでしょ」
「するわけないだろうが」
「あ~もう! 時間がないわ」
「後は何とかするから、お前はもう行けって」
「ん~ごめんね! じゃあ園ちゃん、また夕方ね!」
 いってらっしゃい。
 優先されるべきは仕事、そうでなければ困る。
 ママが手を振りながら慌てて出て行き、家には私が残った。
「おい、園。パパは無視なのか?」
 たまには1人もいい。
 今日はテレビを見て一日過ご
「よし、一緒にテレビを見るか」
 ――すのは止める。
 絵本を読む事にしよう。
「お、本か。何を読んで欲しいんだ?」
 大丈夫。自分で読める。
「そう……だったな……そ、そうだ。園、お昼は何が食べたい? 何でも好きな物をパパが」
 お昼ご飯は昨日のおかずが残っているからそれを食べる。ママがそう言っていた。
「そうでした」
 無理しなくてもいい。
「え?」
 無理に、父親として頑張らなくてもいい。
 何故か座り込んでしまったパパを残して、私は部屋に戻った。
 私のママは凄い。
 何でも知っていて、何でもできる。
 なのに何故かパパが好き。
 私よりも。
 どうしても理解できない。
 しばらく1人で本を読んでいると、リビングの方から誰かの話し声が聞こえてきた。
 ……パパではない男の人の声、誰だろう?
「――わざわざ悪いな。学校の方はいいのか?」
「ええ、大丈夫です。それに、僕も貴方の顔を見たいと思っていましたので」
「気持ち悪い事を言うな。……それにしても、まさかお前を呼ぶとはね。そんなに俺が信用で
きないのかよ」
「そうではないと思いますよ? 彼女は僕に園生ちゃんを見せたいと以前から言っていました
から、ちょうどいい機会だと思ったのでしょう」
「そうかね……園生は今、自分の部屋で本を読んでるよ。あ、先に言っておくが園生は何故か
男に懐かないんだ」
「そうなんですか? 僕が聞いた内容では、貴方にだけ懐かないと聞いていたんですが……」
「……そうか、そこまでお前に言ってるのか」
「やきもち、ですか?」
「まさか」
「顔が引き攣ってますよ?」
「長居してもらって悪かったな、また10年後くらいに遊びに来い」
「じょ、冗談です! ――あ」
 リビングに居たのは、パパと私の知らない人だった。
 知らない人が家にきた時の対処法――
『い~い園。知らない人が家に来たら、まず頭を下げて丁寧に挨拶するのよ。園くらい可愛か
ったらそれだけで主導権はがっちり握れるわ。後は何でもやりたい放題よ』
 ママの言う事に間違いは無い。
 最初にお辞儀をしてから、声は相手に聞き取り易い音程にしてペースはゆっくりと――
 こんにちわ、いらっしゃいませ。
「ど、どうもご丁寧に。……あの、園生ちゃんってまだ2歳ですよね?」
「ああ。親もびっくりな成長っぷりだ。外見はちゃんと子供だってのに、頭はお前よりいいか
もしれんぞ」
 パパ、この人は?
「こいつは新聞の勧誘員だ。今度家に来たら間に合ってますと言って玄関を開けなくていいぞ」
「これは手厳しい……はじめまして僕は古泉一樹といいます。どうぞよろしく」
 園生といいます。こちらこそよろしくお願いします。
 涼やかな声に、落ち着いた立ち振る舞い。パパと同じ位の年齢のその人は、まるで懐かしい
友達を見るような目で私を見ていた。
 今でも、彼の微笑みがとても優しかった事を覚えている。
 ――私は、古泉一樹と出会った。

 

 

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