「――参りました」

反転。白陣営が黒に塗り替えられる。
相も変わらず鮮やかな手つきだ。
僕は両腕をひらりと持ち上げて、降参の意を示した。彼は特に面白くもなさそうに、当然の帰結とばかりに一息つくと、「お前に勝ってもつまらん」とぼやきを口唇に乗せる。
 僕は苦笑した。勝利に近づくための技量ばかりは、努力しても中々向上の兆しを見せてくれない。
 
「もう少し強くなれよ。これじゃあ張り合う甲斐もないだろ」
「精進することにしましょう。……次はポーカーでどうです?」
「昨日の再戦か、いいぜ。レートはどうする」
「ノーレートにしましょう。またロイヤルストレートフラッシュなんて出されては敵いませんからね」

まだ蒸し暑さの残る部室内、適当に駒を摘み取っていく彼に倣って、僕も駒の回収に乗り出した。くたびれたオセロ盤を畳み込むと、収納場所へ今度はトランプを取りに立ち上がる。朝比奈さんが淹れてくれた冷えた麦茶で喉を潤しながら、窓際の長門さんが読書に励んでいる様を遠巻きに眺め、彼とアナログゲームで対戦。平穏を絵に描いたような今日は、長月の二日目を数える。
そう――切り取られた十四日間のループを打破し、始業式も滞りなく済まされた、その翌日のことだ。

大半の生徒は夏季休業に未練を残しながら、気だるい学生生活に順応しようと日常に回帰していく。夏休み後半が神に近しい少女の無意識の力によって、一万回を越して繰り返されていたことなど、彼らにとっては想像の埒外だろう。
僕自身、内面を晒してみれば、新たな学期の開始を鬱陶しがる一高校生の例に漏れなかった。エンドレスサマーから脱け出せたことは喜ばしく思う。そこに寂しさを混入させてしまったのは、この夏が余りに充実していたからだろうか。振り回されて、振り落とされないように必死にしがみついて、無事に終わりを迎えればそんなスリルが手放し難いものになっている。
喉元過ぎれば熱さ忘れる、という諺の通りだ。
もう少し味わっていたかったと想うなんて、難儀な感傷だった。

また一つ、収穫となった事態も発生した。始業式の其の日に、長門有希の自主休校。
退屈や辟易といった感情からは無縁の個体として製造された筈の端末が、恐らく長期間の稼動によるメンテナンスを名目に一日、団活動そのものを放棄した。
彼女の内心など、僕には汲み取れたものではないが……。彼女の性質に何かが色塗られていくような、奇異さを僅かに感じてはいる。涼宮さんは与り知らないことだろう。感じ取れているとしたら、今にポーカーの対戦を始めようとしている相手くらいのものだ。
その涼宮さんは――
「みんな、揃ってる!?」
蹴飛ばされたようにドアが衝撃音と共に開かれ、姿を見せた彼女の頭上で、黄色いリボンが跳ねるように翻った。
いささかの変わりもなく読書に励む少女の姿を認めると、涼宮さんは途端小走りに駆け寄り、パイプ椅子に腰掛けた小さな背中に飛びついた。 
「今日は来てるわね。昨日いなかったけど、どしたの?風邪?」
「……」
大きな瞳が、妹分を案じながらも好奇心に光った。彼女の欠席は初めてであったから、昨日も随分気にしていた様子であった涼宮さんの様子は予想通りではある。
「あんまり無理しちゃだめよ。過信は病気の元だわ。
あたしも悪かったわね、後半は結構連れまわしちゃったし――今度はもうちょっと皆の体力を考慮しておくから。とにかく、休むときは連絡してくれなきゃ」
「……わかった」
放置しておいては埒が開かないと踏んだのか、長門さんが読書を一旦止め、涼宮さんに応じる。言質を取ったと思ったのだろう、涼宮さんが笑顔でよし、と頷いた。長門さんに抱きついていた腕を解く。
「そうそう、丁度良かったわ」
団長職の少女はくるりと身を反し、鞄からさっと茶封筒を引っ張り出した。突きつけるように向けられたそれを、文芸部部長は無言に受け取る。
封筒の中身が何かを、長門さん以外は全員知っている。彼女の他は前日に受け取り済みだったからだ。
かといって、さて中身が何でしょう、という謎賭けをするまでもなく、長門さんなら一目でその封筒内に何が入っているのかを目視できることだろう。彼女が平坦なリアクションのままに中身を滑り落とすと、掌に受け止めたのは写真の束だった。SOS団小旅行から各地活動を収めた、十数枚の記録。
「デジカメで夏の間に撮ってたの、プリントアウトしたやつよ。皆には昨日配ったから後は有希のだけ。SOS団の活動記録よ、大切にしなさい」
「……」
孤島での風景、ビーチサイドで戯れる女子達、浜辺の花火大会、夏のアルバイト、夏祭り。
由緒正しき高校生らしい姿が見事にフレームに収まっている。撮影者は様々だったが、大体の写真に長門さん自身はこじんまりと写り込んでいた。長門さんがカメラマンを担当したことはなかったから、必然的に、どの写真でも彼女は写される側として登場していたはずだ。
僕も幾らか彼女の写真を撮っている。大抵は、ハンドブックを開いている姿だったけれど。
「団員には配り終えたし、あとは部室にも飾る場所が欲しいわね。何処がいいかしら!有希は希望ある?」
「……特に」
「そ。じゃ、古泉くん!どう?」 
気付かれない程度に観察していたつもりだが、振りが此方にまで飛んでくるとは。
僕はカードを切りながら、瞬時に微笑を涼宮さんに向ける。
「そうですね。そちらのボードに季節毎に貼り付けるのはどうでしょうか。変わり目を感じやすいですし、目に見えて経過も辿れます」
僕の提案は団長のお気に召したようだ。満面笑顔での肯定が返った。
「いいわね!じゃ、早速貼るのを選びましょう。みくるちゃん、手伝って!」
「楽しそうですね。わかりましたぁ」
「じゃあまず、このキョンのとびっきり変顔のやつにしましょう。いついかなる時も気を緩めてはならぬという反面教師にするにはぴったりね。自戒を込めて一番目立つ位置に貼るのよ」
「お前いつの間にそんな写真を……!」
「よく撮れてるでしょ?洗濯ばさみを鼻に挟まれても起きないなんて思わなかったわ」
「うふふ、ごめんなさい、キョンくん」

写真を巡って言い争う団長と平団員の微笑ましいやり取りも、もはや定番だ。僕は肩をすくめた。この分だとすぐにゲームを始めるのは無理だろう。カードを揃えて隅に追いやり、……僕はふと視線を逸らした。

長門さんは、開いた頁の上に写真を滑り落とし、散らばせて、それらを見据えていた。
涼宮さんが離れれば即座に読書を再開させるだろうという想定とは裏腹の彼女の行動が、僕には酷く不可解に感じた。どうにも――何か、違う。夏を経て、表では見出せないようにしながらも、巧妙に変化している。時計の短針がゆったりと着実に進んでいる、その実感がある。

何処か途方に暮れたような、横顔。

不躾な目線に、長門さんが面を上げて、すいと泳いだ眼がこちらにぴたりと止まった。
彼女の写真に対しての反応に憶測なら立てられた。それで、何をしようと思ったわけでもない。その義理もない。
その筈だったのだけれど。
「今日の放課後、よろしければ、お付き合い頂けませんか。すぐに済みます」
機を見計らって他の誰にも気取られぬよう小声で打診した、内容はやはり彼女には不可解であったようだった。
「……なぜ」
「個人的な、……そうですね、お節介です」
彼女は是とも否とも、口にはしなかった。居なかったならそれまでのことだ。気まぐれのような誘いも、最初で最後の僕からのアプローチを試み断られた、益体もない記念日になるだけのことだ。
気が付けば近くの写真屋は何処だったか、近辺の地図を脳裏に広げていた自分には苦笑するしかなかった。
帰宅時刻となって、律儀に僕を待つ彼女に驚いている自分こそ、滑稽な生き物なのかもしれない。
物好きは、さて、誰だろう?
 
 
 
 

 
 
 



 
 
 
 
 
 
  
  
「写真を誰が発明したのかをご存知ですか」
帰途の途中、商店街への道程を歩みながら、古泉一樹がわたしに投げ掛けた。
わたしは鞄に収めた、涼宮ハルヒから手渡された写真を意識した。
「ニエプスという名のフランス人です。光による像を定着させる技術の開発に心血を注ぎ、見事成功にまで漕ぎ着けた写真技術の先駆者です。当時彼はヘリオグラフィと己の技術を称した。『太陽で描く』なんて、浪漫のあるネーミングではないですか」

古泉一樹の澄んだ両眼。取り立てて識別することもないそれらに、わたしは恐らく………表現として適切かは不明だが、瑣末な苦手意識を抱いている。彼は我々インターフェースと比較し特異な力に秀でている訳ではないが、「人間」の、殊に訓練された機関員は決して侮れるものではない。かといって警戒心を喚起される程、甚大な力を有しているわけでもない。
ただ、彼らは「見透かす」ことに長けている。
まるで我々の基盤を、人間のものと同じように定義するかのように。
ヒューマノイドインターフェースが恐れるべき事象があるとしたら、まだ解析し切れていない、端末に不規則に発生する異常性、それを見越されるという一点に他ならない。
わたしは古泉一樹の言動の予測がつかない。利害に基づく行動ならばある程度推測が可能でも、その範囲を越えた動きの裏に何が潜んでいるのかを読み取るのは、容易いことではない。
――今は、それを考えるべきときではない?
わからない。前後する思考。人間的な思考に倣うにはわたしは未熟。

「……何か、気に掛かることがおありですか」
「意見を聴きたい」
知らないなら、これから知ればいい。「彼」がわたしに言ったこと。
視線を持ち上げた先に、古泉一樹の泰然とした微笑があった。
「長門さんに意見を請われるとは、光栄ですね。伺いましょう」
「写真を撮る、という行為について」
「ほう。そういえば長門さんが『写真』という媒体と接触したのは、夏が初めてだったのでは?」
「そう。……観察行為の記録を人間は必要とする。人は忘却を宿命付けられた有機生命。体験を記録する為に写真という媒体によって記憶を留めようとするのは理解できる概念。だが、涼宮ハルヒや朝比奈みくるの撮影基準に、その意図は読み取れなかった。また撮影配分も不規則で非効率的」
「それはつまり、何のために人は写真を欲するのか、ということでしょうか?記録として以上の意味が込められているのではないか、という長門さんなりの推理というわけですね。
長門さんのその疑問に対する解答が、世には何らかの形で存在しているでしょうが、残念ながら現時点で僕の把握している内にはありません。ですのであくまで僕一個人の意見ではありますが、それをお話しするというのでよろしいでしょうか」
「構わない」
「恐れ入ります」
古泉一樹はわたしに向け、両手の親指と人差し指を合わせて平行四辺形の枠を作り、片目を粒ってみせた。擬似的なフレームを説明するもの。彼の視界においては、枠内にわたしの上部が収まる。
「僕が例えばこのように、あなたを撮るとします。そうして撮影されたもの――それは勿論、長門さんですね。では、もし「彼」があなたを撮影したとしたら?それは僕が撮影した長門さんの写真と、まったく同じものでしょうか」
「………」
まったく同じもの、という言葉はこの文言においては不適当だが、彼が敢えてその言い回しを選んだことも分かっていたわたしは、黙っていた。
古泉一樹は笑みを深くする。
「僕はイコールではないと考えます。僕があなたを撮り、「彼」があなたを撮る、そこには単なる観察とは違った記録が残るのです。僕があなたを、この瞬間どのように見、感じたか……その視点を写真はうつしとる。『思い出』です。それは、単なる記憶とはまた異なるものなんですよ」
「忘れないため、ではなく」
「それも一定の考え方といえます。僕の述べた考えはあくまで僕の意見に過ぎませんし、大多数の方々はそのような格別の意識を持たれているわけではないでしょうからね。ですが、全てがその限りではない――僕はそう思います」 

歩みが止まる。わたしは到達した地を確認し、古泉一樹と店舗の看板を見比べた。
商店街の内にある、古くから経営しているというその写真屋。……古泉一樹がわたしに「付き合って欲しい」と要請した場所。
「さて、着きました。暫くお待ちを。すぐに戻ります」
片手を上げて店内に消えた古泉一樹は、丁度200秒を数える前に再び姿を表した。
「お待たせしました」
戻った彼は、手に店名が印字されたビニール袋をぶら下げていた。中身は――
「どうぞ」
「……」
袋ごと差し出された意図が不明。見上げた先に、作り方の違わぬ微笑があった。
「アルバムです。受け取ってください」
「なぜ」
「何となく。あなたには、そういう物を持っていて欲しいと感じたんですよ。……アルバム、お持ちではないでしょう?」
なぜそれを知ったのか、恐らくはわたしを観察し古泉一樹が推量した結果。わたしは渡されたビニールの内側を探り出す。栗鼠が四辺に沿うように踊るパステルカラーのしっかりした表紙に、「photo album」と英字で記されている。
「これからまた、写真を手渡される機会も多いかと思います。長門さんにとっても、有用なものだと思いますよ」
「………」
わたしは見ていた。どういう理由からかは量りかねる、贈られたアルバムの、その表紙。
写真を貼ること。記憶を蓄積すること。想いを堆積すること。貯蔵。山積。
「彼」の笑み、涼宮ハルヒの笑顔。繰り返す夏。
図書館。作られた貸し出しカード。朝倉涼子の消滅。踏み躙った眼鏡。「してない方が可愛いと思うぞ」。変化。変化。変化――

想いとは何。

日々は過ぎる。わたしは恐らくわたしを止められない。来る冬の季節、わたしのエラーがわたしを消す。
古泉一樹は何も知らず、微笑んでいる。
 
「………そう」
 
伝えるべき言葉は、此処には、なかった。わたしの一言で古泉一樹が変わることはない。わたしが古泉一樹に変化を齎されることもない。
 
白紙のアルバムを無意識に抱きしめていた、その行為にも何ら意味はなかったはず。

――本当に? 
――そう、思うの?  
  
声を聴く。
わたしは、聴覚を閉ざし、斜陽を浴びながら眼を瞑る。 
 
   
    
 
 
 
 

 

 








 
 
 
 
長門さんが、ビニール袋を片側の手にぶら下げて遠ざかっていく。僕は夕陽を浴びた彼女の背を見つめて、ぼんやりと考えていた。
 
例えば彼女の視程に及ぶ範囲で、彼女が記録する一時のこと。
  
恐らくは、一瞬一瞬をフィルムに閉じるように観測し、その総てをコンマ単位で把握しながら情報統合思念体に奏上しているのだろう彼女には、過去を忘れるということ自体の概念がない。彼女が生まれ落とされたそのときから、彼女にとって記憶と思い出は等しくあるものなのだ。美化して追想することも、感傷に胸を痛めることも、彼女には無用の長物だ。
写真も同じだろう。彼女には不要のものであろうし、なくとも生きていくことはできる。それは誰にだってそうだが、それが悲しいと思うのはやはり僕自身の感傷だろうか。

僕の眼が曇っていなければ、長門さんは着実に、何かを生じさせ始めている。その変化が何を齎す結果となるのかは僕には分からない。彼女が人に近づくならばそれは願ってもないことだと考える一方で、人になることが真に幸福かどうかを迷う思いもある。僕に判別できる事柄ではない。どちらがより恵まれた環境か。

――忘れられないことは、苦痛だ。
忘れたくないものを忘れていくことも、また同様に苦痛だろう。

「忘れないため」では、彼女にアルバムは必要なくなってしまうからと、自分なりの解釈をこじ付けの様に話して受け取らせたアルバム。彼女がもし「人」となるときには、今の、今までのこのSOS団での記憶たちを忘れないで欲しいという願いも、そこには含まれていた。
 
 
 
そのものが写真機のように、記憶を廻し続ける長門有希。

彼女のアルバムに写真が増えていくことを、それを僕らに見せながら彼女が微笑んでくれる未来を、僕はもしかしたら――分不相応にも、期待しているのかもしれない。
 

運命の冬にはまだ遠い、残暑の厳しい、ある一日のこと。 
僕が彼女の確定的な変化の理由についてを知り、また僕自身の心境の意味を知るのは、十二月。
吹雪に遭難し奇怪な洋館に立ち入るその日のことになるが、それはまた、別の話だ。

   
  
  


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