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※※※※※※※※
When we are 17 -May-

 黄金週間の中日。 大型連休を寸断する忌々しい平日。 俺たちは教室の中にあった。
 けだるい4時間目、俺の背中をシャーペンでつつきながら連休後半の予定をうれしそうにまくし立てるハルヒは授業なんてそっちのけだ。
 これで成績がいいとは世界は不条理だ。 いや、ハルヒが当の神様なんだとしたら、不条理こそが条理なのか?
 そんな思考の迷路に心を遊ばせていると、チャイムが鳴るまで開かないはずの扉を開けて一人の教師が入ってきた。
 授業中の教師を手招きして小声でなにやらやりとりした後、ハルヒを廊下に呼び出した。

 厳しい貌つきで戻ってきたハルヒはやにわに人の腕をつかんでグイと持ち上げ、
「一緒に来なさい」
 表情にふさわしい張り詰めた声でそう言った。
 SOS団の活動がなにか問題にでもなったのか? 最近は他人様に迷惑をかけたりはしていないつもりだったんだが。
 いや、SOS団の敵とは即ちハルヒにとっては獲物だからな、だったら仔猫のようにキラキラと輝く目をしているはずだ。
 何があったのかと考えあぐねている俺に苛立ちを隠せない様子のハルヒは、
「速くしなさい! 時間がないのよ!」
 ピシャリと言い放って、引きずらんばかりの力で引っ張り始めた。
「わかったから、そう引っ張るな」
 ハルヒについて廊下へ出ると、やった来た教師は正門前に来るようにと告げ、もう一人は授業に戻って行った。
 靴を換えて正門前にやってきた俺たちは車に乗せられ、どこかへ向かっている。
 廊下でも、下駄箱でも、ここ車の中でもハルヒは一言もしゃべろうとしない。 よって俺は事情がさっぱりだった。

 車が駐車場に滑り込んでやっと、薄々の事情がわかった。 そこは俺も何度かお世話になったことのある総合病院だった。
「――ハルヒ」
 声をかけたときにはもう、ハルヒはとっくにドアを開けて駆けだす体制を整えていて、俺も慌ててそれに続く。
 追いついたとき、ハルヒは受付の看護師に噛みついていた。
「ここじゃわからないって、どういうことよ!」
「落ち着け。 循環器科の受付で吠えたって救急のことはわからん。 総合受付へ行くぞ、こっちだ」
 ハルヒを総合受付まで連れて行き、そこでのやりとりを聞いて俺はやっと事情を把握することになった。
 両親が事故にあったのだ。 救急車で運び込まれ、今はICU(集中治療室)で治療を受けているという。

 規則的な電子音と機械音。 初めて見たハルヒの両親は、幾本ものチューブに繋がれていた。
 ハルヒは時々、小さな声で『大丈夫』と呟きながらガラス越しの両親を見つめている。
 大丈夫なのは両親なのか、不安に潰されそうな自分のことなのか、俺には判断できなかった。
 隣に立つハルヒはとても弱々しくて、今にも不安に押しつぶされるんじゃないかと思えるほどだった。 こんなハルヒは想像したこともなかったし、見たくもなかった。

 医師の説明は『全力を尽くしますが、あとは運と体力次第です。 最悪の事態も覚悟しておいてください』で括られた。
 運の入る余地があるなら必ず助かる。 なぜなら、ハルヒが望まないことが現実になるはずがないからだ。
 だから俺はハルヒの肩に手を置いて、
「大丈夫だ、必ず助かる。 だからお前は退院祝いのことでも考えとけ。 そうだな、温泉なんてどうだ?」
 と言ってやった。
 肩に置いた手にハルヒの手が重ねられた。 見ると、目を閉じて俺の提案を吟味しているようだった。
 やがて俺を見上げて、
「退院祝いに温泉ってのはいいわね。 うん、キョンもたまにはいいこと言うじゃない」
 さっきまでとは別人のように、嬉しそうにニコニコしている。 頭ん中じゃもう、温泉で楽しくやってるんだろう。

 こちらへ向かって廊下を歩く人影に気づき目をやると、
「なんだ、みんな来たのか」
 SOS団の3人だった。
「もちろんです」「当たり前じゃないですか」「……」
 とそれぞれに首肯して、『具合はどうなのか』と目で訴えてくる。
 医者が言った通りのことをハルヒが繰り返すのを見ていると、長門の視線が俺に向いていることに気がついた。
 『なんだ?』と視線を返すと、長門の視線がゆっくりと動いて…… 俺もその視線の先を追う。
 長門の視線の先がどこに向かっているのか思い当たったとき、思わず顔を明後日の方向へ逸らして口元を手で覆った。
 ハルヒの頭の向こうには肩に回された俺の手と、添えられたハルヒの手が重なっている。
「どうしたのよキョン」「キョン君?」「どうかなさいましたか?」
 いきなり挙動不審に陥った俺に当然の様に疑問の声が向けられたが、俺は応える代わりに、肩に置いた手に少しだけ力を込めてみた。 
「あっ」
 途端に手をふりほどかれ、ハルヒが飛び退った。 朱を注した貌が俺を睨んで、
「すけべ!」
 ほほを少しだけ赤くした朝比奈さんが作った笑顔で、
「あのう…… わたし達、お邪魔だったでしょうか?」
 朝比奈さん、それは気の回しすぎです。

※※※※※※※※

「まったく、あなたはたいした方だ」
 無視するのも面倒くさくなった古泉のアイコンタクトに応えて、缶コーヒー片手に屋上までつきあってみれば第一声がこれだった。
「閉鎖空間は先ほど消滅しました」
 そうか、そりゃ良かった。 だが俺は何もしていないぜ?
 そう答える俺にうさんくさい笑顔で、
「今回の閉鎖空間は特別でした。 いくら神人を倒してもいっこうに消滅しないのです」
 お手上げですとでも言うように手のひらを上に向けてひらひらさせながら、肩をすくめてみせる。
「それどころか拡大を抑えることすらできなくて、上はもちろん、僕らもパニック状態でした。 それでなんとか状況を打開すべく、あなたに頼みに行くところだったのですが…… その前に閉鎖空間は消滅しました」
 缶コーヒーを取って乾杯をするように一振り、
「今の涼宮さんの精神は上向いてすらいます。 いやまったく、あなたは大した方だ。 いったい何をされたのですか?」
 さあな、とにかく俺は何もしていない。
「それより、こんなことをハルヒが望むとは思えない。 本当に事故なのか?」
 古泉は¥0スマイルに真剣味を7割ほど足した貌になり、
「少なくとも機関は関与していません。 TFEIに動きが見られないところを見ると、統合思念体も無関係のようです。 未来人については不明ですが、彼らは結局何もできません。 規定事項以外への介入は彼らの存在に関わりますし、これが規定事項ならどうしようもありません」
 どうしようもない? その一言は聞きとがめずにはいられなかった。 詰問の貌を向けた俺に、
「おや? 朝比奈みくるを敵にしてもかまわないと? あなたにそんなことができようとは、少々見くびっていましたか」
 仮面をかぶり直せ。 外れかけてるぞ。
「おっと、これは失礼」

 今の話を総合すると、
「つまり、宇宙的未来的超能力的な要素は関係していない、ということか?」
「その通りです」
 一言で肯定されたが、まだ納得のいかない俺は食い下がる。
「おかしいじゃないか。 ハルヒが両親の事故を望むはずがないだろう」
 古泉のやつは顎をさすり、そうですね、とつぶやいてから続けた。
「こうは考えられないでしょうか? 涼宮さんは根底では極めて常識的な方です。 事故が全く起こらない、などということは、常識ではあり得ないことです。 現実に事故はあちこちで起こっていますが、涼宮さんを始め、誰が望んだわけでもありません」
 古泉は肩をすくめ、望まれた事故は事件と呼ぶべきでしょうね、と付け加えた。
「それで? 結局どういうことなんだ?」
「涼宮さんのご両親は純粋に確率的な結果として、事故に遭われた。 そういうことではないかと」
 いまひとつ釈然としないが、そういうこともあるのだろうか? 孤島では崖から落ちたりもしたが……
 俺の思索は突然の声で中断された。
「そろそろ戻るべき」
 うおっ!? 長門、いつのまに?
 いつのまにか横に長門が立って、俺を見上げながら、
「あなたは27分53秒、涼宮ハルヒの視界から消えている。 涼宮ハルヒの感じているストレスは徐々に増加中」
 俺がいないからハルヒがストレスを感じてるって言うのか?
 頭の上にクエスチョンマークを浮かべていると、古泉が場を引き継いで、
「早く帰らないと涼宮さんの機嫌がどんどん悪くなる、ということですよ。 急ぎましょう」
 あ、ああ。 曖昧に頷いてすっかりぬるくなった缶コーヒーを飲み干し、ハルヒの待つ病室へと歩き出した。

※※※※※※※※

 ICUの近くまで戻ってくると、やけに騒がしい。 やたら聞き覚えのある声が1人、けたたましいわけだが。
「こら、病院で騒ぐな。 あと、無理言って看護婦さんを困らせるんじゃない」
 ハルヒは泊まり込むと言って、押し問答になっていた。
「キョンの時にはできたのに、今回はダメってどういうことよ! あたしは身内なのよ?!」
「とりあえず移動だ。 廊下で騒いでると他の見舞客や患者さんに迷惑だからな」
 ハルヒの手を引いて待合室のソファーに座らせた。 その前にしゃがみ込んで、
「お前の気持ちはわかる。 意識が戻ったときに側にいたいんだろう? 俺だって、目が覚めてお前が傍らにいたときは、正直嬉しかったからな」
 ハルヒの頬に少しだけ朱が注したがそのまま続けて、
「だがお前はこんなところにいるより、お前にしか出来ないことをしなきゃダメだ。 親御さんが目を覚ました時、安心できるようにな」
「安心……?」
 俺は頷いて、
「そうだ。 ちゃんと三食食べて、学校にも行って、家事もこなして、家を守れ。 まず、お前がしっかりしなきゃ。 わかるだろう?」
 ハルヒは俺に言葉に少し驚いたように目を大きく開き、次いで目をそらしたと思ったらわなわなと震えだして、
「――何でキョンにお説教されなきゃいけないのよ! あたしはあたしのやりたいようにやるの! 第一キョンは関係ないでしょう、他人なんだから!」
 俺はため息をつき、ゆっくりと立ち上がって、
「確かに俺は他人だな。 悪かった、余計なこと言って。 好きにしろ」
 そう言って、ハルヒから一番遠い位置のソファに体を沈めた。
 ハルヒは立ち上がって、出て行った。 朝比奈さんが俺の前に立って、
「キョンくんは間違ったこと言ってないと思います。 涼宮さんも本当はわかってます、きっと。 だから、早く仲直りしてくださいね」
 ありがとうございます、朝比奈さん。
「わたし達、涼宮さんと一緒にいますから」
 そう言って、3人も出て行った。 それから特に何をするでもなく新聞や雑誌をめくっていたが、
 帰るか…… ここにいてもやることもない。 泊まり込むハルヒが心痛のタネだったが、言い出したら聞かないやつだからな。
 部屋を出ると、ハルヒ達にばったり出くわした。
「どこ行くのよ」
 きつい口調で、ハルヒ。
「帰るところだ」
 かったるい口調で、俺。
「ダメよ。 あんた言い出しっぺのくせに帰ろうだなんて、ちょっと責任感とか足りないんじゃない?」
 言い出しっぺ? なんのこった。
「温泉旅行よ。 これからみんなで本屋へ行くの。 あんたは言い出しっぺなんだから、帰るだなんて却下よ却下」
 今はあまりハルヒの顔を見ていたくなかったのだが、
「わかったよ」
 ハルヒの後ろに立つ3人(古泉はともかく)の『来て欲しい』オーラに免じてそう答えた。

※※※※※※※※

 本屋の一角、旅行ガイドが棚を占めるあたりを占拠して姦したちが楽しそうにページをめくっている。
 やれ傷にいいの、肩こりにいいの、冷え性にいいの、肌にいいの、胸が大きくなるのとだんだん主旨からずれて行ってる気がしないでもないが、楽しそうだからよしとしよう。
 そんな3人から少し離れて雑誌を見ていると、古泉が隣に立って話しかけてきた。
「なるほど。 快癒後の楽しみ、というわけでしたか」
 何がだ?
「閉鎖空間を消滅させた理由ですよ。 涼宮さんにお祝いのプランを持ちかけたのは、あなたでしょう?」
 あぁ、まぁ、そんなことを言ったかもな。
「そのときは、いよいよご両親に紹介と言ったところですか」
 ばっ! なに言い出しやがる!
「おやおや、なにを慌てていらっしゃるのですか? それとも、慌てるような心当たりがおありでしょうか?」
 くそっ、忌々しいにやけ面め。
「古泉、お前の減らず口をふさいでやる」
「それは困りました。 もう少し、あなたと話しをしていたいのですが」
 全く困ったように見えない古泉に背中を向けて歩き出す。
「ハルヒ、そろそろ暗くなるぞ。 何冊か買って今日は解散にしないか」
 陽が長くなったはいえ、そろそろ暗くなる時間だった。
「え? もうそんな時間ですか?」
 ファンシーな腕時計を見て、うわぁとでも言いそうな貌になった朝比奈さんが慌てて、
「わたし、もう帰らなくちゃ。 明日もお見舞いに行きますね」
 ハルヒは数冊の旅行ガイドを棚に戻しながら、
「うん、ありがと。 有希は?」
「わたしもこれを買って帰る。 明日は、いつもの時間?」
 長門はいつの間にか数冊の文庫を抱えていた。 いったいいつの間に…… と気にするだけ無駄だな。
「そうね、それでいいわ。 いつもの時間、いつもの場所で待ち合わせ。 みんな、聞いたわね?」
 ん? 待ち合わせ?
「じゃあ古泉くん、みくるちゃんと有希を送っていって」
「承知しました」
「キョン、あたしがレジに行ってる間にここの片付けやっといて」
 な! 文句を言う暇も与えず、ハルヒは小走りに行ってしまった。
 広げられた旅行ガイドを棚に戻していると、
「キョンくん、また明日」「失礼します」「……」
「あぁ、また明日。 この時間帯は事故が多いから、くれぐれも気をつけてな」
 逢魔が時。 暗くもなく、かといって明るくもない暮れかけたこの時間帯をこう呼ぶ。
 ハルヒの両親に続いて俺たちまで事故にあっては、裏で糸を引く魔の存在を疑わざるを得なくなる。 それは本気で洒落にならない。
 3人が店を出て行くのを見送って、 ……あれ? 長門さん? いつのまにレジを済ませましたか?
 気にするだけ無駄だな、と諦観の域に達していると、
「キョン、終わった?」
 ハルヒが戻ってきた。
「これで、さ・い・ご・だっ!」
 詰め込みすぎの棚に最後の一冊を無理矢理押し込んで振り返ると、
「んじゃこれ持って」
 やけに重いバッグを渡された。 何だ、これ?
「旅行ガイドよ。 決まってるじゃない」
「お前買いすぎだろう。 いったい何冊買ったんだ?」
 そう言ってバッグをのぞき込もうとすると、
「見るなバカ! すけべ!」
 なんで殴る? しかもグーで!
「見られて不味いものでも買ったのかよ」
 エロ本とか。
 そう思ったらまた殴られた。
「違うわよ、そんなんじゃなくて、そう! レディーのバッグを覗くなんて、恥ずべきことだと憶えときなさい」
 ……れでぃー? 俺のイメージする『レディー』は、人をグーで殴ったりはしないんだが……
「何か言いたそうな貌ね、はっきり言ったら? ほら。 溜め込むと体に悪いわよ」
 いいながら胸ぐらをつかむな! 拳を振りかぶるな!

 本屋を出て、病院の方へ足を向けたら、
「どこ行くのよ。 駅はこっちよ」
 ……泊まり込むんじゃなかったのか。
「べっ、別にアンタに言われたから帰るわけじゃないわよっ。 そんな荷物になる物、病院に持ち込めないじゃない。 だからよ!」
 わかった。 わかったからそんな早口でしゃべるな。 もっと落ち着け。
 ハルヒの貌が朱かったのは夕焼けのせいだけだったのか、それとも別の理由があったんだろうか?

※※※※※※※※

 駅で自転車を回収した俺たちは荷台に本を載せてハルヒの家まで歩き、着いた頃にはずいぶん暗くなっていた。
 始めて見るハルヒの家はでっかかった。
 夜陰に浮かぶ、どこにも明かりが灯っていないでかい家ってのは、夜の校舎ほどではないが迫力があるね。
 玄関に近づくと防犯ライトが点いた。 さすが、金かかってる家ってのは違う。
 なんて思ってると、ハルヒはポケットからキーホルダーを取り出し、カチャンカチャンと鍵を開けていく。
 いったいいくつ付いてるんだ?
 一番下の鍵を開けるとき、前かがみになったハルヒの…… その、なんというか、微妙な部分がスカートから覗きそうで……
 なんとなく後ろに移動したら、何か察したらしいハルヒがビクンと立ち上がり、スカートの後ろを押さえてこっちを睨んでいる。
 まて、それは誤解だ! 話せばわかる!
「このスケベ!」
 ったく、油断も隙もないわね…… などとぶつぶつ言いながら、今度はしゃがんで一番下の鍵を開けた。
 ドアを開けて、ハルヒが中の灯りを点けたのを確認してから、
「じゃハルヒ、また明日な。 戸締りはしっかりしろよ」
 俺は帰ろうとして、
「ちょっと待ちなさい。 お茶くらい出すわよ」
 引き留められた。 さっきの不名誉が頭をかすめ、
「いいのか? 誰もいない家に上げたりして。 俺はスケベなんだろ?」
 俺の切り返しに、ハァ? という表情をしたハルヒだったが、次の瞬間大笑いしやがった。 くそう。

 居間に通され、適当に座ってと言われたとおりソファに腰掛ける。 見渡してみると、あぁ、ハルヒの家だな、と妙に納得した。
 壁にはアフリカっぽい仮面や、南米っぽい紐飾り、世界地図もかかっている。 棚にあるのはマトリョーシカだ。
 ハルヒが小学校で描いたと思しき絵も一緒に並んでいたりする。 もう一つ驚くのは楽器の多さだ。
 アップライトピアノはお約束としても、ギター、ヴァイオリン、チェロ、フルート、あれはトロンボーンか? 変わったところではオカリナまである。
 とにかく、なんというか、膨大なエネルギーを感じずにいられない部屋だった。
「なるほど……」
 思わず感嘆の声を漏らしていると、
「お湯沸かしてるからもうしばらくかかるわ」
 台所から戻ってきたハルヒもソファに腰掛けながら、聞いてきた。
「で、何がなるほどなの?」
 正直な感想を口にする。
「子は親の鏡とか、この子にしてこの親有りとか、そんな言葉を実感しただけだ」
「どういう意味よ」
 別にけなしてるわけじゃない。 だからそんな貌するな。
「この部屋は親御さんの趣味なんだろう?」
 壁の絵を指差して、
「あれはお前が描いたんだろ? 自分の絵を飾るとも思えないしな」
「見るなバカっ!」
「この部屋を見て、おまえの膨大なエネルギーがどこから来たか納得した」
「べっつに、あたしはあたしよ。 親父は関係ないわ」
 ハルヒの起源は親父さんにあり、か。 そういや、野球見物も親父さんとだっけか。
「それにしても、不思議な部屋だな。 いろんな物がただあるだけじゃなくて、元あった場所と繋がってるような感じがする」
「こいつらがいた場所はどんなところなんだろうな。 行ってみたいもんだ」
「へぇ?」
 ハルヒが少し意外そうな声を上げた。
「何か意外か?」
「あたしも以前、同じようなことをね」
 そうか。
「そしたらお父さん、なんて言ったと思う?」
 なんとなく聞かなくてもわかる気がしたが、黙ってその先を待った。
「行けばいい。 って」
 それから部屋を眩しそうに見上げてずっと黙っていたが、軽快な電子音が鳴ると立ち上がって出て行った。
 俺は居心地のいい雰囲気を楽しんでいたが、ハルヒがトレイにお茶を載せて戻ってきたことでそれを中断した。
「みくるちゃん程じゃないけど、あたしの淹れるお茶も捨てたもんじゃないわよ」
「っていうか、どうせあんたお茶の味なんてわかんないに決まってるわね。 ティーバッグでも良かったかしら」
 テーブルの上には、トレイに載った丸っこいティーポットとカップが二つ。 それに砂時計。
 砂が落ちきると、ハルヒはポットを両手で持って軽く揺らし、カップに注いだ。
 暗褐色の液体からいい香りが漂ってくる。 えーと……
「砂糖はいらないのか?」
 トレイの上に砂糖はない。
「そんなに苦くない葉っぱだから大丈夫よ。 キョンがおこちゃまなら別だけど?」
 いたずらっぽい目でにやにやしながらそんなことを言う。
 一口、カップの中身をすすってみた。
「へえ……」
 思ったほど苦くない。 どころか、淡い甘みすら感じられる。
 朝比奈さんほどじゃないけど、なんて言ってたがありゃ謙遜だな。
 謙遜するハルヒにもびっくりだが、紅茶がこんなにおいしいのにもびっくりだ。
「紅茶って、砂糖なしでも甘いんだな」
 そんな感想を漏らすと、
「すっごく苦い葉っぱもあるけどね。 今度飲ましたげる」
 邪気たっぷりのセリフを無邪気な笑顔で言ってのけやがる。
「そうそう、夕飯作るから食べていきなさい」
 そんなことを言ってソファから立ち上がり、扉に向かう。
「まてまて、俺んちだって夕飯用意してるんだぞ?」
 隣の部屋からハルヒの声が響いてきた。
「両方食べればいいじゃない!」
 太らせてから食べるのはなんて童話だっけ?

※※※※※※※※

 特にすることもないので、キッチンで夕飯を作っているハルヒの姿を眺めている。
 『性格以外は文句なし』と称されるハルヒだが、料理も例に漏れずうまい。
 しかも、くるくると動き回る姿は普段からは想像もできないほど意外なかわいさがある。
 小動物系は長門の担当かと思っていたが、以外とハルヒもいけるんじゃないか?
 いわゆる一つの萌え要素、ネコミミとネコシッポ装備のハルヒを想像してみた。
 黒猫ハルヒに黄色いリボン風の首輪をあしらってみると、意外と似合う。
 だがやっぱりこうだよな。
 頭の中でド○クエのファンファーレが鳴り響き、
 『猫ハルヒは猫又ハルヒにレベルアップした!』

「一人でニヤニヤするのやめてくれる? 不気味だから。 いったい何考えてるのよイヤラシイ」
 イヤラシイって…… お前な。
「いや? 別になんも」
 猫又ハルヒを想像してたなんて言ったら、どうなるやら。 なにせハルヒの手には肉切り包丁が握られている。
 ハルヒは俺をじろじろと観察してからまな板に向き直り、肉に向けて包丁を乱暴に叩きつけながら、
「どうだか。 みくるちゃんのエプロン姿でも想像してたんじゃないの?」
 なんでおまえはそんなに不満そうなんだ。
「いや、違うぞ? それより、何か手伝うようなことはあるか?」
「へぇ? アンタ、台所に立ったりするの?」
 なんだその意外そうな貌は。
「それほど多くはないが、妹のやつに包丁持たせたり火を使わせたりするよりは安心だからな」
「そんなことないわ。 妹ちゃんだってやればできるわよ。 でもいきなりは無理ね、こういうことは日頃の経験」
 軽快な音を立てて野菜を刻みながらそんなことを言われては、説得力ありすぎだった。
「とにかく、過保護は毒よ」
 お前は放任が過ぎたんじゃないかと思うぞ。 親御さんが元気になったら聞いてみよう。
「とりあえず手伝ってもらうようなことはないから、どっか行ってて。 そんなとこに立ってられても邪魔よ」

 台所を追い出された俺は、何か暇をつぶせそうな物がないか居間を物色していた。
 楽器ができれば一番なんだが、あいにくと無芸だからな……
 文化祭に備えて、何か始めておいた方がいいんだろうか?
 とは言っても、俺が触った楽器なんて学校の授業でリコーダー吹いたくらいだ。
 小さかった頃に親がおもちゃのピアノを買ってきたことがあったが、教わったのはねこふんじゃったくらいだったな。
 きっと、親もあれしか知らないに違いない。
 ピアノを開け、鍵をたたいてみる。 記憶にある、おもちゃの甲高いそれと違って柔らかい音色だった。
 えーっと、最初の音は何だったっけ? 指が遠い記憶に反応してくれることを期待しつつ、鍵盤に手を乗せる。
 確か黒鍵をこう……
 『♪~』
 たどたどしい! これじゃ猫踏む前につまずいて転んじゃった、だ! 我ながら笑える。
 苦笑しながら鍵盤を叩いて(とてもじゃないが、弾いてとは言えない)いると、
「こーら、キョン! 近所迷惑な騒音たてるんじゃない!」
 怒られた。
 仕方なくピアノに別れを告げ、物色を再開する。
 ん? あれは……
 これは、台所へ向かってお伺いを立てておくべきだろうな。
「ハルヒー、戸棚んなかの本、見てていいかー?」
「んー? いいわよー」
 何かをかき混ぜる音に混じって、了承が帰ってきた。
 おっしゃ。
 俺は戸棚から数冊を取り出して、眺め始めた。

 すっかり見入っていると、後ろからハルヒが、
 「出来たわよ。 さっきから呼んでるのに、何見てるの?」
 問いかけに、
「んーーーーーーー」
 と曖昧に答えていると、いきなり無防備な後ろ首に手刀をたたき込まれた!
「いってぇーな! 何しやがる!」
「勝手に人ん家のアルバム見るな! このスケベ!」
「ちゃんと見ていいか断っただろうが!」
「アルバムならアルバムって言いなさい! そしたらダメって言ったわよ!」
 俺は赤ん坊のハルヒの写真をなでくりながら、
「はぁ…… こんな乱暴者になるなんて、この頃のお前からは想像もできなかっただろうなぁ」
 不用心な言葉は、俺の頭とアルバムの角をとっても仲良く(ハルヒ談)することで報われることになった。

「まだズキズキするぞ」
 ジト目で文句を言ってやる。
 言うまでもないだろうが、アルバムの角で殴られるととても痛い。
「自業自得よ。 それより、冷めないうちに食べましょ。 残しちゃダメよ」
 ハルヒの料理はとても美味しそうだった。 いや、実際食べてみても美味しいことは確実なんだが……
「なんだか多くないか?」
「二人分だから」
「何で二人分なんだ?」
「元が三人分だから。 食材使い切らないともったいないし」
「なるほど」
 ……
「なんで、俺が二人分なんだ?」
「すぐ食べないとおいしくないし。 それともなに? あたしに太れっていうの?」
 目が怖いです。 ここで肯定したら、俺の頭はいったい何と仲良くさせられるんでしょうか?
 テーブルの上では、銀色に輝く食器が使用されるのを待っている。 食器はマナーを守って正しく使用しましょう。
 俺は逃げ場のないことを悟り、覚悟を決めた。

※※※※※※※※

 ハルヒの料理は美味かった。 美味かったが……
 しばらく動けそうにない。 ごめんお袋、帰っても飯は食べられません。
「近場と言えば草津ね。 でもちょっと近すぎるかな」
「南紀もいいわね」
 ハルヒはさっきから、旅行ガイドを楽しそうにとっかえひっかえして眺めている。
 ときどき意見を求めてきたりもするのだが、俺は腹が苦しくてとても答えられる状態ではない。
 せいぜい、『うー』とか『んー』だ。
 そのたび機嫌を悪くして文句を言うのだが、誰のせいだと思ってやがる。

 そのとき、ハルヒのケータイが鳴った。
 俺たちの間に緊張が走る。 もしも病院からだったら……?
 窓に表示された発信者を見たハルヒは、首を振った。 どうやら病院からではないらしい。
「阪中さんからだったわ」
 ケータイを閉じたハルヒが言った。
 なんで阪中が?
「プリント届けてくれるって。 キョンのも預かってるそうよ。 あとカバンも」
 休み中の宿題か。 余計な物を。
「何言ってるの。 わざわざ届けてくれるのよ? あんたには感謝って気持ちはないの?」
「阪中には感謝するが、宿題はうれしくない」
「あんたそろそろマジメにやらないと、SOS団員に浪人なんて許さないわよ?」
 ハルヒは少し考えて、ひらめいた! とばかりに手をポンと叩いた。 嫌な予感がする。 しかもこの予感は確実に的中する。
「あんた泊まり込みなさい! みっちりしごいてあげるから」
 わかってはいたが、
「そんなわけにいくか」
 一応拒否する。
「どうしてよ。 実際、あんたは一度基礎をやり直す必要があるんだから、合宿になって丁度いいくらいよ」
「あのなぁ、両親が入院したとたんに男を連れ込んだなんて悪い噂でも立ってみろ。 俺はお前の両親になんと言って謝ればいいんだ」
「うちの親はそんな噂なんて気にしないわよ?」
 確かに、ハルヒの親ならそうかもしれない。
「俺がするんだよ」
「つまんないこと気にするのね」
 お前が気にしなさ過ぎなんだ。 俺は常識に満ちあふれた、至って普通の人間なんだよ。
 神様。 この小娘に世の中の常識ってやつを教えてやってください。
 いやしかし神様はハルヒで……
 天を仰いで思考の袋小路にはまっていると、チャイムが鳴った。

「はい」
 小さなモニターには、阪中の顔が映っていた。 ドアホンもカメラ付きか。 さすがだ。
『こんばんは、涼宮さん。 プリント持ってきたのね』
「ありがと、今開けるわ。 ちょっと待って?」
 ハルヒが出迎えに行くのを見送りながら、俺は別の嫌な予感を感じてため息をついた。

 果たして、戻ってきたハルヒは1人だった。
「阪中は?」
「上がって行ってって言ったんだけど、帰っちゃった。 お邪魔しちゃ悪いからって、別に遠慮すること無いのに。 あ、それとあんたにもよろしくって言ってたわね」
 予感的中、か……。 玄関には俺の靴があったわけで……
 阪中よ、それは盛大な誤解だ。 休み明けの教室で妙な噂になっていないことを祈る。
「はい、これキョンの分」
「あぁ、サンキュ」
「さてと、早速やっつけちゃいましょう。 こらキョン! いつまでだらだらしてんのよ! シャキッとするシャキッと!」
 ポコン! 丸めたプリントで叩かれた。
 俺は腕時計をハルヒの方へ向けてかざし、
「俺はそろそろ帰らなきゃならんのだが」
 ハルヒはじとーっと半目で睨みつけたあげく、
「ダメね」
 言い切りやがった。
「あんた家に帰したら宿題なんてしやしないでしょう。 ここで終わらせてから帰りなさい」
「しかしだな、これ以上遅くなると家族に心配かけちまう」
「だったら連絡入れなさい。 宿題してから帰るって言えば大丈夫よ」
 そう言った後、ニヤリと口元を歪めて、
「……台風とか地震の心配はされそうね」
 余計なお世話だ。

※※※※※※※※

「だーーーーーっ! 終わった!」
 俺は背伸びがてらのけぞって、そのままカーペットに仰向けに転がった。 天井の照明がまぶしい。
「はい、次はこれ」
 とっくに宿題を終わらせて問題集をやっつけていたハルヒは、どさっという擬音そのままの量の問題集をテーブルに乗せた。
「なんだそれ?」
 いや、聞かなくてもわかっちゃいるんだが……
「あたしが使ってた問題集よ。 あんたの弱点に合わせてあげたから、キって印のついてる問題やっときなさい」
 やっぱり。 俺は手のひらで顔を覆って、
「勘弁してくれ」
 思わずつぶやいた。
「文句言う暇があったらやった方がいいわよ。 寝る時間が無くなるから」
「終わるまで寝かせないつもりかよ」
「当然でしょ。 何も問題集丸ごと全部やれって言ってるわけじゃないんだから大丈夫よ。 あたしはお風呂行くから、上がるまでに終わらせておきなさい」
 風呂だと? 冗談じゃない。
「お前な…… いいかげん俺はもう帰るぞ」
 これ以上いたら外泊になってしまう。 同級生女子の家に、両親が不在の時に泊まるなんて洒落にならん。
 俺は荷物をまとめて立ち上がった。
「帰っちゃうんだ?」
「あぁ、また明日な。 晩飯ごっそさん。 宿題助かった」
 玄関へ向かう肩越しに、連絡事項といった方が適切と思われる挨拶を投げつけた。
 だが、ハルヒの方が上手だった。 投げつけた挨拶は、易々と場外へかっ飛ばされた。
「オートロック無いのよね、うち。 あたしがお風呂に入ってる間、玄関開けっ放しかぁ……」
 ピタ。 足が止まる。 止まらざるを得ない。
 潤滑油の足らない、錆びかけたロボットのようにギギギギと振り向くと、勝ち誇ったハルヒの貌があった。
「ちゃんとやるのよ。 あ、そうそう。 スケベなキョンには言うだけ無駄かもしれないけど、一応言っとくわ。 覗くなっ!」
 おれはうな垂れて、
「覗かねぇよ」
 と答えるのが精一杯だった。 と、そのとき別の考えが浮かんで、
「いや、やっぱり覗く。 絶対覗くぞ。 追い出されて鍵を閉められたらどうにもならないが、このままなら覗く」
 ふはははははっ、ずっとハルヒのターン! だったが、今こそ反撃の時!
「いいわよ」
「いいのかよっ!」
 予想外の言葉に全身で突っ込みを入れる俺に、
「キョンがキョン自身に覗くことを許すなら、あたしはかまわないわよ」
 ハルヒの貌には奇もてらいも無く、ごく自然なことを言っている、そういう貌だった。
 俺はというと、ハルヒが言った言葉の意味をつかみ損ねて混乱の極みにあり、
「あたし行くから、ちゃんと問題集やっとくのよ」
 そう言って奥へ向かうハルヒを、呆然と見送るしかなかった。

※※※※※※※※

 たっぷり1時間はたった頃、ドアの開く音と一緒にハルヒが戻ってきた。
「どう? できてる?」
 やりかけの問題から顔を上げることもせず、終わった問題集の山をポンポンと叩いて見せる。
「どれどれ」
 一冊を取り上げて隣に立つ湯上がりのハルヒからは、石けんの匂いがした。
 心臓がどきどきする。 目の前の問題ももう見えてない。
 頭上からはふんふん、とか、よしよし、とか、うーん、とか聞こえてくるが、右から左で聞いちゃいない。
 不意に頭に手が乗せられ、
「来なかったわね」
 の一言と共によしよし、とでも言う感じでなでられた。
 それが無性に癪に障って、
「いい加減にしろ!」
 叫んでいた。 ハルヒの手から一瞬のおびえが伝わってきたが、もう止められない。
「俺は男でお前は女だ。 この意味がわからないような歳でもないだろう! 挑発しているつもりか? 一時の気の迷いで厄介ごとを背負い込むようなバカじゃないはずだろう! お前は両親の入院で動揺してるんだ! 俺を巻き込むな! 俺を試すようなマネはやめてくれ!」
 テーブルに両拳を叩きつけながら一気にまくし立てて、気がついたら静寂だった。
「すまん、言い過ぎた」
 こんなのは八つ当たりだ。 ハルヒを傷つけようとする衝動が怖い。 衝動を抑えきれそうにない自分が怖い。 怖くて怒鳴り散らして。 ガキか俺は。
「本当にすまん。 今のは八つ当たりだ。 できれば忘れてくれ」
「ううん。 あたしも調子に乗りすぎた。 ごめん。 そっちこそ忘れて」
 なん、だ、と? 俺は耳を疑って、思わず、
「すまん、何だって? もう一度言ってくれるか」
「だから、あたしも調子に乗りすぎちゃったって」
「いや、その先」
「――そっちこそ忘れて」
「その一個前」
 しばし、無言。 振り向くと、真っ赤な貌の仁王像が立っていた。 仁王はおもむろに俺の耳をつかみ、
「わ・す・れ・な・さ・い。 全部! わかった!?」
 わかった、わかったから! 痛いって! 引っ張るな!

 俺たちはテーブルについて問題集の答え合わせをしている。 ありがたいことに、ハルヒは堅めの服に着替えてくれた。 パジャマにカーディガンなんて格好だったら、俺の神経が保たない。
 採点を終えたハルヒがペンで問題集をペシペシと叩きながら、
「思った通りね。 キョンは理解力がない訳じゃない。 暗記が苦手だけど、それは理解抜きで憶えることに拒絶反応があるからよ。 その欲張りなとこをちょっと我慢すれば、テストでいい点取るくらいは楽勝で出来るようになるわ」
 俺は欲張りなのか。
「そうよ。 憶えるだけじゃ嫌だ、理解したい。 なーんて欲が深すぎ。 我慢なさい」
 お前も我慢してるのか?
「うーん、したくはないけど、するしかないわね。 そうしないとそれしかできなくなるし、あたしは他にやりたいこといっぱいあるし。 それだけやりたければ研究者になればいいのよ。 それまではいろいろするの」
 お前でもそうなのか……
「当たり前でしょ。 あたしを全知全能の神様か何かだとでも思ってるの?」
 神様、か。 『神』『時間のゆがみ』『自律進化の可能性』…… そんな物は俺には関係ない。
「いや、お前はお前だ。 涼宮ハルヒ」
「なに重々しく気取ってるのよ。 さ、今日はこのくらいで勘弁してあげる。 明日も覚悟してなさい。 あんた、意外と鍛え甲斐がありそうで腕が鳴るわ」
 テーブルの上を片付けるハルヒを見つめていると突然自分が情けなくなってきて、
「すまん」
 謝っていた。
「なに?」
 片付けの手も止めず、何でもないように受け止めるハルヒは本当に大きいと思う。
「俺が支えにならなきゃいけない時に何の役にも立てて無いどころか、勉強で負担になろうとしてるのが、ちょっと、な」
「気にすること無いわよ。 第一、あんたが言ったんじゃないの。 まずあたしがしっかりしなきゃ。 だから学校も家も看病も全部両立させてみせる。 あんたの勉強もその一つ。 SOS団の活動は病院でってことになっちゃうと思うけど、みんなわかってくれるわよね」
 呆れるほどパワフルだった。
「ああ、もちろんだ。 文句を言うやつなんて一人もいないさ」
「そうね、あんたが役に立ちたいっていうなら、料理の腕前でも見せてよ」
 う゛っ、お前に食べさせるのか? お前の腕と比べたら激しく見劣りするぞ?
「あたしに比肩しようなんて、考えるだけでもおこがましいわよ。 そんなのは先刻承知の上で言ってるの」
「それはいいが、そのまま『涼宮ハルヒのお料理教室』になるんじゃないだろうな。 勉強だけでなく家事でまで負担になるんじゃ、たまらないんだが」
「そう思うなら、少しは精進してきてよね」
 ハルヒの出した宿題は、学校のよりはるかに難しそうだった。

 荷物をまとめて玄関を出る。 挨拶を交わしていくつもの鍵がかけられていく音を確認し、真夜中の道を自転車で走っていく。 5月とはいえ、空気は少し冷たかった。
 いろいろなことのあった一日だった。 俺はハルヒの力になれるだろうか? 俺が試されているような、そんなことを考えていたらふと、『分岐点』が頭に浮かんだ。
 この時代に集中しているという歴史の分岐点。 俺が試されているとしたら、これも分岐点なんですか? ハルヒの両親の事故も規定事項なんですか? 朝比奈さん。
 俺は道を変えて未来人と宇宙人のメッカを通ってみたが、そこに人影はなく、誰も現れなかった。

※※※※※※※※

 夕べの疑問を抱えたまま迎えた朝は、嫌味なほどの晴天だった。
 考えても仕方ない。 半ば無理矢理に結論づけてベッドから這い出した俺は、起こしに来た妹に驚かれ、居間にいた親父に驚かれ、台所にいたお袋にも驚かれた。
 夕べの『宿題してから帰る』電話に加えてちょっと早起きしたくらいで驚かれるほど、俺の生活はだらけていたんだろうか? 驚かなかったのがシャミセンだけというのは……
 やめた。 深く考えると自分をぶっ壊したくなりそうだ。 いや、一度ぶっ壊すくらいで丁度いいのかもしれん。
 学校も家も看病も両立させると言い切ったハルヒに比べて、俺が立てなきゃならんのは学校だけだ。 そこでハルヒに後れを取るわけにはいかない。 すぐには無理だろうが、
「やってやるさ」
 朝メシをかっ込みながらそうつぶやいた俺を、3人が不思議そうに見ていた。

 いつもの時間より1時間も早く待ち合わせ場所に着くよう家を出たにもかかわらず、そこには全員がそろっていて、
「遅い! 罰金!」
 なんでだ orz。
「みんなおかしいだろ! なんで1時間も前から揃ってんだ!」
「なんとなく……」「虫の知らせとでも言いましょうか」「……」
「逆ギレなんてみっともないわよ。 お昼はあんたのおごりだかんね」
「それと、はい、これ持って」
 なんだ? これ?
「あんたの教材一式と旅行ガイド。 今日は充実した一日を送らせてあげるから期待してなさい」
 挑戦的な目のハルヒに負けじと挑戦的な目で、
「望むところだ」
 参考書を詰めてきたバッグを掲げてみせる。
 それを見て目を丸くしたハルヒだったが、すぐに凶暴な貌をのぞかせ、
「少しは歯ごたえのあるところを見せてよね」
 と言って不気味に笑い始めた。
 俺も負けじと、
「簡単にやられるつもりはないからな」
 と言って不敵な笑いを響かせる。
 不気味な哄笑合戦に、おびえたように縮こまる朝比奈さんと仕方ありませんねと言うように首を振る古泉が見えた。 誰か止めろよ。
「面会時間まであと90分」
 ありがとよ、長門。 いつまで笑っていればいいかちょっと不安になったところだ。
「じゃあ、みんな。 病院に向けて出発!」

※※※※※※※※

「面会時間まではまだかなりあるわね」
 集合が予定時間よりずっと早かったからな。
「待合室は開いているでしょう。 温室や、噴水のある中庭も散歩できるはずです」
 よく知ってるな、古泉。 お前もここの世話になったことがあるのか?
「この街で生活していて、一度もここに来たことがないという方がいたら、相当な強運の持ち主でしょうね」
 こいつがこんなことを言うってことは、ハルヒですらここの世話になったことがあるってことか。
「病院にそんな物まであるんですかぁ?」
「病院といっても小さな街のようなものです。 ここでずっと生活されている方もいらっしゃいますからね。 絵や書の個展が開かれることもありますよ」
 ここでずっと生活すると言うことは、それだけ長期の入院をするということだ。 できればしたくはないが、そうは言っていられない人も確かにいるのだろう。
「ICUに行ってみましょう。 あそこは24時間体制のはずだし、面会って言ってもガラス越しだもの。 廊下から見るくらいいいでしょ」
 荷物もいいかげん、下ろしたいしな。

 待合室に荷物を下ろして、先にICUのガラス窓越しに両親を見つめているハルヒと合流した。
 昨日と違ったところは見られない。 悪くなってはいないが、良くなってもいないと言ったところだろうか。
 ガラスに映るハルヒは真っ直ぐに前を向いて強い貌を作ってはいるが、瞳の中に不安が揺れている。
 背中に回ってすぐそばに立つと、ハルヒの方から体重を預けてきた。 こんな時にどうかと思うが、純粋にうれしかった。
 2人してICUをのぞき込む俺たちに看護婦さんが近寄ってきて、
「どなたかのお身内の方ですか?」
 ハルヒが名乗ると、看護婦さんはバインダーをパラパラとめくってなにやら確認した後、
「お会いになりますか?」
 驚いた。 ハルヒも勢い込んで、
「会えるんですか!?」
「ハイ。 あまり長い時間は無理ですが。 そこの注意書きに従って消毒してから入ってください。 それと」
 俺の方を見ながらすまなそうに、
「面会はお身内の方に限らせてもらっています」
 これは仕方ないだろう。
「行ってこいよ」
 返事はない。
 俺はハルヒの体を消毒薬の置かれた流し台の方へ向け、
「何硬くなってる。 生き別れだった親に初めて会うみたいだぞ。 しっかりやるんだろ? これからの抱負とか退院したら温泉に行こうとか、聞いてもらってこいよ」
 背中を押してやった。
 ハルヒは途中で一度振り向いて、
「行ってきます」
 そう言って、念入りな消毒をしてICUへ入っていった。
「恋人?」
 いえ、違います。
「そうなの? とてもそうは見えなかったけど、まぁいいわ。 ここへ来る人たちは患者さん本人ももちろん大変だけど、家族の方も大変なの。 支えになってあげてね」
 ええ、もちろん。
 看護婦さんは満足そうな微笑みを浮かべて、ナースステーションの中へ消えていった。

 ICUの中で両親に話しかけるハルヒの声は、ガラスと電子音と機械音にかき消されて聞こえない。
 その様子を一抹の疎外感を抱えて眺めていると、3人が合流してきた。
「みんなどこ行ってたんだ?」
 最初、ガラスの前にはハルヒしか居なかった。
「近くにいたんですけどね、なんと言いますか、お二人がこう、若い男女にありがちな雰囲気を作り上げる物ですから」
 なんのこった。
「お邪魔になってはいけませんから」
 頬染めて楽しそうに言わないでください。
「……バカップル」
 な、長門っ!?
 長門は俺の驚愕の態度を見てわずかに首をかしげ、古泉の方を向いて
「情報伝達に齟齬が?」
「まことに正しい用法かと」
 おいっ! そこのにやけ面!
「騙されるんじゃないぞ長門! っていうかバカップルなんて変な言葉覚えちゃいけません!」
 俺は孤立無援なのかっ!?
 とその時、ICUから出てくるハルヒの姿が見えた。 ハルヒ! お前もこいつらに何とか言ってやってくれ!
 ハルヒはこちらを睨みながら静かに歩いてきて、
「何騒いでんのよ。 ここが病院だってわかってる? 常識無いんじゃないの?」
 俺をビシッと指さして非難の声を上げた。
 ……えぇえぇ、郵便ポストが高いのも、電信柱が赤いのも全部俺のせいですよ。
「なにわけわかんないやさぐれ方してんの、さっさと始めるわよ。 充実した一日は望むところなんでしょ」

※※※※※※※※

「そろそろお昼にしましょう」
 壁の時計を見上げたハルヒがそう、宣言した。
「待ってくれ、もうちょっと」
 『今はわからなくても、理論は後から付いてくる』そう自分に言い聞かせて取り組めば、数学はとても簡単だった。 この感覚をモノにするまで、中断したくない。
「あんたやけにやる気になってるわね、どうしたのよ」
「別に、強いて言うなら気が向いただけだ」
 会話しながらでも問題を解くペースが落ちないのは、自分でも信じがたい。
「はぁ、むらっ気ねぇ。 ま、やる気になる分にはいいけど、どうせなら長続きさせなさい」
「あ々」

「昨日、何かあったんですか? 今日のキョンくんいつもと違います」
「はてさて、僕にはさっぱりですね」
「……」
 3人の視線が俺とハルヒの間を行ったり来たりしているような気がするが、俺もハルヒも何にも言わない。 ダンマリだ。
 別に話すほどのこともない。 ハルヒの家で手料理を食って夜中近くまで勉強してただけだ。 言っとくが保健体育じゃないぞ?
「妖しいです」「妖しいですね」「……二人だけの秘密?」
 俺は長門の読書傾向が心配です。

 俺は区切りまでやり終えた問題集とノートをたたみ、
「すまん、待たせた。 じゃ、行こうか」
 と声をかけて立ち上がった。 あれ? ハルヒは?
 目の前にはハルヒを除く3人しかいない。 頭を巡らせてみると、ICUのガラス窓から中を見ているハルヒが見えた。
「我々は先に行っています。 噴水のある中庭に半地下のレストランがありますからそこにしましょう。 それでは」
「おい? 一緒に行けばいいじゃないか」
 まったく、ハルヒに文句言われるのは俺なんだぞ? 『あんたがぐずぐずしてるから』とかなんとか。
 ガラスに映るハルヒの貌には見覚えがあった。 昨日と同じように背後に立って名前を呼ぶと、体をあずけてくれる。
「終わった?」
「終わっちゃいないが、一区切り付くところまではやったぞ」
「よし、じゃあお昼にしましょう。 みんなは?」
「あー、すまん。 あいつらは先に行っちまった」
「はあ? あんたがぐずぐずしてるからみんなしびれ切らしちゃったじゃない」
「行き先は聞いてる。 たぶん、席を確保しといてくれるつもりなんだろう」
 それだけじゃない気もするが、なんだろうね。 以前の俺なら気づかないふりを決め込んだろうが、今は気遣いをうれしいと感じてる。
「ちょっとお昼行ってくるね」
 ガラスの向こうに声を投げかけ、ハルヒはエレベーターホールへ向かって小走りに駆け出した。
 さっきまで感じていたハルヒの重みを名残惜しく感じながら、
「病院で走るな。 第一お前、行き先知らないだろ。 待てっての」
 と声をかけ、ふと思いついてガラス越しに会釈で挨拶してからハルヒの後を追いかけた。

※※※※※※※※

 連休中はだいたい、ずっとこんなもんだった。 面会時間が終わるまで病院にいて、俺がハルヒを送っていきハルヒの飯を食ってしごかれて帰る。
 病院内で不思議を探索するというはた迷惑なこともしたが、見つかったのはどこから入り込んだかわからない、中庭の野良猫一家とかその程度だ。
 そして、容態に変化のないまま連休は明けた。

 教室に入ると俺の席のあたりに人だかりが出来ていた。 正確にはハルヒを中心にした人だかり。 当然ながら女子ばかり。
 それを見てやっと、阪中のことを思い出した。 さてと、どうしたもんかね。 席に向かうのも怖いが、避けきれるもんでもないだろう。
 入り口で考えあぐねていると、女子の一人が俺に気づき、
「キャーーーーーーーーーーー」
 黄色い声を上げて駆け寄ってきた。
 それに釣られるように何人もが押し寄せるようにやってきて、
「同居?」「同棲?」「挙式はいつ?」「子供は何人?」
 と口々に訊いてくる。 なんなんだ一体これは! ハルヒ!
「キョン! ちょっと来なさい!」
 襟首をむんずとつかまれ、女子の渦からごぼう抜きに引っこ抜かれてそのまま教室の外、廊下の端、階段の踊り場まで引きずられるように連れてこられた。
 遠ざかる教室からは黄色い声の大合唱が聞こえてきてたが、一体どれだけ尾ひれの付いた噂になってるんだ?
「知らないわよそんなこと。 今までだってつきあってる位の噂は何度もあったけど、なんでいきなりここまで大きな話になってるのよ」
 あー、それはだな。 誤解の大本と思われる夜のことを話して聞かせた。
「阪中さん……」
 珍しい。 ハルヒがダメージを受けてる。
「阪中を悪く思うなよ。 誤解を招く行為だったことは間違いないし、阪中自身が尾ひれを付けたわけでもないだろうからな」
「それは…… わかってるわよ」
「俺たち自身が変わった訳じゃないんだ。 噂なんてそのうち消えるさ、気にするな。 とにかく戻ろう。 2人揃って消えてたら火に油だ」
「……そうね」

 教室に戻ると案の定、火に油。 ハルヒの眼力も照れ隠しとしか受け取られていないようで、こりゃあ、あとのとばっちりが怖いな。
「ごめんなさいなのね」
 あ? あぁ、阪中か。
「気にするな。 俺が結構遅くまでハルヒの家にいたところまでは事実だからな。 おもしろおかしく騒ぎたいやつのエサになっても仕方ないさ」
「そうなんだ?」
 なんだ国木田。
「まさかお前まで噂を本気にしてるんじゃあるまいな? 谷口あたりなら尾ひれを付けて吹聴しそうだが」
「はは、キョンはいい勘をしてるなぁ。 そうだね、噂が本当だったら、ちょっと楽しいかな」
「お前が聞いた噂がどんなのだか知らないが、あいにくと楽しい話は聞かせてやれそうにない」
「涼宮さんは今、大変そうだしね」
 なんだ? そんなことまで噂になってるのか?
「噂と言うほどではないかな。 ところで、僕にできることがあれば遠慮無く言ってほしいね」
「もちろん、わたしもなのね」
 ありがとよ、2人とも。 どっかで噂をばらまいてるアホに爪の垢を煎じて飲ませてやりたいね。

 授業が始まってスズメどもも自分の席に帰り、ハルヒはというと背後で不機嫌オーラを…… 放っていなかった。
 居眠りもせず、シャーペンで俺の背中を穴だらけにもせず、旅行パンフを開いてもいない。 まじめに授業を受けている。
 いつもと違いすぎる様子に後ろを伺うと、まじめにやれと怒られる始末だった。
 授業をマジメに受けるのはいいことだ。 いいことなんだが…… なんだろう? なにかひっかかる。

「おいキョン、なにやってんだ?」
 見てわからんのか、谷口。 一度眼科へ行った方がいいんじゃないか?
「お前まさか本気で涼宮とデキちまたったのか?」
 なんでそうなる。
「お前が休み時間に参考書開いてガリ勉始めるなんて、天変地異の前触れとしか思えん。 涼宮に男ができるなんてのもそうだ! 従ってお前が涼宮の男なんだろう!」
 つきあい切れん。
「そういやお前、俺とハルヒの噂に尾ひれ付けて吹聴しまくったって?」
 休み時間になって押し寄せてきた女子をひたすら無視して机に突っ伏していたハルヒの肩がピクッとふるえた。 ガバッと起き上がり、谷口を引きずって教室の外へ消えていく。 南無。
 授業開始ぎりぎりの時間に1人で戻ってきたハルヒに、
「よう、谷口はどうした?」
 と訊くと、ハルヒはさもつまらなさそうに、
「知りたい?」
「別に」
「そ」
「キョンって時々鬼だよね」
 国木田お前、一部始終をにこにこしながら見てただろうが。

※※※※※※※※

 放課後、部室へ行くとハルヒ以外はすでに来ていて、朝比奈さんがいつもの格好でお茶を淹れてくれた。
「ありがとうございます。 それにしてもすぐ着替えることになるかもしれないのに、律儀ですね」
「わたしには、こんなことくらいしかできませんから」
「そんなことはないと思いますよ」
「へへっ、ありがとうキョンくん」
 甘露をすすっていると、
「久しぶりにお手合わせいただけますか」
 古泉がそういってリバーシの駒を並べ始めたが、
「いや、ハルヒが来たらすぐに移動になるだろう。 片すのも面倒だしな」
「そうですか、残念です」
 残念そうにゲームをしまうと、机の上に組んだ手にあごを乗せて飽くまでにこやかに、
「それはそうと、ご婚約おめでとうございます」
 ぶほっ! 古泉、お前もか! お茶吹いたじゃねーか!
「ふええぇっ!? キョンくんいつの間にっ!? 水くさいですっ!」
 落ち着いてください、朝比奈さん。 デマです。
「…………デマ、なんですか?…………」
 朝比奈さんは口元に人差し指を当てて、俺の貌をじっと見ながらなにやら考え込んでいたが、
「ホントだったら、とか思いません?」
 は?
「涼宮さん…… ですよね? 相手って。 本当に涼宮さんがキョンくんの恋人で、婚約者だったらって想像したりしません?」
 朝比奈さん、何を言って……
「答えてください。 涼宮さんが恋人だったらって、考えたことはありませんか?」
 俺は努めて平静に、
「よしてください、第一ハルヒは恋愛感情を精神病に分類するような女ですよ? そんなことあるはず無いじゃないですか」
「キョンくん誤魔化してます。 わたしは涼宮さんのことじゃなくて、キョンくんのことを聞きたいんです」
 一蹴された。 一歩、距離を詰めてくる朝比奈さんのいつにない迫力にたじろがざるを得ない。
 救援を求めてあたりを見回しても、これは興味深いですねと貌に書いてあるにやけ面と、本から顔を上げてこちらを見つめる、しかし介入する気はまったく無さそうな黒曜の瞳があるだけだった。
「どうなんですか? お姉さんに正直に答えてください。 さあっ!」
 近い! 顔が近いです朝比奈さん!
 俺は必死に誤魔化す方法を考えたが、下手な嘘は全て見抜かれてしまうに違いない。 正直に言うしかないのか? 俺は生唾を飲み込んで、
「俺は…… 「やっほーえぶりにゃん! みんな揃ってるっ?」
「……なにやってんの」
 ナイスタイミングだ、ハルヒ。

※※※※※※※※

 それから俺たちは病院に移動して全員で宿題をやり、ハルヒは両親に一日の報告をして解散になった。 今は帰り道がてら、買い出し中だ。
「なあハルヒ。 お袋がおまえを夕飯に連れてこいと言ってるんだが、どうする?」
「へ?」
 ほれ、とケータイをハルヒの方へつきだして見せる。
 ハルヒは特売シールが貼られた合い挽きミンチを俺の持ってるかごに入れたところだった。 ちなみにかごの他、ハルヒの鞄も俺が持っている。
「これって、もう用意してあるのかしら?」
 ケータイをひったくって、じっくり読んだハルヒが訊いてきた。
「してあると思う。 つーか、してなかったらメールしないだろ。 なんなら電話して訊いてみるが」
「いいわよそこまでしなくっても。 でも、用意してあるんなら断っちゃ逆に失礼よね」
「じゃ行くか」
 さっきかごに入れられたばかりの挽肉を元の場所に戻そうとして、止められた。
「ううん、やっぱりやめとく。 折角なのに悪いけど、できるだけ家で過ごしたいのよ。 あたしがいないと誰もいない家になっちゃうし。 ――うまく言えないけど」
「それもそうだな。 わかった、こっちのことは気にするな」
「ありがと。 謝ってたって、伝えといて。 それと、あたしの鞄返しなさい」
 ? 何だ?
「帰れって言ってるのよ。 ほら、買い物かごも置いてとっとと帰れ!」
 しかしだな、ハルヒ。 買い物かごを少し持ち上げて、
「家まで送って行かなくていいのか? 結構な量あるぞ?」
「いいから帰れ! 団長命令!」
 言い始めたら聞かないヤツだからな…… はぁ、
「わかった。 帰るよ。 それじゃあ、また明日学校で」
「ハイさようなら」
 ハルヒは鞄と買い物かごを持って、スタスタと行ってしまった。 俺は後ろ姿を見送ってため息をつき、その場を後にした。
 この翌日からハルヒは俺に送らせず、病院で分かれるようになった。 課題だけは毎日くれたが。

 そしてやってきた週末、俺は今まで何を見て、何をやってきていたのかと激しい後悔に襲われることになった。
 その日、ハルヒは朝からテンションが低かった。 別に病院から悪い知らせがあったわけでは無いようだったが、最近はマジメに受けていた授業も机に突っ伏したままだったし、休み時間になってもどこかへ突撃していくこともなく、じっとしていた。
 授業もHRも終わり、ある者は部活へ行き、ある者は帰宅し、ある者達は連れだって街へ繰り出していく中、ハルヒはまだ机に突っ伏していた。
 黄色いリボンの付いたカチューシャで留められた髪を見て、『もう少し伸びたらポニーテールにできるな』なんてことをぼんやりと思いながら、
「ハルヒ、メシはどうするんだ? 今日は学食も休みだからパンを買わないと食いっぱぐれるぞ。 それとも病院行く途中で何か喰うか?」
 そう訊いてみた。
「……別に、お腹すいてない……」
 珍しいこともある。 食欲魔神とまでは言わないが、昼時まで保つようなコストパフォーマンスの高い腹はしてなかったはずだが。
「じゃ、部室に行こうぜ。 ――ハルヒ?」
 返事もしなければ動こうともしない。 俺はやっと、ハルヒの様子がおかしいことに気づいた。
「ハルヒ! おいしっかりしろハルヒ!」
 肩をつかんで上体を起こすと、赤い貌、潤んで微妙に焦点の合ってない目、明らかな体調不良を示している。 額に手を当てると、熱い。
「――放しなさい。 大丈夫よこのくらい」
 そう言って立ち上がろうとするが、体に力が入っていないのは明らかだった。
 保健室か? いや、もう放課後だ。 今からなら直接病院の方がいい。 タクシーだ。
 ケータイを取り出し、古泉を呼び出す。 早く出ろ…… コール3回目でつながって電話に、前置きもなしに一方的に要点だけ告げる。
「ハルヒがひどい熱だ。 正門前にタクシーを呼んでくれ。 そこまで俺が連れて行く」
 『了解しました』
 一言だけ告げて切れる電話。 ケータイをしまっていると、
「大丈夫だって言ってるでしょ、勝手なことしたら許さないんだからね」
 そう言ってなんとか立ち上がったハルヒの体を、下からすくい上げた。
「!」
 いわゆる『お姫様だっこ』というやつだ。 むろん、ハルヒはお姫様のようにおとなしくしてくれたりはしない。
「下ろしなさいっ! こらっ! 下ろせっ!」
 とたんに、病人とは思えない力で暴れ出した。 俺はかまわず昇降口へ向けて走り出し、腕の中のハルヒに向けて、
「すまん、ハルヒ。 体調の悪い時でも頼れないような情けない男ですまん。 支えになってやれなくてすまん。 だが、今だけはお前のために何かさせてくれ。 頼む」
 ハルヒが俺の言葉をどう受け取ったかはわからない。 だが、暴れるのだけはやめてくれた。
 正門前にはもう黒塗りのタクシーが来ていて、俺はハルヒを後部座席に座らせてドアを閉め、反対側から乗り込んだ。 長門と朝比奈さんが持ってきてくれた鞄を受け取り、古泉の
「我々も後から追いかけます」
 の一言に頷いて、じゃお願いしますと運転席に向けて言うと、新川さんは静かに車を発進させた。

※※※※※※※※

 病室のベッドで眠るハルヒの貌を眺めながら、俺は激しい自己嫌悪に襲われていた。
 俺は一体何を見ていた? 遅刻もせずマジメに授業も受けて、放課後は病院で両親を見舞い、家事をこなして、俺用に新しい課題まで用意して――
 少し考えればすぐわかることだったはずだろう。 こいつは一体、いつ寝ていたんだ?
 それだけじゃない。 事故のあった日、俺は、俺だけはこいつが不安で押しつぶされそうになっている貌を見ていたじゃないか。
 支えになる? お笑いぐさだ。 それどころか、『ちゃんと三食食べて、学校にも行って、家事もこなして、家を守れ。 まず、お前がしっかりしなきゃ』だと? プレッシャーまで掛けて。
 俺はこいつに休息できる場所を、こいつの居場所を用意しなきゃいけなかったんだ。 それなのに、たった1人突き放してしまった。
 すまない、ハルヒ。 俺はまだ間に合うか? いや…… 余計なことは考えまい。 とにかく、出来るだけのことをしよう。
 そう決心してイスから立ち上がり、ハルヒの髪をスっとなぜた時にドアが控えめにノックされた。

 部屋の外には3人が立っていた。
「涼宮さん、大丈夫なんですか?」
「そんな、泣きそうな貌をしないでください朝比奈さん。 ハルヒはちょっと過労気味だそうです。 今はよく眠ってますが、目が覚めたら帰ってもいいと言われました」
 心から安心したという貌でため息をつく朝比奈さんに、
「ハルヒに付いていてやってもらえますか? 俺はちょっと用事が出来たので。 なるべく早く戻ってきますが、ハルヒが目を覚ましても留めておいてください」
 朝比奈さんだけでなく古泉と長門にも言い含めるように見回し、それぞれから頼もしい返事を受け取った俺は電話を掛けるために病院の外へ向かった。

 病室に戻った時、ハルヒはまだ眠っていた。
「お帰りなさい。 用事はもう済みました?」
 ええ、おかげさまで。
「呼吸、心拍、血圧、体温、および内分泌すべて正常範囲」
 そうか、ありがとよ。
「用事とは、何だったのですか?」
 少し迷ったが、こいつらには黙っていてもすぐにばれる。 隠しておく意味はなかった。

 話し終わると、古泉は立ち上がって帰り支度を始め、
「では、我々は早々に消えるとしましょう」
 なんだ、帰るのか? ハルヒが目を覚ますまで居ればいいじゃないか。
「できればそうしたかったのですが、今の話を聞いてしまいましたからね。 我々が居ては、涼宮さんはあなたの提案を素直に受け入れないでしょう。 それに」
 それに、なんだ?
「涼宮さんに断られた時、我々が居てはあたなも土下座しにくいでしょう?」
 するか!
「しないそうです。 どう思われますか?」
 こらこら。 何を訊いてる。
「本気なら、して欲しいです。 できるはずです」
「あなたの自尊心と涼宮ハルヒの健康。 どちらを優先するかは、あなた次第」
 わかった! わかってるが、口に出しては認めにくいものなんだ。 というわけでお前らさっさと消えろ。
「来週を楽しみにしていますよ」「涼宮さんは絶対にOKしますよ」「ユニーク」
 ああ、またな。 ……ところで、なにがユニークなんですか? 長門サン?

 ハルヒは眠り続け、目を覚ましたのはそろそろあたりが夕暮れに包まれようとする時間だった。
 う…… んっ……?
「あれ? ここどこ?」
「お前の両親が入院している病院の一室だ。 お前が熱を出して倒れたから運び込んだ。 今は夕方だ。 気分が悪かったりふらふらしたりはしないか?」
「キョン? 大丈夫。 なんだかスッキリしてるわ。 みんなは?」
「先に帰った。 それより話があるんだが、これでも食べながら聞いてくれないか」
 貸してもらったクーラーバッグから、プリンを取り出してハルヒに渡す。
「ありがと、なに? 話って」
「すまなかった」
 そう言って、深々と頭を下げる。 あっけにとられているハルヒに向けて、
「俺の不用意な一言のせいでお前に無理をさせた。 無理をしていることにも気づかなかった。 すぐ近くにいて不調にも気づいてやれなかった。 頼ろうと思わせるほどの頼りがいも無かった。 今日ほど自分を情けなく思ったことはない」
「ちょっと、やめなさいよ。 倒れてから言っても説得力無いけど、無理したつもりはないし体調管理は自己責任だし。 まぁ、あんたに頼りがいがないのはホントだけど」
「すまん」
「だからやめなさいって。 いい加減、頭あげなさい。 軽々しく頭なんか下げるもんじゃないわよ、安っぽくなるじゃない」
「すまん」
「いい加減にしないと怒るわよ」
 頭を上げると、ハルヒはスプーンを咥えたままそっぽを向いていた。 紅い夕焼けがカーテンを透してハルヒの貌を朱く染めている。
 そっぽを向いたままプリンを食べ終えたハルヒに、お代わりもあるぞと言って二つ目を取りだしてみせるが、
「夕飯時も近いのに、そう何個も食べられないわよ。 ところで今何時? スーパーのタイムサービス間に合うかしら」
 ベッドから降りて鞄に手を掛けようとする、その鞄を押さえて、
「ハルヒ、頼みがある」
「何よ。 急いでるんだから話なら歩きながら聞くわよ」
「大事な話なんだ。 ちゃんと座って聞いてくれ」
 少しの間アヒル口で俺を睨みつけていたが、その目を真っ正面から受け止める俺に、わかったわよと言ってベッドの縁に腰を下ろしてくれた。
「単刀直入に言うぞ。 俺と一緒に暮らしてくれ」
 ハルヒの貌が最初いぶかしんで、次いで大口開けて呆れて、怒りに目がつり上がり、真っ赤になって目をそらし、再び目を合わせた時の貌は怒りにふくれて真っ赤で目もつり上がっていたが、どこか可愛かった。
「何考えてるのよっ!」
 病み上がりとは思えないほどの声量だった。 向こう三軒両隣どころか上下のフロア全域に響いたんじゃ無かろうか。
「あんた本気? それ以前に正気? どう考えても正気じゃないわね。 あたしをからかおうっての? それとも自分で噂を本気にした? お生憎様、あたしはそんなに安くないのよ。 あたしが欲しいんならせめて、あたしに頼られるだけの甲斐性持ってから出直しなさい!」
 一気にまくし立てたハルヒは、はぁはぁと肩で荒い息をしていた。 俺はハルヒをこんなに興奮させるようなことを言っただろうか? 半ば呆気にとられながら、言動を振り返って……
「違う! 違うぞハルヒ! いや、違わないが違うんだ! 落ち着いて聞いてくれ。 っていうか落ち着け、俺。 とりあえず俺は本気で、一応正気だ。 別にからかってもいない。 た、ただだな、」
「キョン」
 凄味のきいた声に、部屋の温度が一気に下がった気がした。 恐る恐るハルヒの貌を…… 見えなかった。 ハルヒはうつむいていて、顔が見えない。 余計に怖い。
「キョン」
「ハイッ」
「あんた真逆、言い間違えたらなんだかプロポーズみたいな言い方になっちゃいましたなんてこと、言わないわよね」
 怖いです。 すいません、その真逆なんです。 なんて怖すぎて言えねぇ!
「あり得ないわよねー そんなこと」
 一転、にこやかにそう言ってハルヒはおしとやかに笑い出した。 俺も一緒に笑ってみる。 こうなったらもう、笑うしかない。
「そうだよなー あり得ないよなー」
 あはははははははははははははははははははははははははは はぁっ!?
 いつの間にか目の前にいたハルヒが両手で俺の首を絞めっ 締めっ! 苦しいっ!
「返せこのバカっ! 返せっ! あたしの……っ キョンの、キョンのバカぁぁぁぁぁぁぁっ!」

「それで?」
 ハルヒはベッドの上であぐら。 俺は床で正座。 気分はまるで、お白州に引き出されて裁きを受ける罪人のそれ。
「お前の両親が退院するまで、俺の家で下宿してください」
「最初からそう言いなさい。 そしたら、あたしだってあんな勘違いは……」
「とにかく! そんなことできるわけ無いでしょう。 第一、アンタん家の親が許すわけ無いじゃない」
 俺は顔の前で手を振って、
「いや、承認はもうもらってる。 お前が倒れたことも話したら、連れてこないと家に入れてやらないとまで言われちまった」
 ハルヒはちょっと困ったような貌で腕組みをしたまま、黙っている。
「これは俺の我が侭だ。 俺はお前が倒れるようなところを二度と見たくない。 もし倒れるにしても目の届くところにして欲しいんだ。 今回は学校だったからまだ良かった。 もし、あの家でたった1人倒れていたら今頃どうなってたか……。 頼む! 俺の家で下宿してください!」
 元の姿勢が正座なこともあって、自然と土下座になってしまう。 だが土下座くらいでハルヒの諾が得られるなら、いくらでもしてやる。
「頭上げなさいよ」
「お前が下宿に同意してくれるまでは上げられない」
 はぁ…… ため息をついて、ベッドから下りてくる気配がする。 近づいてきて、
「あんた、自分がずいぶん非常識なこと言ってるって、わかってる?」
「ああ、自覚してる」
「しかも我が侭」
「すまん、その通りだ」
「自覚してるくせに直す気もないわけ?」
「この件については、そうだ」
「おまけに強情っぱり。 どうしようも無いわね」
「返す言葉もないな」
「わかった、下宿する」
「ホントか!」
 思わず顔を上げると、とても優しいハルヒの貌がとても近くにあり、
「あんたをどうしようも無いんだから、仕方ないじゃない。 いい加減立ちなさい」
 とても優しいことを言ってくれた。
「ハルヒ、ありがとう」
「別にいいわよ。 団員の我が侭を聞かなきゃならないのも、上に立つ者の辛いとこよね」
 団員か。 まぁ、今は仕方ない。 さっきのやり直しはまだまだ当分先だ。 その時には、別の呼び方で呼んでくれるだろうか?

 俺たちはICUでことの顛末を報告し、一旦ハルヒの家に寄って着替えなど衣類一式を詰め込んで俺の家までやってきた。
 玄関を開けてただいまと言うと、待ち構えていた家族がおかえりと返してくれる。
 続いてハルヒが玄関に入り、
「今日からお世話になります、涼宮ハルヒです。 よろしくお願いします」
 と挨拶した。 ところが誰も返事をしない。 不安になっているハルヒに、助け船を出してやった。
「その挨拶はとても常識的だと思うが、今日からここはお前の帰る場所、お前の家でもあるんだ。 だから、玄関に入って言う挨拶は『よろしく』じゃない」
 ハルヒは俺の言葉に戸惑いの表情を浮かべて、俺の貌を見つめている。 俺はだまって頷いてみせる。
 次いで親父とお袋、それに妹の方を見て、3人が同じように頷くのを見て、いつもの明るい笑顔を満面に浮かべ、

   「ただいま!」
「「「おかえりなさい」」」
「おかえりなさいハルにゃん!」

fin.


欄外4コマ
ハルヒ 「最近、噂を聞かないけど、もう消えたのかしら」
俺   「そうみたいだな」
ハルヒ 「案外、早かったわね」
俺   (わかりきったことを噂するやつは居ないからな)

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最終更新:2009年02月23日 22:58