「みくるちゃんって嘘が下手よね」
ハニカミながら涼宮ハルヒが朝比奈みくるに発したその一言が、今でもわたしの記憶の中枢部に留まり、事あるごとにその時の情景が思い浮かぶ。まるで、ある種のエラーのように。
それは、普段わたし達のいる文芸部室での何気無い日常のひとコマにしか過ぎず、このときの涼宮ハルヒと朝比奈みくるのやりとりに重大な意味があるわけではない。
だが、この日起こったことは、涼宮ハルヒにとって、そして彼にとって重大な運命の分岐点であったことは間違いないだろう。
このふたりのやりとりのちょうど一時間後、彼が文芸部室にやって来て、涼宮ハルヒではなく、佐々木という自分の幼馴染みを恋人として選んだことを涼宮ハルヒに告げたのだ。
彼の告白を聞いた時の涼宮ハルヒの落胆振りは周囲にいた誰の目にも明らかであった。しばらくの間、誰一人彼女に言葉をかけることもできず、重苦しい空気が辺りを包み、ただ時計の秒針だけが無機質に時を刻んでいた。
「あんたがそう決めたのなら、あたしは反対しないわ。佐々木さんを泣かすようなことをしちゃ駄目よ」
重い沈黙を破ったのは涼宮ハルヒの一言だった。彼の告白にショックを受けていたにも関わらず、彼女は気丈に振る舞い、彼にねぎらいの言葉をかけ、涙ひとつ見せることはなかった。
そんな涼宮ハルヒの様子を見て、一瞬だけ彼女の姿が自分と重なったような錯覚を覚えた。彼にふられ、それでも気丈に振舞う彼女の姿がわたし自身とダブったようなそんな錯覚を……
そして、わたしは後悔する。
後悔の理由。
彼が涼宮ハルヒを選択しなかったから? 否
彼が自分を選択しなかったから? 否
わたしは知っていたのだ。彼が涼宮ハルヒを選ばなかったのは、古泉一樹の所属する機関の策略であるということを。
そして、わたしは知っている。彼が、涼宮ハルヒが、これから先、自らの心を偽りながら時を過ごしていくことになることを。
だが、わたしはすべてを知りながら、古泉一樹の権謀術数を止めることなく、ただ傍観者に徹していただけであった。わたしには観測者としての権限しか与えられていなかったから。
この日を境にして、彼は文芸部室に顔を出すことがだんだんと少なくなり、そして一ヶ月も経たないうちにまったく姿を現さなくなった。放課後は幼馴染みと過ごしていると喜緑江美里から報告を受けた。
涼宮ハルヒは団長席に座って何もせずにうつむいていることが多くなり、そんな彼女を朝比奈みくるが心配そうに見つめ、彼女の傍らで古泉一樹が優しい言葉をかける様子が文芸部室で観測されるようになった。
程なくして、涼宮ハルヒは古泉一樹とつきあい始めることとなる。
古泉一樹が涼宮ハルヒにかけた言葉、そのすべてが嘘であったとは思わない。だが、彼は知っていたはずだ。なぜ、このような状況になったのかを。自分こそがこのような状況を招いた元凶であることを。
すべてを知っていたわたしは、古泉一樹のことを半ば敵性に近い人物として観測していた。だが、それでも彼の涼宮ハルヒに対する工作を妨害するようなことはしなかった。
なぜなら、わたしにはその権限が与えられていなかったから。
二人がつきあい始めた後、涼宮ハルヒは少し元気を取り戻し、古泉一樹と話し合うことが多くなった。だが、決して二人は彼のことを話題にすることは無く、SOS団に出入りする誰もが彼の名前を口にすることは無かった。
ただ時折、朝比奈みくるがかつて彼の座っていた席を寂しそうに見つめる様子だけが、確かに彼がここにいたことを証明しているかのようであった。
 
それからしばらく経って、朝比奈みくるは北高を卒業して文芸部室を去って行き、そしてわたし達も卒業式の日を迎えた。
SOS団に関係のあった者は、正式な団員ではない谷口や国木田、コンピ研のメンバー等も含め、それぞれ別々の進路を進み、誰一人重なる者はいなかった。
正直、古泉一樹が涼宮ハルヒと別の大学を進学先に選んだことは意外だった。それほどまで彼は、そして機関は、涼宮ハルヒを自分達の制御下に置いたという自信があったのだろうか。
そのような状況に危機感を覚えた情報統合思念体は、各派をまとめ、主流派のインターフェイスであったわたしに、この惑星で無制限に活動する権限を与えてくれた。
もう少し早くわたしにこの権限が与えられていれば、涼宮ハルヒを機関の手に委ねるような状況にはならなかったのに……
いや、本当にそうだろうか
もし、あの日にわたしがこの権限を手にしていたとしても、涼宮ハルヒは機関の手に落ちていたかもしれない。彼の恋人がいまの佐々木という人物からわたしに変わったというだけで。
真実を知る術は無い。情報統合思念体といえど過去を書き換えることはできないから。涼宮ハルヒという思念体の能力を超える不確定要素が関わっているため、正確に計算することもできない。
わたしにできることは、ただ現在を見つめるだけ。彼が幼馴染みとつきあい、涼宮ハルヒが古泉一樹とつきあっているという事実を。
北高を卒業して二年が経ったある日、涼宮ハルヒがSOS団に馴染みのある者に召集の命令をかけた。
朝比奈みくる、古泉一樹、コンピ研のメンバーに谷口や国木田、顧問であった鶴屋さん、そして彼の恋人である幼馴染みの姿がそこにはあった。だが、彼の姿はどこにも無かった。
「死んでしまったんだ……去年の秋に……僕を残して……」
朝比奈みくるの彼の近況を訪ねる言葉に彼の幼馴染みがそう答えた。周囲の視線が彼女に集中する。
「ご、ごめんなさい」
質問をした朝比奈みくるはそう言ったままうつむいてしまい、周囲に気まずい沈黙が漂い始めた。わたし自身も想定していなかった事態になんと言葉を紡いでよいか分からなかった。
「な、みんな、大袈裟だよ。そりゃあキョンがいなくなってしまったことはすごく悲しいけど、でもそうやってみんなが落ち込むことをキョンは望んでないよ」
彼の幼馴染みは集まったメンバーを元気づけようと寂しくハニカミながら周囲を見回した。
「キョン……いい奴だったのに……」
彼の高校時代の友人だった谷口が小さな声でボソボソっとそうつぶやいた。それを皮切りにして周囲にいた者達が口々に彼を偲ぶ言葉を投げかけた。
だがそんな中、涼宮ハルヒと古泉一樹だけがまるで心ここにあらずといった様子で、呆然と視点の定まらぬ目で彼の幼馴染みを眺めていた。
古泉一樹は彼に罪悪感でも抱いていたのだろうか。涼宮ハルヒはいったい何を思っていたのだろうか。理解しようと努めても有機生命体ではないわたしにはできるはずもなかった。
その日の集まりは、彼の幼馴染みの一言の余韻が冷めやらぬまま終わりを告げた。帰宅の途につく彼らの顔は笑顔でも、この日集まった全員が彼の死に言葉にできない何かを感じているようだった。
それからしばらくして、わたしのもとに涼宮ハルヒと古泉一樹が結婚するという情報が寄せられる。そのことを情報統合思念体に報告すると、二人のこれ以上の接近を阻止するべきという結論で各派は一致した。
正直、わたしは気乗りがしなかった。理由は……分かっている。だが、わたしには命令を拒否する権限は無い。
いつからだろう。わたしが自分の行動に対して有機生命体のように感情を持つようになったのは。
彼と会ったときから。いや、違う。自分の心に気づいたときから。これも正確ではない。そう、正確には自分の中にある彼への好意に気がついたときからだ。
彼に接し、彼に触れられるうちに、わたしの中に感情が芽生えたのだ。それまではただの人形でしかなかったわたしは、彼によってひとつの生命として新しく生を受けたのだ。
だがそれは、わたしが与えられた任務を達成するうえでは、時に障害となってわたしの前に立ちはだかった。
それでも、わたしはこの感情を疎ましく思ったことは一度もない。これだけが彼がわたしに与えてくれた唯一のものだったから。
 
わたしは自分の感情を押し殺したまま、古泉一樹と涼宮ハルヒの接近を阻止するための準備を着々と進めていた。その最中、予想外の出来事が発生する。古泉一樹がわたしに会いたいとメールを送ってきたのだ。
もちろん、わたしは警戒した。このタイミングで我々三勢力の中で最も優位な位置にいる機関のキーパーソンがわたしに面会を求めるなど、偶然にしては出来過ぎている。
だが、古泉一樹の方から接触を図ってきたことは、我々の陣営にとって絶好のチャンスでもあった。
たとえこの接触が罠であったとしても、相手の出方を見ることができるし、なにより涼宮ハルヒの傍でずっと籠城され打つ手が無くなるという事態に陥るよりも遥かにマシであったからだ。
情報統合思念体もわたしと同じように考えたのか、すぐに古泉一樹との接触の許可をわたしに与えてくれた。わたしは古泉一樹の指定した場所へと向かう。
そこはわたし達がかつてSOS団員であったころ、よく休日に不思議探索と称して集まっていた喫茶店だった。古泉一樹は一番端の目立たないテーブルで、彼にしては珍しく悩ましげな表情で、わたしを待っていた。
「お待ちしてました。僕の誘いを受けてくれて感謝します」
「…………」
いつものように儀礼的な挨拶を交わす古泉一樹を一瞥して、わたしは正面の椅子へと腰を下ろす。古泉一樹は少し困ったように苦笑いをした。
「あなたが僕のことを警戒していることは十分承知しています。僕とあなたは涼宮さんに関わる別々の勢力のメンバーなのですから無理もありません。
しかし、これから僕があなたにお願いすることは機関の人間としてでは無く、SOS団団員古泉一樹の願いであり、そしてそれは涼宮さんの為にもなることなのです。ですから是非、聞いていただきたい」
「内容による」
それから古泉一樹は、かつて文芸部室でしていたように身振り手振りを交えながら、自分の考えを打ち明け始めた。わたしは古泉一樹が依頼内容を話している間、ずっと彼に観察眼を向けていた。
言葉はその者の意思を完全に伝えることはできず、ともすればその意思を覆い隠す役割すらも果たしかねない。言葉だけではなく話してのしぐさや表情、雰囲気なども勘案してその意図を知ることが重要。
これはSOS団で涼宮ハルヒがわたしに教えてくれたことだった。そしてこのとき、わたしには自惚れではなく根拠を持って古泉一樹の本心を見抜けるという自信があった。
なぜなら、彼はSOS団でおそらく一番嘘が下手だったからだ。SOS団で一番嘘がうまいのはおそらく…………
 
古泉一樹の話の概要はこうだ。
彼は機関より涼宮ハルヒと婚姻し、いまの優位を揺るぎないものにするように指令を受けた。だが、古泉一樹はいまの自分と涼宮ハルヒの置かれている境遇に不満を持っている。
なぜなら、いまのままではあらゆる行動が機関の監視下に置かれ、時にその指令によって行動が制限されることになる。ともすれば、自分の意思に反する行動を涼宮ハルヒに対してとらなければならない。
だから、涼宮ハルヒに真の自由を与えるために機関から独立したい。だが、自分ひとりの力ではどうしても限界があるので協力をして欲しい、ということだった。
三年間、涼宮ハルヒの傍で古泉一樹を観測してきた経験からすると、彼がいま言っていることは9割方本心であると思って間違いはない。
だが、ひとつだけ本音の部分を隠している。現時点において、朝比奈みくるの勢力は我々二勢力に対して遅れをとり、もはや涼宮ハルヒを取り込むことを諦めているように考えられる。
そのため、機関と情報統合思念体が共倒れになれば、涼宮ハルヒを監視する勢力はすべて駆逐され、涼宮ハルヒと古泉一樹は完全な自由を手に入れることができるのである。それが彼の目的。
わたしの計算では、いますぐ行動を起こした場合、情報統合思念体にこの惑星での活動すべてを任されたわたしと古泉一樹の所属している機関との力はほぼ等しい。
そのため、古泉一樹の持つ機関内部の情報を手に入れれば、わたしと古泉一樹は機関相手に優位に戦うことができ、最後は勝利を収める可能性が高い。
だがその場合、わたしはともかく能力的には、訓練を受けているとはいえ、一般人とほとんど変わらない古泉一樹が戦闘終了まで生き残っている可能性はほとんど無いに等しい。そのことはきっと計算高い彼もよく知っているに違いない。
おそらく彼は戦闘の途中でわたしを裏切るだろう。そうなった場合、計算では思念体はこの惑星での活動ができないくらいのダメージを受け、わたしは存在そのものが消滅してしまうことになる。
さてどうするべきか。
じっとわたしを見つめる古泉一樹の姿を見て、わたしは古泉一樹の提案に乗ってもいいように思った。もちろん、そう決断したのは古泉一樹のためではない。
わたしは目の前で古泉一樹が彼と涼宮ハルヒを欺き、彼らに不幸をもたらそうとしているのを知っていながら、何もしなかった。ただ見ていただけだった。
あの時、わたしが越権行為を犯していれば、いまのような事態にはならなかったはずだ。そのことをわたしはずっと悔いていた。あの日からずっと。
だから、今度はわたしは自らの意志で古泉一樹の策に乗ることにする。思念体に報告することなく、自らの意志で。
刹那の時間。だが、わたしにとっては永遠にも近い時間が過ぎ去った。
ゆっくりと顔をあげ、古泉一樹の目をじっと見据えて、わたしは決意の言葉を口にした。
「あなたに協力してもいい」
回答を聞いて、古泉一樹は少し安堵した表情を見せた後、すぐに戦いを決意した表情になり立ち上がった。わたしは無言でその後に続く。
喫茶店を出るとき、わたしは一度だけ後ろを振り返り、かつて彼が座っていた席を見て彼に誓った。
「自分の選んだ決断に、そしてこれから迎えるであろう結末に、決して後悔はしない」と
 
後編に続く


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