佐々木さんがあたしに与えた、世界を安定させるための力。
 それはみんなの幸せに繋がるものだと信じていたから、あたしは、それを失くさないようにしないといけなかった。そうするために頑張るのも、嫌いじゃなかった。
 ……でも、本当は気付いていたのです。
 あたしたちが涼宮さんを神と認めてしまえば、それだけでいい。
 世界が佐々木さんに望む役割を彼女が果たせるのなら、何も変える必要なんてないんだってことに。
 
 ――あたしは、それが怖かった。
 
 そうだとしたら、あたしたちの行動にはなんの価値もなかったことになる。
 あたしに力が与えられた意味なんて、最初からなかったってことになっちゃうじゃない。
 
 けれど、ついにその日はやってきたのです。
 涼宮さんたちと直接的に関わり合うことで、あたしは彼女がどんな考えをもって行動しているのかを知ってしまった。もう、さすがに認めざるをえない。彼女は、決して世界を破滅に導いたりなんてしないって。
 そして、あたしがそれに気付いてしまったとき……、
 
 あたしは、みんなといる理由を失くしてしまいました。
 
 それだけじゃない。佐々木さんを苦しめてしまったあたしには、その資格だってありません。
 佐々木さんはあたしを許してくれたけど、あたしは自分を許せなかった。
 だからあの日……いつものみんなとの一日が終わりを迎えたとき、あたしは本当のサヨナラの意味を込めて、佐々木さんとくーちゃん、そして藤原さんに別れを告げました。
 だけど、言い終えるとともに駆け出したあたしの手を藤原さんは掴んでくれて、ポロポロと涙を落とすばかりのあたしの目を見ると……彼はこう言いました。
 
 ――僕にもう少しだけ、キミ達と一緒に過ごす時間をくれないかって。
 
 そして藤原さんがこの言葉で呼び止めてくれたおかげで、あたしはもう一度、みんなとやり直す機会を手に入れることが出来たのです。それは、気付いてしまえばとっても簡単なこと。
 過去を消し去ることは出来ない。だけどあたし達は、最初からやり直すことが出来る!
 みんなと一緒にいる理由なんて、これから作っていけばいいんだって!
 だからもう悩まない。あたしだって、みんなと一緒にいたいのだから!


 ……だけど、大切な人との別れのときは確実にやってきます。
 みんなとの日常を取り戻して、一緒に過ごした秋。
 藤原さんは、景色が秋色に染まる前にあたし達の前から去りました。
 あたしは今、すっかり紅葉を迎えてしまった山々を見つめながら……彼と過ごしたほんのちょっとの時間と、藤原さんがあたしに教えてくれたことを思い出しています。
 
 それは、彼がくれたあのシフォンの味に似てとっても甘くて、そして、少しだけ――――。
 
 
 
「…………」
 ……あたしは今、とんでもないものを見てしまったような気がして絶句しています。
 映画館。
 佐々木さんとくーちゃん、そして藤原さんとあたし。
 今日はみんなで、芸術の秋にかこつけて映画を楽しもうってことになりました。
 みんなで映画を見るのは初めてで、あたしは、ひょっとしたら藤原さんは嫌がるんじゃないかなって思ったりもしたけど……そんな不安をよそに、むしろ彼は「見たいものがある」と率先してここにやって来ています。
 ちなみにあたしたちが観ているのは『笑いによって患者を治そうとするお医者さんのお話』で、人を笑顔にすることで自分と患者を救ってきた主人公は、ついに最愛の人と共に診療所を開くことが出来たのだけど……物語の佳境で、彼は、自分の患者から愛する人を殺されてしまいました。
 そして今、スクリーンにはその無常を神様に嘆く主人公が映し出されているのですが……。
 ふと、誰かが泣いているような雰囲気を感じたあたしは、映画に夢中だった目を隣の佐々木さんのほうへと移してみたのです。
 すると佐々木さんはこっちのほうを向いていて、何やら驚いたような表情のまま固まっていました。
 それがあたしを挟んだ藤原さんに向けられているのに気づいたあたしは、そのまま顔を反対側へと捻りやると、そこにあるものを認識して、佐々木さんと同じように目をまるくしてポカンとすることになっちゃいました。
 
 ……藤原さん? まさか――泣いてるんですか?
 
 もちろんこれを声には出さなかったし、この場面で涙を流すことだって至極当然の流れなのです。あたしだって、涙の気配を感じなければ現実に引き戻されはしなかったでしょうね。
 とは言っても、ここでの驚きの理由は、誰がそれをしているのかってこと。
 あたしは男の人の涙なんて見たためしもないし、ましてや、あの藤原さんのそんな姿を見てしまえば
それはもう彗星衝突時となんら変わらないほどの衝撃なのです。それを目撃したあたしと佐々木さんが、同じ顔で呆気にとられているのも無理はないのです。本当にビックリしちゃったから……、
 
 結局、それ以降のお話はあたしの頭に入ってきませんでした。
 
 
「娯楽というよりは歴史的資料の閲覧に近い気持ちでいたが、いいものを見せてもらったよ。僕はあの理論を提唱した人物について知りたいと思っていたんだ。それにおいても、あの映画は素晴しいと言える」
「へえ、キミが観たがっていた理由はそれか。笑顔が人を癒すという理論は、キミの未来にとってなにか重要な意味があるのかい?」
「意味がある、なんてものじゃないな。彼の理論は世界人仮説を構築する上においても……」
 帰りがけに立ち寄ったファーストフード店で、藤原さんは熱心に佐々木さんと語り合っています。この二人が話を始めるとしばらくは止まりませんから、ヒマなあたしはくーちゃんの目の前でポテトをフリフリしたりして、それにぼーっとしたままパクリと食いついてくる仕草を眺めたりなんかしてます。その最中も佐々木さんは、
「……笑いは人を救うという信念をもった医者は、神からこう問いかけられていた気がする。キミは患者から愛する人を奪われてしまったとき、その信念を成立させることが出来るのか。それが真理だと思うなら、変わることなくそれを通してみよ――。この作品は事実に基づいていながら、とても残酷で、そしてそこにある真理を明確にするような試練を迎えているんだ。ここで主人公は深い悲しみを抱きながらも、己の信念を貫いていく道を選んだ。それはつまり、彼自身も笑いが人を救うという信念によって救われたということを示しているんじゃないかな。このように、彼が論じた真理は、自身が試練を乗り越えたことによって証明されたのさ。僕はこの映画を見て、残酷にみえる神はいつだって真理を語っているということを改めて学んだ気がするし、それにね、誰もが彼のような決断を下せるわけじゃない。だから僕達は、彼の生き様から人の目指すべき道を教えてもらった気がするよ」
「ああ。テーマがはっきりしている作品は僕達に何かを訴えながら自身の考えを主張してくる。だからメッセージを受け取る側は、その意見に対する感想と自分なりの答えを見つけなけりゃならない。それをちゃんと理解しているキミの話は嫌いじゃないよ。ところで――、」
 と藤原さんは、
「橘。キミはどうなんだ? なにかないのか?」
「ほえ?」
 くーちゃんに夢中だったあたしは不意をつかれて間抜けな声を出してしまいましたが、手に持っていたポテトを自分の口に運びつつ、
「んー……」
 後半は曖昧にしか覚えてないけど、何も思うところがなかったわけじゃない。色々考えることはあったのです。でも……なんて言えばいいのかな、難しいな。
 そう考えながらポリポリとポテトを食べていると、あたしの口元をずっと見つめていたくーちゃんがすっと藤原さんの方に顔を向けて、
「――――映画……。人は、笑っているべき……なの――?」
「……そうだな。でも、くーはそのままでいいんだ。無垢な存在、それが――」
「――じゃあ……あなたが泣いていたのは――何故――」
 キョトンとする藤原さん。くーちゃんは、笑うべきだと教えている映画を見て泣いてしまうのは不思議だって意味の言葉を続けています。藤原さんはちょっと困ったようにひとさし指で自分の頬をなでながら、
「つまり、一番大切なのは素直な気持ちなんだ」
 らしくないことを言うと、藤原さんはドリンクを片手にそれを飲み始めました。
 らしくない、なんて言ってみたけど、この人は素直じゃないようでいて正直なところがあるからどう言っていいのか判断しにくいのです。――まぁ、さっきみたいに涙を流せるようなところは……素敵だなって思いますけど。
 あたしはそんなことを思いつつ、
「……じゃあ、笑顔でさよならなんて矛盾してる気がするな」
 そう何となくつぶやいて、あたしはバーガーを食べようとしました。すると藤原さんが、
「気になるな。キミの言う矛盾とはなんだ?」
 あたしは開いた口を止めて、
「そうならない? 悲しいときは泣いていいはずなのに、別れるときは笑っていようなんて。それって自分の素直な気持ちでもないし、偽りの笑顔だって虚しいだけのような気がします。なんでみんなは笑顔でお別れを言おうとするんでしょうね」
「そんなことか。別に不思議でもなんでもない。そこで笑顔を作るのにはちゃんと理由があるんだ」
「……どんな理由?」
 ふ、と藤原さんは不敵な笑みを浮かべると、
「それくらい、自分で考えるんだな」
 ……う、教えてくれたっていいじゃないですか。
 あたしがちょっと甘えてみても彼はダメだと言うばかりで、全然教えてくれそうにはありません。
「…………」
 わかりました。もういいです。自分で考えます。それにもしかしたら、あとで実際に体験したときに分かるかもしれませんから。あ、でも、それは―――。
 
 あたしがいつか、誰かと別れちゃう日……か。
 
「なんだか、別に分からなくてもいいような気がしてきました。そんなことより、せっかくの秋なんだもの。佐々木さん、なにかやりたいって思わない?」
「……いざ考えてみると、なかなか思いつかないよね。藤原くんはどうだい?」
「僕に聞いてどうする。こういう場合、言いだしっぺがなんとかしなけりゃならないんじゃないか?」
「え、その……あたしは……」
 そして沈黙です。あたしと佐々木さんが悩ましげな表情を浮かべて、藤原さんがのんきにサンドイッチを食べているとき、
「――――秋、味覚……――」
 思わぬ人物の声を聞いて、みんなはすぐさまその発生地点に目を向けました。
 すると、くーちゃんはいつも通りの眠たそうな声で――、
 
「――――栗拾いが、旬なの―――」
 
 
 というわけで、次の休日。
 あたしたちは秋の味覚狩り、栗拾いにやってきました。
「栗拾いか……」
 とっても久しぶりなのです。そういえば、こうやって山に来るのも久々なんじゃないかしら。
「まさか九曜さんが栗拾いに行こうなんて言いだすなんて思わなかったけど、たまにはいいね。自然のなかでこうやって過ごすのも」
「遊びとして考えるなら、栗を拾うというのは結構シュールじゃないか? 栗を拾う。それで終了だ。まあ、面白くないわけじゃないけどな」
 ガサガサと山林を巡るあたし達は、両手に火箸とかごを持って栗拾いを存外に楽しんでいます。
 彼の言うとおり高校生の遊びとしてはちょっと珍しい気もしながら、あたしは、いがぐりを素手で掴んでいるくーちゃんを見てやっぱりシュールだなぁと感じています。そんなことしてると怪我しちゃいますよ?
 いがぐりに夢中になっているように見えるくーちゃんを尻目に、あたしも、美味しそうな栗さんたちをトゲから開放してあげる作業に奮闘中です。なかなか難しいのです。これって。
 すると、栗とたわむれるあたしを見かねたように藤原さんが近づいてきました。彼は背後からあたしの栗を覗き込むと、
「……キミは、簡単に中身を取り出す方法を知らないのか?」
「え、藤原さん知ってるんですか?」
 あたしが興味津々な反応をすると、彼はしてやったり顔を浮かべて嬉しそうにこう言いました。
「ふ。僕も知らないけどな」
 ……うわ。やられました。不覚なのです。あたしの驚く顔を満足げに楽しんだ藤原さんは、さっさと自分の作業に移っています。
 実はあたしが以前彼のケーキをだまし討ちして食べちゃってから、密かにあたしと藤原さんの間では、キツネとタヌキの化かし合いみたいな争いが繰り広げられているのです。さっきみたいに、自分の一言で相手の意表をつくような戦いがそれなのです。このあいだはフ○スクをコーラに入れると透明になるというデマ(本当は炭酸が反応するんです)を信じ込ませて、見事藤原さんのコーラを噴射させることに成功しました。えへへ。あれは大勝利だったと言えるのです。あ、でも、みんなは真似しないほうがいいかも知れません。その後めちゃめちゃ怒られて泣いちゃうのもあるけれど、それ以上に、これをやるとくーちゃんみたいに突然コーラを頭から浴びてしまうもっと可哀想な人が出てくるのです。
「――――きょこたん……」
 と……あたしが教え込んだ呼び名で、くーちゃんがあたしを呼んでいます。なんだろう?
「―――トゲ……」
「ああ、血が出てる! だからいわんこっちゃないのです! てゆーか、掴むまえに気づいて欲しいのです!」
 トゲをわし掴みしてたら当然怪我するに決まってます! くーちゃんは堂々と掴んでいたからてっきり平気なんだと思ってましたが、この人は今、あたしにトゲの刺さった手を広げて助けを求めています。
「もうっ! 佐々木さん、あたしはちょっとくーちゃんの手当てをしてくるから、先に行ってて下さい!」
 なのでとりあえず、あたしはみんなと別行動を取ることにしました。
 
 
 
「あれ……? みんなどこに行っちゃったのかな……」
 くーちゃんの怪我は自分で治せないかと聞いてみたら一瞬のうちに元通りになってしまいました。そして元気になったくーちゃんはあたしの道具を貸りると、ふらふらと何処かへ歩いて行ってしまったのです。どうやら一番大きい栗を探し求めているみたいだけど、なんだか栗以外のものを拾ってきちゃいそうな予感がありありとしてくるのです。迷子にならなければいいんですけど。
「って、もしかしてあたしが迷子になってるんじゃ……」
 言うまでもなく迷子になったあたしは、とにかく誰かいないかなと周囲をきょろきょろと見渡してみました。すると――、
「んん? あの人って、まさか……」
 少し離れた場所の木陰に、まるっきり予想もしてなかった人影が見えます。あたしは若干身体を隠すようにしてその人物をちゃんと確かめてみると、
「――やっぱり。あの朝比奈みくるさんの、大人の姿よね。なんでここに……?」
 でも、それはすぐに判明しました。彼女の目の前には藤原さんがいて、どうやら二人でなにかを話しているようです。……どんな話をしてるんでしょうか?
「ふふ。楽しそうですね。だから、こんな話をするのは気が引けちゃいます」
 藤原さんは沈黙。
「ごめんなさい。あなたもわかっていると思うけど、わたしがここにきたのは……」
 なおも憮然としたままでいる藤原さんをみて、彼女は少しうつむき加減に言葉を切りました。このやりとりからみても、彼女の用件はあまり良い内容じゃなさそうです。
「あなたがこの時間平面に留まっている理由は理解してるつもり。だけど……《パンドラの禁忌》であるわたし達が、過去の人と親密な関係になってしまうのはあまり望ましいことではありません」
 ――なんでしょうか。聞き慣れない言葉。《パンドラの禁忌》……?
「あなたが彼女に好意を抱いてしまった罪は、あなたが彼女を失うことによってあながわれます。だけど、彼女はどうなの? すでにあの子は、力を与えられてしまったことによってそれを失う悲しみを味わっています。彼女の笑顔を取り戻したのはあなただけど、それを奪うのもあなた。あなた達が時間を重ねていくにつれて、彼女があなたを失ってしまうときの悲しみも大きくなっていくの。結局は、同じ苦しみを彼女に与えてしまうことになるわ。だから……あなたの帰還は出来るだけ早いほうが、あなた達のためでもあるんです」
 藤原さんは片手を掲げると、
「はっ。上からの苦言はもう終わったか? それはあんたの言葉じゃないだろう。《パンドラの禁忌》を気にして、それが持つ本来の警告を忘れてしまっているのは上層部の一部の輩だけだ。うるさいだけのやつらの命令を遂行しなきゃならないあんたもご苦労なことだな」
 スレンダーな朝比奈みくるさんは無邪気な笑顔を見せると、
「そうですね。といっても、小さい頃のあたしはそれに従って恋なんてしないように心掛けていたんだけど。その分だけ、あなたがちょっとうらやましいな」
 それを聞いた藤原さんが彼女のほうを向くと、大人の朝比奈みくるさんはしっかりと視線を合わせて、
「好きなんでしょう? 橘さんのことが」
 …………思わず声がでちゃうところでした。いきなりとんでもないことを言うのです。この人は。
「そんなことを聞いてどうするんだ? それを僕に答えさせて、あんたがなにをしたいのかわからない。答える必要はないな」
 藤原さんの返答にちょっと興味はあったけど、そうなっちゃいますよね。
 なんだか残念なような、ホッとしたような複雑な気分なのです。
 ――なんて思っているときでした。
「…………」
 藤原さん、顔が真っ赤ですよ? なんとゆーか、そんな顔をしてたらバレバレよね。……こっちまで恥ずかしくなってきちゃうじゃないですか。
「ふふ」
 わかりやすい反応に笑みを見せた彼女は、なんとチラリとあたしの方を見てきました。あたしが驚きのあまり声も出せないでいると、
「聞く必要もなくなっちゃったみたいね。だけど、あなたに過去に行ってやるべきことがあるのは確かです。それを忘れてしまわないようにしてくださいね」
「……ああ。わかってる」
 そして藤原さんは言いました。
 
「紅葉は……見れそうにないな」
 
 
 かたこと揺れる電車の中。
 あたし達は栗拾いを終えて、対面式の座席に腰を下ろしています。
 あたしの隣には藤原さん。正面には佐々木さんとくーちゃんが座っていて、二人は心地良い寝息を立てています。とってもほのぼのとした風景なのです。
「可愛いよね。二人とも」
 いつもはくーちゃんとあたしの位置が逆で、こんな風に遠出をした日には藤原さん以外眠ってしまうんだけど、今日はそうもいきません。
「僕にとっては見慣れた風景だよ。それはつまり、目的地を寝過ごしてしまわないように僕だけがいつも起きているということだ。ふ、しょうがないと諦めてはいる。キミたちの寝つきの良さにはかなわないからな」
 文句を言っているようでも、彼の表情には穏やかな色が浮かんでいます。藤原さんの他人を気遣うときの言葉が本当に安心できるのは、すでにあたしにとっては意外なことではありません。
 窓際に座っている彼は、外を眺めながらほお杖をつくとふう、と溜息もついて、
「僕も、今日は疲れたな。キミが起きているなら、僕は休ませてもらうことにする」
「……その前に、一つ聞いてもいいかな?」
「なんだ」
 何を見るともなしに車窓へと視線を固定したまま、彼はおざなりな返事であたしに答えます。
 あたしは視線を藤原さんの横顔から前の二人の寝顔にずらして、そのまま足元にゆっくり落とすと、
「あの。《パンドラの禁忌》って、どんな……」
「……? それを、なんでキミが知ってるんだ?」
 呆気に取られたように目を丸くして、藤原さんはあたしが言葉を終える前に問いかけてきました。
 ちょっとビックリして何も言えずにいると、
「――そうか。妙だと思ったんだ。これが、朝比奈みくるがわざわざあんなことを確認するために出向いてきた理由だったのか。……聞いてたんだな?」
 あたしが無言で頷くと、彼はまた景色を見つめて、ゆっくりと話し始めました。
「……パンドラの壷の逸話は知ってるだろう?」
「それって、箱じゃなかった?」
「内容はどちらとも一緒だが、僕がこれから話すのは、この時間平面上で知られているものとは少しばかり違っている。朝比奈みくるがキミに会話を聞かせていたのなら、話しても構わないだろう」
 パンドラの箱。
 それはパンドラっていう女の人が、禁断の箱を開けてしまうお話。
 この物語については諸説あるのですが、彼の話は、そのどれとも違っていました。
「パンドラは、絶対に開けてはならないと神から言われていた壷の中身を知りたくて、ある日それを割ってしまったんだ。すると壷の中に入っていた様々な災厄が世界に広がり、平和そのものだった世界に悪というものが生まれてしまった。驚いたパンドラは『箱』を作りそれを鎮めようとしたが、『箱』では既に生まれてしまった悪を消し去ることは出来なかった。しかし一つの大きな災厄を閉じ込めることには成功し、そのお陰で、かろうじて人は生きる希望を繋ぎ止めることが出来た。……これが、僕達のパンドラの逸話になる」
「その災いって?」
「それは《予兆》で、これは、人が未来を知り得てしまうという災厄なんだ。自分の未来を知ってしまった人間は、そこで歩くのを止めてしまう。行く先を知ってしまうことは、
人間にとって大きな災いとなりえるというわけだ。そしてパンドラが封じ込めた《予兆》こそ……」
 藤原さんは遠い目をして……。
「僕達、未来人なんだ」



「壷という表現には、一切の矛盾も含まない完璧な世界という意味の隠喩がある。それを崩壊させたパンドラは新たに『箱』の世界を作ったが、それは生まれてしまった悪、つまり矛盾を消し去ることが出来るものじゃなかった。だから人間は、真理と矛盾の介在する世界を生きていくことになったんだ。……そんな中でもパンドラの箱は《予兆》だけは禁じていたが、やがて『箱』は涼宮ハルヒの時空改変能力によって開かれ、この世界は時間平面の連なりによる『紙』の姿に変わった。それによって存在することが可能になった《予兆》とは未来からの情報、つまり未来人そのものだと言える。つまり僕たちは、キミたちにとって災いをもたらすもの――人が触れてはならない、パンドラの禁忌なんだ」
 ぼんやりと解るような、解らないような感じなのです。でも、
「そんな理由があったなんて意外。あたしはてっきり、あなた達が恋をしちゃいけない理由って、いつか絶対にお別れがきちゃうからだって思ってました」
「そう考える者もいる。特に上層部は、《パンドラの禁忌》である僕達が現地民と必要以上に触れ合うことに懸念を抱いているんだ。神話でも、人間に恋をした神の従僕は堕天使になりさがるからな。これも警告だよ」
「……でも、あなたはそうは思わないのでしょう?」
 あたしが藤原さんの顔を覗き込みながら言うと、彼は少しのあいだあたしと目を合わせて、ぷい、と顔を離すと、
「……今から、例えばの話をする。だからこの話に大した意味はない。それをまず頭において聞いてくれ」
 頷くあたしを見ることもせず、藤原さんはそのままの姿勢で話し始めました。
「僕はキミのことをもっと知りたい。そのためには僕のいる場所はキミと遠すぎると分かっているのに、僕がキミに歩み寄ることは許されないのか? 結果が出ているから歩みを止めてしまう、それが《予兆》のもたらす災いなら、別れが必然だからといってキミに近づくのを諦めてしまうことこそ《予兆》が引き起こす災いだ。パンドラはこの世に悪をもたらしたが、それによって人は自分で歩く意思を手に入れたんだ。『希望』は、人がその意思を持つことで見えてくるものだと僕は考えてる。だから――」
 彼は目をつむって……、
「僕がキミに近づきたいと願う気持ちは、許されないことじゃない」
 それっきり、彼は顔を背けるようにして黙っちゃいました。
 あたしはなんて言っていいのか、どんな顔をしたらいいのかも分からないまま……小さく、
「……あたしとあなたの距離が遠いなんて、そんなことない。だってあなたは、いつだってあたしが手を引いていかないと動かないじゃないですか。それに、あたしのことを知りたいなら、もっと藤原さんのことも教えてくなきゃダメです。――でも、これでやっと、あなたと分かり合えるような気がします」
 だから、まず、これはあたしからの、はじめの一歩。
「……なにをしてるんだ。あんたは」
「ん。いいじゃないですか。肩くらい貸してください」
「……あとで、ちゃんと返してくれよ」
 あたしは彼に寄り添うと、電車の揺れる音に包まれながら……いつの間にか、心地よい眠りについたのでした。
 
 
 秋。
 あたしにとってそれは、別れの秋になりました。
 
 でも、それは悲しいことなんかじゃない。
 それは、あたしたちが一緒になれたということだから。
 次の季節には彼はもういないとわかっていても。
 この季節の中で、あたしたちが離れる理由になんかなりません。
 例えそれが限られた時間の中だけだとしても、この日から、あたしたちはちょっとずつお互いを知ろうとしていきました。
 そして、そんな日が何日も続かないうちに……。
 
 10月31日。――ハロウィンがやってきます。
 
  
「あ、そろそろみたいです。藤原さんも、ほら。見逃しちゃうよ?」
「…………」
「ちょっと、聞いて―――あ、」
 すっかり暗くなった街並みに、待っていましたと言わんばかりにかぼちゃの灯りが一斉に煌き出しました。

 かぼちゃとは言っても、ジャック・オー・ランタンの形をした提灯なんですけど。
「今日は遊び疲れちゃったけど、まだまだハロウィンはこれからって感じがします。あなたもそう思わない?」
「…………」
 む。彼はさっきからぼーっとしたまま、まるであたしの話が耳に届いていません。
 今日は一日ハロウィン一色に染まった街を練り歩いて来ました。そして日も落ちてきたから少し休もうとベンチに腰掛けてからというもの、彼はなんだかもの思いにふけるように黙ってしまったのです。
「藤原さん?」
「……あ。すまない。どうした?」
「いきなりどうしちゃったんですか? 今日は珍しくあなたから声を掛けてきてくれて、しかも二人っきりで、なんて言ってきたじゃない。もしかして……あたしと二人じゃ楽しくなかった?」
 すると彼は、まるで揶揄するような笑みを浮かべて、
「キミには、僕が楽しんでいないように見えていたのか?」
 むしろ逆です。あんなにずっと笑顔でいる藤原さんなんてはじめて見たのです。かぼちゃのプリンを食べている彼に「美味しい?」って聞いたときも素直に「美味しい」って返してきたし、あたしがふざけて甘えてみたりしたときも普段なら照れてはねのけるくせに、今日はやれやれ仕方がないなといった感じで笑顔のままあたしの要求に答えようとしてきました。ほんと、逆にこっちがビックリしたくらいよ。なんだか調子狂っちゃうなって思ったけど、彼の笑顔に嘘はないようだったから特に気にはしなかったのです。でも……
「……なんだか、今のあなたは無理に笑ってる気がするな」
「ん……」
 戸惑った様子を見せた彼は、しばらくしてあたしから視線を外すと、前を向いて、
「――橘。キミは、ハロウィンは好きか?」
「へ?」
 いきなりな質問にポカンとしていると、
「僕は嫌いじゃない。この日だけは、どんな憂鬱な空でもにぎやかな色に変えてくれる。暗い色彩が明るい意味を持つのは、ハロウィンにおいて他にないよ。そう思わないか?」
「独特な雰囲気は嫌いじゃないです。それに、今だってすごく綺麗。はじめてハロウィンに浮かれてみたけど、すっかり好きな日になっちゃった。これも、全部藤原さんのおかげです」
 ふ、と笑う藤原さん。この笑顔は自然な感じなのです。
「……キミは鋭いな」
「――どうしたの? 急に」
「僕は未来に帰ろうと思ってる。この日が終わったらすぐに。佐々木たちには昨日話したよ。キミには言っておきたいことがあったから、今日誘ったんだ。でも、なかなか言い出せなくてね。今から言おうと思っていたら、キミに笑顔を指摘された。……けどな、別れるときくらいは無理にでも笑っていたいんだ」
「え……」
「僕が以前よく言っていた言葉を覚えているか? 何をやろうと結果が同じなら、それが導かれる過程なんかに大した意味はない。……こう考えていると、自分の行動にはまるで意味がないように思えてくるんだ。だから僕は、キミが必死になって何かを成そうとしているのはくだらないことだと思っていた。なんて馬鹿馬鹿しいんだとね。……でも、本当はなにもわかっていないのは僕のほうだった」
 一瞬顔に陰を落として、すぐ元に戻ると、
「結果が同じだからといってその道順に意味を見出せなくなることは、《予兆》がもたらす災いと一緒だったんだ。それに気づいてから、僕には、キミの姿が違って見えるようになったよ。自分の思うように生きるキミはなんて力強いんだろうとね。そして、そんな風に生きるキミには出来るだけ笑顔でいて欲しいと感じるようになった。キミの暗い顔を見ていると、僕も落ち着いてはいられなくなったんだ。……そしてあの日、キミが僕たちの前から去っていこうとしたとき、僕はキミの手を掴んだ。あれからずっと、キミに言いたいことがあったんだ。それを今から話すから、聞いて欲しい」
 ……うつむくあたしに、藤原さんは優しい声で、
「キミのやってきたことは無意味なんかじゃない。キミが作ってきた時間は、誰にとっても価値のあるものなんだ。
それを忘れずに、これからも僕が惹かれたその屈託のない笑顔を見せていてくれ。自分の意思をちゃんと持っているキミなら、それが出来ると信じてる」
「…………」
 あたしはスカートをギュッと握り締めて、
「――そんなの、無理に決まってるじゃない……」
 あたしがどれだけ強く目をつむってみても、溢れてくる涙を止めることは出来ませんでした。それでも我慢しようとしたけれど、その度にのどが締め付けられるように苦しくなってきます。そしてやっと、あたしは振り絞るように、
「なんで、そんなことを言うの……? どうして最後なの……? もっとはやく言ってくれれば、あたしたちは今よりずっと近くにいれたかも知れないのに……。笑って欲しいなんて……ひどいよ。そんなの、出来るわけないじゃない。あたしはまだ、あなたと一緒にいたいの……。でも、それが叶わないってわかっているから……くやしくて、悲しいんです。こんなときに無理にでも笑っていようなんて、無茶言わないでよ……」
 静寂があたりを包んで……しばらくすると、そこから零れ出すように、
「……別れるときに人が笑顔でいようとするのは、自分の気持ちをごまかすとかそんなのじゃないんだ。言っただろう? 僕はいつだって、キミに笑っていて欲しいと思ってる。キミが笑顔になれないなら……僕の目を見てくれないか?」
 あたしが顔を上げると、藤原さんは優しい笑顔を浮かべていて、
「人が悲しいときに笑顔を見せる理由を教えるよ。……それは大切な人に、笑顔を浮かべてもらうためなんだ。だからキミも――」
 むにっと藤原さんはあたしの両頬を引っ張ると、
「……笑ってくれなきゃ、いたずらするぞ?」
「もう、してるじゃないですか……」
 このやりとりを交わしたあたしたちは思わず笑い出して、そして……。
 
 ――trick or laughing?
 
 悲しいはずのお別れの日。あたしはこの言葉とハロウィンのおかげで、笑顔を浮かべることが出来ました。
 そしてこの瞬間、あたしは彼にこう誓ったのです。
「藤原さん。あたし――……」
 
 いつか別れてしまうからといって、この時を止めて欲しいなんて思わない。
 きまぐれな秋の空だって、好きなときに泣いちゃえばいいのです。
 そしてあたしは、それが当然のことであるように……
 
「――悲しいときも、笑顔でいますから!」
 
 
 そう。
 少しだけほろ苦いけど、これが、あたしと彼との幸福論。
 
 あのときに彼が教えてくれた、シフォンの美味しさなのでした。

 

 

 シフォンの幸福論おかわり。 完  前作『シフォンの幸福論


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