発光ダイオードを掻き集めたような光が、いつもならば灰色に統一された空に雷鳴の如く走る。閃光に乗じてぱりぱりと音を立て、まるで卵の殻が罅割れるように空が剥がれ落ちてゆく。
崩れた膜の向こうには青鈍色が覗いた。
金網の張ったフェンスに凭れて、此処ら一帯では最も空に手が届き易い場所――高層マンションの屋上を、僕は終焉を見届けるための終着点に選んだ。遮るもののない真の意味での最上階では、上空から吹き付けてくる突風に肌に切り込むような鋭さがある。おざなりに羽織ってきた外套が白旗のように風に踊った。
見晴らしはいいが、長居するには不向きな場所だ。暖を取れるものが何もない。晩秋の風は想像以上に厳しいもので、芯まで凍るような寒風を浴びせられると、背筋から抗いようのない震えが襲来する。

僕は息を殺して、総てを見ていた。
長年共に戦ってきた同士達も今、思い思いの場を選んで、この美しい世界の、ある種の死と呼べるものの全容を見納めにしようとしているはずだ。彼等は一体どのような心境でいるのだろう。僕が参入する以前からこの空間にて神の人を相手取ってきた古参の能力者もいる。狩人が神から与えられた力を失い、安寧の生活を取り戻す瞬間の感慨とはどのようなものだろうか。境遇でいえば僕とて同じ条件であるはずなのだが、僕は、この一時に僕自身が何を想うのかを未だ測りかねているのだった。

暗闇に光が差し込み始めている。これまでの単純な閉鎖空間の崩壊ではない、閉鎖空間がもう二度とは生まれないだろうことが、はっきりと、僕らにはわかるのだ。
此の世のものとも思えぬような絶景を目の当たりにしながら、思い返していた。
――古泉くん、と、彼女の声。

凛と鳴る、可憐というには芯が強過く、彼女が好意を示す相手に対しては優し過ぎた声。
一年ほど前のことだ。
受験シーズンも真っ盛り、勉強尽くめの毎日が続いていて、放課後も部室で皆が勉学に勤しんでいた。けれどやがて偶には気晴らしも必要だと涼宮さんが、久しぶりに休日に皆で会いましょうと提案した。卒業していた朝比奈さんとはそう頻繁に会えなくなっていたこともあって、反対意見はなかった。
当日の集合場所に赴く途中にその涼宮さんと鉢合わせて、どうせなら一緒に行きましょうと言われるままに並んで歩いて。その途中に古めかしいリヤカーを見つけて、少し季節の早い石焼き芋を団員分だけ買った。火傷しないようにと気を遣いながら、熱い塊をマフラーの下に新聞紙ごと抱え込んだ。 
少し遠回りになってしまいましたね、もしかしたら僕らが最後の到着かもしれません。それでものんびりとした歩調を急がせはせずに、彼女は笑った。そうかもね。でも、そのときは罰金代わりにこの芋を渡せばいいわ。文句は言わせないわよ、団長と副団長の心憎い思い付きだったんだから!

暫く談笑して、まだ目的地まで距離のある路道で、空は紫色を薄く延ばしたような半透明の雲に覆われていた。斜陽を浴びた、彼女の瞳は美しかった。

『古泉くん』

思いついたように、けれど前々からその言葉だけは決めていたのだろうと思える確かな響きで。
ふと笑みを収めた少女が、振り返った。

『古泉くんには言っておくわ』

静かな表情のうちに、コロナのように黒瞳が燃えていた。情熱の揺らぎ。彼女の瞳のなかは太陽そのものだ。
僕には眩し過ぎて直視できなかった、眩い光。

『あたし、キョンが好きよ』

白い息が吐き出されて、すぐに溶けて見えなくなった。

『―――はい』
『……知ってたの?』

知っていた。
当たり前に、知っていた。

彼女は照れ隠しに古泉くんには隠し事ができないわね、と明後日の方向を見ながら言い、彼女はその普遍的に誰からも祝福されるべき感情を打ち明ける決意をしたことを、僕に明かした。
僕は笑ってそれを後押しした。 


それから間もなく涼宮ハルヒは「彼」へと告白し、「彼」はそれを受け入れ―――
涼宮ハルヒの力が大幅な減少の兆しを見せたのは、二人が結ばれたその夜のことだった。




発生した閉鎖空間が、狩りをするまでもなく自然に崩壊を始めるようになり、しまいには神人も現れなくなった。
同士たちと同じく、僕自身も己の能力が日に日に薄れていくことを自覚した。もう涼宮ハルヒに、閉鎖空間は必要なものではなくなったのだということも。
空間は既に現実世界と、然程の変わりを持たなくなっていった。闇は白く塗り替えられ、光が差し込み、世界は暗がりから引き揚げられる。いつかに神とさえ呼称された娘は、彼女自身が抱え込んでいた底なしの孤独を解消したのだ。
彼女を「神」たらしめていた力が消滅する。
それは超能力者が普通人へと戻る時でもある。

以前の自分は、それを渇望していたはずだった。真っ当な、平穏な、「機関」のような組織に絡むことも世界平和に心を砕くこともなく、暢気に明日のテストのことを悩んでいられる生活。喉から手が出るほどに欲していたもの。
それなのに、僕の心には例えがたい空虚が生まれた。
自己分析するまでもなかった。
置いて行かれたような気がしたのだ。選ばれたはずだった自分は所詮彼女の裏面を処理する精神安定剤でしかなく、何処までも太陽には手が届かない。不遜にも手を伸ばそうとすれば、僕は赤い光の羽を失って地に叩き落されるだけだと思い、僕は「彼」と彼女を見守る役に徹し続けてきた。
単なる言い訳かもしれなかったが、間違いではなかったはずだ。太陽は僕のものではないのだから。
太陽が、去り行く――
一日に日が昇り沈むことが当然であるように、季節が巡り出逢いの日が別れの日となるように。いずれ訪れると分かりきっていたこと。
それを哀しむ理由なんて、僕には何一つないはずだったのに。
  
  

『古泉くんを副団長にして大正解だったわ!さすが古泉くんね!』


僕は眼を逸らさず、見つめ続けていた。
最期の閉鎖空間が崩壊し、散り散りになって光の洪水に巻き込まれ、青白く染まった視界がやがて赤味を帯びていく。




白昼夢を見た。
座り込み、くたりと眠る少女を抱きしめている。少女は僕の知る彼女よりも数年幼い姿だった。
少女の身体は温もりを徐々に失い、冷たくなっていく。
その肌は透けて、青白い光を放ち、形をなくしていくのだ。

――『神人』の娘は、最後の最後にぱちりと眼を見開き、僕の瞳を覗き込んで、にこりと笑った。


ながいあいだおつかれさま、こいずみくん。


僕も笑った。礼を取って、少女の髪を撫でて、笑いかけた。

――あなたこそ。 






取り巻く空気が変容する。
喧騒が戻ってくる。
冴え冴えと燃える、赤い夕日が高層建築の狭間にぽっかりと浮かんでいた。血のような鮮烈さが生々しく、けれど帯びる光は穏やかに暖かい。長い間記憶していられるような類のものではなく、僕は刹那に見た夢の内容を朧にしか覚えてはいなかった。取り払えない寂寥感が、落とされた一点の染みのように消せずに胸に残っている。

この身のうちから限定的であったとはいえ、保持していた力がなくなったことを実感しているせいかもしれなかった。超感覚的なものではあったが、以前の僕にはあったものが今の僕にはない。それが、分かり過ぎるほどに分かる。

このまま赤い空を感傷的に眺めていたい気もしたが、風の冷たさは空間内とさして変わらない。一枚羽織ったコートのみでは寒気を遮るには心もとなかった。
僕は踵を返し、伸びる影を踏むように足早に歩き始めた。
非常階段を利用し、人通りの殆どない階段下にまで降りてから、沈み行く太陽をビルの合間から振り仰ぐ。

 



初めて少女の悲鳴じみた感情の片鱗に触れた日。
初めて生身の少女を肉眼で確認した日の心臓の暴走。
初めて少女と言葉を交わし、手を引かれて部室の扉を潜った日。

僕の目の前で世界は何度も転変した。一度目は五年前能力に目覚めた日であり、二度目は彼女の笑顔を網膜に焼き付けた瞬間、三度目は惹かれていることを自覚したときだ。
色づけられたのだ。奇跡のようだった。
一度目に灰色に堕とされた視界が、二度目に虹色の輝きを取り戻した。彼女の笑みが生き甲斐だった。そのためなら、何を惜しむ気もなかった。選んで貰えた、この世の誰でもなく僕が選び取られたのだと。それが例え数合わせのルーレットの果てであったのだとしても、そんなちっぽけなことが自負であり誇りだった。
愚かなことは分かっていたけれど、僕は確かに幸福だったのだ。 



――春を憂い、秋を見た。太陽を見送った、秋の日。

僕が天上の光に恋い焦がれたことなんて、僕の他の誰が知らなくても構わない。僕があなたを愛したことを想っていた。去り行く光の根源に、別れの台詞を吐くことほど不似合いなことはない。初めから、わかっていたことなのだから。

気付くと、何時の間にか頬が濡れていた。
思い至った途端に鼻の奥がつんとして、視界が滲んだ。こんな泣き方すら随分としていなかったことを思い出した。
人がいないせいもあってか、歯止めが効かない。裾で幾ら拭っても溢れるものは止められず、僕は掌で眼を覆った。
いつものように笑えるまで、今だけ。
しゃくり上げて子供のように泣きながら。
眼に染み込むように優しい橙色の光を、太陽が沈みきるまで、受け止めていた。 






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