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『もう一人の秘されし神』

第一章

夏休みを間近に控えた七月某日。

「すみません。 夏休み最初の週の活動は欠席したいのですが」

「え?どうしたの古泉君?」

SOS団の活動より優先するものがお前にあるとは、知らなかったな。

「実は、某大学で予定されている興味深い実験に参加したいと思いまして」

「へえ? なんだか古泉君らしいわね。 どこかの誰かとは大~違い」

こっちみんな。

「で、なんの実験なの?」

「研究中のマン=マシンインターフェイスです」
「公式発表に先立って、予備知識の無い一般人に実験機を使ってもらい最終的な調整を行うのだそうです」

マン=マシンインターフェイスってなんだ?

「もうっ、そのくらい一般常識レベルよ?」
「古泉君、説明して」

「キーボードやマウス、コンピュータのモニタは一般的なマン=マシンインターフェイスのひとつです」
「高度なものでは、神経のパルスを拾って屈伸する義手、義足、パワーアシスト装具なども該当します」
「完成した実験機は知覚カプラーと呼ばれていて、全ての知覚を再現することができる。 と聞いています」

それって凄いのか?

「我々が環境を認識できるのは、多くの情報を知覚を通じて得ているからです」
「知覚カプラーが本当に全ての知覚を再現できるなら、現実と変わらない仮想世界を作り出すことができるはずです」

「みなさんも参加してみませんか? 実は、SOS団で参加申請をしたので五人分の参加枠があるんです」

おいおい、やけに手回しがいいじゃねーか。
あからさまに機関がらみなのがばればれだな。

「ふーん……」

こいつの性格からすると、仮想世界なんぞにはあまり興味を持ちそうに無いな。
本当に楽しいことは現実に楽しんでこそ、とか考えそうだ。
未来人の朝比奈さんにとっては博物館ものだろうし、長門にいたっては……
残念だな、古泉。今回のたくらみはちょっとスジが悪そうだぜ?

「わかったわ。 いつ、どこに行けばいいの?」

「行くのかよ!」

「なに驚いてるの、あんたも来るのよ。 どうせ家でダラダラする気だったんでしょう」

「じゃ、当日は朝八時にいつものところに集合! 遅れたら、仮想世界に閉じ込めてやるから!」

帰り道、先頭を行くハルヒに聞こえないよう古泉の奴に話しかけた。

おい、実験とやらは機関がらみなのか?

「いえ、機関とは何の関係もありません」

本当か?

「神に誓って」

お前の神はハルヒだろうが。
それに、そんなニヤけた顔で誓われても胡散臭いだけだ。

「これはひどい」

だからニヤけるなっての。

それからの期末試験の答案返還やらは思い出したくも無いが、とにもかくにも明日から夏休みだ。
そして大学見学の初日でもある。

なにか…妙な予感がする。
が、長門の様子にも変わったところは無かったし大丈夫だろう
まぁいいさ。 せいぜい夏休み初日を楽しもう。 普通に。

※※※※※※※※

「遅い! 罰金!」

セリフの主はハルヒじゃない、俺だ。
お前が最後とは珍しい。 俺が知る限りまだ二度目だ。

「ちょっと、夕べ、むり、しちゃって」
「それから、いまのあたしの、真似? 似てないから、やめなさい」

息切らしながらしゃべらんでもいいから。 いつものとこ行くか?
ハルヒの汗をハンカチでぬぐう朝比奈さんの姿がかいがいしい

「だめよ。 時間になっちゃうわ。 もう行かなきゃ」

時間はまだありそうだが…… 腕時計で見ても、一息ついていくくらいの余裕はある。

「そんなことだからいつも遅刻するのよ。 改めなさい」

「ではみなさん、揃ったことですしそろそろ移動しましょう。 切符は買ってあります」

気前がいいな。 本当に裏はないんだろうな?

「僕のわがままで付き合っていただいているのですから、このくらいはさせてください」

「さすが古泉君ね。 気遣いがいきとどいてるわ」

だからこっちみんな。
ところで、無理ってなにやってたんだ?

「あぁ、宿題よ。 さすがに一晩で全部やっつけるのは無理だったわ。 あと三時間もあれば何とかなりそうだったんだけど」

しれっとなんでもないことみたいに言うな。

カタタン カタタン
列車の擬音といえばこれしかないと思うが、最近は継ぎ目のないレールが当たり前になってあまり音がしない。
まぁ、どうでもいいが。 ともかく、俺たちは列車に乗っているわけだ。
ハルヒを真ん中に朝比奈さんと長門が座り、野郎二人はつり革につかまっている。
降りる駅まで小一時間、ハルヒは朝比奈さんによりかかって寝入ってしまった。
こいつの寝顔をまじまじと見るのは初めてだな。本当にかわいい・・・

ふと、朝比奈さんの視線を感じて目を向けると、見る者すべてに幸せを与えずにはおかない笑顔で

「キョンくん?鼻のしたが伸びてますよ?」

なっ!!

「おやおや、珍しく素直な表情をひそかに楽しんでいたのですが元に戻ってしまわれましたね」

ハルヒがかわいいのは一般論であってだな、俺は別に特別な何かがあったりはしないぞ? うん。 ない。

なんだ二人とも、こらえ切れない笑いを押し殺したような顔をして。

「いえ別に。 我々はあなたの表情を指摘しただけであって」

こら、俺の朝比奈さんと妙なアイコンタクトを取るんじゃない

「キョンくんが誰かを見てたなんて、ぜんぜん言ってませんよね」

「あなたの表情筋は弛緩していた。 そのときの視覚情報も記録してある」

長門っ!?

「……記録を見る?」

見ない!誰にも見せるんじゃない! 頼むから消してくれ

長門は俺を静かに見つめた後、なにも言わずに読書に戻った

頼むから消して……

「長門さん長門さん」

朝比奈さんが片手を長門に差し出しながら、ニコニコしている。
まさか……
長門の指がゆっくりと、朝比奈さんの手にちょんと触れた

「ふあぁ~」

顔を赤くしてかわいい悲鳴をあげる朝比奈さん。
……もう好きにしてください……
天使のような笑顔が見られるなら、俺の恥くらいなんでもありません。

「興味深いですね。 僕にもできないものでしょうか」

朝比奈さんは少し迷っているようだった。
すこしうつむいて考え込み、ついで目を閉じて空を仰ぐ。
未来と連絡を取り合っているようにも、記憶を辿っているようにも見える。
やがてまっすぐ前を見て言った。

「やってみますか?」

「ぜひ」

手を差し出す古泉をにらみつけて
なんだ、お前も俺の恥の記録を見たいのか?

「そちらにも興味が無いわけではありませんが」

朝比奈さんが古泉の手にちょんと触れた

「簡単な情報を送ってみました。 どうですか?」

古泉は自分の中に変化が無いか、探しているようだった

「ダメです。 僕にはできないようですね」
「この方法による情報伝達とは、どのような原理の上に成り立っているのでしょう?」

「それは……」

「言語による説明は不可能」

聞いてたのか、長門

「そうですね。 そもそも教えるということが不可能です」

「なるほど。 『目隠しの国』といったところですか?」

なんだそりゃ

「もとはマンガのタイトルなんですけどね」
「仮に人類が視覚を持たなかったとして、視覚を得てしまった人がいたとします。 視覚の何たるかを言葉で説明することはできるでしょうか?」

「そうですね……。 その表現はかなり近い……です」

「そうですか。 それはそれで、疑問があるのですが」

なんだ疑問って

朝比奈さんが青ざめた

「古泉君! お願いです……」

古泉はニヤけ仮面の外れた顔で朝比奈さんをにらむように凝視している。
たまらず視線をそらす朝比奈さんは今にも泣き出しそうに見えた。

「おい、古泉、なにやってる」

「いえ……」

それきり、古泉はうつむいて何かを考えているようだった。

固い顔で、今にもガタガタと震えて泣き出しそうな朝比奈さんなんてみたく無い
この優しすぎる未来人には、できるだけ笑っていてほしいのだ。

「朝比奈さん。 さっきの記録ですが、何度でも見てかまいませんから」

「うふ、ありがとう。 キョンくん」

朝比奈さんは微笑んで、ハルヒの頭を抱えるように髪をなぜつづけた。

駅に着くまで、誰も一言もしゃべらなかった。

※※※※※※※※

「降りるぞ、ハルヒ、起きろ」

「んんー、、、キョン? もう少し寝かせて・・・」

ばっ! なに寝ぼけてやがる!

「ほう? これはこれは、興味深いですね」

「キョンくん?」

「………」

誤解だ! 俺はこいつと寝起きのひと時を共有したことなど一度も無いぞ!
そこ、ニヤニヤしない!

やれやれ、一日はまだ始まったばかりだというのに。
長い一日になりそうだ。

※※※※※※※※

第二章

いろいろとセキュリティの手続きなんかがあったが、俺たちは研究室へ通された。
紹介された新しいマンマシンインターフェイスとやらは二台あり、椅子のような形、
というか見た目には電気屋に置いてある肩もみ椅子そのままだった。

始めに古泉が座った。
傍目には何が起きているのかわからないが、古泉の神経系は機械とフィードバック関係にあって、五感のすべてが仮想情報で置き換わっているらい。
よくわからんが、現実と区別できない仮想現実の中にいるんだそうだ。

5分ほどで古泉は起き上がり、しきりに自分の体や周囲をなで回して確認しながら俺たちに視線を移して言った。
「すみませんが、ここは現実ですか?」

次はハルヒだ。 さっきの古泉の一言が何か変なツボにはまったようで、やたら乗り気になっている。
「あたしが寝てる間に落書きなんかするんじゃないわよ」
しねーよ

「まさかあれほどとは思いませんでした。 予想以上です」
古泉の声にはまだ興奮の余韻が色濃く残っている。
このインターフェイスが持つ可能性だの、正副交感神経系の仮想現実への反映がどうのと熱く語り出したが、
俺にはさっぱりわからん。

「ちょっと遅くないか? それに、なにか様子がおかしい」
古泉の長舌を遮って言った。ハルヒが横になってからどのくらい経った?
研究室のスタッフが慌てているように見えるのは気のせいか?

「様子を見てきます」

深刻な表情で古泉は帰ってきた。やれやれ、またハルヒがらみで何か起こったんだな。

「どうも、涼宮さんは散歩に行ってしまったようです」

意味がわからん。もっとわかりやすく説明しろ。

「失礼しました。 涼宮さんは研究室の独立したLANを飛び越えて、インターネットへ接続したようなのです」
「そのため、被験者との接続を制御するプログラムが機能しなくなり、涼宮さんは行ったきりになってしまった」

なんだと?
「行ったきりってどういうことだ? 帰ってこられないのか?」

「わかりません。 ですが、外部ネットワークへの接続が涼宮さんの意志によるものだとしたら、無理矢理呼び戻すことは難しい」
「ほとんど不可能と言ってよいでしょう」

俺は片手を腰、片手を額に当てて盛大な溜息をついた。
「つまり、無理矢理でなければ帰ってくるんだな? 満足するまでほっとけばいいのか?」

「早く呼び戻すべき」
長門?

「涼宮ハルヒはネットワーク上のデバイスを取り込んで知覚を拡大しつつある」
「ヒトの形は知覚の境界。 このまま拡大を続ければ、彼女はヒトの形を失う危険がある」

どうすれば呼び戻せるんだ?
「肉体の必要を強く意識すれば帰還の動機となる」

えーと、つまり?
「涼宮ハルヒが、自らの肉体を用いた接触を望む相手が必要」

「なるほど!確かにその通りです」

`なるほどそのとおりです`、じゃねーっ!
それは、つまり、アレだろう? みろ、朝比奈さんなんて耳まで真っ赤になってるじゃねーか
「第一だな、あいつが肉体を用いた接触を望む相手なんてどこにいるんだよ。 恋愛感情を精神病なんて言うやつなんだぞ?」

「あなたという人は……」
「キョンくん……」

「食欲なども有効と思われる」

 食欲? あぁ食欲な、食欲。 そろそろ昼だしな。 うん。 それで行こう。

長門? おい、引っ張るなよ
「問答無用」

俺はもう一つの椅子に押し倒された。
「私がサポートする」

「キョンくん…… お願いです。 涼宮さんのことだけ、考えてください」
朝比奈さん、そんな悲しそうな顔をしないでください。 ハルヒはきっと連れ戻しますから。

「あなたなら涼宮さんを連れて戻れますよ。 以前の閉鎖空間でもそうだったじゃありませんか」
うるさい。あの時のことは極力思い出したくないんだよ。

突然に長門は天井を見上げ、いつもと同じように静かな声で、とんでもないことを言った
「情報フレアを観測。 涼宮ハルヒの外殻は地球圏を超えて拡大を開始した」

※※※※※※※※

第三章

――涼宮ハルヒは有頂天だった。
全てのカメラは彼女の眼だった。 ヒトの目に見えない光を見た。
全てのマイクは彼女の耳だった。 ヒトの耳に聞こえない音を聞いた。
物理空間の制限は無意味だった。 壁を突き抜け、空を飛び、丸い地球をみおろす。

彼女はこれは仮想現実、エンターテイメントだと信じ込んでいた。

 何処まで行けるんだろう。 銀河の中心?アンドロメダ?
 さすがに無理ね。 未踏の地のデータなんて無いだろうし。
 なら…… 一番遠いところまで!

彼女はボイジャー1号を追いかけようとして、知らず空間情報を塗り替えた。

※※※※※※※※

「ハルヒは何をやった? 地球圏外ったって、そんなところにネットなんて無いだろ」
長門は、情報フレアの観測を告げてからずっと見上げたまま沈黙していた。
やがて彼に視線を向けたが、その瞳には微かな感情の色があった。

それを彼は見逃さなかった。
「どうかしたのか? まさかハルヒに何かあったのか?」
上半身を起こして長門を詰問する。
長門は一瞬の逡巡-まばたき-を見せたが、視線を外さずに言った。

「情報統合思念体の意思を伝える」
『涼宮ハルヒの保全を最優先とせよ。 そのための一切の損失を許容する』

長門は再びキョンを椅子に押し倒して言った。
「急がないと追いつけない。 始める」

そこに古泉が割り込んだ。
「ちょっと待ってください。 '損失'とはまさか、彼のことではないでしょうね?」

それを聞いた彼は、さっきの朝比奈さんの言葉を思い出してハッとした。
 『涼宮さんのことだけ考えて』
まさか、あれは…… 思わず朝比奈さんの方に顔が向いてしまう。
朝比奈さんと眼が合った。 怯えた瞳が、勘の正しさを物語っていた。
朝比奈さんはへたり込み、両手で顔を覆って泣き出してしまった。
くぐもった泣き声の下、ごめんなさいのつぶやきがやけに大きく聞こえる。
ああすいません朝比奈さん。責めてるわけじゃないんです。
まったく、余計なときだけ察しがよくなる自分の頭が恨めしい。

横では、長門と古泉のやり取りが続いていた。
「そんなバカな! たとえ涼宮さんが無事に帰ったとしても、彼がいなくては」

「もういい。 古泉、やめろ」
「朝比奈さんも立って。 ほら、泣き止んで」

キョンは長門に視線を投げて、「危険なのか?」と訊いた。
長門は微かにうなずき、肯定した。
「そうか」

キョンは残る二人を見渡しながら、できるだけ重々しくならないように言った
「なにも死ぬと決まった訳じゃない。 死ぬつもりなんて全然無いしな」

「ですが」
まだ何か言おうとする古泉を手で制して
「俺が行く。 これは俺の意志だ。 それに、他に選択肢はない。 そうだな?」

「……わかりました。 ですが、必ず無事に帰ってください。 涼宮さんのために」

ああ、と手を振って答え、長門へ振り返ったキョンは
「待たせたな、長門。 やってくれ。 よろしく頼むぜ」

長門は小さくうなずき、椅子の横に立った。
「大丈夫。 誰も失ったりしない。 私が、守る」

※※※※※※※※

次の瞬間、俺は地球を見下ろしていた。 妙にスケールが狂ったように感じる。
が、狂っているのは地球ではなく自分のほうだとすぐに気づいた。
地球はサッカーボールほどの大きさだった。

突然、どこからか声が聞こえた。
『あなたの外殻は私が保持する』

「長門? いるのか? どこだ?」
『あなたの内側』
内側って…… なんだかヘンな気分だな。

『涼宮ハルヒは現在、木星軌道まで拡大している。 思念体の観測によると、地球で'イオ'と呼称される天体の観察を行っている』

「まるで観光旅行だな」
ハルヒらしい。 思わず笑いが漏れる。 次は観光スポットは土星の輪っかあたりか?

『あなたの外殻を木星軌道まで拡大する』
『涼宮ハルヒは空間情報に新しい因子を追加して外殻保持の足がかりとしているが、思念体にも新しい因子の概念は解析できていない』
『そのためあなたは、既存の情報因子を使用することになる』

「何か問題でもあるのか?」

『わからない。 新しい因子は涼宮ハルヒ、地球人にとって都合よくできていると予想される』
『既存の因子で拡大を行った場合、あなたへの影響は未知数』

「今も既存の因子を使ってるんだろう? 特に違和感もないし、大丈夫だと思うぞ?」

『変調があったらすぐに言って』

「よし、追跡開始だ。 昼飯までには帰ろうぜ」

地球が小さくなっていく。 振り向くと巨大な月があった。
ぶつかる!? と思った瞬間、突き抜けた。 どうなってんだ?

『今のあなたは情報体。 存在の仕方は情報統合思念体のそれに近い。 物体へ干渉することも干渉されることも、情報操作能力が必要』

「ん? それじゃあ、外殻ってのは何なんだ?」

『ヒトの形は知覚の境界。 外殻は境界。 あなたの躰』

「よくわからんが…… まぁ、なんとなくわかった」

「ハルヒに追いつくまで、あとどれくらいだ?」

『予測邂逅時間まであと2分7秒1828。 ただし、涼宮ハルヒがイオにとどまる場合』
『……。 涼宮ハルヒが拡大を再開』

「やれやれ、落ち着きのないやつだ。 それで、追いつけそうか?」
続く長門の声が悔しそうに聞こえたのは、気のせいじゃないと思う。
『彼女の拡大速度は私の約3倍』
「3倍ね…… 赤く塗って角でも付けてやるか」
「ハルヒはたぶん、土星のわっか観光でしばらく止まるだろう。 土星軌道までどのくらいかかる?」

『……』

「長門?」

『私の能力では土星軌道に到達できない…… あなたに、賭ける』

「ちょっとまて、どういうこととだ? 賭けるって、何をだよ」

『'長門有希'というパーソナルをパージして、すべての情報操作能力を外殻の維持拡大に回す。 能力の行使には何らかの意志が必要。 あなたに託す』

「そんなことしたら長門はどうなるんだ? 消えちまうんじゃないだろうな?」

『'損失'には私も含まれる』

「そんなこと認められるか!」

『他に選択肢はない』

「そんなわけないだろ! だいたい統合なんたらも長門一人に押しつけて知らん顔かよ?」

突然、長門ではない別の声が響いてきた
『そういうわけでもないんですけどね』

『江美里?』
緊張した感じのする長門の声。 しかし予想はされてたが、喜緑さんもやっぱりそうだったんだな。

『地上の、私を除く全てのインターフェイスを解体、パーソナルネーム'長門有希'がこれを吸収する』
『以上が統合情報思念体の決定です』
『では、私に同期してください。 でも、私まで吸収しないでくださいよ?』

『了解した。――感謝する』

俺の中で起こっているはずのことなのに、俺には何の変化も感じられなかった。
が、吸収は終わったようだ。

『これで地上のネットワークは空っぽです。 '損失'に見合う結果を期待しますよ、長門さん』
『では私はこれで。 地上のことは任せてください』

『わかった。 ――重ねて感謝する』

俺たちは追跡を再開した。 ハルヒの拡大は予想通り、土星軌道で止まっている。

※※※※※※※※

第四章

『土星軌道に到達』

「ここにハルヒがいるのか?」

『いる。 現在、相互反応可能な情報伝達概念を探索中』

「?? どういうことだ?」

『……有機生命体の情報伝達手段は、その存在規模によって規定される。 小規模においては化学物質が使用されるが、人サイズでは主として音波が使用される。 現在の涼宮ハルヒの存在規模は、有機生命体としては過去に例が無いほど巨大」

「なるほど、おまえのパトロンが人類と情報伝達できないのも、そのあたりに理由があるのか?」

『そう。 人類は情報統合思念体の情報伝達手段を、概念としても理解できない』

「ハルヒと話すには、どうすればいいんだ?」

『私が情報概念を変換して中継する。 あなたは普通に会話可能』

長門がそういった途端、ハルヒの声が聞こえてきた。

「速度差でリングが分かれるのはわかるけど、リングに幅があるのはどうなってんのかしら…?」
「内側と外側でも角運動量は同じはずだし、そしたら速度が同じなわけはないし……」

案の定、土星のわっかを観察していた。 自分の置かれた状況を知らないとはいえ、のん気なやつだ。

「よう、ハルヒ、楽しそうだな」

「あれ? キョンも来たの? 土星の輪って興味深いわね」

俺にはいまいちわからん。

「いきなり土星まで遠征すんな。 そろそろ昼飯だ、帰ろうぜ。 腹減ってるだろ?」

「えー? これからパイオニアを見に行こうと思ってたのに」

「また今度にしろ。 大学の学食とやらを試してみようぜ」

「うーん…… ま、いいわ。 食べたらまた来ればいいし」

以外とすんなり納得してくれて助かる。 なにせ、本番はこれからだからな。

「……ってあれ? どうやったら戻れるの? 研究スタッフの人ー! 聞こえてるー!? 終わっちゃっていいわよー」

当然ながら反応は無い。

「どうなってんの?」

「ハルヒ、落ち着いて聞けよ? 実は、おまえはちょっと困った状態にあるんだ」

「どういうこと? 故障?」

いきなり、不安という名の感情がどっと流れ込んできた。 なんだこれは? どうなってんだ?
俺は不安に飲み込まれないよう踏ん張って、ハルヒを安心させるように話しかけた。

「大丈夫だ。 そのために来たんだからな。 長門、聞こえてるか?」

『問題ない』

「有希?」

奇妙な不安が和らぐ。 まさか……

「ハルヒに、戻る方法を説明してやってくれ」

長門がハルヒに向けて説明を始めた。

『あなたは制御システムによって設定された仮想空間から逸脱している。 このため、通常プロトコルによる帰還プログラムは使えない』
『そのために彼を使う。 正常な接続を保っている彼にあなたを同期させ、彼を帰還させることで同時にあなたを帰還させる』

「よくわかんないけど、いいわ。 有希に任せる。 あたしはどうすればいいの?」

『何もしなくていい。 動かないで。 始める』

奇妙な不安は、すっかりなくなっていた。

※※※※※※※※

じんわりと、あたたかな感覚が広がっていく。
なんだろう、この感覚は? とても落ち着く、とても嬉しい、むずむずとくすぐったい。 こんな感覚は今までに経験が無い。
長門の言っていた単語が浮かび上がる 外殻 同期 俺と、ハルヒ……
そうか、これはハルヒをすぐそばに感じてるってことなんだな。

ふと、戸惑いの感情がわきあがってくるのを感じた。 もう想像は付いてる、これはハルヒの感情だ。
戸惑いの原因も解ってる。 ハルヒも俺が感じてるのと同じ、経験の無い感覚を覚えているに違いない。

実体でハルヒを抱きしめても、同じように感じることが出来るんだろうか?
腕の中にいるハルヒ。 上気した頬を朱に染めて…… いきなり俺を怒鳴りつけた。

「キョン! あ、あんた何考えてるのよ!」

ハ、ハルヒ!? お、おまえ人の想像にまで割り込んでくるなよ!

「知らないわよ! 人を使って変な想像してるほうが悪い!」
「どういうわけだか、あんたの頭ん中が全部筒抜けよ!」
「「何考えてんのよ恥ずかしい!」」

ん? 後半、二重に聞こえなかったか? まさか……

「こ、このエロキョン! 乙女の頭の中を覗くなんて最低よ!」

ちょっと待て!
「長門! どうなってるんだこれは!?」

『同期に伴い、個としての存在境界が曖昧になる。 意識の融合は防止してある。 問題ない』

「問題あるわよ! 頭の中覗かれるなんて、冗談じゃない! しかもキョンのやつったら、<STRONG>エロ</STRONG>いし!」

頼む、エロのところを強調しないでくれ。 傷つくから。 仕方ないだろ、俺だって健康な若い男なんだ。

「ねえ有希、他に方法は無いの?」

『あなたは、任せると言った』

「う…… せめて、考えてることがわからないようにできない?」

『可能、けれど拒否する。 今のあなたは興味深い』

「ちょっと有希! 興味深いってなによ! こら!」

『具体的苦痛はないはず。 許容範囲』

それきり、ハルヒがどれだけ叫んでも長門は応えなかった。

「覚えてなさいよー!」

火がつきそうなほどの、恥ずかしいという感情が洪水のように流れ込んでくる。
どうやら、ハルヒとの以心伝心はしばらく続くようだった。

※※※※※※※※

ハルヒはすぐに自分なりの抵抗策を編み出した。 ありとあらゆる罵詈雑言が聞こえてくる。 対象は、むろん俺だ。
せっかくテレパシーを手に入れたと同じ状態だというのに、することがこれというのは、人類はテレパシーを得なくて正解だね。
それでも一つわかったことがある。 テレパシーでは嘘をつけないっていう、あれは本当だな。
悪口雑言を照れ隠しと呼ぶには、あまりにも可愛げに欠けるが

「可愛くなくっていいわよコンチクショー!」

うん、すかさずの突っ込みありがとう。
こんなハルヒを可愛いと思ってしまう俺は、本当に精神病の一種に冒されてしまったのかもしれないと、そう考えた。
考えただけだが、これも当然伝わったんだろう。 つぶやくような罵詈雑言が止んだと思ったら、叫ぶような罵詈雑言になった。

なぁ、ハルヒ。 こういうのも、悪くないんじゃないか?
罵詈雑言が止んだ。 と思ったら、ハルヒは一気にまくし立てた。

なによ、アンタ罵られるのがいいわけ? マゾ? 別に良いわよマゾだろうとゲソだろうとあたしには関係ないわ。
とにかく! あたしは一時の気の迷いで厄介事をしょいこむほどバカじゃないのよ!

懐かしいせりふだ。 まだSOS団を結成されていない頃にハルヒが言い放った恋愛観。
俺たちもそれなりに長い付き合いだし、お互いのこともそれなりに理解しているつもりだ。 とにかく、こいつはなんに付け──

厄介事、好きだろう?

……

『緊急事態』

うわっ! な、長門か?

『涼宮ハルヒにより創造された情報因子が薄れつつある。 涼宮ハルヒの外殻を維持できなくなる可能性が高い』

待て長門! ハルヒに聞かれたらまずい!

『情報概念の変換は凍結した。 問題ない』

『このままでは、涼宮ハルヒの外殻は失われる』

※※※※※※※※

ちょっと待て。 ハルヒの外殻が失われる? それはハルヒの躰が失われるってことで、つまり死ぬってことじゃないか?
ハルヒが死ぬ。 その想像に背筋が震え、鳥肌が立つ。 頭に血が上っていくのがわかる。 そんなことは許せない。

「なんとかできないのか?」

『……』

悔しさに満ちた三点リーダー。

『あらゆる可能性を検討した。 最も短時間で完了する方法でも3分15秒足りない』

「おまえの親玉はなんと言ってる。 ハルヒを失うわけにはいかないだろう」

『……』

また、悔しさに満ちた三点リーダー。

「いや、そうだったな、思い出したよ。 あらゆる損失を許容するんだったな」

『そう。 損失を許容した場合の結果は異なる』

長門の言わんとするところはすぐに解った。

「却下だ」

『直ちに私のパーソナルを放棄した場合、1分57秒の余裕が生まれる』

「却下だと言った」

『……パーソナルのパージを実行する。 能力行使の受け入れを願う。 5、4、』

「お前が自己を捨てれば、この世界は滅ぶぞ」

『……なぜ』

「お前を犠牲にすれば、ハルヒは俺のことも、自分のことも絶対に許せない。 そういうやつだ」
「だからな、これが冷たい方程式で、誰かを放り出さなきゃならないなら、たった一つの冴えたやり方は俺をパージすることだ。 そうだろう?」

できるだけ軽く言ったつもりだったが、あまり旨く行かなかった。 震えているのが自分でもわかる。
長門に戦慄が走った。 そのことが、決断の結果を強く物語っていた。

『あなたがいなくなっても、世界は滅びる』

「大丈夫だ。 あいつはそんなにヤワじゃない。 この俺が保証する」
ハルヒのことを思い描く。 笑っていた。 胸に熱いものがこみ上げて、震えは去っていく。
ああ、あいつの笑顔を守るためならなんだってできるさ。 たとえ不可能だって覆してやる。

『なぜ? 有機生命体にとって、死は何より恐ろしいはず。 あなたは死を恐れない?』

「怖いさ。 だがな、お前を犠牲にすれば俺は罪の意識を背負って生きることになる。 何年も、何十年もだ」
「そして、ハルヒに軽蔑される。 そうだな、俺はハルヒに軽蔑されるような生き方はしたくないんだ。 そっちの方が怖いのさ」

「それにな、俺は死ぬつもりはない。 必ず帰る。 絶対にだ」
「だから…… それまであいつを頼む」

『私は、あなたを失いたくない』

「帰る。 必ずだ。 約束だ」

『あのとき、あなたを守ると誓ったのに…… 守りたいのに…… どうして……』

「すまん、長門。 もう時間がないんだろう? ハルヒと繋いでくれ。 言っておくこともあるしな」

※※※※※※※※

「ョン! 有希! 返事してよ! だれかいないの!?」

「ハルヒ」

「キョン!? どこ行ってたのよ! 有希の声もしなくなるし。 あ、あったかい気持ちも消えちゃうし……」
「こんなところで独人にしないでよ」

「なぁ、ハルヒ。 俺、先に帰らなきゃならなくなったんだ」

「え……? で、でも……」

「心配するな。 長門はついててくれる。 ただな、俺、ちょっと寄り道するかもしれない」
「お前の方が先に着くかもな。 それでも必ず帰る。 だから、待っててくれるか?」

「いったい、何があったの?」

「約束してくれ、ハルヒ。 必ず待つと」

「それはいいけど、ちゃんと説明してよ」

「すまんが時間がないんだ。 約束したからな? ちゃんと待ってろよ」
「いいぞ、長門。 やってくれ」

『……』

「ちょっとまってよ! どういうことなの? 二人とも変よ? まるでさよならみたいじゃない!!」

「やれ! 長門!」

俺は必ず帰る。 そしてその時こそ、あいつにはっきりと伝えるんだ。

※※※※※※※※

第五章

消えた。

緊張
恐れ
悲しみ
温もり

いろんな感情がないまぜになった何かを最期に、さっきまで感じられたキョンの気配の、一切が喪失した。

今、何があったの?
状況がつかめない。 突然すぎて、現実味がない。
キョンは先に帰るって言ったのよね? でも、寄り道するかもって。 って、どこに?
だってここは現実じゃなくて、ただの仮想空間で……

──現実じゃない──

そうよ、ここは現実じゃない。 だからキョンは帰った。 現実の世界に。 そうよ、他にあり得ないじゃない。
あたしも帰らなくちゃ。 だって、現実のあたしはきっとお腹がすいてる。

──現実じゃない──

帰ろう。 帰ったらみんなでお昼を食べよう。
人を恥ずかしい妄想に使ったキョンにはさんざんおごらせてやらなきゃ……
現実に帰れば、こんな寂しくて不安なこともきっとなくなる。

「有希? あとどのくらいかかりそう?」

『…もうすこし』

※※※※※※※※

そのとき、長門有希は戦っていた。
内に生じた混乱。 背反する欲求。

 情報制御をやめれば、涼宮ハルヒは消滅する。

涼宮ハルヒの外郭を構成する情報因子の概念変換を続けながら、一方でそれを放棄したがっている。
放棄などできない。 涼宮ハルヒの保全は最優先。

ERROR ERROR ErROR ERROr eRRoR ER&oR ErrOr eRroR !rrOr EeROOR EEEERROOOOORRRR

エラーが蓄積していく。 発生源を突き止めて対処しなくては。
エラーに浸食されないよう、幾重にも防壁を施した自己診断プログラムをいくつも放つ。
この様なことに能力を割いていては、涼宮ハルヒの保全に支障を来す可能性がある。

やがて、診断プログラムは解析結果を返し始める。
結果が示す、エラーの発生源は……

…彼との、記憶?…

記憶はただの情報でしかない。 それ自体がエラーを発生することなどあるはずが無かった。
診断プログラム自体の誤動作を疑ったが、プログラムは正常だった。

なぜ、彼との記憶が涼宮ハルヒの保全を妨げようとするのだろうか?

そのとき、診断プログラムが別のエラー発生源を報告した。
報告を検査して、私は理解した。 私は、彼を失うことになった、その原因を消したいのだ。

無駄なこと。 現在の彼女はすでに原因ではない。 消すならば、原因になる前に遡行しなければならない。
いくつか不明な点はあるものの、エラーの原因がわかった以上、対処は容易と思われた。
が、エラーの蓄積は続いていた。

……なぜ

私はいつのまにか、これほど彼に依存していたのか?
彼に会えない。 これだけのことでエラー訂正に不全をきたす程に?
彼に会えない。 その思考が表層に上ったとたん、膨大なエラーが発生。

※※※※※※※※

「有希? 大丈夫? 有希!?」

『…なにが?…』

「………? ううん、気のせいよね。 有希が大声で泣いてるような気がして」

『泣いてなどいない』

「うん」

これはエラー。 涼宮ハルヒが絶望すれば、この宇宙は消滅するかもしれない。
それでも、私は彼女に聞きたい。

『もし…… 彼を失ったら、あなたは泣く?』

「彼? もしかしてキョンのこと?」

『そう』

「考えたこともないわ。 それに、寄り道したって帰ってくるんでしょ?」

彼女は知らない。 彼は……

『彼は帰らない。 帰還の可能性はない』

間髪入れずに言葉が返ってきた。

「帰るわ」

理解できない。 なぜこうもあっさりと言い切れるのか。

『……なぜ?』

「あいつが、必ず帰ると言ったからよ」
「あいつはね、できるくせにできないできないしか言わないのよ。 いつだって、できねーよ! なんて文句言いながらやっちゃうの」
「そのあいつが必ず帰るって言ったのよ。 そりゃ、帰ってくるわよ」

彼は、帰ってくるのだろうか? 涼宮ハルヒが信じている限り、可能性はあるのかもしれない。

「だから、あたしたちも帰ろう?」

『……うん』

彼は確かに、帰ると言った。 彼女は彼を信じると言った。 ならば、私も彼を信じよう。
論理的な私がエラーだと否定しても、この私が肯定したいと望んでいるから。

※※※※※※※※

戻ってきた。

起き上がり、隣に横たわるカレを見つめる。
今の私にできること……
マイクロマシン注入による肉体保全。 彼が帰ってくるために。
経口摂取型マシンを合成、投与………… 完了。
……もっと、ゆっくり、すれば、よかった……

「長門さん?」

引きつった笑いを貼り付けた古泉一樹と、紅潮した顔を手で覆う朝比奈みくるが立っていた。

「お二人は、ご無事なのですか?」

問いかけを無視して、いまだ起き上がれないでいる彼女の元へ向かう。
彼女の額に手を当て、知覚境界面を涼宮ハルヒの肉体に沿って調整。 完了。
彼女は目を開け、深い息をついた。

※※※※※※※※

目を開けると、有希がいた。 額に当てられた手が気持ちいい。

「ふうぅぅぅ」

大きく息を吸って、吐いたあたしに古泉君とみくるちゃんが駆け寄ってきた。

「涼宮さん、気づかれましたか? 大丈夫ですか?」

まだ頭が8つに足が6本、おまけに尻尾が9本くらいあるような気もするけど、とりあえず大丈夫みたい。

「あたしは大丈夫。 それより、キョンよ。 アイツはど」

首を回してキョンを探したあたしは横たわるその姿をみつけ、言葉に詰まった。
深呼吸して自分を落ち着かせ、側まで歩み寄っていく。

冬の日の記憶が蘇る。 冷たい、階段の踊り場に倒れて、動かないあいつ。
首筋に手のひらを押し当て、暖かさを確かめる。 大丈夫、暖かい。 よく寝てるようにしか、見えない。

そうよ、寝てるだけに決まってる。 寄り道だの何だの、あたしがこんなに不安になるようなことなんて、本当は何も無いのよ!
キョンの襟首をつかんで、揺さぶりながら怒鳴りつけた。

「いつまで寝てんの! 早く起きなさい! 団長より遅れて起きるなんて、お昼はあんたのおごりよ!」

「涼宮さん、落ち着いてください!」

みくるちゃんに、抱きかかえられた。 相変わらず、むねおっきいわね。
――何考えてんだろ、あたし。 こんなときに。 ――こんなとき? どんなとき?
だめ。 思考がまとまらない。 ちゃんと考えなきゃいけないはずなのに。

「状況は掴めませんが、彼に何事かあったのですね?」

有希が短く、そう、と答えるのが聞こえた。

「わかりました。 ともかく、彼を病院に運びましょう」

嘘よ、こんなの。
硬直するあたしの背中で、声を殺して泣くように、みくるちゃんが震えていた。

※※※※※※※※

あの冬と同じ病室。
身体的な異常は無し。 ただ、意識だけが戻らない。 そんなところまであの日と同じ。
面会時間も消灯時間もとっくに過ぎて、窓からは月がさし込んでくる。
あたしは丸いすに腰掛けて、ベッドに肘をついてキョンに話しかけていた。

「あたしを放り出せばよかったのに、バカ」
「そりゃ、有希を放り出したりしたら、絶対許さないわよ。 でも、だからって自分を放りださ無くってもいいじゃない」
「あんたを放り出して助かったって、うれしくないわよ、バカ」

そう言って、キョンのおでこを指先でつついた。

嘘。 本当はうれしい。 助かったことが、じゃない。
 『あたしに軽蔑されるような生き方をする方が怖い』
キザなセリフ。 似合わないわよ、バカ。

しかもこいつは、キザなセリフを口先だけで終わらせなかった。
本当にやっちゃうやつなんて、いないわよ、普通。

あたしは立ち上がり、腕を広げてキョンに覆い被さった。

「認めてあげる。 あんたは普通じゃない。 宇宙人でも未来人でも超能力者でも異世界人でもなくても、あんたは特別な人」
「そして認めるわ。 あたしは普通の人間とつきあうなんてまっぴらで、ついでに厄介ごとは嫌いじゃないってこと」

あたしも、あんたに軽蔑されるような生き方はしない。
あんたは待てと言った。 あたしは待つと言った。
この約束だけは、絶対に破ったりしない。

だから、帰ってきなさい。
ずっと、待ってるから。

唇を合わせて、キョンの顔をじっと見つめる。
キスで目覚める、なんて、さすがに無いか。

他人が見たら砂糖を吐いたかもしれないような笑みを浮かべながら、あたしは床の寝袋に入った。

※※※※※※※※

ここは…… 学校? おかしいな、あたしはキョンの病室で寝たはずなのに。
淡い灰色に一面覆われた、のっぺりとした変な空。 以前に一度見たことのある、あの夢にそっくりだ。
! キョンは!? ここがあの夢なら、きっとキョンがいるはず。
あたりを見回しても、見あたらない。 あのときはすぐそばに倒れてたのに。

きっと部室にいる。 あたしはそんな確信を持って、旧校舎の部室へ向けて歩き出した。

旧校舎の階段をゆっくりと上がる。 早く行きたいという思いに、もしいなかったらという恐怖がブレーキをかけた。
ゆっくりゆっくり、しかしそれでも、部室のある二階はすぐだ。 二階の廊下から部室の方をみやると、部室に明かりがついてる!
あたしは駆けだした。

※※※※※※※※

廊下を走る音がする。 もうすぐ扉が勢いよく開いて、あいつのびっくり顔が現れる。

「よお、いいタイミング。 そろそろと思ってお茶、淹れといたぜ」

「あああぁぁぁぁ あんた! こんなところで何してんのよ!」

こらこら、苦しい。 首を絞めるな。

「俺に怒るな。 第一、ここはおまえの夢の中だろうが」

「そうだけど…… って、あんた夢だって言う自覚があるの?」

「夢の中だからな、なんだってありだ」

「……? えーと……?」

「考えるのは後にして、座れ。 お茶を飲んで少し落ち着け」

納得できないけど、反撃の糸口が見つからないといった風情のアヒル口でしぶしぶ団長席に座るハルヒに、湯飲みを差し出す。

「熱いからな、気をつけろ」

お茶に息を吹きかけて冷ましながら、じっと考え込むハルヒを待ち続ける。
やがて、ぽつり、とつぶやいた。

「あんたは…… あたしの夢の中だけのキョンなのよね。 起きたらそこは病室で、あんたは眠ってる……」

「うーん……、まぁ、そうとばかりも言えないんだが」

「どういうこと?」

「気にするな」

「なるわよ」

湯気越しに不満顔のハルヒをみつめていると、ハルヒが妙にそわそわしている。
「なんだ? トイレなら早く行った方がいいぞ?」

「ばっ! 違うわよ! そんな締まりの無いにやけ顔で見られてると落ち着かないのよ!」

む? いつの間にかそんなに締まりの無い顔になってたか? だがそれは無理な相談だ。
「おまえを見てるとそうなるんだよ」

「っ――――――!! あ、あんた変よ! そんなこと口に出せるやつじゃなかったわ!」

「いろいろあったからな。 後悔より、恥ずかしい方がましだ」
そう言って湯飲みの底に残ったお茶を飲み干し、お代わりを注ぎ直した。
立ち上る湯気が、部屋の空気をやわらかく落ち着かせていく。

ハルヒは湯飲みを両手の平で抱えるようにして口元にやり、考え事を始めた。
その背後、窓の外に、こちらの注意を引くように揺らめく赤い光点。

「ハルヒ、済まんがちょっと待っててくれ」

「どこか行くの?」

「生理現象だ」

「ばか」

※※※※※※※※

「よう、古泉。 おまえと連れションなんて、ぞっとしないな」

「そうですね」
赤い光点はそう言って軽く笑い、おぼろな人型に変化していく。
「お戻りだったのですね、助かります。 例の、我々でも進入できない閉鎖空間です。 あなた不在でどうなることかと思いました」

「迷惑かけちまったな、あとは任せとけ」

「おや? 失礼ですが、本当にあなたですか? 以前のあなたは、そのようなことを口にする方ではありませんでしたが」

「俺は帰ってきた。 あいつといるために。 それだけだ」

「……心を決めた、ということですね。 それを聞いて安心しました。 是非、機関をあげて祝福させてください」
人型がうやうやしく礼をとった。

「勘弁しろ」

人型は球体に戻ると、軽い笑い声を残して消えていった。

※※※※※※※※

部室に戻ると、ハルヒと目があった。 しばらく、互いに目をそらすこともせず見つめ合う。
その間、ハルヒは何かを言いかけてはやめて、また言いかけてはやめてを何度も繰り返した。
俺も同じだ。 言いたいことがある。 伝えなきゃいけないことがある。 覚悟もしたはずだ。 だのに、いざとなると怖い。
俺の方から視線を外した。 目の端に、失意と驚きをありありと浮かべたハルヒの顔が映っていた。

「なぁ、ハルヒ。 その先は目が覚めてからにしないか。 俺は夢の中じゃなくて、現実のおまえの声で聞きたい」
「それに、おまえにとっての俺は眠ったままだろう? 俺も、ここじゃなくて現実の声でおまえに言ってやりたい」

再び正面から見たハルヒは、涙をにじませていた。
ゆっくりと歩み寄り、腕の中にハルヒを包み込む。 体を預けてくれるハルヒが愛おしくてしょうがない。
その耳元に、ささやくように名前を呼ぶ。

「ハルヒ」

呼ばれて、ハルヒが面を上げる。

二人の唇が重なり合い、世界が還ってくる。

※※※※※※※※

目が覚めた。 暗い。 雰囲気が違う。 あたしの部屋じゃない。 ここは…… 病室だ。
見上げたベッドの縁にかかった白いシーツが、闇の中にうっすらとしたコントラストを作り出していた。
夢…… 夢とは思えないほど、リアルな夢。 あたしは寝袋から這い出して、キョンの顔をのぞき込んだ。
月はとっくに沈んだのか、窓から差し込む光は弱くてキョンの様子はよくわからない。

「キョン」

呼んでみても、返事はない。
やっぱり、あれは夢だったんだ。 甘くて、切なくて、残酷な……
キョンは目を覚まさない。 あたしに、好きだなんて言ってくれない。
ほほを伝う涙が落ちていく。 まだ一日もたってないのに、こんなに弱くて、ずっと待ち続けるなんて、あたしできるの?

あたしはキョンの胸に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
悲しくて悲しくて、もう何が悲しいのかわからなくなるくらい悲しくて、とにかく泣いた。
いつのまにか、優しい手が髪をなぜていた。
あたしは悲しくて心がぐちゃぐちゃになるくらい悲しくて、なぜる手が気持ちよくて、しばらくそのことに気づかなかった。

泣くのに疲れてやっと、頭に置かれた手の存在に気がついた。 その手の主は……
あたしは恐る恐る、その主を呼んでみる。

「キョン? 気がついたの? あたしの声が聞こえる?」

手が頭の丸みに沿って髪をなぜ、一日とたっていないのに懐かしく感じる声が聞こえた。

「もう、泣くのは気が済んだか?」

その声で、あたしの心は別の意味でぐちゃぐちゃになって、決壊した。

「~~~っ! 誰のせいだと思ってるのよ! バカっ! バカっ! バカっっ!」

「3回もかよ」

「言い足りないわよっ、バカっ! あんたどれだけ心配かけたかわかってるの!?」

「すまん」

「……いいわ。 元はといえばあたしが原因だし。 それよりお医者さん呼んでくるから、戻ってくるまで寝ちゃだめよ!」

あたしが部屋の明かりをつけ、扉を開けて出ようとしたとき、後ろから声がした。

「ハルヒ、ただいま」

振り向いて返す。

「うん。 おかえりなさい」

※※※※※※※※

翌日は朝から検査漬けで、午後も遅くにやっと解放された俺は、へろへろになりながら
夕べからいるハルヒはもちろん、古泉や朝比奈さんと夏休みの宿題会をやっていた。
ハルヒ曰く、他に有意義な時間の使い道を思いつかなかったそうだ。 勘弁してくれ。
ただ、長門は珍しく都合が悪いとかで、来なかった。

面会時間も終わり、明日またくると言ってハルヒは帰っていった。
やがて消灯時間。 月明かりの差し込む、薄暗い部屋でベッドに座ったまま、俺は待っていた。
来なければ嘘だという、ある一人の少女を。

そして現れる。 なんの前兆も、気配もなく突然に、その少女は部屋の中に立っていた。
少女を知らない者でも見間違いようのない、怒りのオーラを立ち上らせて。
すまん長門。 今回の件ではおまえには一番、苦労をかけた。

「おまえにはまだ言ってなかったな。 ただいま、長門。 俺は帰ってきたぞ」

少女は答えない。 硬質な瞳が射貫くような視線で俺を見据える。
やがて、開いた口から出た言葉は、明確な敵意のこもった誰何だった。

「おまえは、何」

※※※※※※※※

第六章

「おまえは、何」

「俺は俺だ。 おまえが知っているとおりの、俺だ」

長門は片手を上げ、手の平を俺に向けて突き出すようにして言った。
「警告する、彼の体から出て行け。 さもなくば強制排除を行う」

ありがとう、長門。 そうやって俺の体を守っていてくれたんだな。 あの日から、ずっと。
「長門、あの日を覚えているか? 昨日じゃない、最初の日だ」

長門の瞳に、青く怒りの炎が揺れた。
「彼を騙るなど、56億7千万年早い」

長門の示した強い感情の表れに、俺は正直驚いた。 長門はこれほどに強い感情を獲得していたのか。
化学的進化が知性的進化に変わるほどの時間を考えれば、当然かもしれないが。
「俺は本物だ。 お前に絶対帰ると約束した、あの日と同じ俺なんだよ」

「警告の効果は認められず。 敵性と判断、強制排除を実行する」

「よせ!」

長門の情報操作は、容赦なく俺を体から切り離そうとした。 だが長門、それは無理なんだ。
俺は長門の情報操作を上書きして、打ち消した。

長門の瞳にかすかな驚愕が浮かんだが、一瞬後には強い意志に塗り替えられていく。
「彼を守る。 彼を取り戻す。 もう二度とっ」

「長門、頼むから俺の話を聞いてくれ」

長門は答えない。 答える代わりに、部屋が一面コンクリートの壁に変化していく。 情報制御空間。 長門は本気だ。

「お前は約束を守ってくれた。 俺がいない間、ハルヒを支え続けてくれた。 それだけじゃない」
「俺はお前に残酷な役目を与えてしまった。 それなのに、お前はこうして役目を全うしようとしてくれている」

俺が語りかけている間も、長門の攻撃は続いていた。
情報操作の隙を作ろうとしているのか、体術による攻撃も加えてくる。
常人なら視認することもできないそのすべてを受け止め、いなし、無害化していく。
長門と戦うなんてできっこない、俺にできる唯一のことだった。

「なぁ長門、どうしたら俺を本物だとわかってくれる? 俺はお前にどうやって証明すればいい?」
「俺はお前に報いてやりたい。 お前に負わせた、悠久の孤独を償いたい」

長門の反応は意外だった。

「私は孤独ではない」
「彼がいる。 彼は帰ってくる。 彼を信じている。 彼を信じた私自身を信じている」
「彼を冒すものは許さない。 彼は、私が守る」

ショックだった。
こいつはたった一人、こうやって自分自身を支えてきたのか?
泣きそうだった。 永かった。 寂しかった。 抱きしめてやりたかった。 抱きしめてほしかった。
こいつは、ハルヒだけを支えにし続けた、俺の分身だった。

俺は、長門を抱きしめて泣いていた。

「もういい! もういいんだ! もう自分で自分を支えなくていい! 俺が支える! 俺を頼れ! お前が信じ続けた俺は、ここにいる!」

「戯れ言を。 彼に情報操作能力はない」

「確かに、あの日までは無かった。 だがそれだけだ。 それ以外は何にも変わっちゃいない」
「そうだ、お前はあの日、俺の内側に入っただろう? また俺の内に入れば、変わっちゃいないことがわかるんじゃないか?」

攻撃が止まった。
信じられないという、驚きの浮かんだ顔が俺を見上げている。

「私を、吸収するつもりか」

「まさか。 それに、わかっているはずだ。 俺の力量は計ったんだろう?」

「……お前は、いつでも私を破壊、もしくは吸収することができる」

「ああ。 だが俺にそんなことはできない。 その理由を確かめてくれ。 お前が納得するまで、俺のすべてを」

「私は内側から攻撃してお前を排除する」

「お前が納得できなかったら、そうすればいい」

長門が中に入ってくる。 俺はそれを歓迎した。
図書館、七夕、カマドウマ、3年間の時間凍結、文芸少女、冬山、クリパ……
SOS団の中でも外でも、いろいろやったもんだな。
そしてあの日、大学の研究室。 ハルヒを追いかけた俺たち。 そして喪失。
起きた奇跡と、その代償として負った膨大な時間と絶界の孤独。
ただ一人を想い続けた、永い、永い、想像を超えた寄り道。

「本当に、あなたは、彼? 本当に、帰ってきてくれた?」

長門の声は震えていた。
あっさりと信じるには、あまりにも永い時が流れすぎていた。
長門の手が、俺の存在を確かめるように体に回されていく。

「ああ、本当だ。 俺は帰ってきた」

俺の言葉が胸に落ちていくにつれて、長門の体から力が抜けていった。
今や、俺の支えがなければ立っていることもできないほど、か弱い少女。
俺はこんなにもか弱い少女に、どんなに惨いことを強いてきたのか。
少女は腕の中で静かに泣いていた。

※※※※※※※※

俺たちは並んで、互いにもたれ合うようにベッド腰掛けて、ささやくように話していた。

「あなたのいない夏休みは68039692308回、ループした」

「すまん。 拡散した自分を集め直すのに、それだけかかっちまった」

「かまわない。 あなたはちゃんと、帰ってきたから」

「お前をループの外に置いて孤独を強いたのは俺だ。 はっきり憶えてるわけじゃないが、俺しかいないからな」
「俺がどうしてこんな力を使えるようになったのかはわからない。 ハルヒが無意識にやったんだろうが……」

「涼宮ハルヒは無関係。 私は一度、彼女の力を行使したことがある。 だからわかる。 あなたの力は異質」
「彼女に起源を持つ力であったなら、侵入者と誤認することもなかった」

「だとしたら、ますますわからんな」

わからないことを考えても仕方ない。 それよりも話を戻そう。

「俺は守護者を必要としたんだと思う。 ループに囚われずに済む存在は、俺の帰る場所を損なうかもしれない」
「だからお前を守護者の位置に置いた。 そのせいで、お前はループの外に置かれることになってしまった……」

「かまわない。 それは私にしかできないこと。 私は役目のおかげで、自分の存在を見失わないで済んだ」

「そうか」

「そう」

静かな時間が、静かな息づかいの上を流れていった。

「それでも、俺はやっぱりお前に報いてやりたい。 たった一人で過ごさせた時間を償いたい」

「本当に一人だったのは、あなたのほう」

「俺は自分からなったようなもんだが、お前は違う。 俺のせいだ。 それに……  言いにくいんだが」

細い肩を抱く手に力を込めた。

「もう一度だけループしなきゃならん」
「そのときはお前も、お前のパトロンも、そして俺自身の記憶、それに能力も消して、本当に元通りにする」
「56億7千万年の寄り道の記憶をすべて無かったことにして、一晩で帰って来たことにするんだ」

「なぜ?」

「俺はSOS団で唯一の普通の人間だからだ。 俺はSOS団での立ち位置を変えたくない」
「勝手な話だが、そのためにはお前にも、お前のパトロンにも記憶をなくしてもらうしか無いんだ」
「だからそうなる前、ループの記憶が消えてしまう前に」
「例えすべて消してしまうとしても、お前がしてくれたことへの証は立てておきたい」

「……なんでもいい?」

「ああ、俺にできることなら」

「今のあなたにできないことなど、想像もつかない」

「いっぱいあるぞ」

「たとえば?」

誤魔化すことはできない。 俺は長門の瞳をまっすぐに見つめて、はっきりと言い切った。

「ハルヒに軽蔑されるようなことは、できない」

「……いじわる」

長門の瞳は潤んでいた。

「わかっていた。 あの日、待っていてくれと言われたのは彼女。 私ではない」
「一つだけ。 あなたの能力を、一つだけ残して欲しい」
「今のあなたになら、できるはず」

そう言って俺の左手を握り、手の甲に指先を触れた。

ぐあ! これはっ! 列車の中の……っ
俺は公衆の場でこんなにやけた顔を晒していたのか!?
最低だ! 古泉の0円スマイルの方がましに見える!

「できるままにしておいて」

長門の声で我に返った。
能力はすべて消すつもりだった。 少し迷ったが、他ならぬ長門の頼みだ。 条件付きで受け入れることにした。

「わかった。 ただし」
「ハルヒに内緒の話をするため、だったらだめだ。 だから」

長門の手の甲に、指を触れた。

「……いじわる」

そう言って頷いた。

※※※※※※※※

第七章

「珍しいですね。 朝比奈さんからお誘いをいただくとは」

「呼び出したりしてごめんなさい。 でも、古泉君にも知っておいてもらった方がいいと思ったから」
「一人で気がついて、パニックになってもかわいそうだし」 うふっ

えーと、今のは笑うところだったでしょうか?

「長門さんはもう、気がついているんですよね?」

長門さんの頭が僅かに動いて、肯定の意を示す。

「この三人ということは、やはり涼宮さんがらみなのでしょうか?」

すると、意外なことに朝比奈さんは首を振った。

「キョン君のことなんです」

彼がどうかしたのだろうか? あれ以来、確かに変わったと言えば、あのお二人は呆れるほど変わりましたが。

「その前に、少しお話ししておきたいことがあります。 古泉君も薄々気づいていると思いますが、私は現代で言うニンゲンではありません」

いきなり何を言い出すのだろうか、この人は。 話の真意が見えない。
ですがこれはただの前置きでしょう。 とすれば、とぼけるより率直に行った方が良いでしょう。

「そうですね。 あなたには我々現代人にない情報伝達手段がある。 それは新たな知覚を獲得した、分類学的新人類ということでしょう」

言葉に少々、毒が混ざったかもしれない。 目の前にいる新人類は、旧人類たる我々、ホモサピエンスを駆逐した種なのだ。

「その通りです。 そして、驚かないでというのは無理だと思うけど、古泉君、あなたももう、新人類なんです」

リカイデキナイ。 カノジョハナントイッタ? ボクガ、ニンゲンデハナイ?

「思い出して。 あの日、行きの電車の中でのことを。 あのとき、あなたは指での情報伝達ができませんでした」

ソンナコトモアッタヨウナ。

「あのとき、私が現代人とは違う種だということを指摘されそうになって慌てちゃいました」
「古泉君はさっき、トゲのある言葉を向けてきましたよね。 キョン君にも知られたくなかったんです」
「でも、今ならあなたにもできるはずです。 あなたも新人類ですから」

「ちょっと待ってください! そんなことはあり得ない。 進化と個体変化はまったく別の現象です。 僕が新人類に変化した? あり得ません」

「手を出してください」

朝比奈さんの天使のようなやわらかな微笑みが、今の僕にはどうしても悪魔の誘惑にしか見えない。
イワレタトオリニシテハイケナイ。 ソンナコトヲシタラ、ボクハボクデナイモノニナッテシマウ。
けれど、自分が何者なのか知らずにいるのはもっと怖かった。
彼女の指が手の甲にちょんと触れる。 その瞬間、頭の中に電車の中での光景が映し出された。 この事実に僕は愕然とした。

「新人類はこの時代、この地域に発生して爆発的に増加したことがわかっています。 私たちは、涼宮さんこそ最初の新人類だと考えていました」

『ました』? 過去形なのですか? まさか……

「ええ、キョン君が、アルファだったんです。 あ、アルファというのは私たちの時代で付けられた、最初の一人の呼び名なんだけど」

「ちょっと待ってください。 彼は普通の人間です。 機関の調査では、彼について不明不審な点は一切ありません」

朝比奈さんが首を横に振る。

「キョン君が新人類になったのは、あの一件からです。 それ以前の調査では何もわからなかったでしょう」
「新人類が爆発的に増加した理由もわかりました。 この変化は伝染するんです。 キョン君から古泉君へ、そして古泉君と接触した人たちへも」
「ですが、キョン君がアルファになった原因や、あり得ないはずの個体進化の原因はわかっていません。 そちらについては、長門さん」

そう言って、朝比奈さんは長門さんに続きを促すような目線を送った。

「情報統合思念体は、彼が普通の人間であったはずがないという結論に達した」

「彼が生還した前後の時間平面において、涼宮ハルヒの情報操作は観測されていない」

えっ!? 彼が生還を果たしたのは涼宮さんが願ったからだと疑いもしなかった僕は、心の底から驚いた。

「彼は確率0の状況から自力で生還した。 彼は因果律の外から情報を操作したと考えられている。 そのような存在を感知した前例はない」

すみません。 あまりにスケールが大きすぎてついて行けないのですが。

「彼は外殻を失う直前、涼宮ハルヒに気持ちを伝えることを強く誓った。 そのことが、『伝える』という新形質に繋がったと考えられる」
「けれど、彼の生還および、形質を獲得した経緯その他については一切不明」

「因果律を覆し、個体進化を獲得し、さらに周囲をも進化させている事実に、情報統合思念体は大きな興味を注いでいる」
「彼は涼宮ハルヒに匹敵するか、あるいは凌ぐと考えられる」

「彼が自分の能力を自覚している兆候は観測されていない。 そこで、私と朝比奈みくるはこのまま現状維持という意見で既に合意した」
「古泉一樹、あなたは?」

黒曜の瞳に見据えられる。

「……わかりました。 現状維持に合意します。 安寧は機関としても望むところですから」
「たとえば彼が涼宮さんと並び立つ神だとしても、そのことはここにいる我々だけが知っていればいい。 そういうことですね?」

二人がうなずいた。

彼はいったい何者なのでしょうか。
とはいえ、これからもSOS団唯一の普通の人間という彼の立ち位置は変わりませんけれど。
例えそれがただの見せかけで、彼がもう一人の秘された神、だったとしても。


fin.


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