凱歌が、草原を紅色に染め上げた。

風にばたばたと翻る国旗は傷ひとつない。戦勝に沸く兵たちは一年以上を費やした戦の終焉に、母国に勝利を齎せたことへの喜びに酔い痴れた。
獰猛で知られた『雪原の一国』の侵攻を、相手軍の三分の二という兵数でもって撃退した『湖際の一国』軍は、女の身にありながら前線にて自ら剣を振るい、彼らを勝利へと導いた姫に喝采を浴びせた。
緋色の鎧に美しい黒髪を靡かせ、王族の証たるティアラを額に嵌め込んだ娘の肢体は鍛え抜かれて、野生的なしなやかさを備え美しい。ある者は彼女を戦女神と呼称し、ある者は「人魚の加護を得た者」と、水際の国に生きるへの最大級の賛辞を捧ぐ。
――黄色のリボン飾りを揺らした『湖際の一国』の戦姫、ハルヒ。
だが歓喜の渦の中にあって、あちこちに引っ張り凧となってもおかしくないはずの姫君は、何処か複雑な表情だった。祝宴に乱痴気騒ぎの兵たちをあしらいながら輪から外れたハルヒは、拠点としていた古城のテラスにて供さえも連れずに独りで酒を飲んでいた。
月が優しい夜である。血腥い戦場から離れたそこでは、外で笑い声を上げながら浮かれ騒いでいる兵たちの声も遠い。


「やぁ、こんなとこでどうしたんだいっ」
ハルヒは黙々と口をつけていたグラスを離し、親しげに声を掛けてきた少女を振り返った。
「ツルヤさん?」
「そっ。やーっと事後処理が終わったもんでね、戦勝祝いに駆けつけたって訳さっ」
ツルヤ、と呼ばれた少女は酷くハイテンポにそう紡いで、明るい笑みを振り撒いた。ストレートの緑の黒髪、すっきりとした目鼻立ちをしたハルヒとは違った系統の美人だったが、彼女は戦場となった『草原の一国』においてずば抜けて有能な第三姫である。この度の戦にあたっては、『草原』は『湖際』と同盟関係にあり、お互い窮地を救いあってきた仲でもあった。

「戦も終わってやっと母国に帰れるってのに、浮かない顔じゃないか。こんな人気のないとこで飲んでるなんて湿っぽいよっ!悩みがあるならお姉さんに相談してみるっさ」
「悩みってほどの話じゃないわ。皆馬鹿みたいに浮かれてるけど、反省要素が山のようにあるんだもの。それを忘れて浮かれてもられないわ。本当はもっとさくっと蹴散らして帰るつもりでいたんだけど、予想以上にてこずった のがムカつくのよ」 

『雪原の一国』は強国である。その侵略を跳ね除けるだけの力を備える者たちは、そう多くはない。それを知った上で「もっと早くに追い払いたかった」と事も無げに言ってのけるハルヒの態度は、人によっては不遜とも指摘されるものだろうが、ツルヤはまるで気にした風もなく勝気な姫君の心理を察した。

「ああ、そっか。長い間離れてたんだもんね。キョンくんが心配なんだねぇ、ハルにゃんは」
朗らかに笑うツルヤ姫に、ハルヒは思わず――反射的なしぐさで、唇を尖らせた。必ずしも図星ではない。ツルヤの発言内容が、一切ないなんてことは言わないが。
「そういうのじゃないわよ。確かにあのバカは何時までたっても甘さが抜けないけど、コイズミくんもついてるし、ミクルちゃんもいるし取り立てて心配はしてないわ。それより、肝心なのは国王の動向よ」
ハルヒの言葉に、ツルヤも一瞬で理解を示した。
「なるほど、帰ったら丁度キョンくんは『婚姻の儀』の頃合だもんねぇ。うん、あたしに何か出来そうなことがあったら、連絡おくれよっ!今回の戦の勝利に、こっちは大いに借りがあるからねっ。緊急事には兵引き連れて駆けつけるっさ」
「頼もしいわね。じゃあ、そのときは大いに当てにさせて貰うわ」

呼び寄せた女中に酒の用意をさせてから、ツルヤとハルヒは改めてグラスを鳴らした。
――盟友の誓いとして、祝勝として、

それから密やかな約束事を名目に、二人の姫君は乾杯する。 







* * *
 
 
 
 
 



――漣の音が聴こえない。
泡の弾ける音、水の優しい冷たさがこの肌に触れない。恐ろしくて寂しくて堪らずに震えている夢を、人魚は闇の底辺に寄る辺を失くし、彷徨いながら見ていた。
これはわたしが決めたことだから、後悔だけはしてはいけない。
わたしは地位も血縁も種族さえも、すべてを捨てたのだと人魚は繰り返し思い、そう言い聞かせた。自ら放り出したものたちに、今更縋ることなど出来ない。後戻りはならない。

鱗ではなく、滑らかな人の皮膚に覆われている二本脚の下半身を抱きしめて。
もはや人魚ではなくなった白尾の人魚は、これが最後と己に誓い、夢の中で泣いた。 





……そこは、彼女の故郷の海原ではなかった。
焚かれた香の匂いに混じって、花瓶に活けられた生花が振り撒く芳香を、生まれて初めて彼女は嗅いだ。嗅ぎ慣れた、海水の胸がすくようなものとは違う。甘ったるく体内に蓄積されていくような匂い。

体が火照っていた。そっと白い瞼を開いたユキに、少女が水に濡れた布を絞り、額に宛がう。冷たさが心地よかった。
閉鎖的な、仕切りに囲われた空間。人の文化でいうところの、「部屋」というものだが、人魚の娘には知得なき代物だ。水から上がったことすらなかった彼女は、自らの下半身に生えた剥き出しの素足を眼に留める。人のものへと成り代わった、白く滑らかな脚。
覚悟してのことではあったけれど、現実になればやはり、帰属する場を喪失したことを思い知らされた。

「……気分はどうですか?」
ユキの覚醒を見遣り、看病役を担っていたらしい少女が、ユキを安心させるためか柔和に微笑む。
年齢は十代の半ばほどだろうか、童女のような雰囲気を纏っている、清楚な美少女だった。腰まで伸ばされた、緩くウェーブのかかった栗色の髪を結い上げ、藍色のリボンで括っている。彼女が一つ笑みを浮かべれば、その愛くるしさに、老若男女問わず虜にすることだろう。
何処かで見覚えのあるようなシルエット。
ユキは思い出そうとしたが、何かが絡まりあったようなもどかしさが募るばかりで、上手く行かない。そんなに遠い記憶ではない。ほんの少し前に、見た憶えがあるというのに。

「あなたが、助けてくれたの」
人間が着る衣服を着せられて、ベッドに寝かされている理由。助けられたのだ、ということ。目の前の少女は、その手助けをしてくれていたらしいことまでを見取って、ユキは少女に訊ねる。
少女いいえ、と慌てたようにぱたぱたと手を振った。
「あたしは介護を任されただけです。あなたを見つけたのは、騎士様で……。そっかぁ、覚えてないんですね。
……ここは、『海際の一国』の、お城のなかなんですよ」
「お城」
「はい。あなたは、浜辺で倒れてるところを発見されて、お城まで運ばれたんです」
城、という単語に、ユキは黙り込んだ。城。人魚の世界にも宮廷はある。――それは、長者が人魚たちを導くための場であり、最高指導者のための住処だ。
ユキにはまだ知れぬことだったが、寝かされていた室の絢爛さは一般的な市民の住処とは格が違っていた。
横たえられていたのは羽毛がふんだんに用いられた、天蓋つきの大きなベッドで、一流の芸術家によって手掛けられた調度品の数々が寝台を取り囲むように円状に配置されていた。猫の皮から作られるという珍重な絨毯、絵画、魚形に刺繍の入ったレース地のカーテン。どれも伝聞でしか知らぬ、人魚に馴染みのない人間の世界のものだ。

「では……あなたは、だれ」
救われた、というところまでは分かる。それもかなり地位の高い人間に。
だがそれ以上は?
状況を飲み込めないユキが呟くと、少女はあ、と固まる。ごめんなさい、と小さく頭を下げてから、天使のような娘はユキに名を明かした。
「あたしは、ミクルっていいます。ここのお城の……ちょっと説明するのが難しいんですけど、宮廷占術師です。女中さんのお仕事も兼ねて、王子様のご好意で働かせて貰っているんです。
……あなたのお名前も、聞いてもいいですか?」
「……わたしは、ユキ」
「ユキ、さん……。素敵なお名前ですね」

にこり、と微笑み掛けられて、ユキは返す言葉を捜し当てられない。ミクルはユキが人魚であったことを知らないようだ。浜辺に伏していたとき、ユキは既に人に成った後であったのだろう。
尾鰭が人間の脚に生え変わるその激痛に失神し、流れ着いた先でたまたま城の従者に拾われて、城に連れて来られ介抱される。それは、偶然という言葉で片付けてしまうには、余りに幸運な出来事の連続であるように思えた。
もしかしたら魔女が、そこまで気を利かせて取り計らってくれたのだろうか。あの魔女にどれだけの事が出来るのかは不明だが、魂に干渉できるほどの力を備え持つ女。可能性はある。
ユキを人へと変える契約をしたあの「魔女」――姿形もよくは思い出せなくなっていたのだが、彼女の悲しげな眼を思った。
あれは、一体何を憂いていたのだろう?

「ユキさんのこと、王子様が凄く気にかけておられましたよ。訊きたいことがあるとかで……。王子様は気さくな方ですけど、あんなに熱心だなんて初めてです」
ちょっと羨ましいなぁ、と、口にこそしないが、ミクルの呟きには羨望が滲んでいる。
ユキはこの国の『王子』がどの様な人間であるのかを知らない。心酔しているといってもいいミクルの語り口に、ささやかな興味が沸いた。
「それは、どんな人」
「……えっと、知らないんですか?ユキさんはもしかして、この国の出身じゃない、とか」
「………」
この国においては、その王子の存在は常識的な事であったらしい。
己が人魚であるから人間界の知識がないのだと打ち明けたとして、信じて貰えるだろうか。
ユキの迷いを見取ったミクルは、どうやら訊かれたくない事情があるらしいと察したようで、ユキに無理に問い質そうとはしなかった。 

「この国の王子様は、とっても素敵な人なんですよ。国民からもよく慕われてるんです。真面目で、勉強熱心で。いつも国民のことを第一に考えていて……さっきも貴女のこと、本当に心配しておられました」
「……そう」
「うふ。実際にお会いしたら、ユキさんにもわかると思います」

ふと、ミクルが話を切り上げて面を扉に向ける。外野からちりん、とベルの音が鳴ったのを聴いたためだった。
――来客の合図だ。

「はぁい、どうぞ」
ミクルがやんわりと返すと、慌てず騒がず、慇懃に扉が開かれる。狭間から切り揃えられた茶髪が覗いた。重たい鎧の響きが、踏み込みの足音と共に共演する。
「すみません。その娘の調子を見てくるようにと殿下に仰せつかったのですが」
目覚めたばかりのユキを認め、茶の瞳が細まる。

「……目が……覚めたのですね?」

――警戒心を裏側に潜ませた、薄い微笑が、其処にあった。 
 
 
 
 
 

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