梅雨入りとは思えないくらいの快晴が続く毎日。私は農家でもないのに雨の降らない毎日を嘆いていた。晴れなんか嫌いよ。――まさか三ヶ月後に同じ思いをするとはこのときは思いもしなかったが――
「……はぁ」
 思わずこの世の不条理を嘆くような溜息が漏れた。
「どうした佐々木?さっきから梅雨なのに雨が降らないことを嘆いてるような農家のおばちゃんの溜息ばっか漏らして」
 ……なんでこんなときだけ僕のモノローグと同じことを考えられるのだ?この男は。その感の良さは勉学で発揮してくれ。今このときにね。
「そうかい?僕自身はまったく気づかなかったけどね」
 嘘だ。思いっきり気づいていた。ただ、僕に残っていた閉店間際のスーパーのタイムサービス商品並みに、数少ない乙女心がそれを認めなかった。
「自分では気がつかねーもんなんだな。ま、いいか。それより佐々木、喉が渇かねーか?湿気でむしむししちまって、さっきから喉が潤いを求めてるんだよ」
「……実は僕も先ほどから体が水分を欲していてね。ただここはキミの家だから、あけすけもなく言うのはどうかと思い、黙っていたよ」
「だよな。ちょっと待ってろ。今、飲みもんを持ってくるぜ」
 キョンはそう言って階段を小走りで降りていった。

 

 

 

 さてと、今この部屋は私一人だ。……いや、決してRPGの勇者様のごとく、家捜しを実行するつもりは無いが、少し退屈だ。いや、まあ、彼がどんな性的嗜好があるのかは、少し興味があるが……文句ある?
「くっくっ、何てね」
 彼は私を信用しているからこそ、部屋にひとりで残させたんだ。その信頼を揺らがせるわけにはいかない。
 ポフ。私は自分の理性を全力で褒め称え、立ち上がった腰をベッドの上に乗せた。
「はあ、やだなあ……水泳」
 ここで冒頭に戻る。そう、私が憂鬱な原因は、近々開始される体育の水泳の授業の事だ。
 白状しよう。私は泳げない。俗に言うカナヅチなのだ。
「あーあ、海なんて干上がればいいのに」
 母なる海と称される海には申し訳ないが、そのくらい嫌なのよ。
「よくもまあ、みんなはこうやって泳げるよね」
 私はキョンのベッドにうつ伏せに倒れ、クロールのまね事をしてみた。佐々木選手、早い早い!出ました!世界新記録!水泳大国日本万歳!!
「………………………………あ、そいつはよかったな」
 私はガッツポーズを中断させ、着衣の乱れを直し、ベッドから降りた。くっくっ、おかえりキョン。さーてそれじゃあ続きに入ろうか!
「待て待て待て待て!何をいきなり全力で無かったことにしようとしているんだよ!!」
「くっくっくっくっくっくっくっくっくっくっ、何のことだいキョン?僕はずっとこうやってお行儀よく正座していたけど?」
「じゃあなにか!?今のは俺の白昼夢だとでも言うのか?!」
「何を言ってるかよく理解できないが、そうなるね。睡眠障害なら通院を強く勧めるよ」
「病院行きはお前だ!じゃあ言ってやる!お前は人のベッドでなに犬かきしてたんだよ!」
「な!?犬かきだって!?今のはどこをどう見ても純然たるクロールじゃないか!」
「あれをクロール言うなら我が家の妹のほうがまだ上手いわ!つーか今泳いでいたことを認めたな!?」
 アーアー、聞こえない聞こえない。

 

 

 

「つまり、泳げないから泳ぎのマネをしてみたというわけだな?」
 キョンの質問もとい、恥の大バーゲンセールの開始だよ。さあ、出血大サービスの大安売りさ。
「くっくっくっくっくっくっくっくっ。カナヅチの僕を笑うがいい。くっくっくっくっくっくっくっくっ」
「ぜってー無理してるだろ」
「ああ無理してるさ!じゃなきゃやってらんないさ!悪いか!?」
 普段の僕なら逆ギレなど最も嫌悪する衝動だが、そうじゃなければやってられないくらい動揺していた。チクショー!
「ま、まあ麦茶でも飲んで落ち着けよ」
 コクコクコク。キョンから渡された麦茶が、僕に幾分の冷静さを取り戻させた。
「…………どうせキョンだって僕の滑稽なクロールを見て笑ったんだろ。フンだ、さぞおかしかっただろうね」
「まだクロールだって言い……すまん、なんでもない。だからそうやって睨むな。恐すぎる」
「くっくっくっくっ、今年の授業じゃ何人が笑ってくれるかなー楽しみだなー」
 いっそのこと全時間「女の子の日」ということにしてサボタージュしてみようか。いやいや、今すぐ死なない程度に交通事故に……
「佐々木、ダークサイドに落ちるな。帰って来い」
「……キョンにはわからないんだよ。泳げない人の気持ちが」
 人差し指で延々と床にのの字を書き続ける。あーあ、ずっと台風が停滞しないかな。
「やれやれ。わかったよ」
 なにをだい?僕を嘲り笑う方法がかい?
「今週の日曜、市民プールに連れてってやるよ」
 そうかいそうかい。もう好きにし……てく……え?
「そこで俺が泳ぎを教えてやるよ」
「えええええええええ!?」

 

 

 

 そして日曜日。天候は快晴。本当に梅雨入りしたことが疑いたくなるようなすばらしい快晴だ。太陽も少しは休暇すれば良いものを。
「いやそうに言ってる割にはノリノリで来たじゃねーか」
「僕がノリノリ?なんのことだい?」
「鏡見てこい」
 ああ、この赤いビキニ水着のことかい?くっくっ、さすがにスクール水着で来るのはどうかと思った次第さ。似合ってないかい?
「めちゃめちゃ似合ってるが、泳ぎの練習という本文を忘れてないか?」
 とりあえず溜息を吐いた。わかってたさ。こんな反応だってことくらい。まあ似合ってると言ってくれただけ良しとしよう。
「それじゃ始めるぞ」
「そうしてくれたまえ」
 キョンは勢いよく、僕は波紋が広がらないように、静かにプールに飛び込んだ。

「とりあえずどのくらい泳げるんだ?」
「……泳げないからここに来たのに、そんなことを聞くのかい?」
 5メートルすら泳げないのだよ!僕は!
「あー……すまん。それじゃあ顔を水につけることか始めるとしよう。やってみろ」
「…………え?いきなりそんなに高等なことを?」
 あ、今キョンが大きな大きな溜息を吐いた。くっくっ……なんだか視界が曇ってきたよ。
「……こいつは重症だ」
 そして額に手を当てて、やれやれと呟いた。む、だったらキミはどのくらい泳げるんだい?
「いいのか?はっきり言って俺は水泳は大得意だぜ?俺の唯一の得意科目と言って良い」
「御託は良いから早く見せてくれたまえ」

 

 

 

「……ふう。こんなもんか」
 ほどなくして25メートルコースを一往復して帰ってきたキョンの泳ぎは、普通に凄かった。なんで水泳部に入らなかったんだ?もし入っていたら、今頃最後の全国大会に向けて、最終調整に入っていただろうに。
「素晴らしかったよ。いやいや、僕の予想以上だ」
「そうか?ここは市民プールだし、かなりセーブして泳いだつもりだが」
 ……Why?今のでセーブしていただって?周りの人を見てみたまえ。みんながみんな呆然としているではないか。
「……すまない。少し休んでいいかい?」
 僕はキョンの泳ぎを見て、大きく打ちひしがれた。ここまで実力差を見せ付けられると、立ち直れないないよ。
「おい、ちょっと待てよ佐々木」
 キョンが僕の腕を掴んだ。
「……佐々木、最初から諦めるなよ。確かに少し恐いかもしれないが、俺はお前ならできると信じてるぜ。だから、」
「…………ごめん」
 それだけ言って、プールサイドに上がった。自分勝手なのはわかっているが、どうしても練習する気にはならなかった。

 

 

 

 プールサイドからボーっと空を眺めていると、私は自分が何もできない気がしてきた。
 キョンは凄い。自分じゃ気づいていないみたいだが、彼は言葉にできないような不思議な魅力に満ち溢れている。この私が惹かれるくらいだからね。
 では私は?何ができる?唯一誇れるつもりでいた勉学だって、高校に行ったらどうなるかわからない。全国には私よりできる人間なんて腐るほどいる。
 自分が人より特別だ。なんて傲慢なことを考えた覚えは無い。だけど急に自分が無力に思えた。
「はあ……、こんな自分が嫌だ……」
 キョンもさっきからどこかに行ってるし、いい加減愛想がつかれたのかも知れない。ははは、もうどうでもいいよ。
 すると、私の視界の奥に、内に小学生くらいの男の子が入ってきた。ああ、あんな小さい子でも泳げるのに、私は泳げないのか。
 その子がしばらくパシャパシャと遊んでいると、

 

「ゴフッ!」

 

 …………ゴフ?
「たすけ……ガは!たすけて!」
 足がつったのか、その子は急に溺れ始めた。…………ごめんね。僕は泳げないんだ。だから今すぐ人を呼んでく……
 だが、その子の溺れようは尋常ではなく、目を離したら、今にも沈みそうなくらいにもがいている。
「誰か!!子供が溺れている!助けてあげて!」
 私が大声で救助を要請した。

 しかし誰も助けようとはしなかった。何で誰も助けようとしないのよ!?この白状者!

 

『最初から諦めるなよ。確かに少し恐いかもしれないが、俺はお前ならできると信じてるぜ』

 

 さっきの言葉が頭に響いた。でも泳げ……
「ぐばぁ……」

 

「うわあああ!!」

 

――バッシャン!
「待ってガバァ!今助けゴバァ!」
 無様なクロールだなんて言われようがかまわない!笑いたければ笑え!今、この子を助けられるのは私だけだ!
 しかし私の意識は、その子の体を抱えると同時に落ちた。

 

 


「おお!目が覚めたか!!」
「……きゃっ?!」
 目の前にあったのはキョンの顔だったので、つい驚いて情けない悲鳴をあげてしまった。
「やれやれ、泳げないくせに飛び込むなんてどういうつもりだよ。おかげでこっちは心臓が止まったぜ」
「うう、それを言われると返す言葉がないよ。そうだ、あの子はどうなったんだい?」
 確か抱えたとこまでは覚えているんだけど……ダメだ。そっから先が思い出せない。
「あの子なら無事だ。俺がお前ごと飛び込んで助けたからな。俺は市民プールで二次災害なんて始めて見たぜ」
「そうか、世話をかけたね。僕も溺れ………………ん?」
 このとき、おぼろげながら、かつて保健体育の授業で学んだ救命措置の事を思い出した。思い出してしまった
「………………キョン」
「どうした?」
「僕は溺れたんだよね?」
「ああ、見事にな」
「溺れたことに見事も何もない気がするが、間違っていたらすまない。もしやキミは僕にマウストゥマ」

 

 

「……佐々木。細かいことは気にしないでくれないか?頼むから!」
「……そうしたほうが良いようだね。お互いに」

 

 

 

 

 翌日、なぜかこの市民プールでの一件が岡本さんにバレており、さらにはその噂に尾ひれどころかお頭がつき、私とキョンが市民プールで乳繰り合っていたと言われた事態に関しては語るつもりは無い。絶対!!
 今思えばこのときぐらいだったかな。私たち二人が交際を始めているというデマが流れたのは。

 



|