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 珍しい事もあるもんだ。
 休み時間の教室、立てつけの悪い引き戸の横に立っているそいつの顔を見て、俺はそんな事を思った。
 営業スマイルを浮かべつつ、クラスの女子の視線をさりげなく集めているのは自称、超能力者の古泉一樹。
 お前がこのクラスに来るなんて初めてじゃないか?
「そういえばそうでしたね。実は、ちょっとお願いがありまして。英和辞典をお持ちでしたらお貸し願えないかと」
 英和? ああ、ちょっと待ってろ。
 俺は一度として使われる事無く、新品同様で眠っていた辞書を机の奥から取り出してきた。
 よかったな、出番が来て。このまま古紙回収に出される運命だったんだぞ、お前。
「助かりました」
 気にすんな。
 古泉は笑顔で辞書を受け取ると立ち去って行き、俺は代わりにクラスの女子に囲まれてあれは誰なのか彼女は居るのか
趣味は部活は? と問い詰められる事になった。ええい、うっとおしい。
 面倒事ってのは連鎖する性質があるんだろうか?
 ちょうど教室に居なかったハルヒはそんなタイミングで戻ってきたせいで、理不尽にも俺は一日中不機嫌オーラを
背中に浴びるはめになったのさ。


 だから言わせてもらおう、コーヒー奢れ。
「それは……その、何と言うかすみませんでした。コーヒーは辞書のお礼も兼ねて奢らせて頂きます」
 以上、放課後に部室棟へ向かう途中で会った俺達の会話である。。
 こいつが学校に居るって事は、多分閉鎖空間は発生しなかったんだろうな。
 苦笑いを浮かべる古泉から、実際の所を読み取る事はできそうにない。ともかく慰謝料としてのコーヒーをせしめた
俺は、ついでに辞書も貸していた辞書もその場で受け取った。
「ああそうそう。すみません、授業中にいくつか辞書の中に書き込みをしてしまいました。消そうと思ったんですが、
残しておいた方が使いやすいかと思いましてそのままにしてあります。邪魔でしたら消しますので」
 そんな気を使わなくていいぞ、どうせ俺は辞書なんて使わないんだから。
 どうせならお前が持っていた方がいいのかもしれん。
「無いと不便ですよ?」
 使う人間にとってはな、俺は和英は使っても英和を使う機会ってのには縁がなさそうだ。そうでなくても家なら
電子辞書があるからな。学校に対して、授業中は電子辞書を使ってはいけない理由をむしろ俺は聞きたい。
 ……ああそうだ、クラスの女子の何人かがお前とコンタクトを取りたがっているんだが興味はあるか?
 営業スマイルを曇らせる古泉、へいへいもてる男は羨ましいね。
「申し訳ありませんがご辞退させて頂きます。僕では役不足でしょうし」
 役不足か。この言葉は昔と今で意味が真逆だったりするんだが、お前の解釈はどっちだ。
「これは手厳しい。まあ、もしも僕が女子生徒であれば僕ではなく貴方を選ぶでしょうね」
 それは皮肉か。
「いえ、本音です」
 どっちにしろ笑えないな。
 そんなやり取りをしている間に、俺達は部室に到着した。


「あれー? キョン君勉強中なの?」
 そうだ、だから部屋に戻ってシャミセンと遊んでなさい。
「はーい! おかーさーん! キョン君が勉強してるよ? どうしよう!」
 どうしようとは何だ、どうしようとは。
 その日の夜、俺は古泉の落書きとやらがどんな内容なのか興味があり、例の英和辞典を開いてみた。
 おお、大したもんじゃないか。
 開いた形跡があるページには、そこかしこに注意書きや類義語、自分なりの解釈などが細々と記されていた。
 ただ、意外だったのは……書かれていた古泉の筆跡が乱雑だったって所だろう。
 あの性格上、字も奇麗なんだと勝手に解釈してたんだがそうでもないんだな。
 そういえば七夕の短冊に書かれた文字も、時間をかけて書いていた割には汚かったような気もする。
 ま、人間何もかも完璧なんて事はないんだろうな。それにあいつの場合はこれはこれで個性所か外見補正で
男らしい等と長所として受け取られる気がする。
 まあいい、世の無常を嘆いた所で仕方ない。何事も自分の持っているもので勝負するしかないのさ。
 誰と闘っているのかわからない無意味な思考を辿りながら辞書をめくっている間に、文字を追い続けるという
なれない作業で疲労しきった脳は休憩を要求しだし――どうやらそのまま机で寝ていたようだ、寒さで目を覚ま
したのはすでに朝方になっていた。


 体中が痛い……それに眠い。
 それは休むに足る理由とは言えないのだが、登校する気力を削ぐには十分すぎる内容だ。
 疲れた体を引きずって坂道を登り、ようやく教室に辿り着いた俺の目に入った物は――机の上に置かれた
一通の手紙。可愛い便箋に入ったそれは、まだ人影もまばらな教室の中で異彩を放っている。
 そて、これはなんなのだろう? 表には宛名は無く、裏には……だと思ったよ。
 そこには、どう見ても俺の名前とは程遠い古泉一樹という名前が達筆な文字で書いてあった。
 へいへいそうだよな、これが現実って奴だよ。
 教室の中を見回してみるが、誰が置いて行った物なのかわからない。下手をすれば他所のクラスかもしれない
な。溜息をつきつつ、さて、これをいつあいつに渡そうか? と俺は思案を始めた。
 部活の途中で……まあそれでもいいかもしれないな。でも顔も名前も知らない差出人は、少しでも早く
届けて欲しいと思っているだろう。
 ハルヒが来ると面倒な度名事になりそうだ。
 俺は授業中は電源を切っている携帯を取り出し、さっそくメールを打ち始めた。


「お待たせしてしまったみたいで」
 いや、急に呼び出して悪かったな。
 どうせなら早い方がいいだろう、俺はメールで1時間目の休み時間に古泉を呼び出した。
 また教室に来られると色々と面倒なので、場所はこの時間なら間違いなく人気のない購買部にした。
「それで、御用件は?」
 ああ、こいつだ。
 俺は内ポケットに入れてきた手紙を渡してやった。
 古泉は手紙と俺を見比べて何も言わないでいる。
 今朝学校に来たら、それが俺の机の上にあったんだ。
「……びっくりしました。一瞬、貴方からの手紙だと考えてしまいましたよ」
 いったいどんな思考だ、それは?
 見ての通り差出人はわからん、ともかく渡したからな。
「わざわざありがとうございます」
 いえいえ、どういたしまして。俺に届くのはせいぜい殺人予告か危険告知のお知らせくらいのもんなのさ。
 ともあれ役目を終えたというちょっとした充実感を満喫するべく、俺は購買部の奥にある自販機まで足を運んだ。
 いつの間にか温かい缶コーヒーを美味しく感じる時期になっちまったな……もうすぐ冬が来ると思うと、殆どハイキング同然の
通学路であるこの学校の生徒としては正直気が重い。
 素人の冬山登山は危険だろ? この通学路も通行禁止になってもいいと思うんだが。
 休み時間の残り少ない、俺は残っていたコーヒーを一気に喉へ流し込んで空になった缶をゴミ箱の中へと入れる。
 購買部の入口まで戻ってみると、そこにはまだ古泉の姿があった。
 おい、そろそろ戻らないとまずいんじゃないのか?
「あ、と。そうですね」
 俺のクラスならともかく、9組は特進だから出欠なんかにも細かそうだし。
 手紙を広げていた古泉は丁寧に便箋をしまってからその場を後にした。


 放課後、それこそ規定事項なのだろうという程に迷いなく俺は部室へと向かっていた。
 渡り廊下は夕方の冷え込んだ空気が満ちていて肌寒く、朝比奈さんのお茶がより一層恋しくなるね。
 そんな足早に通り過ぎるのが正しいとしか思えない場所に、そいつは待ち構えていた。
 古泉。
「先ほどはどうも」
 ……わざわざこんな所で待ち伏せてるって事は、ハルヒに聞かれたらまずい話なのか?
「あ、いえ。違うんです。個人的な用件で貴方をお待ちしていました」
 そうなのか。なんていうか意外だな。
「実は例の手紙、あれから読んでみたのですが」
 ああ。
「結論から言えば、僕は手紙の主の期待にお応えする事はできません。残念ですが」
 そうか、まあこればっかりはお互いの同意がなければなんともならない事だろうしな……。
「それで、その。この手紙があまりに丁寧に大切に書かれているので、ちゃんと返事を出さなければと思うのですが、
いったいどうすればいいのかわからなくなってしまって」
 それを俺に聞くのか? 見る目が無いにも程があるぞ古泉。俺がそんなに恋愛経験豊富に見えるってのかよ?
「僕も今回みたいに手紙を受け取ったのは初めてなんです。いつもは受け取らずにお断りするようにしていましたから」
 いつも……ね。まあいい、届けた俺にも少しは責任があるような気がしてきた。
「申し訳ありません。やはり、手紙を書いてお返しするか、直接会ってお話するべきなんでしょうね」
 そうなんだろうな。
 谷口はよくラブレターを送っても返事が返ってこないとか言ってるが、あれは例外だと思いたい。
「正直、手紙は自信がないので直接会ってお話しようと思います。ただ、その、状況に流されてちゃんと話せるか自信が
ないので、できれば」
 古泉。
「はい」
 俺についてこいと。
「お察しの通りです。それをお願いできないかと思っていました」
 回りくどいんだ、お前は。
「申し訳ありません」
 まったく。で、会うのはいつ頃にするつもりなんだ?
「電話番号が書いてあったので会って話しがしたいと伝えた所、今日がいいと」
 ……おい、まさか今からなのか?
「はい。残り10分程で待ち合わせの時間になります」
 

 ――その女子生徒が、俺のクラスメイトでもなく知らない奴だったのはある意味救いだった。
 人気のない校舎裏、古泉と当事者のその生徒以外には付き添いである俺と、女生徒の付添らしい数人の女子が居る。
 とはいえ俺は傍観者だ、ただ古泉の奴が言うべき事を言えるように見守るだけ。……結構しんどいな、これ。
 話の流れは聞き取れないのだが、古泉は状況に流される事は無かった様で淡々と口を開いていた。ただ、相手の生徒は
途中から泣き出してしまい……見てられないぜ、でも古泉を置いていく訳にもいなかいよな。
 居心地の悪さと冷え込む空気の中、ようやく古泉の意思が変わらない事を理解したんだろう。
 お疲れさん。
 女生徒達は仲良く連れ添ってその場を去って行った。
「こんなに大変だとは思ってもいませんでした」
 古泉は、いつになく疲れた顔をしている。
 コーヒーでも奢ってやるよ。朝比奈さんのお茶には遠く及ばないがたまにはお前も男相手に愚痴りたい事もあるだろうし。
「え?……いいんですか?」
 いいも何も俺が誘ってるんだ。お前が嫌じゃなければそれでいいだろ。
 否定の意を見せない古泉の前に、俺は朝比奈さん宛てのメールを作った。
『すみません、私用で俺と古泉は30分程遅れます』っと。俺は文面を古泉に見せてやる。
 送っていいか?
 何故だろう。
 いつもの営業スマイルとは違う親しげな笑みを浮かべて、古泉は肯いた。


 「辞書」「手紙」 終わり

 

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