「お前……なんでそんな格好してるんだ」
 
 まるでそのまま時が止まってしまったかのように、長い沈黙と静止があった。
 数分だったか、数秒だったか、はたまた一時間ほどもあっただろうか。
 俺にとってはずいぶんと長い時間であったように思えたのだが、俺と共に硬直していた二人が、文句の一つも言わずに付き合ってくれていたことからして、おそらくそう極端に長い間ではなかったのだろう。
 
 「はい? ……格好、ですか?」
 
 沈黙を破った俺の言葉に、古泉は、頭がついていかないと言ったように、しばし呆然とした後で、はっと気づいたように、自分の着ている詰襟の制服に手を触れた。
 自分が制服の着方を間違えてでも居るのかと思ったのだろうか。
 安心しろ、古泉。ウチのブレザーより似合ってるぜ、それ。
 
 「なあ、古泉。安心しろ、お前の着こなしは完璧だ。首にかけてる部分が実はアンダーということも無い。
  お前がそんな学ランを着てるのは初めて見たもんでな、思わず言っちまっただけだ。
  それでな、古泉。悪いが、俺にはあまり気持ちの余裕がないんだ。早速だが、話を聞いてもいいか?
  ……何故、お前は此処にいる?」
 
 この古泉が、いつものように、半笑いで俺の疑問に答えてくれる、あの古泉だったらどれほど良かっただろうか。しかし、どうやら、そこまでゼイタクは望めないらしい。
 古泉は……おおかた、俺が自分の名前を知っていることだとか、そのあたりのつまらないことに驚いているのだろう。柄にもなく目を瞬かせている。
 なあ、もうそういうリアクションは飽き飽きなんだ。さっさと答えてくれないか。
 
 お前は、鍵か? それとも、ただの気まぐれな侵入者か?

  
 「その……なんと申し上げますか。僕は今日、この時間に、この部屋を訪れるよう約束していたのです」
 
 数秒間、ためらうような時間があった。
 やがて古泉は……一月前に、国木田やらに浴びせられたやつとは、またすこし違ったタイプの『得体の知れないものを見る視線』を俺に浴びせながら、恐る恐ると言ったように口を開いた。
 
 「一体、誰と」
 
 俺は尋ね、即座に……面倒な回り道はするべきでないと、思い直した。
 
 「朝倉涼子か」
 「! ……」
 
 俺がその名前を口にすると、古泉は一瞬、眉に深い皺を浮かべた後で、以前にも何度か見たことがある、まるっきりの真顔となり、低く澄んだ声で、俺に向けて言葉を発した。
 
 「あなたは……一体」
 「朝倉涼子ならここにはいないぜ」
 「! まさか、あなたたちが、涼子さんを―――」
 
 涼子さん。ずいぶんと親密な呼び方をするじゃないか。
 この世界のこいつと朝倉の間に、どんな接点が有るというというのだろう?
 
 「待て、落ち着いてくれ」
 「無茶を言わないでください。こんなわけの分からない状況で、落ち着けるわけがないでしょう」
 
 御尤もな話だ。俺もこれまで、幾度かわけの分からない状況に陥ったことがあるが、はじめから落ち着いていられたことなんて、ただの一度もない。

 
 「朝倉さんは、その……一昨日から、行方が」
 
 声を発したのは、長門だった。
 古泉は、たった今長門の存在に気づいたとでも言わんばかりに、目を丸くして、長門を見つめている。
 
 「……行方不明、ですか?」
 「ああ、そうさ。携帯も繋がらん、家にもおそらく帰っていない。一昨日の夜を最後にな」
 「……そんな。では、この手紙は……」
 
 手紙?
 
 「……今朝、僕の家のポストに入っていたんです。涼子さんから、今日、この場所に来てくれと……
  以前、僕に預けたものを返してほしいとの事だったのですが」
 「その預け物ってのは、まさか、ダン・シモンズの『ハイペリオン』じゃあないだろうな?」
 「……待ってください。あなたは、本当に何者なのですか?」
 
 どうやら、こちらの世界の古泉は、俺の知っている古泉と比べて、ずいぶんと感情的な奴のようだ。
 俺が本のタイトルを口にした瞬間、古泉は俺から逃げるようにして数歩後ずさり、右肩にぶら下げていた学生鞄を庇うように、自分の体の後ろに隠した。
 なるほど。そこにダン・シモンズの『ハイペリオン』が有るんだな?
 
 「古泉、説明は後だ。そいつを俺によこしてくれ」
 「ふざけないでください。あなたたちみたいな訳の分からない人に、彼女からの預かり物を渡せるわけがないでしょう」
 
 ああ、確かにそうだ。俺も訳がわからん。
 朝倉。お前は今日、俺たちがこの場所を訪れることを予想して、こいつをこの場所に呼んだのか?
 

 
 一体、何の為に?
 お前は俺を、鍵から遠ざけるために、こいつを隠したんじゃあなかったのか?

 
 
 「なあ、古泉」
 
 腹の底からの面倒くささを感じながら、俺は目の前で敵意をむき出しにしている男に声を掛ける。
 
 「……朝倉は、そいつを俺の手に渡すために、お前を呼んだんだ」
 「何を馬鹿な……信用できません。あなたたちが、涼子さんの何だと言うのです」
 「俺は文芸部員だ」
 「それが何だと言うのですか」
 「俺にもわからん」
 
 古泉は、何を言っているのか分からない。という顔で、俺をにらみつけている。
 ああ、古泉。俺だって、自分が何を言ってるのかなんかわかっちゃいないんだよ。
 だからどうか、俺を困らせないでくれないか。
 誰か、なにか、この男に、全ての事情を一瞬で説明する装置を、今、俺に託してくれやしないだろうか。そこらをさまよっているピザ屋にでも渡してくれれば、きっと俺の元に届くことだろう。この部屋の中央にそいつを仕掛けて、一晩休んだら、床に大量の古泉が張り付いているようなやつがいい。開発費用のほんの少しくらいなら、俺が負担してやってもいいさ。だから、どうかできるだけ早く―――
 

 

 
 「……かずきくん」
 「……は?」
 

 

 
 不意に。古泉と二人、いたちごっこの睨み合いを続けていた俺の後ろで。
 何かを思い出したように、長門が呟いた。
 するとどうだろうか。俺の顔面に向けられていた古泉の双眸が、はたと長門に向け直される。
 
 「……今、なんと?」
 「……確かあの日、朝倉さん……『かずきくん』と会うって……
  もしかして、あなたがその……」

 

 
 あの日。とは、さしづめ、朝倉がこの部室から……もうタイトルを忘れてしまった、あの本を持ち去った日だろうか。
 かずきくん?
 それは一体どこのどいつの事だろうか。
 カズキ。ありふれた名前だ。漢字で書いたら、こんなところか。
 和樹。 一輝。 一樹……。
 

 
 「……そうですか。あなたが、『長門さん』なのですね」
 「え……」
 

 
 声を聞き、俺は古泉を向き直る。
 しかしそこに、先ほどまでの、攻撃的な態度を浮かべる青年の姿はなく、その代わりに、どこか悲愴感を感じさせる微笑を、ほんのわずかに浮かべた、顔のいい男が立っていた。
 
 「……分かりました。この本は、あなたがたにお返しします」
 
 古泉は鞄を肩から外し、ジッパーを外した中から、茶封筒に包まれた、重たそうな冊子を取り出した。
 そして、鞄を肩に掛けなおすと、両手に持ったその本を、俺へと差し出してくる。
 俺は奇妙な緊張感を感じながら、片手でそれを受け取った。
 
 「あ、ああ……確かに受け取った」
 
 封筒に包まれているため、表紙は見えない。が、大体の大きさと厚み、そして重みでわかる。……そうだ。これこそが、俺がずっと探し続けていた。あの本だ。
 
 「……彼女とのお約束の通り、一度として開いては居ません。ずっと大事に保管してありましたよ」
 「そうか、それは……ありがとう」
 「あなたに言っても、仕方のないことでしたね」
 
 そう言って、古泉は――今度こそ。間違いなく――儚げに、微笑んで見せた。
 俺の良く知る古泉が時として浮かべるそれと、全く同じ表情である。
 
 「しかし……なんだ。かずきくんというのは……」
 「……皆さん、僕のことを、はじめはそう呼ばれるんですよ」
 
 古泉はなにやら気の晴れたような表情で――ある種のやけくそでもあるのか――イヤに朗らかに話し始めた。
 
 「……この本を預けられるとき。僕は、涼子さんから、長門さんの話を聞きました。
  この本の持ち主で……涼子さんにとって、その人はとても大切な存在なのだということも。
  髪の毛が短く、背中がしゃんとしていらして……
  なるほど。言われてみれば、その通りの方かもしれません」
 
 古泉はひとしきりの語りを終えた後、ふと、我に返ったように目を瞬かせ。
 
 「すみません。すこし喋りすぎですね、僕は」
 
 と、すこし恥ずかしそうに……そして、どこか寂しそうに笑った。
 
 「……僕にできることは、これきりだと思います」
 「ああ……すまなかったな、突然」
 「いえ……かまいません。お話は聞いてありましたから。
  今、お渡ししたものは、長門さんにとって何よりも大事なものなのだと」

 

 古泉は言った。
 
 「いつか、それが必要になるときが来るかもしれない。その時まで、大事に預かっておいて欲しい。とのことでした
  どんな事情があるのか分かりませんが……つまり、その時なのでしょう?」
 
 どうだろうな。
 多分、そうなんだと思う。ぐらいしか言えんな。
 何しろ――何度も言うが、何がなにやらなどは、俺にもさっぱりわからないのだから。
 
 「……では、僕はこれにて失礼させていただきます。行かなければならないところがありますので」
 
 やがて古泉は、腕の途中にぶら下げていた鞄を肩に掛けなおし、制服の襟を直した。
 
 「朝倉さんが見つかりましたら、どうか……頼まれたことは全て済ませたと、お伝えください」
 「……一つ、いいか?」
 「なんでしょう?」
 「お前と、朝倉は―――」
 「古い友人。ただ、それだけです」
 
 ふと。その言葉と同時に、俺を振り返った古泉は
 一瞬、なにやら真剣な顔になり、俺の顔をまじまじと見つめはじめた。
 
 「どうした」
 「いえ……僕も最後に、一つだけ、よろしいですか?」
 「構わんが」
 「その本を、持ってみていただけますか」

 

 こいつをか?
 古泉は、俺の手の中に在る、先ほど渡されたばかりの書物を指し示している。
 俺は言われるがままに、封筒の中からハードカバーを取り出し、それを手に持って、古泉に向き直って見せた。
 これがどうした?

 

 「いえ……なるほど。言われて見れば……意外と似合っていらっしゃるかもしれませんね」
 
 それでは、ごきげんよう。
 その言葉を最後に、古泉一樹は、文芸部室を後にし、土曜日の街へと消えて行った。

 

 

 

 

 

 

 ……さて。

 今。古泉の登場と共に、いくつかの新たなる事実が明らかになった。
 

 朝倉は、この本を俺の前から隠し、それを古泉に託した。
 そして、今朝。古泉は朝倉の命によって、本を返すためにこの文芸部室を訪れた。
 そこに朝倉の姿などはなく、代わりに俺と長門の姿があった。
 

 

 これは、偶然か? 必然か?
 なあ、朝倉?
 

 
 「お前は何を考えてるんだ?」
 

 
 俺が部室を振り返りながら呟くと、たまたま目の前に立っていた長門が、何事かというように俺の顔を見た。
 
 「すまん。お前のことじゃない」
 「……その本」
 「ああ、そうだったな」
 
 そうだ。
 あれほどもう一度巡り合いたかった、この本が。今、俺の手の中に有る。
 ずいぶんと回り道をしたものだ。俺はようやく、その鍵を手に入れたことになるのか。
 朝倉によって遠ざけられたそれを、今、朝倉の導きによって。
 
 「頼む、長門」
 
 本を両手に持ち、俺がそう呟く。傍らで、眼鏡の長門が、不思議そうに目を丸くしている。
 いつかのように。
 俺を導いてくれ。長門。
 
 

 

 

 

 

 

 
 「あ……」
 
 俺が本を開くと同時に。開いたページの間から零れ落ちた、長方形の紙片を見て、長門が小さく声を上げた。
 

 

 

 

 

 

 

 つづく

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最終更新:2008年09月06日 16:44