これまで生きてきた内でも、三本指に入るほど衝撃的な目覚めだった。
カーテンのない窓から容赦なく差し込む朝日によって夢の世界から引きずり戻された俺は、ほんの数秒のブランクの後で、そこが自室のベッドの上でないことに気づいた。
そしてその直後、自分のすぐ傍らで、眼鏡をかけたまま寝息を立てている長門の存在に気づいた。
「おい、長門」
「ん……」
俺が肩に手を置いて揺さぶりを掛けると、長門はすこし苦しそうに顔をしかめた後、ゆっくりと瞼を開け、やがて、ずれた眼鏡越しに俺の顔を見て、驚愕の表情を浮かべた。
「キョン……君?」
「悪い、あのまま寝ちまってたみたいで」
長門は、何がおきているのか分からない。と言った様子でしばらく硬直した後、ようやく現状を把握したのか、あわてて体を起こし、ずれた眼鏡を掛けなおし、制服の乱れを直した。
「あ、朝倉さんは?」
「いや……わからん、帰ったんじゃないのか?」
この時点で、何かおかしいとは思ったのだ。
長門の部屋に眠った俺を残したまま、朝倉が自分だけ先に帰ってしまうなどということがありえるだろうか。
「時間……いま、何時?」
長門に尋ねられ、俺は自分の携帯電話を見る。
HRが始まるまでは、まだ小一時間ほどある。焦らなければいけない時間ではないが、あまりのんびりもしていられない。
ついでに、母親からのメールが山ほど届いていた。そういえば、帰りが遅くなると伝えておくのを忘れていたかもしれない。
もっとも、実際には遅くなるどころの騒ぎではなく、一晩中長門の家にいたのだから、報告を忘れずにしてあったとしても、怒りのメールは届いていたのだろうが。
「長門。朝倉とは、いつもどうしてるんだ?」
「えっと……日直も何も無ければ、いつもエレベーターの前で、待ち合わせ……」
「時間は」
「あと十分くらい」
幸いなことに、お互い制服を着込んだままだ。間に合うだろうか。
「長門、身だしなみに必要な時間は」
「え、ええっと……そんなには」
「じゃ、悪いけど、急いでくれ」
他人の家で勝手に夜を明かしておいて、俺は何を偉そうに振舞っているのだろうか。
この時俺は、何故だかわからない不安に襲われていた。
俺が眠っている間に、俺のいるこの世界が、俺の知らない世界へと変えられてしまったような気がする。
何故そんな事を思いついたのかは分からない。
ただ、一つだけ分かること。
朝倉に会いたかった。
朝倉に会えば、全ての悪い予感が、どこかへ消えてくれるような気がした。
俺は忙しなく髪の毛を整える長門を急かしながら、ドアのロックを解除し、マンションの廊下へと飛び出した。
大気はいつものように冷え切っている。少なくとも、世界が突然真夏に変わってしまったりはしていないらしい。
早足でエレベーターに乗り込み、長門が追いつくのを待ってから、一階のボタンを押す。
「……」
長門はすこし困ったような表情で、俺の顔を見つめている。
俺は多分、一月前、(この長門にとっては)初めて文芸部室を訪れたときと似たような顔をしているのだろう。
実際、俺の胸のうちは、あの時と同じような濁り具合をしていた。
俺はただ闇雲に、自分を安心させる、自分の予想を裏切らない何かを求めていた。
程なくして、階数を示す電光表示が一階を示し、俺たちの目の前で、重たい機械の扉が開く。
埃の匂いを洗うように、冬の大気の匂いが、俺と長門を包む空気を塗り替えてゆく。
薄暗く冷え切ったマンションのロビーに……朝倉の姿は、無かった。
「……長門、時間は」
「えと」
俺の言葉に、長門は鞄の中から携帯電話を取り出し、その画面を見つめる。
「……丁度、いま」
「あいつが遅れること、あったか?」
「今までは、一度も……」
長門の言葉を聞き終わらないうちに、俺は立った今閉じたばかりの扉に向き直り、脇の壁に取り付けられているボタンを乱暴に押した。
俺の胸の中で、自分には押さえようのない熱のようなものが膨れ上がってゆくのが分かる。
何度も何度もボタンに指を叩きつけるが、たった今去ったばかりのエレベーターは、すぐには戻ってきてはくれない。
「畜生!」
乱心する俺を呆然と見つめていた長門が、俺の絶叫と同時に、びくりと体を震わせたのが、視界の端に写る。
長門はまた、あの、得体の知れないものを見つめるような目で、俺を見ているだろうか。
――ああ、違う。違うんだ。俺はおかしくなったわけじゃないんだ。
駆け出した俺に向けて、長門が何かを叫びかけたような気がしたが、立ち止まることは出来なかった。
エレベーターに見捨てられた俺は、傍らから伸びていた階段を、数段飛ばしで駆け上がる。一階。二階。三階。朝倉の部屋は何階だったか。五階だ。以前、一度訪れたことがある。
うっかりしていると、目的の階を飛ばして、そのままどこまでも駆け上がって行ってしまいそうだ。俺の意思とはほとんど無関係に階段を上る両足をなんとか制し、五階の廊下へと駆け込む。
朝だというのにやかましく足音を鳴らして廊下を駆け抜け、目的の五〇五号室にたどり着いたときには、俺はもう全身に汗をかいていた。
「朝倉!」
インターフォンという文明の利器を忘れてしまったのか、俺は冷たいドアにいきなり拳を叩きつけながら
痛む喉を扱くようにして、その名前を呼んだ。
頼む。出てきてくれ。
お前がいてくれたら、安心できるんだ。
朝倉。
「朝倉、あさ……」
「だめ!」
頭上から声がしたと同時に。五〇五号室のドアに張り付く俺の体が、後方に引き戻される。首の後ろで、布の繊維が千切れるような、ブチブチという音が聞こえ、喉に奇妙な痛みが走った。
「きゃあっ!」
引っ張られるまま、後ろ向きにバランスを崩した俺は、背後にいた誰か――濁すまでもない。俺を追いかけてきてくれた長門だ――を巻き込んで、仰向けに倒れこんでしまった。
俺の背中とコンクリートの地面の間で、寒気がするほどに暖かくやわらかい長門の体が押しつぶされているのが分かる。
「すっ、すまん……」
あわてて体を起こし、倒れた長門の体を起こす。
俺を追いかけて、階段を駆け上がってきたのだろう。長門は荒く呼吸をしており、両肩は忙しなく上下していた。
「……もしかしたら、先に学校に言ったのかもしれない」
しばらくインターフォンを鳴らした後で、長門は俺を振り返り、そう言った。
そうだ、学校だ。携帯電話を見ると、時間に余裕などは、全くと言っていいほど失われてしまっている。
当たり前だ。俺の乱心によって、どれだけの時間がロスされてしまっただろうか。
俺が黙っていると、やがて長門は、カーデガンに付着した土ぼこりを両手で払い、地面に落ちたままになっていた学生鞄を拾い上げ、エレベーターに向かって歩き出した。
◆
長門と共に歩く通学路には、一月前、始めて(今の)長門の部屋を訪れた時の帰り道と同様に、会話というものが存在しなかった。
俺はただ無言で、長門の小さな背中のななめ後ろを歩きながら、何かしらのあきらめのようなものを憶えていた。
……そうだよな。このまま何も起きないわけがないよな。
俺は声には出さず、心の中で呟く。
考えても見れば。俺は別に、今の日常がこのまま続いてゆくことを望んでいたわけではなかった。
この日常―――感情豊かな長門有希と、以前よりもすこし感情的な朝倉涼子と共にすごす日常だ――は、あくまでもかりそめの時間でしかないのだ。
いつか消え去ることは、はじめから決まっていた、うたかたの世界。そして、俺は一刻も早く、そこから抜け出すことを望んでいたはずなのだ。
朝倉涼子の消失。
それは俺が待ち望んでいた、状況の転化ではないか。
長門は時折、黙り込む俺を案ずるかのように、肩越しに俺の顔をちらりと見ては、再び前方に向き直った。
そう―――この長門も同じだ。
この世界に、正しいものなど一つとしてないのだ。
◆
俺たちが学校にたどり着いたとき、すでにHRの時間は過ぎており、校内は一間目の授業の最中だった。
俺は数学の教師の小言を浴びながら入室し、いつもの窓際の席に腰を下ろす。
俺の席の後ろに、朝倉涼子の姿は無かった。鞄が掛けられている様子もない。
はじめから朝倉涼子などはこの世に存在しなかったように、朝倉涼子を示すあらゆる要素が、俺の前から姿を消していた。
それでいい。俺は思った。
俺の知る世界には、朝倉涼子など、存在しないのだから。
◆
二間目と三間目の間の休み時間に、長門からのメールが届いた。
長門は朝倉にメールを送ってみたが、返信は得られなかった。とのことだ。
俺はそれに対する返信の文面をしばらく考えてみた。が、適当な言葉が見つからず、返信をすることをやめてしまった。
もはや俺にとって、朝倉がどこに消えてしまったかなど、どうだってかまわないことなのだから。
俺は歴史の教師の言葉を聞き流しながら、これから何をするべきかを考える。
朝倉涼子が消えた。それは、一見、とても重要な出来事のように思える。
が……考えてみれば、朝倉が消えたことで、一体何が変わるというのだろうか。
世界は此れまでどおり。ハルヒは居ない、古泉も居ない。長門はああだし、朝比奈さんもあの調子。
……結局、何も変わらないのではないだろうか。
待てばいい。
俺はその結論に到達した。
探せるものは、一月前に一通り探した。俺にわかることは何一つない。
俺にできることといえば、あとはただ、待つだけだ。
俺がこの世界にやってきてから一月が経ち、朝倉が消えたように。
何かが起こるまで、待ちつづけるしかないのだ。
◆
動き出しさえすれば、物事が進むのは早いものだ。
その日の昼休み。この世界からもう一人、俺の知る人物が消えた。
そいつ顔を最後に見たのは、一月前の十二月十七日。
その日を最後に、そいつは俺の前から姿を消した。
そして、今。俺の知らないどこかで、俺の知らない誰かの手によって。
そいつは、この世界から消えた。
◆
「……キョン、聴いたかい?」
昼休み。意識を宙ぶらりんにしたまま、延々と無駄な時間をすごしていた俺に声を掛けたのは、国木田だ。
いつもは気の抜けた微笑を浮かべている端正な顔面に、今日は何故だか、イヤにこわばった真顔が貼りついている。
「どうした、校内にV6のロケでも来たってのか」
「聞いてないの? 嘘だろ、さっきからみんな、その話ばっかりなのに」
国木田は俺の無知をあざ笑うように、大げさに驚いた後、顔を近づけ、囁くように言った。
「今朝、光陽園の生徒の死体が見つかったんだって」
「死体だ? なんだ、心臓麻痺か?」
「ううん、殺されたんだって。どうも、ナイフで刺し殺されてるって」
突然の展開に、俺は話についていけきれなかった。
光陽園高校。聞き覚えのあるその名前は、隣町に舎を構える、お嬢様系の女子高の事だ。
そこの生徒が、殺された。
「何、なんだ? 殺人だって? 光陽園で?」
俺と国木田の会話を聴きつけたのか、離れた席で食事をしていた谷口が、目を丸くして割り込んでくる。
「通り魔か何かかよ? おいおい、冗談じゃねえぞ。で、誰が殺されたんだ?」
「いや、さすがに、一人殺されただけで通り魔とは決められないと思うけど……」
国木田は困り顔を浮かべながら、手に持った携帯電話のモニタを見つめている。
「これ、言っていいのかな。殺された生徒の名前……確かな情報かどうか、わかんないんだけど」
そう呟いた国木田は、俺と谷口の顔を見比べた後、まあ、もうみんなに知れちゃってるよね。と、ため息混じりに呟いた。
そして、次の瞬間。
その名前を、口にした。
「光陽園学院一年の、涼宮ハルヒさん」
つづく