この静かな文芸部室に違和感を感じなくなったのは、いつからであっただろうか。
以前も、約一名が欠席さえしていてくれれば、それなりに静かで、平穏な空間ではあったのだが……しかしながら。例えどれほど見かけが静かであったとしても、その部室に存在する俺を除く全ての人間が、人間でない。まともな存在ではないという、とんでもない隠し要素の眠る、悪夢のような空間だった。
そんな頃から比べれば。
今、この文芸部室には、もっとも多くてもたったの三人しか存在しない。
そして、その全てが―――(自己申告ではあるが)何のサプライズ要素も持たない、一介の高校生でしかないのだ。
とある高校の、とある部活動の部室に、高校生が三人。……そんな当たり前の光景の中に、自分が含まれている。その事実が信じられないくらいだ。それどころか、下手をすれば、この中で一番まともでないのは俺かもしれない。
そう。ふとすると忘れそうになるが―――
俺は今、いうなれば、異世界人なのだ。
◆
俺がこの奇妙なほどにまともな世界へと迷い込んでしまったのは、去年の十二月十八日。
世界は俺の日常から、いくつかの非現実的要素を奪い取っていき、その代わりとして、あまりにもまともすぎるが故に、今度は逆に胡散臭さを感じるような『まともさ』を寄越していった。
「長門さん、今日何食べたい?」
「えっと……なんでも」
「えー」
その『まともさ』の代表が、こいつらだ。
世界がSF学園ドタバタ物から、ハートフル学園生活物へと変化を遂げた二日後の、十二月二十日。俺は長門有希を唯一の部員とする北高文芸部の第三の部員となることを志願する旨を書した藁半紙の入部届けを、すっかりと柔らい表情を浮かべるようになった長門の眼前へと差し出した。
「迷惑じゃなければいいんだが」
「ううん……うれしい」
長門はすこし照れるようにうつむいた後で、すこし皺になった藁半紙を、微笑みながら受け取ってくれた。
「これから、よろしく」
「ああ」
何故文芸部に入部する気になったのか?
そう訊ねられた場合、俺はこう答えるだろう。
「なんとなくであり、それしかなかったから」
長門有希は、俺がかつて存在してた世界で頼りにしていた人物の中で、唯一、この世界においても、俺のことを拒まずにいてくれる人物だった。
以前の記憶を持たない今の長門にいくら縋ったところで、俺を元の世界に返してくれはしないことも分かっている。しかし、だからと言って。元の世界に戻るために何をしたら良いのかなど、俺にはさっぱり分からなかったのだ。
あと、まあ―――率直に言って。
感情豊かに生まれ変わった長門に惹かれていたというのも、理由の一つとしてないわけではない。
はい。とにかく、そういうなんやかんやで。
俺ははれて、文芸部の一員となった。それが十二月二十日、一月ほど前の話である。
……何?
上の文章に、矛盾点があるって?
それについての説明は……これからしようと思う。
俺が入部届けを片手に、文芸部室を訪れたとき。
俺より一足早く、文芸部員の称号を手に入れていた女がいた。
「なんだか話を聞いてたら、楽しそうなんだもん」
……思えば、その日の前の晩。長門の家での様子からしておかしかったのだ。
奴は俺に、長門のことをどう思っているのかと執拗に訊ねてきたのだ。
俺は長門の傍らで微笑むそいつに向かって、そいつに言われた『文芸部のガラじゃない』という言葉をそっくりそのまま返してやろうかとも思ったのだが……しかし。常識的に考えて、文芸部員という肩書きは、俺よりも朝倉涼子のほうが、何万倍も似合っていた。
「二人とも、よろしく」
それから一月。年末年始の休みを入れれば、部室で過ごした実質の時間は、一月にはずっと足りないが。そのほんのわずかな時間で、俺はその静かな文芸部室に慣れてしまっていた。
◆
俺は薄情なのだろうか?
いや。一向に姿を現さない、あいつらが悪いのだろう。
そういうことにしておきたい。
◆
「キョン君?」
「……は?」
回想に耽っていた俺を現実に引き戻したのは、いつの間にやら俺のすぐ傍まで近寄ってきていた、長門有希の(この部分は以前と変わらない)非常に控えめな声だった。
「ああ、長門。何だ?」
「あなたも、今晩、うちで晩御飯を……」
相変わらず恥ずかしそうにではあるが、一月前と比べれば、ずいぶんと打ち解けた口調で、長門は言った。
そういえば、さっき、朝倉と二人で、晩御飯がどうのと話をしていたな。
俺は窓際に腰をかけたまま、こちらを見ている朝倉に、ちらりと視線を送った。
表情こそは笑顔を浮かべているものの、その皮を一枚めくった向こうから、何かしらの濁ったオーラを感じる。
……俺は大丈夫だが、俺が来るとうれしくない奴がいるんじゃあないのか?
「え、そう……なの?」
「あら、もしかして私のこと?」
俺がわざと視線を逸らしながら言うと、朝倉は白々しく驚いた表情を見せ
「何を言ってるのよ、同じ文芸部の仲間じゃあないの。大歓迎よ。ああ、でもそうね。あなただけは家が遠いし……それに、女の子の一人暮らしのマンションに、あまり遅くまで男の子が混ざっているというのも、私にも、長門さんにも、あなたにも、ひいてはこの北高全体で、あまり望ましいことじゃあないかもしれないわね」
朝倉は、芝居がかったいかにもという口調で、言葉の端々に俺を拒まんとする感情を込めながら、長いセリフを、流暢に、なんと一息で話しきった。……こいつ、やっぱり人間じゃあないんじゃないのか。
そんな朝倉の言葉を聞き、長門はというと……朝倉の言葉に込められた怨念を感じ取ってか、気づかずになのか、理解不能。とでも言いたそうに眉を顰め、俺と朝倉の顔を交互に見比べていた。
……まあ、俺は遠慮しておくわ。
俺が朝倉の発するオーラにやられ、兎に角さっさと話を終わらせてしまおうとした直前。
「……まあ、別に大丈夫か。長門さんがいいなら、私はぜんぜんかまわないわよ」
「じゃあ」
朝倉が肩をすくめながらそう言うと、長門はすぐさま表情を明るくし、俺を振り返った。
朝倉はというと、言うが早いか、早くもこの案件に興味はありませんとでも言わんばかりに、コンピューターの画面に視線を移し、寝ぼけたムカデの足取りのような手つきでマウスを弄っていた。
「じゃ、また帰りにスーパーに寄っていきましょっか。荷物もちもいることだし、張り切っちゃおうかな」
最後に、視線を動かさないままそう呟き、朝倉はすこし笑ったようだった。
◆
『朝倉の笑顔』。
俺にとってそれは、いついかなるときであろうと、丸ごと信じ込むことはできないものだった。
どれほど楽しそうに笑っていても、あの女は、その笑顔を一枚めくった裏側に、何かを飼っている気がする。何しろそれは……かつて、俺にナイフを向けた女の笑顔とまったく同じものなのだから。
「長門さん、ズッキーニって知ってる?」
朝倉は今、俺の斜め前で、長門と二人、植物園を見て回ってでもいるかのように、楽しそうに食材を選んでいる。俺はそんな二人を見ながら、この世界に来てから、時折憶えるようになった眩暈の、何度目かに襲われる。
朝倉の手の中に、一瞬、あの日と同じナイフが握られているような気がして、左胸を高鳴らせる。
……ほとんど病気である。
「ねえ、どうしたの?」
気がつくと、朝倉は俺のすぐ目の前までやって来ており、訝しげな表情で俺の顔を見上げていた。
「……私の顔に、何かついてるかしら?」
「いや」
俺が相槌を打つと、朝倉はすこし考えるように首をかしげた後で
「それとも……ダメよ、キョン君。私はこう見えて扱いにくい女なのよ?
好きになったら痛い目を見るわ」
「……憶えとく」
―――別に好きにならなくとも、痛い目にあいかけたんだがな。
俺の反応は朝倉にとって面白いものではなかったらしく、すぐにまた、長門と二人で商品を眺め始めた。
見ると、朝倉の転がしているカートの籠には、とても一食分の料理の材料とは思えない量の食材たちが、数少ない余白を埋めあうようにして、几帳面に隙間無くつめられていた。
……一体誰の荷物にするつもりなのやら。
「キョン君、お酒のレジ、お願いね。あなた、老け顔だし」
この世界の法律では、老け顔が制服を着れば酒を買えるらしい。
◆
長門のマンションに着くなり、二人は制服の上からエプロンを付け、キッチンに立ち、食事の準備を始めた。俺が死力を尽くして運んだビニール袋の中から、次々と食材が取り出され、台所へと並べられてゆく。
「よくもまあ買ったもんだな」
「食品は、まとめ買いをして保たせるのが基本なのよ。うまくやればちゃんと保つんだから」
どうやら、今晩の分のみというわけでなく、以後数日分の食材もまとめて買ったようだ。
つまり、俺は本当にただ荷物もちをさせられたわけか。
「食事を恵んであげるんだからゼイタクは言わないの」
もっともだ。
二人の立つキッチンは、一月前にこの部屋を訪れたときと比べて、ずいぶんと雰囲気が変わっていた。
以前はほとんど見受けられなかった調理器具の類が、壁にぶら下がっている他、戸棚のところどころが朝倉の趣味なのであろう、パステルカラーの布カバーによって飾られている。
どうやら、朝倉がこのキッチンに立つのは、今日がはじめてというわけではないようだ。
「キョン君」
ぱたぱたとせわしなく動き回る二人を、コタツに足を突っ込みながら見つめていると。両手になにやら、大根の上半身と、おろし金らしき器具を持った長門が近づいてきて
「……はい」
その二つを、俺の目の前に起き、再びキッチンに戻っていった。
なるほど。このごろ流行の突き出しは、セルフサービスの大根おろしか。どれ、まず駆けつけ1杯でビールを……
「丁寧に降ろしてね。せっかちにやって辛くなったら、ご飯の代わりに食べさせるわよ」
……了解いたしました。
言われたとおりにたっぷりと時間をかけたものの、そもそもの大根の持つ辛さが桁外れならば、俺の付け焼刃の知恵袋攻撃など通用するはずも無く。なかなかどうしてスパイシーな大根おろしが出来上がってしまった。
俺特製の大根おろしを含む本日のディナーが、コタツの上に並び、準備は整った。メニューは、和洋中の程よく織り交ざった、なかなかに豪華なものである。ちなみに、俺の可愛い大根おろしはというと、焼いた鶏肉の角切りの上に、葱の千切りと共に乗せられていたりする。
「いただきます」
「ます」
長門の小声、朝倉の細い声、俺の声が、同時に、かつ、ばらばらに、食事の始まりを告げる。
「私ね。本当、文芸部に入ってよかったわ。こんな楽しい集いを心置きなく開けるんだもの」
朝倉は、調理の途中あたりから、妙に良く喋っている。
その理由は、俺がレジに入ったとき、渡された籠の中に、料理用とは別の酒類の姿があったことから、俺も長門もなんとなく想像がついている。
むしろ、長門は共犯者か。
「別に、文芸部に入る前だって、お前らはよく二人で飯を食ってたんじゃないのか?」
「それはそうだけど、私も長門さんも貧乏学生だもの。部費を使えなかったら、こんなに手の込んだ食事、できないし」
あの材料は部費で買ったのかよ。
「いいじゃない、これも文芸部の活動でしょ? 部員たちが親睦を深めるための集いじゃないの」
聞こえはいいが、さすがに部費で酒を買うのはまずいだろう。
「言わなきゃわからないわよ」
それもそうだが。
「……で、親睦は深まってるのか?」
「あら、だって私と長門さんは、深めるまでも無く親密だもの。ね、長門さん?」
「うん」
アルコールの恩恵を受け、いつに無く猫なで声となった朝倉に詰め寄られ、長門はすこしだけ困ったような仕草を見せつつも、それを拒むつもりはないらしく、微笑みながら肯いた。どこかためらいがちなように見えるのは、もしかすると、俺に気を使っているのかもしれない
「あの……キョン君も」
「俺か」
長門が俺の名前を呼ぶと同時に、朝倉の目がちらりとこちらを向く。
しかし、俺の背筋に何か悪いものが走ることはない。
「もちろん、キョン君も、文芸部の仲間なんだから。長門さんはね、あなたに早く、私たちともっと打ち解けてほしいと思っているのよ。そのために、今日だってあなたを呼んだんだから。ね、長門さん」
「あ、朝倉さん?」
朝倉は、一瞬何かを考えるように視線を泳がせた後に、いつもの笑顔にすこし頬の赤みを足したような表情で、例によって長いセリフを一息で読みきった。その内容を聞き、長門があわてたように目を見開かせ、朝倉と俺の顔を交互に見つめている。
長門が、俺の為に?
「鈍感よね、あなた。長門さん、苦労するわよ」
「あ、えと……」
硝子のコップ(何が入っているやら)を傾ける朝倉が、一瞬、何かを憂うように、瞼を伏せた気がした。
俺の知らないうちに、魔法の水は俺と長門のカップにまで及んでいた。
控えめながらもテンションのあがった長門と、言うまでも無くイケイケモードとなった朝倉の二人は、食事があらかた済んだあとも、しばらくの間、ふたりして楽しそうに笑い合っていた。
テレビのある食卓が基本な家庭で育った俺にとって、お互いの会話のみでこれほど盛り上がれるというのは、理解しがたいことであると同時に、なんとなく羨ましいことでもあった。
……かつては人ならざる者として俺の前に現れた二人を、俺は今、同じ人間として羨ましがっている。
不思議なことである。
◆
気がついたときには、長門はアルコールの魔力によって、夢の中へと旅立ってしまっていた。食事を始めてから二時間。世の中は徐々に、夜から深夜の空気をまとい始める時間である。
「ダメよ、後片付け。手伝ってくれないと」
鞄を持って立ち上がった俺を呼び止めたのは、まだわずかに赤い頬で、テーブルの上の皿を重ねていた朝倉だった。
「もういい加減時間がまずいだろう」
「あら、だからって私に全部任せていっちゃう気? それはひどいんじゃない? 同じ文芸部員として平等じゃないわ」
「そうは言っても」
「誰にも見つかったりなんかしないわ、夜だもん。ほら、そっちのお皿持って」
押しの強い女ほどに逆らいがたいものも、この世にはないだろう。
言われるがままに、俺は袖を通したブレザーを再び脱ぎ、鞄を床に置き、テーブルの上に詰まれた皿を片付け始めた。
朝倉は、流し台に運ばれた皿を、上に積まれている物から順にスポンジで擦り、蛇口の水をくぐらせてゆく。手早いものである。
「朝倉」
手持ち無沙汰になった俺は、再びコタツの中へと足を突っ込み、流しに立つ背中に向けて声をかける。
朝倉がこちらを振り返ることはないが、代わりに、すこしかすれた声が返ってきた。
「何?」
「長門が俺を誘った理由、あれ、本当の話なのか」
「ええ、そうよ。嘘なんてついてどうするの」
そこまで言うと、朝倉は一度流しの水を止め、肩越しにこちらを見た。
「気づいてないのかしら? あなた、まだまだよそよそしいのよ。長門さんにも……私にも、かな。一応」
気づいてないわけじゃないさ。
俺は口には出さずに思う。
いくらこの世界に慣れ初めてはいるとは言え、やはり俺にとっての本当の長門とは、あの長門なのだ。
そして、俺にとっての文芸部室とは、やはり、あいつらと共に在るべき空間なのだ。
「……でもね」
長門は俺の向かいで、上半身のみをコタツから生やしながら、寝息を立てている。
小さく、気がつけば消えてしまいそうな寝息だ。
そのわずかな寝息をかき消すように、朝倉が呟く。
「あなたはあなたなのよ。今の長門さんにとっては」
夏の終わりに、虫が最後の一声を呟くような、そんな弱弱しい呟きだった。
コタツの暖かさと、体の中にわずかに残るアルコールによってぼやかされた俺の意識は、朝倉の呟きの意味を理解することは出来なかった。
…………
「キョン君。私はね、長門さんが好きなのよ」
「見れば分かる」
「だから、長門さんと会えたとき、うれしくて仕方なかった」
朝倉はいつの間にか、キッチンを離れ、長門の傍にしゃがみこみ、いとおしそうにその頭を撫でていた。
寝言のような声色で話す朝倉。俺はぼやけた意識で相槌を打つ。
長門は寝息を立てる。
「あなたが羨ましいな」
「お前のほうが長門と仲良しじゃないか」
「違うんだな、それが」
「じゃあ、お前と長門は何なんだ」
不意に、朝倉の言葉が止まる。
朝倉が話すのをやめてしまうと、世界からは、長門の寝息以外の音が消えてしまったかのようになった。
「……わからないわ。私にも」
しばらくの沈黙の後、朝倉は呟き再び長門の頭を撫でた。
「長門さん、好きよ」
「あなたに会えて、よかった」
そして、その翌日。
朝倉涼子は、俺と長門の前から姿を消した。
つづく