「おはよう」
 

 一晩ぶりに見る呆け面に、私は満面の笑顔で挨拶の言葉を投げつけてやる。
 彼はそんな私に言葉には何のリアクションもとらず、ただ、私の顔を軽く一瞥しただけで、いつものように私に背を向け、そのままそれっきり、黙り込んでしまった。
 まったくもって無防備な背中。
 

 ……分かってるわ。

 未だ今はそのときじゃないのね。
 

 今、この背中をどうこうしたところで、何も変わりはしない。
 すべては、長門さんが望んだ世界が、久遠に続くため。
 そのためのスイッチとなる瞬間が、この世界のどこかに在る。
 

 ……私はその瞬間を、探さなければならない。
 

 それを見つけ出すときまで、私の鞄の中の鍵は、取っておかなければならない。

 

 

 

 その日、私は一間目の体育の授業の途中で、こっそりと教室に舞い戻り、鞄の中から必要なものだけを抜き出し、それを靴箱に隠した。そして二間目の授業を受け、次の休み時間。私は隠しておいた荷物を持ち、学校を抜け出した。
 学級委員長の朝倉涼子の行動としては、あまり望ましいものではなかったけれど……

 

 おそらく、あの男は今後も、放課後のたびに長門さんの元に行くだろう。彼にとっても、彼女は唯一の希望なのだろうから。
 私がそこに同席することで、彼が何かを見出すことを妨害することぐらいはできるかもしれない。けれど、それでは、私の目的を果たすことにはならない。彼が居る限り、私は自分の目的の為に動くことができない。
 

 長門さんの望んだこの世界を守り、彼女との日々を取り戻す。
 それが私の使命なのだから。
 

 そうでしょう、長門さん?
 だから、ごめんなさい。
 少しだけ、あなたの部屋を見せてもらうわね。
 

 

     ◆

 

 
 彼女の部屋の鍵は、私の手帳の裏表紙の内側のポケットに貼り付けてあった。
 私―――長門有希の友人である朝倉涼子は、一体どんな方法で、この鍵を手に入れたのだろうか。
 それはもしかしたら、彼女が私に、友人の証か何かとして託してくれたものなのかもしれない。
 あるいは、それは朝倉涼子が……たとえば、あのナイフのように、『一樹くん』あたりに頼んで手に入れたものなのかもしれない。
 私は自分の携帯電話に、彼と連絡を取った形跡がないかどうかを調べてみた。けれど、私の携帯電話の受信ボックスは、ここ一ヶ月ほどの間に、友人たちと交換した他愛のないメールで埋め尽くされているだけだった。
 人気者は、かくも大変なものなのだ。

 

 

     ◆

 

 

 長門さんの部屋に、この世の中に存在するべき一切の物音は、ひとつとして存在していなかった。数少ない家具や、カーテンのない窓。そして、コンロの上に置き去りにされた、私が腕によりをかけてつくったおでんの残り。それらはまるで主人を失ったペットかなにかみたいに、まるで生気を失い、黙りこくっていた。
 

 私は右手にぶら下げた小さなポーチの中から、彼女に託されたあのナイフを取り出し、銀色の刃から革製のカバーをはずし、それをポーチごとちゃぶ台の上に放り出した。
 そして、ナイフを右手にぶら下げたまま、閉ざされた引き戸の前に立ち、私は改めて室内を見回した。
 

 長門さんはあれほどまでに変わってしまったというのに、この部屋は、以前と何一つ変わっていない。

 そこは私と長門さんが、かつて、永遠とも思える日々をすごしていた場所だった。
 

 そして。
 私が唯一つ、見たことのない空間。
 

 常に閉ざされていて、私が立ち入ることの出来なかった、その引き戸の向こう。

 

 

 

 長門さん、待っててね。
 私は呟き、左手で襖の取っ手に触れ、一息に開け放った。

 

 

 


 ――― あの扉の向こうには、きっと、長門さんにとっての正しさがあるのね

 

 

 
     ◆

 

 

 
 始まりも、終わりも。私にとってのすべては、この教室だった。
 これは終わりであり、始まりである。
 

 空気は例によって冷え切っており、窓の外には、冬の夜の闇が広がっている。
 

 

 長門さん。
 今、行くわ。
 

 

 私は規則正しく並べられた椅子や机を薙ぎ払いながら、閉ざされた後方のドアへと走った。そして、私が学校から持ち出した、もう一つの鍵。職員室から盗み出してきた、その小さな金属の塊を、乱暴に鍵穴へと刺し入れる。
 半ば引きちぎるように錠をはずし、私は廊下へと飛び出した。
 暗闇の中を駆け抜け、踏み外さないように気をつけながら、階段を数段飛ばしで駆け下りる。

 

 

 

 ―――ああ。
 長門さん。
 どうして、私の記憶をそのままにしていたのか。

 
 あなたは私を選んでくれたのね。
 

 この世界を……あなた望んだ世界が、正しいものかどうか、私に選ばせてくれた。
 

 そして、彼は、あなたを狂わせたエラーそのもの。
 

 そうなんでしょう?
 長門さん。
 

 

 

 

 

 冷たい外気の中に飛び込み、最初に見たのは、長門さんのおびえた表情。そして、あの男の背中と、あの男の手の中に握り締められている、銀色に輝く何か。
 ああ、やっぱりあなたは―――私と長門さんの世界を壊そうというのね?
 

 「キョン君! 危な……!」
 

 誰かが叫び声を上げる。長門さんが、眼鏡の向こうの視線を、私に向けた。

 

 

 ――長門さん。
 ――今、行くわ。

 

 

 私は体の中から湧き上がる異様な多幸感をかみ締めながら
 その男の向こう側の長門さんの元へ向かって、目を閉じて駆け出した。

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 


 

 

  

 


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