早朝、朝日の射す北高の校庭で、僕は胸の中で泣くキョンをそっと抱きしめていた。
聞こえてくるものはキョンのすすり泣く声と僕の胸の鼓動以外に無く、周囲には僕たち以外誰一人いない。その状況はまるでこの世界に僕とキョンの二人だけしかいないような気にさえさせた。
四年前にキョンと出会い、そしてキョンに恋心を抱いていることを自覚して以来、ずっと夢にまで見ていたシチュエーション。それがいま僕の手もとにあった。
できれば、このままこの世界のすべての理に背いてでもキョンと二人きりでいたかった。このままキョンに僕の想いを、愛を告白することができればどれほど幸せだっただろう。
だが、僕は気づいてしまったのだ。これが僕とキョンの幸せな人生の幕開けではなく、悲しい失恋のエピローグだということに。
なぜなら、キョンが高校三年間ずっと涼宮さんのことを見ていたように、僕もキョンのことを好きだと気づいたあの日から、ずっとキョンのことを見続けてきたのだから。
だから、キョンがいま何を思っているかはよくわかる。この後、どういう決断を下し、どう行動するかも。でも、それは仕方のない事。それが僕が好きになったキョンなのだから。
キョンと過ごした一年間の思い出、キョンを遠くからずっと見ていた高校生活の思い出が僕の胸に去来し、胸の奥が熱くなっていくのが分かる。
それでも、なぜか僕の心は穏やかだった。たとえこの後に悲しい別れが訪れることが分かっていようとも、いまこの瞬間だけはキョンは僕だけのものだと思えたから。
胸の中で震えるキョンの身体をギュッと強く抱きしめる。三年間、キョンのそばに寄り添えなかった寂しさを癒すように。
二人しかいない校庭に、時刻を告げるチャイムが鳴り響く。
舞踏会に出席したシンデレラも12時の時刻を告げる鐘の音を聞いたときはこんな心境だったのだろうか。鐘の音が鳴り終わるのを聞いて、僕はキョンとの別れの時刻が来たということを知った。
 
 
~エピローグ~
 
 
「どうしても行くのかい?」
光陽園駅のプラットホームで、佐々木は少し寂しそうな表情でそう言った。
「ああ」
うつむきながら佐々木と目をあわさずに答える。
やはり俺は地元の大学を受験はしていなかったらしい。県外の私立大学に合格していたのだが、佐々木が九曜に頼んで情報操作をし、俺を佐々木と同じ地元の大学に合格させたのだそうだ。
「僕はいまでもキミにはここに、僕たちの生まれ育った町に残ってもらいたいと思っている。そして、できれば僕と……」
目をあわさず足元を見ながら小さな声でそう提案する佐々木の姿が寂しさをいっそう募らせる。正直、佐々木のことはいまでも嫌いではなかった。できれば佐々木といっしょにここに残ると言いたかった。だが、それではハルヒが……
『佐々木さんと幸せにね』
あの瞬間、ハルヒはそう言い残してこの世界から去っていった。だが、ハルヒと佐々木のどちらかを選択する決断を迫られた今回の事件で、俺は確かにハルヒを選んだ。
たとえ、そのことをはっきりと自覚していなかったとしても、ハルヒの消えてしまったこの世界で佐々木と幸せになるのは許されないような気がするのだ。
もちろん、この決断が俺の独りよがりでしかないということは十分認識している。お前は自分勝手な奴だと言われれば、俺に反論の余地など無いだろう。
それでも、俺の心の中のこのモヤモヤとした何かがある限り、例えこのままこの町に残り佐々木といっしょになったとしても、佐々木を不幸にしてしまうだけではないかと思ってしまうのだ。
「涼宮さんを選んでしまった以上、僕とつきあうのは卑怯だと考えてるんだね。僕はそんなこと全然気にしないのに……
どんな理由があったとしても、キミが僕といっしょになってくれれば、それだけで僕は満足なのに……」
「正直……自分の決断が自己満足ではないかという気持ちがない訳ではない。だが……」
乗車する予定の列車がプラットホームへと入ってきた。駅構内にアナウンスの声が響く。
『だが……』この後の言葉を紡ぐことができず、俺は佐々木との間にある沈黙に耐え切れなくなり、逃げるように列車へと乗り込んだ。
「でも、もしキミがここで涼宮さんのことを忘れて僕とつきあうような奴なら、僕はキミの事を好きにならなかったかもしれない。女心に鈍感で、妙に意地っ張りで、お人よしで……
そんなキミを好きになったんだから仕方ないか。キミがあの時涼宮さんを選んだことも含めて、キミのすべてを僕は好きになったのだから……」
列車に乗り込んだ俺の後ろで、佐々木は遠い昔の思い出を語るように胸の内にある想いを言葉にして紡ぐ。まるで自分自身に言い聞かせるように。振り向くと、佐々木の目は涙で潤み、その瞳はじっと俺を見つめていた。
「佐々木……」
佐々木の姿を見て後悔の念にも似た気持ちが胸にこみ上げてくる。俺の決断は果たして正しいのだろうかと。
『やっぱり、この町に残るよ』
ここでこう言えればどんなに楽だっただろう。だがその思いは俺の中で留まり言葉になることは無かった。そしてこの期に及んで心が揺れている自分が情けなく感じる。
「そんな顔をしないでくれ、キョン。キミは僕にたくさんのものをプレゼントしてくれた。
キミと出会うまで恋愛なんて精神病の一種だと思っていたけど、キミへの気持ちに気づいたあの日から、僕は人を好きになるということがどういうことかを知ることができたんだ。
もちろん、キミが僕にくれたものは楽しかった思い出ばかりじゃない。むしろ好きな人が振り向いてくれない切なさや、独りでいることの寂しさといった悲しい思い出のほうが多かった気がする。
キミへの気持ちに気づいて以来、たくさんの眠れぬ夜を過ごしてきたし、手を伸ばせば届く範囲にいたキミに自分の想いを告白できない自分がもどかしかった。自分がいかに臆病な人間であるかを痛感させられたよ。
でも、それも含めてキミと出会えたことは、僕の人生で最も有意義な出来事のひとつだと思っている。キミにはとても感謝しているよ。だから……」
そう言うと、佐々木は不意に俺に近づき、背伸びをして俺の唇に軽く唇を重ねた。予想外の佐々木の行動にびっくりしてその場に立ち尽くすことしかできなかった。
「これは僕からキミへの最後のプレゼントだ。歌の歌詞じゃないけど、それでさよならしてあげるよ」
佐々木は、さっきまでとは違って、ちょっとだけいたずらっぽい表情で俺に微笑んだ。列車の発車を知らせるベルが駅構内に響き渡る。
「さようなら、キョン。――――さんと幸せにね」
「え?」
途中何を言ったのかわからず聞き返そうとした瞬間、ドアが閉まり列車が動き出した。佐々木は、列車のドア越しに、手を振って俺の旅立ちを見送ってくれた。
これが一ヶ月ほど前の話である。
 
 
 
 
いま、俺は生まれ育った実家から遠く離れて、一人で下宿生活をしながら大学に通っている。あまり有名な大学というわけではなく、自分の偏差値と相談した結果、この大学に入学することになってしまったわけだ。
正直、大学の講義はあまり面白いものではない。入学から一月も経っていないのに、出席率もあまり芳しいものではなく、教室を見回しても講義を聞いている者はほとんどいない。
まあ、文系の大学などだいたいどこもこんなものなのかもしれない。
本来であれば、親元から離れておおいに自由を満喫できる身分になったのだから、アルバイトをしたりサークルに入ったりして同じ大学の仲間との親睦を深めるべきなのだろうが、とてもそんな気にはなれなかった。
目をつむれば高校時代のSOS団で過ごした日々がまぶたの裏に浮かんでくる。
部屋の隅で黙々と読書をする長門や、メイド服を着て湯飲みにお茶を注ぐ朝比奈さんの後姿、あの当時は鬱陶しいとしか思わなかった古泉の笑顔、そして嵐を呼ぶかのごとく豪快にドアを開けて部屋に入ってくるハルヒ。
高校生活の思い出があまりにも強烈過ぎて、大学生活が物足りなく空しいものに思えてしまう。
仕方が無い、あんな稀有な経験はもう二度とないんだから諦めろ。そう自分に言い聞かせてみても、むなしさと後悔に似た感情だけが俺の心を支配する。
あの時、ハルヒとともに新しい世界に赴く選択をしたほうが良かったのではないか。
意地を張らずに、佐々木と地元に残る選択をすれば、もっと違った大学生活が送れたのではないか。
そんな後ろ向きな感情ばかりが俺の心を揺さぶり、何もする気にならないのだ。こんな俺の姿を見たら、ハルヒや佐々木はどう思うだろうか。
「ちょっと。ねえ、ちょっと!」
背中を尖った何かで突かれるような感触を感じて、我に返る。
「前の席で陰気くさい顔して溜息ばかりつかないでくれる! ただでさえ退屈な講義なのに、こっちまで気が滅入っちゃうわ!」
「え、ああ、すまん」
ちらっと後ろの席に座る少女の姿を確認した後、俺は暗澹たる気持ちで前を向いた。
そのまま、ほんの刹那の時間が過ぎ去った後、ハッとあることに気づく。
後ろの少女に見覚えがある。いや、そんなはずはない。理性がそれを否定するが、確かにいま後ろに座っている少女の顔を俺は知っている。
何かの偶然か。それとも、奇跡が起こって再びめぐり合うことができたのか。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、仮にこれが夢であるならば、その夢が覚めてしまわないよう慎重に後ろの席を振り返る。そこには確かに俺の見知った少女の姿があった。
「ハ、ハル…ヒ?」
「何、あんた? 何であたしの名前を知ってるの? あたし初対面の人に名前を呼び捨てにされる覚えはないんだけど」
俺を一瞥した後、不機嫌そうな表情をつくる姿を見て、確信した。目の前にいるのが正真正銘本物の涼宮ハルヒだと。
目の前にハルヒがいる。
突然突きつけられたこの事実に、俺は何といって声をかけて良いかわからず、ただ茫然とハルヒを見つめる以外、何もできなかった。
「何じろじろ見てるのよ! いま講義の最中でしょ! ちゃんと前向いてなさいよ!」
「あ、ああ」
誰に対しても物怖じしないハルヒの言動、声、姿、そのすべてが懐かしい。
つい最近まで、ほんの数ヶ月前までいっしょにいたはずのハルヒとの高校生活の日々が、もう何年も昔の遠い過去の記憶のようにさえ思えた。
前を向き、机を眺めながらSOS団での日々を振り返る。懐かしさのあまり涙が溢れ、その雫が机に落ちた。
「よかった、本当によかった」
心の底からそう思えた。ハルヒは俺のことを覚えていないようだったが、それでもハルヒが目の前にいることが、この世界に存在していることが何よりも嬉しかった。
やがて、周囲で筆記用具を片付けたり、立ち上がる音が聞こえてきて、講義が終了したことを知る。俺はあわてて後ろを振り向いたが、そこにはハルヒの姿はなく、代わりに長門の姿があった。
「ハル、え? 長門?」
長門はいつもの感情の起伏の見えない無表情で俺を見つめていた。
「ハルヒは? ハルヒがここにいなかったか?」
「彼女なら講義が終わるのと同時に後ろのドアから出て行った」
無表情ではあったものの、俺を見つめる長門の瞳は、何かを訴えかけているようなそんな感じがした。ほんの少しだけ沈黙があった後、意を決して長門に問いかける。
「ハルヒは、あのハルヒは本物のハルヒなんだよな。いままでどこにいたんだ? 何で急に?」
立て続けに質問した俺をじっと見つめ、少し間をおいた後、長門は淡々と語りだした。
「涼宮ハルヒの創り出した閉鎖空間が消滅した時、涼宮ハルヒの持っていた能力はあなたの親友に移り、彼女の意識はあらゆる次元へとバラバラに拡散してしまった。
だが、あなたの親友は、涼宮ハルヒより継承した能力を使って、バラバラに散ってしまった涼宮ハルヒの意識を拾い集め、この世界にもう一度ひとつの存在としての命を与えた。
それが、あなたががさっき見た涼宮ハルヒ。彼女は間違いなく本物の涼宮ハルヒと言っていい。しかし、わたし達と過ごした三年間の記憶は、いまの涼宮ハルヒには無い。
あなたの親友が命を与えた時、涼宮ハルヒ自身が混乱しないために、別の記憶を彼女に与えたから」
もう一度間をおき、俺の目をじっと見つめた後、さらに言葉を続けた。
「あなたはもう一度選ぶことができる。涼宮ハルヒと共に人生を歩むか否かを」
佐々木の別れ際の最後の言葉、その風景が頭に浮かぶ。そうか、佐々木は俺がこう決断することを知っていたんだな。
ハルヒと共に人生を歩むか否か、俺の中の答えはすでに決まっていた。そして、多分、長門に言わなければならないことも。
「長門……」
「いい」
「え?」
「わたしはあなた達の邪魔をするつもりは無い。あなたが誰を選ぶかはずっと前から知っていたから」
「…………」
「あなたの親友は涼宮ハルヒに命を与えた後、その能力を心の奥底へと封印してしまった。情報統合思念体はそのことに絶望し、この星を観測の対象から外してしまった。
だが、わたしはあなたと涼宮ハルヒの行く末にこそ自立進化の可能性があると判断し、情報統合思念体に申請してこの星に残ることにした。あなたと……涼宮ハルヒの行く末を見守るために。
だから、あなたは何も心配しなくていい。わたし達に気兼ねすることなく、あなたの好きなように生きてくれていい。それがあなた達を観測するわたしの望みでもあるから」
ドン
「何ふたりでこそこそ話してるのよ」
突然、横から机を叩く音がして振り向くと、そこにはハルヒの姿があった。
「まあいいわ。それよりあんた! 感謝しなさい。あたしがこれから創るサークルに入れてあげるわ」
何の前触れも無く、ハルヒは俺を指差してそう告げる。そんなハルヒの姿が記憶の中にある高校時代のハルヒを彷彿とさせた。思わず俺は聞き返す。高校時代にそうであったように。
「サークル?」
「そうよ! あたしこの大学に入学して一月ほど色々なサークルを見て回ったけど、ピンと来るものが無かったのよね。だから自分で作っちゃおうって思ったわけよ。で、あんた達は名誉あるあたしのサークルのメンバーの一員に選ばれたって訳」
「あんた達とは?」
「あんたと有希に決まってるでしょ! ええっと、あんたじゃ呼びにくいわね。今日からあんたのことキョンって呼ぶことにするわ」
「ちょっと待て、俺達の意思はどうなるんだ」
「何言ってるのよ、あたしのサークルに入れるのだから泣いて喜ぶべきじゃない」
人の意見を聞かないこの強引さ、確かに涼宮ハルヒだ。ハルヒとやりとりをしていて懐かしさと嬉しさが同時にこみ上げてくる。
「わかった、サークルには入ろう。ただし条件がある」
「何よ条件って。聞くだけなら聞いてあげるわ」
サークルに入ることには不満は無かった。でも、ひとつだけ長門や佐々木、そして俺自身のためにもけじめをつけておきたかった。
「俺はお前のことをハルヒと呼ぶ。だからお前にも俺のことを名前で呼んでもらいたいんだ」
「ふ~ん、それがあんたの条件? 名前を呼び合うなんて恋人みたいね。なあに、あんたまさか、あたしに一目惚れしてしまったわけ」
ニヤッと笑いながら俺の心を見透かすようなハルヒの表情にちょっとだけドキッとした。
「まあいいわ。じゃあ、あんたの名前を教えなさい」
「俺の名前は―――――」
俺とハルヒの物語はもう一度ここから始まる。
 
~終わり~
 

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最終更新:2008年08月21日 03:46