夏もそろそろ終わりが近づくが、まだまだ暑さは弱まる兆しがない。
俺は蜃気楼でぼやけた数歩先のひとごみに、何を見ることもなく視線を固める。

 

東京の都心には今日も人が溢れてる。
上京したばかりの頃に初めてこれだけの人ごみを見たときは
泣きたくなるほどに嫌気がさしたが、もう慣れた。
サラリーマンがこの時代に人ごみが嫌だなんて言ってられない。
大学を卒業してから今日までずっと一生懸命に働いてきた。
もう入社して七年になる。もうすぐ20代も終わりだ。
俺は4日後の誕生日に仕事をやめると決めている。
本当にへたれだ。自分でも十分に自覚している。笑うなら笑ってくれ。
へたれといえば俺は恋愛でもへたれだった。
ここ13年間に勇気を出して告白をしてくれる人もいた、でもいつも断ってきた。
俺もなぜか分からないが承諾してはいけない気がしてならなかったのだ。
それは今、思えば自身がなかったんじゃないかと思う。

 

今日も上司に怒られた。四日後にやめる仕事に身がはいるわけもないだろう?
ボロボロの背広を汗でぬらして帰宅した俺は、すぐに眠りについた。

 

大きな物音に目が覚めた。
どうやら物音は隣の部屋から聞こえたようだ。誰か引っ越してきたのだろうか?
耳をすますとなんだかガサゴソと動く音まで聞こえてくる。
こんなに隣の部屋の音って聞こえるものなのか?
お隣さんがいたことがないからわからないけど、もしかして・・・。
「あぁ、疲れた」
「え?」
やっぱりだ。このアパート隣どうしで声まで筒抜けだ。
しかもこの声、女の子じゃねぇか。
俺は構わんが女の子にとっちゃ大問題だ。
「あの、聞こえますか?」
「き、聞こえます・・・」
少なからず驚いたような声色で返事が返ってきた。
そりゃ驚くだろうな。いくらボロアパートだってこれはないだろう・・・。
「とりあえず、大家さんのところにいきましょう。これはあまりにもひどすぎる。」
「でももうこんな時間だけど・・・」
時計を見るとすでに12時を過ぎていた。結構寝たな・・・
それにしてもやけに落ち着いてるなぁ。
「そうですね・・・。でも僕、明日は仕事で早いんですよね」
話し合いの結果、仕事が終わった後に一緒に大家さんの所に行くことになった。
まったく息苦しいったらありゃしない。
なるべく彼女側の壁から離れたところに寝転んだ俺は再び眠りについた。

 

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あたしはここ数分の出来事を信じられずにいた。
壁が薄いせいで隣人の声がまる聞こえなのにも驚いたけど、それ以上にその声に驚いた。
あの声は絶対にキョンだわ。あたしがあいつの声をわからないはずがない。
確信を持ったあたしは、すぐに隣の部屋を尋ねようと靴を履く。
ふと玄関の鏡を見て、あたしはドアノブから手を離した。
すっかり伸びてしまったボサボサ髪、上下でブランドが違うジャージ、
しかもよく考えたら、昨日からお風呂に入ってない。
・・・これじゃキョンには会えない。
今日はやめにしておこう・・・。まだまだ時間はある。
興奮が醒めないままベッドに入る。
そういえばなんでキョンはあたしだってわからなかったんだろう・・・。
ま、いっか。忘れたんならとことん思い出させてあげるわ!
あたしは嬉しかった。またあいつに会える・・・。
眠れないまま夜だけが更けていった。

 

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電車が人身事故で遅れて、会社に15分ほど遅れてしまった。
小走りで部長のもとにかけよった俺はすぐに頭を下げる。
「すいません、遅れました・・・」
部長が回転いすをまわしてこっちに体を向ける。
「なんで遅れたのかね?」
「人身事故で・・・」
「言い訳か」
いつにもまして腹の立つ小太りだ。
「君の家がもっと近かったら間にあったんじゃないか。もっと近くに越してこれないのかね?」

 

俺が会社から少し遠いこのアパートに住んでいる理由。
家賃が安いからだ。電車賃を考えても経済的にここに住むのが一番いい。
それだけこのアパートは安いのだ。不動産屋でこの物件を見つけたときには喜んだね。
だけど、それにしたってアレはないだろう。詐欺だ、詐欺。
それに給湯室がこんなに離れているのは一体何故だ?
・・・不機嫌なときは色んなことに腹が立つものだな。

 

給湯室には先客がいるようだった。
この会社は規模はそこそこあるのにポットが2つしかなく、今は一個壊れている。
どうせ入っても待つことになるから、外で待つことにした。
ドアの向こうから2人の若い女性社員の声が聞こえてくる。
聞き耳を立てているようで嫌なので離れたところで待とうとしたとき、会話に俺の名前が出てきた。
「キョンって呼ばれてる先輩知ってる?」
「あぁー、ちょっとくたびれた人ね」
「でねー・・・あの綺麗なショートカットの先輩なんていうんだっけ?」
「え、だれ?」
「ほらあんたの部の・・・」
ちょっと考えるような間の後に、
「あ、佐々木先輩?」
「そうそう、佐々木先輩がそのキョンって人のことすきなんだってよ!」

俺は昨日の筒抜け事件よりも更に驚いた。

・・・佐々木が俺のことを?
5年前に佐々木が本社からこの支社に転勤してきてから、
佐々木とはずっと同じ会社で働いてきた。でもそんな素振りはまったくなかった。
ちょっと前まで彼氏もいたしな。ボーイフレンドが出来た、というメールも佐々木本人から来た。
それが一体なんで急に俺なんだ?・・・まぁ嬉しいが。
佐々木は俺より立場的にかなり上にいるが、少しも上から目線で話すことはなく
上にいるという意識もないようだった。佐々木は俺の相談に嫌な顔ひとつせずに乗ってくれて、
ときに厳しく俺を叱った。佐々木に対しては少なからず好意をもっていたし
彼氏が出来たときにはそれなりにジェラシーも感じた。
Olの噂話なんてあてにならんが、佐々木に告白されたらもちろん返事はOKだ。
おっと、もうこんな時間じゃないか。気づけば給湯室に人の姿はない。
小さく鼻歌を歌いながらコーヒーを入れた俺は急いで仕事場に戻った。
給湯室との距離が全然気にならなかった。

 

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あたしは人生楽しいでしょ、とよく聞かれる。だけどそれは大間違いだった。
確かにあたしはいい会社に勤めてるし、それなりにいい立場にいる。
給料もいいからお金も持ってる。でも全然幸せじゃない。
幸せそうに見える人が全部幸せなんてわけじゃないの。
少し前まで彼氏もいた。けど、やっぱりキョンが好きだった。
最近のあたしはホントに仕事人間だった。朝早くから夜遅くまで仕事、仕事。
古くて小さいけど会社に近いアパートにも引っ越ししたしね。
でも、越してきて本当によかった・・。まさかキョンに会えるなんて。
あたしは新しく買った服の袋をブンブンと振り回しながら歩いた。

 

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今日の仕事は順調に進んだ。早めに帰れそうだ。
帰る前にもう一回コーヒーを飲もうと給湯室に向かった。
スティックシュガーを入れてると、誰か来た給湯室の扉を開いた。
「あ、ちょっと待ってください。すぐ入れますから」
振り返らないでそう言うと、
「急がなくていいよ、キョン。」
振り返るとやっぱり佐々木だった。
「さ、佐々木・・・」
佐々木は明らかに動揺している俺をきょとんとした顔で見つめた後に、
すべてを悟ったような諦め顔になった。
「キョン。君に話したいことがある。一緒に喫茶店に行こう」

 

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髪も切ったし、服も買った。
お酒は滅多に飲まないけど、今日は一緒に飲もうとサワーも買った。
・・・うん、これで気兼ねなくキョンに会えるわ。
あたしは雑貨屋で買った可愛い時計を見た。
キョンは遅くなるとか言ってたし、ちょっと寄り道して帰ろう。
確かこの近くにお洒落な喫茶店があったはず。

あたしは一番端の席に座り、窓から外を見る。
空はいつのまにかすぐにでも雨が降りそうな黒雲で覆われてた。
キョンにあったら最初に何を話そう・・・。
ひさしぶりね!あいかわらず冴えない顔してるじゃない、かな?
仕事のこと?趣味のこと?・・・違う。
あたしが始めに言う言葉は決まっている。
謝らなきゃ、最後に会った日のことを・・・。

あたしがキョンに連絡を取れなかった理由。
キョンが黙って携帯の番号を変えてしまったからだ。
理由は間違いなくあの時のこと。
今まで何回も後悔した。思い出すたびに悲しくなる。
SOS団はあたしとキョン以外のメンバーの都合で解散することになった。
あの時とは解散パーティーの後にキョンと2人きりになったときのこと。
あの日はどしゃぶりの雨が降っていた。

 

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「あぁ、もう。服がびしょびしょじゃない!傘ぐらい持ってきなさいよ」
あたしは照れ隠しに怒鳴ってみた。キョンがやかましそうに目をつぶって言う。
「お前も持ってきてないだろが。それに傘なんかもってたってこの雨じゃ無駄・・・」
雷が落ち、轟音でキョンの言葉が途切れた。
「きゃっ」
あたしは思わず悲鳴をあげてしまった。
「なんだ、お前怖いのか」
「こ、怖くなんかないわよ。うるさいわね」
しばらく続くきまずい無言。雷も鳴らなかった。
あたしは何か喋ろうと言葉を探したが、見つからない。
「なぁ、お前は結局楽しかったのか?」
キョンが急に沈黙を打ち破ってくれた。
「ぜ、全然!不思議なことほとんど見つからなかったし」
あたしはつい心にもないことを言ってしまった。
そんなはずあるわけない。みんなといれてあたし本当に・・・。
キョンは少し寂しそうな顔をした後に、
「そうか。俺は楽しかった」
と、3年間を思い出すように遠くを見つめて言った。
「本当に色んなことしたなぁ。お前のとんでもない自己紹介から始まり・・・」
キョンに伝えなきゃ・・・あたしも楽しかったって。
「・・・夏は特にいろんなところに行ったなぁ。あ!合宿にも行ったな、それから・・・」
「キョン!あたし・・・」
「ハルヒ、ありがとう」
え・・・?
キョンは泣いていた。嬉しそうにそして少し寂しそうに。
「俺はお前がいなきゃ・・・本当につまらない高校生活を送っていたよ」
キョンは弱弱しく笑って、
「本当に・・・ありがとなぁ・・」
と言ったあとに、何かを振り切るように走りだした。
「キョン、待って!あたし本当は・・・」
あたしもどんどん遠くなっていく背中を必死で追いかける。
が、すぐに大きく転んでしまった。
「痛ッ・・・」
ひじに力をいれて顔を上げるが、すでにキョンの姿はなかった。
あたしは顔をぐちゃぐちゃにして泣いた。
キョンはこんなあたしをどう思っただろうか・・・。
雷が再び鳴り出す。冬の雨は激しく冷たかった。

 

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謝りたい。そして、本当は楽しかったんだよ、と伝えたい。
あたしはコーヒーを一気に飲み干すと、早く帰ろうと立ち上がった。
立ち上がって初めて気づいた。曇りガラスの向こう、隣の席にキョンがいたのだ。
あたしは13年ぶりにキョンを見た。
あたしは泣きそうだった。キョンは高校時代とまったく変わってなかった。
「キョ・・・」
「君が好きだ」
え・・・?気づかなかったキョンの向かいの席には女性が座っていた。
あれは確か佐々木さん、それより今、なんて・・・。
「君はわかってるだろうけどね」
佐々木さんがそう言うとキョンは、
「あぁ、知ってる」
と、照れくさそうに言った。

そうだ。あたしはキョンに彼女がいた場合のことを考えてなかった。
なんてバカなの。キョンには佐々木さんという彼女がいるんだ。
あたしは2人に気づかれないように会計を済まし、走り出した。
遅かった。やっぱり遅かった。
あの日と同じどしゃぶりのなかあたしはまた泣いた。

 

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「やっぱり知ってたんだね。キョン」
「噂を聞いてな」
佐々木は少しすねた様子で言った。
「残念だ。僕は自分の気持ちは自分で伝えたいタイプなんでね。驚く君の顔も見たかったな」
「十分驚いてるから安心しろ」
しかし、なんだ。さっき佐々木から喫茶店へ行こうと誘われたときにも感じたこの感覚は。
大事な事を忘れたまま、進んだら戻れないところに行く前のような気持ちだ。
俺は恋愛のことになるといつもこんな気持ちになる。
「僕はずっと君が好きだった。中学時代からずっとだ。
 君と塾から帰ることが本当に好きだったよ。できることなら高校も同じところに行きたかった」
佐々木は昔を懐かしむような表情で言った。
そういえばそんなこともあったな・・・。
俺が中学時代を思い出しているとすごい音がした。
小さい女の子がジュースをすする音だ。あれ・・・?


俺は高校時代の終わりに諦めた恋を思い出した。

そうだ。俺は伝えてなかった。
勝手に見切りをつけてしまっていた。
何度も感じたあの感覚はハルヒのことだったのだ。

 

「キョン、どうかしたのかい?」
佐々木が心配そうに俺の顔を覗いてる。
「佐々木、すまない。俺は佐々木の気持ちには応えられない」
佐々木は寂しそうな顔をした後、無理につくったように笑った。
「涼宮さんだね」
「・・・」
「わかるよ。僕は君のことなら大抵ね。
 でももしかしたらって思って、告白したんだ。結構勇気だしたんだ」
「・・すまない」
「いいさ、後悔はしてない。早く行ってくれ」
「佐々木・・・」
佐々木は笑顔をつくりながらも目が濡れていた。
「君も罪作りなやつだね。僕だって女の子だよ、一人になりたいときだってあるんだ」
俺は後ろ髪を引かれる思いで、ふりむかずに店を出た。

 

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あたしは考えに考えて答えを出した。
キョンがもしあのときはまだあたしを好きだったとして、走り出したときにすべて終わらせたつもりだったはず。
あたしのせいで諦めさせておいて、今更のこのこ出て行くのはキョンを混乱させてしまう。
あたしはキョンに姿を見せることなく引っ越すことにした。
引越しの準備は最低限の物しかもってこなかったからすぐ終わった。
キョンが帰ってくる前に行こう。
荷物を乗せたネコ車を引っ張る・・・重い。

 

 

あたしは大事なことを忘れていた。
・・・そうだ。キョンに謝らなきゃ。
好きな気持ちは永遠に心に留まらせておこう。ただ楽しかったということは伝えたい。
そうじゃなきゃあのかけがえのない幸せな時を否定することになる。
あたしの心は晴れ晴れしていた。キョンと一緒になれなくたってあの頃はあったんだ。

 

 

顔を上げると夕焼けでオレンジ色に染まったキョンが立っていた。
走ってきたのか、息が切れている。
「ハルヒ・・・」
キョンは目を見開いたあとに駆け寄ってきてあたしの両肩をつかんだ。
「ハルヒ!お前なんでこんなところに・・・何で泣いてるんだよ」
「キョン、聞いて」
震える声で13年間ずっといいたかった言葉をゆっくりと言った。
「あたしもあの三年間楽しかった」

 

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聞きたかった言葉をやっと聞けた俺は赤子のように泣いた。
ハルヒが母親のように俺の背中を優しく叩く。
震える声で13年間ずっと言えなかった言葉をゆっくりと言った。
「ハルヒ、好きだ」

 

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俺は今、生まれて初めて恋人と誕生日を過ごしている。
ちょっと奮発して高いレストランでディナー。正装でな 
ハルヒは白いドレスに黄色いカチューシャをつけている。
カチューシャは一生つけると聞かなかった。
おばあちゃんになってもカチューシャか・・・まあ俺は好きだけど。
「ねぇ、キョンたら!」
「なんだよ」
ハルヒがワインを掲げてる。
「何、ボーっとしてんのよ。乾杯するわよ」
「あ、ああ」
ハルヒが咳払いをしてから言った。
「2人の婚約を祝って!乾杯!」
「結婚?!誰がそんなこと言ったんだよ!」
ハルヒは不満そうな顔をして言った。
「何よ。結婚したくないわけ?」
「いや、ただ早すぎるだろ」
・・・まぁ、いいか。用意しといてよかったぜ。もっとゆっくり渡そうと思ってたんだけどな。
俺は用意していたサプライズ、無理して買った結婚指輪を渋々出した。
・・・また仕事がんばらなきゃな。ハルヒを幸せにするために

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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