義務教育である故に、苦も無く中学三年生に進級を果たした四月のある日のホームルーム直前。僕は隣の席の男子生徒に声をかけた。
「くっくっ、キョンというニックネームだったね。よろしくキョン君。くっくっ」
「やれやれ、お前もそうやって呼ぶのか。そんなに俺の本名って覚えにくいのか?」
 彼はもはや呼ばれ続けられる事に悟りの境地に達しているらしく、表情は口調のわりに穏やかだった。
「くっくっ、他人の呼称でここまで愉快になったのは初めてだよ。実に面白い。もっとも、ファニーというよりはアミュージングと言ったところだね」
 僕のこの話し相手と同姓になろうとするための特殊な言葉遣い。普通の、特に男子生徒が相手の時はかなりの高確率で拒否反応を覚える可能性があるが、彼は最初こそ面を喰らっただけで特に避けるような反応はしなかった。僕は自分でも変わり者だと理解しているが、彼もそれなりに変わり者だ。
「キョンなんて、実にユニークなあだ名だね。どうしてそんなことになったんだい?」
「ぐっ、……黙秘権を求める」
 どうやらあまり言いたくない間抜けなエピソードらしい。実に興味深い。
「構わないが、そうなると証人を法廷に召喚する必要があるね。国木田あたりなら適切かな」
 僕は比較的キョンと厚い友好関係を育んでいる国木田を指差した。
「……言えばいいんだろ。言えば」
「急に素直になったね」
「あいつはいい奴だが、どうも俺の話に尾ひれどころかお頭をつけて話を広めて面白がるところがあるんだよ。他人にあることないこと吹き込まれるくらいなら自分で証言するさ」
 くっくっ、国木田ではなく黒木田だね。
 教室の隅で国木田のくしゃみが聞こえたことによって周りの女子生徒が嬌声をあげた頃、キョンが証言を始めた。
「一回しか言わないから覚えとけよ。いや、やっぱ忘れてくれ。……とにかく聞け。一番最初に「キョン」って呼び始めたのは親戚の叔母さんだったかな。何年か前に久しぶりに会った時、「まあキョンくん大きくなって」とか何とか勝手に俺の名前をもじって呼んだんだよ」
 親戚との仲が良好なのに越したことはない。そうしておけば遺産相続などの時に大してもめずに済むよ。遺産相続による骨肉争いほど、人間の醜さは露呈しないものはないからね。
「うちの一族はもめるほど遺産なんかもってねーよ。それでその間抜けなあだ名を妹がすっかり気に入っちまってさ。家に遊びに来た友達に言いふらしたのが始まりだ」
「それはなかなか心温まるエピソードだね。ふむ、妹さんがいたのか。僕は一人っ子だからね。羨ましいよ」
 彼の妹か。僕の頭の中で邪気のかけらも無さそうな女の子が、彼と仲睦まじく遊んでいる姿が想像された。会ってみたいね。
「その内な」
 彼は社交辞令的な返答を返した。楽しみにしておくよ。
「くっくっ、それにしても実によくできた妹さんではないか」
「……本当はアミュージングじゃなくてファニーだろ」
 半分は正解、つまり両方さ。
「くそ、それまではちゃんと「お兄ちゃん」って呼んでいてくれていたのに。妹よ」
「へえ、キミの下の名は何というんだい?」
 僕達が隣の席という間柄になってまだ数日。僕は彼の名字しか覚えていなかった。ちょうどよく名前が話題だ。いい機会ではあるし聞きなおしておこう。
「やっぱ忘れてんじゃねえか」
「じゃあ聞くが、僕の下の名はなんて言うか覚えているかい?」
 彼の顔が一瞬だけ曇ったことに僕は見逃さなかった。
「安心してくれたまえ。僕も後で名乗り直すからね」
 僕がそう言うと彼は小さな声で「すまなかった」と謝ってから、自分の名を名乗ってくれた。
「それがキョンになるのか?いったいどんな漢字で……あ、言わないでくれたまえ。推理してみたい」
 僕は机の中から筆記用語と大学ノートを取り出し、しばし推理に没頭した。
「くくく。多分、こんな字を書くんだろう」
 ノートにさらさらと書き綴った文字を見て、彼は感嘆の句をあげた。彼が言うには一画一画見事に正解だったらしい。
「由来を聞いていいかい?この、どことなく高貴で、壮大なイメージを思わせる名前の理由」

 

 


 ――その日から、僕は彼を「キョン」と呼ぶことにした。

 

 


「おや、放課後に手を振って別れたばかりだと思っていたが、この再会は予想だにしていなかったよ。こんばんわ」
「なんだ、佐々木もここの塾だったのか」
 翌日の夕方。僕は通っている塾でキョンに会った。
「ああ。通い始めたのは今年になってからだけどね」
「周りは知らない奴らばっかみてーだからな。お前に会えてうれしいよ」
 キョンのストレートな物言いに、一瞬だけときめきを感じてしまったのは認めよう。どうやら僕の精神はまだ老成していないようだ。
「佐々木、今日はどこからやるんだ?」
 彼はこの塾で配布しているテキストを開きながら聞いてきた。
「なら僕の隣に腰を落としてくれたまえ。そこは今のところ無人の席だし、隣の席なら教えることに対して、何かと手間が省けるだろうからね」
「そうか。お前がそう言ってくれるなら俺が拒む理由はないよ。サンキュー」
 彼は年齢に似合わず「どっこいしょ」と言って椅子に腰をおろした。
「くっくっ、キミは年齢でも偽ってるのかい?その歳でそのセリフは、あまりにも品がないよ」
「ほっとけ」

 

 

 塾の窓から覗く空が黒く染まり、月が煌き始めた頃、今日の講義は終了した。
「くはー。学校でさえあんまり勉強してねえのにこれからはさらに勉強時間追加かよ。疲れたあ」
「……受験生の身分なのにそこまで開けっぴろげに勉強不足を宣言するなど正気の沙汰と思えないが、これでキミの下げ止まらない成績が下げ止まってくれればいいのだが」
「まあな。それじゃ帰ろうぜ」
「へ?」
 僕は反射的に背後を見た。しかし背後には無機質な白い壁があるだけで何も存在していなかった。それはつまり僕に言ってるのかい?
「お前以外にいるかよ。お前は言葉遣いが少し特殊だが、生物学的には女だろ?一人で帰すわけにはいかん」
「ああー、……でも僕はバスだし」
「ならバス停まででいいか。まあ暴漢避けには少し心もとないだろうが、いないよりはマシだろ」
 ひょっとしたら何か下心があってそう言っているかもしれないが、彼はどうやら本気で僕の帰宅を心配してるだけみたいだ。
「ああ、うん、じゃあ……ありがとう」

 


「佐々木、寒くないか?」
 彼の声が耳に届く。
「大丈夫だよ。肩で風を切っているとは言え、僕は長袖シャツを着用しているからね」
 むしろすこし熱く感じるくらいだよ、とは言わないでおいた。
 僕は今日、初めて法律違反を犯したことになるのかな。道路交通法も国で制定された立派な法律だからね。え?何をしているかって?
「僕にとって自転車の二人乗りなんて初めての経験だよ。キミみたいに乗せてくれる人もいなかったしね」
「へー。やっぱ佐々木だな」
「ねえーなにがやっぱりなのかなあ。キョン君?」
 失礼な奴だ。僕がモテナイとでも……まあ事実だけどね。……くっくっくっくっくっくっ。
「不気味に笑うな。その笑顔は戌の刻に見るのは恐すぎる」
「こんなときに限ってのみ、なぜキミは和時計で使用された辰刻が使えるのかは甚だ疑問ではあるが、なにがやっぱりなんだい?」
 僕はとりあえずキョンの脇腹をつねっておいた。自転車の荷台に横座りしているだけだからたやすく手が回せられる。
「いたっ!いや、別にお前がモテなさそう……つーかクラス内でもお前はかなり端整な顔立ちをしてるけど、でもなくて。佐々木って真面目そーだと思ってたからな。二人乗りなんて危険な乗り方したことないだろうかと思ってな」
「まあさっきも言ったとおり初めてだけどね」
 しかもその相手が同じ教室の隣の席の男子。くっくっ、まるで三流脚本家の創造された使い古しの青春ドラマのようだ。
「でも悪くはないね」
「ん?なんか言ったか?」
「いや、僕の最初の悪事はキミのせいだと言っただけさ」
「人のせいにすんなよ。駐輪場で二つ返事で荷台に飛び乗ったのはお前だろ」
 それは言わないでおくれ。僕だって早く家に帰ってゆっくり休みたい気分ではあるからね。
「佐々木、あのバス停か?」
 キョンがアゴで指した先、紛れも無く僕が帰宅時に使用しているバスの停留所だった。
「そう、あそこだ。停めてくれ」
 キキィーッ。タイヤとブレーキがこすれるわずかな音が聞こえ、僕たちの乗車している自転車は停止した。
「キョン、感謝しているよ。ありがとう」
「バスはすぐ来るのか?」
 腕時計を確認したが、どうやらすこしだけ到着が早かったようだ。
「僕の感覚で考えれば、あと十分は長くないかな」
「そうか。そんぐらいなら一緒に待ってやるよ。一人じゃ退屈だろ?」
「否定はしないさ。重ね重ね感謝するよ」
「どういたしまして。どっこいしょっと」
 彼は塾内でも使用した年齢に不相応なおじさんくさい言葉を吐きながら、停留所のベンチに腰をおろした。
「くっくっ、キミは本当に中学三年生かい?本当は留年でもしてるのではないのか?」
「そんなに変か?お前の男言葉の方がよっぽど変だと思うんだが」
「僕は良いのさ。自覚して使用してるからね」
「そういうもんかね。なら若者らしくこれからは控えることにするよ」
「その言葉もおじさんくさいよ」
「うっせー」
 バスが到着するまでの十分間、そんな他愛も無い会話を交じらせていた。

 まあ少しだが「バス遅れて来ないかな」と思ってしまうくらいに楽しかったさ。

 

 


 桜の花弁はすでに散り落ち、ゴールデンウィークという映画業界陰謀短期集中型一過性休日集合週間なるものが近付き始めた今日この頃、我がクラスは局所的に変化しつつあった。
 どう変化したか?なに、僕には縁のないことさ。
「キョン、この教室内の一部の男女の組のみ、ある変化が起きていることに気付いているかい?」
 隣の席でソフトスパゲッティー式麺なる消化のよい強力粉を使用した給食、通称ソフト麺を食している彼に問いかけてみた。
「は?」
 ……どうやら小指のつめの垢の体積よりも気付いてないようだ。
「これは愚問だったかな。僕にしては出題ミスしたようだ。忘れてくれ」
「その言い方だとまるで俺がアホみたいじゃないか」
「そんなことは思っていないよ。ただ周囲の変化に囚われることなく我が道を歩む求道者だとは思ったけどね。そのマイペースぶりは持とうと思って持てるものではない。大切にしたまえ」
「……お前が女じゃなかったら頭を子突くくらいはしてたぜ。遠まわしに鈍感って言ってるじゃねえか」
 そう言いながらも、キョンはエサが捕らえられなかったライオンの子供みたいな顔で周囲に注意を払いはじめた。
「……わからん。ヒントをくれ」
「そうだね。岡本さんはその中で一番わかりやすいかな」
 僕はパック牛乳を堪能している岡本さんを示した。
 キョンはしばらくの間、岡本さんを注意深く観察したが、やがて諦めたように僕のほうに顔を戻した。
「降参だ。一体なんなんだ?」
「岡本さん、どうやら恋人ができたらしい」
「ふーん。それで?」
 特に興味を示さないようだ。気のない返事をしてからソフト麺のミートソースを胃に送り始めた。
「おや?やけに淡白だね」
「ぶっちゃけるとどうでもいい。岡本の幸せを願うぐらいはさせてもらうがな」
「くっくっ、実に面白いね」
「何がだ?」
 僕は彼の耳元に近寄り、小声で囁いた。
「僕の意見もキミと同じさ。彼女の幸せを心から願ってはいるが羨ましいとは思わない。なぜなら他人の幸せを嫉むほど今の世界に失望をしてないし、羨むほど自分に絶望はしていないからね」
 もう一度岡本さんに視線をくれた。この世の幸せを存分に謳歌しているような表情をしている。
「たぶん彼女の頭の中は、今、とても輝いているだろう。でもその思いは本当に「愛」から来ている物なのだろうか?」
「またずいぶん壮大なテーマだな」
「僕と付き合っているとこれから先もこんな会話は日常茶飯事だよ。……話を戻そう。僕はそうは思わない。いや、より正確に分析するならば、愛が全ての理由にはならないと考えている」
「うーん……つまり?」
「遺伝子にそう刻まれているのさ。次代により優性な子孫を残すために、他人と交わる。そうすることで少しづつだが着実に優秀な遺伝子を伝えられる。僕が面白いと言ったのはここさ。彼女は遺伝子の伝達のことなどおくびも考えていないだろう。しかしだ、彼女は遺伝子の命令に従って恋愛を楽しんでいる。どこか滑稽に感じないかい?まるで見えざる何かによって動いているマリオネットのようだ」
「……なあ佐々木」
 キョンはいままで見たこと無いほど……と言ってもまだ一ヶ月くらいしか行動を共にしていないが、難しい顔を作って聞いてきた。
「どうかしたかい?」
「すまん、まったくわからん。つーか難しすぎて話が理解できない……えーとつまり人間が誰かと付き合うのは未来の子供のためってことか?」
 やれやれ、難しい顔を作りながら何を言うと思ったら……くっくっくっくっく……
「あーはっはっはっはっは!」
 僕の突然の馬鹿笑いに、キョンどころかクラス中の学友達も驚いてしまったようだ。当然だ。自分でもこんな笑い方ができるとは想像すらしていなかった。
「さ……佐々木さん?今のどこらへんがあなたのツボっだったのでしょうか?」
「いやーこれは失礼……くっくっくっくっ、例えるなら流鏑馬で狙った的からは反れてしまったが、かわりに隣の的のど真ん中に命中してしまった騎手の気持ちと言ったところかな……くっくっくっくっ」
 キョンは奥歯に異物が挟まったようなわけがわからない困惑した顔で僕を見ている。
「やはりキミは最高だ。聞いて無い様で聞いている。理解してないようで理解している。実に見事に本質を理解した。そう、つまり僕たちは自分の子供のために生きているのさ」
 僕たちは次代のため、その次代はまた次代のため。そうやって僕たちはこの世界に生まれてきたし、これからも産んでいく。
 変わることの無い命の螺旋。そういった意味では僕たちはある意味永遠の存在ではないだろうか。
「よくわかんねえけどお前が納得したならいいか。それよりソフト麺がノビてるぞ」
 キョンは箸で僕のソフト麺の盛り付けられた器を指した。それはもはやソフト麺ではなくベロンベロンにノビきった小麦粉の塊に成り下がっていた。しまった。つい話に熱中するあまりすっかり忘れていた。
 僕は一口、口に入れた。うう……冷めてズルズルにノビきってしまってとても食べられる代物じゃない。
「半分くらいなら貰ってやろうか?」
 キョンは見兼ねてこんな提案をしてきた。それは今の僕にとって正に渡りに船であった。しかし、
「とても助かる申し出だが丁重にお断りしよう。これは僕がまいた種みたいなものだからね。責任持って処理させてもらうよ」
 さらにもう一口。……うぐ、これはせっかく仕入れてくれた業者にもうしわけないな。
「……キョン、やはり四分の一、いや三分の一くらい貰ってくれないか?」
 キョンは手のかかる子供を慈しむような自愛の笑顔を浮かべ、お決まりの「やれやれ」のフレーズを呟いてから僕の器からノビたソフト麺を半分ほどさらっていった。
 三分の一でいいと言ったのに……、キミはやはり優しいね。
 とは言わず、代わりに軽く礼を言ってから給食の残飯処理に戻ることにした。


『完』


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