――シュワシュワシュワァァァァァァ……………
 ヒグラシ達は自分の一生を悔いの無いものにするため、止む事無く耳障りな求愛行動を続けている。
「だあ!うるせえ!」
 どうやらあまりの暑さとうるささに、キョンの堪忍袋の尾が切断されたようだ。同時に勉強机代わりに使用していたちゃぶ台から立ち上がった。
「キョン、落ち着きたまえ。君がいくら騒いでもヒグラシ達は君の願いを聞き入れたりはしない。過去に学者が蝉の鳴き声は大砲の炸裂音にも勝るという実験結果を出したくらいだからね」
「それでもうるせえもんはうるせー!こっちは模試の結果が芳しくなかったんだよ!」
 キョンはあぐらをかいて、いらだたしげ頭をかきむしった。
「キョン、蝉のせいにしてはいけないよ。もし仮に、蝉が僕達受験生の妨害工作をするために嫌がらせをしているというなら、僕だって前回の模試は悪かったはずだ」
「……はあ。蝉なんか絶滅しちまえ。受験生にとっちゃゴキブリの次くらいの害虫だ。その功績を讃え、俺から「世界害虫ランキング」の銀メダルをくれてやるよ。だからそれ持って消えてくれ」
 今日はいつもより明らかに言葉遣いが悪い。しかし気持ちはわかる。エア・コンディショナーの労働を疑いたい程の暑さだ。仕方ないことではあるね。
「お前はさっきから涼しい顔で問題集問いてるよな。どんな体のつくりをしてるんだよ」
  キョンは襟を開き、下敷きで風を送って涼んでいる。
 認めよう。普段の僕ならその剥き出しの鎖骨に目を奪われるだろうが、僕の頭は少しでも体温の上昇を抑制するためか、頬の血行の循環は良くならない。人間の体とは便利であるね。すこし複雑ではあるが。
「キョン、僕だって暑さを感知していないわけではない。実際問題、君が僕の部屋にいなければ、おそらく下着姿で問題集を埋めていただろう。その点を考慮すれば、君がいるおかげで僕は羞恥心をかなぐり捨てずに済んでいる。感謝しているよ」
「少し残念な気もするが……」
「キョン、な、に、か、言、った、か、い?」
「いえいえ佐々木さん。なんでもございません」
 キョンは誰が見てもわかるくらいに動揺しながら視線をそらした。わかりやすい奴。この助平。
「キョン、君との会話は僕に安らぎと驚嘆を与えてくれるが、妄言はそこまでにしてそちらに取り掛かっておくれ」
 僕は先ほどキョンが投げ出した問題集を指さした。君が一段落ついたら昼食にするから、それまで一念発揮してがんばってくれ。
「日曜だってのに、いつもすまんな」
「かまわないよ。君に勉学を教えることは僕の復習になる。それにただの復習になるだけでなく、さらに深い知識となって返ってくるからね。だから気にしないでくれ」
 キョンから投げかけられる疑問は的を得ているし、時には僕の想定以上の回答が生まれることがある。つまり飽きない。
「お前の家での楽しみつったら、お前の講義とお前の手料理くらいだからな。期待してるぜ」
 くっくっ、君の期待に応えられるように頑張るさ。
 そしてまた、僕たちは机の上の問題集達を切り崩す行為に戻った。

 

 

 

「キョン。こんなものしか用意できなかったが、召し上がってくれ」
「涼しくていいじゃないか。最高だよ」
 本日の昼食は冷麺だ。他の地方では「冷やし中華」「冷やしラーメン」と呼称するらしいが、関西一帯ではこの呼び名が一般的のようだ。
「大袈裟だね。ゆでた中華麺の上に細切りのハムに叉焼 、錦糸卵、キュウリにトマトをのせただけの代物だよ。大した手間ではない」
 テーブルの勉強道具を片付け、向かい合って手を合わせた。
「ああ、ちょっと待ってくれ」
 僕が食材達への感謝の意を心の中で呟いていたときだ。どうしたんだい?くっくっ、ひょっとしてフォークでなければ食べられないかい?
「俺はそんなにお子様じゃねー。まあ妹なら欲しがるが。じゃなくて、マヨネーズはあるか?」
「冷麺にマヨネーズ?君は変わった嗜好をしているね」
 美味しいのだろうか?タレでマヨネーズがべチャべチャになって、あまり気色の良い料理とは思えない。
「ほっとけ。この前の盆に、ばあちゃんの家で冷麺が出てきてな。静岡の親戚がこれにマヨネーズをかけてたんだよ。けっこううまかったぜ?」
「そうか。なら少し待っていてくれ。今からマヨネーズを取ってくるよ」
「二度手間で悪いな」
 彼は少しだけ申し訳なさそうに頭をかいた。
「かまわないよ。僕も少しだが興味はあるしね」
 マヨネーズか。僕の想像を超えた嗜好である。食べたいとは思わないが見てみたい。

 

 

 キョンは僕からマヨネーズを受け取ると、冷麺の中央にケーキのデコレーションのようにマヨネーズをトッピングした。マヨネーズが乗った分、タレはスプーン小さじ一杯。少なめだ。
「なるほど。マヨネーズを上からかけるかわりに、タレを少量におさえるわけか。確かに利には適っている。これならマヨネーズが崩れる心配もない」
「多分、冷麺の食い方にそこまで難しい分析をしたのはおまえだけだ。きっとこいつらの故郷の中国にだっていねえぜ」
「キョン。みんなは誤解しているが、このタイプの冷麺の発祥地は日本の東京都だ」
「へえ、そうだったのか」
 キョンは僕のウンチクに耳を傾けながら、冷麺を胃に送り始めた。僕もそれに習い、食事を開始した。
「ああ。というより、中華圏には酢を使用した冷たい麺料理は存在しないようだ。あちらの人々は、どうも酸味のある冷たい料理を食習慣から腐敗による酸味と捉えるため、日本の冷やし中華や酢飯などを嫌う傾向にあると聞いた」
「それじゃ、あっちの奴らの寿司はただの白米かよ。もったいねえな。あんなにうまいのに」
「まったくだ。僕たちにとって寿司は酢飯の酸味と新鮮な生魚が醸し出す究極の日本料理だと言うのにね。その国の風土を否定するわけではないが、僕たち日本人にとって、世界に胸を張って自慢できる料理が完璧に伝わらないなど嘆かわしいかぎりだ」
 僕がそう言うと、キョンは何か思い立ったかのように言葉を吐いた。
「そういや寿司の起源は日本じゃなくて中国にあったって知ってるか?」
「くっくっ、僕を言い負かすつもりだっただろうが愚問だね。2世紀末成立の『釈名』という書物に記されていたらしく、魚を塩と飯で漬け込んで、熟してから食べる料理が起源だったらしい」
「お前はウィキペディアかよ。ちっ、知ってたか」
 キョンは悔しそうに舌打ちをしてしまった。雑学で僕に先手を取るなど君には無理さ。
「む、ならこれはどうだ。平安時代の寿司は……」
「なれ寿司とよばれていて、魚を塩と飯で漬け込み熟成させていたが、食べるときには米を抜いていた。ちなみに米を同時に摂取するようになったのは室町時代に入ってから。だね?」
 キョンは目を見開いて絶句してしまった。くっくっ、どうやら僕の勝ちみたいだね、キョン。
「つーか俺の答えより詳しいじゃねえか。降参だ。お手上げだ。全力で白旗振ってやるよ」
 キョンを完膚無きまでに叩き込んでから、胃に麦茶を流し込んだ。やはり勝つことは気分がいい。自然と笑みがこぼれてしまう。
「はあ、これで勝てたら次は天ぷらの起源はポルトガル語だって言おうと思ったんだがな。やれやれ、寿司でこんだけ詳しいなら、さすがに知ってるか」
 キョンはため息と同時に捨て台詞を呟いた。…………………………え?
「……それは本当かい?」
 僕はグラスに注がれている麦茶を半分ほどで飲むのを止めた。
「へ?知らなかったのか?16世紀頃に、ザビエルみたいな奴らがキリスト教と一緒に伝来させてな。まあそん時は「南蛮焼き」って言われてて、どっちかつーとフリッターに近かったみたいだが、それが起源らしいぜ」
 ……不覚。まさかキョンに雑学で言い負かされるとは。
 今度は僕が悔しがる番のようだ。僕の苦虫を噛み潰した顔を見て、キョンの頭の上に勝利の二文字が浮かんでしまった。悔しい。
「もういいよ。残りは自分で調べる」
「そうかそうか。佐々木にも知らない雑学があったか。ちなみに名前の由来はポルトガル語の temperarから来ていて、意味は「調味料を加える」「油を使用して硬くする」らしいぜ」
 喜色満面。キョンは得意げに知識を披露し始めた。聞こえなかったのかい?もういいと言ったはずだが?
「悪い悪い。お前の悔しがる顔なんて珍しいからな。しっかりと俺の網膜に焼き付けておくよ」
「……キョン、君はいつからサディズムに目覚めたんだい?悔しがってる人に追い討ちをかけるなど鬼畜以外の何物でもないよ」
「ハハハ、それこそ大袈裟だな。ついで言うと漢字で書く「天麩羅」は当て字で、江戸時代の山東……」
「後で調べる楽しみが減る!聞きたくない聞きたくない!ワー!」
 僕は両手で耳を塞いでわめき散らした。中学生の分際で言葉責めをするなんて、君はなんてヒドイ人だ。

 

 

 

「悪かったって。だから機嫌を直せよ。な?」
「フン。私語は受験生にとって集中力を欠く典型的な行為である。よって口を開く前に問題を解くべきだ」
 勉強会午後の部開始である。だが、僕の気分は先の昼食時から下降し続けている。
「さっきから俯いたまんまじゃねえか。その姿勢だと肩凝るぜ?拗ねるなって」
「……別に僕は拗ねてなどない。それに勉強中は集中するといつもこんな姿勢だ」
 ああ、思いっきり拗ねてるさ。君は僕の役目は奪った。拗ねるに決まってるだろう?
「じゃあ、その食事中のリスみたいに膨らました頬はなんだ。モノマネか?」
 僕は自分の頬に触れてみた。……確かに見ようによっては膨らんでいるように見えないこともないような気もしないでもない可能性が申し訳程度に存在しないこともない。いつも思うのだが、そのたまに見せる無駄な鋭さはなんだ。なぜもっと肝心な場所で発揮されない。例えば模試の時とかにね。
「これは……飴玉だ。程よい糖分は頭の回転を助ける効果がある」
 適当に応えておくことにした。
「いつ舐めたんだよ」
「さっき」
 もう話しかけないでくれ。問題集に集中できないし、何よりそろそろボロが出てしまう。
「佐々木。へそが曲がってるぞ」
「え?」
 唐突に発せられたその言葉に、僕はついへその周囲に触れるという反応をしてしまった。そしてへそを曲げるという慣用句の意味を思い出したのは、キョンのニヤリとした笑顔を見たと同時だ。
「………………このいじめっ子。幼稚園からやり直して女の子に優しくするというフェミニスト精神を学んで来るがいい」
「多分暑さで脳みそがやられてるんだろ。悪かったって」
「絶対関係ない。その理論でいけば、赤道直下の東南アジアの国々の人々は皆サディストと仮定される」
「さてと、お遊びはここら辺にして真面目に勉強に取り掛かるか。佐々木、ここが良くわからん。どう解けばいいんだ?」
 キョンはシャープぺンシルの頭で、その問題文をトントンとノックした。
「ああ、ここは確かに難解な説明をなされているが、惑わされずに基本の公式さえしっかり理解していれば簡単だよ」
「そうか。それならもう少し自力でやってみるよ。ヒントありがとうな」
「それがいい。君はどうも人に頼る部分があるからね。それに君は自分の実力を過小評価しすぎだ。僕は君はもっと伸びると思うよ。それこそ僕と同じ市外の進学校に進めるくらいにね」
「それは買いかぶりすぎだ。俺なんか北校で手一杯。お前に教わらなきゃもっと下だったかもしれん」
 いい加減凡人を装うのは止したほうが良い。僕みたいに難解で、傍から見たら面倒な女の思考に真っ向からぶつかれる君に、理解力がそなわっていないわけがない。
 鈍感だと思えば無駄に鋭くなるし、鋭い指摘をつけば鈍感になる。君はいったい何者なんだい?天邪鬼か気分屋か、それとも僕の想像をはるか超越する稀代の天才か。
「まったく。君って奴は……」
「どうした?」
「いや、なんでもない。気にしないで勉学に戻ってくれたまえ」
「へいへい。…………良し!これでどうだ?」
 のんきだね。僕はいつか君に抜かされるかもしれないと、常に焦燥感に襲われているというのに。
 僕を抜くことはとても嬉しいが、それは同時にとても寂しい。本当に君はヒドイ人だ。

 

 

 

「……注文は以上です。お願いします」
 オーダーを取りに来たウェイトレスのゼロ円スマイルに、僕は笑顔を返した。
「お前は俺にかける情けはないのか?頼みすぎだ」
「君は僕を辱めた。それがリーズナブルなファミレスでの夕食で許されるのだ。感謝はされこそ咎められる覚えはない」
 僕は仕返しの意味をこめて、わざと「辱めた」の部分だけ声を張り上げて強調した。
「はあ、わかったよ。今日はジャンジャン食え。遠慮するな」
 そのつもりだ。今日はいつもの倍は頭と気苦労を使ったため、空腹が臨界点を突破しているよ。

 

 

「ふう、僕は満足している。ごちそうさま」
「これで今月は質素な生活決定だよ。どうしてくれる」
 さあ、どうだろうね。僕としてはジャンボカツが予想以上にジャンボだったことと、会計終了時の君の青い顔くらいしか興味をそそらなかったからね。
「どっちがいじめっこだ。歩かすぞ」
「今運動すると凄いことになる可能性があるので拒否する。それに僕は君の自転車の荷台が気に入っている。だからしっかり漕いでくれたまえ」

 

 夜風が僕の髪を撫でる。

 

 頭上には月が煌く。

 

 自転車を漕ぐ君の背中。

 

 僕はそれらを眺めながら、鼻歌を口ずさんだ。
「きれいなメロディーだな。なんて歌だ?」
 運転中のため、キョンは振り向かずに聞いてきた。
「さあ、僕にもわからない。なぜならこれは今ここで生まれた曲だからね」
「やっぱりお前は何でもできるな。じゃあついでに今すぐ題名を決めてくれ」
「くっくっ、これはまた性急だね。ちょっと待ってくれ」
 しばしの思案後、ある単語が思いついてしまった。
「自転車の歌。どうだい?」
 ガタン!僕の発表に反応したかのように、一瞬だけ自転車は大きく蛇行してしまった。つまりコケかけたのだ。
「……………………ネーミングセンスは人並み以下なんだな」
「……ほっといてくれ。自覚はしている」
 どうせ僕は犬を見たらポチだし、猫はタマとしか思いつかない人間さ。
「なら君の案を聞かせてくれ。そこまで言うならば、さぞ立派なタイトルなんだろうね」
「勘弁してくれ。夏が冬に変わっちまうくらい寒いのしか思いつかん」
「それは聞いてみたいね。今夜は熱帯夜になることが予想されるしちょうどいい。聞かせてくれ」
「暑いならデザートとしてあそこのコンビニでアイス食わねえか?奢ってやるぞ。つーか奢ってやるから忘れてくれ」
 キョンは自転車を止め、目の前のコンビニを指さした。貸し一だよ。
「頼むから忘れてくれ」
 くっくっ、絶対に覚えておくよ。

 

 

 
「ここで食おうぜ」
 数分後、コンビニでキョンはアイスモナカ、僕は氷菓の宇治金時カキ氷を購入し、近所に高級分譲マンションが建つ公園のベンチに腰掛けた。
 僕は小さく頷いた。
「ん?どうかしたか?」
 僕のいつもと違う様子に勘付いたのだろう。キョンは不思議そうに僕の顔を眺めてきた。
 普段の僕ならば、宇治金時カキ氷について様々なウンチクを語りながら楽しく食べるだろうが、今はどうも緊張してしまう。
 狭いベンチだ。僕のすぐ隣にはキョンの肩。触れそうで触れないこの距離がもどかしい。
「そんなにのんびり食べてると溶けるぞ」
 まったく。君は本当は僕の気持ちに気付いてるんじゃないのかい?やれやれ……本当に君はヒドイ人だ。
「僕は……」
「ん?どうした?」
「……いや、何でもない」
 だめだ。これ以上言ったら僕は引き返すことができなくなる。

 


 君は僕に恋愛感情を抱いていない。それぐらい見ていればわかる。
 僕が君に気持ちを伝えても、君はそれには応えてくれない。応えられない。

 

 

 

 だって僕達は『親友』だから。

 

 

 

 その時、夜空に一筋の流れ星が流れた。
 キョンはアイスにかぶりついていたため、気付かなかったようだ。
 僕だけが気付いた流れ星。僕は願い事を心の中で呟いた。

 

 

 

『またいつか、私と二人っきりでアイスを食べてください』

 

 

 


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