さて、いよいよ夏となり、夏の暑さが厳しくなれば7月である。
まず、七夕があり、月の終わりになれば夏休みだ。その前に水泳の授業なんてのもあるな。
そう、小学生にとって夏とはわくわくして待つ、素敵な季節である。

 

当然、ハルヒの活動もよりアグレッシブになる。

 

1.おれとプール

さて、六月も下旬、今週と来週の数日が終われば七月となる。
男女が別の部屋で更衣を済ませて、プール前に集まる。
俺たちはそこを『ピロティー』と呼んでいたが、どこがどうピロティーなのかはよく分からなかった。
「いち、に、さん、し」
やる気のない掛け声に合わせてラジオ体操もどきを行う。夏に近いとはいえ、まだ寒い。
と、言うよりもこの日の気温と水温は水泳の授業がおこなえるギリギリだったらしい。
男女関係なくシャワーを、悲鳴を上げながらくぐりぬけ、体を震わせながらプールサイドに立つ。
プールの水も当然冷たいのだが、中に入って時間がたてば体が慣れて平気になる。
「この時期のプール嫌いなのよ、寒いから」
ハルヒが必死にバタ足をしながら言った。俺はその意見に答える余裕もなく、最後の力を振り絞って足を動かす。
それでも、力を出し切っていないハルヒの水しぶきよりも小さいから不思議なものだ。

まぁ、小学校の水泳などたかが知れている。
伏し浮き、モーターボート、クロールなどの基本的なことをやって、残った10分は自由時間となる。
谷口はビートバンを持ち出して友人数人と水中鬼ごっこ、朝倉は仲のいい女子とおしゃべりをしていた。
他も似たりよったりと言った感じで、俺とハルヒも二人で水に浮きながらだべっていた。
「で、夏休みなんだけど、SOS探検隊のみんなでどっかに出かけたいと思わない?」
ハルヒはまだ、一月も先の夏休みの計画をもう立て始めているらしく、そんなことを口にした。
「どっかって?」
「うーんと、キャンプとか、海とか」
どちらも保護者同伴が絶対条件だろう。あいにくとうちの親は忙しいし、ハルヒの親も同じだろう。
大人には夏休みがないことを知っていて、それがすごくかわいそうだと思ったのを今でも覚えている。
しかし、このときの俺に言ってやりたい。夏休みは高校生になるとあってないようなものだ、と。
「その前に、七夕も何かしたいのよね」
ハルヒが思い出したようにそう言った。
「何かって?竹持って願いをかなえてもらうとか?」
「それもいいけど、もっと凄いことしたいのよね」
ハルヒはそう言うと何やら考え込んでしまった。

10分の自由時間などあっという間のもので、そんな無駄話だけで終わってしまった。
谷口とほか数名はなかなかプールから出ようとせず、結局担任からゲンコツを貰っていた。
目を洗って、シャワーを出る。ハルヒは目を洗わずに持参した目薬をさしていた。
「あ、いいなぁ。あたしにも貸して」
それを見た女子数人がハルヒから目薬を借りる。朝倉や何人かの女子も持ってきていたようで、持っているものには人だかりができていた。
「ハルヒ、俺も」
人の山が引いたところで、俺もハルヒに目薬を借りた。
教室に戻る途中、古泉にあった。古泉は軽く会釈をして横を通り過ぎた。
女子の何人かが嬉しそうに黄色い声を上げて古泉を見送る。ハルヒは手を振って、俺は睨みつけて返事をした。
古泉の人気の秘密はいったい何なのだろうか。

あと、余談だが俺はプールの時に使うタオルが好きだ。
着替える時に周りを気にしなくていいし、何より面白い。
ハルヒはゴムのついた部分を首の部分まで持ってきて「てるてるボウズ」なんてことをしていた。
谷口も同じことをしていたらしい。俺もやったけどな。昼休みにてるてる坊主の格好のまま追いかけっこをして先生に怒られたのもいい思い出だ。
この年の七夕はさらに思い出深いものだったが。

 

 

2.こいずみとブローチ

さて、7月となればいよいよ夏真っ只中と言った感じで、暑い。
ひみつ基地に扇風機はあるが、地球温暖化が叫ばれる近年ではその程度の文明力で暑さが和らぐはずがない。
「どうしてうちの学校にはクーラーがないのよ」
扇風機の前にどっかりと座りこみ、ハルヒがそんな文句を言っていた。
「冷たいラムネが飲めるだけありがたいだろ。それからもうちょっと右に行けよ。風が当たらない」
俺はその真横でラムネを流し込んでハルヒを押しのけようとする。
全力で、体全体を使って押しているつもりでも、女子の中でNo1の力を持つハルヒは微動だにしなかった。
結局、無駄に力を使い、その上余計に暑くなるというくたびれ儲けで終わった。じんわりと汗がにじむ。
「あんたこそもうちょっと左に行きなさいよ」
これ以上左に行けば、ますます扇風機の恩恵を受けられなくなる。
「やだよ、暑いんだから」
「こんにちわ。あぁ、ずるいですよ」
そんな言い争いをしているうちに朝比奈さんがひみつ基地にやってきた。
朝比奈さんは俺たちの後ろに回り込んで顔だけを扇風機の前に出す。それだけで十分涼しそうだった。
「おや、楽しそうですね」
続けて古泉がやってきた。古泉は俺の隣に座り、扇風機の風に当ろうとする。くるな、暑苦しい。
当然四人が密集していれば暑苦しくなる。
やがて扇風機の風の六割を一人で浴びていたハルヒにも汗が流れはじめた。
「あー、もう。あつい!」
ハルヒはそう叫ぶなり、着ていたTシャツを脱ぎはじめた。
「ば、バカ!古泉もいるんだぞ」
俺が慌ててハルヒに注意した。朝比奈さんは顔を真っ赤にして口を押さえている。
「いいわよ、見られて困るようなものじゃないし」
俺はその言葉を聞くと同時に古泉を引っぱってひみつ基地を出た。古泉はニヤニヤしている。殴っていいかな?

「涼宮さんの行動には驚きましたよ」
炎天下の中、俺たちは校舎の外にある水飲み場に来ていた。
本当に驚いたのかも疑わしい古泉を睨むように見ながら汗をふく。
「ところで、これからどうします?」
古泉に聞かれて気づいた。俺は古泉と二人で何をすればいいだろうか?
「そうだな、ハルヒがあの格好のままだとしたら部室には戻れないしな」
まさか古泉一人放り出すわけにもいかないし、ハルヒが素直に服を着てくれるとも思えない。
「僕にひとつ提案があります」
提案?一体なんだ?
「少し待ってください。迎えを呼びますから」
古泉はそう言うと、当時はまだ珍しかった携帯電話をポケットから取り出し、電話をかけた。
俺はそれを見てこいつの家はかなりの金持ちなのだろうと思った。俺の親ですら携帯なんてものは持っていなかったからな。
しばらく待つと、以前見た黒塗りの車がやってきた。
古泉は後部座席のドアを開くと
「どうぞ」
と、俺に乗り込むように促した。俺はこのまま誘拐されるんじゃないだろうか。俺はエセ紳士・古泉の誘いを受けて車内の冷房を感じた。

運転席に座っていたのは、白髪の目立つ初老の男性だった。古泉なんかよりもこっちの方がよっぽど紳士っぽく、信用できる。
そんな心境を知ってか知らずか、古泉は俺に話しかけてきた。
「そういえば、荷物はどうしましょうか?ひみつ基地に置いたままのはずですが」
「え?またあとでひみつ基地に戻るんじゃなかったのか?」
そもそも、学校に戻ってくるつもりだった俺は古泉の言葉に驚いた。
「あぁ、いえ、聞いただけです」
困ったような笑顔を顔に張り付けてそう言った。ただ話題に困っただけなのか、それとも、どこかへ行った後にそのまま送って帰るつもりだったのか。
どちらかは分からないが、このときの俺にとって、ハルヒと遊べないだけではなく、一緒に帰れないなど考えたくもなかった。
と、言うより無断で帰ろうものならハルヒが怒るに決まっている。どちらにしろこのまま帰る理由はない。
その後は車の中で古泉とどうでもいいような話をしていた。いや、話をしていたというよりも、古泉が一方的に話しかけてきていた、だな。
今思えばこんなにも邪険に扱わなくてもよかった気がするが、まぁ、小学生の俺は古泉に対して並々ならぬ警戒心を持っていたからな。
やがて、車は住宅街から少し離れたところに到着し、停止した。
降りてみるまでもなく分かる。大豪邸だ。
三階建ての建物に広い庭、芝生はきれいに整えられていて、我が家の居間くらいの広さはあろうかという花壇には色鮮やかな花が咲いている。
「ここが僕の家です。どうぞあがってください」
自宅とは規模の違う金持ちの家に圧倒されてやや放心状態の俺は古泉の案内に従って屋敷の中へと上がりこんだ。

おそらくリビングだと思われる部屋に連れられ、俺はふかふかのソファーに腰掛けた。
天井を見れば立派なシャンデリアが吊るされている。初めて見たぞ。
壁にはよく分からないが、とりあえず値の張りそうな絵画がかけられ、その中央に暖炉がある。
その暖炉は使えるのか使えないのかは知らないが、鉄格子がはめられていた。たぶん使っていないのだろう。
入口とは反対の側にある窓は大きく、夏の光がやんわりと差し込んでいた。そこからは先ほどの花壇がより綺麗に見える気がした。
壁には絵画のほかにも写真がかけられていて、その写真の人物は皆、どことなく古泉に似ていた。
「どうぞ、自分の家とでも思ってくつろいでください」
これを自宅だと思えるやつはよほどの金持ちだろうな。
いや、ハルヒあたりならたぶん図々しくも勝手気ままに振る舞うだろう。隠し部屋でも探し始めるかも知れない。
「残念ながらそのような仕掛けはありません。僕の知っている限りでは、ですが」
含みを持たせて仕掛けを否定する古泉が無性に腹立たしかったが、もしかしたら仕掛け扉ぐらいはあるんじゃないだろうかという期待も心の中にあった。
そして、ここにハルヒを近づけてはいけない、という確信めいた思いもあった。間違いなくここに来れば古泉の虜になる。それは絶対に許せない。
俺は古泉への警戒を普段の百倍まで高めた。古泉は相変わらずニコニコしている。

「失礼します。お待たせいたしました」
ノックの音の後に女性の声が聞こえた。
女性は上品に扉を開き、銀のトレーに陶器のポットとコップ、さらにこれまた高級そうな平皿にクッキーを乗せて静かに俺達に近づく。
「紅茶はお好きでしょうか?」
古泉が笑顔を俺に向けて聞いた。やめろ、俺の方を見るな。
「いや、飲んだことがない」
ここまで金持ちっぷりを披露されれば、俺は古泉を警戒するどころかいつも通りに振る舞うこともできない。
古泉の言葉にたじろぎつつ、何とか平静を保とうとするので精いっぱいだ。こいつには勝てない。そう思った。
「そうですか、ジュースの方がよろしかったでしょうか?」
古泉の代わりに女性がそう言った。この女性が普通の格好だったならどれだけ良かっただろうか。
朝比奈さんが着ている子供だましのものではない。間違いなく本物のメイド服だ。
「あぁ、いえ、その」
完全にテンパってしまった俺は、もう何と答えていいか分からず、ただ首を横に振るだけだった。誰でもいい、助けろ!
「た、試しに飲んでみようかなというか、飲んでみたいというか」
あぁ、小学生の俺よ、もっと落ち着け。そう言いたくなるほどの動揺っぷりだったろう。ここにハルヒがいなくてよかった。
「それでは、飲みやすいものを用意しましょう」
そう言うと、女性はポットを銀のトレーに戻すと、再び部屋を出てしまった。空のカップとクッキーの山だけが残される。
「遠慮なさらず召しあがってください。森さんが焼いてくれたものですから、おいしいと思いますよ」
余裕たっぷりに言う古泉が頼もしく見えてしまうあたり、自分がいかに情けないかがよく分かった。
俺は負けを認めるよ、という意味を込めたため息をついて、惨めにも古泉推薦の香ばしくておいしいクッキーを口に運んだ。

メイドさんは森、運転手は実は執事さんで新川というらしい。
この家はその二人と、他何人かの通いの家政婦さんで掃除や洗濯料理といった家事を行ったりしているらしい。
ほんのりと甘いミルクティーとクッキーをいただきながら古泉の話を聞いた。
「そういえば、お前の親って何してるんだ?」
この頃になれば、緊張も古泉への警戒もすっかり解けてしまい、普通に喋っていた。
「父が手品師をしています。わりと有名なんですよ。それから祖父が会社を経営していまして、その家を譲り受けたものらしいです」
高度成長期に力をつけ、バブル期をうまく切り抜けた会社らしい。土地も金もかなりあるらしい。
「父の真似をして、僕も手品をやっているのですが・・・そううまくいかないものです」
古泉はそう言うと右手に持っていたクッキーを左手で一瞬だけかくして二枚にして見せた。
「十分スゴイじゃないか。それでも駄目なのか?」
「父はクッキーをケーキに変えてしまいますよ」
「それ、ホントか?」
半信半疑で古泉に訊ねると古泉は意味ありげに首をすくめて見せた。こいつのこう言うしぐさの一つ一つが手品のためにあるのかもしれない。
俺はこのときそんなことを思った。
「そういえば」
俺はミルクティーを一口飲んで、古泉に質問した。
「お前のおかあさんは何してるんだ?」
この質問がどれだけ無神経なものかは今ならよく分かる。いや、気をつけるようになったのはこの日以降だ。
「母は」
俺は古泉の表情が一瞬曇ったのを見逃さなかった。
「母と父は、離婚したんです。つい最近のことです」
俺は思いがけず、こいつの転校の理由を知った。いや、知ってしまった。
気まずい雰囲気になったのと、時間がいつもの帰宅時間になったのはある意味幸いだった。
「そろそろ戻らなければ涼宮さん達に怒られてしまいます」
困ったように笑う古泉の言葉を合図に俺は立ち上がり、俺は古泉の家を後にした。

「先ほどのお話ですが」
新川さんの運転する車の後部座席で古泉の話を聞いた。
「父と母は、決して不仲だったわけではありません。むしろ子供の僕が見ても呆れるくらいの仲でした。
父は職業柄、国内どころか世界中で仕事をしています。母は僕の面倒をみるために家にいました。
数週間、長い時では数か月に一回しか会えない父に文句も言わず、のんびりと帰りを待つ母は立派な人だったと思います」
「だったらなんで」
「あなたは、家柄というものを気になさったことはありますか?」
「家柄?」
古泉の質問は何とも的外れなものに思えた。
「えぇ、そうです。少し昔話をしましょう。
昔々、それはそれは裕福なお金持ちの貴族がいました。その貴族の息子は誠実な青年で人望もあり、やがてその貴族の後を継ぐことが決まっていました。
貴族は日々努力し、立派な後継ぎとなるべく勉強に励みました。
ある日のことです。彼は街に遊びに行きました。そこで一人の女性に心を奪われます。二人は恋に落ち、素敵で幸せな時間を過ごしました。
しかし、その恋は許されないものでした。なぜなら女性は奴隷だったからです」
古泉はいったんそこで話を区切った。
「身分違いの恋、か」
おぼろげながらもこの話の意味することが分かった。それくらいの知恵はあったし、そう言うおとぎ話をいくつか見たことがある。
それでも、感情だけはいつも納得していなかった。
「母は、部落の出身でした。江戸時代にえた・ひにんと呼ばれた人達、あぁ、つまりは奴隷のような人たちだと思ってください。その子孫です。
馴れ初めは省きますが、父と母は結婚を望みました。しかし、父の両親がそれに反対した。父は華族の・・・失礼、貴族の子孫です。
そのような高貴な血を持つ父が奴隷の血をひく卑しい人間と結ばれるなんて許されない、と」
子供にだってわかる無茶苦茶な反対理由だ。それを大真面目に言っている人間が本当にいる。それは衝撃的だった。
「時代錯誤もいいところ、頭の古い人間だ。父は祖父母の話をするたびにそんなことを言っていました。
母は何も言わずに笑うだけ。辛くてもいつかは分かってくれる。私の友達もそうだった、と。
反対を押し切って駆け落ち同然の生活を始めた二人は貧しいながらも幸せな生活を始めました」
が、今古泉はかなり裕福な暮らしをしている。

「しかし、ずっとそのまま、という訳にもいきませんでした。原因は・・・僕なんです」
古泉の顔は笑っていたが、その奥は悲しそうだった。
「祖父母は父の子供である僕を認めようとしませんでした。半分は奴隷の血が混ざった人間、えたの子だと。
親戚に嫌われ、蔑まれて、父は『親父やお袋が認めなくたって俺の息子だ、胸を張れ』と言ってくれましたが、
まだ小さかった僕はどうしても親戚の大人達にいわれのない非難をされることに耐えられませんでした。
そんなとき、母がその親戚に言ったんです。『もし、わたしと彼が別れればこの子を認めてくれますか』と」
「ちょっと待ってくれ、何でお前は親戚連中に認められなきゃいけなかったんだ?俺なら関わりたくもないぞ」
古泉の言葉を遮って俺がどうしても納得できなかった疑問を口にした。
「僕は、父の後を継ぎたかったんです」
古泉の父親は手品師で、そのじいさんは会社の社長だったはずだ。
「えぇ、そうです。祖父は会社の社長ですが、その周りは違います。彼らもまた有名なエンターテイナーです」
エンターテイナーという言葉の意味は分からなかったが、手品師のようなものだということは分かった。
「父に憧れた、と言うよりはその衣装を身にまとうことに憧れていました。特に父が胸につけるブローチに。
そのブローチと言うのは、僕の家の家紋と言いますか、紋章が入っていて、それをつけてのパフォーマンスが許されるのは優れた技術を持つ者だけだったのです。
古泉家の人間として、舞台に立つことができる資格と言ってもいいでしょう。
結婚を反対されたからという理由ではく奪できるしなものではありません。しかし、僕はいくら技術も磨いてもそれを受け継げない」
その言葉の意味ははっきりと分かった。

「父は離婚に反対しました。初めて父と母のケンカを見ましたよ。父は別れるくらいならこんなものはいらないと、ブローチをゴミ箱に捨てようとしました。
しかし、母はそれをこう言ってやめさせたのです」
そう言って一呼吸置く。その表情は柔らかくて、優しかった。
「そのブローチはあなたのプライドで、私のプライドで、一樹のプライドです。それを簡単に捨ててしまわないでください。
それをつけてあなたが人を喜ばせる限り、私はあなたの妻として、どんなことにも耐えていけます」
古泉は言い終わるとウィンクをした。
「母はその後に『お義父さんやお義母様に認めていただけるような人間になって、再びあなたのもとに戻ってきます』と、そう言いました。
僕は、今母が一体何をしているのか知りません。知りたくても知れないのです。父はその言葉を聞いて『すまない』と頭を下げて、離婚に同意しました。
二人はかわいそうだと思いますが、決して不幸ではないと思います。父は僕たちのプライドを胸に輝かせて世界中を巡っています。
母は、自分のために、自分を輝かせるために、今もどこかで頑張っています」
そして、古泉は最後にこう締めくくった。
「二人は今も結ばれているんですよ。僕はそれを示すブローチなんです」
今、こうして思い返せばキザったらしいものだが、このときは素直に感銘を受けていた。

学校に到着して車を出た後、俺は執事の新川さんに呼び止められた。
古泉はあなたの荷物も持ってきますよ、と言い残して校舎へと消えてゆく。
「一樹君がご両親の話を誰かにしたのは初めてだと思います。彼はいい子です。純粋で、芯の強い子です。
それゆえに、自分の悩みを誰にも話せないことがあります」
新川氏は俺を見て優しく微笑むと
「彼は素晴らしいご学友をもたれたようだ。彼のことをよろしくお願いします」
そう言って、軽く頭を下げた。
俺は今校舎でハルヒに何をしていたのか追及されながらも俺の鞄を持って下りてきている頃だろうか。
夕焼けに照らされた校舎を、ぬるいながらも涼しい風がなでるように吹き抜けた。

「で、あんた達一体何してたのよ?」
ご機嫌斜めのハルヒが俺に顔を近づけて聞いた。
「あぁ、古泉の家に行ってた」
「何よそれ!するーい!あたしも行く」
古泉にでも相談してくれ。俺は苦笑いをしてハルヒの文句に答えた。
「あのさ、ハルヒ」
「何よ?」
「恋って、すげーな」
「はぁ?」
突然そんなことを言った俺の額に手を当てる。熱はないさ。
「何?古泉君が好きになったとか?」
「いや、それはない」
そんなことは断じてない。あってたまるか
「じゃぁ、何よ」
「うーん、秘密」
俺はニヤリと意地悪く笑って見せた。
ハルヒは俺をぽかぽか叩きながらも真相を訊ねてくる。
恋というのは、そこに障害があろうが、強力なライバルがいようが諦められないものなのだ。
俺はいつかハルヒと結ばれることを、ハルヒに追いかけられながら、うっすらと願った。

 

 

3.ながととねがいごと

さて、今の状況を簡潔に説明しよう。
朝比奈さんは泣き、ハルヒはもどかしそうにイライラし、古泉は携帯でどこかと連絡をとり、長門は無表情で空を見上げている。
俺は朝比奈さんを慰めつつ、ハルヒのイライラを何とか解消しようとオロオロする。
時刻は夜、まだ日が沈みきってからそんなに時間が経っていない。場所は学校の駐車場だ。
何故こんなことになっているのか。話は遡って数日前となる。

俺が古泉宅を訪れた翌日から、ひみつ基地にはティーセットが置かれるようになった。
持ってきたのはもちろん古泉だが、紅茶を入れるのは朝比奈さんの仕事になった。
紅茶を入れるといっても、これまた古泉の用意した電気ポットからお湯を注ぐだけのシンプルで簡単なものだ。
後々これが急須になって緑茶になったりするのだが、まぁ、この頃は大体紅茶だったな。
俺はミルクティー以外の、例えばレモンティーやアップルティーなどの紅茶が飲めず、仕方なくラムネを飲んでいた。
「あなたの番ですよ」
古泉が駒を動かし終わり、俺の一手を待つ。
「待て、今考えてるから」
俺はそう言って、もう一度駒の配置を確かめたあと、駒を進めた。
現在俺と古泉は将棋で対戦中。朝比奈さんはそれを横から興味深そうに眺めていた。
「そういえば、最近長門さんひみつ基地に来ませんね」
駒の動きを追いながら朝比奈さんが言った。
「長門さんは体調がすぐれないようで、最近学校を休んでいますよ」
古泉が言った。こいつと長門は同じクラスだ。
「風邪か?」
俺が訊ねる。
「かもしれません」
古泉が曖昧スマイルでそう答えた。

しばらくすると、ハルヒが現れた。こいつが遅れてひみつ基地に現れた理由。
それは昼休みの谷口とのけんかで、そのケンカの理由というのが給食の大食い対決の勝敗というのだから呆れる。
おかわりした杯数が同じでも一回に食べた量が多いとか少ないとか。行儀の悪い食い方をしていたのも原因だろうな。
「おっまたせ~!あら、何してるの?ほら、隊長が来たんだから中断して敬礼っ!」
ハルヒは無慈悲にもあと少しで勝利できるはずだった戦場を荒らす。
「あぁ、せっかく勝てるところだったのに」
「文句いわないの。争いは何も生まないわよ」
けんかして叱られたやつが言うセリフでもないが、俺はそれ以上文句を言わなかった。いつでも勝てるからな。
「そんなことより、SOS探検隊の7月7日、つまりは七夕の予定を発表するわ」
ハルヒは、ひみつ基地の一番奥の中央、いつも長門が座っている辺りに行き、腕に腰を当て、偉そうに胸をそらして言った。
「我々SOS探検隊は、“願いの丘”公園にて織姫と彦星に不思議が見つかるようにお願いに行きます。夜八時に学校駐車場に集合、いいわね?」
拒否権はないらしいが、夜中にハルヒと“願いの丘”公園に行けるというのはなかなか魅力的だ。

“願いの丘”公園というのは、少し遠くにある市の公共施設の一部で、デートスポットとして有名な場所である。
何でも、その丘で夜願い事をすると、それが叶うという噂があり、その由来となる昔話まであったりする。
その丘というのが実は古墳だったりするのだが、歴史も習っていない俺はその古墳が何なのかも知らない。
とりあえず偉い人の墓だという説明を後で長門にしてもらった。
「あ、あのぉ、あたしあんまり遅くまでお外で遊ぶと怒られちゃいます」
朝比奈さんが申し訳なさそうに言った。
「大丈夫よ、保護者どうはんだから」
ハルヒが根拠のない自信を持って答えた。
「保護者って、お前の家の親か?」
俺が質問する。
「ううん。聞いてみたらその日忙しいから無理だって言われた」
ケロリと答えたが、それじゃぁ、一体誰の親が保護者としてやってくるんだ。俺はそう思い顔をしかめた。
「だから、SOS探検隊のメンバーで誰か付き添いで来てくれる人がいないか探してほしいのよ。もちろん車の運転が可能な人」
“願いの丘”公園は、小学生の足で40分~一時間、大人の足で20~30分の場所にある。当然、車での移動でなければ非常にしんどい。
「それなら、僕が新川さんか森さんにお願いしてみます」
古泉が笑顔で答えた。
「あの、あたしおねえちゃんに頼んでみようと思います。それなら怒られないから」
朝比奈さんは少し嬉しそうに、はにかみながらそう言った。
「俺も聞いてみるかな」
俺は二人の反応を見て駄目元で頼んでみることを決めた。結果は即答で「無理」だったけどな。外出に関しては何とか認めてもらえた。親父は嫌そうだったが。

翌日、長門はひみつ基地にやってきた。
いや、俺がひみつ基地に着くころにはすでにひみつ基地で本を読んでいたのだ。
ハルヒは谷口その他数名に誘われてどこかへ行っていた。俺も誘われたのだが、何となく断った。
ハルヒと行動するにしても谷口が一緒というのが気に食わない。体育の時間の一件をまだ少し根に持っていた時期でもあった。
「長門、具合はもういいのか?」
ランドセルを置きながら長門に訊いた。
「いい、問題ない」
長門はいつもの調子で答えた。顔色がいつも以上に白いような気もしたが、長門が眼鏡がずれたのを直すしぐさを見るころには、気のせいだろうと思った。
まだ、朝比奈さんも古泉もひみつ基地には来ていない。いや、古泉は用事があるとかで今日は欠席するって言ってたな。
「そういえば、お前七夕って予定あるのか?」
ラムネ瓶の封を開けたところで俺はふと昨日のことを思い出した。
「……無い」
長門は本のページをめくりながらそう答えた。
「どうして?」
そこはちょうど切りのいいところだったのか、長門が俺の方に顔を向ける。
「いや、ハルヒが七夕の夜に“願いの丘”公園に行こうって。お前も参加するか?」
長門は小さく首をかしげる。
「“願いの丘”公園、ってどこ?」
今でこそ長門が博識であることを知っているが、この頃は長門と会話することも少なかったので、長門に質問されることを不思議に思わなかった。
このときの俺に『長門に知らないことはない』と教えてやっていれば、どれほど得意げにその場所を教えただろうか。
そんなことを知る由もない俺は、うっかり
「行けば分かるさ、ちょっと遠いけどな」
と、答えただけで終わってしまった。そういえば、“願いの丘”公園って春の遠足で行かなかったか?ふとそんなことを思い出した。
「……そう」
少しの沈黙の後に小さく、短くそう言って長門は読書に戻る。その直後だった。

「キョン!大変!事件!事故!ニュース!」
ハルヒは豪快な足音を立ててひみつ基地に駆け込んだかと思うと、単語を大声で、息を切らしながら叫ぶ。
「落ち着け、何があったんだ?」
俺はそんなハルヒに冷静に言った。その内心でハルヒがここまで大騒ぎしながら大声出しながらここに来るなんて珍しいな、とも思った。
「谷口が」
谷口がどうした?
「谷口が四階から落っこちた」
しばらく言葉の意味が分からなかったが、ようやくハルヒの言葉の意味を理解する。
四階から、となれば良くて大怪我、最悪の場合・・・
「どうしよう、キョン」
ハルヒの表情は不安で、心配で、そしてあまりの恐怖で泣くこともできないように見えた。
「せ、先生に連絡してきゅうきゅうしゃ!」
俺はハルヒに叫ぶようにそう言った。突然のことにパニックになる。頭はものすごく熱いのに、お腹のあたりが氷のように冷たい。
どうすればいいのか分からずに、困った顔でおどおどとするハルヒの横に行き、ひみつ基地から出て谷口のもとに急ごうとした。
ドサリ。
何か重たいものが落ちる音。振り返ると、長門が呼吸を荒くして倒れていた。
救急車のサイレンの音が遠くから聞こえた。やがてそれは学校の近くで止まる。それが長門でなく谷口を迎えるものであることがより一層俺たちを不安にした。

「長門さん、これを口に当てて、大きく深呼吸して」
タイミングよく現れた朝比奈さんが長門の口元にビニール袋を当てて、長門を落ち着かせていた。
徐々に長門の呼吸が元通りになる。しかし、体はぐったりとしていて、目も少し虚ろだった。
ハルヒは朝比奈さんが応急処置を始めてからすぐに職員室へと向かった。
立ち入り禁止教室で何をしていたのかと怒られそうなものだが、そんなことよりも長門の方が心配だ。
「キョンくん、お水をコップについでください。長門さん、自分で飲めますか?」
俺は言われたとおりにコップに水を注いで長門のもとへ運ぶ。朝比奈さんは長門に落ち着いてそれを飲むように指示した。
「あとは、先生が来るのを待ちましょう」
朝比奈さんは、額に汗をうかべていたが、誰よりも冷静だった。俺は扇風機を長門の方に向けた。
あぁ、朝比奈さんがいてくれてよかった。いなかったら長門は死んでしまったかも知れない。俺は何故だかホッとしていた。
やがて、保健の先生と、長門のクラスの担任とがハルヒとともにやってきた。
長門の担任は長門を抱えて運ぶ。保健の先生は朝比奈さんに事情を聴いていた。俺はハルヒとともに先生の後を追う。
保健室まで運ぶと、長門の担任は長門をソファーに寝かせて
「長門さんの横にいてあげなさい」
と、俺達に言って、どこかへ行ってしまった。たぶん長門の親を呼んだのだろう。俺は長門の額の汗をハンカチで拭いてやった。
ハルヒは顔を真っ青にして長門を見ている。たぶん、俺も今、同じ表情なんだろうな。そう思った。
ほどなくして、長門そっくりの女の人が保健室に入ってきた。
長門の担任は長門を再び抱きかかえた。長門そっくりの女性は心配そうに長門の様子を見たあとに俺たちを見た。
「あ、あの」
俺は何かを言おうと思ったが、何も言えない。何を言っていいかが分からなかった。
女性はそんな俺を見て、笑顔を作り、しゃがんで目線を俺たちと同じ高さにすると、
「大丈夫よ。それから、ありがとう」
と、優しい声で言った。俺はその「ありがとう」の意味が分からなかった。
女性は立ち上がると、すぐに長門の担任の後を追う。
「待って、ください」
それを止めて、ハルヒが言った。
「あたしたちも。あたしたちも行く、じゃなくって、行きます」
俺はハルヒの後ろで大きく首を縦に振った。

長門の家は、普通の家よりも少し大きくて、きれいだった。古泉の家ほどではないだろうが、割とお金持なのかもしれない。
俺とハルヒはリビングのソファーに座り、長門の母親の運ぶオレンジジュースを待っていた。
長門は今、長門の部屋で眠っている。
「あなた達が有希ちゃんのお友達ね」
長門の母は優しい声でオレンジジュースを俺たちの前に置きながら言った。
「そうです」
俺が答える。
「有希は大丈夫なんですか?」
ハルヒが聞いた。
「大丈夫、だと思うわ。たまにあるのよ」
長門母は、俺たちを不安にさせないためなのか、笑顔のままだった。少し困ったような表情が含まれていたのはたぶん気のせいではないだろう。
「長門、病気なのか?死んじゃうのか?」
俺は大真面目に聞いたつもりだった。だが、長門母は少しだけキョトンとした後、
「大丈夫よ、死ぬような病気じゃないから」
と言って、くすくすと笑い始めてしまった。
「あの子は自閉症なのよ」
おそらく、少しだけムッとしていただろう俺に向かって、長門母が言った。
「じへーしょー?」
聞き返す。聞いたことのない病気だった。
「そう。自閉症」
長門母は病名を繰り返した。
「あの子はね、自分の心の中に閉じこもってるの」
長門母は、目を閉じて自分の言葉を確かめて、ゆっくりと話を始めた。


「あの子が本が大好きなのは、あの子のお父さんが小説家だったからなの。
あの子はお父さんがよっぽど好きだったのか、あの人が仕事している間はずっと膝の上に乗っていたわ。
時々、あの人の書いている内容を見て声に出して読んだり。読めない漢字が出てきたら怒って『お父さん字へたくそ』ですって。
私は仕事の邪魔しないの、って叱ったんだけど、あの人はいつも笑って『構わないよ』って、あの子を膝の上に乗せていたわ。
あの人が家にいないときはお気に入りの絵本を持ってうろうろして、そして私に言うのよ」
長門母がおかしそうに笑った。
「『この本つまんない』って」
この当時の俺が読むと言えば絵本か学校の教科書くらいだったから、小さい頃に絵本をつまらないと言った長門はいったいどんな本を読みたかったのだろうか。
「それでも、あの子は今ほど本を読む子じゃなかったわ。お友達と外で遊んだり、たくさん話したり、笑ったり」
どれも今の長門からは想像がつかない、と言うよりそんな長門をみたら俺は驚いて喋れなくなってしまうかもしれない。
「それが、二年前にすっかり変わってしまったの」
二年前、俺が小学二年生のころだ。
「あの人が、ビルの屋上から落ちて死んじゃったの」
その言葉だけでもかなり衝撃的だった。
「あの子の目の前で」
長門の受けたショックと言うのは、俺が想像できないほどのものだろう。
「あの日、あの人は散歩に行ってくるって言って出かけたの。普段はあの子も連れて行くのに、たった一人で。
あの子、パパが私を置いてった、あたしも行くんだ、って大声でダダこねて。仕方ないから、あたしが連れて外へ出たのよ。
そして、しばらく歩いたところで」
その後の言葉は続けなかった。
「あの子はその日からずっと泣いて、泣いて、泣きやんだと思ったら倒れちゃって。しゃべらなくなって、笑わなくなって。
でも、今まで以上に本を、それもあの子の父が書いた本をたくさん読むようになって。友達とは遊ばなくなっちゃったけど」
長門母はそう言ってまた目を閉じた。
「あ、あのさ」
そのしぐさを話の終わりだと思った俺は何も言わないことが怖くて、とりあえず
「長門は、じへーしょーじゃないと思う」
と、言ってしまった。長門母は案の定キョトンとしているし、隣にいたハルヒは何故か俺を睨んでいた。
「それは、どうして?」
長門母が優しくそう聞いた。俺は少し考えて
「だって、長門は俺達にラムネくれたんだぜ?初めて会ったのに。じへーしょーってひきこもりだろ?ひきこもりはそんなことしないよ」
俺は、何故かこのときかなりの確信を持ってそう言った。呆れていたのはハルヒだけだった。
「あの子が、ラムネを?」
長門母はとても驚いていた。

その日は結局長門に会えないまま、俺たちは家に帰った。お土産に、どういう訳かラムネを一本ずつ渡された。
「なぁ、ハルヒ」
「なに?」
「明日さ、長門に会ったら何て言う?」
俺は、ハルヒの方を見た。ハルヒは空の上の方を見て何かを考えて
「とりあえず、誘わなきゃね」
何に誘うかは聞かなかった。多分七夕に“願いの丘”公園に行く計画のことだろう。
「そうだな」
とっぷりと暮れた夜空を見上げて、七夕が晴れればいいなぁと、何となく思った。

翌日、長門は学校を休んだ。
よほど体調が悪かったのか、あるいは来たくなかったのか。
これは、高校生になった俺の想像なのだが、長門が倒れた原因はおそらく谷口が四階から落ちたという事故を聞いたせいだろう。
その話を聞いて、目撃した事故現場を思い出したのではないだろうか。
その現場は、あまりにも恐ろしくて、騒がしかっただろう。
人々は口々に救急車を呼べと叫んでいただろうし、悲鳴をあげていた人だっていたかもしれない。
長門はその現場にどんな気持ちで立っていたのだろうか。

長門が休んだその日の放課後はSOS探検隊全員でのお見舞いとなった。
長門母が嬉しそうにそれを迎える。長門は普段よりも少し元気のない無表情で俺たちの前に現れた。
「ありがとう」
長門は小さく、呟くように俺達にお礼を言った。
昨日と同じようにオレンジジュースが出てくるかと思っていたが、長門が冷蔵庫から取り出したのはラムネの入ったビンだった。
それを人数分取り出し、器用に運んで俺たちの前に並べる。
「おかわり……あるから」
一体何本冷蔵庫に保存されているのか気にならなかったわけでもないが、聞くようなことはしなかった。
「それでね、七夕に“願いの丘”公園に行こうと思うの。有希も行くでしょ?」
ハルヒの勢いの少々よすぎる誘いに、長門は静かに小さく首を縦に振った。
「それじゃあ、決まり!七夕の午後八時に学校の駐車場に集合。あとは行く方法だけど……」
ハルヒが全員を順に見る。すると朝比奈さんが遠慮がちに手を挙げた。
「あのぅ、あたしのお姉ちゃんが、行くんだったら全員を乗せて行ってもいいって」
「そうなの!やるじゃない、みくるちゃん!」
ハルヒが嬉しそうに朝比奈さんに抱きついた。

さて、朝比奈さんのお姉さんがどんな人物か分かるのはもう少し後の話になってしまう。
つまりは、七夕の当日に現れなかったのだ。ここで冒頭の、朝比奈さんが大泣きしている場面に戻る。
「ごめ、んなさ。い……ヒッグ、おねえちゃん……ウッグ、おしごとだから、……ふぇ、これなぐなったってー」
翻訳すると約束していた朝比奈さんの姉は急に仕事が入ってしまい、残念ながら来れなくなった、と言うことらしい。
ハルヒはあからさまにイライラしていたが、朝比奈さんに文句も言えず、どうにかして“願いの丘”公園に行く方法を考えていた。
「なぁ、いっそのことここでお願いしないか?同じお星さまなんだし」
「それじゃ意味ないでしょ!」
元も子もないことを言う俺をハルヒが怒鳴った。朝比奈さんはそれに驚いて、さらに泣きはじめた。
古泉は携帯電話でしきりに誰かと話していた。おそらく新川さんか森さんのどちらかだろう。
長門は静かに星を見上げている。
「……来る」
長門がそう呟いた直後だった。
駐車場に、車のライトが飛び込み、俺たちの目の前で停車した。
「あらあら、どうしたの?」
車の中から現れたのは長門の母だった。

「有希ちゃんが心配になって見に来たんだけど、良かったわ」
俺は後ろの席で朝比奈さんを慰めながら長門母の言葉を聞いた。ハルヒは助手席に偉そうにふんぞり返っている。
この車は五人乗りで、定員オーバーなんじゃないかとも思ったが、子供は二人で一人、三人で二人とカウントされるらしいから大丈夫だろう。
しばらくすると“願いの丘”公園に無事辿り着き、その頃には朝比奈さんも泣きやんでいた。
ハルヒは車を飛び出ると、すぐに長門と朝比奈さんを引っぱって走り出していた。古泉はそれに相変わらずの二ヤケ顔でのんびりとついて行く。
俺はそれを後ろの方からやれやれとため息をつきながら眺めていた。
すぐにハルヒを追いかけなかったのは、何となく、手を引いてくれなかったことが少し不満でいじけていたからかもしれない。
「あなたは行かないの?」
長門母がそんな俺に声をかけた。
「後で」
長門並のそっけなさでそう言ってハルヒの方を見る。朝比奈さんが転んでいた。
「そう」
長門母の返事も、親子だからか声も似ていて、長門のようだった。
「聞きたいことがあるの」
一呼吸おいて、長門母が話しかけてきた。
「あの子、あなたたちに初めて会った時にあの子から話しかけてラムネを渡したの?」
そういえば、その話をした時に長門母は驚いた顔をしていた。
「長門のひみつ基地に入った時に。長門が話しかけてきて、で、ラムネをくれた」
その行動に何か意味があったのだろうか。俺はそう思った。
長門母は俺がそう答えたのを聞いた後は、しばらく黙ったままで、ずっと空を見上げていた。
「キョーン!こっちに来なさい!」
どことなく物静かで、長門とはどこか違う長門母の神秘的な雰囲気の遠くから、ハルヒの呼ぶ声が聞こえた。
その声も絶対に大きな声で乱暴なものだったはずなのに、静かで優しく聞こえた気がする。それが、夜のせいなのか、長門母のせいなのかは分からない。

この日は語られることがなかったが、この先にこの話に触れることはないだろうと思うから、ここで話しておこうと思う。
長門が初めて俺達にあった時に取った行動は、長門父の残した未完成の物語の主人公の行動だったのだ。
自分に自信がなくて、人と話すことが苦手な少女が、とても気に入っていた秘密の空間にやってきた二匹の動物。
一匹は明るくていたずら好きなウサギで、もう一匹はウサギのいたずらを叱りながらもそんなウサギが好きなリス。
少女はその二匹の動物をもてなすために、少女の好きなラムネを差し出す。
いたずら好きなウサギは間違いなくハルヒで、そんなウサギが好きなリスは俺のことだ。
ただ、物語でウサギはオスなのだが、ハルヒの行動を見る限り、あながち間違ってはいないのかもしれない。
物語は少女がそのウサギとリスの友達と遊び始めるところで終わっていた。
結末の書かれていない、まだ作られていない物語。
長門はきっと、そんな物語の主人公になろうとしたのだろう。だから、長門はひみつ基地でずっと本を読んで、ラムネも用意して待っていたのだ。
だから、長門の歩む物語は、きっと楽しい事件と幸せな結末を目指してずっと続いて行くのだ。
当然、こんなことを考えたのは小学生の頃ではなく、中学生になってからなのだが、自分で言っても恥ずかしい。
長門にはしばらく会ってはいないが、どこかできっと物語のページを埋めているのだろうと思う。

「キョン、あんたは何お願いするの?」
とっとと自分の願い事を済ませてしまったハルヒが俺にそう訊ねた。
「待って、今考えてるとこ」
慌ててハルヒにそう言った俺の願いは『ハルヒとこいびとになりたい』だった。言えるはずがない。
朝比奈さんは『つよくなりたい』、古泉は『世界平和』。
朝比奈さんの願いは何とも可愛らしいが、古泉の願いは何とも胡散臭い。
さて、ある意味今回の主役でもある長門の願いは
「……内緒」
だ、そうだ。
“願いの丘”公園で始めから最後までずっと星空を見上げていた長門は一体何を願い、何を想ったのか。
それは、意外と子供っぽい、無邪気な小さな夢なのかもしれない。

 

 

4.おれとなっとう(番外編)

さて、俺には嫌いな食べ物がある。納豆だ。
何を考えて制定したのかは知らないが、七月十日はなんと納豆の日なのだそうだ。あぁ、忌々しい。
そして、今日の給食のメニューには納豆が入っていた。
パックサイズはミニなのだろうが、それでも俺にとっては小さいおかずに山盛りになったレバーの方がおいしそうに見える。
「キョン、あんた納豆食べないの?」
納豆に触ることもなく金属製の箱に入った麦ごはんをかきこむ俺を見てハルヒが訊ねる。
「いるか?」
俺の顔を覗き込むハルヒにそう言った。
「嫌いなの?」
一瞬、俺の手が止まったのをハルヒは見逃さなかった。何かをたくらんだのを知らせるかのようににんまりと笑い、
「食べさせてあげようか?」
と言った。あぁ、是非とも頼む。できればこっちのデザートの方でな。
「嫌よ、あたしはあんたに納豆を食べさせたいの。おいしいわよ」
顔を近づけ、俺の納豆を手にとり素早く封を開けた。あぁ、納豆の臭いがする。
「い、いらないからお前食えよ」
椅子を引いてハルヒから離れた。ハルヒは俺の後を追って椅子を動かす。
「ほーら、楽しいわよ」
納豆をかきまぜつつ、後ずさる俺との距離を詰めた。
「お、お前が食えよ。俺は納豆嫌いだから」
素直に負けを認めてみたが、ハルヒはますます楽しそうに顔をゆがめるだけだった。
「好き嫌いはよくないわね、キョン。子供ができたとき注意できないわよ」
俺に近づくな。自分の子供には大いに好き嫌いさせるつもりだ。だからそれを近づけるな。

「あら、好き嫌いするの?それはよくないわね。学級委員としてもそれは見逃せないわ」
いつの間にか朝倉が俺の後ろに回り込んでいた。しまった、そう思った時にはすでにがっちりと捕まえられていた。
朝倉は、確かにまじめな学級委員だが、まったく大人しいわけでもなく、時々誰かと共謀して悪戯をすることがある。今回の犠牲者は俺だ。
「ほ~ら」
ハルヒが一口分をはしですくい、俺の口に運ぶ。
パクリ。
無情にも腐った豆の塊は俺の口の中に放り込まれた。二、三度咀嚼して思う。不味い。
俺は涙を浮かべてそれを飲み込んだ。
「よく食べたわねぇ。あたしすごくうれしいわ」
ハルヒは頭をなでながらそう言った。朝倉は今にも泣き出しそうな俺に牛乳を持ってきてくれた。
それを一気に吸い上げてから気づいた。納豆と牛乳の相性は最悪だ。朝倉はそれを知ってやったのか、知らずにやったのか、ニコニコしながら俺を見ていた。
チクショウ、お前ら覚えとけよ。
心の中で悪態をつきながら自分の席に戻った。席について改めて牛乳を一気に飲み干して、あることに気づいた。
「あれ、あたしの牛乳がない」
ハルヒの声が後ろで聞こえた。何故か、俺の机には牛乳が置いてあり、そして俺は手に牛乳を持っている。
「あら、わたし間違えちゃった?」
朝倉が、これはおそらく本当に間違えたのだろう、申し訳なさそうに驚いていた。
俺が飲んでいたのはハルヒの牛乳だ。ならば当然、このストローはハルヒが口をつけたものということになる。それはつまり・・・。
「仕方ないわねぇ。あんたの牛乳もらうわよ」
ハルヒはそう言って俺の牛乳を、何のためらいもなく取り上げて飲みはじめた。
あぁ、納豆の日もあながち悪いものではないかもしれない。

 

それでも、納豆は嫌いだった。

 

 

5.おれとつるやさん

 さて、七月二十日、いや、今年は二十一日だな、この日が何の日か知っているだろうか?
答えは簡単。海の日である。
俺が小学四年生だったこの年は火曜日が海の日だったから、その前日の十九日が終業式となる。
俺は全校集会を終えた体育館から同学年の生徒数人とともに体育館から吐き出された。ついさっきまで一緒だったハルヒとは人の波に流されてはぐれてしまった。
ハルヒは明日が来るのが待ち遠しくて仕方がなさそうな様子だったからこの人混みをかき分けて教室に向かっていることだろう。
少し残念ではあったものの、教室に行けばどうせ会えるのだからと、のんびりと波に流されていた。

気がつくと、のんびりしすぎたらしく、いつの間にか後ろからやってきた上級生の集団に囲まれていた。
その大半が教室へ急ぐ男子で、その中に混ざる数人の女子は俺と同じようにゆっくり歩いていたのか、同級生ばかりだった。
「ふぇぇ」
後ろの方から聞きなれた悲鳴が聞こえた気がした。
「ほら、みくるっ!早く早くぅ!」
周囲の話し声をかき消すほどの勢いで、女子の声が聞こえた。
声のした方に顔を向けたと同時に、そこから緑髪の女生徒が俺の横を通り過ぎ、その後ろから強引に手をひかれる顔馴染みが現れた。
「あっ、朝比奈さん!」
話しかけたものの、朝比奈さんは悲しげに口を動かして姿を消した。その直前に緑髪がニヤリと笑ったように見えた。
まるで、ハルヒのように。

成績表を受け取り、クラスメイト達は、先生の話そっちのけで夏休みの計画を練っている。
俺は計画を立てたところで、おそらくゴールデンウィークのひみつ基地づくりのようにハルヒに引っぱりまわされることになるのだろうから、
どこに行こうか、と言うよりも、どうやってハルヒについて行こうかと考えていた。
ふと、朝倉の方を見てみれば、先生の話を聞きつつも配られた手紙や成績表、夏休みの友と言う名の宿題の内容を簡単に確認しているようだった。
ハルヒは熱心に夏休みの宿題の問題を解いていた。この時間の間に出来る限り終わらせてしまうつもりらしい。
俺は、夏休みの終わりに一気に片付けるつもりだったので、さっさと、ランドセルの中にしまいこんでしまった。
今机の上にあるのは、よくできました・もう少し・頑張りましょうの比率が2:7:1の成績表を眺めていた。
先生から保護者に向けた通信欄には「もっと積極的にクラスのことに関わってほしい」と書かれているほかは大体ほめられている内容だった。
こんな三行程度の文章で学校での様子が伝わるものなのかと、学校の教育制度を疑ってみたりするのだが、
実際に学校での様子が鮮明に家庭に届いても困る。要するに、そんなことを考えるのはただ少しマセているだけなのだ。
俺は机に突っ伏してぼんやりと黒板の方を眺めた。

当然のように放課後は、ひみつ基地に集合となった。
恐らく、ハルヒの建てた夏休みの計画の発表とそれに伴う意見交換会となるだろう。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると目の前に体育館からの帰りに見た緑髪の上級生の姿があった。
「君がキョンちゃんだね?」
俺の姿を確認するやいなや、腕を組んで、仁王立ちで俺の進路をふさぐ。
「えーっと、何か用ですか?」
相手は上級生で、しかも妙なオーラをまとっていたので敬語で質問することにした。
「ふっふっふ、よくぞ聞いてくれました」
どことなく彼女の持つ雰囲気がハルヒと同じだ。
「あたしが言いたいのはね、キョンっち」
突然目つきが鋭くなった。
「みくるのこと、いじめたりしてないよね?」

さっきまでのおちゃらけた感じが消えて、本気で怒っているように見える。
「お、俺達はそんなことしてねぇよ!」
その威圧感に気圧されて口調が普段通りになってしまった。
「ホント、だね?」
「本当だよ」
「ホントにホント?」
「本当ったら本当」
「ずぇぇぇぇぇぇえったいにホントだね?」
「だから絶対本当だってば!」
不毛なやり取りの後、緑髪の上級生は俺を上から下まで見ると、プッと吹き出しておかしそうに笑いだしてしまった。
「なんだよ」
思わずムッとなってそう言った。
「いやぁ、ゴメンね。ホント聞いてた通り、めがっさ変なしゃべり方するからさ、キョンくん」
変なしゃべり方と言われたのはハルヒに続いて二人目だった。
「キョンくん…そだね、キョンくんが一番しっくりくるにょろ」
「そっちだって喋り方変じゃんか」
俺はやっぱり怒って、そう言った。
「うん、お互い様だねっ!あたし鶴屋。みんなからは“ちゅるや”って呼ばれてるによろ」
そう言うと、鶴屋と名乗った上級生が右手を差し出してきた。
「あくしゅ!みくるがいっつもお世話になってるにょろ」
俺は恐る恐る右手を出して手を握った。鶴屋さんはぶんぶんと手を振る。
「いや、君らがみくるのこといじめたりしてないってことは知ってたんだけどね」
時折妙な表現や発音がある以外はさばさばとした感じのいい喋り方だと思った。
「それじゃぁ、なんでそんなことを」
「何となく」
即答だった。俺でなくても呆れたような顔になっただろう。
「いや、ホントはね、みくるのことが心配だったんだよ」
この後聞いた鶴屋さんの話は意外なものだった。

「実は、みくるのこといじめてたのはあたしたちにょろ」
喋り方はふざけているようでも言い方は真面目で、表情は少し悲しそうだった。
「あたしたちはそんなつもりじゃなかったんだけど、ちょっとした冗談とか、いじわるがみくるにはすっごくショックだったみたいで、
いっつも泣きそうな顔で怒ってて、それが面白かったからずっとからかってたんさ。
気がついたらすっごくエスカレートしてて、みくるったら毎日泣いてて、あたしそれがちょぴっと気に入らなくて。
『なんでこれくらいのことで泣いちゃうのって』思ってたにょろ。
人にされて嫌なことはするな、って言うけど、自分がされて嫌じゃないことが相手にとっても嫌なことってわけじゃないにょろ。
あたし、せいぎの味方に言われるまでぜんっぜん気がつかなかった」
少し表情が明るくなっていた。ころころ変わっているのにそれが変わっている瞬間が分からない。不思議な人だと思った。
「それで、せいぎの味方って?」
「せいぎの味方の正体は未だに謎!ってことになってるよっ!
あたしたちがみくるのことなかしてる時にさっそうと現れて、『弱い者いじめはこのあたしが許さないわ!』だって。
『弱い者いじめなんかしてない』って言ったけど、言ってすぐに今してることが悪いことだって思ったにょろ。
でも、認めたくなかったからはるにゃんといい合いになって、結局取っ組み合いのけんかになっちゃったにょろ」
うっかりせいぎの味方の正体をばらしてしまっているが、本人はそのことに気づいていないらしい。ただ、けたけたと笑っていた。
そういえば、前にハルヒが戦隊モノにはまって、自作の衣裳で走り回っていたことがあったのを思い出した。
俺もその横にブルーとしてくっついていたのだが、結局途中ではぐれてしまって、結局ハルヒを見つけたのは、日が暮れてからだった。
そのとき、ハルヒの衣裳が妙にボロボロだったのはこれが原因なのかもしれない。
真相は本人のみが知る、だ。

「だからね、キョンくん。みくるに冗談言うときはちゃんと冗談って分かるように言うこと!みくるってば、冗談通じない子だからねっ」
鶴屋さんはそう言い残してどこかへ行ってしまった。
残された俺は、ひみつ基地に行くのがすっかり遅くなってしまったことに気づき、急いで階段を上った。
結局、かなり怒られはしたものの、特に何事もなく夏休みの計画が発表されていった。
その内容はキャンプや花火大会や夏祭り、他にも海水浴や、不思議探索と言うのもあった。
「いい?全員必ず参加すること!それじゃ、解散!!」
ハルヒの号令とともに各々が思うように活動を始めた。
と、言っても部屋から出るわけでもなく、扇風機の前であぐらをかいて座って涼んだり、その横で読書をしたり、
かと思えば、ボードゲームをはさんで睨みあったり、夏休みの宿題を始めたり。
しばらくしてから、長門が本をたたんでこの日の活動が終了する。
今日は半日授業だったから活動終了は五時頃だ。先週も半日授業で、同じように活動したけれども、家に帰ったのは三時頃。
ちなみにお昼ご飯はお弁当を持参した。
「そういえばさ、ハルヒ」
俺は帰り際にあることに気づいた。
「夏休みって学校開いてるのかな」
俺は夏休みは出校日以外に学校に来たことがない。めんどくさかったし、何より夏休みになってまで学校に来たくなかったからだ。
「開いてるに決まってるじゃない。先生も毎日来てるのよ」
ハルヒが当たり前のようなことのように答えた。
俺たちは長い夏休みのことを話しながら家へと帰る。
今年の夏休みはきっと楽しすぎて短く感じるのだから。
俺はそんな期待通りの夏休みになることを願った。


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