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キョンが出て行った後、部屋の中にはただ静寂だけが残された。
運びかけのソファー、少しゆがんだ位置に置かれたテーブル、それらが無言のまま、悲しみにくれる僕を見つめているようだった。
ほんの数分前まで、キョンとの幸せな将来が訪れることを信じて疑わなかった僕の心には、いまポッカリと穴が開いてしまったかのような空しさだけが残っている。
キョンはこの後どうするつもりなのだろうか。涼宮さんに会うために閉鎖空間に侵入し、そして……
僕を、いや僕だけではなくキョンと涼宮さんが関わったすべての人々を見捨てて、新しい世界へと旅立ってしまうのだろうか。それとも再び、キョンは僕達の前へと戻ってくるのだろうか。
例え涼宮さんのためとはいえ、みんなを見捨てるようなことをキョンがするとは思えない。きっとこちらの世界に戻ってくるはずだ。
違う! 自分の心に正直にならなければならない。
僕はキョンが僕ではなく涼宮さんを選んだことが悔しいのだ。他の誰かは関係ない。これは僕とキョン、それに涼宮さんの問題なのだ。だから、最後まで見届けなければならない。この物語の行く末を。
例えその結末が、僕にとって、どれほど残酷な結論をもたらすことになろうとも。それが僕とキョンの、そして僕と涼宮さんのけじめの取り方だからだ。
涙を拭い、下唇を噛みしめて立ち上がる。
きっと、いや必ず、キョンは閉鎖空間からこちらの世界へと戻ってくる。きっと最後は涼宮さんではなくこの僕を選んでくれるはずだ。
もう一度涙を拭い、結末を見届けるために、玄関のドアノブに手をかけて出て行こうとした時、不意に藤原の言葉が頭に思い浮かんだ。
『アイツは必ずこちらの世界へと帰ってくる。なぜならそれは規定事項だからだ。詳細は……禁則だ。教えることはできん』
「そう、きっとキョンは帰ってくる。僕のもとへ」
小さな声で反芻して、僕は玄関のドアを開けた。
 
 
~第三章 規定事項と閉鎖空間~
 
 
朝比奈さんの後に続いて、北高へと続く坂道を駆け上る。高校三年間通いなれた通学路で何の変哲もない道のりのはずだが、車道を車が通り過ぎるたびに、朝比奈さんは身体をびくっとさせて、何かを警戒しているようなそぶりを見せた。
「ハルヒは北高にいるんですか?」
走りながら朝比奈さんに尋ねると、朝比奈さんはこちらを見ることなく、まっすぐ前を向いて走りながら答える。
「わかりませんが、おそらく……閉鎖空間の中にいるはずです。北高の裏門で古泉くんと待ち合わせをしていますから……詳しいことは古泉君が知っているはずです」
「古泉はいまどうしているのですか」
「詳しくは知らないのですが、古泉くんも涼宮さんを助けるために奮闘しています。でも、そのためにかつて仲間だった機関の森さんや新川さんに追われているようです。だからわたしがキョンくんを迎えに行くことに……」
あの日の森さんと新川さんの姿が脳裏に思い浮かんだ。畜生、いったい何が起こっているんだ。やり場のないイラつきのような感情が胸にこみ上げてくる。
ふと、先ほど飛び出してきたアパートの佐々木のことが心配になってきた。振り向いて確かめはしなかったが、あの時佐々木は泣いていた。あの気丈な佐々木がだ。
そのことを思うと、なぜか胸が締め付けられるように苦しくなる。もしかして、俺はいまでも佐々木のことが好きなのか。たんなる親友の枠を超えて、佐々木に特別な感情を持っているのだろうか。
だが、なぜかその気持ちを否定しようとする自分がいることにも気づく。なぜだろう。その理由を俺は知っているはず。なのに言葉にすることができない。
まるで、夢の中の卒業式の日の帰宅の光景のように、それを言葉にして認識することを躊躇している。
佐々木の部屋に九曜がいたことも気になる。佐々木にしてもハルヒがいなくなったことについて知っているような口ぶりだった。まさかこれは佐々木が望んだことなのだろうか。
俺とハルヒの関係、そして俺と佐々木の関係。考えてみれば両方とも奇妙な間柄である。そしてその奇妙な関係を言葉で言い表すことのできない自分にイラつきを覚える。
フラッシュバックのようにさまざまな思いが断片的に交錯する中、ようやく俺達は北高の校門前にたどり着いた。
春休みで、三年生が卒業してしまったということもあり、若干人が少ないような気もするが、運動部とおぼしき一団が一生懸命練習している掛け声がグラウンドから聞こえてくる。そこにはごくありふれた日常が存在していた。
そう、俺とハルヒもつい数日前まではこのありふれた日常の中にいたはずなのに。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
『いや、いまはそんなことを考えている場合じゃない。目の前のことに集中しなければ』
そう自分に言い聞かせ、雑念を振り払うかのように朝比奈さんに尋ねる。
「古泉はどこですか?」
「裏門で待っているはずです。なるべく人目につかないように裏門に回りましょう」
そう言いながら、朝比奈さんは校門の中に入り、なるべく人のいない場所を通りながら裏門へと向かう。俺もその後を追いかけた。
裏門に到着し、朝比奈さんはキョロキョロとあたりを見回して古泉の姿を探しているようだったが、その表情がだんだんと焦りの色を帯びていくのが明白に分かった。
「おかしいわ、確かにこの時間に裏門で待ち合わせをしたはずなのに」
腕時計をチラッと見て時間を確認しながら独り言のようにつぶやく。
「何かの事情があって遅れているのかもしれません」
「それならいいのだけど。もしかしたら機関の人たちに連れて行かれたのかも」
「それでも……森さんや新川さんなら古泉に手荒な真似はしないでしょう」
新川さんの言葉を思い出しながら、まるで自分に言い聞かせるように、朝比奈さんに言葉をかける。
「でも、でも、古泉くんがいないと閉鎖空間の中に入ることができないわ」
「落ち着いてください、朝比奈さん」
涙目になりながら取り乱す朝比奈さんの両肩を抱いて、とりあえず落ち着くように促した。
「もしそうなったとしてもきっと何か方法はあるはずです。それに古泉も捕まったと決まったわけじゃない。いまはとりあえず隅の方に隠れて古泉を待ちましょう」
「その必要はないですわ」
唐突に横から声をかけられ、反射的に声のした方向に視線を移す。声をかけたのが、かつて朝比奈さんを誘拐した橘京子だと認識した瞬間、
「うっ」
背後で朝比奈さんの声がするのが聞こえた。
「な!」
慌てて朝比奈さんの方を振り返ると、藤原が意識を失った朝比奈さんの身体を抱きかかえている光景が眼に飛び込んできた。
「お前ら!」
俺が飛びかかろうとするのと同時に、藤原はナイフのようなものを朝比奈さんに突きつける。
「おっと動くな」
「くっ、罠か」
「罠? くっくっく規定事項と言ってもらおうか」
「どうでもいい、朝比奈さんを放せ」
「別に僕は朝比奈みくるに危害を加えるつもりはない。ただ、こうでもしないとあんたは僕達の話を聞いてくれそうにないからな。朝比奈みくるがあんたをここに連れて来ることは前々から分かっていた。
規定事項だからだ。そして、あんたをここに連れて来たことで、朝比奈みくるの役割はもう終わったということだ。後はあんたが涼宮ハルヒに会いに行く番だ」
「つまり、俺達は最初からお前達の監視下にあったというわけか」
歯軋りしながら睨みつける俺を嘲笑するような目で見ながら、藤原は、朝比奈さんを抱えたまま、あきれたようなポーズをとる。
「ふっ、理解力のない奴だな。規定事項だと言っているだろ。わざわざ監視などしなくても、朝比奈みくるがここにあんたを連れてくることは予定された行動なのだよ」
「そしてあなたにはこれから閉鎖空間に侵入して、涼宮ハルヒを止めてもらわねばなりません」
背後から橘京子の声が聞こえた。声のした方向を振り向き、橘京子を睨みつける。
「そんなことよりも、先に朝比奈さんを放せ」
「朝比奈さんには手を出さないと約束します。それよりもあたし達の話を聞いてくれませんか」
「…………」
あくまで冷静な様子で話し合いを求める橘京子から、以前会ったときには感じなかったはずの無言の圧力のようなものを感じ、思わずたじろいでしまった。
見た目は普通の女子高生とはいえ、やはり訓練された組織の一員ということか。
橘京子の発する気迫のようなものに気圧されて言葉を発せられないでいると、彼女は俺が黙っていることを肯定と受け取ったのか、いまの状況を淡々と説明し始めた。
「佐々木さんから説明を受けたとおり、いま現在も涼宮さんが佐々木さんの能力を持っています。そして、彼女はその能力を使いこの世界を破滅に導こうとしているのです。
いま、この世界は一見何事もなく平穏無事に見えますが、実は涼宮さんの創造した閉鎖空間によって、あたかも空気を入れすぎた風船がパンクするかのように、内側から崩壊させられる直前なのです。
だから、あなたには閉鎖空間の中に侵入し、涼宮さんを止めて来てもらいたいのです」
いきなり何の前触れも無く世界の終焉が目の前に迫っていると言われて、はいそうですかと信じられる人間がいるだろうか。もし、いるとしたら、そいつはよほどのお人よしだろう。
しかし、いまの俺にはそれを信じるに足るだけの理由がある。そしてふたりの様子から察するに嘘を言っているようには見えなかった。
もちろん、それが演技と言う可能性も否定できず、なにより、こいつ等は信用できない。だが、朝比奈さんが人質に捕られていることを考えると、無下に突っぱねるわけにもいかない。どうするべきか。
そんな俺の疑問や動揺に構うことなく、橘京子はごく自然なことのようにスッと片手を俺の方へと差し出した。
「な、なんの真似だ」
「古泉さんは涼宮さんに呼ばれて既にあちらの世界に行ってしまいました。だから、あなたが閉鎖空間に侵入するためには、嫌でもあたしの能力を使わなければならないのです」
「迷うことはないだろ。それが目的であんたはここまで来たんだから。それにこれは規定事項だ。あんたが閉鎖空間に行くことも、この世界に戻ってくることもな」
悪態をつく藤原に支えられて気を失っている朝比奈さんの様子を一瞥する。
「朝比奈さんなら心配いりませんわ。あたし達が責任を持って身の安全を保障します」
決してふたりが信用できたわけではないが、いまの俺には橘京子の言葉に従うしか選択肢がないようだ。せめて長門か古泉がいてくれれば……
このときほど自分が一般人であることを悔しく思ったことはない。だが、いまさらそれを悔いたところで仕方がない。覚悟を決めて俺は橘京子の手を掴んだ。
掴んだ瞬間、時間移動の時のような強烈な眩暈を感じた。予期していなかった現象に面食った時にはもう遅く、俺の意識は段々と遠くなっていった。
 
 
 
 
薄暗い部屋の中でうっすらと目を開ける。頭がぼんやりとしていて自分の置かれている状況がよく把握できない。あれ、ここはいったいどこだろう。確か橘京子の能力で閉鎖空間に来たはずでは……
だんだんと意識が覚醒して、俺がいま倒れている場所が自分の教室だということにようやく気がついた。ぼんやりとした頭を左右に振りながら、ゆっくりと立ち上がる。
周囲を見回すと、教室の中には誰ひとりいない。俺をここに連れてきたはずの橘京子の姿すら見えなかった。だが、この肌にまとわりつくような奇妙な感覚が、ここがかつて俺が訪れた閉鎖空間の中であることを確信させた。
「古泉! 橘! おい、誰かいないのか!」
無人の教室の中で呼びかけてみても、返事を返すものは誰もいない。どうやら俺の声の届く範囲には誰ひとりいないらしい。ふと、教室の窓越しに外を見る。
古泉と来たときのように巨人が暴れていないことを確認して、少しだけほっとした。
針一本落ちる音さえ聞こえてきそうな静寂があたりを包み込む中、大きくため息をついて教室を出ようと扉に手をかけた時、ふと、奇妙な違和感に襲われ、立ち止まる。
周囲の風景に見覚えがある。いや、ここは一年間通いなれた三年生の教室だし、閉鎖空間には古泉に連れられて何度か来たことがある。だから周囲の景色に見覚えがあっても不思議ではない。
しかし、いま感じた違和感はそういうものではない。なんというかもっと毎日毎日頻繁に見ているようなそんな既視感だ。だがこのとき、それが何かということには気がつかなかった。
とりあえず、このままここにいても仕方がない。ハルヒか、古泉か、最悪の場合、橘京子を見つけなければ、俺はここから出ることはできないのだから。
教室の扉を開き、いつも通いなれた通学路を通うように、放課後の日課である文芸部室への道のりを進んでいく。まるで条件反射のように自分の足が自動的にその方向へと進んでいるようだった。
まあ、俺自身としても『おそらく文芸部室に誰かいるだろう』ぐらいの気持ちがあったことは否めない。だが、文芸部室のある旧校舎へと続く道のりを進んでいるうちに、ようやく先ほど感じた違和感の正体に気がついた。
「まさか……これは……」
そう、ようやく思い出した。目の前にある景色、それはいつもいつも俺の夢の中に出てくる風景ではないか。
いま自分のいる場所が、いつもの夢の中ではないかと見間違うくらい目の前の景色は、いや景色だけでなく肌にまとわりつく感覚や匂い、あたりを包む静寂までもが夢と酷似しているように思われる。
唯ひとつだけ夢と違うことは、目の前の景色が夢に出てくる風景であるという認識に俺が到達したことだ。全身の毛穴から嫌な汗が噴出してくるような感覚に襲われる。
だが、そうしている間にも、俺の脚は旧校舎の廊下を進み、文芸部室の前までやって来た。
夢の中ではどうだったのだろう。
俺がこの扉を開けると、ハルヒがひとりで部屋の中にいる。
ハルヒは俺の姿を見るや否や、俺に抱きついて胸の中ですすり泣く。
突然、ハルヒが怒り出し、ナイフを持って俺を襲ってくる。
俺はハルヒに殺害される瞬間目を覚ます。
もし、夢の中と同じことが起こるのであれば、この扉を開ければ俺は死ぬことになる。むざむざ死ぬことを知って部屋の中に入ることもない。
だが、ではいったいどうすれば良いのか? 他に俺の取るべき方法があるのだろうか? 確証はないが、文芸部室以外にどこにも行くところがないような気がする。
「規定事項」
藤原の言葉が頭にこだまする。俺がここに来ることも、そしてハルヒに殺されることも、すべて運命だというのか。このまま死を覚悟して部屋の中に入るか、それとも他の方法を探し出すか。
『文芸部室』とプレートの掲げられた扉の前で、しばらく悩んだ後、俺は覚悟を決めてドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開けた。
薄暗い部屋の中にある団長席が眼前に姿を現し、俺は息を呑んだ。普段から見慣れているはずの風景が、いまのこの瞬間は異様という言葉がしっくりと当てはまるほど不気味に感じられた。
「ハルヒ?」
団長席に向かって静かな声で呼びかける。しかし夢の中のようにハルヒは姿を現さない。ドアノブを放し、一歩ずつ、まるで薄い氷の上でも歩くかのように、ゆっくりと部屋の中に入る。
ギィー、バタン
背後でドアが閉まる音がした。この部屋のドアは勝手に閉まらなかったはずだが……
だが、後ろを振り返るような余裕は無い。ゆっくりと団長席に近づき、パソコンのディスプレイの向こう側に回りこんで、ようやく文芸部室が無人であることを知った。
「はぁー」
大きく溜息をついて、団長席へと座り込む。全身から力が抜けていくのが分かった。
それもそのはずだ。この部屋に入るまで、俺は自分が死ぬかもしれないという覚悟でドアを開いたのだから。何もなかったことは喜ぶべきことだが、あまりに何も無さ過ぎて気が抜けてしまったのだ。
「さて、どうしようか」
独り言のようにそうつぶやいて、部屋の中を見回すと、隅の方に人形の残骸のようなものが積まれていることに気がついた。
「何だこれは?」
団長席からおもむろに立ち上がり、残骸の山に近づく。その山の中の人形の頭を手に取り、こちら側を向けて見て、驚愕のあまり思わず尻餅をついた。
「な、何だこれは!」
その顔は誰よりも見覚えのある俺自身の顔だった。あらためて残骸の山を見て、その人形すべてが俺に似せて作られた物であることを知る。
自分を模して作られた人形がすべて壊され、ゴミの山のように文芸部室の隅に積まれている。そんな光景を見て果たして平然としていられるだろうか。
驚きとショックでしばらく尻餅をついたまま呆然と残骸の山を眺めていると、不意に背後に人の気配を感じた。
そのままの姿勢で振り向くと、いままで何も無かったはずの団長席の上の空間に赤い球体が現れ、それはだんだんと人の形に変形しながら、団長席の手前に着地する。
ズボンをパタパタと払いながら立ち上がり、古泉とおぼしき赤い人影に声をかける。
「遅かったじゃないか、古泉」
「すみません。途中、色々な妨害やイレギュラーな出来事が起こったので、手間取ってしまいまして」
そう言った古泉の姿は水面に映る人影のようにゆらゆらとしていて、一年の時に一度だけハルヒといっしょに閉鎖空間に来たときよりも不安定な印象を受けた。
「大丈夫なのか、いまにも消えそうだが」
「それは僕の意思ではどうにもなりそうにありませんね。涼宮さんとあなたの親友であられる佐々木さんがどうお考えになるか次第です」
古泉の口から佐々木の名前が出てきたことに少しだけ違和感を覚えた。
「聞きたいことは山ほどあるんだ。途中で消えたりするなよ」
「できる限り努力はします」
古泉の相変わらずの口調に少しだけ安堵した。しかし、この後古泉から告げられた事実、そして託された決断は、俺の想像の範疇を遥かに超えるものだった。
 
 

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