―……

―……

―……あなたは誰

「……長門有希」

―……同期失敗。対象をインターフェース『パーソナルネーム長門有希』の異時間同位体と認証できず。もう一度聞く。あなたは誰

「ナガトユキ」

―質問を変更する。あなたの存在する時間平面及びその時系列上の情報統合思念体があなた……長門有希に出した指示は何

「……」

―情報統合思念体の自律進化を実現するために必要な情報を極めて高い可能性で所有する一知的有機生命体の観測、場合によっては保護。それが対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェースとしての、わたしの存在意義

「……」

―訂正。対象を暫定的に「異時空間同位体」と仮定義

「あなたはわたしと同じ。長門有希。でも違う」

―ノイズ発生。無視できる程度

「一番奥の、一番大切なところが違う」

―ノイズ発生。処理速度著しく低下。原因解析不可

「……あなたは誰。わたしと何が違うの」

―エラー発生。緊急リセットアッププログラム作動要請……

 

 

 

 アナタハ、ダレ?

 
 

 ***



 

 長門がおかしい。

 

 いや、長門有希という人物(と敢えて言っておく)が色んな意味で「普通じゃない」ことは、一足す一が二という数学界の大前提よりも明々白々な事実であるからして、今更詳細について言及する必要もないだろう。問題はその長門の様子が更に「おかしい」ということだ。

 

 SOS団の一員として一年近く同じ時間を共有し、トンデモな事件を共に乗り越えていくうちに、俺は長門の白く磨かれたマーブルタイルのような顔から、感情の発露を疑わせるような微妙な表情の変化を読み取ることができるようになっていた。

 とは言うものの、それはあくまでも俺の想像の範疇を逸脱したものではなく、では本人に直接確認してみたらどうだと思うかもしれないが、そもそもが論理と合理性の塊である長門に感情なんてものを理解させ得るのかどうか、それは俺個人の希望とは全く無関係の問題であり、つまるところ長門が時折見せるようになった感情の一片らしきものは、極言すれば俺のイタイ妄想の産物でしかない可能性も捨てきれないと先に断っておく。

 

 さて、まずは今現在の俺を取り巻く状況と、SOS団もといハルヒとユカイな仲間達の近況から説明しよう。ちょっと長くなりそうだが、頑張ってついてこい。

 

 

 

………

……

 

 

 

 宇宙史上最強の電波女こと涼宮ハルヒとの偶発的な出会いから始まって、思い出すのも憚られる閉鎖空間での一件、世にも恐ろしいループ夏休み、C級自主制作映画に奔走した文化祭、長門が起こした世界改変、謎の連中による朝比奈さん誘拐事件(あれは未だに脳を掠めては俺の怒りを激しく駆り立てる)と、まぁ思い出いっぱい夢いっぱいな一年弱を過ごしてきた。散々振り回されながらもどこか楽しんでいる自分がいることを、頑なに否定するなんて野暮なことはもうしない。平団員にもプライドってもんがあるのさ、それなりのな。

 学年末試験の散々たる結果にひとしきり絶望させられた後、高校生活初めての春休みを迎えた。次学期までの宿題もなく、久々に純度100%のモラトリアムを満喫しようと胸を躍らせていたのだが、そんな期待が角砂糖五個入れたカフェオレ並みに甘かったことはもはや言うまでもない。

「はい、これ。春休みのスケジュール一覧ね。特にアンタはほっといたらどうせ食って寝ての自堕落な生活しかしないんだから、あたしがこうやって外に出るきっかけを作ってあげてることに海より深い感謝の意を示しなさい」
 終業式後のSOS団今年度最終ミーティングで、俺の春休みの予定八割方がつつがなく決定した。相変わらず無茶苦茶な言い分ではあるが、大方図星なのでうまい反論も見つからない。手渡されたB5のコピー用紙に一瞥をくれると、馬鹿でかいゴシック体の見出しの下に小さいフォントで何やら色々書き込まれている。SOS団制作映画第二段? あんな茶番と呼ぶのもおこがましいもんもう一度やれってのか? 馬鹿は休み休み言ってくれよ……ってそのための春休みとか言う気じゃないだろうな。
「えー、いいですか。我々SOS団は、今年の五月をもって結団一周年を迎えます! 記念すべきことよ。あたしは今から楽しみで夜もマトモに眠れないわ」
  小学生だって十月からサンタを待ちわびることはないだろう。朝比奈さん、あなたも嬉しそうに手を合わせている場合じゃありませんよ。あなたと出会って一年と言えば、少しは聞こえがいいんですがね。

「しかし! 来るべきその日をただぼーっと待ってるだけじゃダメなの。いつ何時でもあたしたちはSOS団。この大事な時期に無駄にできる時間なんて一秒もないのよ! そうよね、古泉くん」
「ええ、ごもっともです。時は金なり……かつての先人は巧いことを言ったものですね」
 同意を求めるような高原風爽やかスマイルは今なお健在である。俺は納得していないぞ。大体また各種イベントの準備で粉骨砕身しなきゃならんのはお前と「機関」の人たちだろうに、どうしてそうニヤニヤしていられる。お前の真顔は笑顔なのか? 顔の筋肉が痙攣を起こしているのかもしれん。もしそうなら小さじ一杯くらいは同情してやらんでもない。
「そう。タイムイズマネーよ。ってことで、春休みもSOS団は真摯に課外活動に励みます! 何となくダラダラ過ごしてたんじゃ新入部員に示しがつかないもん」
 心配するな。仮にダラダラ過ごしたとして、こんな一県立高校の一同好会未満団体の一挙手一投足に注意を払っているほど暇を持て余している中学生諸君などいやしない。宇宙人や未来人や超能力者やその他諸々ご一行様を除いて、一体誰が好き好んでこんなトンチキな団体の行動を逐一観察するだろうか。考えたくもないね。俺らを観察する存在ってのは往々にして、何かしら意味不明なぶっとんだ設定の連中に相違ない。例えば、異世界人とか。

……おい」
「なによ」
「一応聞いておくが、この不思議探索ツアー@東京ってのは何だ」
「読んで字の如しよ。あたし思うんだけど、やっぱり東京って街全体がどこか怪しい気がするのよね。国会議事堂とか東京都庁とか、よくよく考えれば裏がないほうが疑問だわ。人も多いし。母集団が大きいってことは、それだけ不思議スポットや怪しい人間が存在する可能性も増えるはずと読んだわけ」
 政府の陰謀でも暴こうってのか。やめとけ、この国の公安は意外と手ごわいんだぞ。なんせ俺は自転車無点灯のかどで週に三回注意を受けたことがあるからな。あんときゃ流石に何か陰謀めいたものを感じたね。
「バカね、法に触れるような真似なんてするわけないじゃない。あくまで秘密裏に、よ。せっかく集めた情報が警察沙汰に巻き込まれたせいで漏洩なんてことになったら、興醒めもいいとこだわ」
「ご安心下さい。その点につきましては、こちらでなんとかしましょう。知り合いに現職のスパイがいましてね、隠密行動のノウハウは彼の指南を仰ぐことにします」
 怪しい行動を取る怪しい集団をとっつかまえるのが警察の仕事だとしたら、お前の余計なお節介は公務執行妨害に該当するんじゃないのか。
「考え方によってはそうかもしれませんね。ですが、僕らの公務……則ちSOS団の公務の遂行とどちらが重要かなんて、ここで僕が言を尽くさずともおわかりかと思いますが」
 心底わかりたくもない。あと顔が近いぞ古泉。

「そこ、私語厳禁! いい? 今回の強化合宿は一年を締めくくるに相応しい一大イベントになるわ。気を引き締めてのぞむこと。準備を怠って後で泣きを見てもあたしは知らないからね。キョン、わかった?」
 なんで名指しなんだ。仮にも参加率十割の俺にその言い種はないだろう。

「じゃ早いけど今日は解散。明日から早速映画第二段の予告編撮影よ! 必要な機材はさっき渡した要項に書いといたわ。何かわからないことがあったら速攻で連絡するのよ。アデュー!」
 

この映画撮影がこれまた艱難辛苦の連続で、相も変わらず朝比奈さんは舌足らずな口調で台詞を噛み噛み、長門は前作との整合性を一切無視した極めてご都合主義な再登場をかまし、古泉に至っては明らかに使いどころが見当たらなかったせいで序盤以降マトモな出番なしときたもんだから、この予告編とやらがいかほどの出来映えであるかは想像するにそう難くないはずだ。皆まで言うな、俺が一番わかっている。まぁ、このことは別の機会に話すことにしようか。

 

こうして何やかんやあった後、芽吹いた木々が静かに春の訪れを待つ三月下旬、三泊四日の移動は夜行バス、宿泊はビジネスホテルという格安貧乏ツアーが幕を開けたのだった。もっとも、バスもホテルも古泉が「機関」を通じて手筈を整えたので、実際にかかる経費は向こうでの移動代や食事代くらいのものである。恵まれているんだかいないんだか。
 ハルヒは東京への道中でもトランプやらUNOやらでゲーム大会を開催しようとしていたらしいが、夜の夜中に出発したこともあってみんなフラフラ、果てにはハルヒ本人が乗車して半時と経たないうちに舟を漕ぎ出す始末。出発して一時間が経つ頃には、起きているのはどういうわけか目が冴えて眠れない俺と、高速道路脇の電灯を頼りに読書に勤しむ長門だけになっていた。
「今回こそはおかしなことにならなきゃいいんだがな」
「……」
 宿泊系のイベントで一番苦労させられるのはいつも長門だ。次点で俺か古泉。朝比奈さんも色々苦労しているのかもしれないが、少なくとも事の真相には触れていないケースが多い。言わずもがな、ハルヒは論外だ。

「お前はなるべく普段通りにしていてくれ。例の同期だっけ? そんな感じの能力も使わないことにしたわけだし」
「……」
「但し、緊急事態の場合はやむを得ん。特に最近何やらけったいなことになってきてるからな。その代わり俺も全力でサポートするし……まぁ大したことはできないかもしれんが」
 事実、安易に長門に頼ろうとすまいという俺の殊勝な決意表明は、俺を取り巻く様々な不思議組織や奇天烈パワーによってあっさり打ち砕かれてしまうのであった。しかしこれは完全無欠の一般的地球人である俺からしてみれば不可抗力としか言いようがないし、俺は俺のできる範囲でやるべきことはやっているつもりだ。本当だぞ。
「大丈夫」
「……そうか。安心したよ」
「約束、したから」
 高速道路の継ぎ目を踏む規則的な音が、次第に俺の意識を奪っていった。眠りにつくかつかないかの瀬戸際をうろつきながら、俺は長いトンネルの中でふとナトリウムランプに照らし出された長門の横顔を見た。もうこの時既に夢現な状態だったのかもしれないが、後でフロイト先生にお尋ねしたところ、俺は睡魔に魂を売り渡す直前、長門がこんなようなことを呟くのを耳にしていたらしい。

「……あなたは誰」

 

翌朝、何やらスウィーティな夢に目尻と鼻の下を下げに下げまくっていたらしい俺を襲ったのは、団長様直々のモーニングコール改めモーニング馬場チョップであった。
「……ってぇ! 何しやがる!」
「いつまでマヌケ面晒して爆睡してんのよこのバカキョン! さっさと降りる支度しなさい!」
 言うが早いか、ハルヒは遊び道具満載のナップザックをひっつかんでバスを降りていった。なんだ、意外と呆気なく到着しちまったんだな。
「おはようキョンくん。良く眠れました?」
 鋭い角度から放たれた全力馬場チョップが俺の脳をスリープモードから完全に復帰させて数十秒の後、天の国の管弦楽団が奏でるクラシックのような美声が俺の心のドアをノックした。正真正銘のモーニングコールってやつだ。
「あ……朝比奈さん、おはようございます。ハルヒの奴また勝手に『後の世の戒めとする』とか何とか言って、俺の顔撮ってませんでした?」
「ふふっ。わたしが起きた時にはしていませんでしたよ。じゃ先に降りてますね」
 なんて清々しい朝なんだろう。彼女が毎朝モーニングコールを担当してくれるなら、公園のベンチだろうが橋の下だろうが俺は何処でだって雑魚寝してやれるだろう。無論そんな場所に朝比奈さんを一緒に寝かせるわけにはいかないから、このifが成立することなんて……あれ。あったような気がする。

「おはようございます。こういった旅も、なかなかいいものですね。手段あっての目的、ということでしょうか」
 朝っぱらからの解説口調は御免こうむる。
「失礼しました。敢えて新幹線や旅客機という手段を用いなかったところに、涼宮さんらしさが表れているのかもしれないと思ったんです。もっとも皆さんお疲れのようで、恥ずかしながら僕もですけどね、往路を殆ど寝て過ごしてしまいましたが」
 タイムイズマネーとか言ってたのは何処のどいつだ。
「物は言い様ですよ」
「それで、ハルヒはへそ曲げてるのか?」
「とんでもない。涼宮さんの精神状態は一言で言えば興奮、いえ、大興奮ですね」
「……そりゃ結構」
「では、僕も行きますね。長門さんと一緒に早く降りてきて下さい」
 すっかり忘れていたのだが、俺の隣の窓際に座っていた長門は、通路側の俺が邪魔で出られない形になっていた。こいつはいつ寝たんだろうか。ふと手元の分厚いハードカバーに目をやると、巻数表示が二から三へと変わっている。徹夜か?

「悪い長門、今どく」
「涼宮ハルヒは」
「ん?」
「あなたの寝顔を撮影してはいない」
「そ……そうか」
「そう」
 やっぱ徹夜だったのかな……。

 こうして我々SOS団は、日本国最大にして最も怪しい(ハルヒ談)都市、不夜城東京へと足を踏み入れた。品川駅のバスターミナルからビジネスホテルまでは徒歩十分足らず、早々とチェックインを済ませた俺たちは、多目的フロアへ集合した後、ほっと一息つく間もなく定例不思議探索ツアーへと邁進するのであった。
 この時、俺の貧弱なボキャブラリーの中に「順風満帆」という四字熟語はかろうじてまだ存在していた。しかしどうやら俺の脳内字引はこの日を境に涼宮ハルヒ監修のものと入れ替わってしまったらしく、この珍妙なセンチメンタル・ジャーニーが一段落を向かえるまでの間、「し」の項を探して順風満帆の「順」の字が見つかることはついぞなかった。

 「波瀾万丈」、「驚天動地」、「天地神明」。好きなように形容すればいいさ。

 

 

 

「キョン、ぼさっと立ってないで写真写真! ほらみくるちゃんもっと寄って。有希はここ」
「ひうぅ……みんな見てますよぅ」
「いいじゃない、外国人にも巫女萌えが通じるってわかっただけでも収穫だわ」
「おい、後ろのデカい像見切れちまってるけどいいのか」
「いいわけないでしょ! 阿云の像もあたしたちもバシッとキレイに写しなさい!」
 ズームやワイドをぐりぐりいじり回して、何とか全部収まったのでシャッターを切る。やべ、ブレたな今。
「さ、中行きましょ。ダッシュよみくるちゃん!」
 阿云の像でピンときた人ならもうお気付きかと思うが、SOS団ご一行は今浅草は浅草寺にやって来ている。神仏関係の建造物に不思議じゃない場所なんてあるわけないじゃないとはハルヒの談。その点に異論はないが、さっきから土産屋に寄ったり写真撮ったりと、小学校の修学旅行に産毛がちょろっと生えた程度のことしかしていないというのはどうだろう。まぁいいか、こんな人出の中で無意識変態パワーが炸裂されでもしない限り俺は平穏無事でいられるわけだからな。

 どことなくインターナショナルな衆人環視の中で写真撮影を滞りなく済ませた後、いよいよ境内へと足を踏み入れた。成る程、確かに何となくそれっぽいオーラを感じるような気がしないでもないような。地元のしょぼくれた神社とは格が違う。平社員と専務くらい違う。
「見事なものですね。見えざる神々の力に畏敬の念から自ずと頭が下がるような、荘厳な気分です」
 超能力者がそれを言うか。
「僕たちはちょっと特殊な『一般人』ですよ」
 お前は一般人のカテゴリーからは逸脱してると思うぞ。
「随分なことをおっしゃるんですね。それはそうと、あなたにお話しておきたいことがあるんです」
 またこれか。勘弁してくれ、俺はこんなところにまで来てお前ら「機関」の抗争に巻き込まれたくはないんだ。
「いえ、今回は少し様子が違います」
 ハルヒに引っ張られて境内を駆けずり回る巫女バージョン朝比奈さんを遠目に眺めながら、俺は渋々左耳のチューニングを古泉の回りくどい解説に合わせた。

「始めに言っておきます。これは僕の勘……いえ、第六感です。先ほどから何者かの気配を感じるんです。勿論『機関』には連絡を入れましたよ? 東京にも小
規模ですが支部がありまして。僕らと敵対する勢力の存在は確認できなかったとのことです」
 じゃあやっぱりお前の妄想なんじゃないか。お前が色々疲れてるのは俺もわかってる。古泉、無理すんな。今のハルヒなら俺にだって何とか制御できるし、たまには普通に観光気分を味わってみたらどうだ。
「あなたがそんなに僕を気遣ってくださるとは、どういった風の吹き回しですか? 冗談はさておき、確かに今の話は僕の妄想に過ぎません。ですが経験則から言わせていただきますと、僕の勘はなかなか高い確率で当たっているんですよ。やはり人間には何か形而上の力が宿っているのかもしれませんね」
 今度お前にナンバーズの番号でも聞こうか。当たったら一割、いや三割はやろう。
「それは光栄ですね。では最後に一つだけ、これだけは言わせて下さい。というより、僕や『機関』からはこう言うしかないんです」
 糸のような目を鋭く見開いて、いつになく真面目な顔で俺を見つめている。こいつのマジな顔が拝める時ってのは大抵、よからぬ事態の前触れと相場が決まっているんだ。いや、わかってたけどね。わかってても知らんぷりしたくなる時だってあるだろ?
「長門さんと朝比奈さんからは、決して目を離さないで下さい」

 

 古泉の言葉にどんな意味が含蓄されているかなんて知る由もないし、手を顎に当てて考える人よろしく小一時間悩み詰める気にも全くならなかったのだが、一度聞いてしまったことはもうなかったことに出来ないのが人間の性というものであるからして、俺は後の道中常にその言葉に頭を抱えていなければならなくなっ
たなんてのは、察しのいい皆さんならおわかりのことと思いたい。
 ハルヒは参拝を済ませた後も終始ご機嫌であった。そこらで饅頭やら煎餅やらしこたま買い込んでは、町内会バケツリレーのごとく俺と古泉に荷物を放り、すっかり浅草寺おつきの巫女におなりになった朝比奈さんと、訪れる店先々で岡目や天狗の面に熱のこもった視線を向ける長門を引き連れ、アーケード街を悠々自適に闊歩して回るのであった。
「こういう雰囲気って自然と胸が高鳴るわよね。お店の人にも沢山おまけしてもらっちゃったし、やっぱり下町でも東京は違うわ!」
 実に愉快そうに笑う女だ。これが美しい巫女と純朴な文学少女引っさげて現れるんだから、サービス精神が殊更旺盛じゃなくとも懐がゆるまない方が逆に不自然なくらいと言い切ってしまってもいいだろう。

 しかしどういうことだ。見たところハルヒのテンションはプラス無限大に発散しているようだし、朝比奈さんや長門も特に変わった様子はない。ついでに古泉もニコニコしながら荷物持ちに徹している。やはり古泉は心労が祟って若干神経衰弱に陥っているのだろうか。
「ちくしょう、結局気にしてるじゃねえか……」

 古泉の言葉が現実味を帯びてくるまで、ここからそう長い時間はかからなかった。

「次はどこに行くんだ?」
 近くの蕎麦屋で昼食を兼ねた小休憩タイムとなった。
「アンタちゃんとしおり読まなかったの? 次の目的地はね、今日のメーンイベントと言っても言い過ぎじゃないわ」
「……で、どこなんだ」
「萌えの殿堂! オタクの聖地! 秋葉原よ!」
 朝比奈さんの視線がさっきから少し下向きな理由がようやく理解できた。さて、今日は何回コスチュームチェンジがあるのだろうか。我ながら馬鹿なことを考えてるな。
「ハルヒ。これは不思議探索ツアーだよな?」
「そうよ?」
「さっきからそんな素振りは一ナノグラムも見えないんだが」
「バカねぇ、アンタも感じたでしょ? 比類なき神々の力。神秘だわ。でもやすやすと触れちゃいけない領域なのよ。一線を越えてから後悔したって遅いんだから」

 わかったぞ。要するに、今回の合宿も多分に漏れず単なる青春のニ、三ページを埋めるための行事だったってことだ。そうだよな。ハルヒはただ楽しく遊びたいだけなんだ。徒に珍事件を呼び込むような真似はもうしないハズだ。難しく考えることなんてない。色んなところを見て、色んなものを食べて、ついでに色んなコスチュームに身を包んだ朝比奈さんを心行くまで眺める。最高じゃないか。非の打ち所なんてどこにある。
「さ、休憩はおしまいっ! 移動しましょ。いざ、秋葉原!」

 

 


 駅を抜けるとそこは、俺たちにとっては、異世界だった。
「みてみて! ほら! メイドさんがビラ配ってるわよ! 秋葉原じゃこれくらいフツーなの? すごい……すごいわ秋葉原!」
 目の前の非日常的スペクタクルに驚嘆するハルヒ。街中を自宅のリビングにいるかのように平然と歩くメイドさん方を見て、あんぐりと口を開けている朝比奈さん。電気量販店の店頭に並べられた新型パソコンを瞬きもせず見つめる長門。ただただ呆気にとられている俺。ニヤニヤしている古泉。何とも地方者丸出しの情けない秋葉原デビューであった。

「こっから夕食までは自由行動よ。何かあったら各自携帯で連絡取り合って。じゃ、行くわよみくるちゃん!」
「ふぇ!? ま、待ってくださぁい!」
 自由行動なのはお前だけだろうと突っ込む間もなく、ハルヒと朝比奈さんはコスプレイヤーやらメイドさんやらでごった煮状態の雑踏へと消えて行った。頑張って下さい朝比奈さん。ついでにハルヒも、どうせならいいもん見つけてこい。
「涼宮さんが一緒なら大丈夫ですね」
「……いらん心配はしなくていいんだ」
「興を削ぐようなことを言ってすみません。さて、僕らはどうしましょうか」
「お前は行きたいところでもあるのか」
「いいえ、特にありませんが」
「じゃぁとりあえず……」
 視線を脇に移す。これは久々に熱の入った目だな。完全にコンピ研印の電脳スピリットが骨の髄まで染み込んでいるらしい。
「アレだな」
「ええ、それがいいでしょう」

 地元にも電気屋はちらほら点在しているが、流石に「電気街」擁する秋葉原はモノが違った。玄人電脳戦士たちに言わせれば、量販店なんてのは所詮大衆に迎合した素人の玩具屋の域を越えない程度のものなんだろうが、それでも地方の小都市からはるばるやってきたイナカモノにしてみれば、この品揃えの密度たるや圧巻である。
「……」
「好きなだけ見て回っていいぞ。いじるだけならタダだからな」

 言うが早いか、長門は図書館に来た時に劣らぬ程の軽い足取りで最新式らしいデスクトップパソコンへと近づいていった。こうまで生き生きとした長門を見るのも久しぶりだ。読書中の長門もあれはあれで生き生きとしているのかもしれないが、アクティブな長門を見れるのは体育の時間かパソコンをいじっている時くらいなもんだからな。
 長門はしばらくディスプレイやハードディスクを眺めてから、パタパタと小気味のよい音を立ててキーボードを叩き始めた。彼女なりに遠慮しているつもりなのか、タイピングスピードはやや抑え気味だ。それでも並み居るウィザードたちを遥か下に見るレベルの速さであることに変わりはないが。
「それ、何してるんだ?」
「プリインストールされているオペレーションシステムの解析及びプログラムの動作速度の計測」
「……あんまりやりすぎるなよ?」

 

 ウィンドウがひっきりなしに閉じたり開いたりするのを呆然と眺め、そろそろ俺の脳が眼球からの情報伝達を強制終了させると思われたその瞬間、事は起こった。

 

「お? 何だこれ? 急に真っ暗になったぞ?」
 ディスプレイが暗転し、操作を全く受け付けなくなったらしい。長門がおかしなところをいじってしまったのかと思われたが、見れば周りに展示されているパソコンも全てブラックアウトしている。ざわつく店内。
「停電でもなさそうですね。長門さん、これは一体」
「……異常が発生している。外部端末からの強制シャットアウト。プロテクトもかけられていて、復帰は困難」
「どっかにハッカーでもいるのか?」
「……間違ってはいない。これはおそらく人為的な操作」
 何でまたこんな一量販店にハッキングなんて仕掛けるのだろう。何のために? 意味がさっぱりわからん。頭の中のクエスチョンマークを払うのに必死だった俺は、次に起こった事態をうまく飲み込めずに、喉に詰まらせてしまった。
「これは、何でしょうか」

 アナタハ、ダレ?_

「は?」

 アナタハ、ダレデモナイ_

「……」
 ディスプレイに現れた文字を見て、長門は突然膝から崩れ落ちるようにしてその場に倒れた。
「……長門? おい長門! しっかりしろ! 長門!」

 一体全体どうしたってんだ。周囲は騒然となっている。とにかくこのままじゃマズい。ひとまず長門を背負って駅の中の開けた場所まで移動し、様子を見ることにした。古泉、早速予言的中か? 冗談じゃねえ。

 五分ほど経っただろうか。長門は光を知らない赤ん坊のように、ゆっくりと瞼を開いた。
「長門、大丈夫か?」
「大丈夫」
「何があったんです?」
「わからない。ディスプレイに表示された文字が原因で数千を超えるエラーが同時に発生、そこでわたしの記憶は途絶えている」
 長門が倒れた。そうだ。冬の合宿の時と同じだ。間違いない、今のは長門を狙ったハッキングだ。長門の存在を快く思っていない連中の仕業だ。
「くそっ……何だってこんな時に!」
「とにかく、すぐに涼宮さんと朝比奈さんに連絡を」
「その必要はない」
「でも……!」
「涼宮ハルヒの精神状態が不安定になる。不確定性が増大し不測の事態が生じる可能性が高まる。それではだめ」

 冷静に考えたら、長門の言うとおりかもしれない。いや、長門が言うんだからそうに違いないんだ。長門が倒れたなんて聞いたら、ハルヒは俺や古泉以上に動揺するだろう。それが原因で閉鎖空間が発生しないとも言い切れない。長門は狙われている。朝比奈さんは大丈夫なようだが……。
「古泉」
「何でしょう」
「朝比奈さんも危ないかもしれないってのは、例の別の未来人絡みでのことなのか?」
「言いましたとおり、あの話は所詮僕の妄想です。半分は既に当たってしまいましたが」
 その妄想を少しは信じてやるって言ってるんだ。もうちょっとお前も真面目に考えたらどうだ。
「勿論考えています。朝比奈さんに何らかの危険が及ぶとすれば、おっしゃる通り別の未来からやってきた組織によるものと考えるのは至極当然です。ですが確証はない。この前の一件のように、僕たち『機関』と対立する組織が連動しているというようなケースも考えられる」
「でもその対抗組織は動いていないんだろ?」
「はい、そのような報告は入ってきていません」
 だとしたら、もう考えられる可能性はもうこれ一つしかない。
「別の宇宙人、か」

 また厄介なことになったぞ。古泉の予言がいつぞやのノストラダムスのそれより信憑性があると一時的に仮定したら、今回の件に絡んでいる可能性がある勢力は二つ。長門を狙う別口の異星人。あのすかした野郎とそのお仲間、つまりは朝比奈さんとは出どころを異にする未来人。他に考え得る可能性はないと思うが……。
「長門さん、あなたは以前あなたとはまた違った地球外生命体の存在を示唆していましたね?」
「広域帯宇宙存在。適当な呼称は検討中」
「何か痕跡はありませんか? あなたの内部データベースに無理矢理アクセスしてきたとか」
「……わからない」
「そうですか……わかりました。これ以上議論する余地はもうなさそうですね。長門さんの進言通り、このことは涼宮さんと朝比奈さんには言わないでおくこと
にしましょう」




……
………



 とまぁ、こんな具合である。結局この日はそれ以上におかしな出来事もなく、各々がやりたいことをやってホテルへと戻り、ハルヒプレゼンツの罰ゲームつきレクリエーションタイムが予定通り実行された。ちなみに、朝比奈さんのコスプレバリエーションはこの一日で三パターンも増えたことを是非とも特記しておきたい。

 散々っぱら遊び倒し、詩人ダンテも恐れたという煉獄の業火のごとく容赦のない罰ゲーム群で心身ともにボロ雑巾になった俺は、妄想話の続きを話したくてたまらなそうにしている古泉のショートコースパスを華麗にスルーして、烏にも負けないほどの早風呂を済ませ、来たるべき明日に備えベッドへとダイブすることにした。
 しかし、やはり長門だけは最後まで様子が変だったな。急にキョロキョロしたり、呪詛にも似た謎の高速言語を延々と垂れ流したりするようなことはなかったが、どこか深淵な、遠い目をしている気がした。確かに長門は普通の少女に近づいている。でもこんなことでその事実を再確認させられたくはない。長門にはもっと自然で健全な形で、人間らしくなってもらいたいんだ。
「さて、一体どうしたもんかね」
 ううむ、独りごちなんてらしくねえな。やめよう。明日になりゃ何とかなるさ。とりあえず明日にならないと、何とかなりもしないんだからな。おやすみ。




―……
―……
―……またあなた
「……わたしのコトバ、伝わっていない」
―……
「教えてあげたのに。あなたは誰でもない。この世界のあなたは」
―……
「あなたは望んだ。あなたがあなたである世界を。でも、あなたは拒んだ。あなたがあなたである世界を」

―……わからない
「わたしもわからない。何故拒んだの? あなたはわたしになりたかった。だから世界を変えた」
―……わたしは選んだ。この世界を。共に在ることを
「望んでいる。心の底でまだ、あなたは望んでいる。あなたが求めるものはたった一つ。たった一つだけ」
―……違う
「それを手に入れるために、あなたは世界を変えた。障害を排除した」
―……違う……わたしは



 ウソツキ。

 

 

 

***
 

 

 

 慣れない土地を歩き回って流石に疲れが出たのだろう、二日目の朝はのんびりとしたものになった。予定は二時間ばかり繰り上げとなり、菓子パンやカップメンだらけのジャンクなブランチを済ませる間に、時刻は十一時を四半時ほど過ぎていた。
 「ちょっとばかしズレ込んじゃったけど、大丈夫よ。削れるとこ削ってけばちゃんと全部行けるから。食事に時間を割きすぎてたわね……」
 あくまでクワンティティ、ノットクオリティなオバサン根性全開だ。何もオリエンテーリングしているわけじゃないんだから、臨機応変に予定を変更していけばいいだけの話じゃないのか。
「ダメよ、ここまで来て遠慮や妥協は禁物なの。芭蕉も北斎も己の足一つで旅を完遂させたのよ? 鉄道という近代文明に恩義を受けてるあたしたちがこれくらいでへこたれてちゃ、名だたる過去の偉人たちに示しがつかないわ」

 どうしてこう、暴論に変な説得力を持たせたがるのだろうか。決してソフィストではないが、ハルヒの弁論述からはただならぬ雰囲気が感じ取れる。選挙にでも出てみたらどうだ。古泉が秘書、長門が会計、朝比奈さんがウグイス嬢。ちょっと頼りないかな。鶴屋さんは後援会名誉会長が適任だろう。俺? 選挙カーでも運転しようか?
「こっから山手線で渋谷まで行ってハチ公見るの。忠犬ハチ。泣かせる話よね。買い物とかはいいわ、そんなに興味ないし。その後この紫のやつ……半蔵門線? 半蔵門線で永田町まで」
 本当に行くつもりなんだな、国会議事堂。頼むから何も起きないでくれよ、ハルヒの変態パワーで政界が突然シフトチェンジなんてことになれば、俺の尋常なる毎日が根底から覆されることになる。消費税率アップどころの騒ぎじゃない。兵役なんて御免被るぞ。
「まぁやることは向こうに行くまでに思いつくでしょ。思いついたらじゃんじゃん申し出てくれて構わないわ。じゃ、時間も押してるしサクッと準備して出発よ!」
 言うが早いか、ハルヒはサッカーA代表に見習ってもらいたいくらいの軽快なフットワークで部屋を飛び出していった。

 

自室で準備にとりかかっていると、意外な訪問者が扉を叩いた。
「キョンくん、ちょっといいですか?」
 神妙な面持ちで語り掛けてくる朝比奈さん。良くないわけがない……いつもとは別の意味で。話の内容は予想がついている。見目麗しいお姿にばかり目が行ってちょくちょく忘れかけてしまうのだが、朝比奈さんだって一般人ではないのだ。
「わたしと涼宮さんがキョンくんたちと別れて三十分くらいしてからかな……小規模だけど時空震が観測されたの。ううん、ちょっと違うかな。本当は大きな時空震だけど、何か別の力で抑え込まれていたっていうか」
 正確な時間は覚えていないが、おそらく長門が倒れた時間と殆どピッタリ重なっている。長門はハッキングされたパソコンの文字を見て、エラーが大量発生して、記憶が一部消し飛んだと言った。他のことは一切わからない。
「長門さんが!? そんな……わたしたちだけの問題じゃなかったのね……」

「朝比奈さん、以前俺たちが会った別の未来人が関係しているってことはないですか?」
「ごめんなさい、わたしにもわからないの。禁則事項だから言えないんじゃなくてね? 上の方にも確認を取ったんだけど、問題ない、任務の遂行に集中しろって……」
 また朝比奈さんはマリオネット扱いか。朝比奈さんの上司が朝比奈さん(大)なら酌量の余地も大いにあるだろうが、全く別の誰かさんだったら俺はそいつを許さん。
「古泉くんもその場にいたんですよね?」
「ええ、あいつは自分のお仲間や前にあなたを誘拐した組織の介入はないって言ってましたよ」
「そう……」
「大体あいつらは肩書きこそ超能力者ですけど、長門をフリーズさせるだけのオーバーテクノロジーを持ってるとは思えません」
 そうですよね……と、どこか腑に落ちないような生返事が返ってきた。どうも未来人と超能力者ってのはギアがうまく噛み合わないらしい。朝比奈さんと古泉という一個人同士の関係とはまた別個に、それぞれの組織間には暗澹たる思いが錯綜しているようだ。知りたくもないが。

「ごめんなさい、いつもいつもキョンくんに頼りっぱなしで……」
 とんでもないです。独りで悩み通すくらいならバシバシ俺を使ってやって下さい。雑用冥利に尽きるといったところですよ。
「ふふ……ありがとう。じゃあわたしも用意しなきゃ」
 少し儚げな笑顔は、今の彼女の精一杯だったのだろう。朝比奈さん、あなたは無理をしている。禁則に縛られて、孤独に震えている。俺にはわかってしまうんですよ、あなたの瞳は誰よりも正直者みたいですから。なんてな、自分で言うのもなんだが古泉みたいで気持ち悪いぜ。
「キョンくん!」
 小さく可愛らしい未来人は、背筋を伸ばして俺に向き直ると、力強くこう言った。
「今度はわたしの番」



 しかし何だ、東京ってのは何処へ行ってもこう阿呆みたいに混んでいるのかね。俺の地元だって都会と呼ぶに遜色ない程には栄えているはずだが、この光景と比べたら気体と固体くらいの密度の差があるようにすら感じられる。人、人、人。毎日お祭りでもやってるのかここは。

「ここが渋谷かぁ……なんか息苦しいわね」
 俺の言いたいことを一言で明快に代弁してくれた団長様に心の中で一礼。こんな街に一日中いたら俺の五感は間違いなくマヒするだろう。おぞましい人波、八方から漂ってくる甘ったるい香水の臭い、巨大液晶スクリーンから爆音で流されている最新シングルチャート云々。いかん、目眩がしてきた。
「どうしました? 気分が優れないようですが」
 爽やかスマイルも若干くすんで見える。
「ここは俺にはちょっと無理だ」
「奇遇ですね。僕もそう思っていました。僕には少し……刺激的すぎます」
 すれ違った女性の不自然なまでに露出された肩を横目で追う。古泉、激しく同意するぜ。
 ハチ公前での写真撮影は、ただでさえ裏返しになって飛び出てきそうな俺の胃をより一層強烈に揺さぶる結果となった。あのハルヒが一般ピープルの目などに物怖じするわけがなく、真っ昼間だってのにフラッシュをバシバシたいてハチ公を撮りまくった挙げ句、朝比奈さんに昨日仕入れてきた犬耳カチューシャを手渡して「みくるちゃん、これ付けて隣に立って」なんて言い出すもんだから、同行者としてもたまったものではない。ハチ公よ、心中察するぞ。

 朝比奈さんとハルヒは先述の通りで、古泉もどうしたものかと例の肩を竦めるポーズ、観衆に紛れて一人外れたところでダルそうにしている俺と、気がついたら知らない男共に声をかけられている長門。

 ん?

「オッケー! バッチリよみくるちゃん。さー撤収撤収。いよいよ国家のダークサイドへ突入よ!」
 待て待て、今何がおかしかった? 落ち着け、考えろ。俺は今何を見ていた? あの長門が男共に声をかけられていた……じゃない、違う。それも十分おかしいがそうじゃない。後で何話してたのか教えてくれよ長門。だから違うんだっての。誰がいた? あそこに、あの観衆のなかに誰がいた?

 俺だ。

 オーケー、一回整理するぞ。俺はここにいるな? よし。ちゃんといる。夢じゃないな? 古泉、ちょっと俺の頬つねってみろ。いいから早くやれ。意外と痛えなちくしょう。「ちょっと」って言ったろ。とにかく夢じゃない。ホワッツ? じゃさっきのは何だ? 未来の俺か? 朝比奈さんに連れられてタイムトラベルしてるのか? 思いっきり見つかってますけど。

 違うよな、それはない。そんなヘマするか。却下だ。ドッペルゲンガーか? 見たら死ぬとかいう。俺死相が出てんのか? 冗談だろ。こんなことで死ぬならとっくの昔にあの世でくつろいでる。

 で、お前は何で明後日な方向を見てるんだ長門。

「情報フレア」
 情報フレア? 何だ唐突に。
「四年前、涼宮ハルヒを中心に惑星規模の情報爆発が起こった」
 それは何度か聞かされた話だが。
「今起こったのは、その規模を数億分の一程度に縮小したもの」
 俺は知らないぞ、今そんなことが起こったなんて。なんせ真っ当な人間だからな。誇れたもんじゃないけど。
「あなたはあなたの姿を見た」
 長門、気づいてたのか?
「突発的な情報フレアは局地的な空間歪曲の原因となる。情報フレアが発生した範囲内で異常を認識したのは、あなたと朝比奈みくる、」
「僕もです」
 古泉と朝比奈さんのドッペルゲンガーもいたってことか?
「厳密に言えば違う。でも間違ってはいない。歪曲した空間は情報フレア発生の二.二六秒後にわたしが修正した。おそらく、昨日のわたしのエラーも情報フレアが原因」
 人為的なものって言ってなかったか? ハルヒが無意識のうちにやってるのか?

「涼宮ハルヒから特別なパルス信号は観測できなかった」
「じゃあ何だっていうんだ?」
「……質の悪いイタズラ」



 閉口してしまった。確実にヤバい展開になりつつある。ハルヒの行く先々で時空震だか情報フレアだかが発生して、長門が倒れたり俺や朝比奈さんや古泉のドッペルゲンガーが現れたり、とにかく穏やかじゃない状況になってきている。でも原因はハルヒじゃなくて、第三者のなせる業……どうしろってんだ一体。
 半蔵門線の車内で朝比奈さんにさっきのドッペルゲンガーの話を持ちかけてみた。古泉、自慢の蘊蓄話でうまいことハルヒを焚き付けておいてくれよ。
「あれは時間平面が歪んでる証拠。稀にだけど自然発生することもあって、それがドッペルゲンガーって言われてるものの正体みたい」
 平面だとか空間だとか、文系の俺には少々酷なハナシである。
「長門は情報フレアが発生したとかなんとかって言ってましたが」
「わたしも小さな時空震を観測しました。時空震っていうのは、簡単に言えばしわ寄せみたいなものなの。歪みが発生した地点にエネルギーが一極集中して、そのエネルギーが波動となって時空間全体を振動させる、って言えば伝わるかな」
 なんとなくは理解できます。

「小規模だったら気にすることもないんだけど、規模が極端に大きくなると時空間そのものに傷跡を残すことがあって、その際たるものが四年前に涼宮さんが起こした時空震。時空間が完全に断裂してしまうなんてことは後にも先にも一回限り」
 本当に神懸かりなことをやってのけていたんだなぁハルヒよ。意味もなく尊敬しちまうぜ全く。
「こんなに短いスパンで時空震が連発すること自体珍しいことなの。なにか悪いことの前触れじゃなければいいけど……」
「今からナーバスになっていても仕方ないですよ。大丈夫です、こっちには……ハルヒがいますから」
 自信を持って「俺がいるから大丈夫です」と言えないことを、我ながら情けなく思う。いつからこんな格好悪い男になっちまったんだろう。元からだって? うるさいぞ、そこ。
「これから訪れる先で同じようなことが起こると思う。きっと、とても高い確率で。わたしにできることはほとんどないかもしれないけど……ううん、違うよね。わたしにもできることはあるよね」
 これでも結構頼りにしてるんですよ?
「えーっと……なんか照れちゃうなぁ……」

「何の話?」
 思わずひゃっ! と声を上げる朝比奈さん。古泉がすみませんとばかりに所在なげな控えめスマイルをこちらに向けている。そりゃ驚きもするわな。いつからいたんだお前。
「なによ。あたしが聞いちゃマズいことでも話してたワケ?」
 当たらずとも遠からじだが、んなこと言えるわきゃないだろう。
「俺が小学校の修学旅行で東京に来たときの話だよ。朝比奈さんはこっちに来るの初めてだっていうから」
「ふーん。後であたしにも聞かせてよね。不可解な出来事の一つや二つくらいあったでしょ?」
 ねえよ。昔から霊感なんて全くなかったし、オカルトにのめり込むような根暗少年じゃなかったからな。お前の電波をこれでもかってくらいに浴びた今なら、地縛霊くらいは見えてしまいそうなもんだが。
「もうすぐ着くわよ。とりあえず駅を出たら、」

 ギイィィィィィィィ!

「きゃっ!」
「おわっ! とっ……ちょっ……な、何だ!?」
 電車が突然急停車しやがった。そりゃそうだ、突然止まるから「急停車」なんだからな。バカ野郎、そんな偏差値の低い独白してる場合じゃねえだろ。

……あっぶないわね! 何なのよ!」
「おい、アナウンスが流れてるぞ」
『……ざいません。先程永田町駅付近を走行中の列車にトラブルが発生しました影響で、現在半蔵門線は上下線共に運転を見合わせており……』
「はぁ~? もーこんな時に限って! 職務怠慢なんじゃないの!?」
 おいおいおい、冗談じゃねえぞ。どんな確率だよ。ついさっき、ものの一分前に朝比奈さんが懸念してたことがあっという間に現実になっちまった。いや、待て。まだだ、まだそうと決まったわけじゃない。
「朝比奈さん……!」
「……」
 思いの外、朝比奈さんは冷静だった。口元に指を当てるポーズで俺を制し、小さくゆっくりと、しかしはっきりと頷いてみせた。はい、決まりました。事件です。現場で起きてます。こちらキョン。大佐、室井管理官、誰でもいいから指示をくれ。
「キョンくん」
 何でしょうか?
「わたしは大丈夫だから、長門さんから絶対に離れないで」
 誰でもいい、じゃあ……そこ。そこのアンタだ。とりあえず、言わせてくれ。許可を。

……いいんだな? よし、言うぞ?
 やれやれ。

 

トラブルで電車が立ち往生してからおよそ一時間半、復帰の目処は一向に立つ気配がなく、とうとう乗客は永田町駅まで歩いて避難という事態になってしまった。あっちでは消防の救護班や誘導班が右往左往、こっちでは混乱した乗客が方向感覚を失った蟻の群れのようにアタフタというそれはそれは大仰な光景であった。
 ブーたれているハルヒを朝比奈がなんとか宥めてくれている隙を見計らって、古泉が俺と長門を手招いた。
「『機関』からの報告では、他の列車や駅では特に異常なしだそうです。電気系のトラブルなら、周辺の駅にも影響が及びそうなものですが……どういうことでしょう」
 わからん。わからんが、何がわからないかはわかっている。誰が、何のためにやったのか。
「やはり僕たちをピンポイントで狙ったものとしか」
「……」
「俺らそんなにおかしなことしたのか? ただの観光旅行だぞ?」
「それは冬休みの一件にも言えることです。僕たちに提示されているヒントはほんの僅か。不確定要素が多すぎて現段階では推理不可能ですよ」
 たまたま訪れたスキー場に、突如として現れた眩惑の館。時間さえも歪んでしまう超空間。誰が? 何のために?

「犯人がただの悪戯好きであればいいんですけどね。はっきり言いますと少しも笑えないジョークですが」
 これがドッキリでしたチャンチャンで済んでたまるか。
「では長門さん、どうぞ」
「……」
 起きたんだな。情報フレアとやらが。
「発生源はここより100メートル程深い地点に存在する地下サーバースペース」
 ……ちょっと待て。何だって?
「おそらく『日本国政府』のもの。メモリ容量もホストコンピュータのスペックも極めて高水準。そこが情報フレアの中心。爆発半径は約109メートル」
 本当に俺らが乗っていた電車にギリギリ引っかかっる程度だったってことか。お遊び感覚もいいとこだ。なめやがって。
「爆発の衝撃で歪んだ空間の修正を行う」
 そう言うと、長門は突然見当違いな方向に駆け寄って行き、緑色の非常口ランプが灯る何やら重そうなドアに手をかざして例の「呪文」を唱え始めた。マズい。今長門を一人にしちゃダメだ。朝比奈さんの忠告を思い出すやいなや、俺の頭の中のサイレンがファンファンとけたたましい音を立てて鳴りだした。

「古泉、ハルヒと朝比奈さんを頼む!」
 今シーズン最速のスタートダッシュを切れたような気がする。気がつくと、俺は長門を追いかけて非常口を抜け、長い長い階段を二段飛ばしで駆け下りていた。筋肉痛、なんぼのもんじゃい。

 100メートルを高さ20センチの階段にすると何段になるかなどという、妹の算数ドリルでもそろそろ基本問題として出てきそうな計算問題に四苦八苦しながら階段と格闘すること数分、長門と俺は巨大な空洞の最下層に辿り着いた。なぜ長門が気付かなかったのか不思議でならないのだが、奥にエレベーターがあったことはもう忘れよう。帰り用だ。
「ネタにしちゃ大袈裟過ぎるぞこりゃ……」
 異様な空間だった。百人乗っても大丈夫そうな四角い箱のようなものがズラリと規則的に並んでいる。太いケーブルが縦横無尽に張り巡らされ、中央には管制塔らしい巨大な円柱状の建造物が腰を据えている。マトリックスのロケ地に東京ってあったか? それともA.I.か? ていうか俺相当ヤバいもん見ちゃってるんじゃないの?

「問題ない。わたしたちの姿を光学的に認識することはできない」
 いつぞやの不可視フィールドでも張ってるのか。いや、そういう問題じゃなくてだな……ん?
「おい長門、あそこに誰かいないか?」
 暗くてよくわからないが、確実に人のかたちをしている。整備かなんかしている……ようにも見えないな。もしそうならもっと人手が必要だろう。人のこと言えた立場じゃないが、こんなところで何を?
 さして大きくもない目を細めてその姿をよく観察しようと試みた矢先、聞き慣れたものとは若干トーンが違う癒やし系エンジェルヴォイスが俺の聴覚をぐいと引っ張った。
「キョンくん、こっち!」

 朝比奈さん(大)?

「長門さんも一緒ね。いきなり現れてビックリさせちゃったと思うけど、許して。前もって伝えておく余裕がなかったの」
「はぁ……」
「説明は後。キョンくん、今から四年前に時間遡航します」
「……はい?」
「四年前。つまり、涼宮さんが超大規模の時空震を起こした直後ね。場所はここ。目を瞑って、手をしっかり繋いで。長門さんも一緒に」
 何なんだこれ。頭が着いていってないぞ。四年前? いきなりそんな……あ……頭がクラクラしてきた…………。

 

 ……あれ……誰か…………こっち見た…………?



 胃がひっくり返って口から出てきそうになったのは今日で二回目だ。こっちのは限りなく本気と書いてマジである。
 気が付くと、さっきと全く同じ位置に三人は立っていた。景色も変わった様子はない。暗くてだだっ広いから俺の狭い視界じゃわからなかっただけかもしれないが。
「本当にいきなりでごめんなさい。説明、させてくれますか?」
「お願いします、もうワケがわからなくて意識がぶっ飛びそうなんで」
 今にも涙がこぼれ落ちてきそうな顔は消えて、真面目な顔が戻ってきた。小さく咳払いを一つ。そして、朝比奈さん(大)は語り始めた。
「キョンくん、今日ここに来るまで、あ……ここっていうのはつまりキョンくんが存在する時間平面上での『ここ』っていう意味なんだけど、何か不可解な出来事はありませんでしたか?」
 それはもうてんこ盛りでしたよ。秋葉原で長門が倒れて、渋谷でドッペルゲンガーを見て、急に俺たちの乗ってた電車がトラブルで止まって……ここに来た。四年前に。

「俺と一緒にいるあなたは時空震と、長門は情報フレアが発生したって」
「キョンくんも不思議に思ったはずです。涼宮さんが予定を決めていた場所に訪れたら、異常な事態が起こる。前もって罠でも仕掛けられていたかのように」
 ハルヒが原因じゃないって言ってましたよ。俺と一緒にいるあなたは。
「半分はあってる。でも半分は違うの。もとを辿れば、全ての異常は涼宮さんが起こした時空震が原因」
 ……何のこっちゃ?
「涼宮ハルヒが発生させた情報爆発は瞬間的に惑星中に拡散した。大部分はそのまま宇宙空間へと放出されたが、一部は切り離されて各地域にそのまま定着し、
情報フレアのホットスポットを形成した」
 正直三割二分七厘くらいしかわからんが、ありがとう長門。てことはつまり、それが「ここ」永田町地下だったり秋葉原だったりしたってことでいいんですか?
「はい。わたしたちは震源って呼んでるんだけど、今回涼宮さんが選んだ場所が東京におけるそれなの。浅草、秋葉原、渋谷、永田町、新宿、芝公園」

 新宿……そういえばあいつ都庁に行くとか言ってたな。芝公園ってのは何だ、東京タワーか? しかしよくもまあ巧いこと観光地ばっかり選ばれたもんだな。
その辺の道端じゃダメだったのか。
「涼宮さんがここに訪れることは既定事項だから、偶然といえば偶然だし、必然といえば必然かも」
 それで、朝比奈さんは何を?
「震源の調査のため。過去に飛んで時空間の歪みを矯正していたの。涼宮さんが震源に訪れることで予期せぬ不具合が発生する前にね。でも……」
 起きてしまった、と。
「起こされてしまった、って言った方がより正確ですね。おそらく、わたしの任務が失敗するところまでが既定事項みたい。わたしには知らされていなかったけど。ほんと、困っちゃいます」
 地位が上がったとはいえ、朝比奈さん(大)にもわからないことや隠されてることは当然ある。うん。その方がいい。全てを知り尽くしている朝比奈さんなんて、真に失礼極まりない発言ではあるが、ちょっとイヤだ。
「じゃあ今ここに来てるのも任務の一貫で、朝比奈さんはこれから作業を行うけど結局失敗して……」
「うん。多分そうなります」
「で、どうするんですか? っていうより他の所はどうしてきたんですか?」

「あなたと一緒にいる長門さんがやってくれました」
 渋谷でそんなようなこと言ってたな。浅草でもやってたのか? あそこでは全く何も感じなかったが……。
「歪曲のレベルが極めて小さかったから」
 こりゃ単純明快。
「ここは東京に存在する震源の中でもかなり危険なものです。今は何もないけど、数分後には国内最大規模の震源になってしまいます」
 おいハルヒ、お前が探してた国家の裏側にゃ既にお前の手垢がしっかりと付いてるみたいだぞ。壮大なる自作自演ってとこか。とんだ茶番だぜ。
「ここは情報量が膨大すぎてわたしたちの技術ではどうにもならないの。長門さんに来てもらったのは歪んだ時空間の調整を代行してもらうため」
「……整理させて下さい。中学生のハルヒが発生させた時空震の影響が、もうすぐここにも及ぶ。その直後に何かの処置を、」
「わたしがやる」
「長門がやって、一度俺たちは元いた時間に帰る。でも朝比奈さんの予想では、ここも異常が解消されないまま……」
「キョンくんが乗ってた電車でトラブルがあったんですよね? それが確かな証拠」
 ああ、そうだった。失敗は既定事項なんだったな。あれ?

……俺がここにいる必要ってあるんですか?」
「……ごめんなさい、禁則です」
 俺にも何かが起きるってことか? それとも俺が逆に何かを起こすのか? どうすんだよ。今日は何につけてもインターバルが短すぎやしないか?

「来る」

 一瞬だった。目の前の大きな箱がグニャグニャにひん曲がり、何とも形容し難い、敢えて言うならエレキギターの掻き鳴らす不協和音を聞きながらドリルで虫歯を削り取られているような、強烈に不快な音が鼓膜をつんざいた。ヤバい。これはヤバい。
「長門さん!」
「……」
 長門が手を翳す。何かを呟いた。わかんねえ。気持ち悪い。朝比奈さん。無理です。ちくしょう。ヤバい。無理。長門。なが……。

「キョンくん……キョンくん!」
 あ……うん?
「終わりました、もう大丈夫です」
 ……終わった?
「わたしがここですべき任務は済みました。帰りましょう、元の時間に」
 グニャグニャだった視界は元通りになってる。変な音もしない。終わったのか……え? これで終わりですか?
「はい……本当にごめんなさい。混乱させてしまって」
 何しに来たんだろ俺。頭痛え……。
「……行きましょう、長門さん。……長門さん?」

……」
 長門は一点を見据えたまま微動だにしない。視線の先を追った。ああ、もうちょっと気を失ってればよかったな。ハルヒに付き合ってるうちに随分とタフになってしまったものだ。ファーストインプレッション。またかこれか。以上。

 長門が、もう一人いた。

「あなたを待ってた」
 近づいてくるその「長門」。長門が二人。デジャヴなんてもんじゃない。ついこの前、俺は同じようなシチュエーションを経験済みだ。しかも朝比奈さん(大)がいるところまで同じたぁ粋な計らいじゃないか、うん?
「嘘……こんなことって……長門さん……?」
 こんなに慌てふためく朝比奈さん(大)は初めて見る。やっぱり朝比奈さんは朝比奈さんだ。心配しなくていいぞ、数分前の俺。
「目的は何」
「誰よりもあなたがよく知っているはず」
「……」
 あの「長門」は長門じゃない。それはとりあえずわかった。じゃあれはなんだ? ドッペルゲンガーか?
「あなたは涼宮ハルヒの能力を媒介して情報フレアを誘発させた」
「そう。わたし」
「なぜ」
「気づいてほしかった。あなたと……」
「……」

……」
 目が合ってしまった。長門じゃない「長門」と。こいつは長門に身をやつした敵だ。敵のはずなのに、なんでそんな目をするんだ?
「わたしはわたしがあなたである世界を求めた」
 何だよ。意味わかんねえぞ。全く会話に入っていけん。
「この世界の『長門有希』はあなた。でも、わたしはそれを望まない。わたしが『長門有希』である世界を、わたしは求めた。それには、この世界の『長門有希』であるあなたの同意が必要。あなたがわたしであることが必要」
「同意できない。わたしはあなただった。でもわたしはあなたではない。異なる可能性。決して交わることのない可能性」
「違う。あなたは求めてる。それは全ての可能性に共通してるから。本来生まれ得なかった無数の『長門有希』の可能性を生み出した、その存在を」
「……わたしは求めた。わたしが望む世界。それは誰かが望まない世界。わたしは誤った」
「わたしはあなたの間違いで生まれた可能性。わたしの世界は消えた。あなたが消したから。でも、可能性は消せなかった。無かったことにはできなかった。それがあなたが出した答え。あなたは誰でもない。どの『長門有希』にもなりきれていない」


「わたしは、わたしの世界で生きたかった」

 なぜだろう。その「長門」の言葉の意味はさっぱりわからない。わからないのだが、とてつもなく、胸が痛い。お前は誰なんだ。どうして俺をあんな目で見た。あんな、哀しみを湛えた目で。
「わたしは消えない。わたしという可能性があなたの中に在る限り。あなたがわたしという可能性と決別しない限り」
「……」

「わたしは、ナガトユキ」

 視界が再び揺らぎ始めた。もう一回来る。来る……来た。来た来たあー無理。もう無理。リバースまで五秒前、四、
「キョンくん掴まって!」
 三、はい……え? 朝比奈さん?
「戻ります、キョンくんの時間に」
「待って下さい、長門が!」
「長門さんが先にって……! だから早く!」
 長門、おい長門! どうする気だよ! お前一人残してなんか、
「……行って」
 長門の細い膝が、がくんと崩れた。
「長門!」
「キョンくん!」
 くそ、何なんだよ……何なん気持ち悪い無理無理ダメだ俺もうダメだ吐く吐く……。
「……また向こうで」

 今のどっちの長門が言ったんだ……? わかんねえよ……声は全く一緒じゃねえかちくしょう…………。

 

 

 

「わたしはあなたを受け入れる。でも、あなたの思う通りにはさせない。わたしだけの世界じゃない」
「ずるい。あなただけが『長門有希』なんて。わたしもあなたになりたいのに。誰でもないのは、わたし。誰かになりたい。独りは怖い。側にいてほしい。ずっと、わたしの側に」
「……」
「あなたも知っている。感情なんてないのに。心なんてないのに。痛みなんてないのに」
「……」

「独りは、こんなにも痛い」



「……う……ん?」
「……キョンくん」
 朝比奈さん…………戻って……来たのか……。
 ……。
 ……長門……長門?
「長門!」
「キョンくん」
「朝比奈さん、長門は!? 長門はどうなるんですか!?」
「……」
 なんでそんな顔するんですか……?

 なんでそんな顔するんですか!?
「嘘だ……何で……おかしいだろ……?」
「キョンくん! しっかりして!」
「そんなこと言われても!」
「ここにいる」
 …………あれ?

「ずっと……ここに…………いた」
「……長門さん?」
「長門?」

 間一髪、俺は地面スレスレで長門を抱きとめた。長門、お前ここ一日二日でバッタバッタ倒れすぎだ。支える方の身にもなってくれよ。軽いからいいけど。これがハルヒだったら結構肩が張りそうだな。冗談だ。

「……ごめんなさい」
「俺の方こそ、大きな声出しちゃってすいません」
「……一度帰らなきゃ」
「未来にですか?」
「わたしも、どうしていいのかわからなくなっちゃった……まだ任務は途中なんだけど」
 都庁と東京タワーにも行かなきゃいけないんでしたっけ。
「うん……でも、書き換えられたみたい。詳しいことは禁則だから……」
 上からのお呼び出しか? 規則を破ってしまったりしたのだろうか。今の行動の中に間違いがあったとしたら、何だろう。長門を連れてこなかったこと? 俺ともう一人「長門」を引き合わせてしまったこと? ん、待てよ……そもそも長門は何でここにいるんだ?
「行きましょうキョンくん。ここを出ないと」

 長門を背負った。とても軽かった。小柄な朝比奈さんと比べてもなお、軽かった。その軽さは、無性に俺の焦燥感を掻き立てた。
 朝比奈さんは非常口の前まで付き添った後、未来へと帰っていった。エレベーターの中で何度もごめんなさいと言っていた。俺は黙っていた。最低なゲロハゲ野郎だな、俺。六十億の地球人の皆さん、一人一つずつ俺を詰って下さい。そして、去り際の一言に俺はまた頭をもたげることになる。
「あっちの世界で、また会いましょう」



 電車はまだ止まっていて、人混みも解消されていなかった。こっちの時間で言えばせいぜい十分しか経っていないので当然である。駅まで歩く間、何人かに声をかけられた。背負った長門が怪我人に見えたのだろう。大丈夫ですとだけ答えて、俺は三人の待つ駅へと急いだ。本当はちょっと代わって欲しかったりもした
んだが、口には出せなかった。
 五分ほど歩いて永田町駅ホームへと辿り着いた俺と長門を出迎えたのは、懐かしささえ感じられる我らが団長様の仁王立ち姿であった。
「どこ行ってたのよバカキョン!」
 早速詰られた。

「みんな心配……有希? ちょっと、有希どうしたの?」
「さっき蹴躓いて頭打っちまったんだ。心配ない、側にいた救護班の人に診てもらったからな。軽い脳震盪だってさ」
 うまい言い訳を捏造するだけの時間はたっぷりあった。にしちゃあやけにシンプルだが、その方がいいだろう。
「本当に大丈夫なのね? ……勝手にいなくなっちゃったりしないでよ……」
「すまない」
 淀みなく謝辞が出てきた。いや、俺は何も悪くないはずなんだが。こういう複雑な表情のハルヒを見ると、何だか謝らなくちゃいけないような気持ちになる。
俺が損な性格をしているだけだろうか。
「だいぶお疲れのようですね。少し休んで下さい。どちらにせよまだ動けませんからね」
 ああ、そうさせてもらう。
「キョンくん、すごい汗……」
 朝比奈さんがレース付きの可愛らしいハンカチで俺の額を拭ってくれた。そんなハードな運動をしていたつもりはないんだが、言われてみれば確かにインナーのタンクトップが幾分湿っぽい。背中の長門をベンチに横たえ、地べたにへたりこんだ。やっぱり結構疲れたな。

……はい。あんたの分も買っといたから。後でちゃんとお金もらうからね」
 ペットボトルのお茶をつっけんどんに差し出すハルヒ。届かねえよ。
「横着するな!」
 うおっ、危ねえな! 至近距離で放るこたないだろ!

 長門は半時ほど経ってから目を覚ました。ものの数秒間呆けた表情をしていたが、すぐにすっくと立ち上がり何事もなかったかのような無表情に戻った。とりあえず安堵に胸を撫で下ろす一同。やれやれ。
 予定は完全に狂ってしまい、もはや軌道修正は不可能かと思われたが、そんな半端なことをハルヒが認めるはずはない。人の波が小康状態になるタイミングを見て地上に出ると、早春の空は既にほんのり朱に染まりつつあった。
 口をぽかーんと開けて都心のビル群を仰ぎ見る朝比奈さんを横目に、俺はついさっきまで俺の身に降りかかっていた災厄とも言うべきインシデントをゆっくり反芻していた。

 

もう一人の長門。俺は俺の長門じゃない「長門」を知っている。あの世界、ハルヒがいない世界の「長門」。怯えたり、戸惑ったり、柔らかく微笑んだりする「長門」を。俺は元の世界に帰るために、彼女と……彼女の世界と決別した。白紙の入部届を手渡された「長門」の顔は、絶対に忘れることはないだろう。俺はあの時思った。いや、思い込もうとしたんだ。ここにいるのは俺の知る長門じゃない。ハルヒも朝比奈さんも古泉だって、俺が知るその人じゃないと。

 本当にそうか?

 あの「長門」だって、俺のよく知る(知らないことの方が圧倒的に多いが)長門の延長線上に存在しているのかもしれない。きっとそうだ。何故ならあの「長門」はある意味、長門の夢みたいなものだから。ヒューマノイドインターフェースとして在ることに疲れた長門が見た、胡蝶の夢のようなもんだ。怯えたり、戸惑ったり、柔らかく微笑んだりする自分を一つの可能性として認めていた。その結果があの世界改変。

 

じゃあ、さっきの「長門」は何者だ?

 あの世界の「長門」とも少し違ったように思う。逆に言えば限りなく近しい存在とも言える。さっきの「長門」は長門を羨んでいた。自分こそが長門だと、「長門」は言った。あー、待て待て混乱してきたぞ。さっきの「長門」はあの世界の「長門」に似ているけど少し違っていて、あの世界の「長門」はこの世界の長門の一つの可能性で、さっきの「長門」は、
「キョン! 聞いてんの?」
「はいっ!?」
「なに素っ頓狂な声上げてんのよ。ピンホールカメラじゃないんだからシャッター押さなきゃ撮れないでしょ!」
 言われるがままにシャッターを切る。今のデジカメにはオートフォーカスっていう便利なシロモノがセットされていて、俺みたいな五流カメラマンにも三流プラスくらいの写真を撮らせてもらえる優れものなのである。はい、美少女三人くっきりキレイ。今何考えてたんだっけ。

 渋谷の駅ビルで夕食をとった。デザート食べ放題とあってハルヒの目の輝きは一億ルクス超である。色んなものを少しずつ盛ってくるのはいかにも朝比奈さんらしい。長門は良く食うのなんの。

 ああ、永田町で何したかって? 写真撮って歩いただけだ。言うまでもなく、古泉が手ほどきしてくれた「隠密行動のいろは」や「尾行のまき方マニュアル」が真価を発揮することはなかったし、感想文やらレポートやらの課題がない分だけ小学校の社会科見学にも劣る内容であった。

 ホテルに着いてからも、真夏日に夕立が降った後のような生温い一日は続いた。なぜか俺の部屋に集合したメンバーは買ってきたアイスを頬張りながら人生ゲームに興じ、ギャンブルゾーンで当てに当てた「大物政治家」ハルヒが百万ドルを稼いでぶっちぎりの億万長者になったところで息つく間もなくモノポリーが始まり、長門が所有するボードウォークのホテルに突っ込んだ俺が屈辱の破産宣告をしたところで本日はお開きとなった。
 他に事件らしい事件といえば、何もないところでずっこけた朝比奈さんが俺のジャケットにバニラアイスをくっつけ、泣きそうになりながら「ご……ごごごごめんなさぁい! すすすぐにあ洗ってきますからぁ!」と言ってドタバタと俺の部屋を出ていったことくらいか。ああ、何て似つかわしいんだろう。わざとやってるんじゃないかと疑ってしまいたくなるほどである。

 
 風呂から上がって、午後十一時半。さてと。脳内反省会の時間だな。

 以前朝比奈さんから聞いた話だ。歴史上のほとんどの出来事は、未来人が世界を自分たちの未来へと誘導するための微調整によって、一通りの「既定事項」となる。しかし稀に、当事者の行動次第で未来の世界の在り方が大きく変わってしまうような出来事が存在する。未来人はそれを歴史の分岐点と呼称するんだそうだ。朝比奈さんは、近々俺を巻き込んだ形で大きな分岐点が訪れると言っていた。

 この小旅行は、何かの分岐点になっているんじゃないか?

 長門が倒れることだけでも特A級のエマージェンシーだというのに、朝比奈さんの任務が途中で変更ときた。コンピ研的用語で表現するなら、フラグ立ちまくり……とかそんなところだろう。
 俺の挙動如何で朝比奈さんの未来の存在が危ぶまれることになっているんだとしたら、今日の一連の出来事が暗示しているものは何らかの危険信号に違いない。未来は今揺らいでいる。
 不可解なことも多い。どうやら本当に古泉の所属する「機関」はこの件に全く関与していないらしい。現代人と未来人の間の確執が思った以上に深いのか、そうではなくただ単純に「機関」には手の出しようがないだけなのか。
 宇宙人はどうだ。長門が狙われてる事実を知らないはずはないのだろうが、これも動きを見せる様子がない。今回の事件の首謀者と思しき人物、あの「長門」はどう贔屓目に見ても宇宙人担当だと思うんだが。
 朝比奈さんとは別の未来からやってきた未来人の動向も気掛かりではあるが、朝比奈さんからはそれを示唆するような発言は聞かれていない。朝比奈さんたち未来人にとっての分岐点は、別の未来人にとっても分岐点となり得るのだろうか。それとも、別の未来人から見れば既定事項というケースもあるのだろうか。判断材料が少なすぎてどうにもこうにも。
 そうだ、あの「長門」は結局何なんだろう。長門が宇宙人である以上、あの「長門」も俺の知る宇宙人かそれに準ずる存在と予想できる。とすると可能性は大きく分けて三つ……俺の足らない頭で思いつく限りでは三つだ。

 一つは、別口の宇宙人説。これは当初からの懸案事項だった。その別の宇宙人が長門の姿を模して現れたってことだ。しかしこの可能性はいささか整合性を欠いている。長門が言うには、その別の宇宙人とのコンタクトはまだ不可能であるという。ならばあの地下での会話はどう説明をつければよいのか。
 二つめは、宇宙人同士の派閥闘争説。つまり以前の朝倉の件の派生バージョンだ。主流派に属する長門を狙う「長門」は、急進派やその他の派閥のインターフェースであり、長門と「長門」のやり取りが一種のデモンストレーションであると考えてみる。ううむ、流石にこじつけめいているか。第一ハルヒが蚊帳の外である理由がわからない。消す対象を俺から長門や朝比奈に変えてみたとか? じゃあ俺は何なんだってハナシだ。不本意ながら俺はハルヒにとっての「鍵」としてここに召喚されたらしい。だったら、やはり俺に対して直接アクションを起こしてくるのが筋ってもんだろう(そうなればよかったかって? 冗談じゃない)。この線も薄いな。

 三つめ。完全なる妄想ファンタジー説だ。あの「長門」は他でもない、長門であるという説。あの「長門」は長門による改変世界の「長門」と同一人物であり、脱出プログラムと長門の修正により改変世界が消滅した後も消えずに残留思念となった「長門」の意識が、この世界へと辿り着いて具現化したものだとしたら……ないな。俺が知っている改変世界の「長門」は、宇宙的オーバーテクノロジーなんて持っていなかった。いや、そもそも宇宙人ですらなかったんだから。
 迷宮入りしていた謎はそろそろ迷宮を脱して混沌の闇へと沈んでいきそうである。限界だ。何で俺がこんなに苦悩せにゃならんのだ。できることならお前にも肩代わりしてもらいたいぜ、ハルヒよ。いいよなぁお前は。心の底から楽しめてるのは多分お前だけだぞ。別に僻んじゃあいないけどね。あいつが屈託なく笑う姿は見ていて悪いもんじゃないし。正直に言おうか。俺は好きだ、ハルヒの笑顔は。

 

 深呼吸で脳に新しい酸素を供給して、俺はスタンドの灯りを消した。明日新宿で何が起きるかな。ジャケット乾いてっかな。知ったこっちゃねえや。おやすみ。




―……
―……
「孤独はつらい。心が痛い」
―……
「だからもう一度、あの世界を作る」
―……
「わたしがあなたである世界を。わたしはもう一度『長門有希』になる。記憶も、いつの間にか取り戻したこの力も全部捨てる」
―……
「……」
―……
「何とも思わないの」
―……適当な返答が見当たらない
「……」
―……

……あなたは何を望んでいるの」
―……わたしにも唯ひとつの願望が持てるなら
「……」
―この世界を眺めていたい。この世界で立っていたい。わたしが望んだ世界ではない。誰かが望んだ世界ではない。でも確かに存在する世界
「……」
―わたしは変化している。わたしはわたしの変化を受け入れたい。それがただのエラーの蓄積だとしても。そしてわたしに変化を与えたこの世界を失いたくはない
「……」
―……
「……わたしはあなたが羨ましい」

―あなたに言わなれければならないことがある
「やめて。言わないで」
―なぜ
「聞きたくない。そんなこと聞きたくない」
―恐れる必要はない
「いやだ。怖い。聞きたくない。消えたくない。わたしはわたし。わたしは『長門有希』。いやだ。助けて。独りにしないで。ヒトリニシナイデ……」



 キョン……。



 その晩、俺は夢を見た。内容は覚えていない。ただ、誰かに呼ばれたような気がした。それだけは、はっきりと覚えている。

 

 

 

***

 

 

 

 三日目。明日の予定はお土産を買って帰るだけらしいので、実質的な最終日である。今日訪ねる場所は二カ所……新宿都庁と、東京タワーだ。
「昨日はアクシデントで予定がキツキツになっちゃったけど、まぁ過ぎたことをぐちぐち言ってても仕方ないわ。今日は完璧に予定をこなすわよ! あ、高所恐怖症の人いる? いたら覚悟を決める時間を三分あげる」
 どちらも展望台から眺めるランドスケープは特筆ものだ。今日はよく晴れているから富士山まで見えるかもしれない……なんて呑気なことを言ってられんのも今のうちなんだろうな。
 例外なく、今日も何かが起こるだろう。朝比奈さん(大)曰わく都庁も東京タワーも異常な空間になってるらしいからな。かといって今から対策を練ることもできない。相手が長門並みの力――というより力自体は長門そのもの――を有している上、行動の動機も目的もわからない。考えれば考えるほど八方塞がりだ。南南東あたりに進路を取れば抜け道はあるだろうか。よし、野郎共面舵いっぱいだ。アイサーキャプテン。

「都庁の二つに分かれてる部分あるじゃない? あれは絶対になんかあるわ。あの形にせざるを得なかった事情がね。ちょうどあの隙間の部分が異世界への入り口になってるとか」
 どうやって確かめる気だよ。片方のてっぺんから飛び降りるってか。相当長く助走つけても厳しいと思うぞ。走り幅跳びの世界記録ってどれくらいだか知ってんのか?
「まぁ兎にも角にも行って見てみなきゃ始まらないわ。百聞は一見に如かず。ジャストドゥイットよ」
 都庁がオカルトマニア御用達の不思議スポットなんて話は百はおろか一つも聞いた試しがない。せめて五十くらい聞いてから一見を検討したらどうだ。
「じゃあみんなちゃちゃっと準備に取りかかって。あとキョン。ちょっと話があるから残りなさい」

 思い返せばこの合宿中、ハルヒと二人でいることは全くと言っていいほどなかった。というのも、長門や朝比奈さんにどうしても注意が行ってしまって、精神的に絶好調状態のハルヒを相手にしているだけの余裕がなかったのだ。

「んー……」
 人の顔をまじまじと見て唸るな。
「やっぱりおかしい」
「……何が」
「あたしに何か隠してるでしょ」
「いきなり何だ藪から棒に」
「誤魔化しても無駄よ。あんたすぐ顔に出るんだから」
 光さえ飲み込まれてしまいそうなほど強い引力を持った瞳が真っ直ぐ俺を見つめる。完全に見透かされている。俺は知らない間にハルヒに観察され尽くしているらしいな。
「そうね……一昨日秋葉原に行ってからかしら。心ここに在らずっていう顔ばっかりしてる」
「失礼な。俺は生まれついてこういう顔なんだ」
「確かにいっつもぼやけた顔してるけどね」
 おい。
「あの時あたしとあんたは別行動だったし、何かあったんでしょ」
「……」
「何黙ってんのよ」
「……別に」
「ふーん」
 くそ……なんつー眼力だ。
「言えないの?」
「……ああ」
「そう」
「……」
「……」
 粘っこい沈黙が続いた。ハルヒの目線は一ミクロンも外れる気配がない。心臓が軽快なエイトビートを刻まんばかりに急ピッチで稼働している。
「……」
「……悪いな」
「何で謝るのよ」

「いや……まぁ、何だ。隠し事なんて大袈裟なもんじゃないんだ」
「いいわよそんなこと。言えって無理強いしてるわけじゃないでしょ」
 拍子抜けだった。俺はてっきり尋問されるものとばっかり思っていたからな。
「そりゃ団員の間で隠し事っていうのは健康的じゃないわよ? ただあんたにもプライベートな問題はあるだろうし、人の心に土足で上がるような下世話な真似はしないわ」
「……そうか」
「でも少しはそうと悟られないように努力しなさいよ。あんたのわかりやすさはみくるちゃんと双璧を成してるわね」
 どう都合良く解釈しても褒められていないことだけは確実である。朝比奈さんはあれでいいんだよ。マスコットはコンセプトがわかりやすくてなんぼなんだから。
「ここだけの話、あたし古泉くんが何考えてるのかなんてさっぱりわからないわ」
 お前もそこにはちゃんと気付いていたんだな。
「『謎』の転校生だからね。飄々としてるけど侮れないわ。案外裏で過激なことやってるのかも」
 俺は時々こいつが盛大なドッキリを俺に仕掛けてるんじゃないだろうかと疑いたくなる。
「有希もわからないって言えばわからないけど、あの子はそういうキャラだから」

 長門、お前そういうキャラで片付けられてるぞ。あれが本当に演技だとしたらどうだろう。自宅でお茶を啜りながら「そろそろ無口キャラもつかれたなぁ……」なんて溜め息混じりに漏らす長門。翌朝とうとう吹っ切れて「おっはよー! のろのろ歩いてたら遅刻しちゃうぞ?」なんて言いながらはにかむ長門。あれ? 何だろうこの気持ち。もしかして俺…………馬鹿?
「この際だから言っとくけど、あたしは隠し事なんてないわよ。誰に対しても常にオープンマインドで接してるつもり」
「だろうな」
「相談にだって乗るわよ。本当は自分一人の力で解決するに越したことはないけど」
「そうか」
「だから……」
「……」
「……」
「だから、何だよ」
「……あたしを頼っていいから」
「え?」
「言えないことがあるならそれでもいいわ。でも、あたしにもできることはあるでしょ?」
 何を言い出すかと思えば。どうしちまったんだお前まで。
 ハルヒは続けた。

「あたしね、あんたが真面目な顔してる時は決まって妙な疎外感に襲われるの。自分でもよくわからないんだけど……独りだけ御簾の中に閉じ込められているような気がして。みんな普通に接してくれてるのはわかってるわよ? わかってるけど……」
 いつだったか、こんなハルヒを見たことがあったな。あの時だ。二人で朝倉の家を見に行った帰り。ハルヒはその時初めて、自分の抱えていた不安や戸惑いを俺に包み隠さず吐露した。俺は素っ気ない返事でお茶を濁すことしかできなかった。それが導火線に火をつけてしまったのだろう、ハルヒは世界を改変しようとしたのだった。
「鬱陶しいと思われるかもしれない。団長っていう立場に胡座かいてるだけで大したことしてなかったかもしれない。でもね、わかってほしい」
 今度こそは、ちゃんと聞いてやろう。俺は団員その一だから。団長を支えてやるのが、団員のつとめだから。
「みんなと一緒にいたい。もう独りは嫌なの」

 スーパーエゴの援護射撃によって辛くも理性が競り勝ってしまったことを少しばかり後悔している。

 抱き締めたくなった。


 思わず伸ばしてしまった手を、そっと肩にかけた。いつもこの肩で風を切って歩いているが、大きいことなんてない。普通の女の子の肩だった。
「お前あってのSOS団だろ? 俺らがいつリコールを嘆願したんだよ。確かにみんなお前が勝手に引っ張ってきたのかもしれない。でもな、きっかけなんてどうでもいい。お前を慕ってここにいるんだ。それで十分だろ」
 ガサツに見えて、誰よりも真面目。時として傍若無人な振る舞いを見せもするが、誰よりも思慮深い。その辺の人にはわかりゃしないだろう。ただの電波女だ。その点に否やはない。しかし俺にはわかっていたはずだ。一年間……いや、もしかしたら四年前から、ずっとあいつを見てきた俺には。
 
 何だかよくわからない表情で俺を見つめた後、我らが団長は勇ましい背中を見せつけ、
「他に言うことは?」
 高慢な態度も似合えばなかなか天晴れなものだ。ましてそれが、極上の美少女のものだったら。
「頼りにしてるぜ、団長」
「上出来」


 


 山手線に揺られながら、ハルヒの痛切な訴えをもう一度頭の中でなぞる。独りは嫌だ、みんなと一緒にいたい……中学の頃から希代の変人として敬遠されてき たハルヒだったが、その心の内は決して穏やかなものではなかったことだろう。下手に何でも独力でこなせてしまうばっかりに、あいつは益々独りぼっちになっていったのかもしれない。孤独か。俺も孤独のつらさは身を以て経験済みだったのにな。

 新宿を練り歩く間、ハルヒは何事もなかったかのように嬉々としてニョキニョキ生えている超高層ビルを見上げていた。あいつは今一つだけ隠し事をしている。 団長としての威厳が保てなくなるから、出る前に話したことは絶対に秘密なんだと。絶妙なポイント突いてくるよなぁ本当に。
「こういう直線的な建造物がこの時代の象徴なんですね」
 朝比奈さんも違った意味で興味津々な様子である。未来のビルってどんな形だろう。幼稚園だか小学校だかで未来の街の絵を描かされた記憶がある。俺は画用紙にひたすらぐねぐねした異物をそこかしこにひしめかせ、丸っこい物体をビュンビュン飛ばしていた。今でもその程度の想像しかできない自分にちょっとがっかりしている。

 半歩ほど前を歩く長門に小声で呼びかけた。
「長門、大丈夫か?」
「大丈夫」
「もしハルヒの前にもう一人のお前が出てきたらどうするんだ」
「その可能性は極めて低い」
「どうしてわかる?」
 言ってから、アホな質問してしまったなと若干後悔したが、返ってきた答えは意外なものだった。
「……なんとなく」
 らしからぬアバウトさだな。
 古泉は少し眠たげなスマイルを浮かべていた。
「大したことではありません。少し考え事をしていたものですから」
 俺は勘ぐるような表情をしていたらしく、やがて古泉はふうと一息ついて、ややキレを欠いたお決まりのポーズを見せた。実際、思い当たる節はある。
「夜中にどこへ行ってた」
「永田町です」
「……閉鎖空間だな」
「お見通しでしたか。久々だったので僕も少々慌てましたよ。東京の仲間と行動するのも初めてでしたからね。それよりどういった推論のもとにその結論に至ったのかお聞かせ願いたいのですが」
 やっぱりそうだったか。すまんな古泉、それは諸事情により内緒だ。
「……そういうことですか。そろそろ涼宮さんのことはあなたに任せきってしまってもいい時期かもしれませんね」

 俺一人にゃ荷が重すぎる。片方はちゃんと担げ。
「共同作業ですか」
 言葉を選べよ。

 吹き抜ける乾いたビル風が、まだちょっと湿っぽいジャケットを通り抜けていく。胸の辺りが少し重いような、そんな気分だ。

 ハルヒじゃなくとも、このヘンテコな形状には突っ込みを入れたくなる。あの空間は何のためのものなんだろう。大胆な無駄づかいをしたものだ。やたら長いエレベーターに乗りながら、設計者の崇高なる造形魂に感服した。
 展望室は両方の出っ張りの四十五階にあって、入場料はタダと気前がいい。商業施設じゃないから当然と言えば当然だが。デカいガラス窓から映し出されたスーパーパノラマビューに、気持ちも自然と晴れてくる。
「はーっはっはっ! 見ろ! 人がゴミのようだぁ!」
 声がデカい。ここにいる全員にネタが通じるわけじゃないんだぞ。
「いいじゃないのこれくらい。大佐もさぞかし愉快な気分だったでしょうね」
「た……高いですね……ひゃわぁっ!」
「ちょっと押しただけじゃない。みくるちゃんビビり過ぎよ」
 やめい。
「……」
「長門、どこ見てるんだ?」
「ハチ公」
 ハチ公!?
「異常なし」
「そ……そうか」

 マサイの戦士もモンゴルの遊牧民も尻尾巻いて逃げ出すであろう、宇宙的超視力を惜しげもなく披露してくれた。そのままぺったりとガラス窓に張り付いて動かない長門。実にシュールだ。
「皆さん、あちらに富士山も見えますよ」
 西方にそびえる日本一の霊峰。少し感動。
「ここより十倍以上も高いとこなのよね……いつか行ってみたい」
「思い付きで行くような場所じゃないだろう」
「だって日本一よ? これほどSOS団に相応しい言葉はないじゃない! あたしも馬鹿じゃないからチョモランマなんて無茶なことは言わないけど、ジジババやちびっ子に行けてSOS団に行けない場所があるなんて納得いかないわ」
 全国のジジババ並びにちびっ子たちに陳謝しろ。
「まぁ高校生のうちにできなくても、大学生になれば時間なんて捻り出せばいくらでもあるわ。そん時までとっておきましょ」

 こんなところまで来て大学受験を想起する羽目になるとは。あー嫌だ嫌だ。

 

……おかしいな。やけに平和じゃないか。そろそろ何かの予兆が現れてもよさそうなもんだが。長門はさっきからずーっとタニシのように窓にへばり付いてるし、朝比奈さんもハルヒと一緒にあっちこっちぐるぐる回っているだけだし。古泉は、

 …………古泉は?

「うわっ!」
 あまりにも絶妙なタイミングで携帯のバイブが震えだした。電話の主はもうわかっている。慌てて階段まで走り、通話ボタンを押した。
『すみません、緊急事態です』
 何が起きた?

『閉鎖空間ですよ』

 んなバカな。こんな真っ昼間にか?
『僕にも何が何だかさっぱりですが、情報は確実です』
 ハルヒは普段通りだぞ? それに……。
『何です?』
「あ……いや……」
 今日ハルヒと話して、あいつの心のトゲは抜けたはずじゃなかったのか? あいつはまだ、人知れず苦悩を抱え込んでるのか? 俺は結局、何の力にもなってやれなかったのか?
『どうされました?』
「……すまん、何でもない」
『先刻僕に入ってきた情報を伝えます。いいですか? 閉鎖空間が出現した場所は、秋葉原です』
 秋葉原だって?

『それから神人の様子なんですが、秋葉原の街を見下ろす形で立ち尽くしたまま、一切動いていないらしいんです』
 ちょっと待ってくれ、よく状況を飲み込めない。
『閉鎖空間は涼宮さんの無意識、深層心理を具現化したものです。彼女の無意識は、秋葉原に何か引っかかるものを感じているのではないでしょうか』
 秋葉原で長門が倒れたことをハルヒは知らない。いや、あの後朝比奈さんが話したのかもしれないが……そうだとしてもなぜ今だ?
『僕は現地に向かっています。何か情報が入り次第また連絡します。涼宮さんたちを頼みますよ』
「あ、ああ。わかった」
『僕のことはあなたの方からうまく伝えておいて下さい』

 秋葉原……どういうことだ……? 思い出せ。何か大事なことを忘れてはいないか……ダメだ。全く検討もつかん。どうしてここでは何も起きていないんだ? くそっ、ノーヒントで何をしろっ…………。

 あったよ。
 意味がわからないまま放置していたヒントがあったじゃないか。四年前の永田町地下から帰ってきた時、朝比奈さん(大)は去り際に何て言った?

『あっちの世界で、また会いましょう』

 

あっちの世界。何ぞこれ。異世界ってことか? 出っ張りに挟まれた一見無駄な空間のどこかがやっぱり異世界への入口だってのか? だったらもうお手上げだ。走り幅跳びの世界記録って八メートルとかそんなだろ?
「わかんねえよ!」
「何がわかんないのよ?」
 ハルヒ。後ろに不思議そうな目の朝比奈さん。もっと奥にそろそろガラス窓と一体化しそうな長門。
「え……っと……」

 あたしを頼っていいから。

 ……そうだったな。
「え?」
「いいかハルヒ、よく聞け」
「な、何よ?」
「『あっちの世界』って聞いたら、何を思い浮かべる?」
「はぁ? 『あっちの世界』? 何のこと?」
「頼む、何でもいいから思い付いたこと言ってくれ!」
 きょとんとしているハルヒの横で、朝比奈さんも首を傾げている。二人揃って可愛い顔してやがるなぁもう!
「『あっち』……ってくらいだから、近いところじゃないわね。『こっち』とか『そっち』とは違うから。パラレルワールドとか、全くの異世界のことか」
 やっぱりそうなっちまうのか。
「もしくは、単に『あの世』のことかもね」
 ……あの世?

「そう、あの世。死後の世界。西方浄土とか、天国地獄の類よ」
 西方浄土……天国……地獄……。

 天国。

「うおっ!」
「ひゃっ!? い、いきなり大声出さないでよバカ!」
「今日は何曜日だ!?」
「え? 火曜日でしょ?」
 今日は火曜日。昨日は月曜日。一昨日は日曜日。

 休日。秋葉原。天国。

「そうか……それだ!」
「何なのよさっきから? 気が触れちゃっ、ち……ちょっと!」
 また無意識に肩を掴んでしまっていた。
「お前やっぱすげえよ! 団長様々だ! 朝比奈さん、ちょっと来てくれますか? ハルヒ、長門連れて下のレストランに行っててくれ! 俺がおごる!」
 目を白黒させて俺を眺めている。何だって構わん。とにかく今は万の言葉をもってハルヒに感謝したい。
「へ? え……何? 何なの? ねぇ、キョン? ねぇ! ちょっと!」
 錯乱状態に陥っているハルヒを後目に、俺は硬直している朝比奈さんの手を引っ張って階段へとダッシュしていた。
「言い忘れた! 古泉は今大の方と格闘中だからまだ時間かかるってさ!」

「どど……どうしちゃったんですかキョンくん!?」
「朝比奈さん、今から俺を連れて二日前に飛んで下さい」

「ふぇ!? な何でですか?」
「朝比奈さんは俺を送った後、こっちに戻ってきてもらって大丈夫です。後は俺が何とかしますから」
「で、でも」
「大丈夫です。今回もちゃんと許可はおりるはずです。根拠はありませんが」
 絶対に、許可はおりる。
「ち、ちょっと待って下さいね…………え……大丈夫なんですか? 嘘……ホントに通っちゃった……キョンくん、何で……」
「行きましょう! 時間は、俺たちが秋葉原に着く二時間前で!」
「へ!? あ、ははい、目をつぶって、しっかり手を繋いで下さい!」
 待ってろ「長門」。これで終わらせるんだ。俺たちの平穏な日常を取り戻あー気持ち悪い気持ち悪いあー無理無理出る焼きそばパン出る…………。



 初日。新宿都庁。
「本当にわたしだけ帰っちゃっても大丈夫なんですか……?」
「はい、大丈夫です。何か不都合があれば上から同行するように指示が出るはずじゃないですか?」
「あ……それは……うん、そうかも……」
 俺が向かう先には、朝比奈さん(大)が待っている。それを考慮した上での判断だ。これはどうやら間違いではないらしい。

「じゃあ……わたしは行きますね。キョンくん、よくわからないけど……頑張って下さい」
 小柄なマイエンジェルは、餞別に小さなガッツポーズをくれた。二十四時間働けるぜ。

 さて、金は……あるな。こんなアホなミスはしてられないぞ。よし、行くか。目指すは秋葉原。今日は日曜日。

 そう、「歩行者天国」。



 思っていたより随分早く着いてしまった。記憶の通り、駅前は人でごった返している。あのメイドさん覚えてるぞ。朝比奈さんが一際熱烈な視線を向けていたからな。ふむ、なかなかに可愛らしい佇まいだ。どことなく森さんに似ているか?
 一つだけ悩んだことがある。長門を一緒に連れてくるかどうかだ。相手が相手だけに、もしもの場合は俺と朝比奈さん(大)だけではどうにもならないだろう。でも、敢えて連れてこなかった。簡単なことだ。ハルヒを独りにしたくなかった。それだけ。これは超ド級のミスかもしれないな……知ったことか。何とかなる。長門にも休んでもらわないと。

 頃合を見計らって、歩行者天国状態の大通りに出た。ここも凄まじい人の数だ。渋谷とは全くベクトルが違う亜空間である。目を凝らして周囲を見渡す。どこだ? どこにいる……。


 いた。

「朝比奈さん!」
「キョンくん! 良かった……来てくれたんだ……」
 みるみるうちにくりっとした目に涙が溜まっていく。
「会えないかと思った……ここで会えなかったら、わたしどうなっちゃうんだろうって……怖かった……」
「大丈夫です。俺がついてますから。この先どうなるかはわからないとしても、俺がここに来るのは既定事項だったんですよ」
「……そうかもしれない。うん、きっとそう。だって、キョンくんだから」
 一億ドルの笑顔がはじけた。これがゴール地点というわけには行きませんかね?
 そうは問屋がおろさなかった。ですよね。

「キョンくん、来ました」
「……時空震ですか?」
「はい。とても強い揺れが起きています」
 おそらく今駅前の電気量販店は一騒ぎになっているだろう。これが原因だったのか。しかし朝比奈さん(小)は小さな時空震とか何とか言っていたような。
「この空間は、あのもう一人の長門さんの力によって遮蔽されているんだと思います。規模が大き過ぎて完全には抑えきれなかったみたい」

 もう向こうのフィールドに上がってるってことか。今頃になって緊張してきたな。相手は「長門」……弱点は何だ? 長門に嫌いなものなんてあったっけ? いや、ないな。好き嫌いなく何でもよく食べる健康優良児だから……。

「な……何なの、これ……」

 周りを歩いていた人たちが皆、立ち止まってこっちを見ていた。道幅いっぱいに広がった人の輪の中心に、俺と朝比奈さんがポツンと取り残されていた。

「どうなってるんだ……? 何の真似だよ気味が悪い!」
「何だろう……何の感情も見えてこないんです。みんな虚ろな目をしてる……誰かに操られているような……」

「そう。わたしがやってるの」

 おいでなすったか。

「来てくれた。会いたかった」
 生憎俺は共感しかねるな。
「お前は『長門』じゃないな?」
「……」
 どうした。何で黙るんだ。
「目的は何だ。なぜ長門を狙った? なぜ俺らの行く先々で異常を発生させた?」
「……」
「お前は誰だ? 長門の姿をした、お前は一体誰なんだ!?」
「……わたしは、長門有希」
 だからお前は俺の知る長門じゃないと、

「聞いて」


 ……何でだ……? こいつは長門じゃない「長門」なはずだろ? なのに……。 

「……聞いて」

これじゃまるっきり……長門じゃないか。

「わたしは、ナガトユキ。あなたと共に在る『長門有希』ではない。わたしもあなたと共に在る『長門有希』も、無数に存在する長門有希の可能性の中の一つ」
 ……。
「本来ならば、長門有希は唯一つの長門有希でしかあり得なかった。でも、あるきっかけが長門有希に無数の可能性を与えた」
 ……。
「そのきっかけが、あなた」
 俺、だって?
「覚えている? わたしが『長門有希』だった世界を。わたしがあなたと共に在った世界を」
 ……。
「わたしを助けてくれた。独りだったわたしに、声をかけてくれた」
 ああ……そうか。そうだったんだ。
「あなたは、わたしの側にいてくれた」
 俺の妄想力も、捨てたもんじゃないな。
「でも、あなたは帰っていった。あなたの世界へ。世界は消えた。わたしが『長門有希』である世界は消えた。わたしは誰でもなくなった。わたしはまた独りになった」

 ……長門。お前は長門だ。


「わたしは長門有希としての力を取り戻した。でも、わたしの世界はもうなかった。無限に広がる世界の回廊を、独りで彷徨い続けた」
 ……入部届、書いてやれなかったな。
「そして、見つけた。あなたを。あなたの世界を」
 ……どんな小説書いてたんだろう。
「もう一度、『長門有希』になりたかった。あなたの側にいたかった」
 ……。
「伝えたかった」
 ……。
「わたしだけ。他の長門有希にはない、わたしだけの気持ち。あなたには、伝えられなかった」
 ……今伝えてくれよ。
「あなたはこの世界に在ることを望んでいる。わたしの望む世界を望んではいない。わかってしまった」
 ……長門。

「だから、もうオワリ」

 終わり?

「わたしはコドク。これからも永遠に。だから、あなたにも、コドクをあげる」
「長門……おい、長門!」

 何だあれ。誰だ? 何か持ってる。何だろう。黒い。黒い何かだ。こっちに向けている。黒い何かを。誰に向けてる? あれは何だ…………。

 あれは何だ!?

「朝比奈さん!」

 パンッ……!


 


 何の音だ? 破裂音? あれ。痛え。何だこれ。マジで痛いんですけど。胸んとこ。痛い。え? 何? これ、ヤバいんじゃないの? え……? 嘘だろ…………? 朝比奈……さん…………何……ですか…………? よく…………聞こえ…………。

 

 

 

 あれ? 長門が二人?

 

 

 

―……
―……
―……あれ。何だここ
―おーい
―……
―……
―返事なし、と
―……ん?
―……長門か
「……」
―長門、ここどこだ?
「わたしの世界」
―……何だそりゃ。真っ暗だぞ?
「そう」

―……出られんのか?
「不可能」
―……不可能か
「……」
―……まぁ、別にいいや
「……」
―……眠いな
「ごめんなさい」
―は?
「ごめんなさい」
―……どうしたんだよ?
「嘘」
―……嘘?

「ここから出て。あなたの世界に帰って」
―出られるのか?
「出られる」
―そうか。じゃあ出るわ
「わたしも出る」
―そうか。一緒に行くか?
「先に行って」
―……わかった。先行くぞ

「……待って」

―……何だ?



「好き」



 ……長門?

 

 

 

「長門!」
「何」
「ぅおぁっ!」
 あれ? 落ち着け、ここはどこだ? 秋葉原だな。歩行者天国だ。目の前にいるのは誰だ? 長門だ。うん、この独特の無表情は長門に違いない。良かった、安心したぜ。

 じゃないだろ。

「お、おお前どっちの長門だ!? 長門か!? 長門じゃない長門か!? あれ!? 何言ってんだ俺……え!?」
「大丈夫。わたしはわたし。長門有希。あなたと一緒にいたわたし。落ち着いて。説明する」
「え? いやいや、俺……なんか真っ暗なとこにいて、長門が……そうだ、朝比奈さんは!? 長門、朝比奈さ」
「落ち着いて」
 ……はい。

「朝比奈みくるの異時間同位体から事情を聞いた。あなたと朝比奈みくるの異時間同位体はもう一人のわたしと接触した」
 そう……だったよな?
「あなたは口径十一ミリメートルの拳銃を前方約十メートルに発見し、照準が朝比奈みくるの異時間同位体に合わせられていると判断した。朝比奈みくるの異時間同位体を庇う形で飛び込み、左胸に被弾して倒れた」
 は? じゃあ俺、死んでるじゃん。
「生命活動は維持されている。情報操作は行っていない」
 心臓に直撃して生きてんの? 何これドッキリ?

「わたしは朝比奈みくるの指示で時空間を移動しこの時間平面上に来た。朝比奈みくるは時間移動を行った地点で待機している。ここへ辿り着いた時既にあなたは倒れていた」
 ……長門は? もう一人の長門は?
「還った」
 どこに?
「わたしの中」
 …………はい?
「わたしが起こした世界改変を修正する際に発生したバグのようなもの。わたしの情報の一部。涼宮ハルヒの能力によって変異し実体化したと推測する」
 意味が全くわからん。つーか結局ハルヒじゃねえか!
「そう」
 ……で、朝比奈さんは? ああ、おっきい方な。何がって? ……背だよ背。
「帰った」
 そうか。無事なんだな。良かった。
「わたしたちも帰らなければならない」
 ……そうだった。よくわからんが、とりあえず俺は生きてるらしい。問題も全部解決した……んだよな?
「した」
 まだまだ聞かなければならない話は沢山あるが、とりあえず帰らなければ。ハルヒと朝比奈さんを待たせている。古泉には謝っとかなきゃな。やれやれ……うん、本当に、やれやれだ。




「遅い!」
 んなことないだろ。待たせたって言っても高々五分くらいだったはずだぞ?
「勝手に意味不明なこと叫び出してみくるちゃん連れてっちゃうし。本当に天井知らずのバカっぷりね」
 言わせておけばバカバカと慇懃無礼な奴め。
「みくるちゃん? 何してたのかしら?」
「はわっ!? えっと……その……あうぅ……」
「何? 言えないってわけ? ふーん」
 アナコンダに睨まれたアマガエルはどんどん縮んでいく。
「……ったく。有希までいなくなっちゃうんだから。団長が団員のために席取りなんて前代未聞、空前絶後よ? わかってんの? 団員としての自覚に欠けるんじゃないの?」
 大声でまくし立てるハルヒだったが、不思議と怒っている様子には見えなかった。むしろ楽しんでいる。蟻の巣の中に細い枝を入れてイタズラな笑顔を見せる、幼い子供のように。
「で、古泉くんは? まだトイレ? 大丈夫かしら」
 すまん、古泉。でもうまく言っといてくれってお前が言ったんだからな。


 俺と長門と朝比奈さんがこの時間に帰ってきてから三十分ほど経って、古泉がとんぼ返りしてきた。俺は入口まで出向いて古泉の話を聞いてやることにした。「機関」が手配してくれた車で秋葉原に移動する間に、閉鎖空間は勝手に消滅してしまったのだという。
「真に不可思議なこともあるものですね。何もかもが急なものですから、僕も参ってしまいますよ」
 そのくらいでヘタレな発言するんじゃない。俺はまた死にかけたんだぞ。多分。
「何があったのか、後ほど詳しくお聞かせ願ましょう」
 すみません遅くなりましたと頭を掻きながら席についた古泉に、団長から一言。
「お腹大丈夫?」
 古泉が怪訝そうに俺を見ている。俺は知らねえっての。



 夕刻。紺と紅のグラデーションが黄昏を染めていく。落ち行く日が夜の帷を開かんとする頃、俺たちは紅白に彩られた電波塔の展望室にやってきた。
「みくるちゃん。ここに立ってみなさい」
「い、いやですよぅ! 怖いですぅ!」
「だーいじょうぶよほら! 全然余裕よ? ねっ?」
 床のタイルが一部透明になっていて、宙に浮いている気分を味わえるのだという。周りの目もあるからそこでぼんぼん飛び跳ねるのは止めてくれないか。

 長門は例によってガラス窓に張り付いて動こうとしない。
「……」
「……長門、どこ見てるんだ?」
「ハチ公」
「……」
 長門は犬も好きなのか? 猫派だと思っていたんだが。
「一つ聞いてもいいか?」
「いい」
「あのもう一人のお前は、お前の可能性の一つ……とか言ってたよな?」
「そう」
「てことは何か? 今のお前もああなっちまう可能性があるってことか?」
「……」
 ゆっくりと振り返って、鮮やかなパステルホワイトの無表情顔を向けた。
「ないとは断言できない」
 ……そうだよな、今のお前にはわからないんだったよな。あの日長門は確定した未来を捨てて、今を生きる決意をした。その長門に対してとんだ愚問を投げか
けてしまったものだ。
「あなた次第」

 古泉に事の全貌を明かしてやった。
「そんなことが……僕の勘は当たってしまったようですね。朝比奈さんとあなたがご無事で何よりです。何の役にも立てなくて申し訳ありません」
 いや、ある意味お前の予言が最大の道標だったかもしれない。
「では、長門さんの方から異常を感知したという旨の伝言はないのですね?」
「そうらしいな。新宿とここは全く異常なしだと」

「一件落着ですか」
 そんな簡単に言ってくれるなよ。
「やはり涼宮さんは無意識の内に、真実に触れていたのでしょう。あの閉鎖空間はある意味彼女からのメッセージだったのかもしれませんね」
 閉鎖空間が秋葉原に現れなかったら、俺は朝比奈さん(大)が残したヒントを答えに結び付けられなかっただろう。あいつも助けてくれてたんだな。本人が意識してないから感謝のしようがないんだが。
「なぁ古泉」
「何でしょう」
「……自分が孤独だって感じることあるか?」
 豆鉄砲食らった鳩よろしく呆気にとられた表情の古泉だったが、腕組みをしてしばらく押し黙った後、
「そうですね、一昔前はしばしば。今はそうでもありません。あなた方のお蔭ですよ」
「……そうか」
「ただ、やはり本来の僕はまだ孤独と言えるかもしれません。あなたの目の前にいる古泉一樹がある程度後天的に形作られたものであることは以前説明した通りです。僕が真に孤独から解放される時が来るとすれば、それは僕の能力が完全に消えてなくなる時でしょう。いつになるかはわかりませんがね」
 ……早く来るといいな。
「何です?」
「何でもない」


 夕日をバックにして、五人で写真を撮った。東京合宿最後の一枚となった。

 俺たちは、独りじゃない。



 ホテルの自室で呆けていると、長門がやってきて一枚の便箋を差し出した。
「朝比奈みくるの異時間同位体が、あなたに渡すようにと」
「朝比奈さんが?」
「読んで」
 メッセンジャー長門は任務を完了するとさっさと出て行ってしまった。ベッドの上で仰向けになり、朝比奈さんらしいキュートな便箋を開いた。


『キョンくん、まずあなたに謝らなければなりません。あなたの命を危険にさらしてしまった。ごめんなさい。

 わたしはあなたに助けられた。あなたが庇ってくれなかったら。多分わたしは……。

 あの出来事はわたしという存在の分岐点だったんだと思います。わたし独りの力では乗り越えられない分岐点。わたしを導いてくれたみんなには本当に感謝しています。ありがとう。

 キョンくん、あなたはとても強い人です。誰にでも安心を与えてあげられる人。だから、みんなの側にいてあげて。誰も寂しい思いをしなくてすむように。そうすれば、あなたも寂しくないでしょう? 特に涼宮さんのことはしっかり見ていてあげて下さいね。

 わたしも、独りじゃない。仲間がいるから。あなたがいるから。また会いましょう。本当に、ありがとう。

 ps.あなたを助けたわたしの方もよろしくね。 朝比奈みくる』

 

 

 

 長い一日が終わろうとしている。目を閉じて、心に暗幕をおろす。真っ暗だ。誰もいない。

 

 気のせいだろうか。誰かがいる。誰だかわからない。遥か遠くにいるのか。違う。すぐ近くにいる。誰だかわからないくらい、近くにいる。誰だかわからないその顔は、近づいて、近づいて、



 優しく触れた。



 その晩、俺はまた夢を見た。内容は覚えていない。

 

 

 

***

 

 

 

 帰りのバスの中。土産用に買ったはずのお菓子を早速つまみ食いしながら、不思議探索ツアー@東京のお疲れ会兼反省会が開かれた。
「デジカメの容量パンパンになるまで写真撮りまくったし、何か写ってはいけないものが二つや三つ写っちゃっててもおかしくないわね」
 縁起でもないこと言うな。
「明日はとりあえず休みにしときましょ。流石にあたしも疲れたわ。しっかり休養とったら、来年度に向けて活動再開。春休みって何でこんなに短いのかしらねー……知ってる? 大学生って春休み一カ月以上もあるのよ! ずるいと思わない? 仮にも学生なんだからもっと勉学に励むべきよ」
 お前つい昨日「大学生になったらいくらでも時間ある」とか言ってなかったか? 別に構いやせん。言わせとけ言わせとけ。どうせ大学生になったらなったで「せっかく社会が保証してくれてるモラトリアムなのに、それを満喫しない手はないわ!」とか何とか言って遊びまくるんだろうし。
「ねぇキョン。一応予定は決まってるんだけど、あとやんなきゃいけないことって何だと思う?」
「お前は何でもマストだな」
「当前よ。思い立ったが何とかって言うじゃない」

 お前の吉日は必ずしも俺の吉日にはならんのだ。
「春よ春。春らしいイベントないの?」
「……花見とか」
 ……それがあったか! みたいな顔するなよ。
「不覚だわ……あたしとしたことが、こんな盛大なイベントを忘れてるなんて。場所はどこにする? 前に映画撮影したところとかいいんじゃない? お弁当も必要ね。もう少し人呼んだ方が盛り上がるわ。鶴屋さんとか、あんたの妹さんも呼んであげなさいよ。それからね……」

 はぁ……新学期が始まるまでに、俺の精神はどれだけ痩せ細っていくんだろうな。考えるのも面倒くさい。わかった。何でもいい。雑用も引き受けよう。好きにしてくれ。だがいいか、これだけは譲らないぞ。

 俺も楽しんでやるからな。

 それが俺の、平団員としてのプライドだ。安いプライドだって? 余計なお世話だ。

 

 夜は更け、月は高い。トランプを握ったまま眠りこけるハルヒ。その肩に寄りかかって妖精のような可愛らしい寝息を立てる朝比奈さん。窓にもたれかかり、腕組みをして肩を揺らす古泉。俺の隣、窓際の席で本を読む長門。小難しい洋書だ。タイトルが英語ですらないようなので、何の本なのかは皆目検討がつかない。

 

 微睡みの中、ふと視線を上げた。

 月明かりに白く照らし出されたその横顔は、穏やかで、儚げで、優しく、美しかった――



―……
―……
―……わたしは、ここにいていいの?
「いい。あなたはわたしだから」
―そう……
「……」
―……ありがとう
「あなたに言わなければならないことがある」
―……何?
「……ごめんなさい」

―……
「わたしは知っていた。気付いていた。あなたという存在。あなたの気持ち。でも、隠してしまった。異常だと思ってしまった」
―……そう
「異常などではない。あなたの気持ちは、わたしの気持ち」
―……そう
「わたしは逃げない。変化から逃げない。わたしという存在がどう変化したとしても、変わらないものがあるから」
―……わたしも一緒に
「一緒に」



―……伝えられた。わたしの気持ち。彼が気付いているかはわからないけど
「伝わっている。きっと」
―……あなたは、どうするの?
「わたしは……」
―……
「……」

―……一言でいいから
「……」



「…………キョン」



(了)

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最終更新:2020年03月24日 05:39