全ての事の発端は、俺ががらにもない真似を思いついてしまったことだったのかもしれない。しかし、だ。事態がこんな風に大事になってしまったのは古泉の要らぬおせっかいだったことだけははっきりと明言しておこう。

 俺自身そう大して人に威張れるほど立派な人間であるわけではないが、それでも「世話になったら礼をする」という良識くらいはわきまえているつもりだ。例えそれが、あの無敵の傍若無人大将軍涼宮ハルヒ相手であっても。
 高校二年生の春、俺がこうして気楽に新学期を楽しめているのも、ひとえにハルヒのおかげである……とまでは言いたくはないが、とにかくあの小うるさい団長様のおかげである程度のんきに新学期を迎えられたことは間違いのない事実であることは認めよう。
 赤点すれすれだった俺の成績が不死身の爺さんのごとくかろうじて持ち直し、とりあえずは及第点は付けられる程度には回復した。それはよく言えば世話好き、しかしまぁ本当のところは、ただの重度のおせっかい焼きであるハルヒが試験前の数日間、俺の家に通って家庭教師をしてくれたおかげであることは認めざるを得ない。
 しかしながら、欲張ったことを言うなら、右腕に「教官」と書かれた腕章を付けて得意満面のハルヒに何か間違いをするたび「あんたってほんとに馬鹿ね」と言われても、耐え忍び続けた俺の努力も評価してもらえるとうれしい。面白がって、ハルヒがいる間中俺の部屋に入り浸っていた妹の前だったことも加味していただけるとありがたい。
 そんなこんなであったが、なんだかんだいっても無報酬で時間を割いてくれて、しかも俺のためにわざわざお手製の問題集を用意してくれたハルヒに対して感謝の気持ちがもちろんなかったわけではない。いくら「アホ」とののしられても、ハルヒの得意満面の笑顔を見ていると怒る気も失せたものだし。
 まぁ、それで長々とした前置きで俺が何を言いたいのかというと、つまりはハルヒに礼をしなくてはならないと思ったということだ。ちなみに感謝していたのも事実ではあるが、ハルヒに借りを作ったまま放置しておくのが恐ろしくて仕方がなかったというのもまた事実である。
 礼としてははっきりと形でわかりやすくて、そして後で形として残らないものがいい。そう考えた俺が思いついたのは飯を奢ることだった。これならはっきりと礼をしたと言えるし、後に残ることもないから後腐れの心配もない。……とはいっても、その後腐れの心配というのが具体的に何かと言われても、俺には答えられないのだが。
 しかし、だ。ハルヒを飯に誘うといっても、所詮は悲しいかなタダの高校生であるこの身。そういうときに使えるおしゃれな飯屋など俺の行動範囲にあるわけもなく、かといって雑誌に紹介されているようなところは高すぎるし、なによりハルヒはそういうオーソドックスを嫌がる。どうしたものかと途方に暮れていた俺は、ついぽろっと漏らしてしまったのだった。

 

 あれはちょうど新学期が始まった直後のことだ。例によって俺は放課後は部室に顔を出し、相変わらずの日々を過ごしていた。
 ちょうどその日は朝比奈さんとハルヒが掃除当番で、部室には俺と古泉と長門の三人しかいなかった。俺は古泉が持ち出してきたオセロ(新年度ということで原点回帰という意図があったらしい)を古泉とやりながら、ぼんやりと時間を過ごしていた。
 適当にオセロを白から黒へ裏返しつつ、春のせいか、どこか心の片隅が緩んでいた俺はついついこんなことを口走ってしまった。
「なぁ、古泉。なんかお前オススメの飯屋とかないか」
「とつぜんどうしたんですか?」
 古泉は腕を組みながら黒く染まっていくゲーム盤を見つめていた。
「ん? いや、昼飯が割合安くて、それでいて結構うまくて、雰囲気のいい店知ってないかなと思って」
「それは誰をお誘いするつもりなんですか?」
「え?」
 ここで俺は初めて自分の失言に気が付いた。古泉の野郎は目線をゲームから外して俺に向けていた。ニヤニヤとしたその目線が腹立たしい。
「……別に、ちょっと訊いてみただけだ。ただの日常会話だ、気にするな」
 そうできる限り興味なさげなフリを装って答えてみたのだが、もはやこれは後の祭りだった。いつの間にか部室の隅から静かな視線とプレッシャーも感じた。
「そう、ですか」
「そうだ」
 そのまま俺は右手でゲーム盤を指差して、古泉の番だと合図を送ったのだが、古泉は笑ったまま動かなかった。
「そうですね。オススメのレストランならありますよ。最近出来たところで、僕の知り合いが経営していまして――」
「お前の知り合いの店はパスだ」
 パブロフの犬よろしく条件反射的に俺は断った。古泉の紹介する店なんて怪しくて、とてもじゃないが入れん。いろいろと注文を付けられた挙句、裸で逃げ出すなんてそんなのはごめんだからな。
「大丈夫ですよ。機関は何の関係もありません」
 このセリフほどこの世で信用できないものはない。
「本当に普通のレストランですよ。料理の味は僕が保証します。それに、そこは最近出来たばかりなので、知名度を上げるため結構サービスがよくてですね、日曜日の昼のランチなんかは一人なんとたったの二千円のサービスがあるんです」
 古泉の話すいい話は信用してはいけない。
 俺はその言葉を頭の中で三回ほど繰り返した。
「そんなに疑わないでくださいよ」
 古泉は苦笑いをして右手を顔の前でひらひらと振った。
「本当にただのサービスのいいレストランです。二千円の料理といっても、よそのレストランでは、そうですね……五千円くらいの価値はあるでしょうか? それにそんなに堅苦しくないお店なので高校生でも入りやすいですよ」
「……本当か?」
「ええ」
「本当に大丈夫なのか?」
 そう繰り返す俺の頭の中では大きく古泉の話に興味が傾いていた。
 値段の安さもさることながら、高校生でも入りやすいという点が大きい。古泉はそういう部分でしょうもない嘘をつくような男ではないから、そこは信用できる。ただ心配なのは――
「本当にお前らは関係ないんだろうな?」
「ええ。それはもう神に誓って」
 こいつらのあがめている神というのがハルヒというのが問題だが。
「大丈夫ですよ。本当に普通のレストランです。それに僕たち『機関』が余計な余興をすることもありませんから、安心していただいて結構です」
「まぁ、そうだな……一応、参考までに店の名前と場所だけ教えておいてくれ」
 そうは言った俺だが、頭の中では予備校での一回の授業で四千円くらい取られるわけだから、それくらいの見返りがハルヒにあってもいいよな、というようなことを考えていた。
 そして、この事態に至る。

 

       *

 

 例の古泉との相談の数日後、早速俺はこの話をハルヒに切り出そうとしていた。
 まぁ、当然のことだ。ハルヒの奴が何か見返りにとんでもないことを言い出す前に、こちらから手を打っておいたほうがいい。善は急げだ。
 ただ、問題はその話をどこで切り出すかだった。教室だと谷口とかの目がうっとおしい。下手にそんな場面を見られたらどんな噂を立てられるかわかったもんじゃない。
 部室というのも却下だ。なんとなく、長門や朝比奈さんの前でハルヒにそうやって声を掛けるのはためらわれる。古泉の奴に何か言われるのも癪だし。
 というわけで、結局俺はハルヒを例の階段の踊り場に呼び出すことにしたのだった。あそこなら人気も少ないし、話を余計な人間に聞かれる心配もない。そう思って、その場所を選んだのだったが……
「ハルヒ、ちょっと話したいことがあるから、付き合ってくれないか」
 思えば、この一言からすでに俺は失敗していた気がする。

「なによ、急にこんなところに連れ込んで」
 ハルヒは見て分かるとおり、全身から不機嫌オーラ全開だった。人から指図されるのが大嫌いなこいつを半ば強引に連れてきたのだから、当然と言えば当然の反応だったのだろう。
「だから、話があるんだ」
「だから、その話って何よ?」
 うっ、とうめいて俺は少したじろいだ。そんなに攻撃的な目で俺を見なくてもいいじゃないか。別に俺はお前にメシを奢ろうとしているだけなんだし。
「だから、その話っていうのは」
「だから、何?」
 俺がうまく話を切り出せないでいる間に、坂道をベビーカーでも転げ落ちていくように加速度的に不機嫌さを増していくハルヒの表情。まずい。これはさっさと用件を言うに限る。
「お前、今度の日曜、暇か?」
「はぁ?」
 なにもそんなに顔をしかめることないじゃないですか、ハルヒさん。
「何よ。あ、あたしの予定がどうかしたわけ?」
 両手を腰に当てて仁王立ちで俺をにらみつけるような、ハルヒ。落ち着きなく片足をそわそわと動かしている。だから、なんでそんなに攻撃的なんだ、お前は。
「別に。もしも暇なら、お前を昼飯にでも誘おうかと思って。ほら、この間試験勉強手伝ってもらった礼がまだだっただろ? だから、と思ったんだが。まぁ、気乗りしないなら断ってくれてもかまわないぜ。手間取らせて悪かったな」
 と言って、俺が煙を上げて今にも沈没しようとしている戦艦のように身を翻してさっさとその場から離脱しようとすると、
「ちょっと、待ちなさい」
 ハルヒの奴に袖をがっとつかまれた。
「なに、勝手にあたしの返事を決めているわけ? あんた、あたしの考えていることが手に取るようにわかるとでもいうわけ?」
 わかるか、んなもん。
 お前の考えていることは、おそらく今まで俺が出会った人間の中でもっとも理解の範疇から外れているものだ。
「な、なんか、随分と殊勝な態度ね。なんか、裏でもあるんじゃない?」
 裏などあるか。純粋にきっちりと借りは返す、それだけのことだ。
「俺だって男だ。こういうことははっきりとした形できちっとしておきたいからな。曖昧にやって伝わってなかったっていうのはよくない」
 きっちりと借りを返した既成事実を作っておかないと、お前相手だ、どれくらい利息が膨れ上がるかわからないからな。
「ま、まぁ、悪くはない話ね。あんたも一応ヒラの団員として団長に対する敬意みたいなのが出てきたみたいじゃない。その、あたしも貴重な時間を割くのはもったいないけれども、そこらへんの団員の気遣いを慮るというのもまた団長の義務であるわけだから」
 前置きがやたらと長い。
「なんていうのかしらここらへんで団員と親睦を深めるのも悪くはないっていうか」
 別に改めてお前と親睦を深めたいわけではないのだが。
「それで、結局どうなんだ?」
 ハルヒはむっと口を突き出した。どうも俺の対応が気に食わなかったらしい。
「時間を割けないことはないけれども、はっきり言ってあたしも忙しいんだから、たいしたことのないお店ならお断りよ」
 だから、俺が訊きたいのはイエスかノーかの簡単な二択なのだが……
「リストランテ・バリーリバーってとこだ。なんでもそこの昼にお得なコースがあるらしくて」
「バリーリバーって!」
 ここでハルヒが目を丸くして大きな声を出した。
 せっかく人気のないところで話をしているのに、そんな大声を出すなよ。全く。
「何だ、知っているのか?」
「え、ええと。まぁね。……で、そこの日曜のお昼のコース、なのね?」
「あぁ。驚いた声を出していたが、有名なのか、そこは?」
「有名なところよ。よくタウン誌とかで紹介されている話題のレストラン、ね」
 ふーん。ハルヒの奴もそういうのチェックしていたりするのか。まぁ、なんだかんだ言っても結構食い意地の張っている奴だし、情報収集も好きな奴だから、そこまで驚きはしないが。
「で、そこはどうなんだ? お前のお眼鏡に適うようなところなのか?」
「……行った事ないから、知らないわよ」
 おいおい。それじゃあ、話が進まないじゃないか。
「じゃあ、それ以外の――」
「別にあんたがそこがいいっていうなら、そこでいいわよ」
 代替案を出そうとした俺の言葉にハルヒの言葉がかぶさった。ハルヒは腕組みをしてあさっての方向を向いている。これは、一応肯定……なのか。
「それじゃあ、そういうことで――」
「じゃあ、日曜の十一時駅前集合! それでいいわね?」
 なんでお前が仕切るんだ、と思いつつも、そこはおとなしく頷いておいた。

 

       *

 

 待ち合わせ当日の朝。改めてハルヒと二人っきりで待ち合わせと思うと、なぜだか妙な気分だ。
 思えば前にもこうしてハルヒと二人っきりになってしまったことがあったが、あの時は俺とハルヒ以外の連中の都合がなぜか急に悪くなって、なし崩し的にそうなっただけだったからな。けど、今回は違う。俺が二人っきりに誘って、それでこうなったわけだから。
 頭の中で、ぼんやりと朝比奈さんや長門を誘っておけばよかったかな、という考えがよぎる。しかし、今回は名目上はハルヒに対する俺の礼だ。関係のない朝比奈さんや長門を誘うと、その大義名分が大いに薄れてしまう。それにまさか、ハルヒだけ奢って彼女たちは自腹なんて真似はできないしな。……絶対に呼ぶことはないが、古泉の奴は問答無用で自腹にしてやるが。
 朝七時。なんでこんな健康的な時間に起きているのかわからないが、なぜかみょうにそわそわして落ち着かない。やはり慣れない事はするものではない。
 仕方なしに俺は鏡の前で身だしなみを整えたり、着ていく服を選んだりした。一応、予約はしておいたが、TPOというものはきちっとわきまえておかないといけないからな。古泉の奴はカジュアルなレストランだと言っていたが、それでもある程度はちゃんとしておいたほうがいいだろう。けど、堅苦し過ぎるのもよくないし。などと考えているうちにあっという間に時間は経ってしまった。
 結局、普段と大して変わらない格好に、おニューのジャケットを羽織っただけといういでたちで俺は出発した。普段は気にも留めてはいないが、こういうときに改めて自分のおしゃれセンスのなさが悲しくなる。


 午前十時半に駅前に着いた。ハルヒの奴はまだ来ていない。普段ならハルヒに喫茶店代を奢らせるところなのだが、残念ながら今日は俺がメシをご馳走するという建前なので、そうもいかない。だったら、そんなに急いでくることもないのだが、俺のほうが後から来たりすると間違いなくハルヒの機嫌は悪くなるので仕方ない。
 そういえばハルヒってどこに住んでいるんだろう? ハカセ君の家に近いんなら、大体の当たりは付けられそうだが。
 そんなことをポケットに手を突っ込みながらぼんやりと考えていると、改札口から見慣れた影が現れた。そいつは俺を見つけるや、顔をしかめて、大股で向かってくる。なんか全身から気合みたいなものがみなぎっている、ような気がする
 ハルヒの奴は白のブラウス、に上品な感じの茶系のワンピース、黒の靴下に黒のローファーを履いていた。普段のスポーティーな服装ではなく、一応こいつなりにTPOを考えた結果というところか。こうやって遠くから姿だけ見ていると、どこぞやのお育ちのいいお嬢様に見えないこともない。ただあの歩き方じゃあ、まるで果し合いをするみたいだが。
 俺はその歩く姿を見て、ため息を付いた。
「どれくらい待った?」
 俺に近寄ったハルヒはぶっきらぼうにそう言い放った。
「そうだな、ちょうど二十分くらいか」
 駅前の時計は十時五十分を指していた。
「あんたねぇ……」
 ハルヒは口を突き出して上目遣いにじとーっと俺をにらみつける。
「なんだよ」
「そういうときは今来たとこって答えんのが筋ってもんでしょ」
 まさかデートじゃあるまいし。というか、それ以前にそう言うんだったらもっと可愛らしく「待った?」って訊いてきてくれ。
「ま、どうでもいいわ。あんたにそんなデリカシーを期待したあたしが馬鹿だった。ほら、さっさと行くわよ」
 ハルヒはさっと身を翻すと、ズイズイ人混みを掻き分けて進んでいく。俺はその後を頭を掻きながら付いていく。
 一応、イニシアチブは俺にあるはずなのだが……まぁ、いつものことか。

 

       *

 

 リストランテ・バリーリバー。最近出来たらしいおしゃれな洋風レストラン。普段のランチは五千円からというそれなりにいいところなのだが、この日曜日だけの特別ランチメニューのおかげで俺のような貧乏学生層からもかなり親しまれているらしい。
 ハルヒのオーケーみたいなものを取り付けた後、早速電話を掛けてみた。ひょっとしたらダメかもしれないと思っていたのだが、運よく予約は空いていたらしい。
 なんかわざわざ予約してまでメシを食いに、しかもハルヒと二人っきりというのは非常に変な感じがするが、いざメシを食いに店まで行って「満席です」なんて事態になると、俺がハルヒにどんな目に遭わされるか、想像するだに恐ろしい。
――なんか、事が当初の俺の希望より大事になっている気がするな。
 そんなことを考えながら、ハルヒの背中を追いかけていた俺に、実際それ以上に大事になっていると言う事実が突きつけられたのは十分後だった。

 俺は店の前のメニューを見て、呆然と口をあけていた。驚愕、全てはその一言に尽きる。まさか、こんなことになっているとは、思わなかった。
 目の前に踊る昼の特別ランチの文字。メニューの内容はなんと普段なら七千円のコースと同じ。しかも、それに加えてサービスまであるらしい。本当にこれはお買い得だ。非常にお得なメニューだ。しかし、俺の目を釘付けにし、そしてついでにこの心臓に杭を打ちつけてくれたのはその文字ではない。
 はめられた。おもいっきり古泉にはめられた。あぁ、確かにお得なランチだ。コストパフォーマンス抜群だ。その点については問題ない。
 ただ、ただ――
『カップル限定 お昼のサービスメニュー』
 古泉ぃー! 俺は心の中で絶叫した。

 

 し、しかしだ。あのハルヒがこんなサービスメニューを俺と二人っきりでおとなしく食うとは思えない。きっとまたこのアホンダラケとか怒鳴って――
「ちょっと、キョン。あんたなにしてるのよ」
 ほらな。こうして俺はどつかれるなりなんなりするのさ。料理されるのは俺ってか。はぁ、なんてこった。
「そんなところで、ぼっーと突っ立てないでさっさと行くわよ。あんたに似合わないおしゃれなお店で気後れしてるのは分かるけど、そんなところでしり込みしているほうがよっぽどみっともないわよ」
 ハルヒはそう言うと俺の手をむんずと掴み引いていく。
 ちょっと待て、お前はこのメニューのことを知っていたのか?
 そこで俺は記憶の糸をたぐり寄せた。あのハルヒを飯に誘った階段の踊り場の会話を。

 

――バリーリバーって!
――何だ、知っているのか?
――え、ええと。まぁね。……で、そこの日曜のお昼のコース、なのね?
――あぁ。驚いた声を出していたが、有名なのか、そこは?
――有名なところよ。よくタウン誌とかで紹介されている話題のレストラン、ね

 

 ……ハルヒの奴知っていたじゃないか! そうか、それであんな風に変な態度を取っていたのか。なんとなく納得した。
 いや、ちょっと待て。それどころじゃないぞ。なんかやばい事を俺は口走っていた気がする。俺はこの状況になると考えずに、しゃれにならないようなことを言っていた気がする。

 

――俺だって男だ。こういうことははっきりとした形できちっとしておきたいからな。曖昧にやって伝わってなかったっていうのはよくない。

 

 なんてこったぁー! こ、これじゃまるで、つまり、俺が今日ハルヒに……
 あぁ、今すぐ時間をさかのぼりたい。朝比奈さん(大)、今すぐ俺を過去へ送ってください。時間をさかのぼってあのときの俺の口を塞いでやりたい。
 俺はなんて恐ろしいことを口走っていたのだ……。これじゃ、百パーセント誤解される。あのセリフを吐いてこのカップル限定のレストランに誘ったなんて。こんなはずじゃなかったのに。俺はまだ――じゃなかった、とにかく俺にはそんなつもりはなかったのだ。ど、どうする? まさかここまで来て逃げ出すわけにも行かない。
「もう、ほんとに意気地がないわね。このヘタレ!」
 半分魂の抜けた体をハルヒに引きずられるようにレストランに運ばれていく俺。
 なんてこった。逃げ道は、ない。

 受付から店内をざっと見渡すと、辺りは若いカップルだらけだった。白を基調にした清潔な感じのするインテリアに爽やかなカップルたちの構図はまるで、ドラマの撮影みたいに見える。
 基本的には大学生くらいのカップルが多いようだが、高校生っぽいのも多々混じっている。日曜日だし、値段が安いからな。開店して間もないレストランの話題づくりと、イメージアップ戦略としてはこれは大当たりと言っていいだろう。うん。
 ……ということはここに二人っきりでやってきてしまった俺とハルヒも、つまりはそう見えるということか。
「ちょっと、なにボーっと店内見てるのよ」
 ハルヒにまた袖を引っ張られた。
 そういえば、気が付いたのだが、こいつもそれなりに気を遣っているのか、普段ほど仕草は乱暴ではない。普段なら、芋を引っこ抜くくらいの勢いで俺を引っ張るくせにな。
 そこでふと思い出した。そういえばハルヒの奴はこのレストランの昼のメニューがこういうのであることを知っていたんだよな? だったらなんでこいつは断らずについてきだんだろうか? 普段見慣れたこいつの性格ならけんもほろろに断るものだと思えるのに。……一応、俺に気を遣っているのか? そういえば谷口の話では一応そういう告白の類はちゃんと聞いていたみたいだし。
「ちょっとぉ」
「なんだ?」
 不機嫌極まりないハルヒの声に条件反射的に反応してしまう俺が悲しい。振り返るとハルヒは例のアヒル口。
「あんたね。自分で誘ったんだから、その、ちゃんとエスコートしなさい。それが礼儀ってもんでしょうが」
 エスコート? んなこと言われても、一介のごくありふれた高校生に過ぎない俺にはそんな上等な技術はないわけで。そんな映画に出てきそうな洗練された上品な振る舞いなどは到底出来やしない。
 というわけで、俺はハルヒの手を掴んでそれを引いた。エスコートなどとはとても言えない無様なもんだが、すまないな、俺にはこれくらいで精一杯だ。
 ハルヒの奴も俺にそういうことを期待するのは無駄だと思ったのか、ちょっとうつむき加減のままおとなしく付いてきた。
 普段は全く意識していないが、こうやってハルヒの手に触れると、そのやわらかさと手首の細さに改めてこいつが女なんだな、と思う。いや、改めてそんなことを思ったから、どうというわけはないのだが。

 

 幸か不幸か俺たちの席は見晴らしいのいい窓際だった。丸いテーブルに椅子が二つ向かい合う形で並べられている。白いカーテンを透けて入ってくる日差しが気持ちよさそうだ。
 ウェイターの人が椅子を引いてくれたが、普段そういうことに慣れていない俺には非常に不思議な感じだった。
「それではメニューはサービスコースでよろしいですね? お飲み物はいかがいたしましょうか?」
 ウェイターの人がメニューをすっと差し出してきた。ぎこちない手つきでそれを受け取り開く俺。ちょっとかっこ悪いと思う。
 飲み物を選ぶようなフリをしながら、サービスコース以外のメニューをチェックした。他にも選択肢があるようなら、このカップル限定のコースは避けたほうがベターだろう。他にお買い得なコースがあるなら、もともとそれ目当てで来たように装えばいい。しかしながら、目に入るのは普段の五千円と七千円のコースのみ。このサービスコースはメニューの内容は七千円のコースと全く同じなので、ここでわざと五千円や七千円のコースを注文するのはいくらなんでも不自然すぎる。俺の財布の中の諭吉さんが無理無理と両手を振っている。それになんかハルヒに対するあてつけをするみたいで、それは嫌だ。
「……飲み物は水でいいです」
 そう答えるのが精一杯だった。まぁ、ソフトドリンクなんて大したメニューがないから仕方がない。
「じゃあ、私も水で」
 大して興味なさげにメニューを見ていたハルヒも俺に追随する。
 ウェイターは「かしこまりました」とにっこり笑うと、俺たちからメニューを受け取り颯爽と去っていった。残されたのは変な空気と沈黙に押される俺たち二人。周りはカップルだらけ。
「普段七千円のコースが二千円で食べられるなんて、お得だよな」
 沈黙に耐え切れず俺は言葉を発した。さりげなく、お得だからこの店を選んだということをアピール。
「そうね」
 ハルヒはどこか素っ気無い。時々何かを深く考えるような仕草を見せる。そのたびに物憂げな横顔を見て、俺はドキリとする。忘れがちだが、そうやって黙っているとこいつは美少女なのだ。
 会話がない。会話がうまく続かない。
 ハルヒとの付き合いは結構長くて、中身も濃かったはずなのにどうしてだろう。こうして二人で向かい合うとなぜこんなにも言葉に困ってしまう?
 あぁ、そうか――
 俺は思い出した。こうしてハルヒと二人きりで会うのは実はこれが二回目でしかないのだと。
 なぁ、気が付いているか、ハルヒ? 今お前は時間旅行よりもレアな体験をしているんだ。
 そんな馬鹿なことを考えると、少し気が楽になってきた。思えば、俺は少し身構え過ぎていた。もっと普段どおりでいいはずだ。
「キョン、あんたスープ冷めるわよ」
「え、あぁ」
 考え事をしている間にいつの間にか前菜のスープが目の前に届いていた。
「悪い悪い」
 適当に愛想笑いしながら、慌ててスプーンを手にとってスープを一匙すくう。それを震える手を強引に押さえるように、俺はすばやく口に運んだ。
「って、冷たい?」
「当たり前でしょ。冷製ポタージュなんだから」
 あきれかえるようにハルヒが言った。口調は明らかに俺を責めている。
「いや、その」
「あんた、ボーっとしすぎよ」
 責めるハルヒの視線。言葉を失くす俺。
 とにかく何かを話さないと――
「すまない。えっと、自分で誘っておいてなんだが、ちょっとこういう場は緊張して」
「柄にもないことをするからよ」
「そうだよな。やっぱ普段慣れないことをしようとすると緊張するよな」
「……あんたこういうところで食事するのが慣れていないっていうわけ?」
 墓穴を掘ったような気がする。ハルヒの言外に含まれた意味が俺の中で邪推されていく。
「いや、まぁ。ははは」
 わざとらしく笑い声を出す俺。情けない。
「それ、飲むの? 飲まないの?」
 ハルヒは頬杖をつくと、手に持った小さなスプーンで俺のまだなみなみとスープの残ったカップを差した。どこか物憂げな表情に高い陽が差して、俺は思わず息を止める。
「飲む……よ」
「そう」

 

 それから俺たちはしばらく言葉を交わさずに黙々と食事を続けた。
 正直、ハルヒが不機嫌で怒っているほうがまだよかった。こんな風にどこか失望したような表情でいられると、本当に俺は心臓をわしづかみされているような感覚に陥る。
 オードブルのニンジンをすりつぶして作ったムースを口に運びながら、俺は必死に話題を考える。テレビの話、学校の話、勉強の話――けど、どれも俺は的外れな気がした。
 なんでこんなことになっているんだろう? 俺はただハルヒにお礼をしたかっただけなのに。
 こんなにつまらなそうなハルヒの顔を見たかったわけじゃない。これじゃ、まるで出会った当初のハルヒみたいじゃないか。
「なぁ、ハルヒ。知っているか、俺とお前がこうして二人っきりで会うのは二回目なんだぜ」
 気がつけば、俺はそんなことを口走っていた。
「あんた、そんなことを覚えていたわけ」
「――あぁ、なんとなくな」
 二人っきり、そんな言葉を口に出すつもりはなかったのに。いつの間にか、俺の口を突いて出ていた。
「不思議だよな。なんかお前とは随分と長い間一緒にいたような気がするのに」
「……たったの一年でしょ」
「随分と長い一年だったけどな」
 俺は笑った。
 ハルヒも、笑った。
「はじめのお前の自己紹介には本当に驚いた」
「それで思い出した。あんたあたしに失礼なことを訊いてきたわよね」
「失礼なこと?」
「『アレは本気で言っているのか』って」
「あのなぁ。普通の人はそういう反応をするんだ」
「あたしはいつだって本気よ」
「知っている」
 そう、多分俺は――
「誰よりもよく知っているさ」

 一度開いてしまえば、記憶の扉からしゅるしゅると話すべきことはいっぱい出てきた。俺たちの一年間。俺たちが一緒に過ごした一年間。
 メインディッシュが運ばれてきても、俺たちの会話は途切れることなく続いていた。
 いつもの調子を取り戻したハルヒのきつい突っ込みを受けながら思う。
 無理して焦って、一足飛びに前へ進もうとする必要はない。現に俺たちはこうしてゆっくりでも、ちゃんと前に進んでいるんだから。

 それ以降は順調だった。この一年間の腐れ縁だ。変に気負う部分がなくなれば、後はいつもの俺とハルヒ。勝って知りたるお互い様、ということろだ。
 それでもさすがにデザートで一つのショートケーキが出てきて、それを二人で分けるというところでは少し焦ったが。
 ケーキの上にでかでかと書かれたハートマークが目に痛い。さすがのカップル限定コースってか。これは早く何とかしないと。とは言っても、このハートマークにナイフを入れて切ってしまうのはためらわれる。
 そうだ。ハルヒ、お前がこのでかいハートマークを食ってくれ。
 俺がケーキを切って、大きいほうをハルヒに渡した。俺が大きいほうを取るとこいつは遠慮なく文句を言いそうだからな。下手すりゃ全部よこせ、とも言いかねないし。
 ハルヒの扱いを心得ている俺の手腕のおかげか、ハルヒは特に文句を言うこともなく、少しだけ満足そうにケーキを受け取った。へたくそな俺の切り方のせいで、少しクリームがこぼれて形が崩れたが、そこらへんは大目に見てもらえたらしい。
 これで、いろいろと緊張したりなんなりしたが、この食事も無事に済むと安心したとき、そこに落とし穴があった。

 

「お食事はお済でしょうか?」
「あ、はい」
 デザートの皿を下げに来たウェイターに軽く会釈した。これでテーブルの上には見事に何の料理もない。
 思えば、結構高級なメニューのはずだったのだが、あまり味を覚えていないな。もったいない。また、もう一度リベンジをしたいところだ。
「それではお写真をお撮りさせていただいてよろしいでしょうか?」
「へ?」
 俺はマヌケな声を上げてウェイターを振り返った。
「しゃ、写真ですか?」
「はい」
 ウェイターは満面の笑みで頷いた。手にはポラロイドカメラ。
「写真って……」
「あんたちゃんとメニュー見てなかったの?」
 ここでハルヒの合いの手が入った。
「メニュー?」
 すまん。正直、いろいろと気を取られていたあんまし真面目にメニューを見てなかった。
「このコースは最後に記念撮影するサービスがあるのよ」
 不必要に素っ気無くハルヒは言う。
「ええ。このカップル限定コースには、最後に当店に来ていただいた記念にお客様お二人の写真を撮ることになっているのですよ」
 微笑ながら慇懃に説明してくれるウェイター。
 あぁ、なるほど。そこまで至れり尽くせりのサービスがあるから、このレストランは情報誌に取り上げられ、一気にその名声を高めているのか。
 しかし、ウェイターさん。その、最後の最後でカップル限定とかアピールするのは……
「写真はお撮りしないほうがよろしいですか?」
 ウェイターが不安そうに尋ねてきた。
 いや、ちょっと待ってくれ。心の準備が。
 と、思ったところで気がついた。ハルヒがおとなしい。
 そうだ、このハルヒがおとなしいのだ。もらえないおまけまで強引に奪ってしまうようなこのハルヒが、だ。へたすりゃ、そのカメラごとよこせと言いかねないこいつが、だ。
 ハルヒはウェイターではなく、俺を見つめている。

 

――ちゃんとエスコートしなさいよ。

 

 あぁ、そういうことかい。仕方がない。なら、不本意ながらお前の欲張りな本意をウェイターに俺がお伝えしようか。
「いえ、そんなことはないです。お願いします」
「はい」
 ウェイターは安心したように、肩を少しおろすと、カメラを構えてフラッシュが光った。

 ジーという機械音と共にフィルムが吐き出される。
 ウェイターはそれを指先で摘んで、二三度振るとそのまだ現像されきっていない写真を俺たちに手渡した。
 ぼんやりとテーブルを囲む二人の人物の姿が見える。
 無事一仕事終えた俺は深い息をついた。
 これで無事終わり、だ。
「それでは」
 そう言ってウェイターは去るのかと思ったら、エプロンのポケットから何かを取り出して俺の目の前に置いた。
「ペン?」
 目の前にあるのは黒の油性のサインペン。一体これでどうしろというのか? なんか書類にサインしないといけないのか?
「それではこちらの写真にメッセージをどうぞ」
 ウェイターはポラロイド写真の白い枠の部分を手のひらを向けて指した。
「め、メッセージ?」
「はい。本日ご来店いただいた記念のメッセージを書いていただいて、それをお持ち帰りいただくというサービスでございます」
 そんな至れり尽くせりのサービスじゃなくて、写真だけでも十分すぎるくらいによかったんですが……
 ハルヒはじーっと浮かび上がってくる写真の中の俺たちを見つめたままだ。ペンが俺に手渡されたことを考えても、どうやらメッセージを書くのは男である俺の役目らしい。
 しかし、なんて書けばいいんだ? 俺とハルヒの二人が写っている写真に。そもそも俺とハルヒの二人の関係って一体? 俺とハルヒ――
 そこで、俺は一つの答えをそこに書いた。俺とハルヒ、この二人を表現するのにこれ以上ない言葉を。

 

       *

 

「あんたさぁ、もうちょっと写真映りよくなれないわけ?」
「うるさい」
 そう俺が言うと、ハルヒはどこか嬉しそうに右手の親指と人差し指で挟んだ写真をひらひら振った。
「あんたのいかにも注意力散漫な感じが良く出ていて、写真っていうのは正直だけれどもときに残酷ね」
「だから、うるさいって言っているだろう」
 こういう風にしてからかわれるのはもう何度目になるだろうか。
 ハルヒがひらひらと嬉しそうに振る写真には笑っているんだが、引きつっているんだか分からない俺の顔が映っている。もっとも、それを言うなら口を尖らしているくせに目はなんだか笑っているハルヒにしても似たようなもんなんだが。
 俺たちは例の至れり尽くせりサービスしすぎのサービスコースをとことん骨の髄まで堪能させていただいた後、並んで帰り道を歩いていた。そして、ハルヒの奴はその間中何度も写真を眺めては、こうして俺をからかってくる。上半身を動かして、忙しく見る角度を変えては気がついたことを適当に喋ってくる。
「あ。あんたこの服よく見れば、この間の不思議探索で着ていた奴じゃない!」

 

――今回のやつはあたしに対するお礼なんだから、当然あたしがこの写真を貰う権利があるわけよね

 

 と言ってハルヒは会計をしている俺から、俺がいいとも悪いとも言う前に勝手にサッとこの写真を取り上げて自分のハンドバックに入れたのだった。
 もちろんこの写真をハルヒに渡すことに、俺としては何の異存もないのだが……なぜだろうか、背中がむずがゆい。
「お前、本当にその写真を飽きずに見ているな」
「ま、あんたのアホ面は見てて飽きないしね」
 先を歩きながら、ハルヒは振り向いて光を反射するように笑う。俺は頭を掻きながら、なんとなく目を逸らす。
 悪かったな、飽きの来ないアホ面で。
 そこでハルヒの足が突然ぴたりと止まった。
「ねぇ、帰りにパフェかなんか奢ってよ」
「お前、あんだけ食っといてまだ食うのか?」
「まだあんたに余力があること知ってるんだから」
 俺を振り向きながらにやりと笑うハルヒ。カチューシャのリボンがきらきらと揺れる。
 しまった、ハルヒの奴に会計しているところを見られたのは失敗だった。ちくしょう。諭吉さんで払うんじゃなかった。俺は心の中で財布に残った野口さんたちに蛍の光をハミングして送り出す。
「今日はとことん付き合ってもらうわよ、キョン!」
 思いっきり太陽を浴びて、それに負けないくらいに明るく笑うハルヒ。
 今日だけじゃなくて、俺はいつだってとことんまでお前と付き合ってやっているだろうが、まったく。
 わかってるのか? そんな物好き他にはそうそういないぜ?
 目の前で写真の白い枠に光が反射して揺れていた。その白い枠の中、俺たち二人のどこかマヌケな姿の下にはこう書かれていた。

 

――SOS団結成メンバー

 

『式日アフターグロウ』


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