映写機に触れ、女がまるで「微笑む」の見本を投影するように笑みを生み出す。
からからと空回る音を響かせて、フィルムのない機械が映し出す世界。

「証明しなければなりませんから、あなたに、見て頂きたいのです。題材は……少し、ありふれたものですけれど」
始めましょうか、と女は静かにお辞儀をし、社交辞令のように口にした。


「そう……初めに、お断りをさせて頂きますね。

これは――『報われない』、お話です」





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広大な海には、人間は立ち入ることを赦されぬ、『聖域』と区切られたフィールドがあります。
船乗りは往々にして、その水域を渡ろうとはしない。それは人間界の決まりごとであり、各々の自衛策でもありました。小さな子は決して辿ることのない航路を不思議がり、しきりに船乗りの父に何故かを問いかけます。頑強な父は笑い、くしゃりと子の頭を撫で、笑いながらこう話すのです。
『あそこは通っちゃ駄目なのさ。人魚たちが人に隠れて住んでいるところだからね……』
 
 

 

 

 
―――人がマリンブルーと称する『海の青』より、鈍重な濃さを残す深海の世界。
曖昧な伝承の内にしか存在を認められない、けれど信心深い人々には古来より厚く信仰された者たちが、其処には住んでいました。彼女らは、確かにその海の深みに群生していたのです。
貝殻と流れ着いた金で館を汲み上げ、小石と土で練られた道に、色とりどりの魚が遊泳する数々の窟。人間が迷い込んだならば、文字通りの海の底に、眼を瞠るような文明の姿があることに度肝を抜かれたことでしょう。海底にしかない『太陽』と『月』は照り、宝飾の神殿はきらびやかで、其処に住まう主たちは一様に天女のような可憐さと美しさを備えていました。
色鮮やかな人魚たちの尾鰭は、背景を為す重たげな色合いとは対照的に、軽やかに水中を舞い踊ります。
さながら観衆の前、舞台に立つ優雅なダンサーのように。彼女らの歌は天を揺るがすような壮絶な歓喜を人にもたらし、彼女らの美貌を眼に焼き付ければ、見惚れる余りに不用意に航路を外し、破滅の渦へ巻き込まれてゆく人間は後を絶ちませんでした。ですから彼女たち、『人魚』は、人前には滅多に姿を現さず、彼女らの生息する海域にひっそりと生命を育んでいました。
謂れなき侵略を受けることがなければ他の命を脅かすこともありません。
平穏を愛し平穏に愛される、海は彼女たち、人魚の庭だったのです。
そして人魚は外界に出ることは決してなく、人間と人魚は、交わることのない存在でした。
 

――運命と呼ばれるものの巡りは、果たして何処から始まるのでしょう?
生まれた瞬間から、それとも何かしらの『出遭い』が、あるいは『決別』がもたらすのでしょうか?
 
 
とある嵐の日、ざわめく波の落ち着きのない歌を聴き、その騒がしさに一匹の人魚が気まぐれを起こしました。海底から浮上し、外界の風を望んだのです。
大嵐が悲鳴のように空気を切り裂く前触れに、波は飛沫を激しく散らし、暴れまわっていました。彼女は、嵐に不運にも遭遇し大破した大型船と、木切れを命綱に、波に揉まれている一人の男を目の当たりにしました。
男の衣服は高貴な血筋の者しか纏うことを赦されぬ装飾が施されたものでしたが、人魚は人間の衣裳の価値など知りません。ただ、何かに、惹かれるものがあったのでしょう。人魚は男に吸い寄せられるように近づきました。男は木切れに腕を預け、気を失っているようでした。 
  

如何なる理由があろうとも、人魚が人間へ干渉することは赦されないのが海における戒律でした。けれど若い魂を無為に散らす様を、人魚はただ眺めていることはできませんでした。
人魚は、男を救いました。
そして人魚はそのとき、生まれて初めて、『人間』に触れたのでした。
 
 
人魚はそのとき、男の『魂の聲』を聴きました。人魚には生命の鼓動を、その魂の性質を見取る特別な力がありました。静かなようで熱い――男の内包する魂は真っ当で、気高く、大海原のように広々としていました。海の底に居たのでは、決して聴けなかったであろう優しい響きは、人魚が生まれて初めて味わう熱となって胸を侵食しました。

何時でも聴いていたいと、陶酔してしまうような安らぎ。
陸に押し上げた男の身体は、水を吸い、酷く重たいものでしたが、人魚は精一杯の力で男を引き上げました。男が呻き声を上げながらうっすらと眼を開けます。夢見心地なのでしょう、定まらない視界に人魚を写し、ゆるく瞬いた男を人魚は覗き込みました。
「………大丈夫」
不安げに彷徨う瞳を認め、人魚がそう耳元に囁くと、男は安心したように瞼を閉じ、再び眠りに落ちていきました。
心の臓は軽快に音を刻んでいるようです。命に別状はないことを確かめ、人魚はほっとしました。
人魚はそれから、他の人間が此の場に訪れる気配を察知し、鰭をばたつかせて瞬く間に潜水すると、勢いよく其の場を後にしました。人魚は人に姿を見られてはならない。これも戒律の一つであったというのに、男を助ける為にあっさりと掟を破った自分の行動が、人魚にはよく分かりませんでした。
ひとつ、言えることは――
平均的な体付き、取り立てて見目が整っているわけでもない男の、人魚は、その魂に惹かれたのだということ。
そうして一度他者に惹かれることを知った人魚の魂は、その熱に、死ぬまで焦がれ続けるということでした。

 

 

 
――適うならば、もう少し触れたかったと、故郷に帰るために鰭を揺らめかせながら、人魚は思いました。
 
 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
運命と呼ばれるものの巡りは、果たして何処から始まるのでしょう?
生まれた瞬間から、それとも何かしらの『出遭い』が、あるいは『決別』がもたらすのでしょうか?

 

 
 
『Snow』の名を持つ一匹の、白い尾鰭を持つ人魚は、
 
――やがてその恋ゆえに、運命を巡らし、また、人と出遭い行きます。
これはその終焉までの、ほんの僅かな物語。
 
 
 
『人魚姫』と『王子』の、あるいは『騎士』の、あるいは『姫』の、あるいは『魔女』の物語です。
 
 
 

 

 


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