六 章
 



 
 古泉の解任騒動が一段落してやれやれといったところなのだが、歴史改変のチェックポイントはまだすべてクリアできたわけではなかった。朝比奈さんが言うには、ひとつの出来事に修正を加えてもまた元の木阿弥に戻ってしまうかもしれないし、別の方向に歩き出すかもしれないということだった。
 
「それにしても、機関の連中があそこまで頭が固いとは思いませんでした」古泉が言った。
「だよな。いつもなら俺たちの意向を無視したりはしないもんだが」
どっちかというとハルヒや俺の顔色を伺っているのが機関のいつもの姿勢っぽいんだがな。
「あれはきっと、既定事項の自己修復機能が働いたのね」朝比奈さんがうなずいた。
そういうものなのですか。自己修復って人間が意図的に起こすものなんでしょうか。
「歴史というのは何人もの人の意思が重なって受け継がれて動いていくものよ。突然異例の流れが起こるとそれに反発する形で修復されることが多いの。意図しなくてもね」
「結局は俺たちが時間を作ってるわけですか」
やれやれ、時間の流れってのは厄介なもんなんですね。
 
 さて、俺(小)の様子がおかしい。いつ頃からかは分からないが落ち着きがない。授業中でも上の空なことが多い。体育の授業では集団から離れて座り、ぼんやりと遠くを見るようなまなざしをしている。遠目に様子を見ていた四人だが、皆が一様に同じことを言った。
「なんだかぼんやりしてますね」
「キョンくん、熱でもあるのかしら」
「どうでしょうね。具合悪いなら休めばいいんですが」
「……」
長門だけはなにか考え込んでいる様子だった。
 
 この時間平面の俺の身に最近起こったことといえば、コンピ研の連中とネットゲームで戦ったことと、あとは文化祭があったことくらいか。ないとは思うが、まさかネットゲーにハマって寝不足とか。
「……文化祭での、涼宮ハルヒの情報フレアの発生が原因かもしれない」
「ハルヒのせいで熱病にでもかかったのか」
そういえばあの日、雨に濡れたな。
「朝比奈さん、文化祭に飛んでみましょう。久しぶりにあの日に行ってみたいんです」
「ハイハイ。準備はいいですか?シートベルト締めてください、飛びます、飛びます~」
フライトアテンダント朝比奈みくるの掛け声で風景が巡った。そういやアテンダントのコスプレはまだなかったな。
 
 俺たちは文化祭の当日に飛んだ。今回は本人たちとは分からないよう、四人ともそれぞれ変装をこらした。俺は帽子をかぶって縁の厚いダテ眼鏡をかけたが、まあ身長も髪型もこの頃とは違うから、バレることはないだろう。
 
 ひさびさの文化祭だ。なつかしい。あんときは猫が喋ったり、ハトの色が変わったり、桜が開花したり、家庭用ビデオカメラで撮るだけのなんちゃって映画にあんな騒動を起こしてくれるなんてまったくのトンデモ監督だった。校門でバニー姿のハルヒが「朝比奈ミクルの冒険 Episode_00上映会」のチラシを配っていた。この映画、続編まであるんだよな。タイトルだと思っていたのが実はサブタイトルだなんて、後になって判明したりするのだが。
「編集は古泉がやったんだろうか」
「どうでしょう。寝不足な様子を見てると作業を担当したのはあなたのようですが」
俺(小)は大きなアクビを連発していた。そういやこのときの古泉はクラスで上演する意味不明な芝居をやってたな。あれはどうなったんだろう。校門で出し物の一覧を書いたビラをもらって見てみると、一年五組の催しがなんと古泉主演の芝居になっていた。俺のときは校内アンケート発表なんて、やってもやんなくてもいいようなくだらん出展だったが。古泉ひとりがいるだけでこうもクラスが変わるものかな。一年六組は、既定と違わず占いになっていた。
 
 文化祭にはいろんな客が来ていた。奇妙な格好をした連中が大勢押し寄せたが、実はこれコスプレなんかではなくて、人以外の人も混じっていたのらしい。後で聞いたことだが、いろんな組織や勢力のメンツが涼宮ハルヒをひと目見ようとしてやってきたんだという。
 
 俺は自分の後をつけてずっと観察していたが、とくにやることもなさげで、視聴覚室で上映される映画の客の入りをチラと見ただけだった。水だけは飲み放題の焼きソバを食いに鶴屋さんのクラスには行ったようだったが、ひとりだった。映画出演者の谷口と国木田を連れていったのは古泉のようだ。古泉がアラスカから戻ってきて以来、谷口と国木田がやけに親しげにしているが。
 それから空になったラムネの瓶をときおり落としそうになりながら、階段で転寝をしていた。あのときと同じように雨が降り始めて講堂へと居眠りの場所を移した。
 
 俺は(小)が座っている椅子の三列くらい後ろに腰掛けた。俺もここで居眠りしたい気分だ。あのときは居眠りしていて気にもとめなかったが、吹奏楽部の演奏ってわりとレベル高いのな。
 客はガラ空きだった。これじゃ演奏者がかわいそうだ。どのアーティストのコピーなのかすでに不明な一般参加のバンド演奏がいくつか続いて、少しずつ人が集まってきた。そろそろENOZの出番だ。岡島さんが現れた。続けてバニーガール姿のハルヒと、魔法使い姿の長門が出てきた。
 ハルヒの姿を見て観客がどよめいた。
「何やってんだ、あの野郎!」
女を指して野郎とは俺も意味不明だが、バニー姿でギター抱えてくるやつもやつだ。それにしても長門、その衣装は演奏しづらいだろう。それに黒マントとセーラー服の組み合わせは似合わない気がする。せめて黒のワンピースにするとか。
 演奏が始まるまではコミックバンドと思われていたらしく嘲笑の渦だった。ところがドラムが鳴り、ギターの弦が波打ち、いざハルヒの熱唱が講堂に響き渡ると全員が唖然とした。そのビート、サウンドを聞いた全員の、鳥肌が立つ音がパリパリと聞こえそうだった。
「それにしても巧いですね、涼宮さん。長門さんもですけど」
「ハルヒって、すごいよな……」
古泉(小)と俺(小)の話し声が聞こえてきた。俺の言ってることが記憶と若干違うような気がするが、ハルヒがすごいのはまあ認める。この後ハルヒの思いつきではじめた即席バンドに付き合わされ、オーディションまで受けさせられたもんな。
 
 五曲目が終わると会場は沸きに沸いた。拍手喝采アンコールの嵐で次に演奏するはずのバンドが出ようかどうしようかと迷っていたくらいだ。俺も拍手して指笛を鳴らした。前にいる俺も熱心に拍手している。
 隣に歳食ったほうの古泉がやって来た。
「それにしても巧いですね」
「ああ。昔はそうは思わなかったが、聞きなおしてみると案外いいな」
十六歳の俺と古泉、その後ろで二十四歳の俺と古泉が似たような会話をしていた。
「俺の様子、変だと思わないか」
「若干元気がないような気もしますね。僕と役目が入れ替わったためじゃないですか」
「それだけならいいんだが」
まあ、ハルヒの世話を焼くことがなくて倦怠の日々を過ごしてるだけならこんなものかもしれん。
「どうする。戻るか?」
「僕はもう少し見ていこうと思います」
「俺たちの長門と朝比奈さんを見なかったか」
「真後ろにいらっしゃいますよ」
気が付かなかった。長門は背中に羽根の生えた天使のようなふわふわな衣装を、朝比奈さんは西洋の女王様だか貴族だかが着るような豪華な衣装をまとっていた。
「な、なんてカッコしてるんですか二人とも」
「ふふっ。演劇部のコスプレ体験コーナーで借りたの」
「……ふ」
そんなものがあったんですか。確かに似合う。それにしても長門、手に持ってるやつって懐かしのスターリングインフェルノだよな。
 
 演奏が終わり、八年前の俺と古泉は講堂を出て行った。古泉(小)は芝居の後片付け、俺のほうはやることがなくて部室でも行ったのだろう。文化祭一日目もそろそろ終わりだ。俺は長門を連れて出展を見て回ることにした。
「あのさ、長門。似合ってるぞ」
「……」
長門はなにも言わず、黙って俺の手を握った。連れ立って廊下を歩いていると、よく生徒から声をかけられた。
「長門、さっきのギターかっこよかったぞ」
長門は八年経っても変わらないからすぐ分かってしまうんだな。長門はそれに応えるべく、ぎこちなく胸をトントンと叩いてピースサインをした。
 
 旧舘に入ると人は減った。SOS団のメンツや知ってるやつに遭遇しないように不可視フィールドを張ってもらい、文芸部部室の前まで来た。耳をすますと中には俺がいるようだった。
「ギターかっこよかったぜ」
「ありがと。あれ、一時間でやっつけでやったのよ」
ハルヒもいるのか。
「へえ。バンドやってたのか」
「バンドはやったことないわ。軽音楽部に入ったときちょろっと触っただけよ」
「それであれだけ弾けるのはすごいと思うぞ。バンド組めばいいんじゃないか」
「えへっ。まあ、そのうちね」
お前ら、なにいいムード出してんだ。
「ちょっと着替えるから、出ててくれる?」
「あ、ああ。あのなハルヒ、」
「なに?」
「そのかっこ、似合ってるぞ」
「ありがとキョン」
俺は慌ててドアから離れた。俺(小)が出てきた。背中が妙に曲がってうなだれている。ドアを背に寄りかかり、何度もため息をついた。
「……心拍数、上昇中」
長門が俺に耳打ちした。なに。まずいぞ、これは前にも同じことがあった。
「入っていいわよ」
中から声がした。ドアを開けて中に入った。
「あのさ」
「なに」
「い、いやなんでもない」
「なによ気持ち悪い。さっさと言いなさいよ」
「じゃあ聞くけど。お前さ、付き合ってるやついるの?」
キター!!これは非常にまずい!
「いないわ。まさか付き合ってくれなんて言わないでしょうね」
「そのまさかなんだが。俺と付き合う気、ないか?」
「あんたまじで言ってるの?」
「まじもまじ、大まじめだ」
どっかで聞いたセリフだな。なに考えてんだ俺、相手はハルヒだぞ血迷ってんじゃねえ!
 ハルヒは突然大声で笑い出した。
「あんた、あたしのバニー姿見て萌えたんでしょ」
「ち、違うわい。ずっと前から気になってたんだ」
なにこの恥ずかしい告白シーンは。もう聞いてるだけで赤面してしまう。俺は眉間を押さえた。
「悪いわね。あたしには心に決めた人がいるの」
そうそう。ジョンスミスだよな。
「そうなのか」
「だからあきらめてほかの子にしなさい」
「ひとつだけ聞かせてくれ。そいつってもしかして古泉なのか」
「古泉くんね。理想の人にすごく近いんだけど、本人は違うって言うのよね。もしかしたら付き合うもしれないけど、今は分かんないわ」
「そうか……」
「ねえ、そんなしょんぼりしないで。有希とかみくるちゃんがいるじゃない」
「ああ。あいつらはなぁ。お前みたいに妙に人を惹き付けるパワーないし」
「あたしのこのパワーはね、好きな人がいるからなのよ」
そうだったのか。でもその好きな人とやらの存在はイライラの原因にもなってるだろう。
 
 にしても、このうら若き俺が足しげく部室に通っていた理由はこれだったのか。文芸部とはいえ本を読むでもなく、SOS団の主力として動くでもなく、パシリとしてただそこにいるだけの俺。あのぼんやりした目はずっとハルヒのことを考えてたんだな。なにトチ狂ってるんだか。高校に入ってはじめて目にした奇妙な生き物、それがハルヒだっただけだろう。ヒヨコのあれと同じか。
「……そう。恋愛はヒヨコの刷り込みと同じ」
長門もうなずいた。なんだか元気ないな。
「……」
「あれは俺の姿をしてるけど、俺自身じゃないから気にするな」
「……分かっている」
少しエラー処理に追われてるのかもしれんな。俺は長門の手を引いて部室から離れた。
 原因が分かったのでとりあえず撤収することにした。血迷うにもほどがあるがまあ、電話で告白しなかったことだけは評価してやる。
 
 正門前で古泉と朝比奈さんが待っていた。
「何か分かりましたか」
「ええとな、言いづらいんだが。俺がハルヒに惚れたらしい」
「ええっ!?」
「それで、たった今ふられたらしい」
「ええっ!?」もっとまともなリアクションしろよ。
「僕たちが苦労して描いたシナリオの逆の展開になるとは、なんという皮肉でしょうか」
「恋愛なんて、まあそんなもんだろ」
「それで、キョンくんふられちゃったの?」
朝比奈さん、そんな悲愴な顔しないでくださいよ。
「ハルヒにはジョンスミスしかいないみたいです。それはいい展開かもしれませんが」
古泉も朝比奈さんも、うーむ、と唸ってしまった。
「今後、どうなりそうですか」
「すぐ忘れるだろうさ。俺のことは俺がよく知っている」
知ってるつもりなんだが、俺がハルヒに惚れちまうなんていうこの展開はまったく予想していなかった。
 
 俺たちは様子を見るために翌月に飛んだ。部室にいる誰もが黙っている。ハルヒがいるのにやけに静かだ。寒々しい部室がさらに寒い。
「キョンくんが来ていませんね」
「……」
「涼宮さんにふられたせいでしょうか」
「ここのわたしにちょっと聞いてみますね」
朝比奈さんは右手をこめかみに当てて朝比奈さん(小)を見つめた。朝比奈さん(小)はハッとなにかに気が付いたように顔を上げ、視線が宙をさまよった。
「キョンくんは文化祭からほとんど来てないって」
「やっぱりふられたからでしょう」
古泉、何度もふられたって言うな。
 
 妙なことに気が付いた。窓際に座る長門が本を持っていない。ただじっとうつむいて、右手に紙片を握り締めていた。ときどき開いてはそれを読み、また畳んだ。
「……あれは、退部届」
俺の長門が言った。それを書いたのは俺しかいまい。なにやってんだあのバカは。
「……わたしの同位体は、二十四時間以内に暴走する」
「歴史改変の後でもか」
「……内的要因でいずれ起ると予想していた。あの日と同じことが起る」
「止める方法はないのか」
「……止めないほうがいい。解決策は、自分で得るはず」
じっと見ていると、長門(小)の頬に透明な雫が一滴流れた。俺の長門の目も潤んでいる。
「大丈夫か?」
「……これは、擬似同期」
俺は長門の肩を抱いた。それは感情移入ってやつだよ、と言おうとして長門の体温がいつもより高いことに気が付いた。頭が痛い、長門はそう言った。額に触れると確かに熱がある。
「長門さん、大丈夫ですか。一度戻りましょうか」
「そうだな」
俺たちは元の時代に一旦戻ることにした。
 
 朝比奈さんに頼んで寝室に布団を敷いてもらい、長門を寝かせた。寝付けるようにとひとりにしようとしたのだが、長門は握った手を離さなかった。
「どこにもいかないさ」俺は枕もとに座った。
熱冷ましに効くかどうかは分からないが、アイスノンにタオルを巻いて枕に載せてやった。
 
 この時代の俺と古泉の役柄が入れ替わった結果、俺の性格まで変わってしまったようだ。元々の俺は人付き合いがいいほうでもなく、自ら率先してなにかをするというタイプでもなかった。それがハルヒと出会い、SOS団の雑用係として行動しているうち、なんだか分からんカオスの渦に巻き込まれた。なにもない普通がいちばんだと言いながらも俺自身が変わっていたのだ。
 今でも自分をかなりダメなやつだとは思うが、SOS団に入らなかったらもっとダメになってたかもしれん。そして俺を変えたのはハルヒだ。今更だがあいつの存在の大きさを感じている。
 
「自分に喝を入れたい気分だ」
「やっぱり歴史改変には、プラスした分がどこかでマイナスになるのでしょうね」
古泉がもっともらしいことを言うのだが的を得ているだけに反論のしようもなかった。本当は古泉がジョンスミスになるだけでよかったのだが、事態がここまで複雑に絡み合って、まるで将棋崩しの山のように重なりあっているとは。
「既定事項というのは、そういうものよ」
「古泉がジョンスミスを名乗るだけで、それ以外は元のままってわけにはいかないんですか」
「ジョンスミスはね、名前だけじゃないの。涼宮さんの能力を引き出す鍵みたいなものなの」
その鍵を、俺はみすみす渡しちまったわけか。
「ひとつの鍵がドアを開け、またその先にあるドアを開けるの。既定事項はその連鎖なのよ」
最初に開けるドアが変わると、そこからの道がすべて変わってしまうのだと朝比奈さんは言った。
 
 朝比奈さんがお茶を入れてくれた。長門は眠ったようだ。
「朝比奈さん、もう一度さっきの時間に連れて行ってくれませんか」
「いいけど、どうするの?」
「俺と直接話してみます」
「まさか、歴史改変のことを話すつもり?」
「いえ。長門のことを話してみようかと。あいつの知らない未来を」
「それで分かってくれるかしら」
「失恋してメランコリーになってるんで、たぶんコロリと行くでしょう」
こういうとき、好きだって言ってくれる誰かに目が行くのは俺のいつものことだ。
「いいわ。自分のことは自分がよく知ってるものね」
俺は古泉に留守番を頼んだ。
「もし長門が意識を失うようなことがあったら、これを人肌くらいのお湯で温めて飲ませてやってくれ」
「なんですかこれ」
「長門用の薬だ。ナノマシンらしい」
俺は青い液体の入った小さな瓶を渡した。いつか、喜緑さんにもらったやつだ。
「何かあったら喜緑さんに連絡してくれ」
「分かりました」
 
 俺と朝比奈さんは、再び部室前に現れた。
「さっきの時間から五分後くらいです」
中からはなにも聞こえない。さっきと変わらない長門(小)がそこにいるはずだ。長門、待ってろよ。俺がなんとかしてみせる。問題はこっちの俺が今どこにいるかだが。帰宅途中か、自宅にいるか、誰かとつるんで北口駅あたりで遊んでいるか。
 俺たちは人目を忍んで学校を出た。坂道を下りて光陽園駅に向かった。駐輪場に自転車はある。ということはまだ学校のどこかにいるのか。
「あ、もしかしてあそこかな」
「どこ?」
俺は朝比奈さんに先立って歩いた。やっぱりいた。公園のベンチだ。このベンチにもいろいろ縁があるよな。
 
 茂みに隠れて様子を見ていると、そいつはうなだれて何度もため息をついた。まだ忘れられんようだ。まあしょうがないか。おもむろにポケットをごそごそやり、小さな箱を取り出した。何だあれは?周りを見回しライターに火をつけ、ってタバコ吸ってんのかよあのバカ!
「何やってんだあのバカ」
「キョンくん落ち着いて。気持ちは分からないでもないわ」
朝比奈さんが苦笑していた。慣れない煙にゲホゲホ言いながらタバコを吹かしていた。見ていてこっちが恥ずかしい。だらしなく足を開いて、涙目になりながら白い煙を吐いている。
「ガッコ、やめっかなぁ……」
そいつは呟いた。ここまで腑抜けだとは思わなかった。二本目を靴の底でもみ消し、三本目に火をつけたところで俺は切れた。
「朝比奈さん、ここにいてください。ちょっと俺を殴ってきます」
「キョンくん、無茶しないで。悪化するだけよ」
「いいえ。俺ってやつは甘やかされるとだめになるタイプなんです。一発かまして目を覚まさせてやります」
「そんな。失恋したら誰だって自暴自棄になるわ」
「自分のことは自分がよく知っています。あなたは黙って見ていてください」
俺の剣幕に朝比奈さんはちょっと引いた。
「絶対に出てこないでください。朝比奈さんは俺に甘いんだから」
自分で言ってて恥ずかしくなってくる。
 
 俺は脇からベンチににじり寄り、茂みの後ろから音を立てないように回り込んだ。
「よう、俺」
俺はそいつの右肩を掴んで振り向かせ、拳でほっぺたに思い切りパンチをお見舞いした。ベンチからもんどりうって転がり落ちた。
「だだ、誰だお前」
俺を見るそいつの目は怯えていた。こいつは俺じゃない、そう感じた。俺の知ってる俺なら、なにしやがるとでも叫んでムカっ腹のひとつでも立てるもんだ。
「お前の家には鏡がないのか」
俺はベンチを乗り越えて腹に一発フックをかました。そいつは腹を押さえてうずくまった。尻に蹴りを入れてやろうかと思ったが、後ろで朝比奈さんが見ているのを思い出して気持ちを抑えた。
「女にふられたくらいで甘ったれてんじゃねえよ」
「お、お前は俺か」
「やっと脳ミソが動いたか」
「何しに来たんだ」
「ここ半年お前を見てたんだよ。まったく、腑抜けになり下がりやがって。我ながら情けない」
うずくまっているそいつの上にかがんだのがまずかった。猛然と立ち上がったそいつの頭突きをまともに喰らってしまった。顎に当たり、軽く脳震盪を起こした。目の前を星が回った。八歳も離れていれば余裕で勝てるだろうとたかをくくっていたのは甘かったようだ。
「何しに来たか知らんが、いきなり殴るこたねえだろ」
「十分殴られるだけの理由があるだろうが」
「だから、理由を、言えよ」
いたた……、弁慶の泣きどころを蹴ってきやがった。痛いところをよく知っている。俺はパンチに見せかけて急に腰を落とし、足払いをかました。そいつはひっくり返った。奇襲戦法なら俺だって得意だぜ。
 転んだところに蹴りを入れて、二回転させた。痛いのは自分でもわかっているので無意識に手加減している。痛む顎を触ると血が出ていた。そいつはゆらりと立ち上がった。顔の右側が黒く腫れている。目が座っていよいよ本気になってきたようだ。そうそう、これが俺の知ってる俺だ。こうなるともう誰にも止められない。いきなり突進してきて、腹に一発、右頬に一発喰らった。若いだけあって俺より力がある。
 
 あの、この辺でやめたいんだけど、無理?誰か止めてくれたらいいのに。絶対出てくるなと言った手前朝比奈さんを呼ぶのはかっこ悪すぎるかなぁ。
 俺もそろそろ足元が危うくなってきて、そいつもフラフラしながら拳を構えていた。
「あっハルヒ!」
俺はそいつの肩越しに向こうを見た。そいつもエッと言って振り返った。プッ、引っかかったなバカめ。振り向いたところに一発、
「長門はなあ!」
右に一発、
「命をかけて」
左に一発、
「お前を守ってんだぞ!」
思い切りコブシを叩き込んだ。そいつは俺の目を見た。俺もそいつを見た。
「長門をひとりにするなバカ野郎」
ネクタイを引っ張って顔面をつき合せていると、後ろから走ってくる足音がした。
「キョンくん、もうやめて」
朝比奈さんがホロホロと泣いている。うわあ、俺って最低じゃないですか。
「あれれ、朝比奈さんじゃないですか。大きいほうの。こんなところで何やってんです?」
「半年間あなたを観察してたの」
朝比奈さんはハンカチを取り出した。
「二人とも血を流してるわ」
放っといていいんですよ、そんなやつ。朝比奈さんの清らかで美しいハンカチをそんなやつの血で汚すなんてもったいない。
「あの、俺って何でこいつと喧嘩してるんですか?」
俺がここまでバカだとは思わなかった。
「詳しくは言えないけど、わたしたちは歴史を改……修正するために未来から来たの」
「お前が女にふられて腑抜けになっちまったんで、俺がケツを蹴り上げに来たんだ」
「そんなことでわざわざ未来から来たのかよ」
「わたしたちは涼宮さんのために動いてるの」
「ハルヒのためですか……」
ハルヒの名前を出したらやっとおとなしくなった。
 
 俺もそいつもだいぶ顔が膨らんできたようだ。体のあちこちが痛い。知らないやつが見たら派手な兄弟喧嘩のように見えたことだろう。
「で、俺はなにをすればいいんだ」
「明日、世界がひっくり返るようなとんでもないことが起る。お前にはやらなきゃならんことがある。それを無事完了して戻ってこい」
「とんでもないことって何だよ」
「明日になりゃ分かる。ただ、これだけは言える。明日起ることは長門が引き起こすんだ。お前は長門からあるメッセージを受け取る。その意味をよく考えろ」
「抽象的過ぎて分かんねえだろ」
俺はその言いかたにムカついて、そいつのほっぺたをひっぱたいた。いてて、手に噛み付きやがった。犬みたいなやつだな。
「長門はいっしょに来てないのか」
「長門にこんなところを見せられるかよ。お前は二人の長門を泣かせたんだぞ」
「……」
そいつは考え込んでいるようだった。
「まあ、ふられた女のことは早く忘れるこった。昔から言うだろ、バスと女は追いかけるもんじゃない、すぐ次のが来るから、って」
「それ知ってる。従姉妹の姉ちゃんの口癖だったよな」
俺たちははじめて笑った。朝比奈さんもクスリと笑った。
 
 二人の俺は駅のトイレで顔を洗った。鏡に映る二つの顔はベアナックルで十五ラウンドの試合を終えた二人のようにどっちもまったくひどい顔だ、見分けがつかん。まぶたは腫れあがり、目の周りは真っ黒、ほっぺたは肉まんみたいに膨らんでいる。
「おい、ちゃんと戻ってこいよ。でなきゃ未来が消えちまう」
「分かったよ」
長門のことをもう少し考えてやれと言おうとしたのだが、まあ二三日すりゃ自分で分かることだ。俺は黙っていた。
 そいつとはそこで別れた。朝比奈さんは去っていく俺(小)の背中を心配そうに見ていた。なあに、男ってやつは喧嘩の後はひとりになりたがるもんなんですよ。
 
 俺と朝比奈さんはその後の様子を見るために、そこからクリスマスパーティの日に飛んだ。長門(小)が改変した歴史は、ちゃんと元の流れで上書きされているようだ。あのときの混乱した時間の流れも、今では俺が作っている大きな改変の流れの中の、小さな渦みたいなもんだな。
 
 パーティでは古泉がトナカイをやるのかと思いきや、俺が被り物をして遊んでいた。それなりに楽しんでいるようだ。
「失恋したばかりで、つらいでしょうにね」
「なんというかあれは、道化師なんですよ」
「面白い表現ね」
「つらくても観客を笑わせることで自分も元気が出る。俺にはそれができるんです」
「なかなか持てない能力ね」
「俺もそのうち長門の気持ちを分かるようになるでしょう。それまでは黙って見ていようかと思います」
古泉とハルヒを無理やりくっつけようとしている俺が言えることじゃないが、人が人を好きになるプロセスなんて、自然現象みたいなもんだ。きっかけさえあれば放っておいてもどうにかなるだろう。
 
 俺と朝比奈さんは元の時代に戻った。
「ど、どうしたんですかその顔」
部屋に入ると古泉が俺の顔を凝視して言った。べ、別にお前のまねをしてケガをしたわけじゃないんだからな。
「なんでもない」
「……何が、あった」
長門が起きてきた。目を丸くしている。
「転んだ」一度言ってみたかったんだ、これ。
「……」
長門は朝比奈さんを見た。朝比奈さんは困った顔をするだけだった。長門はなにも言わず、タオルを濡らして持ってきた。
「……自分の同位体と争うなど、愚の骨頂」
お見通しってわけか。長門は俺の顔にこびりついた血をふき取りながら言った。
「スマン。お前が泣いてるのを見て頭に血が上っちまったんだ」
「……でも、うらやましい。少し」
長門の顔に、少しだけ微笑らしきものが浮かんだ。
 
 長門がお茶を用意していると、突然インターホンが鳴った。
「こんばんわ、喜緑です」
俺はドキリとした。こんなときに喜緑さんがやってくるなんて、もしかして俺たちを叱りに来たのか。
「突然お邪魔します」
今日の喜緑さんは少し表情が固い。その場に正座するなり、前置きなしで話しはじめた。
「みなさんがなさっていることを聞きましたわ。よく宇宙崩壊しなかったと不思議に思っています」
「はあ、すいません」
俺はただ謝るしかなかった。
「まったく、無謀にもほどがあります。あちこちで因果律の矛盾が発生していますよ」
やっぱり、頭で考えただけじゃ無理があったか。
「はあ、もうしわけありません」
「主流派が条件付きでOKを出したのは、キョンくんの暴走を恐れたからなのですよ」
そ、そうだったんですか。銀河を統治する組織を相手取るなんて偉くなったもんだな俺。
「もう改変の許容範囲を超えようとしています。中止してくださいね」
「となると、四人の記憶は消されてしまうことになるわけですか」
「そこまではしないと思いますわ。被害を食い止めるだけです」
よかった。俺はほっとした。
「これ以上続けると、あなたがた全員が時間軸の枝から外れてしまいますから」
「外れるって、具体的にどうなるんですか」
「……ここにいる四人とは別の四人が発生してしまう」
「四人が現実の流れから浮いてしまうわけか」
「……そう」
「すでにキョンくんの記憶と実際の歴史が一致していないでしょう?」
「ええ。記憶にない自分と喧嘩してしまいました」
「まあ……」
そこで喜緑さんは息を吸って宣言した。細い眉毛がキリリと持ち上がった。
「今すぐ、中止してください。これは情報統合思念体のすべての派閥からの命令です」
「……」長門は俺を見た。返答を待っている。
「分かりました。俺たちも、事の因果関係のもつれにそろそろ限界を感じていたんです」
この人に怒られるくらいなら閻魔大王もまだやさしいだろう。ある意味朝倉より怖い。シュンとうなだれる俺たちを見て、喜緑さんは表情を変えて笑顔になった。
「気持ちは分かりますわ。わたしも涼宮さんには幸せになってほしいですから」
はあ、果たしてハルヒを幸せにできるやつが本当にいるのか分かりませんが。
 
 喜緑さんはお茶も飲まずに帰っていった。やれやれ、かっこ悪いぜ俺。朝比奈さんが座布団に正座したまま、うなだれて泣いている。
「朝比奈さん、どうしたんです?」
「上司に怒られちゃいました」
あらあら。
「もしかして解任とか、まさか免職じゃ」
「いえいえ。厳重注意だけで済んだわ。細かなフォローのために時間常駐員が全員で動いているみたい」
「俺が悪いんです。勝手な計画に巻き込んでしまってごめんなさい」
「いいのよ。わたしはキョンくんの計画に乗ったんですから」
「もう、こんな頭の痛くなるようなことはやめましょう」
「でも楽しかったわ」
朝比奈さんは涙目のままクスリと笑った。ほんとにもう、この人は俺に甘いんだからな。
 
「古泉、機関のほうは大丈夫なのか」
「大丈夫だと思います。今回のことはなにも報告してませんし、僕が過去に現れたことを知っているのは一部の幹部だけのはずですから」
「まあ、お前が最初に上司に怒られたわけだからな」
「それはそうと、機関の過去の報告をずっと読んでいたんですが」
「お前とハルヒになにか進展はあったか」
「まったく、皆無です」
「なにも?」
「ええ。改変前とあまり変わっていませんね。副団長、同窓生、親しい間柄、それ以上ではなさそうです」
やっぱり、既定事項の自己修復とやらか。四人ともがっくりと肩を落とした。
「僕たちが苦労したこの十一年間、いや、二日間って、いったい何だったんですかね」
古泉がボソリと言った。
「まあ、すべてがダメになったとは限らないさ。ハルヒの気持ちにはなにか残ってるかもしれん」
「そうだといいんですが」
 
 翌日、俺たちは休み明けの疲れた家族持ちサラリーマンのような顔をして出勤した。
「諸君、おっはよー」
社長のお出ましだ。こんな気分じゃ、ハルヒの朝の第一声も耳に障る。
「あんたたち、なに湿気た顔してんのよ。梅雨はもう終わったのよ、気合いを入れなさい気合いを」
俺たちの憂鬱はそんな時候のあいさつみたいなもんじゃないんだよ、と疲れきった表情が抜けない四人だったが。そのとき、三百六十五日ずっと快晴のようなハルヒの姿を全員が凝視した。
「な、なによ、ヘンなもの見るような目つきで」
ハルヒの首から下がった、そこにあるもの。紫色に光る石だった。俺と古泉は顔を見合わせた。それから朝比奈さんと長門も。これだ、これのために俺たちは奔走したのだ。それは古泉の機関も見落としたのだろう。だいたい人の気持ちの変化が報告書の形で残ってるわけはない。
 中学校のグラウンドを走り回り、朝比奈さんが古泉に惚れたり、クビになりそうな古泉の味方をしてやり、長門が泣いて、俺は顔を腫らし、自分の作る歴史に翻弄させられながらもあきらめなかった。このたったひとつの石のために。それはただの石じゃない。ハルヒの胸の上で何年もの間揺れてきた光の中には、今もジョンスミスが存在している。


 
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最終更新:2020年10月08日 16:47