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私の選んだ人 第9話 「秤で量れん物」


夜の文芸部室。
何故僕がここに居るのか解らない、思い出せない。
机が置かれておらず、がらんとしている。
窓際には枯れた笹の代わりに、緑の観葉植物。妙だ。

気付くと、部屋の中心に森さんが立っている。
何故最初に気付かなかったんだ?
彼女は、あの微笑を僕に向けている。何の感情も読み取れない笑み。
僕はソファに座っているようだ。いや、寝ているのか?
なんだこのシチュエーションは?

窓を見ると、夜空に巨大な満月が浮いている。嫌に黄色い。
窓全体が、かなり汚れていて黄色い。
いや、これは、汚れじゃない!
窓一面に薄黄色のテープがベタベタ貼られている!

チュィン バツッ

森さんの身体がビクッと震えた。
その心臓の辺りに黒い小さな穴が開いた。

僕は声も出せなかった。
代わりに撃たれた森さんが声を出した。……笑顔をそのままに。

「鬼ってね、血が流れて無いのよ」

そうか。これは……夢だ。酷い悪夢だ。

「アンタを殺したから私、鬼になったの」

ここから逃げなければ。戻らなければ。

「フフ。私、アンタじゃダメなの。ねぇ、聞いてる?ダメなのよ、私。アンタじゃ、全然ダメ。ヒヨコのクセに。ねぇアンタ、バカじゃないの?私と釣り合うと思った?キモイワ。ねぇ!ネェ?ネエ、ウフフ、ネエネエネエアハハネネネネネえええええエエエエエ」

森さん!?これは全部嘘だ!ただの悪夢だ!
森さんの声の歪みに呼応する様に、風景全てが捻れて行く。
早く帰らなければ!自分の属する場所へ。現実世界へ……!
能力を使った訳でもないのに身体がフワリと浮かび上がり、天井を何の抵抗も無く突き抜けて、真っ直ぐ夜空へ昇る。

上へ、上へ。

突然眩しい光に目が眩み、瞑った目を開くと……。


放課後の文芸部室。……ですか。
お茶を淹れるメイド服の朝比奈さんと、それを腑抜けた顔でボンヤリと眺める彼。その彼に気付いて口を尖らせている涼宮さんと、教室の隅で革で装丁された本を読んでいる長門さん。日常の光景ですね。

彼と僕の間にはオセロ盤が置かれていて、僕が黒で優位、彼が白で劣勢の様です。
おや?変ですね。僕はいつも負けておりますので、普段は白側なのですが。それに、今回のゲームもこのままでは僕が勝ってしまいます。ここからどうやって負けましょう。上手に負ける事こそが僕にとっての勝利なのですから。

おっと。僕達の勝負に興味を示されたのか、いつの間にか長門さんが彼の隣にいらっしゃいます。

僕が長門さんに気付くと、彼女は左手に持った革表紙の本を、僕に向けスッと差し出されました。
それと同時に、彼からはその本の影になった長門さんの右手が、戦局の鍵となる黒1枚を素早く裏返します。彼は全くお気づきで無いご様子。……これで3手後に彼がカドを取り、僕は負ける事ができます。
……フフッ!ありがとう御座います。長門さん。貴方がこんな事に協力してくれるなんて。本当は不正するのは少し心苦しいのですが、折角、貴方が手伝ってくれたのですから、ありがたく使わせて頂きます。
しかし……貴方こそ不正を心底お嫌いだったのでは?

長門さんから手渡された本を開くと、そこには栞が挟まれていました。455頁ですね。その栞には長門さんの筆跡で「この頁を復習せよ。」と、書かれておりますが……。なになに……え?これは聖書ですね。邦訳された新約聖書です。何故、聖書を長門さんが?そしてなぜ僕に?しかも、熱心にも内容の解釈をメモ書きまでしてあるのですが……長門さんがメモを?不自然です。
聖書、聖書。さて、何か思い出さなければならない事があった様な気がいたしますが……まるで頭に霧がかかった様で、全く思い出せません。どうした事でしょう。

「長門さん、これは一体……!?」
僕が長門さんに目を戻すと……。

「鬼ってね……」
その人物は、笑みを浮かべる森さんになっていた。
……これもまだ悪夢の続きだった。
出よう。出なければ。

「アンタじゃダメ」

目を瞑って、帰りたいと強く願う。
……でも、どこへ?……それも思い出せない。とにかく行こう。上へ。

……上へ。


目を開けると、今度は一面が光に包まれた真っ白の世界に居た。
そして目の前に、黒いスーツに身を包んだ森さん。そして、微笑。

「鬼って……」

やめて下さい!僕なんかの為に心を捨てたりしないで下さい!
……あれ?僕なんかの?……なんだ?……それ。

………………ああ。そうだった。
そうだった。

僕には、もう帰る場所が無いんだった。

「……血が流れてない……」

……森さん、本当に、そんな風に壊れてないでしょうね?
それではまるで、ただ死んでないだけです。
僕、それでは死んでも死に切れません。

「アンタを殺したから私……」
「……アンタじゃ………ダメなの。ダメなのよ……」
「……血が無いの。見えないの……」

またひとりでに身体が浮かび上がり、真っ直ぐ上へ、上へ……。

「アンタってナニ?ソレ?……コレがアンタ?」

……多分、これで最後。お別れです。

そして真っ暗になった。




俺の体が再び地球の引力を感じて目を開けると、朝比奈さんが7階のボタンを押した所だった。
やれやれ。どうにか耐え切った。今のがもう後3秒続いていたら、一方通行の反芻作業が行われていた可能性は否定できない。マジ、危なかった。

俺が様々な種類の汗を流しつつ安堵していると、朝比奈さんはそれを見て、
「大丈夫ですか?すごく顔色、良くないけど」
などと、下らない理由で悪化した俺の顔色の心配をしてくれた。嬉しくないばかりか、情けない気持ちで一杯だ。
 
7階へ到着したエレベーターを降りながら、朝比奈さんに質問する。

「朝比奈さん。そういえばさっき、長門からファイルを受け取ったとか言ってましたよね」
「あ……うん。私にはこれがなんなのか、さっぱりですけど」

ふーむ。まあ、長門の事だから、それが必要不可欠な何かであるって事で間違いないだろうが。
 
これから長門の部屋に戻るという事で、朝比奈さんは律儀にも再び緊張し直したようだ。ブレザーの裾に微かな重量を感じる。……しかしエントランスのインターフォンを使わずにイキナリ玄関前ってのは少し気まずいよな。しかし恐らく眼鏡着用モードな長門を見るのは久々だ。
それから、頼むぞ……頼むから居てくれるなよ。朝倉。


長門の部屋の前に着くと、カチャリと鍵の解除される音が聞こえ、勝手にドアが開いた。
いや実際には勝手にではなく、長門が何らかの超常的なアレで気付き、ベルを押さんとする俺の機先を制してドアを開けてくれたのだが、その精妙なカラクリ人形の様な動きでドアを開けた長門は先んじてドアを開けてくれたのにも拘らず、俺の勘では微妙に驚いている雰囲気だった。その長門の相も変らぬ制服姿を見て、丸2年前から着っぱなしなのかと少し気になったが、今は古泉が心配だ。まあ、過去へ来て焦ってみた所で意味は無いのかもしれないが。

俺がその落ち葉から覗く竹の子程度にドアから顔を見せる長門に「よう」と声を掛けつつドアノブを握ると、長門は俺達2人に6つの点で作られた歓迎の言葉を述べ、さっさと奥に引っ込んだ。……あれ?なんで眼鏡してねーんだ?
理由は直ぐに判明した。コタツテーブルの上にその眼鏡が置かれている。
その前にちょこんと座った長門は、追って部屋に上がった俺達に向け、ひたと視線を据えている。

しかしここはなんとも落ち着かない。隣の部屋に俺と朝比奈さんがフリージングされているし、下の階には朝倉が居るかもしれない。

「朝比奈さん、とりあえず座らせて貰いましょう」
「あっ。えと、……お邪魔……します」

長門とコタツを見比べている朝比奈さんと俺が座ると、それに合わせて長門の視線の角度が変わる。だが、それだけ。入力待機受付モードだな。
さて、どう説明したものやら。と、概要を客観的に再構築しようとし、主に客観的という部分に失敗して自己嫌悪に陥ったり、また一人ブチ切れそうになっていると、朝比奈さんが、
「あ、あの……あたし達、って言ったら、あたしは違うから変だけど……キョンくんの属する時間平面上の長門さんが、コレを……」
と言いながら、長門に向け、おずおずと手を差し出した。

超然とした態度の長門は1回瞬きをすると、一片の躊躇いも無く、朝比奈さんの差し出した手に触れた。

そしてもう一度瞬き。
「……他には?」
と、長門。
「え?あの。それで、終わりです。……だと、思うけど……」
「もう一度手を」
「あ、はい」

手を触れ合った2人だったが、どうも、長門は迷っている様だ。少し首を傾げる。角度にして0.5度ぐらいか。

「どういう事だ?長門。まさかとは思うが、何かが足りないのか?」
今日は瞬きのバーゲンセール中らしく、またまた瞬きをしてその間に何事か考えた長門が言った。
「必要最低限の指示」
あー。これか。説明不足バージョンの長門か。

「朝比奈みくると同様の扱い」
それは、やるべき事だけは知らされたが、それが何故なのかは知らされなかった。って奴か。しかも自分自身の過去に指示を出している所までソックリだな。

「すべき事は理解した。わたしの指示を実行する」
長門はそう言って唐突に立ち上がる。

俺達は今座ったばっかりなのだが、ま、善は急げだな。
「よし、頼むぜ長門。しかし、これから何をするのかぐらいは説明してくれよな。俺ではあまり助けにはならないかもしれないけどさ」
そう言いながら立ち上がろうとする俺に向け、上からブラックアイスコーヒー色の瞳からの視線を注いだ長門は、
「わたし一人で行く。あなた達はここに。15分で戻る」
と言って、そのまま出て行こうとした。思わず中腰のまま朝比奈さんと顔を見合わせる。

「お、おい。俺に出来る事なら手伝うぜ?まあ、足手纏いなら仕方が無いが……」
俺がそう言うと、長門は一旦立ち止まりはしたものの振り返らずにこう言った。
「あなた達は場所を知るべきではない。わたし一人でいい」

長門が余りにも自然に歩くのを再開したもんだから、そのまま見送りそうになった正にその時、俺の視界が開かずの襖を捉え、ふとした疑問が沸き起こる。
「って。そういや今更言うのもなんだが、隣の部屋で寝ている俺達は大丈夫なのか?長門がここを離れても」
「問題ない。それ程遠くではない」
長門はそう言いながら、靴を履く。

「台所の棚の右端に茶葉がある。ゆっくりしていて」

それだけ言い残すと、本当に出て行っちまった。


しかし、15分で行って帰って来れる場所に、機関の本部だか研究所か何かの施設があるって事か?そりゃ。
いや、長門が瞬間移動した所は何度か目撃している。そう考えるのは短絡的に過ぎるだろう。……是非そうであって欲しい。あんな話を聞かされた後で、そんな真っ黒クロい組織が自分の住む街の至近距離を根城にしているなんてな、そんな物、これっぽっちも知りたいと思わないトリビアだぜ。

「行っちゃいましたね……」
「ええ。何が何やらさっぱりです」
「ほんとう。あたしにはまだ半分しか、答え解ってないのに」
「まあ、戻ったら訊いてみましょう」
「うん……」

朝比奈さんがまた暗くなり始めた事を、俺の朝比奈さん専用アンテナが鋭敏に察知した。
今俺も感じているこの遣る瀬無さ。いつも朝比奈さんが感じている気分なんだろう。自分が何も出来ない、何も知らされない無力感……。
この空気に15分間も耐えるのは、非常に厳しい。
それに、だ。どうせ開かない襖はまあいいとして、もし朝倉がこのタイミングで現れた場合、笑顔で座っていられるだけで居心地が急激に悪化する。その上もし……いや、無いはずだが、もし襲って来た場合にはもっと居心地が悪くなる。

「まあ、朝比奈さん。長門の言葉に甘えてお茶を淹れて下さいませんか?俺も手伝いますから」

長門にしては気が利いている。……のか?朝比奈さんもお茶を淹れると言う作業をしていれば気が紛れるだろうし、俺も朝比奈さんのお茶を飲めれば気が紛れる。
ただ、長門が説明してくれれば、そもそも気を紛らわせる必要が無かったのだが。

「えと……でも、本当にいいのかな」
「う~ん。」と書かれたフェミニンカラーの文字を背景に、少し困った顔をして顎に人差し指を添えつつ考え込む朝比奈さん。あぁ癒される……じゃない。
「大丈夫ですよ。長門がわざわざ茶の葉の場所まで言い残して行ったんですし。それに、さっきから色々ありましたからね。俺も朝比奈さんの淹れて下さるお茶でスッキリ、リフレッシュしたいなと」
腹もまだかなり苦しいしな。そっちも少しはスッキリするだろう。……入る隙間があれば。

「そういう事なら……。うん。でも、あんまり期待しないでくださいね?いつも使ってる道具とかと違うし」
うふふ。と清らかに微笑む朝比奈さん。よし。絶対に飲み切る。

台所を2人で物色して無事必要な道具(ヤカン、急須、湯飲み、ほうじ茶)を発見し、朝比奈さんに茶を淹れて貰った。しかし……ほうじ茶?なんだか記憶の片隅に引っかかっているんだが。なんだったか。
茶葉は言われた場所で直ぐに見つかったが、急須を探すのに少々手間取った為、リビングへ戻った時はもう10分以上が経過していた。
しかしたった10分少々では腹12分目だった所から、茶を収納するスペースを確保するのに充分な時間とは言えない。それでも折角、朝比奈さんが俺の依頼を実現してくれたのだ。どんなに腹が苦しく、熱い茶であろうと、涼しい顔で飲み乾すのは最早これは使命だ。

ってな考えを実践していた所、
「どうですかぁ?温度も計れなかったし、うまく淹れられたかどうか……」
と、俺の顔色を察してか不安そうな朝比奈さん。やはり無理があったか。

「とても、おいしいですよ。こんなお茶なら幾らでも飲めそうです」
それでも俺がそう言うと、朝比奈さんは、
「よかったぁ~」
と、ニコっと天使の笑顔で首を傾ける。次いで、幸せな気持ちに浸る俺の右耳に予期せぬ平坦な声が届く。
「……完了した」
この瞬間に茶を口に含んでいなくて助かった。間違いなくテーブルへ向けやりたくもないマーライオンのモノマネをしていた筈だ。いつの間に戻ってたんだ?長門。全く気配も物音も無かったんだが。って、そんな事言ってる場合じゃねえ。長門が戻ったならば色々聞きたい事がある。

「何を完了したんだ?俺にも教えてくれよ」
定位置に座り直して俺を直視した長門は、先程までの無口モードを捨て去り、滔々と、電波な話ならぬ、電波それ自体の話を始めた。

「あなた達が来た日の夜、比較的大規模な太陽フレアが発生、それにより太陽嵐と呼称される現象が日本時間の23時51分14秒に起きる。太陽嵐としては小規模に分類されるが、現代地球人類の持つ機器は1回の太陽嵐からかなり深刻な影響を受ける」

ほう。先程古泉は太陽嵐という言葉に心当たりがある様だった。朝比奈さんもご存知のご様子。俺は太陽風って言葉なら知っていたが、嵐は今日初めて聞いた。あー。今日だと語弊があるか。ええい、面倒臭せぇ。

「太陽嵐から地球人類が受ける影響には3種類あり、それは速度が異なるため段階的に到来する。その時の太陽から地球までの距離を計算し予測されるそのタイミングとその影響は、第1波が発生から8分3秒後に地球磁気圏に到達する電磁波。その影響により、一時的に殆どの電波通信システムが正常に動作しなくなる。特に地球電離層外に位置している人工衛星はこの影響を直接受ける為、『機関』の衛星情報通信システムも電磁波の直撃前に予めシステムを自衛的にシャットダウンして故障を回避する。それを利用する。続く第2波の放射線は、本来予測される規模に対し異常に微弱で、地球人類は一切影響を受けない。第3波がコロナ質量放出。太陽嵐発生から約64時間後に地球へ到達し、それによって『機関』の衛星情報通信システムの大半が動作不良に陥る事を未来のわたしは計算している」

何をどう利用するって?まあ、続きを待とう。

「……」
「…………」

「おい、長門。まさか、それで終わりかよ?」
俺がそう言うと、明らかにそのつもりだった風な長門は考えを改めたらしく、話を続けた。

「……『機関』の衛星情報通信システムの基礎となるプログラムに、改変プログラムを潜伏させた。『機関』衛星情報システムの最大同時アクティブ数は4基。通常2基。残りは対地回線を開放中の衛星の監視。例え4基同時に改竄したとしても意味を成さないシステムになっているが、わたしの組んだプログラムは、それらが自衛的にシャットダウンされる瞬間を突き、12基全ての保持する情報の『機関』の規則に僅かな修正を加える。これを防ぐ事は不可能。但し、可能性は極めて低いが、わたしが分割し潜伏させたプログラムが運用開始以前に発見され駆逐される可能性はゼロではない。つまりこれは、賭け」

そうか。これが、残り半分の答えだな。俺達の来た時間より後に、長門謹製ウィルスプログラムが、『機関』の規則を記録している衛星をなんとかするって事だ。それで俺達の辿って来た歴史とも食い違わずに、俺達が来た日に『機関』の規則が変更される。
「しっかし、偶然にしちゃあ随分丁度いいタイミングで、その太陽嵐だかは起きたもんだよな」
「涼宮ハルヒの起した情報の揺らぎがトリガー。偶然ではない」

あー。そうかー。なるほどぉー。

「……とにかくその、長門が作って潜入させたプログラムで、古泉は死なないで済むって事だな?」
「その予定。しかし、確実に古泉一樹の生命活動を守るには、その規則の変容を適切に『機関』の人員、そして古泉一樹本人に伝達しなければならない」

「で、でも、そのぅ……間に合うんですか?」

と、朝比奈さん。そうですね。それもありますよね。俺も気になってました。
ええと、11時51分14秒の、8分3秒後は、……11時59分17秒だ。……で、12時丁度でタイムオーバーって事は、なんと43秒しか無い。ギリギリとか言うレベルじゃないぞこれ。シャットダウンしたその通信システムってのは、どれぐらい再起動に掛かるんだ?部室のパソコン程度掛かるならば、間に合わないが……。

「間に合わない」
って、長門!?

「極超短波が電離層を通過する際の遅延を含め、衛星通信システムが再起動後、地上に最初の情報を伝達可能な時間は、11時59分59秒。更に、全ての『機関』構成員に指示が浸透するには、そこから30秒から5分程度のタイムラグを計上しなければならない。その上、古泉一樹は制限時間丁度までは待たないと予想される」

ぉおおおおい?!

「問題点は理解している。しかしその時間、わたしとわたしのバックアップが拘束されているのならば、これ以外に選択可能な有効手段は無い……」
「まて。有効手段って事はだ。それでも古泉を助けられる可能性はあるって事か?」

俺がそう質問すると、一瞬だけ迷ったような目の色を見せた長門は、こう言った。
「……これ以上詳しい事は言えない。ただ、わたしに出来る限りの事はする」
「何故言えないんだ?」
「好ましくない。古泉一樹さえ知らされていない部分の『機関』に関する知識は、『機関』から直接危害を加えられる可能性の皆無なあなたにも教えることはできない。朝比奈みくるも同様。朝比奈みくるが禁則処理されていない新たな知識を得る事は、『機関』と未来の関係性に悪影響を及ぼす。そしてそれはわたし達に取って好ましくない」

しかし俺達の時間帯の長門は、古泉でさえ知らなかった事も平気で言っていたような気がしたが……?
「衛星についての情報ならば問題ない。あなた達の来た時より68時間後にその情報は機密性を失う」

「だがなぁ、知らないものは古泉にも教えられないぜ。機関には黙ってれば、問題ないんじゃないのか?」
「彼らを甘く見てはいけない。彼らがあなた達の様な普遍的人類と同等の能力であると思わない方がいい」

瞬間、俺の頭の中を森さんの壮絶な笑みがチラッと過ぎり、ああ、今回もまた長門の言う事は素直に聞いて置いた方がいいな。と俺は1人納得した。朝比奈さんも真剣そのものな顔つきで何事かお考えのご様子だ。恐らく未来筋からの情報で、機関が一体どういった組織なのか前知識があるのだろう。そういや、機関を裏切った人間の末路について長門が……いやこの長門ではなく、俺の属する時間帯の長門だが、その長門が機関の衝撃的実態を暴露した時も朝比奈さんはショックで気を失う様な事は無かった。あれを予備知識無しで聞かされたら、朝比奈さんの事だ。恐らく気を失わないまでも、へたり込むぐらいはしただろう。

「そうか。まあ、俺達の時間に居る長門は、今のお前の記憶も持っているって事だしな。ならば、長門が古泉に教えてやればなんとかなる……だろ?俺が元の時間に戻ったら何かやれる事はあるか?」

「古泉一樹本人にわたしが取った行動を予め知らせる事は出来ない。何故なら『機関』は0時丁度に古泉一樹の生命活動を停止させようと行動すると思われるから。もし古泉一樹が、自分が0時以降も生命活動を継続維持できる可能性を認識していた場合、逆に0時丁度の時点で、念の為に、それを完全に停止させられてしまう可能性が高い。古泉一樹には1度死んで貰う他ない」

前提も過程も結論も、まるで解らん理屈だ。だが、長門がそう言うのならば、そうなんだろう。そしてその一度死んで貰うってのは、今度こそ比喩なんだろう。……死んだフリとかか?……まさかな。そんな簡単には行かないだろうが、まさかお前まで「有機生命の死の概念が解らない」などと云わんだろう?

「大丈夫。わたしと朝比奈みくるの取った行動が状況を「裏返す」。後は、賭け」
「そうか。よく解らんが、とにかく俺は長門を信じる」

俺がそう言うと、長門は瞬きを1つの返答として、そのまま静止した。
しかし結局、今回も長門に頼りっぱなしだったな。こうやって後悔するのも何度目だ?……うーむ。
まあ、帰ろう。こんな時でなければもう少し長門と話でもして行きたい所だが、長門には悪いが全くそんな気分じゃない。実際あの野郎が心配だ。

「まあ、じゃあとりあえず戻りましょう。朝比奈さん。10時過ぎは長門は動けないと言ってますし、俺達にはまだ何かできる事がありそうだ」
「うん。頑張りましょう。じゃあ、申請します。ちょっと待ってね……」

立ち上がった俺は先程から固体化したままの長門に向き直った。まだ言うべき事は残っている。
「10ヶ月後だな。長門。お前がSOS団に居てくれて本当に良かったぜ」
その時だった。
「……え?え?」
長門が何かを言う前に、朝比奈さんが突然慌て始めた。

「どうしました?」
「ど、どうしよう。キョンくん。許可が下りない。……おりないよぅ」
「はい?」
許可が下りないって、俺達また戻れないんですか?もう長門のエマージェンシーモードとやらは当てに出来ないってのに。

「次の日の午前0時5分に、ポイントが限定されちゃってて。そ、それ以前には、飛べないんです……」
なんだって?
「それじゃあ間に合わない!もう一度、確認してみてください!朝比奈さん。なにかの間違いじゃ」

「だ、だめ。だめです……どうしよう。古泉くんが!こっ……」
朝比奈さんはその場にしゃがみこんで目を瞑り、ボロボロと大粒の涙を零し始めた。
長門はそれを冷静に見つめている。

「長門!何か知らないか?どういう事だか解らないか?」
「推測可能。恐らく私が加えた修正について詳細を言えないのと同じ理由。朝比奈みくるの安全を守る為と、『機関』と朝比奈みくるの属する未来との関係性の保全に、最も効果的で確実な手段」

そうか……。まあ、長門が気にかけていない様だし、恐らくそれで問題ないのだろう。だが結局、俺はただ古泉に八つ当たりして終わりだったか……。
「あなたに、未来のわたしからの伝言がある」
「……なんだ?」

「あなたの言葉が古泉一樹の精神状態を安定させた。それにより不確定要素がほぼ無視できるレベルになった」
……そうかい。ありがとうな、長門。

「朝比奈さん、その0時5分に帰りましょう。もうここでやれる事は無いみたいですし、そう悲観しなくても大丈夫ですよ、きっと。そうだよな?長門」
「………………」
ここは嘘でも「そう」と言って欲しい所だったが、長門にそれを求めるのは間違いか。

「うっ。あ、はぃ。ぅぅ。ごめん、なさい。ぐすっ。そう、ですよね。まだダメって、きっ決まった訳じゃ、うっく。ないっのに」

しゃくり上げる朝比奈さんをなだめつつ、なんとか靴を履いて頂いた。
それから俺達は、1つ頷く長門に軽く手を振って、未来への帰路についた。

0時5分か。長門の言う通りならば結果はもう出ている時間だ。


……頼むぜ。生きていてくれ。古泉。頼む。




……暗い。今度はどこだ?
上も下も判然としない。身体が重い!動かない!

動け!逃げないと。上へ。もっと上へっ!
動け!動け!……動いた!

『きゃっ!』

……なんだ?
ええと、僕は今、仰向けの状態から飛び起きて、何かを跳ね飛ばしたようだ。
……暗さに目が慣れて来る。
辺りを見回した僕は、自分が跳ね飛ばしたモノと、目が合った。

床にへたりこみ、口をぽかんと開けて呆然としている森さんと。

……あれ?夢じゃない?ここは現実か?なんで?

ソレは、その時、突然やってきた。
頭痛と耳鳴り、目眩。現実以上のリアリティを持つ既視感、過去の記憶の反芻、そして知らない記憶。
脳内で再生される早回しの映像。過去、現在、未来の記憶が混ざり合う…………

…………眉を吊り上げる森さん、赤くただれた手を突き出し『呪文』を詠唱する長門さん、泣いている森さん、怒っている彼、「バイブル」、喜ぶ森さん、彼に笑顔を向ける涼宮さん、革表紙の聖書と栞、裏返されるオセロのピース、笑う森さん、心配そうな朝比奈さん、眉をひそめる森さん、携帯電話、森さん、森さん…………

…………思わず目を瞑ると突然の静寂。目眩と頭痛も消えた。


なんだ……コレは?あの8月に恐れていた通り、今度こそ本当に新しい能力にでも目覚めたのか?しかし予知能力にしては与えられる情報が無秩序過ぎる。これでは役に立たない。
それに……それより、そう。

なんで僕は、生きているんだ?僕は確かに黒を……。

先程から身動ぎ1つしない森さんを見た時、また既視感に襲われた。
ただ、今度の既視感には流れとストーリーがあった。過去、現在、そして、未来。
そうか。あの時か。
あの時、長門さんが僕の持つ黒の中身を白の効果に「裏返し」た。
そしてこの既視感も長門さんからのプレゼント。もしかしたら実行したのは喜緑さんかもしれないけど……。詳しい事は明日学校で訊こう。とりあえず今はやらなければならない事があるらしい。

僕は急いで「バイブル」を取り出す。ID、パスワードを入力、そして更新。
今調べなければならないのは、4章の……。


機関法 [規律] 第4章 機関への忠誠
第55条 機関への叛逆行為に対する処遇
故意により機関の存在理由[憲法1章1~18条]を害した機関員、及び準機関員、もしくは過失により同条項を著しく害した機関員、及び準機関員は
一.査問委員会を招集し処罰を検討する。召喚には速やかに応じる事。[刑罰1章1条~2章5条]が適用範囲。

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罰則が規定されている!?死刑は無し?

「も、森さん!これを読んで下さい。早く!」
僕がバイブルを差し出すと、心ここに在らずといった風の森さんが、緩慢に手を伸ばして、それを受け取った。
そして焦点の定まらない目で読み始める。

僕はこうしては居られない。まだ既視感を通して指示を受けている。
携帯端末を取り出し、電源を入れる。急げ。急がないと。そうしなければならない気がする。

着信8件、新着メールが11件。でも今は後回しに……
と、丁度その時、手の中で携帯が鳴り出した。非通知ナンバー。……本部か?

「はい。古泉一樹です」
『古泉、生きていたのか?』
幾度か聞いた事のある低い男の声。いつもは全く感情の起伏が感じられないのだが、今は少し様子が違う。

「ええ。その様です」
『ウウム。よろしい。……今まで何度か連絡したが、お前の携帯にだけ全く繋がらなかったのは、どうやら電磁波の局所的異常が原因らしいな?まあ、いい。……あ~。先ずガジェットを確認しろ。今お前の手元にある筈だが?」

「既に該当項目も確認しました」
「……フム。いいだろう。その新規定に依ると、お前の身柄はこの後拘束される。任意の支部へ出頭するように。……お前には今より90分の猶予が与えられる。……午前1時33分までだ。それ相応な処分を覚悟して置くといい』

「……了解しました」
『しかし、強運だな。古泉一樹。この機関法修正の通達は3分前、例の会議開催時刻の1秒前に成されたばかりだ。その上通達と同時に施行されたぞ。それにより会議での判決は後付けで保留された。お前の生存が確認された今、判決は無効となり新規定に従い処分が決定される事になる。更に言えば、お前の死亡も3分前に確認されていた筈なんだがな?……ああ!……とにかく、これでもう2度と「処分」命令を出す必要も無くなるんだな?…………よし、安心しろ。指示の変更は通達した。……そうだな、個人的に一言だけ言わせて貰おう。良くやったッ!古泉!よし。通信終わる!』

通話が切れるまでの間、電話の奥から数人の男女の喝采が漏れ聞こえていた。機関は、今日から変わる。そう確信させるに足る変化だった。


振り返って森さんの様子を見ようとした僕の左半身に、重い衝撃が走った。

なんだっ!?

身体が宙を舞い、ベッドの上に墜落する。

って。イテテ。森さんが無言で体当たりして来たのか。
そのまま声も出さずに僕の身体に圧し掛かり、恐ろしい力で締め上げた森さんは、僕の肩口に顔を埋めた。
……骨折しそうだ。全身がメリメリ言ってる。

手加減願おうとした僕は、ふと、森さんが全く無言な理由に思い当たり、これを甘んじて受け容れる事にした。森さんには僕の骨の1本や2本、折る権利はある。ただまぁ、1、2本で済めば安い方だけど。

僕は迷いながらも、両腕を彼女の背中に廻す。
……温かい。いい匂いがする。でも体中が痛む僕には、煩悩に支配される余地が無い。精神的には助かる。

しかし……彼女のあの提案を受けなくて、本当に良かった。
僕の理念にも反する事だったけど、それは彼女も同じ。僕がもし受けていたら、森さんは軽蔑していただろう。僕と、彼女自身を。……あれは、彼女にとっては時間的な逃避なだけでなく、それを介した精神的な逃避だった。弱い自分を現実化させる事で自己評価を壊し、僕を救えなかった責任の所在を部分的に周囲の環境に転嫁する。「自分にはどうしようもなかった。弱い自分には」……と。
そんな歪んだ救いが必要な程に、彼女は自分を責めていたんだ……。

イテテ。

そしてあの口移し。口付け自体がトラウマになりそうだ。
ただ……森さんは、本気でアレを噛み切ろうとした。
彼女はあの瞬間、本気で僕と心中するつもりだった。
彼女が責任を感じてしまう事は解っていたけど……。多分、森さん自身、あの瞬間まで理解していなかったんだろう。僕には全くの予想外だった。


僕はただ彼女に、僕を忘れて生きて欲しかった。

でも、さっきの夢が僕が考えている通りの物だとすると、僕は、彼女に一番重い刑を科す所だった様だ。危ない所だった……。
長門さんはほぼ確実にこうなる事を計算して、わざと僕が森さんに捉まるタイミングで部屋を追い出したのだろうけど、もし何かが違っていたらと考えるとゾッとする。……まあ、もし森さんと一緒で無かったら、僕は消されていたかもしれないし、自分で自分の死体が残らない方法を選んでいたかもしれない。

しかし結局、僕が彼女を想うほど、僕は彼女を追い詰めてしまっていた訳だ。
いや、これまでの前提が崩壊した今、今後はもう彼女を苦しめる物は無い。……筈。
そうでないならば、僕はこの気持ちをなんとかしなければならない。
でも、今だけはそれを考えるのは止そう。

……ああ。
この胸の痛みは、身体を締め上げられているからだけでは無いかもしれない。


引き続き強すぎる力で僕を抱きしめる森さんは、嗚咽を漏らしたり、しゃくりあげたりしない。流れる涙を止めようとしていないから。

……森さん……森さん。


僕は、この、僕の心の底から溢れ出して来る気持ちを、開放してしまいたい衝動に駆られる。
でも。
僕は、あの日の僕とは違う。
これを全て、弱っている彼女にぶつければ、今度こそ彼女は圧し潰されてしまうかもしれない。
彼女はやはり、どこも、全く鬼らしくない、優しい人だ。優し過ぎる。……一緒に死のうとするなんて。
僕はなんとか自分の暴走しかけた気持ちを静め、当たり障りの無い感謝の表現を選ぶ。

「僕の上司が森さんで良かった」

そう言うと、僕の身体を締め上げていた彼女の腕と脚の力が急激に弱まり、クタクタ。と柔らかくなった。
しかしそれによって抱き心地が酷く良くなってしまい、僕は非常に狼狽した。

彼女の吐く息の温もりと湿気が、僕の首筋と彼女の顎で出来た密閉された空間に篭ってくる。
僕の耳や髪が、彼女の温かい涙で濡れる。僕の中を妖しい感覚が奔る。
今は絶対に目を合わせられない。彼女が体を離して目を覗き込む事の無いよう、思わず腕に力を込める。

しかし、僕の腕の中で穏やかに呼吸をするこの小柄で温かい身体が、あの森さんだなんて。
いつも完璧な容姿を維持し、冷たい雰囲気を纏う森さんだなんて。なんだか不思議だ。


「良かった……」
一言だけ。鼻声の森さんが小さく呟いた。


そう。そうだ。……僕は、助かったんだ。
死なないで済んだんだ。

……生きていられるんだっ!!

今まで押し殺していた感情が、ゆっくりと、体の内側から目を通って暖かい流れとなって溢れ出す。
生まれて初めて、恥ずかしいとも、抑えたいとも思わない涙。

ありがとう。長門さん。朝比奈さん。そして、勿論……。

その時、また携帯が鳴り出した。
右手の届く範囲に落ちていた携帯を手に取り発信元を見てみると、その彼だった。これは、出なければ。SOS団の皆さん以外の誰かなら無視したかも知れませんが。

「もしもし」
『古泉?だよな……。生きていたか。……ったく、心配させやがって』
心底安堵した様な声。でも既に滂沱の涙を流している僕には、それに対する感謝の気持ちを表現する幅は既に無い。

「ええ。……あ、ありがとうございました。……みんなあなたの、お陰です」
『いや、結局俺は何もしてねぇ。礼なら長門と朝比奈さんに言え。それから……間接的にだが、ハルヒもだな。アイツが太陽嵐の原因らしい。相変わらずデタラメなヤツだ』
……そうか。それを長門さんが。そして機関法が変化を。

「いえ。あなたの一言が無ければ、僕はもっと早くに諦めていたかもしれない」
『アホか。今俺と朝比奈さんは過去から戻った所だ。隣に居るから代わるぞ』
「はい」
僕が詰まる喉から声を絞り出している事は、彼にもはっきり解っているだろう。しかし、それについて彼は何も言わない。

『……もしもしっ?こいずみくん!?』
「朝比奈さん。……ご尽力感謝します。あなたも僕の命の恩人だ」
『あ。あ。よかった……よ、よかったぁ……ふ、ふ。……ふぇぇ……ひっく…………キョンっくんぅぅ、こいずみくんっがっ。こいずみくんぁ……っ…………あー。朝比奈さんは取り込み中になった』

僕は幸せ者だ。こんなにも身を案じてくれる仲間が居て、森さんが居て。
本当に良かった。この人達を悲しませないで済んで。

「この御恩は、いつか必ず」
『そんなもん……あー、そうだな。そろそろ今のボードゲームにも飽きた所だ。近い内に何か新しいのを頼む』

…………。

『それからな。お前、やはり猫被っとらん方がマシだと思うぞ。………………あ、いや。じゃ、じゃあな』

通話が切れた。

森さん、すみません。……やはりあの「お願い」だけは、聞けないかもしれません。


……ところで。
いつまでこうしているつもりかな?森さんは。
喜びよりも苦しみが上回る。それが僕の正直な気持ちだ。これ以上、

グキュルルゥゥ~

って?えっ?
…………。
今のって、まさか?森さんの……?

5秒ほど凍りついた部屋の静寂を破り、彼女がむくれた様な涙声で、か弱く弁解した。

「……おなか、へったのっ!」

そしておもむろに身体を起した彼女は、何も言わずに僕の腕を振り解き、顔を見せない様にしながらトイレへ駆け込んで行った。

それを見た時、僕の胸の中が何かに貫かれた気がしたのは、錯覚だろうか。
酷く胸が苦しいのは、肋骨でも折れたのだろうか。

……はぁ。
僕にはあんまり、可愛い所見せないで欲しいなぁ……。
でも僕が原因だし、仕方ないか。……今度は僕が耐える番って事かな。
イテテ。


ああ、そうだ。もしかしたら、あの規則も……。
淡い期待を胸に、バイブルを操作してみる。

機関法 [規律] 第2章 その他の人間関係
第27条 機関員間の恋愛の禁止
機関員、準機関員同士での恋愛は之を禁ずる。
一.違反した場合は両者のいかなる接触をも禁ずる。
一.上記処分を破った場合は[刑罰2章5条]が適用される。

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変化無し……か。
ま、期待する方が間違っているし。
それに、これが変化していた所で、どうなる物でも無い。




それから15分程経過し、トイレから出て来た森さんは、ほぼいつもの顔、ほぼいつもの態度に戻っていた。
ただ、余程恥ずかしかったのか、直ぐには僕の目を直視しようとはしなかった。
そして先程僕が頼んで作って貰った食事の残りを、その献立の組み合わせに自分で不平を述べつつ一気に平らげた。
相当空腹だった事を急に思い出したようだった。

その後、彼女に連れられ最寄の支部へ出頭した僕は、今こうして、時計1つとパイプ椅子1つ以外には、窓すら無い殺風景な部屋で、ただ判決を待っている。
もう既に午前4時を回った。
このまま続く様だと今日は学校は欠席かな。……まだ北高に通えるならば。だけど。


おや?廊下を近付いてくる足音が聞こえる。……これは森さんの足音だ。遂に結論が出たのか?
足音は、予想通りこの部屋の前で止まった。

ガチャリ

思わず固唾を飲み込む。

……が、ドアを開くなり森さんはこう言った。
「帰るわよ。古泉」
森さんは疲れた顔をしている。彼女の顔の上に、恐らくは絶望を隠す無表情を、もしかしたら喜びを。そのどちらかを予想していた僕は、かなり拍子抜けした。

「え?帰るって、僕の処罰はどうなったんです?」
「面倒な仕事が回って来るわ。来週の日曜、早速、要人警護よ。私と一緒に。今週末中に準備しないと」

「僕が、要人警護、ですか?……それはそれで不安ですが。でも処罰ってそれだけですか?」
「まさか。手始めにって事よ。それから減給もされるし、閉鎖空間も暫く休暇無しらしいわよ。アンタにはこれからもう少しスキルを磨いて貰わないと、ちょっと私の負担がキツいかもね。ま、私が直々に色々と鍛え直してあげるから、ありがたくしごかれなさい」

ええ?でも、閉鎖空間に関しては、元々休暇なんて殆どなかったし。それに減給されるって言っても、僕は最初から高校生にしては多すぎる給金を受けている。生活が苦しくなる訳でも無いから、殆ど実感のない処分だ。……今の僕に取って最も重い処分は、北高から転校させられる事と、森さんから離される事だけど。

「北高へはこのまま通い続けても?」
「当然よ。アンタをSOS団から外させる意味って、機関にあると思う?」
「異動は全く無いのですか?」
「ないわ」

彼女の顔は、愚問はやめて。といった感じで、ひどくうんざりした様な表情を形作った。

「だって、もし今回アンタが動かなかったら、長門有希を助ける為にジョン・スミスが出てきたかもしれないし、それは機関に取ってもマズいしね。そもそもあの規則はもう古かったってのもあって、アンタの擁護派もかなり居る。まるでアンタを英雄扱いの幹部まで居るわよ。でも、アンタが叛逆行為を犯したのは事実だから、いきなり甘い処分にすると他の機関員に「示し」も付かないし、そもそも規律が維持できるのか不安だって意見もあってね。ま、当たり前だけど。会議では当然意見が分かれたらしいわ。それで結局これからの方針については一応保留。今回のアンタへの処分はとりあえず特例措置って事で、適当に体裁だけ整えてお茶を濁した。と。でも議題の殆どはアンタの処分についてじゃなくて、機関のこれからについてだったみたいよ。今、機関には正直アンタの処分よりも重大な問題があるから」

「森さんは、その会議に招集されなかったんですか?」
「アンタは私の直属の部下だもの。今回私はただの証人。ホラ、行くの?行かないの?一人で帰っちゃうわよ?」
言いながら、彼女は踵を返して歩き出す。
「あ、はい。行きます」

慌てて森さんを追いかけながら、僕は考えた。
……本当にそれだけなのか?
僕の考えでは、今回長門さんを救う事はそもそも機関にとっても必要だった。例え代役と交代させられるまでの一時的な物であっても、長門さんが無力化されてしまったら涼宮さんと彼を守るのは難しくなる。それを敵性勢力が見逃す筈が無いし、相手によっては機関は全く対抗できない。
でも、僕が機関の方針に逆らい、その存在意義の根幹に関わる規則を破ったのは事実だ。改定された機関法の裏切り行為に対する適用可能な罰則の範囲を見ても、もっと厳しいペナルティも有り得た。いや、もっと厳しくなければ嘘だ。

「俄かには到底信じられません。森さん」
カツカツと足音を響かせ、颯爽と廊下を行く森さんの横にやっと並んだ僕がそう言うと、こちらには目もくれずに彼女が答えた。
「私が言った事なのに?」

「いえ、もちろん森さんは信じていますけど」
すると、ヤレヤレ。といった感じで小さく、ふぅ。と溜息を吐いて見せた彼女は、
「アンタさ。まさかとは思うけど、アンタが理解している事を、幹部連中が気付いていないとでも思ってるの?」
と言って僕を一瞥する。長門さんが無力化された場合の危険についてだな。

「機関の方針を鑑みて、正直少しそう思っていましたが」
「あっきれた。確かに機関には派閥間の足の引っ張り合いもあるし、意思決定権がトップに集中していないから、総じて議論は長引いた上で結局折衷案を選択する事が多いわよ。今回も、もし長門さんを助けるか否かの討論を始めたら確実に手遅れになっていたわね。でも、一応幹部クラスのメンバー個人個人は無知蒙昧な輩では無いわ」
「それは、そうなのかもしれませんが」

「規則は規則。守らなければ組織は機能しない。でも、アンタがやった事は機関にとっても最善の選択だった。そしてそれぐらいは彼らも解ってるわ。これでもしアンタを厳しく罰して、その事が知れ渡りでもしたら、機関は確実に瓦解する。もう「示し」なんて言ってる場合じゃないの。機関法から記述されていない行が無くなった今、機関は人心掌握についても考えを巡らせなければならない。言わばアンタは今回、機関に関わる人間全てに取ってのアイコンなのよ。それくらい、いつものアンタなら自分でスグ解るでしょ?らしくないわよ」
「確かにそうかもしれないですが……偶像視は大袈裟にしても」
でも、それまで必死に覚悟を決めていた僕には、この時まだ「万事丸く収まった」という実感は無かった。


閑散とした駐車場に停められた、森さんのワインレッドのジャガーに乗り込む。
ドアが閉まり、密室になった途端に、森さんの雰囲気と口調が僅かに柔らかくなった。

「それにしても。ふふっ。こんな開放感はひっさしぶり」
「僕は、まだなんとも、信じられないというか……」
「しょうがないわねぇ」

呆れ笑いしながら伸びをしようとした森さんの手が、高くない車のルーフに阻まれる。そして少し気分を害した様だ。……この、天井め。余計な事を。

「んん。もっと天井の高い所へ行くわよ。あんたも、もう少し心から喜んだ方がいいわ。大体あんた、どうせ今から寝たら学校寝過ごすでしょ」
「いや。閉鎖空間のおかげで生活リズムが乱れるのには慣れてるし……」
あ。まずい。森さんの目が固体窒素の様です。

「で、でも、今日はなんだか緊張が解けなくて眠れそうにないかな。はは、は」
「そうそう。ヒトの厚意はしっかり受け止めるべきよ。って事で、行くわよ」
「……どこへ?」
「私の家の裏手にね、見晴らしのいい場所があるのよ」
「見晴らしも何も、ほぼ真っ暗だけど」
「だからいいんじゃない。んー。4時11分か。14分ぐらいあるわね。急げば間に合うかな。緊急車両化やっちゃおうかしら?」

4時25分って、日の出の時刻か。
しかし、緊急車両化って。それは流石にまずいんじゃ……。

「ホラホラ、早くシートベルトする!間に合わなくなったらアンタ、あのコの所へTPDD借りに行かせるわよ」
「そんな、無茶な」
僕のシートベルトがカチリ。と音を立てた刹那、それを合図に猛然とスタートを切ったジャガーは、タイヤを軋ませドリフトで道路に飛び出した。

うわっ。本気の新川さんより荒っぽい!無茶苦茶だ!



森さんの運転する車は、それでも一応信号は遵守し、速度もパトカーに見咎められた場合どうなるかギリギリ判らない線を突いて走った。でも、加速減速がとにかく急で、降車した僕の足は実際にふらついていた。
しかし休んだりへばったりする暇も無く、森さんに急かされるままドアを閉める。すると室内灯がじんわり消えて行くに従って、殆ど何も見えなくなった。

暗い。
今僕達が居る位置は小さな丘の登り口らしく、30m程離れた所に羽虫の集まっている街灯が1つあるが、辺りはほぼ完全な闇だ。
足元は落ち葉の積もった柔らかい地面で、足を下ろす度にポキポキと小枝の折れる音がする。上は多分木の枝が生い茂り、日中も光を遮っているのだろう。雑草があまり多くない。
湿気を帯びた空気は重く、ひんやりとしている。

「このまま登って林を抜けるのよ。歩くのは大体2分ぐらいだけど、暗いからこうして行きましょう」
森さんのひんやりした手が、僕の手を優しく握った。
繋いだ手から彼女の温かさが流れ込んで来る。
……今は暗くて透視できない筈。助かった。今は僕の心のガードは弱まっているから。


僕達は空いた方の手でそれぞれ自分の携帯を持ち、その僅かな光を頼りに林を抜け、切り立った高台へ出た。

そして、

眼下に広がる夜景。一望の下に見渡せる街。
満天の星空。


声が出なかった。
森さんも感動している様だ。僕は手を繋いでさえいれば彼女の心を少し感じ取る事ができるらしい。あの日は気付かなかったけど。
無言の森さんは、握った手に一度強く力を込めてから、サッと離した。
東の空は既に白み始めている。


夜の終わり。

薄明かりの中、背景と同化し影の一部となった僕の全身を、朝露に濡れた草木の青臭い香りが混じった涼しい風が吹き抜け、それはまた森さんの解かれた髪をなびかせる。
姿無き鳥の声が、遠くで1羽、近くでも1羽と、歓迎の歌を囀り始めている。

機関は変化した。
これはとても大きな一歩だ。機関に属する全ての人間にとって、今日という日は特別な日になった。
その変化を齎したのが、機関が敵視する存在の末端である事は、公然の秘密だ。
長門さんと、もしかしたら喜緑さんには皆も感謝し続けるだろう。とても素晴らしい事だ。

心の奥底から湧き上がる温かい気持ちで満たされた僕は、森さんと並んで東を向き、その瞬間を待っている。
一足先にオレンジ色に染まった雲の下では今、灰色の街が、蛍光灯の冷たい光を浴びる事に疲れ、その時が来るのを今や遅しと待ち侘びている。
天蓋を彩るオレンジから濃いブルーへのグラデーションは、徐々に明度を上げ、新たな色、黄、白、を加える。


日が昇る。

先ず街の輪郭の線がぼんやりと浮かび上がり、次第に面が輝き出す。
地平線から湧き上がった薄黄色の半円が、靄がかった街並みに帯状の暁光と影を投射し、目覚めの時刻を知らせる。
光量が一定のレベルを超えたブロックの街灯が勤務時間を終え、次々と休息状態にシフトして行く。
明るさが増すのに従い、鳥達の鳴き声が、3重奏、4重奏を経て合唱に至る。


僕は胸一杯に、植物の多い場所でのみ嗅ぐ事のできる、爽やかで濃い空気を吸い込み、暫くそれを身体の内に留めてから、大きく吐き出してみた。
すると、なんだか僕の中の澱みも一緒に出て行く気がした。だからもう一度やってみた。

森さんが、フフ。と小さく息で笑って、僕に倣った。

今や駅前の一際大きい分譲マンションは、ここからでもはっきり識別できる様になった。あの屋上から皆で眺めた星空の記憶は、僕の宝だ。
彼の家は……あの辺りか。
涼宮さんのお住まいは、この方角……あれかな?今夜は悪夢にうなされる事も無かった様だ。
朝比奈さんのお部屋があるのはあの一角。


空から降りて来た光の幕の端は、遂に僕と森さんの顔や手に反射し、眩しさと微かな温もり、色を教える。
モノトーンだった背景は、まるで場面転換したかの様に豊かな色彩の溢れる風景に変わる。

また、1日が始まる。
何十億年と繰り返されてきた儀式。

世界は何も変わらない。僕が死のうが生きようが、世界は何も変化しない。
でも僕の周りの小さな世界は、僕が生き残った事で守られた。
僕にとっては、その小さな世界が何よりも大切だ。……誰だってそうでしょう?

だから僕にとっては、今日という日は、誰よりも大切な日になった。
森さんにとっても、多分。

隣に立つ森さんの陽光に照らされた顔は今、満月の様な慈愛を湛えている。
僕はそれを、他の何にも増して美しいと思う。
来年もこの場所にこうして2人で、日の出を待つ事になるんじゃないか。……ふと、そんな予感がした。
ただの願望なのかもしれないけど。


人が大自然の奇跡に畏敬の念を抱き、同時にそれを愛でる時、それは無言の内に行われるべきだ。
だから僕は一言も発さない。
彼女も何も喋らない。

この大いなるスペクタクルに対して、一体どんな言葉を贈れば良いのか、僕には解らない。


だから、ただ、感じ入る。

ああ……、僕は、生きている!



エピローグ「偽りの言葉」へつづく

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