ふと、空を見上げた。
 あたり一面どころか、この世の果てまでも続いてるんじゃないかって錯覚してしまうほどに、どんよりとした灰色の雲が、ほどかれたターバンみたいに広がっている。
 そのぐしゃぐしゃになっているターバンからはシトシトと無数の雫が降り注いでいる。雨粒がお洒落もへったくれもない、ただ大きいだけの黒い傘を叩く。その音が心安らぐような曲を奏でてくれるなら、俺の憂鬱も少しは晴れたかもしれないが、生憎、そんな風流なことはなかった。
 雨の日特有である、葉がしけった匂いが鼻腔を刺激していた。
 止みそうで止まない。もう十分に潤いを与えてくれたはずなのに、雨雲はまだ満足できないのか。これでもかってくらいに、延々と雨を降らせ続けている。
 梅雨。
 ただそれだけのことだった。が、季節柄的にしょうがないと分かっていても、やっぱりダウナーになるのは避けられない。雨が好き、なんてロマンチスト気取りなことを言う気も毛頭ない。梅雨で喜ぶのはお百姓とかえるだけだ。少なくとも、俺は喜ばない。おい太陽。いや、お天道様。早くその輝かしいお顔を見せてください。もちろん、そんな切なる願いは届くはずもない。
 はあ……。簡易版『ノアの箱舟』の設計図でも書いたら売れるんじゃないか。
 右手に傘、左手に食材が詰まったスーパーの袋を持ちながら、俺は気持ち急いで、足はゆったりと自分の家を目指していた。



「ちょっと、キョン。買い物行って来て。もう冷蔵庫がすっからかんなのよ。このままだと、家族揃って飢え死にしちゃうわ」
「なんで俺が行かなきゃならんのだ。これでも一家の大黒柱だぞ。主たるもの、家事のことには首を突っ込まず、どっしりと構えてなければいけないんだ。そういうのはお前が行け」
「はあ? あんた、なに時代遅れのこと言ってんのよ。今日び日本じゃ、家事は夫婦共同でするものなの! 大した稼ぎも無いくせに、調子乗ってんじゃないわよ」
「なにぃ? 俺だってな、愛する家族のために身を粉にしてまで連日連夜頑張ってんだぞ。その有り難味が分からないのか」
「理解して欲しいなら、結果で表しなさい。給料とかで。――なによ。ちょっとばかし、買い物ぐらい行ってくれてもいいじゃない……」 
「わか……って、な、なんで泣いてるんだよ!? 俺、そんなにきついこと言ったか? 俺が悪いのか。そうだよな。すまん、謝る。だから、泣くのを止めてくれ」
「もういいの。……買い物はあたしが行くから。そうよね。主人はあんただもん。主人を立てなかったあたしが悪いのよ。ずぶ濡れになって、風邪を引くかもしれないけど、あたしが行くから……」
「……分かった。お前は買い物に行かなくていい。だから泣くな。な、ハルヒ。買い物には――あそこで寝てるバカが行くから」


 ああ、まったく不条理だ。
 夫婦喧嘩は犬も食わぬ。息子も食べない。当たり前だ。こんなの食ってしまったら、三日三晩、下痢で苦しむ羽目になるからな。カビの生えたパンよりもたちが悪い。
 一時間ほど前、俺の直ぐ傍らでこのようなやり取りが行われた。原因はお袋と親父、どっちが買い物に行くか行かないか。所々、端折らせてもらったが、如実に示せたはずだ。
 勝者、お袋。決まり手は嘘泣きだ。お袋の演技力には心底驚かされた。十何年生きてきて、これほど女を恐ろしいと思ったことは無い。お袋が目をしぱしぱさせた直後、いい年なのにやたら張りのある頬に、一筋の涙がこぼれた。
 女の武器は涙。なるほど確かにそうだな。諸手を挙げて賛成してやるよ。 
 それを見た親父は、虚を衝かれたのか、あっさりとお袋の思惑通りに降参してしまった。我が親父ながらも思ってしまう。なんとも情けない。
 でもまあ、そこまではよかった。だって、お袋か親父。どっちが買い物に行くかなんて、正直どうでもいいことだったからな。
『買い物には――あそこで寝てるバカが行くから』
 ふざけるなよ。急にボールが飛んできたってレベルじゃないぞ。とんでもない方向にパスをしてくれたな。親父のはチームメイトじゃなく、観客にパスをしたようなもんだ。もう一度言う。ふざけるなよ。
 だが、選手が選手なら、審判も審判だ。
 審判ことお袋は、「あら。じゃあ、あんた行ってきて」と驚きの早さで手を返した。とんだシュプレマティズムだ。
 親父の指示なら何がなんでも、それを突っぱねようと思っていた。しかし、お袋なら話は別だ。俺は小さい時から、どんなに嫌なことがあっても逆らわないようにしている。逆らったりもすれば、必ずといってもいいほど不幸を被るからだ。それは生得的なのか習得的なのかは分からないけどな。
 『お使い』という大義名分で、俺は降りしきる雨の中へと身を投げることになってしまった。拒否権なんてもんはないに決まっていた。 
 そう言えば、犬は家族に順位をつける、とか言う話を聞いたことがある。アルファ症候群だったかな。犬は自分より上のやつには忠実に従い、下のやつには吠え続けるんだとさ。
 今度、偉い学者さんにでも進言してみよう。アルファ症候群はとある家族の息子にもありますよ、ってな。



 帰ったら、叔母直伝のドロップキックを親父の顔面に食らわしてやろうと考えていた頃、駅に程近い、光陽園駅前公園の前を通りかかった。近くに、クラスメイトの朝倉や両親の旧友の長門さんが住んでいるマンションも見える。
 当然と言えば当然のことなのだが、公園で遊ぶ元気な子供たちは一人もいず、少し錆びれてきたブランコが、風に吹かれキーキーと寂しげにきしんでいる。ぽつぽつと大小様々な水溜りができていて、あまり鮮明さはないが、灰色の空を映し出している。まあ、その頼りない反射ですら、雨粒の波紋によって掻き消されているのだけど。
 こういう光景を見るのは少し哀しい感じがする。どうしてそう感じてしまうのかも分からないし、上手く言葉で説明することもできない。普段は賑やかだけど、時たま、こうやって静寂が支配している。虚無感とでも言うのだろうか。もしかしたら、もう、この公園には賑やかさなんて戻ってこないんじゃないかって。そんな幻を見ずには入られなかった。
 ――俺からして反対側、東中方面の入り口に人が立っていた。
 思わず立ち止まり、雨の中一人佇む人へと目を凝らす。その人は多分女性だ。白いブラウスと黒いミニタイトのスカートをはいている。セクシーな女教師を思わせるその姿に似合わず、妙齢な彼女は安っぽいビニール傘を差していた。
 変な人だと思った。何故、こんな雨の中で一人、佇んでいるのだろう。人っ子一人いない公園を観察する趣味でもおありなのだろうか。 
 ずっと注視していたせいか、向こうもこちらに気付いたようだ。その証拠に、僅かに傘を持ち上げ、空いている方の手を小さく振っている。
 俺はどうすればいいのか困った。手を振り返すにも傘と袋で手が塞がっている。そのまま、会釈して帰るのもなんとなく気まずいものがある。俺は途方に暮れていた。
 公園を挟んで、向かい合う二人の男女。見方を捻りに捻りまくれば、恋愛映画の一シーンに見えなくもないだろう。で、常套な流れで行くと、二人は傘を放り投げ、走り出す。そして、公園の中央で抱き合い、熱い接吻を交わす、と。
 言っておくが、俺はそんな腑抜けた真似は絶対にしないからな。
 ところが。向かいの女性は、俺の頭の中でも読み取ったのか、不意に、足を前に進ませた。傘を放り投げたり走ったりはしていない。ゆっくりと俺のほうに向かって公園を横切ってくるのだ。
 こうなれば、もう逃げ場はない。ここで立ち去ってしまえば、紳士的にも武士的にも失格だ。俺は彼女を待たなければいけない。かと言って、ただ待っているのもどうかと思う。相手は歩く度に泥が跳ね、綺麗な足が汚れてしまうのも承知でこちらに歩いて来るのだ。
 俺は意を決して(そんな大仰なものじゃないけど)、彼女を迎えに歩み出た。少しでも彼女の足が汚れてしまうのを防ぐためにな。舌の根の乾かぬ内に、とはこのことだ。



「雨の日に公園にいるなんて、あなた変わり者ね」
 大人びていて、あどけなさの残る、どこか矛盾した声色だった。
「あなたに言われたくありませんよ」
「うふふ。それもそうですね」
 初対面の人に劣情を抱く俺はきっと猿なんだと思う。そうさ。色魔だよ。それを他人に指摘されても、否定できるような材料は無いし、する気もない。というか、この女性相手に疚しい気持ちを抱かないやつなんて、いないんじゃないか。
 傘を差していても、横から流れてくる雨粒は防げないらしい。白いブラウスの肩の部分が濡れ、彼女の身体にぴたっと張り付いている。そのせいで、彼女の淫靡な曲線があらわになり、見たいけど、目を逸らさなければいけないような思春期真っ盛りの葛藤が俺を襲う。
 しなやかな肩。きゅっと締まった腰。そして何より、一番目を引くのが大きく盛り上がっている双丘。豊か過ぎるそれは、何を食ったらそうなるのか。男の俺ですら疑問に感じてしまう。
 スタイルはもちろんのこと、顔だってそんじゃそこらの新人アイドルよりは美人だ。いや、年上相手に言うのもなんだが、とても可愛らしい女性なのだ。うるうるくりくりおめめで、頼みごとをされたら、断ることはまず不可能だろう。
 湿気のせいだろうか。緩くウェーブの掛かっている栗色の髪の毛が、どことなくしおれて見える。天気さえ良ければ、きっとふわふわだったろうに。
 ――どこかで見たことがある。そんな気がした。そう、見た、だ。しかし、肝心のいつ、どこで、どのように見たかが思い出せない。喉の辺りで引っ掛かっているのに。くそっ、もやもや感がうっとうしい。
 過去に会っているということは無いはずだ。こんな美人と会っていたら、そのこと自体を忘れる訳がないからな。だって、もったいないだろ。
「雨……、雨が好きなんですか」
 取り敢えず、当たり障りの無いことを言ってみた。
「ううん。好きじゃないわ。だって、濡れちゃうもの」
「ですよね。濡れますからね」
 これで会話は終了した。俺には女性を満足させるほどの話術は備わっていなかったらしい。美人相手に緊張していたということもあるが、やはり、一番の理由は俺の経験不足だった。考えてみれば当然だ。俺が話す女の人と言えば、お袋。そして、その旧友の方々。あとはクラスメイトの朝倉だけだ。初対面の人と饒舌に話なんてできるわけがない。
 話せるやつはモテると言う。その理屈からすると、俺はモテない。それについては自覚しているし、結果としてガールフレンドなぞと言われる、都市伝説的な存在を手にしたことはない。本音を吐露すれば、ちょっとは虚しいさ。
 二人の間に会話はなくとも、向かいの女性は、この微妙な空気に困惑しているような様子はなかった。公園にある遊具を一つ一つ見ていることもあれば、俺の顔をじっと観察しているような素振りをする。どうやら、彼女は彼女なりに楽しんでいるようだ。見られる側として、恥ずかしいこと極まりないので少しは遠慮してほしいのだが。
「そろそろ行こうかな」
 唐突に彼女は声を発した。
「なんか約束でもあるんですか」
「約束ってほどじゃないの。でも、約束よりはもっと大切なことよ」
「はあ。でも、その割には随分とゆっくりしてますね」
 彼女は一瞬、口を噤んだ。表情からして、何を言うべきか躊躇っているようだった。
「――あなたは、この世界に、今自分が存在している時間平面とは違う、別の時間平面が存在していると思いますか?」
 彼女の顔は至って真剣だった。どっかの廃れたオンボロアパートに住んでいるSFマニアの類でもない、と思う。本気で訊いてきたのだ。
 時間平面――って、なんだよ。物理を勉強してない俺にそんなネコ型ロボットじみたことを質問せんでもらいたい。だいたい、時間の概念が物理学、だということにも自信がないのに。
 まあ、ニュアンスは分からんでもないけど。要するに、過去は存在しますか、未来は存在しますかって訊いているのだろう。
 率直に言う。んなこと知るか。平凡な高校生に分かるわけがないだろ。相対性理論ですらまともに理解できてないんだぞ。引き出し開けて、こんにちは。みたいに簡単にいくか。そもそも、偉い学者でさえ、その命題には賛否両論だと言うのに。
 だから、俺は彼女にはっきりと言ってやった。
「存在していたら、面白いと思いますよ」
 と、な。
 自分でも無責任な発言だとは承知している。第一、質問と返答が噛み合っていない。
 これは俺自身の気質なのか、それとも一子相伝の気質なのか。
 タイムマシン、タイムリープ、タイムトラベラー。この際なんだっていい。それらの遠い未来的な単語が、現時点で存在しているのかは知らん。知りたければ、自分で研究しろ。
 でも、知る知らないはともかく、信じたいっていうことはまた別のことだ。前の喫茶店でした、朝倉とのやり取りと同じだ。俺はSFやファンタジーみたいな非日常的なことが好きなのさ。
 平凡で起伏のない日常をダラダラ過ごすのも悪くない。実際、俺はそれを望んでいることだしな。その平穏な日常を守った上で、俺は非日常的な物事があると信じたい。
 ――だって、そっちの方が面白いに決まっているだろ。
 過去に行けるとする。行動によっちゃあ、教科書の内容を何ページも自分の思いのままにできるんだぜ。やってはいけないことだと思うけど。反対に未来に行けるとする。テストの答案が返却される日に行けば、その解答を丸覚えし、テストで満点取ることも余裕なんだぞ。これもしたらいけないか。
 なんか制約だらけの気もするが、それでもやっぱり、時間を行き来できれば楽しいに違いない。無知ながら、いや、無知だからこそ、そんなことを想像しちまうんだ。
 一つ釘を刺すとすれば、「信じる」と「信じたい」は違う、っていうことだ。
 俺の返答に対し、彼女は何も言うことは無かった。ただ、にっこりと天使のような極上の笑みを浮かべた。
 心臓がどくんと高鳴った。生唾をごくりと呑んだ。無意識に視線を落としてしまう。一撃必殺にふさわしいスマイルだ。
 俺は彼女の真意を汲み取ることができなかった。俺のことをバカにしているのか、なにかに安堵したのか。それは彼女自身しか分からない。彼女の笑みは一体、何を意味しているのだろうか。
「もっと質問してもいい?」
 天使様が仰られた。
 急いでるんじゃなかったのか。約束よりも大事なことがある、と言っていたのに。が、分かっているんだ。俺は彼女の頼みを断ることができない、と。
「どうぞ。俺が答えられる範囲であれば」
「心配しなくていいわ。難しいことじゃないから」
 ふふっ、と彼女は、桃色の吐息を漏らし、
「お父さんのこと好き?」 
「は? ……な、なにをいきなり。……ん、まあまあ、です」
「お母さんのことは?」
「……好き、だと思いますよ」 
「あなたから見て、二人は幸せかな?」
「ええ。いい歳こいていちゃいちゃしまくってますよ。あれほど幸せな夫婦はいないんじゃないですか」
「あなたは、幸せ?」 
「幸せ、ですね。今のところは」
 ……まったく、何故こんな恥ずかしい質問に答えなきゃいけないんだ。顔から火が出そうになる。親父のことなんて、どうでもいいんだよ。あんなクソ親父なんか。あと、俺はマザコンじゃないからな。ただ、親孝行なだけだ。誤解される前に弁解しておく。
 とか、言いながらも、俺は彼女の質問に対して、それなりに真面目に答えていた。
 俺の返答を聞くと、彼女はよりいっそう、笑みを深くした。そして、眦にうっすらと涙が浮かんでいた。真珠よりもキラキラしていて、神秘的な涙だった。
 何が彼女の心の琴線に触れたのかは分からない。はあ……。ほんと、俺って女心という物が理解できていないな。でもまあ、これだけは分かる。彼女は悲しみで涙を浮かべているのではない。嬉しいから涙を浮かべているのだと。
「ははっ。なんかいいですね。自分が信じて行動してきたことが、間違っていなかったって。わたしはあれで良かったんですね」
 いやいや。同意を求められてもこっちが困るだけだ。俺は、あなたが過去にどういうことを知らないんだから。
「ふぅ……。ほんとのほんとに、そろそろ出発します。今日は、あなたと話せてよかった。お礼といっちゃ何だけど、あなたの質問に一つ答えてあげる。わたしばっかりが質問してたら悪いから」
 お礼、か。別にそんなのどうでもいいのに。俺はそんな感謝されるようなことはしていないぞ。むしろ、彼女と話がすることができた幸運に、こっちが感謝したいくらいだ。……それに、目の保養にもなったし。変なところで律儀な人だと感じた。
 しかし、せっかくの質問権だ。普段聞くことのできないような大人の女性の秘密を拝聴するのも悪くない。学校でむさい男子どもと話すような下劣なものと違う、薔薇の香りが漂ってくるような。んと、何にしようかな。
 数分の逡巡の後、
「決まりましたか?」
 彼女が催促してきた。
「はい、一応。――では、失礼を承知で尋ねます。あなたの本当の歳を教えてください」
「禁則事項です」
 彼女は右手の人差し指を口に当て、いたずらっぽく笑った。
 こうなることは、端から分かっていたんだけどな。
 彼女は改めて俺に向き直った。
「もう一度言わせてください。本当にありがとう。あなたは、わたしの望んだ未来の一つなの。今、あなたは幸せなんでしょ。わたしも幸せ。――じゃあ、さようなら。今から、高校生のあなたのお父さんを助けてくるね。あなたとわたしのために」
 彼女はそう言い終えると同時に、手持ち無沙汰だった方の腕を伸ばしてきた。そして、俺の黒い傘の端を抓むと、下に引っ張った。説明するまでもなく、俺の視界は傘によって遮られた。
 最後の言葉が引っ掛かった。高校生の親父だと? それはどういう意味なんだ。俺の親父は贅肉ぶよぶよの中年だぞ。それに、助けるっていうことは何かに困っていることなのか。
 しかし、俺がその答えを知ることはなかった。
 何故なら、彼女は既に姿を消していて、彼女が持っていたビニール傘だけがこの場に残されていたからだ。その言葉の意味は永遠に彼女の胸へと封印された。
 どう考えても可笑しい。俺たちがいたのは公園の中央だ。一番近い入り口でも、一瞬の間に着くことはない。いかに、彼女がオリンピック選手並みの俊足であったとしてもだ。それに、ハイヒールじゃいくらなんでも無理だろう。
 彼女はテレポートしたんだ。
 俺は漠然と思った。彼女は奇術師の見習いなのかもしれない。いつかのショーに使う予定のマジックだったんだ。で、俺はそれに予行演習に付き合わされたんだ、とな。
 やっぱり、面白い。日常の中に非日常なファクターが見え隠れするこの世界が。 
 

 俺は傘を閉じた。いつの間にか、差す必要はなくなっていたからだ。
 分厚い灰色の雲に小さな割れ目があり、そこから一縷の光が漏れている。
 雨のおかげで、大気が浄化されたのだろう。あたり一面に澄んだ空気が漂っている。思わず、深呼吸をしてしまうほどだ。
 彼女は一体、なんだったのだろうか。分からないことだらけで、どこから推理を始めていいのかすらも分からない。
 親父に訊けば、ヒントくらいになるだろうか。だって、彼女は俺の両親についての質問をしてきたからな。ということは、両親の知り合いだという可能性が自ずと出てくる。
 俺は超絶美人の女性が不法投棄の罪で捕まらないように、彼女が捨てていったビニール傘を拾った。
 あっ、でもやっぱり親父に今日のことを話すのは勿体無いな、などと考えながら、俺は片手に傘二本と、少し変わった装備で帰路へと着いた。


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