◆ 0 ◆

 

 

 目が覚めると、そこは見知らぬ場所だった。


 ただ、ここがどんな場所かということは未だ半覚醒状態の脳であっても、なんとか判断することが出来た。


 なぜならば、俺が突っ伏していたのはどこにでもある一人用机であり、座っていたのは、それに付随するスチールと木で出来た椅子だ。加えて足下は木製のタイル。


 そして周囲には同じような机と椅子のセットが並び――顔を上げた先には、俺の日常生活において、平日の1/4以上の時間、視界を占拠するもの――つまり黒板があったからだ。


 つまり、ここはどこかの教室ということだ。


 どこか、というのは風景に全く見覚えがなかったからだ。小・中・高、どの教室の記憶にも該当しない風景。一体全体なんで俺はこんな所にいるんだろうか。

 

 自分の四肢身体を確認すれば、どうやら俺は制服を着ているらしい。だが、その制服も見覚えのないものだった。


 頭を振って半覚醒状態の靄を振り飛ばす。こいつはどうにも現実的じゃない、肉体的な感覚は明確そのものだが、俺はこんなところに来た憶えもなければ、こんな制服を着た憶えもないのだ。


 直前の記憶は、いつも通りに布団に潜り込んだところだったと思う。

 

 春とはいえまだ夜は冷える。俺の身体と体温を相互にやりとりする布団の中で、俺はここ数日間の様々なトラブルについて考えを巡らせようとし、様々な人物がコマごとに撮影された乱雑な映写フィルムを、脳内に投影しながら眠りに落ちていった……はずだった。


 溜め息を一つ吐く。しばらく封印する予定だった口癖が喉元まで上がってきたのを吐き出すかわりのものだ。


――夜、寝て。目が覚めたら、身に覚えのない場所に来ていた。それもどうやら、夢のようであって、夢ではないらしい。


 そんな状態になったとき、人はどうするだろうか。おそらくは、まぁパニックになるんじゃなかろうか。程度の軽重はあれどもな。それが『まとも』な人間だと思う。恐らくだがね。


 だがしかし、一年ちょっと前に涼宮ハルヒなる『まとも』ではない人物と知り合い、そして巻き込まれるように様々な理不尽かつ不可思議な現象を体験し続けてきた俺は、こんな状況にあっても溜め息を吐くところから行動を開始できるようになってしまったわけだ。

 

 やれやれ、まさか自分が『まとも』じゃない方の人間になりつつあるとはね。物事に動じなくなるという成長ともとれないことはないが、溜め息の数も増えるってもんだ。


 ただ、俺が落ち着いていた理由は、もう一つあった。


 見覚えのない教室で目が覚めたにも関わらず、この場所、いや正確には『この世界』、もしくは『この空間』に見覚えがあったからだ。それは風景を構成する色素というか『光』によって判断された結果だった。


 白よりもっと薄い白、どこか、暖かみと寂寥感という対になりそうな感覚を同時に与える無色の色彩。

 

 オックスフォードホワイトの世界。


 俺は数日前に、誘拐少女に手を取られるまま、記憶に刻み込まれた世界を思い出していた。ここは、あそこと同じだ。


 つまり――佐々木の『閉鎖空間』。


 だが、ここにあのリミテッドエスパー少女はいない。連れてこられた憶えもない。つまり……そういうことなんだろう。俺は一年前の六月、ハルヒと共に閉じこめられた事を思い出していた。


 だとしたら、ここに俺を連れ込んだヤツがいるはずだ。俺は席を立つと、心当たりの人物を捜す事にした。

 

 夕べ布団の中で見た映像。その最後に投影された人物、俺の『親友』を自称する女、佐々木の姿を。

 

 

 ◆ 1 ◆

 

 

「やあキョン」


 校庭に佇む人影は、俺がここに来るのを見越していたように、背中越しに声をかけてきた。

 

 探したぜ佐々木。といっても、ここに出る最短ルートをだけどな。なにせ全く知らん場所だ。


「くっくっ……それは申し訳なかったね。礼儀を弁えるならば、せっかく招待した友人だ。僕が現在通う学舎を手ずから案内すべきだったね」


 まぁ、それは普通の世界で文化祭なりなんなりがあるときにでもしてくれりゃいい。今はそれどころじゃないだろ?


「確かにその通りだね。そして、キミの期待に添えない事に僕は申し訳ないと言わざるを得ない。一時は儚くも描いたプランの一つではあったんだがね」


 どういうことだ?


 佐々木はまだ俺に背中を向けたままだ。大仰に肩を竦めてみせてから、疑問には応えずに言葉を繋いだ。


「閉鎖空間――確かキミや橘さんは、そう呼称していたね。ああ、この学校自体のことじゃないよ。この、今僕らがいる超常的な空間、そのもののことさ」


 そうだな。といっても、俺もよくは知らんのだがな。うちの古泉がそう言っていたのを耳から脳に書き込んだだけだ。俺としちゃあ、もっと非常識であることを自覚させるような呼称を推奨したいところだが、妙案も浮かばないので放置している。


「くっくっ。非常識、か。確かにその通りだ。ふむ、存外よく似合っているじゃないか。キミが着ている……いや、僕の妄想が着させた制服だがね。どこか窮屈なところはないかい? なにぶん裁縫ごとはあまり得手ではない僕の妄想がもたらした産物だ。それに僕が袖を通したことがあるものでもないからね。着心地やら機能性に若干の不安を禁じ得ないところではあるんだ」


 佐々木は振り向くと胸の前に組んだ腕を崩し、左の人差し指を顎に添えながら言った。

 

 相変わらず芝居じみた仕草だな。お前の妄想の産物だかなんだかしらんが、別にこの制服にイチャモンを付ける気はないぜ。裸で呼び出されるよりゃましさ。


「相変わらずだね。だが実にその不変さが心地好いよ。こんな非常識極まりない状況に放り込まれても、キミはキミとして安定している。それがまた僕の妄想を確信へと近づけてくれる……それは、なんとも複雑な気分ではあるが、こうしてキミと会話している事自体は不愉快でも不快でもないんだ。ともすれば恐慌状態に陥りかねない僕を、とても……そう、とても安定させてくれる」


 濃霧のような光の世界で、佐々木の貌は逆光になって見えない。まるで意図的に俺に表情を見せないかのように。俺はその光に少し視界を薄めながら応えた。


 よくわからんが、前にこういう経験をしているんでな。そんなに取り乱しようもないってことさ。


「そうだったね。以前キミの口から直接聞いた事があるし、それから橘さんが話してくれたことでもある。キミが涼宮さんと共に、数時間の間世界から消えて、そして帰ってきた冒険譚をね」


 そんな大袈裟なもんでもない。我が儘な団長のストレス発散に付き合わされただけだ。そして行って帰ってきたところで、世界はどうだかしらんが、俺自身の状況は悪化する一方だからな。


「くくっ。なんともキミは素敵に愉快だよ。その倦怠的に自嘲する癖を改めれば、ちょっとした冒険小説の主人公にだってなれそうな状況であるのにね。世界が理不尽な変容を遂げそうになったのを、キミの行動で止めたわけだ。少しは誇ってもいいと思うのだが。彼ら、つまり冒険小説の主人公らに倣って、キミも少しばかり血を熱くしてみてはどうなんだい? 存外サマになるかもしれないよ」


 お前にそんな読書傾向があるとは知らなかったが、そんなつもりはない。面倒だからな。それより佐々木――


「ああ、そう急かさないでくれたまえ。キミが繋ぎ変えようとした話題は、僕が勝手に引き継がせていただくことにしよう。この状況に説明を……そういうことだろう?」


 ああ。あの時のハルヒと違って、お前は自分の力を自覚していたはずだ。そしてその上で、そんな力を必要とはしない、そう言っていた。『僕には現実に迫った模試や日常の雑事があって、そんな超常的な世界に関わっている時間はない』とな。


 俺が言い終わらないうちに、佐々木は再び背中を見せる。その視線の先には校庭にのし掛かるような影を落とす校舎が聳えたっている。


「さぁ……どうだったかな……いや、確かにそんなことを言ったね。キミの記憶力は、こと学問に関する事以外であれば、相当な正確さを見せていたからね。あの頃、中学時代から――」


 自己評価を高くするつもりはないが、まだ数日前の出来事を忘れるようなら、ちょいと色々な事を心配しなくちゃならんだろう。それにお前との会話を聞き流して忘れるほど、俺は薄い友誼を結んだ覚えはないぜ。そりゃ全部が全部憶えてるわけじゃないがな。


「くくくっ! 困るなキョン。あまり声をあげて笑うのは僕の主義にそぐわないんだよ。思わずその自律に反しそうになってしまったじゃあないか。これをジョークで言っているのじゃないのだから困るね。キミが僕を喜ばせてくれることに否やはないが、キミがそこまで僕との友誼を高位においてくれているなんてね。これから僕が実行すべきことに、いささかの躊躇を禁じ得なくなってしまうよ。だけどね、キョン……残念ながら、僕は止まれないのさ。何故ならば、僕がそうしたいからね。そしてキミが述べてくれた僕とキミとの関係を、僕がよしとしないからさ」


 意味がわからん。一体どういうことだ。お前はなにをしようっていうんだ?


「ふむ。このまま事を進めてしまっては自己満足の極みだね。僕自身はそれでも構わないのだが……いや、キミをここに巻き込んだのは他ならぬ僕の妄想であるし、それは願望でもある。そしてキミがここに立ち会うことにも大いなる意義があるのだろう。僕が考える以上にね。何しろ僕はまだこの力の全てを把握しているわけではないからね。まぁ……むしろキミには何も知らないでいて欲しかったところもあるのだが……」


 本来、佐々木は饒舌なやつであったが、それは俺との会話で、俺をその膨大な知識と舌先で丸め込むのが目的だった。いわば言葉の弾幕だ。

 

 だが、今のこいつはその大半を一人語りに用いている。俺に語りかける体裁はあるが、その内情は自問自答だ。


 こんな非常識空間。おそらく俺たち二人以外には、生命を持って動くもののない、この閉鎖された空間で、こいつは饒舌に自問自答を繰り返している。


――おかしい。


 国木田や中河のいう『変な女』なんていう外周10mくらいからの客観的な見解なんかじゃない。仮にも中学三年生の一年間を学校や塾の隣の席で、自転車のサドルと荷台で、ファストフードの差し向かいで、図書館のテーブルで、距離にすれば半径1m以内で見てきた俺の見解として、今の佐々木はおかしかった。


 佐々木、お前なにをする気なんだ……?


 逆光の背中に向かって歩を進めながら、俺は佐々木に疑問を投げかける。それは茫漠とした疑問であり、そして命題的な疑問でもあった。


「ん……? 失敬、少々思考の迷宮に足を踏み入れていてね。まさかこの期に及んで考える事があったなど、まさしく思いの外なのだが。さて、キミの疑問に応えるべきだろうね。そう『なにをする気なんだ』か。それなら簡単さ、せっかく我が学舎にご足労願ったんだ。やはり紹介すべきだろう?」


 まぁその気持ちはありがたいが、今はそれどころじゃないんじゃないか?


「くっくっくっ。まぁそう急かないでくれたまえキョン。僕としては初めての、そして最後とすべきスペクタクルの真っ最中なんだ。少しばかり芝居がかったり大仰になったりもしたいものさ。劇的に、そう劇的に行うべきなんだからね。重複を詫びつつも進めさせていただくよ。僕はキミに紹介したいんだ。我が愛すべき親友に、僕が通う学舎を――そして、僕が囚われている地獄をね……」


 地獄? 一体どういうことなんだ?


 俺の疑問はその途中で急停止させられた。これまで瞼を薄く閉じざるを得ないほどだったオックスフォードホワイトの光が、急に消えたからだ。

 

 数歩先にある佐々木の背中が、今やくっきりと見えた。見覚えのない制服の背中。きっと今俺が着させてられている男子用のものと対になっているのだろう、こいつが通う進学校の制服。


 その黒い後ろ姿が『影』に飲み込まれた。光源の変化だろうか、こんなことがこの空間でも起こりうるのか、いや、逆にこんな空間だからこそ――今度は俺の思考が急停止した。


 影が差すということは、光を遮るものがあるはずだった。俺と佐々木の視界の先には5階建ての校舎があり……そしてその先に、俺は『この場にあらざるもの』を見ていた。


「まぁ、その紹介さえも最初で最後のものになるんだがね。くっくっ」


 佐々木の声はどこか虚ろな響きを持って俺の聴覚を震わせた。俺は既に台詞を放った佐々木の背中を見てはいない。俺の視線はそれより遥か上――校舎の5Fを越えて、その先にある異様な『人影』を見つめていた。文字通り、呆然と。


 それはまるで熾火に未だ盛る炭の様だった。粘度の高い溶岩の様だった。


 闇の赤、透明な黒。


 それは巨大な人の様な姿をしていた。


 脳裏に友人の古い言葉がよぎる。


『物理的には自分の重さで立つことも出来ないはずなんですがね――』


 <神人>。古泉がそう呼んだもの、橘が佐々木の閉鎖空間での存在を否定したもの。ハルヒの閉鎖空間で『世界』を破壊せんと大暴れしていたもの――。


 それがそこに、いた。

 

 

 ◆ 2 ◆

 

 

「まず紹介すべきは、あそこだろうね。正面玄関だ。といってもただ下足箱があるだけのエリアさ。どこの学校にもあるものだろう? そこで外履きの靴を学校指定の下履きに履き替える――それだけの場所さ。普通はね」


 佐々木は虚ろに語る。


「だがね、キョン。下足箱には鍵をかけられるわけではない。まぁこの辺り日本の学校設備のプライバシーセキュリティが見直される時期も遠からず来るのだろうが、現状はそうではなくてね。無論、この学校のそれも同様だ。そうなるとどういうことが起きるか想像できるかい? キミが不思議現象を体験したいくつかの事例のように、未来人や宇宙人からの手紙が入っていたわけじゃない。そうならば僕の退屈な日常も少しは緩和されたかもしれないが……キョン、僕の下足箱に入っていた多くは、僕に対する中傷や悪口雑言を書き連ねた匿名の投書だったのだよ」


 言い終えると同時に、校舎をまたいだ<神人>が、佐々木の指差した校舎の一階に、その巨大な爪先をめり込ませた。


 ガラスや金属やコンクリート――数秒前までそこを構成していた物質が砕け散る凄まじい破壊音に、思わず身を竦める。


「くっくっ……この構造物はなかなか頑健に出来ているね。地震などの災害時などには学校に避難するといいなどと言われているが、それは校舎という建物の頑健さから来ているそうだ。図らずも、その実証になったわけかな。それともこの僕の空間では、僕の意思を反映して――まだ破壊が続けられるよう、物理法則を無視してくれているのだろうか? これはなかなかに興味深い疑問だね」


 俺は言葉を発せずにいた。一度に大量の情報をぶつけられると人間の脳は、その情報を処理するのに時間がかかる。ましてや俺の脳程度の性能じゃ尚更だ。

 

 佐々木はなんと言った? 中傷や悪口雑言を書き連ねた匿名の投書? なんでそんなものがコイツの下駄箱に入ってたっていうんだ?


 いや、想像できないことではない。だが、俺はその想像を否定したかった。


 ハルヒは閉鎖空間内で自分のストレスを無意識的に発散させていた。世界に対するストレス、それが転化した存在。

 

 いつぞや古泉に連れられて初めて入り込んだ閉鎖空間内で、俺はそれを見た。目についた建物を片端から破壊する<神人>の姿を。


 そしてその矛先は、あの学校の閉鎖空間内に出現した<神人>の姿にも投影されていた。校舎、俺たちの教室、そして部室棟さえ――ハルヒの<神人>は破壊した。

 

 SOS団を結成するまでのストレス、結成してからのストレス。なにも起こらない平凡な日常、その舞台へのストレス。それらが、ああした形になって現れたのだと俺は想像していた。


 だが、それらはあくまでも無意識の表出だってはずだ。しかし今のこいつ、佐々木は違う。明確な破壊意思と目的を持って、この空間の校舎を破壊したのだ。そしてその原因は――


「ふむ。それでも下部から破壊していては、いずれ自壊してしまうかもしれないね。僕が手を下すより先に……そんなことは許されないことだ。そうだろうキョン? なにしろまだ僕はキミに学舎を紹介し終えてないのだからね」


 佐々木は次々と校舎を指差しながら、説明を加えていった。


「軽いところから行こうか。あそこにあるのは体育館だ。学習指導要領なるものがあるのはキミも知ってのとおりだが、この、模試で成績を上げて、より有名な大学への進学者数を増加させる為だけの競争機関にも、体育の授業なんてものがあるんだ。バレーボールだのバスケットボールだのをやらされてね。ただしそれは授業内容で行われた球技の名称であって、僕が受けた授業内容はどうやら違ったようでね。僕の記憶が正しければ、それらの球技はチーム戦であったと思うのだが、僕は一人だった。いつでもね。そしてもう一つ付け加えてもいいだろう。カゴ状のゴールや、ネット越しの相手コートを狙う種目のはずが、彼らの放つボールは僕の身体に向かって飛んでくるのさ。ああ、パスのことじゃないよ? もっともぶつけられたのはボールなんていう名称の物ではなく、悪意という名の感情だった事の方が多かったがね」


 体育館のドーム状の屋根を<神人>の拳が貫通した。そのまま薙ぎ払われ、踏みつぶされ、次第に原型をとどめなくなる。柱をもたない構造物は、あっけないほどの短時間で、その姿を瓦礫に変えた。


「あそこは念入りに破壊しておきたいところだな。体育館の校舎側に給水場があるだろう? 見えないかな? あそこで何度も手や顔を洗ったものさ。汗や涙を洗い流すためならよかったんだが、それ以外のものを洗い流すためにね。詳しく聞きたいかい? くっくっ……やめておこう。キミは優しいからな。僕の独り語りを強引にやめさせるかもしれないからね」


 給水場が踏み砕かれた。


「本校舎の5階は特別教室が備わっていてね。図書室やら音楽室やら視聴覚室なんかがある。情操教育とやらの必要施設とのことだ。書籍やら音楽やら映画やら……そうしたもので感受性を育てる為の施設ということになっているね。これらは本来、静粛を旨とするべき場なんだが、どうやら本校では、騒ぎ立てずとも音を立てずとも人を傷つけることを学ぶ場として活用されていたようだ。もっともこれは僕の特殊体験から導き出された偏見かもしれないがね。だが、事実だ」


 五階の一角に突き刺さした腕を横なぎに払う。窓と窓を隔てる壁も柱もお構いなしに、全てが横一線に繋がり、そして崩壊した。


 佐々木と、その<神人>は次々と説明しては、その場所を破壊していった。各種教科室、試験結果が張り出された廊下、職員室、各階のトイレ。そして――俺は、佐々木の自傷的な独白と、その破壊行為を何も言えずに、ただ見ている事しかできなかった。

 

 

 ◆ 3 ◆

 

 

「随分と我が学舎は見窄らしくなってしまったね。もっとも自分の手で――これは些か比喩的な意味だが――自らの手で破壊した結果なのだがね。やれやれ、振り返ってキミの表情を見るのが少々怖ろしいね。僕が今どんな表情をしているのかをキミに見られるのも、キミがどんな表情をしているのか僕が確認するのも、両方の意味でだよ。キョン」


 俺、俺の表情か。多分自分でも驚くほどマヌケなツラをしているに違いない。

 

 なにか佐々木にかける言葉を出そうと模索しながらも、俺の口は開け放たれたまま音を出さず、そして次々と繰り返される破壊行為から目を背ける事も出来ず……なんとも中途半端な状態だからな。


「だが、ここを破壊して最後だ。これが終わったら、僕は振り返らなければならない。オーケストラの指揮者は演奏が終われば客席に頭を下げるべきだからね。静粛なる聴衆に対する感謝を持って、ね。勿論拍手やアンコールをキミに求めるつもりはないよ。くっくっ」


 佐々木は右手の指を校舎の3階の一角に向けた。


「キョン。最後に破壊するのはあそこだ。唯一カーテンが開いている教室が見えるだろう? あそこはキミがこの世界に招き入れられたときに居た場所さ。つまりは僕の教室なんだ。キミはどこの席で目を覚ましたか憶えているかい? ああ、こんな質問はなかったね、失敬。さすがのキミも、自分が目を覚ました時に見知らぬ教室にいたら恐慌としたかもしれない。そんな状況で自分の周囲を具体的に認識するなど困難の極みだということは想像に難くないからね」


 くつくつと喉を鳴らして笑う佐々木。

 

 確かに細かい事は憶えちゃいない。だが目覚めた席の場所なら憶えているぜ。窓際の一番後ろから二番目の席だ。だからあそこの窓から、校庭にいるお前をすぐに見つける事ができたんだ。


「そうかい。くくっ……妄想というか、まぁ願望というべきかな? それは本当に正直で、そして怖ろしいものだね。キョン、それは僕がキミにいて欲しかった席なんだよ。もっとも現実世界では、全くキミとは似ても似つかない別の人物が座っているのだがね」


 俺は何も言葉を返せないでいた。この学校のものと思しき制服を着せられ、佐々木が望んでいたという席に座らされていた俺。そこから導き出される佐々木の願望、そんなものはいくら俺の脳の出来があまりよろしくなかろうが、すぐにわかる。つまり、佐々木は俺に存在して欲しかったのだ、こいつの通う、この学校に。


 そしてその理由も朧気ながら想像できていた。こいつが自嘲気味に語りつつ破壊した校舎。その破壊理由。佐々木は、この学校を地獄だと言った。そして好意的な言葉は一つも出ていない。

 

 傷つけられ、罵られ、中傷され、そして、孤立していた。そう佐々木は語っていた。だから――。


「キョン。キミがあの窓から僕を見つけて、すぐに駆けつけてくれたことに感謝するよ。僕自身は確認していないから、なんともいえないのだが、キミがあの教室に長居して、後ろの席をみなかった事に対する感謝だ。きっとそれを見ていたら、血を熱くすることを拒絶し、日常に対するモラトリアム主義者を気取りながらも、人並み以上の正義感と呼べるものを保持しているキミは不愉快になっただろうからね」


 佐々木は教室を指差していた手を降ろすと、校舎の逆側に顔を向けて嘆息した。横顔は巨大な影に覆われていて、その表情を解析することはできない。


「あの窓からはね、この学校の最寄り駅が見えるんだ。そしてその先には何があるかというと、僕らの住む街の駅があるのさ。キミと僕が再会した自転車置き場のあるあそこだよ。加えて言うならば、その先には――これは僕の方向感覚が間違っていなければ、だがね。キョン、キミが通う北高があるんだ」


 言い終えてから、佐々木はさも可笑しそうに笑い始めた。口を押さえて身を捩る。沸騰した鍋のお湯のような喉から漏れる独特の笑い声。だがその姿は異様に芝居じみてみえた。


「くっくっくっ! 我ながらなんとも情けないね、そして愚かしく、悲しいことだ。キョン、笑ってくれたまえ。キミが目を覚ました席の後ろ、つまり教室の窓際最後尾の席はね、僕の席なんだよ」


 堪えきれなくなったように口から手を離すと、佐々木は――あはははは――と声を上げて笑った。学芸会の歌劇で『笑い』の芝居をさせられた道化役のように。


「ああ可笑しい。いや、すまないねキョン。だがこの独り語りももう少しで終わりなんだ。今のキミと僕の関係は、一時的に楽団の指揮者と聴衆、舞台上の演者と観客、そのようなものになっていることにしておいてくれたまえ。さて、次の台詞だ。そう、一つ一つキミに説明しなければいけないね。先ほど僕が言った事だ、キミが後ろの席を気にしていたら、不愉快な思いをしたっていうことだね。それはね、僕の机の表面に様々な傷が入っているからだよ。ひょっとしたら油性インクの痕も残っていたかもしれないね。無論、それらは自分でやったことじゃない。だが……そうだね、思い出すのも嫌悪を催すが、この学校に入学。いや、この地獄に入獄してからすぐに行われた学力テストの結果が公示された辺りかな、その頃から恒常的に、その現象は続いているんだ」


 さっきまで話した僕の自傷的独白に添って考えれば、どういうことかキミにもわかるだろう?――佐々木はそう続けた。


「油性インクなど、リムーバーで拭ってしまえばすぐに落ちる。ああ、リムーバーというのは、マニキュアなどを落とす除光液のことさ。意外かい? 僕も一応は相応の年齢の婦女子だからね。それくらいのものも知識も持ち合わせているのさ。残念なことに購入に踏み切った理由は、自らを装飾したものを拭いとる為ではなかったがね。そうそう、傷にしてもね、可愛いものさ。なにしろ進学校だからね、噂に聞くような彫刻刀での凄まじい傷というわけじゃあない。せいぜいシャープペンの先端やカッターでつけた程度のものさ。下敷きさえ敷いてしまえば答案用紙に記述するときに困るものでもない。そんなもので僕を困窮させることができると思っているのだから、これは嘲笑せざるを得ないね、そうは思わないかいキョン」


 俺は開けっ放しだった口を閉じて、その中で声には出さず呟いた。いやがらせ、そんなものじゃない。妨害工作、そんなものじゃない。俺たちの年齢くらいには、佐々木が遭遇した様々な事に対する、おきまりの表現があった。


(いじめ……か……)。


 その結論には随分と前に到達していた。だが、どういうわけか俺はそれを認めたくなかった。認めたくなかったから、その表現に到達するのを拒否していた。

 

 だが、最早それは意味をなさなかった。そんな三文字に集約しきれない、数々の暴力、そう直接的にせよ間接的にせよ、肉体的にせよ精神的にせよ。佐々木の日常にあったのは、まさしく『それ』なのだ。


「ふふふっ……笑いごとさ、笑い事なんだよ。だがね、それはこの僕に対する妬みや嫉みなどがもたらす、彼らの稚拙な暴力や威嚇や中傷や妨害に対することじゃあないんだよ、キョン」


 本当に嘲笑うべきは――そう繋げてから、佐々木は再び教室を見上げ、そこに<神人>の拳を振り下ろさせた。


「僕自身なんだ」

 

 

 ◆ 4 ◆

 

 破壊の轟音。砕け散り、舞い落ちる窓ガラスと瓦礫。スローモーションのような、その光景を見上げながら、佐々木は言葉を続けた。

 

「キョン。キミも知っての通り、僕は奇矯な人間だ。意図的にそうした仮面をつけているからね。いつだったかキミと話した事があったね。だが僕は自ら望んでそうしていたんだ。煩わしい雑事、それは人間関係という事象が大半を占めることだが、それらから自分を隔離する為の手段なんだ。僕の言う仮面とは役割なんだ、心理学用語でいうところのペルソナといってもいいだろう。僕はその仮面を場面によって着けかえることで、その場での自分の役割を自分で決めていた。そうすることで雑事に巻き込まれることなく、自分のすべきことに没頭できるからね。結果として僕は孤立した。でもそれは仕方のないことさ、上辺の社交性は勿論持ち合わせていたし、数多くの『友人』達もいた。これは主に女子生徒達のことだよ? 男性で友人と呼べる、いや親友と呼べるのはキミだけだからね、キョン」


 友人は平坦に発音し、親友には強いアクセントをつけて、佐々木は独白した。


「その孤立は僕にとっては当然のものだった。だから感じやすい年頃とされる年齢にあっても、僕は寂しさなんてものを感じなかったのさ。孤立は孤独ではない、僕は孤高であるべきだったし、そうしていたんだ。だが、中学三年のあの日、キミに出会ってから、どうにも僕は少しずつ変容していってしまったようだね」


 くっくっくっという、いつもの笑い声を立てる。その視線の先では<神人>が幾度となく佐々木の教室だった場所に両の拳を突き立てていた。


「いけないね。キミに関わる部分になると、どうにも独り語りが長くなってしまう。もっともこれはキミがそれだけ僕の中で大きな存在であるという証左になるのかもしれないな。まぁその考察は後回しにしよう。とにかく僕は孤高であることを意識していたんだ。それはキミと進路を別にして、ここに来てからも変わらなかった。勉強するための勉強を強制され、競うための勉強を強制され、その結果である数字だけが自分の存在理由になるような、この場所でもね」


<神人>の破壊行為は止まらなかった。既に佐々木の教室は跡形もなくなり、上下の階が崩れ落ちて、その一角だけが解剖済みの剥製のように内臓をさらけ出していた。だが、その臓腑にも<神人>は容赦なく拳を叩き込む。


「だがね、キョン。中学とは比較にならない競争社会にあっては、孤高という僕の様式は、なおのこと彼らの競争意識とそれに付随する対抗意識を煽ることになったんだ。くくっ、ようは彼らの言葉を借りれば、僕は『お高くとまっている』様に見えたってわけだね。いや、事実そうだろう。競争する為だけに僕はここに入った。そしてそれ以外にやる事がなかったんだ。入試の点数も決して悪くなかったんだろう。新入生代表の挨拶なんてことをやらされたしね。そして入学から最初の学力テストでも僕の成績は悪くなかった……謙遜というフィルターを外せば、僕はトップだったんだ。くくっ我ながら呆れるね」


 校舎が崩れ始めた。佐々木の教室であった区域を中心にグズグズと崩れ落ちる。赤黒く発光する巨人は、その瓦礫を蹴り上げ、他の区域に破壊の手を伸ばすべき獲物を探すかのように、緩慢な動きで周囲を睥睨しているように見えた。


「だってね、キョン。僕には他にすることがなかったんだ。親や母校の教師の期待に応えて入った学校、そこにキミはいないのだからね。おっと……これはまだ言うべきことではなかったね。忘れてくれたまえ。何事も順序が肝要だ。ああ、校舎が崩れはじめたね。いい傾向だ。全て残さず一度に灰燼としてくれればいいのだが、それではカタルシスがない。せいぜい僕の病んだ精神を慰めてくれなければね。くだらない作業だが、全てを壊させてもらうとしようか。なに、更地になる頃には僕の独白劇も終わるさ。ところでキョン、キミは孤高と孤独の違いを、どう定義する?」


 突然の質問に俺は咄嗟の応えを出せなかった。孤高と孤独……イメージはなんとなくわかるが、その歴然とした差を表現することは難しい。


 俺は校舎の瓦解する破壊音にかき消される程度の声で「わからない」と応えた。


「ふむ。さしものキミもこのような状況下では、いつもの思考レベルを保てないということかな。まぁ致し方ないさ。孤高と孤独の違いだったね。僕は前者と後者の違いを、孤なるものの意識の持ちように求める。孤高は超然としていなくてはいけないのさ。だからそうしていたんだ。どんな立場になろうともね。そう、最初は僕にアプローチをかけてくるものもいたさ。クラスメイトであり先輩であり、そんなところかな。だが、最初の学力テスト、二度目、最初の全国模試……このあたりかな、段々とその数が減っていくのがあからさまになったのは。でも僕は変わらず超然としていた、別にどうでもいいことだったしね。そしてその頃には、僕の机や下足箱が、ああした状況におかれるであろうことも予測できたんだ。くだらない連中が考える事はくだらない事だからね。予想の範疇を越える事などありはしないんだ」


 だからといって……予想できて、わかってたからって耐えられるわけじゃないだろう。


「そうだね。その通りなんだよキョン。だから嘲笑うべきなんだ。彼らをじゃない、この僕をね。超然としている僕は、くだらない連中のくだらない行為を見下していた。こんな方法でしか僕に矛先を向けられないのだとね。なんて下等な生き物なのだろうとさえ思っていた。だが彼らの気持ちもわからんでもないさ。妬みや嫉みという感情は人間の一番醜い部分をさらけ出させるものだということは、古今と洋の東西、そして虚と実の世界を問わず物語られる、数少ない真実の一つだからね。くっくっ。だから僕は変わらず超然としていたんだ、そのつもりだった……だけど、だけどね、キョン」

 

 そこで言葉を切ると、それまで校舎を見上げていた顔を俯かせて、佐々木は独白を続けた。

 

「……僕は傷ついていたのさ。自分でも気づかない内にね。自分の立場を孤独とせず、さも超然として孤高を気取っていたはずが、僕は深く傷ついていたんだ。おかしいだろう? 下等な連中のくだらない行為によって、僕の肉体と精神は疲労し、摩耗し、ボロボロにされてしまったんだよ。これは嘲笑うべきことさ。なにが孤高だ、なにが超然だ、とね」


 再び道化の笑い声が響いた。俯いた顔を背中ごと丸めながら佐々木は嗤い続ける。廃墟が瓦礫になる破壊の音にのったそれは、俺の心と身体に大蛇のようにまとわりつき、締め付けた。


「あはははは――ああ、可笑しい。可笑しいよキョン。孤高の徒を気取っていた僕が、いじめなんかに傷ついていたんだよ? あっはっは! あんな下らない塵以下の俗物達の行為に! でもね、キョン。僕は普通の人間なんだよ。あははっ! こんな空間を作ってキミを巻き込み、破壊行為をしておいてそれはないか――でも、この話は僕がこの『力』に気づく前のことだからね。しかし、だ。傷ついていたからといって、逃げ出すのは性に合わない。というよりかはだね、キョン。状況を修復するのも煩わしかったんだ。どうでもよかったんだよ。傷ついている自分も、下らない連中も、下らない環境もね。追い求めるのは結果としての数字だけでいいのだから……でもね、ある時」


――キミを見てしまったんだ。楽しそうに街を歩く、キミと涼宮さんをね。


 そう言って振り返った佐々木は、口元と眉を歪ませ、はっきりとわかるくらいに……泣いていた。

 

 

 ◆ 5 ◆

 

 

 なおも佐々木は語った。涙で濡れた顔を拭いもせず、口調も変えず、呼吸も乱さず。


 同じ街に住んでいる身だ、すれ違う事も確かにあるだろう。佐々木が俺たちを見かけたのは年末の事だったという。

 

 相変わらず倦怠感を漂わせる表情をしていた俺と、楽しそうに俺を引っ張り回すハルヒの姿は、こいつの心境に大きな変化をもたらせたのだと、佐々木は語った。


――苦痛と下らなさに満ちた今の日常と、キミと共に過ごした中学三年の一年間、そして今のキミの楽しそうな日常を、迂闊にも対比してしまったんだ。全く無意味なことにね。


 佐々木は淡々とそう語った。


「それから僕の中で、急激にキミの存在は膨らんでいったんだ。キョンがいてくれたことで僕は孤独ではなかったんだ、とね。そんな簡単な事を再発見するのに時間はかからなかった。だがそれも仕方あるまい? 僕は卒業してキミと離れた時から、キミに対する感情の全てを封印していたのだからね。といっても、たかだか数ヶ月前のことだ。消し損ねた火種は燃料を加えてやれば、また燃え上がるものさ。そして、それまでは抑え込んでいた自分の感情を……次第にコントロールできなくなっていったんだ」


 それから佐々木は、北高に進学した俺以外の同級生に連絡を取ったりもしたらしい。そう言われて思い当たる顔はいくつかあったが、なぜ直接俺に連絡する気になれなかったのかと問いただす間もなく、佐々木は続けた。


「年末にキミが入院したことも聞いたよ。既に退院した後だったがね。リアルタイムであれば、或いは見舞いにもいけたかもしれない。それを契機にキミに甘える事もできたかもしれないね。だが、時既に遅し、だ。年始に年賀状を突然出す事も考えたが、結局は出来ずじまいさ。冬休み……まぁ僕の場合は冬期講習だね。それが終わって三学期、僕は初めて順位を落とした。ああ、学力テストのことさ。まぁどうでもいいことだったんだが、親や教師はそうは思わなかったらしい。それくらい僕の表層状の様子もおかしかったのかもしれないね。両親は心配してくれたが、それは僕の精神状態や身体状況じゃない。数字のことだけだった。一応それでも素振りは見せてくれたがね。最終的に帰結するのは数字のことさ」


 それでも学年末には成績をリカバリーしたという。だが、それは最後の意地だったと佐々木は薄く笑った。そして、たった今気づいたかのように頬を拭うと、自分が泣いているという現実にだろうか、再び喉を鳴らして笑いながら言葉を続けた。


 そんな学年末が過ぎ、一年間の成績に因る無情なクラス分け結果を待つばかりの二年目の春。橘に会ったのだ、と。


「橘さんの話なんか信じられると思うかい? 僕は現実世界で生きていたし、苦痛というこれ以上ない現実を突きつけられて生きている最中だったんだ。そんな中で、それこそ冒険気質型のエンターテイメント症候群患者の妄想みたいな話を語られてもね。そもそも、あまりにも不確定な話じゃないか、世界を自分の都合のいいように変えられる力、その片鱗と潜在能力が僕にあるだなんてね。だから僕は彼女に言ったんだ、それだけ大きな力の可能性があるのだったら、今でも少しくらいは世界を変えられるはずなんじゃないか? とね」


 そう言われた橘は否定をしなかったという。

 

 ただ、しばらく言い淀んでいたようだったが『そうですね……少しならば、可能かもしれません。保証はできないですけど、例えば、学校の席替えを思った通りに出来るとか、その程度ならできるかもしれませんね』と微笑んだそうだ。


「くっくっ。僕は笑ったね。彼女は僕の周辺事情は調査済みだったようだが、とんだ見落としをしていると思ったものさ。我が校はね、キョン。徹底した数値管理なんだ。クラス分けも成績順だし、席順だって成績順なのさ。入学時に振り分けられた教室から始まって、それが上位クラスでありながら成績が下落すれば、クラスも落とされる……そんな風にね。場合によっては三年間同じ教室で過ごす事もあるわけだ。それが上位か下位かはともかくとしてね。徹底しているだろう? だがね……」


 それは起こったのだと佐々木は言った。二年一学期の初日、一年次と同じ教室で出席番号順に座らされた後、クジ引きでの席決めが行われた、と。


「そしてね、キョン。僕は橘さんに言われた、その日の夜に願っていた通りの席を手に入れたんだ。窓際最後列という目立たない席をね。でも、そこを望んだ理由はそれだけじゃないんだ」


 さっきも話しただろう? そう言うと佐々木は廃墟となった校舎に背を向けて彼方を指差した。この方角には駅があって、その向こうには俺たちの住む街の駅があって……その向こうには、俺が通う北高がある……んだったな。


「そう。説明が省けて助かるよキョン。そして僕の下らない告白を聞いてくれたまえ。僕がその席を望んだのはね、キョン。そこにいればキミに一番近い場所だと思ったからなんだ。笑えるだろう?」


 それから、キミのところの団長さんが、キミの教室ではそこに座っているという話を聞いていたせいもあったかもしれないがね――そう付け加えて、佐々木は俺に頬笑みかけた。


「なんとも愚かしく、そして情けない願いじゃないか。今更未練がましいとも表現できるね。僕と違う進路を選び、僕と違う学校に通うキミを想って、僕はその席を望み、そして手に入れたのさ。勿論確率論から言えば、こんなことは十二分に起こりえることだ。僕の力だのなんだのは抜きにしてね。たまたま席替えが起こり、たまたまクジで望みの席を引き当てた。だけどねキョン、この一件で僕は橘さんの話に興味を持ったんだ」


 そして、その日の帰路、橘に再会したのだという。開口一番あいつは言ったそうだ『窓からの眺めはいかがですか?』と。


 それは全てを知っているかのような口調だったと佐々木は言ったが、実際そうだったんだろう。あいつの組織とやらが、どの程度の規模なのかは知らんが、古泉達と対抗していると思えば、それくらいの調査は手の指を数えるより楽にこなしてみせるだろうさ。


「でもね、キョン。橘さんの話を聞いて僕は苦笑を禁じ得なかったよ。彼女は、ここで僕が置かれている境遇も理解していたようだ。そんな事を他人に知られるなど気分のいいものではなかったがね。だが、その上で彼女は、こんな境遇にありながらも超然としている僕を、ある意味超常視していたんだ。佐々木さんの精神は非常に安定しているってね。笑わせてくれる。僕のポーカーフェイスも大したものだと自己評価を高めたものさ。まぁ新学年に上がって一部の塵屑達と離れられたこともあって、実際のところ少しは楽になっていたのかもしれないけどね」


――さて、ここからはキミも知っての通りだ。


 両手を軽く広げて戯けたような仕草を見せて、佐々木は俺の顔を見つめた。涙で光る頬の上には、見た事もないような表情の眼がある。それをどのような……と表現できるほど、俺の語彙量はなかったし、人生経験も圧倒的に不足していた。


 ただ、俺はそんな佐々木の表情に、なにも返せない自分に苛立ちを感じていた。


 いつの間にか<神人>は全ての校舎と施設を破壊し尽くし、ただ呆然と――といった体で、瓦礫の上に佇んでいた。

 

 

 ◆ 6 ◆

 

 

「ふぅ。キミの得意の台詞だが借用させてもらうよ。『やれやれ』だ。全くもって長い上に情けない独白劇だったね。キミは素晴らしい聴衆でいてくれたが、実のところ退屈したろう? 謝罪させていただくよ。すまなかったね、キョン」


 頭を下げる佐々木に、俺は慌てたように言葉を返そうとして、結局何も気の利いた事も言えず、ただ「いや……」とだけ無意味な音を口から漏らした。


「さて、僕の独白は終わったが、キミの中の疑問に応えなければならないだろうね。この閉鎖空間、そしてあの<神人>。これらは全てキミ達の言葉だがね、共通認識を促進させる為にも、借用させていただくよ」


 そうだ。俺は佐々木の独り語りにまかせて、自分の中の最大の疑問をぶつけそこなっていた。

 

 何故、お前がこの空間にいるのか。ハルヒは自分の閉鎖空間に意図的に入る事はできなかったはずだ。そして、学校を破壊して……一体これからどうするつもりなのか。


「ああ、簡単な事さ。僕は世界を変えたかった、いや変えたくなったのさ。だから『力』を手に入れた。簡単な話だろう? そして『力』を行使して学校を破壊した。くくっ。新しく創造する為には、古きを破壊せねばならないからね。それだけの理由だよ」


 そんな簡単に言うが、一体どういうことなのか俺にはさっぱりわからん。橘はお前に片鱗と可能性はあるといったが、本来の力はハルヒのところにあるんじゃないのか? 第一お前は……その力を欲してはいなかったじゃないか。


「キョン。人間は心変わりする生き物なんだよ。キミと再会した後の、あの喫茶店でははああ言ったがね、くくっ。すまないね、キョン。僕は最初からそのつもりだったんだよ。騙すような形になった事については謝罪しよう。だが、これは……涼宮さんが望んだことでもあるのさ」


……ハルヒが? 俺は愕然とした。いつの間に佐々木とハルヒは話をしたんだ? ということはあいつは自分の力を認識しているのか? 一体どういうことだ?


「落ち着きたまえ。一つ一つ話していこうじゃないか。といっても僕も全てを理解しているわけでも認識しているわけでもないんだがね。最初の疑問だが、涼宮さんと僕が個人的に会話をしたわけじゃない。あくまでもこれは、彼女の潜在的な願望が生み出した結果、というだけの話さ」


 お前の学校を、お前の<神人>が滅茶苦茶にすることをか?


「急いては事をし損じるよ、キョン。そんな事を彼女が望むわけがないだろう? 彼女は僕に興味は持っていてくれても、そこまでパーソナルな事に心を傾けているわけではないからね。くっくっ」


 じゃあ、一体なんだってんだ? ハルヒが一体何を望んだっていうんだ。


「キミは涼宮さんの話になると、若干目の色を変えてしまうのだね。僕は穏やかに話したいんだ。するべき事の半分も済んだわけだし、時間はたっぷりとあるのだからね。喫茶店でキミが僕の空間に入ったときに、それは証明されただろう? あの時キミは10分以上僕の精神世界にいたと言ったね。だが、実際には十数秒といったところだった。つまり、この空間内での時間は、実際のそれとは違う流れ方をしている。仮定だが、そう結論づけても構わないはずだからね。さて、涼宮さんが何を望んだか――だったね。これは僕や橘さん、そして九曜さんの見解なのだが……」


 佐々木は言葉を切ると、一歩二歩と俺との距離を縮め、表現不能な表情のまま俺の顔を見上げる。そして、


「彼女が望んだのは、この僕自身の存在だよ」


――そう言うと、佐々木は泣いているような笑顔を浮かべた。


 わからん。ハルヒが佐々木を望んだ? まるでわからん。


「ふむ。僕の言語的表現としてはこれ以上なく直接的にしたつもりなのだが、もう少し表現を違えてみようか。涼宮さんが望んだのは、僕自身であり、僕のような存在だったのさ。改めて僕のプロフィールを紹介しようか?」


 お前のプロフィールなら今更聞くまでもないだろう。俺の中学の同級生で、三年の時と予備校で同じクラスだった。国木田がハルヒに語った事じゃないが、チャリの荷台に乗せて塾通いをした時期もあったし、お前のおかげで俺の学力はそこそこ持ち直したなんてこともある。そしてお前は県外の進学校に進み、先日約一年ぶりに再会した。

 

 それから……お前の言葉を借りるならば、俺の親友だ。


「くっくっ。論述形式ならば百点満点中51点だね。赤点にはならないが、キミはいくつも大事なことを見落としているよ。意図的にそうしているのではないのだろうから、それを責めたりはしないがね。だが、その不足部分を僕の口から語るのは、かなり赤裸々な気分にも、悲観的な気分にもなるのだが……まぁ一年前には個人授業をしていたよしみだ。正解に足るだけの補足をしてあげなければいけないね」


 俺から出せるのはこんなもんだぞ。他に何があるっていうんだ。


「キョン。涼宮さんが望んだのは、僕のパーソナルな部分や、僕らのささやかなエピソードではないんだよ。彼女が望んだのは、彼女にとってライバルたりえる存在なのさ。しかも拮抗を意味するライバルという存在でありつつも、絶対的に自分が有利になりうるという、極めて都合のいい、ね」


……意味がわからん。ハルヒが望もうが望むまいが、お前は十六年前に生まれているし、別に俺たちが中学三年の時期を一緒に過ごしたのは、ハルヒが望んだからでもなんでもないだろう。


 そもそも、その時期に俺はハルヒに会っていない。お前もな。四年前の七夕のことはあるが、あいつは俺がジョン・スミスだということを知らない。だからそれも関係ないだろう。


「確かにその通りだね。僕は十六年間の記憶を持っているし、キミとの日々も忘れずにいる。この記憶までが彼女の造りたもうたものだというのなら、お手上げもいいところだが、話はそんなに複雑じゃないんだよ」


 なら、どういうことなんだ?


「くくくっ。涼宮さんはね、一年前に『キョン』としてのキミに出会い、キミの言葉からSOS団を作り……それから様々な事件を巻き起こしてきた。キミを独占し続けててね。そうする間に彼女の中でキミに対する、なんらかの感情が芽生えても不思議はあるまい?」


 古泉や谷口みたいなことを言い出すつもりなのかしらんが、あいつは俺を雑用係としてしか見ていないぞ。


「やれやれ、朴念仁の肖像画を立体造形にして魂を吹き込んだようなキミに、これ以上その話をしても無駄だろうな。説得して理解させるのも癪であることだし、ではこれは僕の勝手な想像からの推測として聞いてくれたまえ」


 大袈裟に溜め息を吐いてみせると、佐々木は続けた。


「涼宮さんは、この一年間キミを独占し続けていた。彼女を観測している存在は知っているね? キミのところの古泉氏や、長門さん、そして僕の方では九曜さんや橘さんもそうだ。彼らの見解は一致している。即ち、涼宮ハルヒの『力』は、その精神の安定とともに、次第に落ち着いている……とね」


 確かにそんな事を言っていた。そんな時期に俺はお前と再会し、橘やら九曜やら藤原やらとまで出会う羽目になったんだ。


「そう。でもね、キョン。彼女は落ち着きつつあった精神のどこかで、また退屈さを感じはじめていたんだよ。キミを独占して、楽しい事や不思議な事を探したりしながらもね。そう、どこかで『キミを取り合いになるようなライバルがいないものか』……ってね」


 俺は思いきり眉を顰めさせた。なんだってハルヒがそんな事を考えるんだ? 俺なんかを取り合ったって仕方ないじゃないか。


「だが実際そうなっている。キミはSOS団と僕らの間に挟まれて奔走しているじゃないか。そして双方の中心にいるのは、僕であり涼宮さんだ。つまりキョン、僕はそれだけの為に選ばれたんだよ。涼宮さんのライバルとしてね。彼女の知らない一年間をキミと過ごし、彼女の一年間以上、もしくは同等程度にキミと密接な関係にあって、そして……キミを必要としていて、キミを憎からず思っている――いや、この期に及んで韜晦は止そう」


 そう言うと、俺の顔を見上げていた視線を伏せた佐々木は、そのまま歩を進めると、俺の身体に体重を預け――抱きついてきた。そして言葉を繋げる。


「キミのことを愛している女としてね」

 

 

 ◆ 7 ◆

 

 

 佐々木の軽すぎるほど軽く細い身体を受け止めた俺は、混乱していた。

 

 なんだって? 佐々木は今なんていった? 俺の事を必要としている? 俺の事を愛している? こいつが? そしてそれは……ハルヒが望んだことだっていうのか?


「ふふっ……どうにもいけないねキョン。僕は一応服を着てはいるが、精神的には全裸をさらけ出したも同じ気分だよ。キミに知られたくない僕の苦痛を独白し、破壊衝動を厭というほど見せつけ、他人を卑下する攻撃性までつまびらかにした挙げ句が、恋愛感情の吐露だなんてね。これ以上見せるものがあるとしたら、或いはこのままキミを押し倒すしかないのかもしれないな」


 そう言うと、俺の胸の中でくつくつと喉を鳴らす。


 俺はとりあえず佐々木の両肩を掴むようにしてコイツを受け止めたが、頭の方はまるで今の事態を受け止められていなかった。


「佐々……」


 木、そう言って話の続きを促そうと身を離しかけたが、それより早く佐々木は俺の身体から離れると。見た事のないような笑顔をみせた。その頬には、また涙の跡が幾筋も流れている。


「ああ、本当にいけないね。これだから恋愛感情などというものは精神病だというんだよ。自分に歯止めというものがかからなくなるからね。まぁこれぐらいの役得は先んじても構わないだろうが、相互理解の方を先に進めなければ。キミの困惑顔は僕の好むところの一つでもあるのだが、そのままの表情では愛を語るのも難しいだろうからね」


 相変わらずの口調に、相変わらずの言葉遣いだが、何を恥ずかしい事を言ってやがる。だが、一点だけは大いに共感するぞ。まだまだ俺には理解できていないんだ。説明をしてくれ。


「やれやれ、キミの口癖を借用し続けるのは許諾さえあれば構わないんだが、それ以外に表現しようがないのは僕の語彙不足なのだろうね。では疑問に応えるとしようか、何が聞きたいんだい?」


 お前の説、つまりハルヒがお前という……その、なんだライバルを存在を望んだから、というのは百歩譲って納得したとしよう。だが、橘や九曜や藤原がお前の周りに集まってきたのもそういうことなのか?


「そうだね。勿論、彼女らなり彼なりに理由はあるのだろうけれども、おそらくは涼宮さんの力が作用していることは疑いようがないだろう。宇宙人、未来人、超能力者。僕が望んだわけでもないし、涼宮さんのように積極的にアプローチをしたわけでもないのに、キミのSOS団と対になる陣容が揃うなんていうのは、さすがにタイプライターの上に鼠を載せてシェイクスピアの詩を打たせるに等しい確率なんじゃないかな」


 確かにそれはそうかもしれん……。じゃあ、今のこの状況ってのはどういうことなんだ? お前が力を欲してそうなったっていうのは。そんな簡単にホイホイ渡せるものじゃないだろう。だから橘がゴタゴタしていたわけだろうし。


「ああ、それはね……うん、僕もよく理解はしていないんだがね。キョン、今の世界はいくつかに枝分かれした平行世界の一つなんだそうだよ」


……なんだって?


「枝分かれした平行世界さ。SFの素養はそれなりにあるだろう? 同じ時間軸上に分岐したあらゆる可能性の枝葉。その一つだということだよ」


 一体なんでそんなことに……。俺はリアリストである佐々木が、いつだかの公園で朝比奈さんが語ったような、また初めて上がった長門の家で、あいつが語ったようなSF的台詞をひょいひょいと話す事に驚きながら聞いた。


「もっとも分岐したのはつい最近だと思うがね。これも恐らくは涼宮さんの精神と力の賜物だよ。彼女はね、キョン。僕のような存在が表れる事を望んだものの、ちょうど条件を満たす存在である僕が登場し、自らの意思をもって積極的にキミに、そしてキミ達にアプローチをかけてきた事に対して、不安を覚えたのさ。そして自分の気持ちに対しても、どう対処していいのかわからなくなったんだ。まぁこれは僕の方の未来人……藤原氏の見解だがね」


 相変わらず理解できん。いいとこ4割程度だ。


「全く。キミにデリカシーを求めるのは間違いだという事はわかっているが、それでも嘆息せざるを得ないよ。キミに愛を告げた女に対して、キミに思慕を寄せている女性の気持ちを語らせるなんてね。キミの朴念仁さ加減は僕にとって酷く残酷なのだよ? わかっているのかい? キョン」


 そ、そんなこと言われてもだな……俺は頭を掻くしかなかったが、それでも続きを促した。


「ふん……これは重大な貸しだからね。よく憶えておくんだよ? さて、涼宮さんの心情についてだったね。重ねて言うが、これは僕たちの憶測に過ぎないけど、彼女は潜在的に考えていたこととはいえ、僕が実際に登場したことによって、キミに対する好意を再認識したんだ。思わぬライバルの登場による嫉妬と焦りが、そうさせたのかもしれないね。だが、それを認めたくない、現状のままでいいという意地っぱりな意識と、自分の好意を認めた上で、さて僕を、そしてキミをどうしたものかという意識が対立しあったんだろう。そしてその結果、彼女は分裂したんだ。なにしろ我が儘な神様だからね」

 

 

 ◆ 8 ◆

 

 

 ハルヒが分裂――? 一体どういうことなんだ?


「キミと旧交を改めた僕を放置するか、それを阻害して独占を続けるか……決めかねたんだろうね。涼宮さんは迷いに迷った。そしてその分岐点に、僕ら……といっても僕自身に何ができるわけでもないからね、名指しするならば九曜さんが――介入し、少しばかりの情報操作を行った……まぁそれは彼女の弁だがね。僕にはよくわからない。ただ、キミのところの長門さんの動きを止めるとか、そんなことを言っていたね。そうすることで、こちらの世界への優位性を高め、結果……この平行世界が生まれた。僕らはそう認識している」


 よくわからんが……じゃあ、こっちの世界はどう分岐した結果だっていうんだ?


「おいおいキョン。この状況にあって、それを認識しないというのは、さすがにキミの頭脳の回転を疑ってしまうぞ? 確かに非常識な状況下ではあるが、もう少し頭を使ってくれたまえ。それとも、キミはわかっていても、それを認めたくないとでもいうつもりなのかな?」


……無言の返答を返す俺。だが、佐々木の言う通りだった。その証拠は、今俺と佐々木がいる、この閉鎖空間そのものにあった。佐々木にこの力があるということは、ここはハルヒが佐々木の存在を無視しなかった世界だってことなんだろう。


 さっき佐々木は『介入した』といった。そして『情報操作』と。それは聞き覚えのある言葉だった。部室の指定席で本を読む無表情な同級生を思い出す。そして……その顔に表情を浮かべた、同時に『別の世界』にいた長門の儚げな仕草と表情も……。


 あの時、長門はハルヒの能力を自分に移し替え、世界を作り替えた。一年前、いや今から遡れば二年前の時点から、世界と自分とを書き換えた。今の長門には出来ないことらしいが、佐々木についている宇宙人……周防九曜に同じ事ができないとは言い切れない。つまりそういうことなんだろうか。


「残念だが少し違うね。キミは橘さんが語った僕の存在を忘れてはいないかい? 九曜さんはあくまでも観測者だそうだしね。彼女は涼宮さんの意思と能力の方向性を少し変えただけだそうだよ。つまりは、こういうことだ。彼女は僕をライバルとして認めた。そこから先の世界では、僕は彼女と対等な立場になる。まだ、同じ学校の同じ教室で同じ部活に所属している……という彼女の絶対優位性は揺るがないとしても『対等であると認めた』という意識が大切なのだそうだ。だから僕は手に入れることができたんだ。なにしろ『対等』だからね。彼女の力も、仲良く半分にもできるってわけさ」


――そうか、そういうことなのか。きっかけが必要だ、そう橘は言っていた。だが……そのきっかけが、こんな形になったということなのか。


 だが、移し替えなんだか割譲なんだかわからんが、橘がハルヒのインチキパワーは佐々木にいくべきものなのだ、と言っていたのは、佐々木が安定した精神を持っていて、世界を改変するなんてことはないだろうと考えていたからだ。


 しかし、佐々木の安定というのはこいつ一流のポーカーフェースでしかなく……結果、今、こいつは閉鎖空間を生み出し、世界を作り替えようとしている。やれやれ、橘の泣き顔が見えるようだぜ。


「彼女には悪い事をしたかもしれないね。だが利用しようとしたのは彼女も同じ事。僕に力を自覚させ、九曜さんを引き合わせてくれたことには感謝しているがね。僕にも人並み……いや、それ以上に世界を変えたい願望があったってわけさ。ちっぽけなものだがね」


 どうだい? そう言いながら佐々木はくるりと背中を向けながら、すっかり構造物がなくなってしまった学園跡地と、まるで主の命令を待っているかのような<神人>を、伸ばした腕で示し、再び俺に顔を見せた。


 どうだい、と言われてもな。お前が大変だったのは……その……わからんでもない。こんな場所壊しちまえと思ったのも、理解ができるなんて図々しいことは言えんが、納得はできんでもない。


 だが……俺がそう言いかけたところで、佐々木はいつになく鋭い口調で俺の言葉を遮った。もう涙は流れておらず、やや興奮気味にまくし立てる。


「軽々しく否定はして欲しくないな。キョン。お説教も沢山だ。僕が大変だったろうって? そうさ、僕は酷く大変だった。でもキミは僕のそばにいなかったじゃないか。涼宮さんや、あの先輩や、長門さんと楽しくやっていたんだろう? 僕がこの地獄にいる間ずっと」


 俺には返す言葉がなかった。佐々木が無茶な事を言っているのもわかったが、こいつの一年間の苦痛に対して俺が語るべき言葉はなかったからだ。


「それに大体卑怯なんだよ涼宮さんは。キミを独占していたんだからね。もちろん僕はキミと進路を違えたのだから、同じ学校にいないという現実は仕方ないとしよう。だがどうだろう? 同じ街に住んでいる同じ年齢の二人が、一度もすれ違うことなく一年という月日を過ごすかい? 確率論は提示しないよ。何故ならば、全てを偶然に委ねていたわけじゃないからね。なにしろ僕は、中学を卒業してからというもの、しばしばキミを探していたんだ。これがどういうことかわかるかい?」


 お前がいつどこで俺を探していたかはわからないが、偶然会えなかった……ってな話じゃないよな。


「その通りだよキョン。もっと積極的に、例えばキミに電話をしたり、直接家に行ったりということもできただろう。だが僕はそれをよしとしなかった。それは……まぁわかってくれとは言わないが、僕のプライドでもあり、僕の持論に対するエクスキューズであり、そして僕の意気地のなさの表れでもあった。でも、キミの面影を求めて街を放浪していたのは事実なんだ。キミとよく行ったファーストフード店にも、二人で自転車に乗った道も、キミが初めて僕に御馳走してくれたクレープの屋台前も、二人で単語帳をもって出題し合いながら歩いた公園の小道も、キミと別れる時にかけたい言葉を飲み込んだバス停もだ。他にも挙げればキリがないさ。僕はそんなところをずっと彷徨い歩いていたんだよ。キミと他愛もない話がしたかった。許されるならキミに甘えて泣く事だってしたかった。でもキミはいなかったんだ。そしてその間ずっと涼宮さん達と一緒にいたんだ」


 顔が熱くなる思いだった。こいつがそんな風に思い悩み、俺を捜していたなんて、まるで想像もできなかったからだ。


「わかるだろう? 僕が探してもキミの面影さえ見つけられない間、キミは涼宮さんと一緒にいた。でも僕らは逢えなかった。何故? そう広くもない街で、それも若者が歩くような場所なんて限定されているにも関わらずね。涼宮さんと一緒にいる姿さえ、僕は昨年末になって初めて見たのだよ」


――つまり、彼女が独占したいと思っていたから独占されていたわけなんだよ。


 佐々木はそう言うと、憤然とした表情を眉に浮かべた。


 佐々木に言わせると、年末に遭遇できたのは、ハルヒにとって『余裕』が芽生えてきたからだという。それがなんの、とは明言しなかったが、代わりに『ツバでもつけたつもりだったのかね』と鼻を鳴らしながら吐き捨てた。


 ハルヒのトンデモパワーで俺と佐々木が遭遇できなかったというのは、コイツの勘ぐりではないかと思う俺もいたが、あいつの強制力を考えると、それもあながち否定できない。それでもあいつに付いていっていたのは、俺の意思ではあったが、その外側でどのような事が起きていたかまでは認識の範囲外だ。


 なんとも言えない気分で、佐々木の顔を見つめていると、やがて眉間の皺を解いた佐々木は、ちょっと凄味のある笑みを浮かべてから言った。


「だからね、キョン。僕も彼女に倣う事にしたのさ」


 どういうことだ?


「そうだね。僕がこの力を手に入れて、もっともしたかった事は……今の世界の破壊さ。おっと怪訝な顔をしないでくれ。僕が破壊したかった世界なんていうのは、小さなものだからね。学生にとって世界とは、学校と家と、まぁ予備校などの舞台だけさ。その世界の枠組みの中で生きていかねばならない。それはわかるだろう。だからね、僕は自分の世界を破壊したいと思ったのさ。だから学校を破壊した。その上で都合良く作り変えようと思うんだ……一年と少し前からね」

 

 

 ◆ 9 ◆

 

 

――ちょっと待て。今なんて言ったんだ?


「一年と少し前から作り変える、そう言ったんだよキョン。人の話はちゃんと聞いておきたまえ」


 口を少し尖らせて言う佐々木。


 どういうことだ? 聞きながら俺の背中には嫌な寒気と汗が流れはじめていた。


「決まっているじゃないか。この学校にはね、一年間の嫌な思い出しかないんだ。だから全て破壊した。その上で新しい学校を作るんだ。そうだね、外見ごと大きく変えるのもいいかもしれないが、まぁ完全に破壊するという僕の鬱憤晴らしもしたことだし、この際そこまでの改変はしないでもいいかとも思う。だがね、キョン。一つだけ許し難いことがあるんだよ――この学校にはね」


 大きく見開かれた佐々木の目の色が変わる。口元には静かな笑み。

 

 その表情には、なんとも言えない違和感があった。目の前にいるのは確かに俺の知る佐々木だったが、少なくとも俺はこんな佐々木の表情は見た事がなかった。

 

――まるで大きな『力』に酔っているような。いや、酔おうとしているような……。


「この学校には、キョン。キミがいないんだ。くくくっ。そりゃあそうだ、これまでの現実ではキミはこの高校に入るだけの学力が無かったわけだし、受験さえしていないからね。だから一年と少し前から世界を作り直すのさ。塵以下の俗物達……ああ、これは僕の学友達のことだよ。学友なんていう言葉は使いたくないが、この際仕方がない。僕の語彙には相当する語句がないからね。そう、あいつらを総入れ替えしてもいいが、そこまでの力が僕にあるかはわからないんでね。でも、一人入れ替えるくらいならできるだろう」

 

 そこで言葉を切ると、佐々木はまるで昔話を語るような口調で続けた。

 

「一年と少し前の三月。二人で懸命に受験勉強を終えて、試験本番を乗り越えたキミと僕は、この高校の合否発表に一緒に来るんだ。そして二人ともめでたく合格して入学。二人は同じクラスになって……何事もなく一年間、この学舎に机を並べ、幸せな高校生活を送っていた……そう書き換えるだけさ」


 ちょっとどころじゃないぞ。俺の今までの生活はどうなるんだ? そもそも俺がこんなレベルの高い学校でやっていけるわけがないじゃないか。


「安心したまえキョン。実際、受験期にキミに教えた僕が保証しよう。キミは自分で言うほど学力が低いわけじゃないんだ。ただモチベーションを見出せないだけなんだよ。くっくっ、だからね、僕はキミにちゃあんと教えてあげるつもりさ。ずっと一緒にクラスにいられるようにね。その為なら、そうだね、ご褒美をキミの前にぶら下げることだって僕は厭わないよ。むしろ望むところでもある。キスから始まって、ステップアップするごとに、ご褒美のレベルもあがる、なんてのはどうだい? 僕としては大歓迎なんだが」


 なんてこと言ってやがる。こっちが恥ずかしくなるじゃないか。だが色々残念だが、そんなのはナシだ。勉強漬けの青春なんてお断りだからな。


「困ったものだね。じゃあ学校を創り直す際に制度を変えるというのはどうだい? 学校のレベル自体は両親の期待もあるからね、下げるわけにもいかないが、この学校の知育偏重数値重視すぎる体制を変えて、クラス替えがないという風にしておけば、不自然さもなくキミと一緒に机を並べていられるはずだ。これなら問題ないだろう?」


 それもナシだ。俺が結局俺が学校のレベルについていけなくなることには変わりがないからな。


「じゃあ……」


 次々と提案しようとする佐々木を俺は押しとどめた。佐々木の手をとって話しかける。

 

 佐々木、聞くんだ。お前のやろうとしていることは無茶苦茶だぞ。


「そうさ。キミに改めて言われずともわかっている。僕は無茶苦茶なことをやろうとしているんだ。でも、キミが納得してくれないと困るんだ。僕が新しく創る世界では、僕とキミしか以前の世界の記憶を持たない。だから、キミと一緒に新しい世界を始める以上、キミの了解や意思がなければ困るんだ。キミが何事もなかったように一年の記憶さえ創られて、僕の恋人として同じ学校にいる世界さえも夢想したさ。でも、それはキミのようであってキミじゃないからね。そんなのは嫌なんだ。キミの了解無く、キミがこの学校にいる世界を創ってしまったら、それは僕たちが過ごした中学三年の記憶さえも改竄することになる。あの時間無くしては今の僕たちはない。僕の想いもだ。だからキミに了承してもらわなければ困るんだよ」


 参った。話にならん。だが……どう考えても佐々木の提案を呑むわけにはいかなかった。というか、なによりも俺は大事な……友人のコイツに、そんな物騒な力を使わせるわけにはいかなかった。


 世界を改変するだって? 確かに俺はその世界を体験したことがある。でも、それは酷い違和感だった。喩え佐々木が一緒にいたとしても、おそらく俺は耐えられないだろう。


 自分が知っている世界と、ことごとく何かが食い違っている違和感。自分だけが知っている記憶。そんな中で生きていくのは、結局世界に独りぼっちになってしまったのと変わらないんだ。


 そりゃあ、ずっと暮らしていれば、いつかは慣れるかもしれない。だがそれでも……。


「キョン。後生だ。僕の願いを聞き入れてくれ。僕の側にいてくれ。キミが好きなんだ。キミが必要なんだよ……僕を一人にしないで……」


 俺に腕を掴まれたまま佐々木は項垂れ、小さく消え入るような声で言った。表情は伺えないが、泣いているのだろう。言葉の最後は嗚咽に掻き消された。


 こいつは、佐々木は、俺を必要だと言った。そして愛している……とも。

 

 その気持ちはありがたい。ありがたいが、かといって世界を改変するのは、違う。違うだろう?


 こいつは苦痛にまみれていたという、この学校での一年間を否定している。いや、したがっている。こいつの解釈ではハルヒのインチキパワーによって、街で俺とすれ違うことさえ出来なかった一年間もだ。


 でも、それを作り直したからといって、傷ついた過去は癒えないし、過ごした時間は取り戻せない。朝比奈さんのように時間を超えるような力ではないのだから。

 

 いや、時間を超えたとしても、自分の過ごした記憶や経験、年月は自分の中に残る。世界を改変する力だなんていったところで、結局自分の中に積み重なったものは、どうにもできないんだ。


 どうにもできない、だからこそ――。


「佐々木、よく聞いてくれ」


 俺は掴んでいた腕を離すと、佐々木の肩を両手で掴んで真っ正面から眼を見据えた。佐々木は、叱られた小さな子どものようにしゃくりあげている。


「佐々木、俺はお前の言う改変された世界に行ったことがある。だがそこで発狂しそうなほどに辛い目にあった。あんな思いはもう沢山だし、お前にもそんな思いはさせたくない。何をしても、どこかに違和感が残るんだ。それは改変された世界に対してのものじゃない、俺たちが過ごしてきた時間に対する違和感なんだ。それこそ、書いた覚えのない作文を目の前で読まれて、全員がそれを知っているような……上手く言えねえが、そんなのは間違ってるんだ」


 確かに俺の知っている連中もそこにはいた。消えたはずのヤツまでいたのは余録だったが、それでも確かにそこにいたんだ。だけど、そいつらは『俺』を知らなかった。いや、俺の知っている俺自身を知らなかったんだ。


 俺を受け入れてくれるヤツもいた。いたけれども、それでもとてつもなく孤独で……俺はこの世界に帰ってきたんだ。お前と過ごした中学三年の一年間も、ちゃんとあるこの世界に。


 ぴくりと、佐々木が反応した。


 聞いてくれ。お前がこの高校で体験した苦しみを俺は知る事が出来ない。でもお前の口から今日聞いて俺は初めて知る事ができた。いや、その苦しみを、じゃない。お前がどう感じていたかをだ。


 だが聞いている間、俺はなんて言ったらいいのか、お前にどう声をかけるべきなのか、わからなかった。お前が言ったように、お前が俺を必要としていたときにお前の側にいてやれなかったからだ。

 

 お前は俺を親友だっていってくれたよな。でもそんなお前に俺は応えてやれなかった。お前が俺を捜し回ってくれていたときもだ。俺は自分をぶん殴ってやりたいくらいだよ。


 それに……お前は、俺の事を好きだって……言ってくれたよな。正直にいえば、俺はまだ自分の気持ちがわからん。だけど、こんな状況にも関わらず、舞い上がるくらいに嬉しかったんだ。その気持ちに嘘はない。


――そう言いながら、俺は自分の耳が赤くなっていく音を聞いた。佐々木はしゃくり上げながらも、俺の言葉には耳を貸してくれているようだ。泣いたからなのか、それ以外の理由なのかはわからないが、佐々木の顔もまた赤かった。


……ええっと、そ、それにだな。


 必死の説得の最中に流れた妙な空気を一掃すべく、俺は顔を背けて咳払いをした。


 今まで言った事なかったが、俺はいままで……ずっと、お前を尊敬してたんだぜ? それに、その感情は今だって変わらないし、今日お前と話せて、もっと増えたくらいだ。


「え……?」


 泣きはらして真っ赤になった目で、佐々木が俺を見上げる。


 だってそうだろ? こんな妙ちきりんな力を手に入れたのに、お前はこうやって最後まで俺の意思を尊重してくれているじゃないか。しかもハルヒとは違って、お前は意図的にその力を振るえるにも関わらず、だ。


 それだけじゃない。高校での事だってそうだ。お前は自分が受けた扱いも、それによって傷ついた自分も、全部真っ正面から受け止めた上で、それでも立ち向かっていってたんじゃないか。すげぇ事だよ。俺ならとっくの昔にやさぐれてるはずだぜ。


「でも、僕は……そんなヤツら、を世界から、消そうとさえ、考えたんだよ?」


 しゃくり上げ、つかえながら言う佐々木の頭を撫でてやると、佐々木は驚いたような顔をしてから、少し目を細めて俯いた。


 考えただけ、だよ。お前にはそうする力があったのに、そうしなかった。


 最後の最後に俺を呼び寄せて、その一線を越えさせなかったんだ。インチキなデカい力に振り回されずに、な。

 

 そうだ。俺を呼び出せば、自分がやろうとしていることを止められてしまうかもしれないという程度の事を、佐々木が考えなかったわけがない。それなのに俺をここに呼び出した。世界を改変する現場に立ち会わせて、俺を説得する為に? それだけの理由なわけがない。改変された世界に引き込んでからだって説得はできる。その方が効率的なんだしな。

 

 佐々木、お前はそのデカい『力』に負けなかったんだ。力を振るう誘惑に負けなかったんだよ。それってスゲぇ事だぜ。


 頭を撫でながら、ゆっくりと言い聞かせる。嗚咽が少しずつ止んでいくのがわかる。


「でもキョン……僕は、どうすればいいんだろう……?」


 ん、何がだ?


「学校を……こんな風にしちゃって……それに、やっぱり僕はもうこの学校には来たくないんだ……情けない話だけど、一旦吐き出してしまったら……ね」


 俺は苦笑しつつ、古泉やハルヒと閉鎖空間に入ったときのことを思い出していた。

 

 閉鎖空間内での<神人>の破壊活動は、その空間が世界中に広がって現実と入れ替わらない限り現実世界に反映されないというのは、その時に得た豆知識だ。


 俺は悪戯を叱られて反省しつつもしょぼくれたように小さくなった佐々木を、やんわりと抱きしめてやった。


「キョン……?」


 抵抗するでもなく、しなだれかかる佐々木の後頭部を撫でてやる。この期に及んで、自分の<神人>がぶっ壊した学校の心配か。コイツはどこまでも真面目なんだよな。でもって、真面目過ぎるからこそ、こんな風になっちまったんだろう。


 どうせ分けるんだったら、こんな傍迷惑なインチキパワーじゃなく、ハルヒの適当さやら傍若無人さを分けてやりたいね。


「心配ねーよ。夢から覚めたら、全部元通りさ。経験者だからな。信じていいぞ」


 俺の胸の中で、こくりと肯く感覚。


 それとな、佐々木。これからの学校のことだけどな――。


 胸の中で、ぴくりと、固まる気配。


 あのな。無責任聞こえたらすまん。だけどな……行きたくねーんだったら、やめちまえばいいさ。やめちまえ。こんなとこ。


 高校なんかここだけじゃないだろ? それに高校にだって転入制度があるしな。うちにだって時季はずれの転校生の前例がある。お前も会った事がある古泉がそうさ。朝一本の電話でカナダに転校してったヤツもいるしな……まぁコイツはちょっと違うが。


 それにお前ほど頭がよけりゃ、どこからだって、どんな大学にだっていけるさ。


 同い年で、それにお前より明らかに頭の悪い俺が言っても説得力ねーかもしれないが……高校程度で世界変えようなんてとこまで思い詰めるんなら、これまであった事、溜め込んで来たこと……全部洗いざらい親御さんにぶちまけちまえ。


 俺に出来たんなら、親御さんにだってできるさ。なんなら俺だって加勢する。いつでも声かけてくれりゃ駆けつけるよ。これまで出来なかった分な。約束する。絶対だ。


 あと、学校やめるときゃ一言声かけろよ。お前になんかした連中を、俺の全力パンチ全員ぶっ飛ばしてやるからな。これでも、この一年で結構体力ついたんだぜ? 陰険なモヤシ共なんか一撃でKOしてやる。これも約束だ。絶対だぜ。


――我ながら無茶苦茶なことを言ってんなーとは思いつつも、俺は言いたい事を言いたいだけ言った。無責任なようだが、後は野となれ山となれだ。覚悟は決まった。


 そんな風に一人で覚悟を完了させていると、胸の中で佐々木が震えだした……いや、この馴染み深い、くつくつというくぐもった声は……佐々木、笑ってんのか?


「くっくくっ……くっ……ふふっ……あはっ…あはははっ!」


 やがて耐えられなくなったように笑い声をあげながら、佐々木はするりと俺の腕から抜け出すと、腹を抱えて笑いながら後ずさった。


 そんなに笑わんでもいいじゃないか。俺だって無茶苦茶言ってるとは思ってるよ。


「あはっ……あはははははっ……はぁ……くくっ……いや、違うんだキョン。すまない。いや、本当にキミらしいな。感動してしまったよ。くくっ……はぁ、はぁ……まったく、実にまったくもってキミらしい。本当に素敵だよキミは」


 佐々木は涙まで流しながら笑っている。ただ、その笑い声はこいつが自分の苦しみを吐露していたときに見せた道化のような乾いた笑いではなく、腹の底からの笑い声のようだった。目に浮かんだ涙だって、その意味は全く違う。


「はぁ、はぁ……ふふっ……キョン。本当にありがとう。僕はキミと知り合えて本当によかったと思う。目の前で、それこそ世界を変えようとするほどまでに腐った自分を見せても、全て真っ直ぐに受け止めてしまうんだからね……これじゃ捻くれている方が損じゃないか」


 ほっとけ、仕方ないだろ。それぐらいしか俺には出来んのだから。


「くっくっ……いや、本当にキミは得難い友人だよ。うん、大好きだよキョン。本当に……本当に大好き」


 そう言うや、佐々木は見たこともないような笑顔で、再び俺の胸に飛び込んできた。


 そして、背中に手を回して思い切り抱きつく。


 鳩尾あたりに当たっている、若干ささやかではあるが幸せな膨らみが、こう、なんともだが、俺は自分の劣情を脳内で小突いて黙らせると、佐々木を抱きしめ返した。


「キョン……キミが今何を考えているか、当てて見せようか?」


……なんか色々困ることになりそうだから、やめておきなさい。


「ふふっ……わたしは別に……構わないんだけどね……」


「!!」


 佐々木っ! 突然女言葉になるのはよしなさい! 誰も見てないっていうか、お前の物騒な<分身>くらいしかいないけど、なんか色々よろしくない!


 俺は佐々木の豹変ぶりに大慌てしながらも、一つの確信を得ていた。もう大丈夫、こいつは大丈夫だ。

 

「さぁ佐々木、こんなところ出ようぜ? お前はちょっとストレスを発散しただけさ。それだけだよ。目が覚めたら布団の中で、時間はまだ深夜かなんかだろ」


「けち……」


 つねるなっ。なぞるなっ! 押しつけるなっ!


 しばらく佐々木は俺の身体をつついたりして遊んでいたが、やがて顔を上げると、


「でも、どうやってここから出るの?」


 と、おそらく至極真っ当な疑問をぶつけてきた。


……が、よく見ると目が笑っている。この……橘だか藤原だかから聞いて知ってやがんだな……?


「ふふふっ……キョン、ポニーテールじゃなくて、ごめんね?」


 からかうような可愛らしい口調で滅多なことを言って、顔を上げて瞼を閉じる佐々木。


 どこまで知ってるんだか……俺は吐き出しそうになった溜め息を堪えると、目の前でいわゆる『キス待ち』体勢になっている佐々木の、額の髪を指でそっと払って、額にキスをした。


 これくらいの復讐はさせて欲しい。


 それから、目を閉じたままぴくっと反応した佐々木に、不意打ち気味に口づけた。


――今度は唇に。


 俺の勘違いだと思いたいのだが、触れさせた唇越しに、なんだかぬるっとした柔らかくて温かいものが俺の唇と前歯をなぞったような気がしたが……。


 そして――オックスフォードホワイトの世界は暗転した。

 

 

 ◆ 10 ◆

 

 

 フロイト先生も爆笑な夜を過ごした翌朝。

 

 いつも通りの妹の奇襲攻撃よりも数分だけ早く、鳴り響く目覚ましの音で覚醒した俺が一番最初にしたことは、唇を指でなぞって感触を確かめる……なんていう少女マンガ的な行為ではなくて、部屋の壁にかけられた自分の制服を確かめることだった。ウソじゃないぞ。


 そこには見慣れたブレザーとYシャツにズボン。そしてハルヒに引っ張られて締め上げられる為だけに存在するネクタイが、しっかりとある。どうやら世界は変わっていないらしい。テレビの朝ニュースで確認した日付も、記憶通りの『昨日の翌日』だった。


 佐々木の説得に成功したから、あの閉鎖空間からは戻って来られたのだろうが、平行世界になったという今の世界がどうなっているのかはわからない。そこまではさすがに関知できないのが、未来人でも宇宙人でも超能力者でもない平凡な人間のツライところだ。


 ま、気にしたところで仕方がない。それよりもまだ、一般人でありながら閉鎖空間なるところにちょくちょく出入りしては、神様達の説得を繰り返すという珍事に巻き込まれている、俺にしか出来ない確認事項がある。それを確認しなければ。


 その為にも、俺は少々急ぎ気味に支度をしつつ、まだトーストをかじっている妹に「お前も急ぎなさい、俺は先に行くからな」なんて言い残して家を出た。


 これまで確認できたことは、制服であり、日付であり、家庭状態であり、持ち物であり……ケータイのメモリを確認したが、ハルヒ、古泉、朝比奈さん、長門、そして別に知りたくもなかったが橘のものまで、ちゃんと登録されていた。もちろん、佐々木のを一番最初に確認したことはいうまでもない。


 そして俺はいつも通りに自転車を駐め、いつも通りに強制ハイキングコースを登り、そして途中で「あれ? 今日は珍しく早いんだねぇ」なんていう国木田に生返事を返しながら、自分の教室を目指した。


 俺の後ろの席には、既に机に肘をついて窓の外を眺めている黄色いカチューシャがいた。若干緊張する一瞬だ。どちらで呼ぶべきか迷ったが、断然多い回数の方をチョイスして声をかける。


「よう、ハルヒ。早いな」


 振り返る黄色いリボン。そして聞き慣れた声。


「あら、おはようキョン。あんたこそ珍しく早いじゃない」


 よかった。どうやらここまでは変わっていないらしい。安堵しながら席に着く。


 まぁちょっとな。お前こそ早いじゃないか? どうした?


「どうしたもこうしたもないわよ。今朝起きたときに心配だったから有希に電話したのよ。あの子絶対無理するから。そしたら案の定今日は登校するとか言い出したもんだからね、大急ぎで飛び出して、あの子のマンションまで迎えにいったのよ。まぁ確かに、すっかりいつも通りって感じだったけどね」


 そういえば、長門は原因不明の症状(ハルヒには本人から風邪だといってある)で倒れていたんだった。見舞いにもいったし、その前後にも古泉と話しもしたんだが、間違いなく天蓋領域からの介入だろうとのことだった。雪山のトンデモハウスで倒れた時と同じってことだな。


 頭の中に周防九曜のディスコミュニケーションっぷりを思い描いて、若干身震いしそうになったが、長門が回復したということは、連中の『介入』も終了したってことなんだろう。

 

 何よりも安心したのは、そうしたハルヒとの会話の断片から、今の世界は、俺の記憶通りの『昨日の翌日』が、しっかりと続いているという事実を確認できたことだった。


 さて、その後はごくごく普通に時間が過ぎていった。休み時間にトイレに向かう途中で古泉に会ったときには意味深そうな笑顔で会釈してきたし、移動教室の際にすれ違った朝比奈さんと鶴屋さんペアは普通に声をかけてきてくれた。隣の六組には長門がいたし、俺が手を振ると遠目からでも少しわかるくらいに肯いて応答してくれた。


 やれやれ。そう息を吐きながら言って、また安心を深める。この世界は何事もなく『昨日の続き』になっている。大丈夫だ。まぁ少なくとも俺の周りは……だがね。


――じゃあ、あいつの方はどうなんだろう?

 

 そんな事を考えてボケっとしていると、俺の弁当を無断でつついているハルヒに「どーしたのよマヌケ面さらして」と突っ込まれた。言うまでもない事だが、俺は佐々木の事を考えていた。


 夕べの出来事を、ハルヒの様に『リアルな夢』なんていう風に解釈する事はないだろうが、あいつの身に起きた事、あいつの考えている事、あいつの体験してきた事を知った今は、あいつが今どこでなにをしているか、どんな気持ちでいるのか――そんなことが気になって仕方がなかった。


 散々メールを打とうか電話でもかけようかと悩んだ昼休みが終わってしまい、午後の授業もつつがなく終えた俺は、考えもまとまらないままに、いつも通り部室に向かった。


 掃除当番も突発的な思いつきもないハルヒも一緒に部室へと向かったため、古泉や長門と夕べのことを話すわけにもいかない。結局、まんじりともしないまま古泉とゲームをしながら朝比奈さんのお茶を飲んでいたのだが――それは油断と安心の間隙を縫うように突然やってきた。


――コンコン。


 朝比奈さんの着替えも済んでいて、フルメンバーが揃った、このSOS団アジトのドアを丁寧にノックしてくる存在など、この部室に訪れる客では数えるほどしか思い浮かばない。そしてそれらは大概の場合トラブルを抱え込んでくるわけなのだが……。


「キョン、あんた出なさい。雑用係でしょ」


 メイドの勤めを果たそうとビーズ編みの手を止めた朝比奈さんを制して、団長殿から命令を下された俺は、へいへいと生返事をしながら扉へと向かい……結果、その存在に誰よりも早く遭遇することになった。


「やあ、キョン。お邪魔するよ」


 そう言って、硬直したままの俺の横を通り抜けて部室に入ってきたのは、誰あろう俺の親友、佐々木その人だ。


 古泉と長門が、空気を硬直させ、朝比奈さんは、はわはわと慌てていらっしゃる。


 逆にハルヒは、珍客中の珍客に目を丸くさせていたが、余裕を持って立ち上がると、佐々木の来訪を歓迎する仕草をみせた。

 

……どういうわけか眼の奥に炎が見える気がしたのは、さておき、だがね。


「こんにちは、涼宮さん。突然ごめんなさいね」


「いーえ、先日はどうも佐々木さん。今日は一体どんな御用向きで? っていうか、あなた学校はどうしたの? 通ってるとこからじゃ小一時間以上かかるわよね……ひょっとしてサボり?」


 相変わらずズケズケとものを言うハルヒであったが、佐々木も全く動じない。


「サボりっていうわけじゃないのだけどね。今日は午前中に両親と学校に行って面談だったのよ。それで午後は時間があったものだから」


「へえ? なに、もうそっちじゃ進路相談の三者面談とかでもあんの?」


「いいえ、そういうわけじゃないの。まぁ進路といえば進路なんだけど……ね」


 そういうと、俺に意味ありげな目配せをしてくる佐々木である。その、なんだ、グロスリップを塗っているのか、笑みを象っている妙に艶やかな唇に、どうも視線が行ってしまう。これはどうしたもんかね。


「ふうん? 意味ありげな言い方が気になるけど、まぁいいわ。で? どんな用件かしら? わざわざ坂道を登ってここまでくるんだもん、なにかお話があるんじゃないの?」


 ハルヒよ。どうしてお前はそう食ってかかるような言い方しかできないんだ? それじゃあ敵じゃないやつまで敵になるってもんだぞ?


「ふふふっ。そうね、キョンから聞いていたけど、なかなか大変な坂道だったわ。でも体力もつきそうだし、毎日続ければダイエットにもなるかもしれないわね」


 全くその必要がなさそうな細い身体をしているくせに何を言ってやがる。


 用件を切り出そうとしない佐々木に、業を煮やしたのかハルヒが口を開きかけると、


「今日来たのは、通学ルートの確認と申請書類の提出なの。ここに寄ったのはそのついで。それと――」


 と言い、どういうわけか佐々木は扉近くで固まっている俺の側まで歩いてくると、くるりとハルヒに向き直って続けた。


「宣戦布告に、ね」


 そう言って再び俺に向き直ると、硬直中の俺の両頬に白い手を添えて顔を近づけ……伸び上がるようにして、俺の唇に、自分の唇を軽く重ねた。


「……」


「……」


「……」


「……」


「……」


 実にたっぷり五人分の沈黙三点リーダーである。


 部室最奥に陣取った一名を別に、それぞれ赤面したり蒼白となったり無表情に見えて明らかに怒気を宿らせた眼をしたり硬直するSOS団メンバーを尻目に、佐々木は扉を後ろ手に半分閉めた状態で、ころころと鈴の転がるような楽しげな声で笑ってから、こう言った。


「多分、来週からかしら? 北高の生徒になることになったの。午前中の面談は転出の相談。それから北高に来たのは、こちらへの転入書類の申請と受け取り。つまり、届け出が受理されて転入試験を受けたら……私も晴れて北高生ってこと。ふふっ……これからよろしくね、涼宮さん」


……なんですと?


「ああ、それからキョン。すまないね、今日は宣戦布告の為に女子らしい武装をしてきたものでね。キミの唇にも僕と同じグロスがついてしまったと思う。男性がつけるには少々艶やかに過ぎる光沢だ。ティッシュかハンカチで拭っておきたまえ。では、また晩に電話で話でもしよう。今後のことも含めて、ゆっくりとね。それじゃ僕は帰るとするよ。なにしろ『夢』の中でのキミは情熱的すぎてね……まだ身体に熱が残っているんだ。これを冷ますためにも早く布団に潜り込みたいのでね。ああ、寝るわけじゃあないよ? くっくっくっ……じゃあね、キョン」


 鮮やか過ぎる退場だった。


 最後は女言葉になり、ついでにウインクを一つ置き去りにして――扉が閉まる。


 そして俺は扉が閉じられるのを見送ると同時に、ギリギリと音を立てながら首を動かして、部室内部へと視線を巡らせた。


 溜め息をつく古泉。お盆を持って真っ赤になったまま相変わらず、はわはわしている朝比奈さん。どういうわけかいつもの倍以上の速さでページをめくり続ける長門。


 そしてその奥に、俺は世にも珍しいモノを見た。

 

『涼宮ハルヒの驚愕』


 写真か絵にして題を付けるならば、そんな感じだろう。つまり、これ以上ないっていうくらいのビックリ顔というか唖然顔というか、そんな表情で固まっている我がSOS団の団長殿がそこにいた。


 そして、その表情は百面相でもしているかのように、ゆっくりと様々な表情に変化し……最後の表情に辿り着いた数瞬後、俺は無事に生還したはずの現実世界で、この世の終わりのような怒声を聞かされる羽目になった。


「キキキキョンーーー!! あ、あんたなにやってんのよ!! っていうかあの女なんなのよーーーーーっ!!!」


 やれやれ。佐々木さん、夜の電話といったけどな、俺がその時まで生きているかどうか保証はしかねるぜ?

 

 

 

<了>

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最終更新:2020年12月11日 22:52