「どうしたんですかキョンくん。キツネにつままれたタヌキみたいにぽかんとしちゃって」
 だから豚もおだてりゃ木に登るを目の当たりにしたって言うほうが今の心境にドンピシャだって言ったろうが。
 似たような会話をここ最近した気がする。と言うか昨日だ。あの時はあの時で驚いたが、今回も負けちゃいない。大統領候補選出のために躍起になる候補者同士のナンセンスな闘争にも匹敵する。
「ほんと、昨日から変ですよ。やっぱり精神科の病院にいった方がいいのです」
 昨日はここで英語で答えた気がする。今日は何語がいいんだ? フランス語? ドイツ語? 奇を衒ってサンスクリット語やエスペラント語なんかで話した日にゃ驚くだろう。目の色変えて俺のネクタイをゆする橘(ハルヒ)の顔が目に浮かぶ。
 だが生憎の勉強不足のためそのどの言語も未修得で話すことができないんだ。期待にこたえられなくて申し訳ない。
 ――んなことはどうでもいい。
 こいつは一体何者だ? 橘京子の姿をした『彼女』が、涼宮ハルヒを名乗りやがった。ここまでなら昨日と同じだ。
 だが、こいつは昨日までの『ハルヒ』と一つ違う点がある。
 それは喋り方だ。
 昨日までの『ハルヒ』ならば体や髪型、それに声は橘のものであるが、唯一オリジナルの部分があった。それこそが同じ姿に分裂した皆を見分ける唯一の方法と言っても良かった。
 しかし、この『ハルヒ』は俺からその唯一の方法までも奪い取りやがった。これでは本当に橘京子なのか涼宮ハルヒなのか区別がつかない。
 もしかしたら本物の橘京子が嘘ついて涼宮ハルヒを名乗っていることもありうる。そう考えた方が手っ取り早いし、納得もできる。
 しかし……
「橘。お前こんなところで何をやっている?」
 昨日と全く同じ質問を投げかけた。
「へ?」
 お惚け顔の『ハルヒ』……いや、『橘』でいいのか? ……が、本物そっくりの素っ頓狂な声を出した。
「キョンくん、何を言ってるんですか。やっぱりお医者さんに行った方がいいのです。古泉さんに紹介してもらったあのお医者さん、あそこなら見てくれるかも」
『古泉さん』か……一人称や俺の呼称だけでなく、三人称まで橘になってやがる。これでは本当に区別がつかん。
「さあキョンくん、行きましょう!」
「な……おい! 待て!」
 そして橘は、俺の制服の裾を引っつかみ、強引に坂を下りだしていた。
「授業はどうするんだ!」
「昨日も言ったじゃないですか。後から幾らでも取り戻せばいいのです」
「別に授業が終わってからでもいいだろうが!」
「それはダメですぅ。団活の時間と重なっちゃう。昨日も言いましたけど、団活の時間は勉強と違って取り戻せないの。学校で授業を受けるよりもはるかに貴重な時間なの。だから今行くの」
「ああ……そうかいそうかい」
 半分、いや、8割5分ほど投げやりになった俺は、サンタクロースが運んでいる大きな白い袋のようにもぐいぐいと引っ張られながら橘(ハルヒ)と共に他の北高生の逆方向を突き進んでいた。
 何だが、事態は更にややこしいことになってきたみたいだ――



 途中で谷口と国木田に会った。
 簡単な挨拶と欠席を担任に伝える旨をほんの二言三言交わしただけで、しかしそのままスルーされたことは伝えておこう。一応念のため。
 確かに暴走した橘(ハルヒ)を止めるために体をはろうなんて奴はうちのクラス、いや、北高全生徒前教員を見渡してもいるとは思えないし、それならば110番や自衛隊などの応援を呼んでくれればそれだけで万事OK牧場だったのだがそんな俺の淡い期待はものの見事に肩透かしを食らい、例えではなく市中引き摺り回しの刑を言い渡され、その後打首獄門の刑にも似た懲罰を受けるかもしれない俺を見たらならば、いっそのこと関わりにならない方が良いんじゃないかと思って誠心誠意を尽くして力の限り無視する気持ちは存分に分かる。
 だが、少しは俺の立場になって考えて欲しいものである。俺だって、やりたくてこんな子としてる訳じゃないんだぞ。
 とまあ、俺の唯一無二……とまでは言わないが、そこそこ心を許せるクラスメイトですらこんな対応であるから、そこまで親しくも無いクラスメイトやその他同級生、果ては我が後輩たちが取る行動は唯一つ。それは即ち見てみぬ振りをし、知らぬ存ぜぬを決め込むことであり、当然と言いうべき事象にカテゴライズされる。
 皆が皆、力の限り俺たちを空気や石ころのように扱って普段と同じように丘の上の学び舎を目指しててくてくと歩いているのである。
 そんな風景をみてますます気が重くなるが、勿論俺の心境などわかる筈もなくひたすら坂を下り続けるツインテール。
「やれやれだ……」
 俺の一段と溜息が深くなった。


 だが、一つ分かったことがある。
 こいつはやっぱりハルヒだ。この突拍子も無く、見た目を気にしない行動は俺が知っている涼宮ハルヒと同じである。昨日俺に保健室に行くように命じた、あいつと同一人物であるのは間違いない。
 何より、こいつは昨日の出来事を明確に覚えていた。もし本物の橘が入れ替わってハルヒを自称したのならばそこまで頭が回らないだろう。あいつは馬鹿だし。
 同じ人物(橘の姿をした涼宮ハルヒ)が、更に変貌を遂げている。
 昨日は姿のみ。今日はさらに喋り方が加わった。
「つまり……」

 そこから導き出される結論。それは――
 ――ハルヒが橘へと変化している。


「…………」
 かなり重い議題のような気がする。
 現状では性格そのものはハルヒのものをかろうじて残しているような印象を受けるが、もしかしたらこれは明日にも消えてなくなってしまうかもしれない。
 もしそうなった場合、ハルヒという個人、個性は消えてしまうことになる。
 それは涼宮ハルヒの存在が無くなること……死んだも同然である。
 ――今までの世界が、消えてしまう――
 心の中で反芻した。
 俺が望んでいた世界、俺が散々苦労して取り戻した、日常的で且つ非日常的な世界が全て消えてしまう。
 入学式に電波発言をした涼宮ハルヒ。その力を重要視した宇宙人未来人超能力者。そして各勢力から派遣され、今や立派に涼宮ハルヒの愉快な仲間達となった、SOS団の面子。
 強硬派の宇宙人端末に殺されかけた事もあった。麗しき部室専属メイドと一つ屋根の下で添い寝をしたこともあった。超党派のアクション劇にヒートアップした事もあった。
 それら全ての出来事、そしてこれから起きる出来事。全てデリートされてしまうのだ。
 ――それだけは避けなければ……――
 悠長に構えていたが、どうもそんなわけにも行かなくなった。元の世界に戻る方法を、なんとしてでも見つけなければいけない。
 リミットは……わからないが、できれば今日中。

「さあ、きりきり行くのです!」
 細くて白い腕に似合わず、やたらと強い力でグイグイ袖を引っ張られ、ふと我に返った。
 俺の右腕から伸びる袖の先を見る。空いた方の腕で携帯を取ってなにやら電話をしている橘(ハルヒ)の姿。聞くからに、古泉に連絡を取って医者にコンタクトを取ろうとしているらしい。
 その光景は、姿や声、そして喋り方まで橘になってしまったハルヒが唯一ハルヒとしてアイデンティティを保持するために力を発揮しているようにも見えた。
 ハルヒよ。お前もこんな姿になって不本意だろう。なるべく早く元の姿に戻してやる。頼むからあまり暴走しないでくれ。

 




 坂の下までてくてくと歩くとそこには黒塗りのハイヤーが待ち構え、運転手が侍られていた。以前何度か見たことのあるこのハイヤーは勿論……
「あのね、古泉さんが手配しますって言ってくれたのです。これで長距離を歩く必要はなくなったのです」
 っと、先に橘(ハルヒ)に説明されてしまったが、つまりは古泉の差し金だ。そういえば古泉はまだ橘の姿をしているのだろうか? 他の奴らの姿も気になる。
 確認をしたいとは思うが今の状況ではそれを許してくれそうに無い。
「早く検査しに行きましょう。今の状態なら通院くらいで治療できそうです。入院するにしても検査入院で数日くらいで済みそうなのです」
 ハイヤーに乗り込みながらもなぜか楽しそうに言葉を続ける橘(ハルヒ)。悪いが入院している暇なんてものは無い。一日でも早く元の世界に帰えらないと、それこそ取り返しのつかないことになる。
 医者に何とかして話をつけ、少しでも早く脱出しよう。その方がいい。
 ただ問題は医者が俺の言うことを聞いてくれるかどうかだ。変なことを言ったらそれこそ精神的にアレな人と勘違いされ、そのままベッドに直行されかねない。古泉辺りに連絡を取って、算段をつけたいのだが……
「どうされましたか? どうぞお乗りになってください」
 あ? は、はい。すみません。
 朗らかな笑顔を見せる白髪の混じり始めた運転手の柔和な一言によって、俺は今後の予定を練る事を中断させられた。仕方なく橘(ハルヒ)の横に腰をかけ、発進を待つことにした。
 仕方ない、移動中に対策を考えることにしよう。


 全然考える時間など無かった。
 橘(ハルヒ)は運転手のことなど気に求めず俺に話を振ってくるため、それの対応で忙しかったのだ。
 無視しようモンなら『ちょっと聞いてるんですかキョンくん!』と車の中にもかかわらず大声で怒鳴られ、自分の話を聞けと言わんばかりの吊り上った顔を俺に向けてくるのだ。
 話の内容は、別段注意して聞くようなものではない。最近の受験勉強の進捗状況について。朝比奈さんの大学の大学祭で会場を占拠してSOS団を宣伝する計画について。今日のイベントについてエトセトラエトセトラ……
 以外にも上機嫌でまくしたてる橘(ハルヒ)の太鼓持ちを程々にしつつ、俺はあることに気がついた。
 寝たふりをしていればよかったかもしれない、と。

 


「ここですね。……なんか地味」
 お目当ての病院は俺達が車に乗り込んでから30分もしないうちに到着した。以前俺が階段からこけて意識を失った(という事になっている)時に担ぎ込まれた総合病院とは異なり、それと比べて二周りほど小規模の医院であった。
「文句を言うな。医者に地味も派手も煌びやかも関係ないだろ。重要なのは腕だ」
 ただし――この医院は脳外科専門に扱っているらしく、総合病院と比べると大きさこそ見劣りするかもしれないが単科病院としてはかなりの規模をもっている。新設なのだろうか、外装も殆ど汚れてなく綺麗な状態を保っている。
「それもそうですね。それにここは古泉さんのお勧めなのです。前の総合病院よりもここの方がら最新設備がそろってて具合がいいんですって。だから脳の異常も直ぐに発見できるそうなのです」
 ハイヤーでの移動中、俺の携帯に受信したメールの内容がそのままそっくり説明された。
 要らない所の気配りが用意周到な好青年のポテンシャルは健在であり、普段なら舌打ちして削除するこのメールにむしろ有難味を感じてしまったが、あいつにそんな事は絶対言わないつもりだ。
「でもラッキーです。こんなに直ぐ近くに脳外科の専門医がいたなんて。しかもイの一番に診察してくれるそうよ。よかったですね、キョンくん」
 にこやかな顔を浴びせる橘(ハルヒ)。恐らく――というより、間違いなくその病院は機関の息がかかっているだろう。以前から機関は有事に備え様々な分野に進出してきている。ハルヒを退屈させないために。この病院もおそらくその一環だ。
 機関の息がかかっているのであれば、医師も間違いなく機関の同胞か協力者と見ていいだろう。
 それなら話は早い。
 どこぞの訳のわからない大学病院の教授が出てきて延々と専門用語を並べられた挙句、様子見でもう一週間後に来てくださいなどと言われないだろう。
 診察中と偽って早い段階で抜け出し、皆と合流することも可能だ。もしかしたら古泉はもう既にそこまで来ているのかもしれない。頼むぞ古泉。SOS団の副団長であるそのニヤケ面、今回ばかりは早く拝ませてくれ――
 さすがに今回ばかりはそう願ったね。



 受付で簡単な手続きを済ませた後、待合のソファーに座るまもなく診察室へと呼ばれた。そのまま医師の待つ部屋へと直行することとなり、
「ハルヒ。そこで待ってろ」と言葉を残してそこから離れる予定だった。しかし、
「あたしもいくのです」
 と言うもんだから、俺が必死の思いで立てた病院脱出プランは早々に変更せざるを得なかった。
「子供じゃないんだ。一人で診察くらい受けられるさ。だからそこで待っててくれ」
 一応念のために反抗してみる。どうせ徒労に終わるんだろうがな。
「何言ってるんですか! あたしは団長なのです。団員の健康状態を把握するのもトップとしての責任なのです!」
 ほら予想通りだった。なら仕方ない。
「わかったよ。ならついてきてもいいが、お菓子をもらえるわけじゃないぞ。それに注射器を見て泣き出すなよ?」
「あたしがそんなことする訳ないじゃない! いい加減にしないと怒りますよ!」
 よかった。『いい加減にしないと泣きますよ!』と言い出すんじゃないかと思って内心ビクビクしてたぜ。その辺はやっぱり橘京子と違うところだ。完全に橘京子化するまでには至ってない。
「早くしてください。異常が無かったら今日のイベントは決行するんだから、宜しくお願いしますよ!?」
 ……そういえばそんなことを言ってたっけな、橘(ハルヒ)の奴は。
 昨日の夜、いきなり俺に電話をかけてきて、速攻でとある準備する様に命じられた、アレ。
 だから俺はあんなに重い荷物を抱えて坂を登ろうと頑張っていたんだったっけな。今となってはその荷物は先程のハイヤーのトランクで静かに眠りについているわけだが。
「はいはい、分かりましたよ。でももし入院することになったらどうするんだ?」
「そうねえ……その際は、ここでやればいいじゃないですか? ああ、その方が面白いかもね。滅多に体験できないことでしょうし、そっちの方がいいかもしれません」
 おい、ちょっと待て。それはさすがに迷惑だろうが。他の入院患者さんや看護士さんの身にもなって考えろ。
「大丈夫なのです。先生に話をつけて、1等個室を借りることにするのです」
 たかが検査入院でそんないい個室を貸しきってドンチャン騒ぎをするってのか? 本末転倒だろうが。
「どうせ金持ちか要人用しか使われない部屋でしょうし、そんなに需要は無いはずです。ならば皆で楽しく使った方がいいに決まってるのです!」
 需要があれば騒いでもいいって訳でもないだろうが。
「とにかく! キョンくんあなた今日一日入院することにしなさい! あたしが医師の先生に打診してあげるから!」
 先程は少しでも早く退院するように打診していた橘(ハルヒ)であったが、何時の間にか一転、本日一日は絶対入院しなければいけなくなってしまった。となると、今日一日俺は本当に入院しないといけないのだろうか……?
 いや、間違いなくその通りになるだろう。
 この病院は機関の息がかかっており、機関はハルヒの機嫌を損ねることは決してせず、ハルヒの望みどおりに事を運ばせようとする習性がある。ハルヒの今の心境が一日入院を望んでいる以上、その通りにしなければいけないはずだ。
 アレを決行させるために。

 


 ――そろそろ説明もなしに事を運ぶのがきつくなってきた。本日何をやる予定だったのか。あいつが望んでいたアレとは一体何だったのか。昨日俺に様々なものを準備させて、一体何をしでかそうとしたのか。
 実は言いたくなかったのだが、状況を見る限り説明せざるを得ないだろう。俺は橘と違って空気が読める方だ。場の雰囲気を読んで行動することには長けている。
 いいか皆の衆。耳の穴かっぽじって良く聞くがいい。
 何と!
 本日はSOS団結成から丁度2年目である!
 その栄誉を称え(ハルヒ談)『SOS団創立二周年記念パーティ』なるものを開催しようと言い出したのだ!

 ……ああ、分かってる。これを言うだけのために散々引き延ばしたのは悪かったさ。だけど少しは俺の見せ場も必要かと思ってだな……
 ……頼むから、橘京子並に意味不明だな、何て言わないでくれ。腫れ物に触るような目で見ないでくれ……



『ほら、昨日鶴屋さんが作ってくれたストロベリーパイが美味しくて、すっかり忘れていたのよね。こういうイベントはきっちりとこなして行かなきゃね。祭りってのは神が人間に与えた最大級の娯楽の内の一つだし』
 とは昨日の電話で、まだ橘口調になる前のハルヒが述べた文章だ。
 そのパーティを円滑に進めるためと称して、俺は様々なパーティグッズ並びに必要小物を持ってくるように言われたのだ。
 パーティグッズは多岐にわたっている。マイク、スピーカー、ラジカセ、ハリセン、模造紙、油性マーカー、蝶ネクタイ、カツラ、ラメ入りタキシード、現役を引退した妹のランドセル、紅白帽子エトセトラエトセトラ……
 それらを旅行用のボストンバッグに全てつぎ込んで、ひいこらと地獄坂をよじ登っていたのが本日の朝のことである。
 スピーカーや妹のランドセルはともかく、カツラやラメ入りタキシードが一般的家庭である俺の家にあったのかは聞かないでくれ。
 ……まあ、新入生の入団案内の時に使用したものを俺の家に置き去りにしていただけなんだけどな。
 本来は去年と同じく、鶴屋さんの家の敷地内で行う予定であった。去年は山桜だったから、今年は水芭蕉を愛でながら執り行おうと昨日いきなり鶴屋さんに連絡を入れていたのだが、あっさりとOKをだした鶴屋さんの懐の広さには最早脱帽するしかない。
 しかし、突然会場を病室に変更することになったのだが、それでも鶴屋さんは許してくれるのだろうか? いや、多分OKをだすんだろうな。そしてパーティに必要な様々な料理や部材を病室に運び込んでくるに違いない。

 ――やれやれ。参ったぜ。

 


「あのですね。この子頭がおかしいんです」
 診察室にはいるや否や、開口一番に医師に向かって言ったセリフがそれである。
「馬鹿野郎。それじゃ俺がお馬鹿さんみたいに聞こえるじゃないか」
「お馬鹿さんなのは確かでしょ? センター試験の模擬で未だ満点の半分以上も獲得したことが無いんだし」
 まだ未修得の内容もあるからいいんだよあんなもんで。ってそんなことはどうでもいい。
「事の次第は既に聞いております。記憶を司る神経細胞に異常が見られるかもしれないとの事でしたね。では早速ですが診察しましょう」
 俺が言葉を切り出す前に、総髪姿の医師が喋り始めた。
「今から簡単なアンケートをします。少し前の記憶をきちんと把握できているかの確認になりますので、分かる範囲で答えた下さい。それでは始めますね。今日は何時頃起きましたか?」
 えー、と。7時前くらいかな?
「今日の朝ごはんは何を食べましたか?」
 ご飯とお味噌汁と、くさやの干物ですね」
「そうでうすか、アレはなかなかの美味なんですよね。臭さも病み付きになってしまう」
 あ、先生もそうですか? 実は俺もそうなんですよ。身を千切りにしてご飯に入れて、お茶漬けにして食べたらもう……
「キョンくん、話をそらさないで、ちゃんと先生の質問に答えて欲しいのです。先生、次の質問を」
「あ、ああ、そうだね。先生としては焼酎との組み合わせが最高なんだが……失敬。では続いての質問です。それでは3日前の夕食の内容は覚えていますか?」
 3日前? うーん、いきなり言われて直ぐには出ないぞ。3日前……3日前と言えば日曜か。あの時はたしか……
「あ、思い出しました。外食です。外食」
「ほう、では何を食べたか覚えているかい?」
「ええと、結局烏龍茶一杯くらいですね。昼に食べ過ぎて」
「なるほど。ではその昼食は何を食べたか。答えられますか?」
「あの時は……」


「ストーップ!!」
 絶叫とまでもいかないが、そこそこ五月蝿い叫び声がそれほど広くない診察室を揺るがした。突然問診をストップさせたのは勿論、
「どうしたんだ、ハルヒ?」
「そ、そんなことどうでもいいじゃないですか。夕食の内容を覚えていたからその質問はクリアって事でいいのです。ですよね、先生!」
「いや、しかし……」
「い い で す よ ね ?」
 橘(ハルヒ)の剣幕に圧倒され、一瞬たじろぐ先生。口調までは橘京子なのだが、こう言った第六感に左右される行動は涼宮ハルヒのそれを残しているのがわかる。やっぱりハルヒなんだな。こいつは。
 だがおかしい。いや、気のせいかもしれないが……
「あ、ああ……そうだね。それじゃあその質問は終わりと言うことで……他の質問に移ろう」
 やたらとビクビクしながらその質問に触れない先生。女子高生のガン見にびびったと言うわけではないだろう。恐らくハルヒの機嫌を損ねることによる、組織の制裁を恐れてのことだろう。何となくだがそんな気がする。

 そんなこんなのハプニングがありつつ俺が感じ取った疑問点も無視しつつ、脳内異常を測るアンケートは続けられた。
 と言っても結局記憶に関することばっかりである。クラスの奴の名前を5人言ってみてくれとか、最近習った数学の公式を言ってみろだとか、自分や家族の名前を漢字で書いてみろとか、今何問目だとか……少々馬鹿にしているような質問もあったな。
 その一つ一つの質問の内容を先生はカルテに書き込み、そして俺とカルテと、そしてなぜか橘(ハルヒ)を交互に見ては唸っていた。未だにビクついているようにも見えるが、気のせいだろうか?
「先生、どうなんですか?」
 橘(ハルヒ)が痺れを切らして質問する。
「……えーと、うーん……そうだねえ……」
 やっぱりなぜか驚いたような返答をする先生。その小さい声が閑静な診察室に響き渡る。
 あまり良くない症状なのだろうか? というか、俺は今まで健常人だと思っていたのに、もしかして何か異常が見つかったとか? そう思うと不安が大きくなる。
「うん、君の症状だが……」
 ゴクリ。
 鳴ったのは、俺の喉の音か、それとも橘(ハルヒ)の音なのか?
 そして……
「君の症状だが、特に何とも無いね。健康そのものだよ」
 …………。
「おや、どうしましたか?」
 えらく不安を煽ったその言い回しは今時流行らなさそうなじらし戦法でしたかそうでしたか……。勿体つけて言うからビックリしたぜ。何とも無いなら軽く言って欲しいもんだ。
「いやいや、ごめんごめん。だけど、もしかしてと言うこともあるし、一応機械で検査をしてみよう。既に準備もしているから、あとはオペレーターの指示を仰いでくれたまえ」
 そう言うと先生は椅子をくるりと半回転させ、
「CTおよびMRIの準備を」
 診察室の裏側、医療用の機器を洗浄している看護士の一人にそう伝えると、「はい」と答えたその看護士はさらに奥の部屋へと急ぎ足で向かっていったようだ。
 一瞬その看護士さんの声が森さんの声に聞こえたが……気のせいだろう、多分。機関が暗躍しているとなると、何故か森さんが全て裏で操っていると考えるのは病気の前兆かも知れない。
「では君は診察用の服に着替えて」
「あの……こんなものまで来て診察するって事は、結構時間がかかるんでしょうか?」
「そうだねえ……検査には数時間、多分昼過ぎには全部終わると思うけどね。ただ、その検査の結果が出るまでもう一日かかるから、今日一日は入院という形をとってもらうよ」
 やはり、ハルヒの望むとおりの結論になってしまったか。しかし、俺は元の世界に戻るために奔走しなければいけない。
「今日は用があって……入院だけは勘弁できませんか?」
「定時検診をしたいので、その意見は受け入れられないね。でも、それ以外の時間であれば自由に外出してもらっても構わないが」
「そうですか……わかりました。」
 ここで折れることにした。あまりしつこく入院を断ると、橘(ハルヒ)が不審に思ってしまう可能性大である。それに抜け出せさえすればこっちのもんだ。定時検診など無視して元の世界に戻る調査をするまでだ。
「うんうん、あたしの予想通りの結果になったのです。それじゃあ本日16時より、ここで行うことにするのです! 先生! この病院で一番いい個室を借りますね。あと、他に何人か呼びますから、よろしく!」
 橘(ハルヒ)はプラズマ級の勢いと笑顔で先生にそう答えた後、ドアを蹴飛ばして外へと出て行った。
 おおーい、本気でここでパーティをやる気なんですか……? 未だ許可も何ももらってないんですが……

 


「ご心配には及びません」
 へ?
「既に部屋は確保してあります。病院の離れにある特別防音壁を用いた一室をご用意してあります。どうぞごゆるりとご歓談ください」
 俺の目の前に現れた、淡水色のナース服を着こんだその人は、先程機器を洗浄していた看護士さんであり――
「それと、診察の準備ができましたので、ご移動をお願い致します」
「森さん!?」
 ――やっぱり見間違いではなかった。
 ある時は富豪に雇われた臨時メイド。ある時はWRC級のドライブテクニックにも動じないオフィスレディ。
 森、園生さんだ。


「…………」
 俺の呆然とした顔を見て、彼女は清純な少女特有の笑みを見せていた。
「どうですかこの衣装? ちょっとわたしには似合わないかも。それに少し恥ずかしいですし……」
 ちょっと照れくさそうに笑うその人は、言葉とは裏腹にばっちりとナース服を着こなしている。
 ナース服と言えばマイクロミニでピンクのフリフリってのを思わず想像してしまうが、もちろんそんなわけはなく、森さんが着ていたのは至って普通の、悪く言えば野暮ったい衣装である。
 しかし森さんの着こなしは完璧だった。派手さは無いものの、女性特有の美しさを壊すことなく、最大限引き出している。そう言えば、メイド姿の森さんもそんな感じだったしな。
 いや、もっと言うと、森さんはセーラー服を着ていようが着物を着ていようがリクルートスーツを着ていようが違和感を微塵も感じさせることなく着こなすだろう。そう言うお方だ。それは森さんの年齢が不詳と言うこともあるが。
「どうしてここに?」
「看護学校を卒業して、今は見習いとしてこちらに勤めています……じゃ、納得しませんよね。実は、現在発生している元の世界との位相のずれをこちらで調査しているのです。そして、その件であなたに報告しなければならないことがあります」
 森さんは続けた。
「現在、涼宮さんを始め、あなたに関連のある何人かが橘京子の姿へと変貌させられています。詳しい事はまだ調査中ですが、やはり大いなる力が作用していると考えられます」
「大いなる力……」
 ハルヒが所有している、後天性願望成就能力のことだろう。
「ええ。その通りです。涼宮さんの例の力によって世界が大きく改変されたと機関内でも意見が一致しております。ですが彼女の力だけでこのような事になったとは思えないのです。誰か……別勢力の介在により、世界が変貌を遂げたとしか思えません」
 軽い微笑みを絶やさずも、抑揚のない口調で話す森さん。演技なのかも知れないが、努めて平然としているこの態度は逆に不安を煽られる。堪らず森さんに質問を浴びせる。
「別勢力って、機関と対抗している組織とか、長門とは別の宇宙人とか、御子孫様々とか……ですか?」
「ええ……」
 力なげに下を向き、申し訳なさそうに返答する。
「宇宙人や未来人の方はともかく、我々機関の仇なす組織はいくつかあり、監視の目はいつも向けています。そんな中、橘京子の所属する組織がここ数日で活発な活動を始めたのです」
 みんなでスイーツバイキングに行くとかなら、橘の所属する組織に限ってはあり得ない話ではなさそうだ。
 しかし森さんは首を横に振り、
「組織が活動源とする居所、俗に言うアジトですが、そこに人や物資の出入りが頻繁に行われるようになってきたのです。とは言え、軍事兵器とかではなく主に食料でしたので、それほど緊急警戒態勢をしく必要もないと思い監視のみ続けていたのですが……」
 ここで一段落し、森さんはさらにトーンを下げ、俺に一礼をした。
「一昨日ですが、突然組織のメンバーが忽然と消えてしまったのです。どこに消えてしまったかは……申し訳ありません。未だ発見できておりません」
 今度は逆に頭を上げた。
「ですが、機関の人間、および協力者を通じて、組織の行方を追っています。今回の事件のキーとなる人間、橘京子を何としてでも探し出さなければ行けません」
「やっぱり今回の事件は、橘の奴が鍵を握っているのですか?」
「外見があの忌々しき橘京子になってしまったという以上、彼女に責任がないとは思えません」
 眉をピクピクと動かすナース姿の元メイドさんのその表情に、その場に居た人間達は戦慄を覚えたはずだ。ほら、さっきまで俺を診察していた先生が硬直しきっている。
 やっぱり機関の差し金で動いていたか、先生。
「何としてでも彼女を見つけ出し、今回の真相を洗いざらい吐かせますので、ご安心を」
 森さんが見せる美しい笑顔の中に、何故か俺はおぞましき憎悪の念を感じたんだが……気のせいだろうか?
「いえ、そんなことはございません。前回頂いたカカオ100%チョコレートのお礼に、激辛カレーラムネを1ダースほど飲ませようなんて考えていませんから。あれもスパイスタップリで、橘さんの健康によろしいかと存じまして」
 …………。
「では、検査室まで案内いたします」
 待ってください。本当に診察するのですか?
「ええ」
 ですが、俺は特に悪いところなんてありませんよ?
「承知しております。ですが、演技だけですませるわけにはいかないのです」
 森さんは語った。
「涼宮さんの精神状態は、現状あまり良いものではありません。古泉から既にお聞きかとは思いますが、我々は彼女に精神的な負担をかけることをよしとしないのです。今あなたを診察していると考えている以上、我々はそうせざるを得ません」
 言いたいことは分かりますが、でもなるべく早く元の世界に戻さないと、大変な目に遭うんじゃないですか?
「では、ちょっとしたたとえ話をしましょう。今あなたが外に出かけたとします。そこで万一にも涼宮さんとあなたがばったりと遭遇した場合、涼宮さんの機嫌どうなると思いますか?」
 良くはならないでしょう。『何勝手に抜け出したんだ』って怒るでしょうね。
「ええ。我々もそのように推察しています。そしてそれは、この世界の崩壊へと着実に足を進めてしまうことになるでしょう。不安定なこの領域に於いて、そのスピードは通常の何倍、何十倍といった速度で」
 確かに。あいつはそう言うときに限って勘の働く奴だ。こちらの嘘を徹底的に暴き出す可能性は高い。
「だけど、それなら出会わないように仕向ければ良いじゃないですか。監視の目は、どうせハルヒのところにもあるんでしょ?」
「ええ、仰るとおり。確かに可能です。ですが診察が終わった後の事はお考えになっていますでしょうか? 涼宮さんはきっと、あなたの元に来て、診察結果を尋ねて来るでしょう。その時、あなたは一人で芝居を続けられますでしょうか?」
「どこも異常が無かったとか、あるいはわからなかったと言えば良いでしょう?」
「言い方を変えます。実際に診察もしていない装置の体験談を、あなたは明確に伝えられますか?
「あ……」
「涼宮さんのことです。一般人が体験出来辛い体験をしたあなたに、瞳を据えられることとなるでしょう。もしそうなった場合、あなたは返答に思慮することとなり、それを見た涼宮さんが怪訝に思う……違いますか?」
 森さんの推察にぐうの音も出ない。
 これから受ける検診がどんなものか知らないと、人に聞かれても答えられないだろうし、それで本当に検診してきたのか? と不審に思うのも当然である。これはハルヒでなくても一般的成人なら誰だってそう思うだろう。
「だけど、橘の捜索はどうするんですか?」
「我々が捜査範囲を広げて尽力を尽くしております。ですからご安心を。急改に至るまであと数日は猶予があると思いますが、その後あなたのお力をお貸し頂くことになるでしょう。それまでしばし休養を。今日はこちらでゆっくりとしていって下さい。」
 森さんは安らぎを振りまくようなスマイルを俺に当てた。誘拐された朝比奈さん(みちる)を取り戻したときと似た微笑み方である。古泉も見習って欲しいものである。……ま、男がそんな笑い方したら気持ち悪いだけかも知れないが。
「わかりました。お願いします。それでは森さん、検査室まで案内をお願いします」
「了解致しました……あれ? 検査室ってどっちだっけ……?」
 不安げにきょろきょろと辺りを見回す。
「森さん、機関の仕事がメインなのは分かっていますけど、ナースのお仕事もちゃんとしてくださいね」
「……えへ、ごめんなさい」
 俺のちょっとしたからかいの言葉に、森さんは更にはにかんだ笑みを見せてくれた。

 


 検診はそれから数時間行われた。
 全部機械がやってくれるから直ぐに終わると気楽に考えていた。しかし、現実はそう甘くない。
 何だかよく分からない薬を飲まされ、変な台に乗せられ、撮影中は息を止めろだとか、微塵も体を動かすなとか、ともかく面倒くさかった。
 何よりも驚いたのが、この検査は放射線を使用して撮影を行った件である。
 放射線を全身に浴びせるのは非常にまずいんじゃないかと先の医者に申し出たのだが『レントゲンみたいなものだから大丈夫。はっはっは』と乾いた笑いが俺に届き、むしろ不安を煽ったのだ。
 森さんの睨みにビクビクする医師の言うことなどあまり当てにも出来ないし……失敬、人のことは言えないな。
 そんな俺の心境を汲み取ってか、どこからとも無くやってきた森さんが『撮影に必要のない部分は、鉛を主とした防護壁でエックス線を遮蔽しましたからあなたの大事な部分の影響もほとんど無いはずです』と付け加えた。
 大事な部分? 一体どこですかと聞くと、森さんは『さあて、どこでしょうかね』と答えをはぐらかしていた。
 何故かそこにいた医師や看護士達もくくくと笑っているように見えるが……まあいい。
 しかし思ったよりも疲れたな。昼飯も食わずにずっと診察していたから腹も減ってきた。
「お疲れ様でした。お食事のご用意は整っていますので、病室の方に案内いたします」
 そう答えたのは身近にいた看護士さん。ただし森さんではない。森さんは橘及び関連組織の捜索隊を指揮するため、この場から離れた(らしい)。
 というわけでご飯を食べるべく、早速病室へと向かったのだ。


「こちらでございます」
 まるでメイドさんのように病院内を案内され、そして最後に今後お世話になる(といっても一日だが)離れの病室へとたどり着いた。
 看護士さんがドアも開けてくれるもんだから俺のやることと言ったらそのまま病室の中に入り込むことくらいしかない。あまりにも仕事熱心な看護士さんに感謝しつつも扉をくぐり、部屋に入って辺りを見回した後の一言。
「広ぇ……」
 なんつう広さだ。俺の部屋はもとより、俺たちが根城としている部室よりも大きい。フットサルをするには少々狭いかも知れないが、スリーオンスリーなら余裕で出来るだけの広さがある。
 しかも装備も豪勢だ。ベッドが普通のより大きいのは言うに及ばす。テレビはプラズマだし、ビデオレコーダやPCまで置いてある。少し遠くには冷蔵庫にキッチン、ならびに洗面台。そして更に奥には何とトイレとバスルームまでついてやがる。
 極めつけはベッドのとなりにソファーとテーブルまで鎮座している。しかも複数。これは病室と言うより、高級ホテルのスイートルームと言った方が早いかも知れない。
 ハッキリ言おう。もったいない。
 この部屋を大部屋にしたらベッドはそれこそ何十台とはいるだろうし、検査入院なんかじゃなくてもっと必要な患者のために割り当てた方がいいと思うんだけどな。
「要人用の個室でございます」
 要人……所謂VIPの人たちが使用する病室って事だ。確かにそう言った人たちのためには必要な設備かも知れない。しかし、もっと大きな総合病院ならともかく、何故それ程大きくもない単科病院にこれほどの施設があるのだろうか?
「あまり大きい施設では目立ちすぎまして、要人を狙う族共の格好の的になってしまいます。ですから住宅や商店街などと入り組んだこの場所にこぢんまりとした施設を建設したのです。狙われにくいので、この部屋の需要は結構あるんですよ」
 にこっと微笑む看護士さん。まだ幼さの残る彼女は、笑い方、姿、そしてオーラ。全て森さんに酷似していた。さらっと怖い事言う辺なんかそっくりだ。もしかしたら森さん直属の部下なのだろうか? 怖いので聞く気にはなれない。
「せっかくですけど、俺は検査入院ですし大部屋で構いませんよ」
「いえ、あなたは既に要人と化しています。そのためにはこの部屋の提供を惜しみません」
「要人ってったって、別に命を狙われてるわけじゃないですし。俺には必要ないですよ」
「あなただけ、ではありません」
 にこやかな顔が、一瞬まじめさを取り戻した。
「あなたの周囲にいらっしゃる皆様方が要人です。その方達を全てお招きするにはこれくらいの広さが必要でしょう」
 皆様……招き入れる……まさか。
「ええ。こちらで行うと伺っております。記念パーティを」
 再びからっとした笑顔で喋る看護士さん。まさか本気でここでやるとは思わなかったぜ。
 計画を考える方も頭のネジが緩んでいるが、それを受け入れる方も同罪だ。やれやれ。
「なるべく、静かにやりますんで……」
「あら、じゃんじゃん騒いでもらっても構いませんよ。シアタールームに匹敵する遮音性を兼ねそろえておりますから。他の患者さんの迷惑になることは御座いません」
 ニコニコと笑う彼女に、俺は再び溜息をついた。
 機関関連の女性ってのは、こんな人ばっかりなのかね。

 


 その後、病院より供給された飯を食べ、食後のお茶を嗜みつつ、一人で寝るにはやや広すぎる感のあるベッドへと移動した。
 テレビを見ること以外何もすることのない昼下がり。最初は普段見ることのない昼ドラをこれ楽しみと暫く見ていたがそれもやがて終わり、暫くして始まったワイドショーを暫くつけっぱなしにしていたが、それもだんだんつまらなくなった。
 やがてテレビの電源を切り、ぽけーっと突っ立って今後の方針を数学の実践問題を解くよりも深く悩んだあげく、その場に寝ころんだ。
「暇だ……」
 早急に橘を探した方が良いのは確かなのだが、如何せん手がかりがない。よく考えたらあいつの高校の場所を知らないんだ。
 長髪のハルヒを探した時みたいに、高校の門を見張る方法は採用できない。
 それに森さんを始め、機関が橘と関連組織の発見に全力を注いでいる以上、俺がやるべきことは取りあえずこれから行われるパーティに参加して、皆の動向を掴むことくらいだ。
 が、それまでまだ二時間程度時間がある。この微妙な時間を潰すためには、普段学生ができない事……そうだな、平日の昼間に堂々とベッドで寝る。これもまた一興。
 そう言えば昨日もこの時間に寝てた様な気がするが、その件は対岸の火事と同じ認識をして頂ければこれ幸いである。
 座布団代わりにしていた枕を手繰りよせ、真っ白なシーツに包み込まれる。こうしていればカップラーメンにお湯入れて待つ時間よりも早くα波を脳から放出してくるのは今までの経験論から言ってほぼ間違いない。


 しかし。思わぬ誤算で俺の計画は早速頓挫してしまった。
「全然眠くねえや……」
 昨日寝過ぎた事による弊害なのか、それとも授業中異様に眠くて眠くて仕方ないのに、いざ家に帰ってさあ寝ようとするとなかなか寝れない時と同じ症状が発生しているのか。あるいは意外と豪奢だった昼食に覚醒剤でも入っていたのか。
 言葉通り、全然眠くならないのであった。
 さて困った。寝ること以外にやることが見つからない。テレビもゲームも、ネットサーフィンもする気が起きない
 ちょっと散歩でもしようかと思って外に出るとタイミング悪く皆がやってくる可能性大だし、それ以前に機関の連中が俺をここから出してくれるとは思えない。
 退屈な時間を潰す良い方法。何かないもんかね。ハルヒが常日頃から言っていることも強ちわからんでもない。
 ハルヒと言えばさっき状況報告の催促を旨とするメールがハルヒから届いていたのだが、今送り返しても授業中だろうから送り返しても直ぐには見てくれないだろうし、それによる弊害(着信音やバイブが教室に響くこと)が発生したら俺が叱られる。
 ならば向こうから連絡を待つしかないだろう。これも暇を持て余す原因の一つなのだが致し方ない。
 あれ、待てよ? ハルヒは学校に戻るとは言ってなかった気がする。だとすれば……今日一日は授業さぼる気満々でいたから他のこと、恐らく今日のパーティの準備をすべく、部室か鶴屋邸に潜入しているかもしれない。
 姿形が他人と入れ替わってもやることが変わらない奴だ。とは言え、姿形通りの行動をしてもらってもそれはそれで困る。お菓子を貪りながら『ふぇぇ~ん、ひどいですぅ』という声をハモらせるくらいなら朝倉を復活させた方がまだマシだ。
 ……スマン、言い過ぎた。冗談だから復活だけは勘弁な。

 トントン

 考えを改め、橘京子が2人になった場合にのしかかる俺の負担は、うちの妹が2人になった場合とほぼ同等じゃないかという結論に達したその時、扉をノックする音が聞こえた。
「開いていますよ。どうぞ」
 努めて丁寧な口調でまだ見ぬ来訪者に答えた。扉をノックするという時点で来訪者がハルヒを始め、谷口や妹といった乱暴者か狼藉者である可能性は完全に消え、残るはナースか或いは朝比奈さんと言った『天使』が枕詞にふさわしい人物に違いない。
 願わくばナース姿の朝比奈さんがニッコリと笑みを振りまいて入室して欲しいと言う俺の願望は声帯にも影響を与え、いつもより15dB程凛々しく発音することとなったのは全くの余談である。
 ガチャリとドアノブが稼動する音が聞こえ、続いてコツコツと廊下をはたくような音が病室にこだまする。
 音の方に目線を向けると、そこには見知った顔。
「やあ、キョン。涼宮さんから連絡を賜ったよ。受験勉強によるストレスでついに脳内神経が短絡し、短期記憶のみならず長期記憶にも障害が出始めたそうだね。トランスフェリン内のアルミニウムイオン濃度が過多の可能性があるね? いや、愚問だった。確かあの論文は信憑性が無いというお偉方の判断が下っていたはずだ。理論から要因を導き出す演繹的手法はいくらでもこじつけが可能だけど、ある推測から狙ったとおりに答えを導き出す帰納法的手法は得てして上手くはいかないものだ。
だから僕のような凡人は、ただ事実をそのまま素直に受け入れるべきかもしれない」
 この回りくどく、同意を求めるようでその実嘲け笑うかのような言い回し。こんな喋り方をする奴は、この世に生を受けて若干17年強の間で一人しかいない。
 しかし。
「お前、誰だ?」
 俺の深層心理に眠る答えとは全く異なる言葉を投げかけた。俺の予想通りの人物ならば、この後喉を震わせて得意気に語り出すからだ。まるで弟子に説法を聞かせる孔子のように。
「くくくっ、何を今更言っているんだい? それは一目見れば火を見るより明らかじゃないか。獲物を狙う猟犬のような鋭い眼光で睨まれるとこっちが参ってしまうよ。それとも目に携わる病気だったのかい? シックネスと言うよりはディズィーズ、いやシンドロームといった感じかな。ならばクリニックライクなここよりも、すぐ先にあるホスピタルに御幸なされるべきだね」
 俺の予想は当たった。しかし、手放しでそれを喜ぶことはできなかった。
「そうかもな、そうしたい気分だよ」
 何故か垂れ下がる頭を右手で受け止め、ふぅと一息吐く。
 ……見ただけで誰かを判別できるなら苦労はしない。少なくとも俺には不可能なこった……
 ……眼科に行って治るものなら是非治療して欲しい。その際邪眼か邪気眼か、はたまた三ッ眼とかに変化するのだけはごめん被りたい……
 ツッコミだけは何とかできた。ただし心の中で、と付け加えさせてもらう。
 考えてみて欲しい。
 喋り方でその人を断定しているにもかかわらず、何故俺は『お前誰だ』と問いかけたのかを。
 さすがにもう見慣れてそんなに驚くことはなくなったが、それでも情報改変あるいは異世界の相違点による俺の心理的ダメージは小さくない。
 様々な疑問やツッコミが入り交じって俺の五感を力なくさせようとする中、どうしても一つだけ聞きたいことがあった。
 なんでこいつまで――――佐々木まで、橘の姿になってるんだ?
 教えてくれ、ハルヒよ。

 


「気分でも悪いのかい?」
 お前を見て気分が悪くなりました。だから出て行け。
 ……などとは言えるはずもなく、その代わりといっちゃ何だが、皮肉な笑いを浮かべることにした。
 しかし、その顔を見た橘(佐々木)は、両親に先立たれてまだ幼い兄弟を気丈に養う姉に心打たれたような表情で一瞥し、なにやら考え込むような仕草をした後、
「ふむ……この部屋は少々暑くて、しかも湿気が高いような気がする。換気をすれば少しは気分も良くなるだろう。開けてあげるよ」
 そう言ってそそくさとベッド後方に控えている窓側へと移動した。二房の髪の束が揺れるのが印象的だった。
 信楽焼の狸のように黙りこくって佇む俺を、まるで地面に転がっている小石のように気にもとめず過ぎ去り、目的地までたどり着く。サッシに手を掛け、そして地面と水平方向にそれをスライドさせる。
 窓は少女の力でも難なく開いた。そこまでは彼女の計算通りだったのだろう。
 しかし、誤算があった。


 サアアアァァァ……
 思ったよりも強い風が、部屋の中に舞い込んできた。


「きゃっ……!」
 俺の前では凛々しく喋っていたその声が一転、何の誤魔化しもない年相応の女の子っぽい悲鳴を上げていた。
 かく言う俺も悲鳴こそ上げなかったが、一瞬たじろぎ、その後目をそらす。
「キョ…………ァ……閉め……」
 風に逆らって声のするの方に目を向けると、俺……いや、俺の向こう側を指さす彼女の姿があった。体を反転、更にシーンを切り替える。そこで目にしたのは半開き状態で孤立する入り口のドア。
 なるほど、こっちが開いていたからあんなに風が入ってきたのか。やれやれ。
 風にたじろぐ橘(佐々木)を背に、ベッドから降りてドアまで向かい、そして開いた口を塞いでやった。瞬間、この部屋を席巻しようと文字通り荒れ狂っていた風は治まり、今や窓越しのカーテンが軽く靡くだけである。
 文字通り嵐が過ぎ去り……ちょっと言い過ぎかもしれないが……一瞬の沈黙が続く。
 ただ黙っていても仕方がない。均衡を破るために何か言おうとしたが、先手を取られた。
「ふう……すまないね。キョン。今回ばかりは僕のミスだ」
 安堵の息と謝罪の言葉を吐くその態度は、まさに佐々木そのものである。
「いや、礼には及ばないさ。しかし佐々木。髪の毛がかなり乱れているぞ」
「ん……」
 呟いた後、太陽の反射光によってドアに映し出された自分の姿を見、
「いやはや、これはひどい。自慢のツインテールが台無しになってしまったよ」
 感情を露骨に表すことのない彼女は、楽しそうに笑顔を押し出した。


 ――ちょっと待て。
「佐々木」
「どうしたんだい?」
「お前、以前からその髪型だったか?」
 いきなり本質を問い掛けるその質問に、橘(佐々木)は一瞬の間をおいて、
「そうだね。この世界ではそう言う事になっているみたいだ」
「事になっている……って、じゃあお前は、この改変された世界と元の世界の相違点が自覚できているのか?」
 思わず言い寄ってしまった。
 そんな態度を見てどう思ったのかは知らないが、橘(佐々木)は更に間をおいて連々と語り出した。
「ああ。そのつもりだよ。その事も含めてキョンに相談しようと思って馳せ参じたんだ。本来の自分と異なる姿に戸惑う三界無安たる心境と、そのために午後の授業を無断欠席した僕の背水の陣と言うべき心境、どうにか理解して頂きたくてね」
 気持ちは分かる。他にも同様な症状に陥った人間を何人か見てきたからな。正確にはうち一人はオーガニックインターフェイスだが、同じようなもんだ。
「異変に気付いたのは今日の朝だ。どちらかと言うと気持ち良く目覚めることに成功した僕は、今日一日の脳の活力を向上させるためにシャワーを浴びようと、バスルームに向かったんだが、脱衣場で服を脱ぐ際両耳の後方に違和感を感じた。それが異変を感じるきっかけとなった。シャツの布地と髪が擦れる感覚。いつもよりもより明確に、そして敏感に伝わってきた。何だろうおかしいぞと思い、触って見るとそこあったのは栗色の髪の束二つ。よもやと思って鏡をみると、そこにはこの姿が存在してたってわけさ」
 ――話の途中だが、本日佐々木が感じた異変をダイジェストでお送りした。申し訳ないがこれ以降の話は端折らせてもらう。話が長いから――ではない。その殆どが古泉や朝比奈さんから聞いたものと同じ内容だったからだ。
 すなわち、姿が入れ替わっている自覚があること。今まで過ごしてきた記憶は俺の記憶と遜色ないこと。自分以外の人はこの姿に何の動揺もなかったこと。これら全てが橘の姿に変異した紳士淑女の当然の理として存在していたのだ。
 って、こっちがダイジェストか。

「先ず真っ先に連絡をとろうと思ったのは橘さん。彼女なら何か知ってるかもしれない。この姿を見て直ぐに気づいてくれそうだったし、それに何だかんだ言っても僕の深層心理を一番理解してくれる人だからね」
 だけど、とややトーンを落とした。
「彼女に全然連絡が取れないんだ。ずっと着信拒否にしてたから怒ったのかなと思って、公衆電話や他人の携帯電話を使用してかけても結果は同じ。直ぐに留守番電話に転送されてしまうんだ」
「ああ」と俺。「俺も同じ事をしてみたが、やっぱり同じ結果だったんだな」
 後者は心の中で呟いた。理由はわからない。
「ならばキョンに相談しようと思ってたところ、タイミング良く涼宮さんから連絡があってね。本日のパーティの件は聞いたよ。だから涼宮さんよりも早くこちらに参らせてもらったよ」
「そう言えば、パーティをここでやるとか抜かしていやがっていたな、あいつは」
「くくく……俗世間や浮世に屈することのない姿勢、僕にはなかなか真似できそうにもないね」
 真似なぞする必要性はないぞ佐々木。「それよりも、お前は今回の件はどう思う?」
「こんな奇々怪々な出来事は初めてだから、何とも意見しにくいかな……でもキョンを始め、宇宙人未来人超能力者から聞いた話を考慮すると、これはやっぱり涼宮さんが引き起こした事件だと捕らえるのが妥当だね。涼宮さんが何かを思い立って自分を始めとして姿を変えたのかもしれない。関係者の霊魂のみ、このパラレルワールドと元の世界にエクスチェンジした可能性だって考えられる。或いはこれが真の世界で、今までの世界は虚構の世界だったかもしれない」
 水を得た魚の如く、生き生きと喋る。語り出したらなかなか止まらない。古泉と組ましたら朝までどころか、24時間生テレビに耐えられるかもしれない。
「で、どれがビンゴなんだ?」
「さあてね。僕にはさっぱり分からない」
 おいおい。
「さっきも言ったじゃないか。結論に達するまでの仮定はいくらでもできるけど、それが正しいかどうかなんて分からないし、仮定を証明するのは至難の技だ」
 そうは言ってもな、その仮定……ハルヒが情報改変するきっかけとなった出来事を理論立てて把握しないことには対処のしようがないぜ。
「それは正論だ。だけど正論だけでは潤滑油のない歯車と一緒だ。無理に回せば壊れてしまう。円滑な問題解決には繋がらない」
 ならどうすれば良いんだ。潤滑油でも探して歯車に差せばいいのか?
「良くわかっているじゃないか。今僕たちがすべき事はまさにそれだよ。正論と正論を結ぶ潤滑油を手に入れる必要がある」
 冗談のつもりで言ったつもりだったのだが、橘(佐々木)にとっては百点満点の回答だったらしく、満面の笑みを浮かべて答えた。
 燦々と照りつけるような真昼の太陽の如きハルヒの笑みとは違い、暗闇を優しく且つ艶やかに照らす満月の如き笑みが佐々木の特長だ。姿が変わっても内面まで変わることはそうそう無い。
「なんだ、その潤滑油ってのは?」
「この場合、『情報改変となった理由』と『その理由を把握する事』。それを繋ぐ架け橋ってことになるかね。その他のとらえ方もあるけど、ここでは都合がいいので限定して説明させてもらうよ」
 ――真理というものは例外なくひとつであり、どんな形であれそれは受け入れないといけない。今回のように世界が改変した事実も同様さ。この世界に移住することになった理由も然り。理由やら原因やらを模索する前に、この事実を把握し、受け入れなければならない。だけど人間は意外と脆い生き物だ。どんな人であれ、心に弱い部分が存在している。聖人君子とて例外ではない。もし情報改変の原因がその弱い部分を強く揺さぶったなら人はそれを拒絶するだろう。聞こえないフリをしたり、無視したり……だけど、それじゃあ何の解決にもならない。姑息な方法でその場をしのいだとしても、事件は再び起こりえる。根本的な解決をしていないのだから当然だ。真に事件を解決するには、時には非情に徹しなければいけないこともある。聖人君子がそう言われる所以は、それすら乗り越えたからなんだ――



「……!」
 佐々木の言葉にはっとし、同時に過去の記憶が蘇えってきた。
 それは、長門と朝比奈さん。二人の過去の事件。


 長門は自分が暴走する未来を知っていた。しかも事件が発生する3年以上前からである。
 万能人型インターフェイスを他称するあいつに不可能なんてない。対策手段はいくらでもあったはずだ。
 手段さえ選ばなければ、あるいはあの世界は無かったことにできたかも知れない。親玉に言って一時的に能力を封印し、普通の人間のように振る舞えばそれで終わりだ。それくらいなら俺にだって考えつく。
 しかし、長門はそれを実行することはなかった。
 例えその場は回避できたとしても、長門が暴走することになった情報瑕疵はそのままだ。後日違う形でエラーが暴発する可能性だってある。もしかしたら長門や親玉でさえどうすることもできず、それによって世界は玉石同砕してしまうかもしれない。
 だからこそ敢えてそのまま暴走する運命を選んだ。
 道標を追って来る、俺や朝比奈さん、そしてもう一人の長門を信頼して。
 その時の朝比奈さん(大)だってそうだ。俺が朝倉に刺されることは(小)の時に既に経験済みで、止めようと思えば止められたはずだ。
 実際彼女は自己嫌悪に陥っていた。それは痛みで意識が薄れる時の俺と、その光景をまじまじと見ていた時の俺。双方が記憶している。
『既定事項だから』と結論づけるのは簡単だ。実際彼女はそのために未来から派遣されたエージェントだし、そうしなければいけないってのは俺だって分かる。
 しかし――である。
 同じ光景を過去に見たからといって、いくら自身が成長したからと言って、自分に関わりの深い人が深手を負う事実に躊躇いを生じない物だろうか?
 図らずも朝倉に刺し殺されそうになったとき、我を忘れて俺のところまで駆けつけ、俺の命が危ないって言うのにやたら揺さぶった心配性の朝比奈さんにそんな大層な真似ができるとは思えない。いくら彼女が精神的に強くなったとしても、だ。
 もし自分が逆の立場になった場合、その『既定事項』という曖昧な言葉だけで小動物にも似た可愛さを持つ上級生が刺し殺されるのを笑って見て過ごせることなどできない。
 くそ寒い時期にやった指令ごっこだって同じ事が言える。
 あの一件以来、俺は朝比奈さん(大)を目敏く思ったのは事実で、その反動で愚痴を朝比奈さん(小)に度々漏らしていたのもこれまた事実である。『あなたの上司は、あまりいい人ではありませんね』と暴露したことさえある。
 その時朝比奈さん(小)は苦笑いをしながらも『既定事項ですから……ごめんなさい』と申し訳なさそうに謝罪していたのが印象的だ。
 しかし、いずれ気付くはずだ。
 数年後立派に成長し、朝比奈さん(大)となって俺の前に再び姿を現す。その時に、俺が当時嫌っていた未来人というのは他ならぬ自分自身だと。
 その時朝比奈さんはどう思うだろうか。在りし未来へと紡ぐために遂行するミッションのせいで、人に――俺に嫌わなければならない。未来人が重要視する『鍵』に対して、侮蔑の目を向けさけなければいけない。
 自身の命令の意義を分からず、その不甲斐なさに泣き出す彼女にとって、いくら成長したからと言ってもそれは酷というものだ。
 でも、彼女はその道を選んだ。俺や朝比奈さん(みちる)が、『既定事項を』やり遂げると信じて。

 二人とも、『過去』から『未来』へ繋ぐために、それぞれ多大なる十字架を背負っていた。
 そして見事に切り抜けていた。



「っ……」
 毒気を抜かれた眼差しで、白い掛け布団に鉄槌を下しながら呟く。楽しげに演説していた橘(佐々木)が眉を顰める。
「キョン?」
 ……いや、気にしないでくれ。少々自己嫌悪に陥っているだけだ。
 長門はともかく、申請方式でしか自身の能力を行使できず殆ど普通の女の子と変わらない朝比奈さんでさえ、しなやかで強靱な精神を所有している。
 持ち前の真面目さ故身につけた能力なのかも知れないが、それにしたって普通の女子高生がそんな力を欲して所有していたわけではない。不甲斐ない自分を変えようと、自身の力で自身の問題を解決しようとする気概。これがなければ話にならない。
 だからこそ、彼女は未来人を代表して俺を操る身分まで出世できたのだろうし、過去に存在した自分を良いように扱っているのだろう。
 対して俺はどうだ。自分の気に入らないことにやれやれとつぶやき、面倒臭いことは他の人に任せっきりだ。今回だって、最初は長門の力をあてにし、それが駄目だと分かれば今度は機関におんぶにだっこだ。自分の力で解決しようとしてないじゃないか。
 もちろん自分の力だけじゃどうしようもないのは分かってる。けど、こんな調子じゃいざって言うとき何もできないし、非日常が直面した事実に押しつぶされてしまう。
 ――まるで今のようにな。
「……みっともない。俺は何の努力もしてないじゃないか。他人の力に頼ってばっかりで……」
「キョン……」
 優しい声が聞こえた。めったにしない自己嫌悪をしている姿をどう捉えたか、橘(佐々木)が俺の側に近づいてきたのだ。普段とは驚く程異なる、熟成しきった、慈母溢れる表情で。
「キョン。聞いたところによると君は重要人物ではあるが普通の人間だ。気に病むことはない。むしろよくやってるんじゃないかと思っているよ。僕だってこんな能力が無ければもっと普通の高校生らしく、そして女の子らしい生活を送ることができるんだ」
 だけど、それを受け入れる気分にはなれなかった。
「お世辞はいい。それよりお前こそすげえじゃないか。橘に神宣言を下されて、それでもなおかつ気丈に振る舞ってんだから」
 こちらはお世辞でなくそう思っている。しかし俺の言葉の中に琴線に触れる物があったのか、『キョン!』と語調を強めた。
「そんなつもりは毛頭無い。僕だって一緒さ。それに、さっきの話はまだ途中だよ」
 俺の手を取り、子供をあやす母親のように優しく言い添った。
「僕やキョンを含む大多数の人間は、特殊能力のない普通の人間なんだ。むしろこの場に超常能力者が居すぎると言っても過言じゃない。僕たちみたいな普通の人間が困難にぶち当たったとき、状況を打開するのに必要なのが潤滑油なのさ。分かるかい?」
 文字通り頭を捻ってしばし考えるが、良くわからない。何が面白いのか、例の笑い声が聞こえた。
「何度も言うけど、人間は弱い。だから有事に備え、見聞を広め主観的考えを捨て客観的に物事を捉える。だけど、これでもまだ不足している。人間一人でできることは限界がある。一人で可能にするのは、聖人君子や神だけだよ」
「…………」
「……何でもかんでも一人で考えないで、キョン。君は一人じゃない。僕が力を貸すよ」
「え……?」
「君は普通の人間なんだ。特殊な能力があって、何でもできるスーパーマンじゃないんだ。皆と――僕と力を合わせて、問題を解決していけばそれで良いじゃないか」
「佐々木……」
「とは言っても、力を貸せるほどのものじゃないかも知れないけどね。でも、一人で悩むことだけはしないで欲しい。二人で努力していこう。その方が早くこの世界にも慣れるしね」
 潤滑剤……言葉の例えに語弊があるかも知れないが、そう言うことか。歯車を一人で力任せに回すのではなく、皆で回した方が効率も良いし、押しつぶされることもない。
 自己嫌悪になる必要はない。力を合わせることが大事なのだ。
「……わかった。こちらこそお願いしたい」
「ああ、宜しく頼むよ」
 力強く頷いた彼女は手を差し伸べた。もちろん、快く受け入れた。

 


 暫くして橘(ハルヒ)がけたたましい音を立ててドアを蹴破り、病室は再び喧噪で溢れかえっていった。
 俺が坂の途中で運ぶのを断念したボストンバッグを抱え、さらにトートバッグを両手にそれぞれ握りしめ、『さあ準備しますよ』と言って佐々木を強引に働かせたためだ。
 俺も手伝った方が良いかと思ってトートバッグの一つに手を掛けたが、制止したのは我らが団長(改変)である。曰く『病人だからいいのです』との事だ。ただし、『その代わり』と言葉を付け加えられ、『今日一日はしっかり休んで療養するように』と命じられた。
 本当に心配してくれるのならわざわざ何もこんな場違いのところでパーティなぞ執行せず、もっとお誂え向きなところでやればいいじゃないかと思うんだが、どうせ俺がそれを直訴したところ無駄なのは分かっている。
 むしろ普通とか尋常とかはたまた凡々たる様を嫌うこいつは、通常禁忌とされることがおおっぴらにできることからこの場所を選んだわけで、やっぱり俺如きが嫌だと言っても無駄なんだろう。
 そうこうしているうちに他のメンツがやってきた。そのメンツというのは、SOS団の残りの部員3名、麗しき長髪が印象的な上級生、そしてもう一人。
「――――」
 そう、不思議ちゃんキャラがすっかり身に付いたアナザー宇宙人である。彼女はパーティの手伝いに参加することもなく、またそれを咎められることもなく氷筍のように突っ立っていたが、
「――ここは……暖かい――あなたも――そう」
 ステレオグラムでも見るかの様な目線で俺をロックオンし、抑揚のない口調で話しかけた。
「念のために聞いておこう。元の世界の復帰方法、わかるか?」
「――――」
 だめか、やっぱり。
「――元の――世界――戻りたい――」
 何も考えてなさそうなお前でもそう思うんだな。
「俺だって戻りたいさ。その方法を聞いているんだ」
「――戻りたい――そう思わせるのが……大事――」
 え……?
「もしかして、お前知っているのか?」
「――彼女の……弱点――」
 はぁ?
「鍵は――橘――京子――」
 その言葉を最後に、お嬢様学校の制服を着たそいつは何も言わなくなった。
「よくは分からんが、あいつが鍵になるってのか。やっぱり」
 口を噤む黒ずくめ。しかし、長門に負けないくらい微少な角度で頷いたのだけは確認した。
 そうか……やっぱりあいつを探し出さないと駄目か。
 機関に頼って何もしないってのはやっぱりよくない。少しでも手がかりを掴んだ方が後々楽になるかも知れない。
 佐々木にはああ言ったものの、俺一人でもできることはしておいた方がいいと思う。そのために策を考えねば――



 ――ああ、分かっているとは思うが念のため補足しておく。
 全身黒ずくめとは言っても、体のある一部分は他の部位とは場違いな色を醸し出している。明るい栗色の髪を2つに括り付けたその顔は、一人を除いてこの部屋にいる全員と同じ顔である。
 もう説明するのも面倒臭くなったが……つまりそう言うことだ。察してくれ。

 


 昨日は皆が皆橘の姿に変形させられていることに驚き、頼むからこれ以上増えないでくれと切に願ったものだが、俺の真摯たる願望は砂で作り上げた城の如く脆く崩れ去る。
 本日は昨日に比べて約二名ほど橘京子が増えていた。連日高値更新、ストップ高といってもやぶさかではない。この調子で行くと、明日は更なる橘京子が俺の前に立ちはだかるだろう。
「いや、さすがにそれはないか」
 心の中で呟く。
 確かに橘京子の姿になった奴の数はは増えてはいるが、無差別無尽蔵に絨毯爆撃を繰り返しているわけではない。ハルヒも、そこんところはちゃんと考慮しているみたいだ。
 それが証拠に、姿が変わっていない人もいるのだ。
 一人は我らが名誉顧問の鶴屋さん。それに我らが雑用係である俺……って、自分自身を褒めてんだか貶しているんだかよくわからない表現だなこりゃ。
 他にも我が妹、谷口、国木田エトセトラエトセトラ……これら全て変更なし。
 姿が変わっているのは宇宙人未来人超能力者、そしてハルヒや佐々木と言った、人外的能力を身につけている彼ら彼女らに限られている。
 何故特殊能力を持っている奴等だけこんなことになったのか。普通の人間とそうでない人間との篩い分けをしているのか?
 いや、違う。佐々木ならともかく、ハルヒはそれらが本物の能力者であることは知らないはずだ。
 普通の人間に興味はないと言ったのは既に二年以上前の事であり、最近はそんな事を言い出すのは稀になってきた。それを今更思い出した……これも苦しい。
 宇宙人未来人超能力者が姿を変更したという事実がある一方、しかし完全にそうとも言い切れないのももどかしい。俺の知る範囲で、まだ姿を見せていない特殊能力者が一体どんな姿でいるのかそれを見ないことには如何ともしがたい。
 まずは朝比奈さんとは異なる未来を導こうとするもう一人の未来人、仮称藤原。
 奴は今回全く姿を表していない。このパーティにも甚だ遺憾ではあるが招待されており、皆と同じくこいつも馳せ参じるものだとばかり思っていた。
 しかし、奴は来なかった。理由は橘(佐々木)から聞いた。
 佐々木の回りくどい言い回しと藤原の未来的優越感に浸った口調がごっちゃになったものを一字一句そのまま説明するのは敢えて避けるが、結局のところ高飛車な態度をを全面に押し出した奴が『俺にはやるべき事がある』と言って行方を眩ましたらしい。
 やるべき事……か。時定数の入力し間違えを補正すべく、過去に戻ってこの奇妙な世界を未然に防いでいるのであれば俺の中で信頼度は上昇するんだがな。それでも古泉の身長三つ分くらい下のレベルだ。
 だが、あまり期待するのも野暮ってもんだ。家に帰って憧れの彼女の姿になったから、服を脱いでまじまじと全身を見ているのかもしれない。
 ……ただの変態だな、そりゃ。

 他に比較的近しいところで言うと、長門の第二代目バックアップであろう、喜緑さん。彼女の姿もまだ一度も見ていないが、果たしてどんな姿になっているのだろうか? 興味があると言えばある。無いと言えば無い。
 姿を拝もうにも俺たちとは多少距離を取って観測しているためだろうか、ハルヒや俺との関わりは希薄になっている。高校を卒業した後一体どこで何をしているのか全く分からない。長門に聞けば教えてくれるだろうが、聞く気にもならない。
 何となくだが、あの喫茶店でバイトをしながら観測を続けているのだろうと考えている。あの事件以来一度もあの喫茶店でバイトをしているのを見たことはないが、そんな気がする。
 まあどうだって構わないけどな。
 ……少し前までは、そう思っていた。
 しかし、ここに来て彼女の存在のありがたみが五臓六腑に染み渡る程分かってきた。
 これも何となくだが、長門が非協力的な今、その力をフルに発揮しているのだろう。表だって活動することは無いが、裏では手や足や髪を伸ばして俺たちを敵の攻撃から守り、様々な情報戦を繰り返している。そんな気がするんだ。
 あのフワフワしたウェイブが、ツインテールに変わっても能力は健在なのだろう。
 栗色の双尾を情報操作で伸ばして敵の首を締め付け……
「ん?」
 そこで妄想がストップ。あることを思い出した。ツインテールとは言えない、ただ二つに髪を束ねたあの人の顔が脳裏に広がった。
「そう言えば森さん、姿が変わってなかったな……」
 おかしい。
 特殊能力所有者が皆姿を変えているというのに、何故森さんは姿を変えてないのだ?
 ハルヒが森さんの特殊能力を知ってない……違う。さっき言ったとおり、ハルヒは特殊能力を持つ人物の存在を信じていない。
 森さんは実は普通の人間だった……それは考えられなくもない。俺は彼女が古泉見たく紅い玉になってびゅんびゅん飛び回る姿を見たことがない。
 となると、やはり……


 ――姿が変わらないのは、普通の人間のみ――


 ……なのか?
 そう言われれば辻褄が合う。
 だが、それなら尚の事……
 いや、余計な詮索はよそう。下手な事を言って爆裂変態ツインテールになる気はさらさらない。
 答えは、橘京子が知っている。
 真相を知っているはずだ。橘の姿をした宇宙人がそう教えてくれた。恐らく間違いはないはずだ。
 だが。
 あいつは依然として行方不明。いったいどこにいるのだろうか?
 存在しているのは確かなようだが、しかしこれ程姿を表さないというのはいくらなんでもおかしい。
 ハルヒの超人的パワーを一身に食らってばたんきゅ~してしまったか、或いは組織が機関に制圧され、『森園生による教育講座 全15回』出席に忙しいのかもしれない。もちろん冗談だ。
 様々な疑問点や問題点を残しつつ、時間のみ刻々と過ぎて行く。膠着状態と言えば格好いいが、単なる手詰まりだ。決して良い状況ではない。

 ならば、どうするか……

 


「じゃあ一番手、トップを飾るのは、SOS団が誇るマスコット、朝比奈みくるさんなのです。それじゃあ朝比奈さん、よろしくお願いするのです~!」
 どこか間の抜けた、しかしながらすこぶる上機嫌な声が白塗りの部屋一面に染み渡った。
 本来ならば猪突猛進、草木をなぎ倒すような罵声になるのだろうが、それは本人の意思によって抑え込まれ、先述の声が代理出席していた。
 もちろん、声帯どこか口調まで橘に似せてしまった橘(ハルヒ)である。
「あ……は、はい! 頑張りますので、評価の程よろしくお願い致します!」
 振動数を全く変える事なく別人が声に出す。
 橘(朝比奈さん)だ。
 皆が集まり、部屋中をパーティ用の飾りでデコレーションした後、団長による二周年を迎えた事による賛辞と今後の抱負、そして本来副団長がやるはずだった乾杯音頭まで敢行し、この部屋は場違いのお祝いムード一色に染め上がった。
 食べ物飲み物もそこそこに(言うまでもなくソフトドリンクオンリーだ)、本日のメインイベント『SOS団創立二周年記念パーティ兼北高ものまねフェスティバル』が執り行われた。
 トップを飾るのはアンバランスな体付きの上級生……もとい、今や誰かさんのせいでスレンダーな体型へと生まれ変わった上級生。
「あの……えと……よ、吉崎先生のまねです。『えっきすわぁ~、え~がぁ~、ずぃ~ろ~の、ときぃ~……」
 独特のイントネーションで俺達を失笑の渦へと巻き込んだ我らが数学教師吉崎氏は一年上級の先輩方にも鞭撻を奮っており、より北高生徒の笑い者と化していた。
 そんな数学教師のものまねも、SOS団のマスコット兼メイドにかかれば可愛く見えてしまうから不思議なものである。
 当たり前だが、吉崎が可愛いわけではない。何に対しても一生懸命なこのお方がやるから可愛いんだ。必死になって『ああ……こうかな?』とか『ふぅわ……あ』とかって声が愛しさ倍増である。
 もう一回念のために言っておくが、吉崎がそんなことを言うわけではない。もし言おうもんなら留年してでもその場を逃げ出してやる。
 とまあそんな感じでものまね大会は何の問題もなく進んでいった。
 橘(長門)の演じる人間味が全く感じられない元コンピ研部長や、やたらハイテンションになってしまった朝比奈さんを演じる鶴屋さんまで、似ている似ていないに拘らず、ありとあらゆる演技が疑似壇上となったソファーの上で行われた。
 意外にもはまり役だったのは橘(古泉)演じる元生徒会長だ。そのモノマネの上手さに橘(ハルヒ)昔を思い出したのか、あまり怖くない顔でぷんすかとしていたくらいだ。惜しくらむは、声帯が女性の物のため、迫力が今ひとつ欠けていることくらいか。
 また、そんなローカルネタにも関わらず、他校の二人も一緒になって盛り上がっていた。そして闘争心に火がついたのか、ついには俺のモノマネをしやがる始末だ。二人が二人ともだ。
『やれやれ……』
 このボヤキは俺のものではない。橘(佐々木)と橘(九曜)が発したアンサンブルだ。
 他ならぬ俺自身の名誉のために言っておこう。似てないぞ、お前ら。
 なあ、似てないって本人が言ってんに何でそんなに腹を抱えて笑ってんだ、橘(ハルヒ)、鶴屋さん?
 凄く悔しい思いが沸き起こって来たので、俺は自身の演技で挽回することにした。去年から一年間練習して来た我が担任岡部の真似、生き写しとも言える演技を見て感心するんだな。
「うわぁ、最悪なのです」
「似てないです……」
「……落胆した」
「これは……何と申しましょうか……」
 …………。
 ああ、いいさ。どうせ俺なんか……


 などと落ち込んでいる暇は無かった。それよりもここからだ本番だ。モノマネも一通り終わり、丁度頃合。気合いを入れ覚悟を決め、俺は橘(ハルヒ)のそばに寄った。
「なあ、ハルヒ」
「はい?」
「1つ聞きたいんだが、いいか?」
「へえ? なんですか、いきなり改まっちゃって。何でも聞くといいのです」
 あのな、ハルヒ……


「橘はどうしたんだ?」


 ――和やかな雰囲気が一転、全員が凍りついた。
「あ、いや、キョン。彼女は昨日から連絡が取れなくてね……一応誘っては見たんだが、やはりというかなんというか、今日も音信不通で……」
 一番始めに我に返ったのは橘(佐々木)。しかし狐につままれたようなおっかなびっくりの表情は、いつものすました顔とは大違いである。加えて自慢の流暢な口調も影を潜めている。まるで熱々おでんを銜えたまま早口言葉を喋っているみたいだ。
「そうか。あいつがいた方が楽しかったんじゃないか? ハルヒのモノマネをやるとか言って、実際見ると朝比奈さんのほうが似ているんじゃないかって言うようなしぐさをする奴だ。ボケっぷりとしてはこれ以上ない逸材だと思うんだが」
「え……えと、あの……キョンくん、その……」
 自分の名前を出されてしどろもどろの橘(朝比奈さん)。手振りとアイコンタクトで何かを必死になって伝えようとしている。
「…………」
「…………」
「――――」
 対照的に澄ました顔をして見せるのは、ハルヒを除く残りの橘の入れ物に入った三人。
 ただしそのうち一人は俺を諌めるような表情を取っているが、無視する事にする。
 そして橘(ハルヒ)。こいつは微動だにせず、じっと俺の方を見ていた。顔も首も腕も足も、動き出そうとする気配は無い。
 ただ1つ。アヒルのように尖った唇を除いて。
 ――大体、俺の予想通りの反応だな、みんな。


「いないならしょうがないが……だが、俺個人としてはあいつの芸を楽しみにしてたんだ。何とかして召喚できないものかね」
 再び、辺りは沈黙した。
「なら、ここに来るように祈ればいいじゃないですか」
 ……いや、個ここで予想外の奴が喋りだした。喋りだしたそいつは、相変わらずのアヒル口のあいつであった。
「あの痛快変態女がいいなんて、どうかしてるのです。あんなのをまともに相手をしていたら、SOS団は衰退の一途を辿ってしまうのです」
 こいつの言うことももっともだ。即答で頷きたくなるがここは我慢のしどころである。
「そう言うな、あいつもああ見えて意外に常識人なところもあるんだ。もう少し鍛えれば団に入れてやってもいいんじゃないか?」
「……なら、あなたが一人で面倒を見てください。あたしは声を掛ける気なんてさらさらないのです。一生雑用係でもやってるといいのです」
 橘の口調のため分かりにくい事この上ないが、彼女の内に潜んでいるオーラは決して慈母あふれるものではなく、むしろその正反対である事はひしひしと感じられた。
「ああ、そうするかな」
 俺の言葉にその場は三度沈黙した。



「……帰ります」
 橘(ハルヒ)がそう呟いたのは、それから暫く経ってからのことだった。

 


 あいつが帰った後、皆が一様に黙りこくり、そして誰からというわけでもなくその場の後片づけが行われていた。
 黙っていると言っても決して何も喋らないというわけではない。実際燃えるゴミはどうとか、この飾りはまた使うからとか、そう言った会話は成立しているし、足音や清掃のざわつきはいつもと変わりない。
 しかし、先ほど俺がしでかした爆弾発言がよほどの禁句だったのか、逆に俺の行動を諫める奴が一人としていなかったのだ。先の発言に同意してくれているとは考えにくいので、ただ非難する機会を伺っているだけなのかも知れない。
 だが、少なくとも今はそう言うわけにはいかなかった。ここにはまだ一人、無関係な御仁が存在している。
「よぉーっし、これで全部終わりかいっ! それじゃあ悪いけど、ゴミは任せたよっ、キョンくん!」
 そのお方は俺やその他の奴らの考えなどお構いなしに、いつも彼女が持っているテンションを全く変えることなく掃除に励んでいる。この人がしょぼんとした姿を見るのは、ハルヒが同じ事をするより重大事件だと思う。
 なお、ゴミ云々の話だが、このまま持って帰るのも大変だろうし、裏で機関が働いているのならここで処分してもらった方が早いだろうと思って俺から提案したものだ。
『…………』
 その他橘ご一行様は何故か全員が全員疲れたような顔をして鶴屋さんの前に控えていた。少々睨みを効かせている奴もいるにはいたが、やっぱり気にしないことにする。
 同じ顔の奴数人に睨まれると結構恐怖だな。今までそんな経験がなかったから分からなかった。普段出来ない貴重な体験をできたし、ハルヒに感謝せねばなるまい。勿論嘘だ。
 まあそんな一人ノリツッコミはともかく、皆の気持ちが分からんでも無い。事なかれ主義を主張する各勢力の代表者がそれとは相反する事態――より重い方向へ導くことになってしまったのだから、それはごめんなさいと謝っておこう。
 だけど、俺にも考えがある。
 鶴屋さんが帰ってから話すつもりだ。帰ったら真相を話してやるから、間違っても早まった真似をしないように。
「ところでさキョンくん」突然切り出した。「橘さんって人は何者なんだいっ!? その名前が出てからみんな赤い顔だったのが真っ青になっちゃってびっくらこいたよっ! もしかして重要参考人の一人か何かかいっ!?」
『……!』
 一斉に沈黙した。
 まさかここで直球ど真ん中ストライクを投げてくるとは、地蔵や弥勒ですらお見通し出来ませんでしたよ……等と心の中で呟く。ええい、とりあえず適当な言い訳で誤魔化すとしよう。
「ええとですね、鶴屋さん、橘ってのは……」
「あたしは初耳だったんだけど……ん? 昨日キョンくんがそんな名前出してたっけ? 知り合いかなっ?」
 余計なことを覚えて……などといえるはずもない。
「ええ、まあ。ちょっと問題児ですが」
「うーん、問題児かいっ。でもそれはそれでぶちおっけー! パーティはみんなで楽しむものだからねっ! うんうん、キョンくんの意見ももっともだと思うんだ、お姉さんも。問題児だからって、扱いづらいからって無視しちゃ何も解決しないもんねっ!」
「…………」
「……あっ」
「う……」
「くっ……」
「そういったことは面と向き合って、本音をぶつけ合って解決していくのが青春だと思うのさ! 逃げちゃダメ! 真っ向勝負あるのみ! ……っと、関係ないことベラベラ喋りすぎたかな!? みんなゴメンゴ!」
『…………』
 鶴屋さんの言葉に、一斉に黙り込む一味。無論、俺もである。
 俺が言たかったことを全部代弁してくれるとは、さすがハルヒに選ばれし名誉団長様である。
「お姉さんちょっと調子に乗りすぎて喋りすぎたみたいさねっ。どうしても誘惑に勝てなくてさ! おりょっと、もうこんな時間かいっ!? 今からまたお稽古があるからおさきっ!! みくる~! 通り魔には気をつけるんだよっ!」
 矢継ぎ早にまくし立て、皆にさよならの一言すら与えずその場を去り、刹那の時を置いてその存在は霞のように消え去った。小型のハリケーンや、くのいちの様に俊敏である。
「……キョン、それじゃあ僕も帰るね」
「――帰る」
「……右に同じく」
「あ……わたしも。それじゃあまた」
 次々に扉を後にするクローン人間達。俺に対する非難の視線もどこへやら。既に過去のものとなっている。先程の鶴屋さんの言葉に感銘を受けたのかどうかは知らないが、俺の言わんとすることはある程度理解してくれたようだ。
 しかし、まだ一人帰らない奴がいた。そいつはとても男がしているとは思えないほど可愛らしい微笑みを携え、
「機関のすることが全て正しいとは僕も思っていません。信じていますよ。元の世界に帰ったとき、あなたのなさったことが正しかったと、胸を張って言えるように」
 そして皆に遅れて病室の扉から姿を消した。

 


 異世界に飛んでしまったのか、それとも個々の時間軸に対して姿形が同じ値をとるように仕向けられたかは知るよしもないが、少なくとも皆が皆、橘の姿に変わってしまったのは紛れもない事実である。
 それは決して望まぬ定めだと思っているし、元に戻したいと同時に願ってもいる。そのために何が必要か?どうすれば俺の住む世界に戻れるのか?
 ――元の世界に戻りたいと思う気持ち? その通り。実際俺は何度かそれを頼みにして平常ならぬ世界から戻ってきた実績がある。
 しかし、残念ながらそれは無理だ。この世界ではその法則が当てはまらない。
 なぜならば、ハルヒはこの世界が当然の世界として、常識として捉えているからだ。
『ああ見えて普通の女の子なのですよ、涼宮さんは』
 古泉の言葉が蘇る。非常識なことを求めながらも常識というものを驚く程わきまえているふしがある。その常識というのは普通の人間にとって言葉通りの意味であり、当たり前のこととして存在している。
 これでは俺が『元の世界に帰りたい』と言ったところで「はぁ?」みたいな顔をされるのは当然である。前回と同じ手は使えない。
 ならばどうするか? 散々考えたあげく導き出した答えが先ほどのアレである。
 つまりハルヒにとって忌み嫌う対象となっている、そして今回の事件の発端となっているであろう、橘京子の記憶をハルヒの脳内から呼び起こしたのだ。
 何となくではあるが、ハルヒは橘京子の存在を否定し、逃げ続けているような気がした。だから現実を見せるためにも彼女の名を出して事態を動かそうと思い立ったわけだ。波一つ立たない湖に投石して波紋を広げるかのように。
 だが、これをすると他の奴……宇宙人未来人超能力者共、といっても長門や朝比奈さんや古泉ではなく、各勢力の急進派等と揶揄される少数派に目をつけられ、安定していた世界を崩すような俺の行動に制裁を加えようとする輩つきまとわれ……
 最悪、暗殺されるかもしれない。
 だけどな、だからといってこの世界を受け入れる程悟った人間じゃないんだよ、俺は。
 涼宮さんがそう望んだからとか、既定事項ですからとか、情報観測のためなんて言い訳は聞き飽きた。用はこいつの好きにさせろってことを言いたいんだろ、みんな。
 それは分かっている。そうしないとぐちゃぐちゃにかき混ぜてしまうんだろ、三歳児のお子様ランチみたいに。
 だけどな、好き勝手にやらせていたらろくな大人にならないぜ。叱ってやるのも重要なことだ。
 誰かが言い出さないことには、このイカれて尋常じゃない世界がありきたりで平凡な世界になってしまうんぞ。本当にそれでいいのか?
 エイリアンやエスパーやタイムトラベラーがいいって言っても、俺は嫌だね。

 一か八かの賭であったことは否定しない。下手をしたらこの世界どころか、俺の存在自身も危ぶまれることになるだろう。
 しかし、俺は何とかこうして生きながらえているし、先ほどの橘(古泉)の様子から見ても神様の心理的状況に危機的状況は迎えてなさそうである。
 これで事態が動けばいいのだが……
 懸念材料もある。ハルヒが橘の存在を忘れようとしているのならば、何故あいつは皆を橘の姿に変えてしまったのだろうか? 本当に存在を消したいのであれば、俺たちと関わりのない、他校の生徒にでもすればいいわけだ。
 それに、未だ姿を現さないのも気にかかる。存在そのものが確認されているのに、これは時間がかかりすぎだ。
 昨日から名前は出てくるものの、この世界にやってきて一度たりとも姿を見せない。少なくとも存在はしていると思うのだが、もしかしたら違う生き物になってその辺を徘徊している可能性だってありえるが……そこは考えないようにしよう。
 やっぱり、あいつを見つけないことには事態は動きそうにないのか。
「やれやれ」
 今回ばかりは長期戦になるかも知れないな……



 しかしこの後、俺の思いとは裏腹に、全く予想しなかった出来事が発生した。

 


 皆が帰って暫くした後、橘(ハルヒ)から連絡を受けた俺の家族が見舞いに来てくれた。
 検査入院なので何も心配は要らないね、着替えだけ置いていくから、他の患者さんに迷惑を掛けないようにとだけ言い残して俺の母親はものの30分程度で病室を後にした。
 確かに心配するような症状は無いのだが、それでも重病の可能性だってあるんだから少しは心配しろと軽いツッコミを心の中で入れたりもした。
 意外だったのが妹で、かなり心配そうな顔つきをしたかと思えば『キョンくん大丈夫? 痛くない? リンゴ剥いてあげるね』と俺の涙腺を緩和させるような発言と行動をしてくださったのだ。兄として、初めて妹を持った嬉しさを感じたね。流石は中学生だ。
 これであと俺を呼ぶときの呼称が『お兄様』とか『お兄ちゃん』になったら、将来結婚するとき挨拶に来た婿殿に『お前に大切な妹はやれん!』と言ってやれるぞ。親父に代わって。
 もちろん冗談だ。

 家族との面談が終わったあとは特に特別なことはしていない。据え置きのDVD(洋画のアクション映画だった)を見て、配給された夕食を食べ、シャワーを浴びて、ニュースを見ながら眠くなったのでそのまま床についた。
 おいおい、昼間は橘京子を探しに行くって言ったのに、もう諦めたのか? 他人にまかせっきりにすることは止めて自ら行動することを誓ったんじゃないのか? って意見もあるとは思う。
 そうしたいのは山々なのだが、俺が外に出ようとすると慌てて病院のスタッフが止めにはいるのだ。士長さんや医長さん総出で『あと一日の猶予を』等と言うもんだから、不作なのにも拘わらず年貢を取り立てに来た極悪非道の悪代官になった気分だ。
 しかし何の罪もない一般市民を苛めるような度胸は生憎持ちあわせていない。実際俺は仏道に帰依した後の鬼子母神並に慈悲深いのだ。
 ……本当だって。でなきゃハルヒや佐々木、そして橘にあれだけ関わりになろうなんて思わない。
 それはともかく、そんなわけだから俺はこの部屋から出ることが出来きず、ただただこうやって一日が過ぎるのを待っていた。
 もしかしたら監視されているのかもしれない。そんなことも考えるには考えが、この人たちは普通の人間だ。森さんによって病院のスタッフ全員が脅されたと考えた方が納得がいく。
 その森さんだが、昼に会ってから一度も姿を現していない。恐らく必死になって橘一派を捜しているのだろう。そう信じたい。

 機関からの連絡がないと言うことは、事態が大きく動いていない。それと同義だと思う。世界改変を着々と進めているであろう涼宮ハルヒは、今のところ深層心理内で特別な事件を起こそうとはしていない。そう結論付けた。
 早く元の世界に帰りたいのは山々だし、俺も散々同じ事を申し上げている。
 しかし、タイムリミットはまだありそうだし、それに機関が全力を挙げて元凶である橘京子の存在を追っている。
 ならば俺がすべき事は、来たる日に備えて体力をつけることだと思う。だから今日は早めに寝る。
 決してこの世界の居心地が言い訳じゃないからな。重ねて言っておが、俺は元の世界に早く戻りたいんだ。
 というわけだ。それじゃあおやすみなさい……


 ………
 ……
 …


 ――目を覚ましたのは、それから何時間経ったときのことだろうか?
 窓をそっと見る。中天に光り輝く満月は、カーテン越しからもその存在をアピールしていた。
 俺が目を覚ました理由。それは満月の光があまりにも眩しかったから――ではない。

 ガサッ ゴソッ

 ――物音が聞こえる。
 音の感じからして、今俺が背を向けている側、即ちソファーやテーブルが並んでいる場所の辺りか。
(泥棒か……?)
 機関直轄の病院に潜入して物盗りとは……なかなか勇気のある奴である。
 このまま黙って見過ごすか、それともナースコールで呼び出して泥棒をとっつかまえるか。
 決心がつかないまま、数分の時が流れる。泥棒は未だ物色をしているのか、小さな音を立てているもののこの部屋から退散しようとする気配はまるで見られない。
(通報した方が良いな)
 ようやく決心し、ベルを鳴らそうと……あ。
(しまった、呼び出しベルは逆方向じゃないか)
 俺は今、窓側を向いて寝そべっているが、呼び出しベルはその逆側にあった。しかも長いこと入院しているわけではないため、正確な位置も分からない。
 つまり、一度反対側に顔を向けなければベルを鳴らすこともままならない。反対向きに手を伸ばすのは明らかに不自然だ。かといって急に半回転するのも怪しい動きだと懸念されかねない。
(寝返りの真似をするしかない。うまくできればいいだが……)
 むずむずと体を小刻みに動かし、今にも寝返りを打とうとする仕草を軽くアピールする。こういった小芝居は重要で、相手の注目も逸れやすい。
 何度かそのモーションを反復した後、えいやっと寝返りを打つ。やる時は一気にした方が後腐れもないし、逆に怪しまれない。
 成功だ。
 だが向こうに見える人影は特別なリアクションを取る出もなく、ひたすらガサコソと微少な雑音を奏でている。むしろ拍子抜けだ。
 こっちが苦労して寝返りを打ったってのに、全く反応なしかよ。人様のところに泥棒に入って身動きする物を見つければ、多少なりとも身動き止まるぞ、普通。
 何だか腹が立ってきた。コールする前に間抜け面を拝んでやる。明日の新聞の写真に載るであろうその顔に悪戯書きでもしてやろうか。
 等と思いつつ、薄目を空けて物音を立てる方へと目をやった。
 そこには、確かに揺れ動く人影があった。だが全容を知るのは不可能に近い。いくら月明かりがあろうとも、絶対的な闇の前では些細な物に過ぎず、ついでに薄目の状態ではきっちり見ることはできない。
 せめて、もう少しこっちに来てくれれば助かるんだが……

『!? ……ぁぇ!!』

 そう思った矢先。影は性急且つ鋭敏な動きを見せた。
 悲鳴だか鳴き声だか分からない、だけど押し殺した悲鳴を上げたかと思えば、辺りをきょろきょろと見渡し、そしてこちらに近づいてきたのだ。
 俺の事存在などなりふり構わず近づき……そして通り過ぎた。
(???)
 俺はあまりの事に、寝ているふりすら中断し、通り過ぎた方向……洗面台の方へと目をやった。
 洗面台に設置された鏡は月の光を反射し、犯人の顔を艶やかに照らし出す。
 照らし出された顔は再び鏡に映り込み、俺の視線へとその情報を伝達する。
「な……」
 絶句した。
 泥棒は――俺の部屋に忍びこんだ彼女は、俺の声に気づいているだろうか?
「あ゛あ゛……辛かったですぅ……」
 続いて聞こえるの少女の悲鳴(?)。
「シュークリームの中に唐辛子とマスタードを入れるなんて、フランス文化を冒涜していますよ~」
 どうやら、昼に行ったパーティのイベントの一つ、『ロシアンルーレットで今後の運試し』で使用したアタリ用シュークリームがお気に召さなかったようだ。
「ううう……ひどいです、ひどいです~。色が似ていたからカスタードクリームと間違えちゃいました。一生の不覚なのですぅ」
 このひどい天然っぷり。さしもの神様も、性格まで一緒にさせるには時間と勇気が必要だ。そしてその二つとも未達成のはずだ。
 間違い、ない。


「こうなったら訴えてやるのです」
「じゃあ俺も訴えるかな。住居侵入と窃盗の罪で」
「ふぇ? ……ああっ!」

 


 突如聞こえた声に振り向き、感嘆とも驚愕ともとれる叫び声を上げる少女。

「きょ、キョンくん……キョンくんですか?」

「そう言うお前は本物のお前なのか?」

「あったりまえなのです! あたしを誰だと思ってるんですか!」

「誘拐少女に続く窃盗少女……いや、ただ食い少女の方が良いのか?」

「ひ、ひどいですぅ!!」

「冗談だ。……しかし、無事だったんだな。お前」

「ううっ、キョンくん……会いたかったです~」



 少女は――栗色の髪を二つに束ねた少女は、目を潤ませながら、手を広げて俺に迫ってきた。
 彼女の思いに答えるべく、俺も両手を挙げ――



「せいりゃ!!」
「へぶしっ!!!」



 ――両手で振りかぶった特大ハリセンを、こいつの後頭部目がけて思いっきり殴ってやった。
「勝手に他人の部屋に入り込んで、人様のものを盗み食いするな」


 ……この、馬鹿橘。

 


「いったーい! 何するんですかぁ!!」
 橘(恐らく本物だがまだ断定できない)は、思ったよりも早く復活した。
「何でそんな物持ってるの! 聞いてないです!」
 言った覚えはないから当然だ。
「そうじゃなくて!」
「昼に使った道具の一つだ」
 パーティの片付けが終わって皆が帰った後、俺のベッドの上に忘れていったのをそのままにしてたんだ。今思うと、神様のお告げだったのかも知れないな。お前の頭を殴るようにって。
「そんなふざけた神様いません!」
 佐々木なら案外そう思っていたりするわけだが……それは敢えて口にしないようにしておく。さすがに可愛そうな気がしてきた。橘(何だか本物の気がしてきた)を失墜させるのはもう少し後になってからの方がいい。
「それより、お前丈夫だな」
「当たり前です! これくらい佐々木さんの繰り出す黄金の右フックに比べたら屁でもありません!」
 ……そうですか。
「敵を倒すには一撃必殺なのです! もっと腰を入れなきゃ、相手に与えるダメージが半減してしまいます。……ちょっと貸してください」
 橘(アホさは本物とうり二つ)は、俺からハリセンを奪い取った。そしていきなり素振りをし始めたのだ。
「ふぅん!!ほいっ!! こうですよ、こう!! 分かりましたか、キョンくん!!」
「…………」
「あれ? どうしたんですか? そんなにまじまじとあたしを見て。て、照れるじゃないですか……」
 ……うむ。
「橘」
「は、はい。何でしょうか?」
「お前……」
「そ、そんなに見つめないで……」
「やっぱり馬鹿だな」
「え゛」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」


「う、うわぁぁぁ~ん!!!」


 暫く固まっていた橘(本物率120%を突破。なおも上昇中)は、いつもの如く泣き出して、そして俺のベッドを占領した。
 いやあ、本物かどうか確認するためにまじまじと見ていたのだが、ここまでお馬鹿さんだと疑いの余地もないな。
 決定。こいつはモノホンの橘京子である。特典として、これから橘(〇〇)のカッコの中は省略して呼ぶことにしてあげよう。

「あたし一生懸命やったのにぃ~! 『こらっ、まったくお茶目さんなんだから☆』って言ってもらって、好感度アップ♪ すると思ってたのにぃ~!!!」
 本物と認定したとたんそれか……絶対突っ込んでやらん。
「キョンくんを助けようと、監視の厳しいこの病院を必死になってここまで潜入したのにぃ~! こんな扱いじゃ元の世界と何も変わらないじゃないですかぁ!! ふぇええ~ん……」
 ……お前はどの世界にいても変わりない……って?
「元の世界だと?」
 誓いを早速反故にして思わず突っ込んだ。
「あ……」と布団から体を離し、ベッドの上で正座する橘。「そうなのです。あたしがここへ来た理由は、元の世界に戻るために力を貸して欲しいからです」
 お前は、元の世界の記憶があるのか? この世界で何が行われているのか把握しているのか? いや、それ以前にお前は何をしたんだ!?
「そんなにいっぺんに質問しないでください、今から説明しますね」
 橘は普段のおちゃらけ具合とは正反対の真面目な顔を見せた。
「あたしや、あたしが属する組織は、世界がおかしくなってからずっと調査をしていたのです。その結果、この世界はある一つの価値観に収束していくことがわかったのです」
 ある一つの価値観?
「それは、没個性の世界――言うなれば、全て同じ顔、性格、姿をした世界。この数日で、あたしたちが元にいた世界とその世界が徐々に入れ替わりつつあるようなんです。そしてその価値観の代表として、何故かあたしが選ばれたのです」
 ――このまま放っておくと、そのうち世界が完全に入れ替わり、存在する人間はあたしだけになってしまう可能性が出てきました。それをどうにかして防ごうと思って、キョンくんにお願いしにきたんです――
 突如、寒気が俺の全身にまとわりついた。超臨界ヘリウム流体すら凍り付かせる戦慄が、俺を雁字搦めにして離れない。


「橘だけの世界……だと?」
 


 ちょっと考えて見て欲しい。
 朝起きたら橘がボディアタックをかまして、授業が始まったら点呼を取る橘がいて、嫌みったらしい声で数式を説明する橘がいて、昼飯は橘二人と飯を食い、放課後にゃ進路指導室で橘に説教される。
 俺と談話を繰り広げる相手は橘しかいなくて、体育の着替えの時間も橘が一斉に服を脱ぎだし、橘と橘のカップルが仲睦まじく下校する。そんな光景が当たり前になっていく。
 家に帰ってテレビをつけたら橘の顔をした政治評論家が同じ顔の総理大臣を非難し、バラエティでは、大御所俳優の橘が新人漫才師である橘をいじって大笑い。
 そして……そして……。
 青少年の生きる糧である、あんなものやこんなもの。それら出演しているのは全て貧――

 


「絶対それだけは避けたい! 命に代えてでも阻止してやる!」
 気づくと、絶叫に絶叫を重ねていた。
「ありがとうございます……ですが、素直に喜んだら負けかな、なんて考えが一瞬過ぎったのですが気のせいでしょうか……?」
 考えるな。多分落ち込むぞお前。
「それより、どうやって知ったんだ、そんなこと。機関の連中だってそこまで正確なことは把握してなかったと思うんだが」
「それは……ちょっとまだ言えません。ごめんなさい。でも、涼宮さんの能力が関係しているのは確かです。今のところ涼宮さんに近しい人と本人にしか力は発動してないようです。特に本人に関しては進行状況が著しいみたいですね」
「だからハルヒだけ橘になる進行速度が速かったんだな。……たく、相変わらず変なことを考えやがって……」
「まだ猶予はあるとは思いますが、不安定なこの世界では状況が一転する可能性だってあります。早めに行動するに越したことはありません。早速ですが行きましょう」
 行くったって、どこにだ?
 橘はにっこりと笑みを浮かべた。
「もちろん……」
 皆まで言わなくても分かった。閉鎖空間なんだろうな、やっぱり……
「……そう、ですね。まあそんなところです。そのためにキョンくんの力が必要なのです。だから元の世界の戻れるように努力しましょう。今回ちょっと出演するのが遅れましたから、出遅れた分いつもの3割……いえ、3倍の力を振り絞って働きます!」
 3倍ボケをかますのだけは止めてくれ。せっかくここまでボケらしいボケはない方向でやってきたんだから、俺の努力を無に帰す事だけは慎んでいただきたい。
「何の話ですか?」
「いや、何でもない。こっちの話だ」
「まあ、いいでしょう。あたしが頑張らなくちゃ!」
 気合い一閃、橘は頬をパンパンと叩いた。いつものオトボケお馬鹿KYキャラは姿を顰め、真剣でまともで素直で、そしてなかなかのリーダーシップを発揮していた。
 やるじゃないか。いつもこうだったら俺だって……
「ん? どうしましたか?」
 ……何でもない。
「ふふっ、変なキョンくんですね。では行きましょう!!」
 そう言って橘は立ち上がり――


「うきゃ!」
 こけた。



「い……いたたたたっ、足が痺れたぁ……。た、助けてください、キョンくん……」



 ――一瞬でもこいつを賞賛した俺が馬鹿だった。付いていく気力がまるっきり無くなったんだが……
 ……キャンセルは無理だろうな、これ。


橘京子の分裂(後編)に続く

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最終更新:2020年03月12日 00:44