ここはいったいどこだろう。数人の同い年の男女に取り囲まれて下校する最中、右手には黒い筒を持っている。この筒には見覚えがある。確か卒業証書が入っている筒だ。
そうだ、思い出した。今日は卒業式の日だ。そして、周囲にいるのはクラスメートの面々だ。だが、その顔は黒い影になってよく見えない。
通いなれた通学路。途中にある公園では幼い子供達がはしゃぎ、その様子を母親と思しき女性が見守っていた。遊具も、子供達も、母親達も、そして周囲にいるクラスメートも、すべてが黄昏色に染まっている。
真っ赤に染まったその風景がとても幻想的で、まるで夢の中にいるみたいだ。懐かしさすら感じさせるその風景は、時間の感覚さえも狂わせ、既視感にも似た感覚に陥る。
周囲にいる少年少女がこれから進む進路に期待と不安を膨らませてわいわいとしゃべっている光景を見て、ふと何か大切なことを忘れてしまっているような不安に襲われた。
そう、確か朝起きた時、今日こそあることを実行しようと決意をして家を出たはずなのだが、それが何かを思い出すことができない。いったい何をしようと決意したのだろうか。それはとても大切なことだったはずなのだが……
しかし、矛盾に思えるかもしれないが、俺はもう既に知っていた。その決意が実行に移されることがないということを。
やがて、ひとりまたひとりと集団の輪の中からクラスメートが離れてゆき、気がつけばショートカットの女子と俺だけが取り残されたように家路を共にしていた。
そうだ、思い出した。今日、彼女に伝えなければならないことがあったのだ。どうして忘れていたのだろう。こんな大事なことを。人生を左右しかねないほど重大な決断だったはずなのに。
しかし、そこまで思い出した後も、俺の中の不安は解消されたわけではなかった。なぜなら、伝えるべき内容が思い出せなかったからだ。
彼女の顔を覗き見ると、彼女も、期待と不安の入り混じったような表情で、俺が言葉をかけるその時を待っているようだった。だが、俺の中には伝えるべき言葉が見つからない。
前を向くと、視界の端に自宅が既に見えている。後、数十メートル歩けば、彼女と別れなければならないのだ。
伝えなければならない言葉が見つからず気が焦る一方で、伝えることができないという確信にも似た予感が、頭の中でせめぎあっていた。
そして、伝える言葉が見つからないまま自宅の前まで来てしまう。ショートカットの女子は、残念そうにちょっとだけ微笑んだ後、そのまま手を振って彼女の家路へと帰ってゆく。
彼女をこのまま帰らせてしまっていいのか? 今日は卒業式、もう二度と会えなくなるかもしれないのに。さあ、早く伝えるんだ。でも、いったい何を?
頭の中をぐるぐるとさまざまな思いが駆け巡る。ふと顔を上げると、離れていく彼女の後姿がとても寂しげで、言葉では表せない感情が胸にこみ上げてくるのが分かった。
俺は、咄嗟に彼女に駆け寄ると、立ち去ろうとする彼女の肩を掴む。彼女は少し驚いたような表情で振り返り、期待の眼差しで俺をじっと見つめた。
伝えるべき魔法の言葉。
思い出せなかったはずのその言葉を、なぜかこのとき俺は知っていた。その言葉を声にしよう口を開いたその瞬間、
「キョンくん」
背後から俺を呼ぶ声が聞こえた。
「キョンくん、朝だよ。起きないと遅刻するよ」
目を開けると、ぼんやりと見慣れた天井と白い蛍光灯が見えて、俺はようやくそれが夢であることに気がついた。
 
 
~第一章 非日常は突然に~
 
 
三月上旬、まだ肌寒く感じられる風が桜の花びらを舞い散らし、だんだんと暖かくなる日差しが春の訪れを告げる。周囲には同じ北高の制服を着た男女が普段と同じように登校していた。
何気ない日常の風景。
数日後に訪れる卒業式の日に、思い出のたくさん詰まった学び舎との別れを告げることを少しだけ名残惜しく思いながら、それでもその先に訪れる大学生活に期待と不安を抱き、北高へと続く坂道を登っていた。
SOS団のメンバーは、みんな同じ大学へと進学を決めていた。その大学は、俺にとっては高嶺の花のような一流校に思えたが、ハルヒの実力からすれば物足りない程度の大学だった。
それでも、みんなが同じ大学に入学できたことは、もしかすると宇宙的、未来的、超能力的な力が介在していたのかもしれない。まあ、こうなることは随分前から予想していたことだが……
『大学に入学した後もハルヒに振り回される日々が続くのか』といった半ば諦めにも似た感情と、振り回されることをどこかで期待している感情が心の中で交錯する。
思い返せば、俺の高校三年間はハルヒに振り回される毎日だった。そのせいかハルヒのいない日常というものを、想像できなくなっている自分がいることに気づく。
だから、ハルヒが珍しく体調を崩して休んでしまったような日には、どこか日常の一部が欠けてしまったような物足りなさを感じたこともあった。それほどまでにハルヒに毒されていることに気づき、愕然としたものだ。
だが、それも含めて、いまの自分の置かれた状況に不満はない。だから、大学に入学した後も、同じような生活が続いて欲しいと思っていたし、そうなるものだと思い込んでいた。
教室に入り、後ろの席を見ると、席の主はまだ登校してきていないようだった。
「珍しいこともあるものだな」
たいして疑問にも思わず席に着くと、斜め前の席の谷口が恨めしそうな表情でいつもの愚痴を口にし始めた。
「キョン~、なんでだよ~、俺は四月から予備校通いだというのに、どうして俺と同じぐらいの成績の悪かったお前が春から大学生になれるんだ。強いコネでもあったのか、それとも実弾でもばら撒いたのか」
通常ではない力が介在した可能性は認めよう。だが、それはあくまで可能性に過ぎない。お前と俺では最後の追い込みの努力の仕方が違っただろう。お前は早々に諦めていたじゃないか。
「それは仕方がないよ。だって谷口はかなり早い時期から進学は諦めていたじゃないか。それに比べてキョンは最後の最後まで諦めなかったんだから」
言いたかったことを国木田が代弁してくれたようだ。ちなみにこの男は谷口が諦めるよりも早く推薦で合格を勝ち取り、早々に受験戦争から離脱して高みの見物を決め込んでいた。
「ちっ、推薦で合格した奴なんかに説教されたくねえよ」
その気持ちはちょっとだけ理解できるぞ谷口。俺も合格が決まるまではそう思ったものだ。だがな谷口、推薦は日々の努力が実を結んだ結果なんだからお前にそれを非難する資格はないと思うぞ。
色々と谷口に言いたいことはあったが、口にするのは止めておいた。一歩間違えれば、自分が今の谷口の立場になっていた可能性もあるからだ。
「くそう、どいつもこいつも俺をバカにしやがって! 見てろ、必ず来年は合格してやるからな! 予備校でかわいい女と知り合いになれても、お前らには紹介してやらないからな」
谷口……そんな考え方じゃ、来年も駄目なんじゃないか。
そんなやりとりをしていると、岡部がいつものように教室へと入ってきた。ハルヒは休みなのか。今日も後ろの席を気にしながら椅子に座る。こんな癖がついてしまったのもハルヒのせいだ。
そんなことを考えながらも、変わらぬ日常が続くと信じていた期待は、岡部が開口一番に告げた言葉により、脆くも打ち砕かれることとなった。
教壇に立った岡部は、教室を見回してみんなが席に座ったことを確認してから、おもむろに口を開いた。
「もしかしたら知っている者もいるかもしれないが、涼宮が留学のため、昨日を最後にみんなとお別れをすることとなった。急なことなのでみんなにお別れの挨拶もできな―――――――」
「なんだって!!」
思わず立ち上がって叫んでしまった。岡部の告げた内容はそれほどに予想外のものだったからだ。教室にいる全員の視線が集中する。
「あ、いや」
コホンとひとつ咳払いをして、俺は静かに席に座った。
クスクスと笑う声や、「もしかしてキョン何も知らされてなったのか、あれだけ傍にいたのに」といったヒソヒソ話が教室のどこからともなく聞こえてくる。だが、そんな声は耳に入らないくらい俺は戸惑っていた。
どういうことだ。そんな話はまったく聞いてないぞ。朝倉じゃあるまいし、この時期に外国に行くなんて。これは宇宙的、未来的、超能力的な力が介在しているに違いない。となれば、すぐにでも長門か古泉に相談せねばなるまい。
すぐにこの後とるべき行動を考えることができたのは、この三年間で俺の危機対応能力が向上したせいなのかもしれない。
岡部の言葉を聞いた後は、すべてのことに上の空で黒板の上にある時計を見つめ、ホームルームが終わるのをと今か今かと待ちわびていた。
 
 
あまりにも予想外の出来事に、ホームルームで何をしたのかほとんど覚えていない。そもそも大学合格は既に決まっているのだから、高校に毎日来なくてもいい気がするくらいなのだが、SOS団は年中無休で活動中なのだから仕方がない。
休み時間のチャイムが鳴るや否や、教室を飛び出して古泉のいる9組へと向かった。ホームルームの最中に何度かメールは送ったのだが、一向に返事がないので直接会いに行くほかない。
一応、九組に行く途中で長門の教室を見回したが、案の定長門の姿は見当たらない。おそらく文芸部室にいるだろう。ここからはちょっと遠いため、まずは古泉に相談してみよう。
廊下を小走りに駆け抜けている最中に、ふと二年前の冬にもハルヒが消失した事件があったことを思い出した。あの時は確か九組自体が北高から消失していたっけ。
八組の向こうにある九組が視界に入り、少しだけ胸を撫で下ろした。早速、教室の中に入り古泉の姿を探すが、古泉の姿はどこにも見当たらない。
「すみません、古泉がどこに行ったか知りませんか」
すぐそこにいたポニーテールの女子に尋ねると、少しだけ首をかしげた後、隣にいた眼鏡っ娘に話を振る。
「そういえば、今日は古泉くんの姿を見てないわね。ねえ、古泉くんって今日休んでたっけ?」
「え、さあ、知らない。でも、古泉くんもう大学合格してるんでしょ。だったら無理に来なくてもいいんじゃない。他にも来てない子たくさんいるし……」
「ほら、彼、例のSOS団の……、古泉くんは休みたくても、涼宮さんが許してくれないのよ」
「あ、そっか。でも、今日は朝から見てないわよ。休みなんじゃないかしら。いまごろは涼宮さんとデートでもしてるんじゃない」
「それはないわよ。涼宮さんの彼氏は彼なんだから。古泉くんはフリーって聞いてるわ」
「え、そうなの。だったらわたしが彼女に立候補しとけばよかったなあ」
「あんたじゃ無理よ。せいぜい親しい友人止まりが関の山だわ」
その場にいた数人の女子が話題を膨らませ、だんだんと話が逸れてきたので、早々に九組から立ち去ることにした。
今のところ周囲に常識を逸脱した現象は生じていないが、何度も非常識な経験をした本能が重大な危機であることを訴えかけてくる。
休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴ったため、いったん教室に戻り、さっきのホームルームと同じように時計と睨めっこしながら、早く休み時間になれと心の中で念じていた。
ふと、視線を前方の席に向けると、谷口がニヤニヤとした顔でこちらを見ていた。
「天罰だ! 俺を見捨てて大学に進学なんかするからだ」
谷口の心の声が聞こえてくるような気がした。谷口のニヤニヤ顔がとても小憎たらしく感じてイラつきを覚えていると、国木田が俺と谷口の様子に気づき、谷口の背中をつついてたしなめる。
谷口は疎ましそうに国木田を一瞥した後、拗ねたような表情をして前を向いた。
くそう、谷口の奴め! こっちはお前とじゃれあっている暇などないのに。
俺は谷口から目をそらし、時計をにらみながら、秒針がゆっくりと動いていくのを凝視していた。
 
 
ようやく休み時間になったので、俺は早足で廊下を駆け抜け、文芸部室のある旧館へと向かった。教室を出るとき、谷口が俺に声をかけようとしていたがあえて無視した。
胸にこみ上げてくる不安を抑え冷静になれと自分に言い聞かせながら、文芸部室の扉の前まで来て深呼吸をした後、おもむろに扉を開ける。
だが、そこには見慣れたショートカットの少女の姿はなく、ただ雑然と長机と椅子が並べられているだけであった。
この状況を目の当たりにして、非常識な経験をしたことがない頃であれば、偶然長門と古泉の休みが重なったと信じることができただろうか。あいにく、いまの俺の脳みそはそこまでお気楽な思考回路をしていなかったらしい。
確信した。俺の知らないところで何か常識外の現象が起きているに違いない。
だがこれは、いよいよもって危機的状況だ。前回ハルヒがいなくなったときは長門がいてくれたが、今回は誰一人ヒントをくれるものがいない。途方にくれかけた俺は藁をもつかむ気持ちで最後の砦である朝比奈さんの下宿先へと足を向けた。
まだ、学校は終わっていなかったが、そんなことを心配する余裕はなかった。だいたい授業のほとんどは自主学習の時間に当てられているし、大学合格が決まっているのだからこれ以上勉強する必要がないからな。
もし、下宿先の朝比奈さんまでもが消えていたらジ・エンドである。まったくヒントのない問題すら分からない難問を解けと言われているのに等しい状況に陥ることになる。
下駄箱に上履きを放り込み『もし朝比奈さんがいなかったら』といった不安に押しつぶされそうになりながら校門付近まで来ると、そこには見慣れた黒い車が止まっていた。
後部のドアが開き、妙齢の女性が下りてきて俺のほうに一礼をする。
「森さん……」
「唐突な状況の変化に戸惑っていらっしゃるご様子で」
落ち着き払った様子でそう言い放った森さんの様子を見て、ほんの少しだけ安堵した。森さんの落ち着いた様子から、予想に反して重大な事態には至っていないのではないかと思ったからだ。
「森さん! いったい何があったのですか? ハルヒがいきなり留学するだなんて……」
「疑問に思うことはたくさんあろうかと思いますが、まずはお乗りください。お話は車の中で」
森さんは片手を車の方向へと差し出して、車に乗るように促した。森さんを一瞥してから車に乗り込むと、運転席には新川さんが座っていた。
朝比奈さんが誘拐されたときの状況が頭をよぎる。あの時も確かこの布陣だった気がする。バタンとドアが閉まる音がして、車はゆっくりと動き出した。
「さて、涼宮さんのことですが……」
じっと森さんの目を見つめると、少しだけ口ごもった様子を見せた後、彼女は普段の様子で淡々と語りだした。
「実は、わたくしどもはどうやら涼宮さんに関して重大な思い違いをしていたようなのです。そして長門有希、朝比奈みくる、古泉一樹の属するそれぞれの勢力による話し合いの結果、わたくしどもはひとつの結論に到達しました。
それはわたくしどもも十分納得できる結論であり、情報統合思念体や未来人の勢力も賛同したのですが、古泉はその結論に納得がいかず、わたくしどものもとから飛び出してしまったのです」
いきなり突拍子もない話を聞かされ、俺は目を白黒にして戸惑うしかなかった。そもそも、森さんの言っていることが今回の件にどう関係しているかすらよくわからない。
「森さん! 言ってる事がよくわかりません。ハルヒは無事なんですか? 古泉はいったいどうなったのですか? その結論とはいったい何なのですか?」
立て続けに質問をぶつけると、森さんは一瞬だけ暗い表情をしてうつむいた後、顔を上げてじっと俺の目を見つめて言った。
「いまは、わたくしどもの導き出した結論をお伝えすることはできません。ですが、いつか必ずお伝えすると約束いたします。古泉に関してなのですが、いまわたくしどもも探している最中です。近日中に保護できると思っております。
後、涼宮さんの件なのですが、あなたがあの方にお会いになれば、涼宮さんの面影を見ることになるでしょう。そのときは、きっとあなた様も納得されると信じています」
森さんの説明を再び聞いても、やはり状況がよくわからなかった。むしろ何かを誤魔化そうとしているような感じさえ受けた。それを問い詰めようと口を開こうとした時、運転席から新川さんが口を挟んできた。
「不審に思われていることは重々承知してますが、これで納得してください。森は古泉が小さな子供の時から、あいつのことを知っているのです。わたしもそうです。我々にとって古泉は家族も同然なのです。
だから、古泉やその大切な友人であるあなたが困るようなことをするつもりはございません。今日はただ一言『安心してください』ということをお伝えしたいがために、あなた様の前に参上したのでございます。
今は説明を十分にはできませんが、どうぞお察しください。決してあなたや古泉にとって悪いようには致しませんから」
そう言い放った新川さんの声には無言の圧力のようなものがこもっており、これ以上何かを問いただすことができなかった。しばらく車内に沈黙が流れた後、車は俺の自宅の前で停車した。
「何もご心配なさらず普段どおりお過ごしください。そのうち、あの方があなた様の前に現れて、すべてをご説明されるはずですから」
無言のまま車のドアを開けて、自宅の前へと降り立つと、バタンとドアの閉まる音が背後でして、車は何事もなかったかのようにそのまま滑るように走り去っていった。
ふと、森さんの言葉を思い返して、あるキーワードが心に引っかかった。
『あの方』
ハッとなって、車の走り去った方向を振り向くが、そのときにはもう車の姿は見えなくなっていた。
 


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