「久しぶりにオセロでもやらないか?古泉」
古泉君がきちんと整列した真っ白い歯を輝かせ、微笑む。
「長門、この前貸してくれたあの本、思いの他面白くてさ。昨日の夜もつい遅くまで読み耽ってたぜ」
有希が膝の上に置かれた本を黙読することを中断し、ゆっくりと顔をあげる。
「いやあ、朝比奈さんの淹れたお茶は何時飲んでもおいしいなあ」
みくるちゃんがお盆を抱え、少し頬を赤らめた。
 
いつもと何ら変わりの無い放課後だった。
 
 
今日もこうして時間は過ぎ、日が暮れる頃にハードカバーの閉じる音がした。
下校の合図。これもごく日常的な習慣。
 
次々と席を立ち、帰り支度をした後に、
「それでは、皆さんお気をつけて」
まずは古泉君が、
「……また明日」
その次に有希が文芸部室を後にする。これもごく日常的な帰宅の流れだ。
 
「それじゃあ…着替えるから」
そしてみくるちゃんが、
「待っててくださいね、キョン君」
とはにかむ。
 
いつもと何ら変わりの無い放課後だった。

 
 
鮮明に刻まれた記憶。身体と車が接触する瞬間。
それはすれ違い様に肩と肩をぶつけることとまるで変わらない、ほんの一瞬の出来事。
その一瞬の間にあたしは、「嗚呼、スローモーションになんてならないじゃない」、そんなことを辛うじて考えていたような気がする。
 
命の終わりなど本当に呆気ない。
そうして、あたしは死んだ。今から丁度一ヶ月前の出来事だ。
 
けれどあの時、事故に遭ったのはあたしだけではなかった。
キョン。
一緒に事故に遭ったキョンは奇跡的に無傷だった。
 
あたしは死に、そしてアイツは生きている。
 
 
あたしという存在を無かったことにして。
 
 

 ――涼宮ハルヒの忘却――
 
 
 
あたしは毎日、キョンが「あたしの存在など無かったかのように」過ごすのを傍観している。
事故の日から今日まで、誰一人あたしのことについて触れることは無かった。
不自然に置かれている団長席、教室の机。それについてすらも誰も疑念を抱かない。
忘れてしまっているのだ。キョンは勿論、みくるちゃんも有希も古泉君も、谷口も国木田も鶴屋さんも、終いには家族でさえもあたしのことを忘れている。
あたしの部屋はあたしが使用していたそのままで残っているにも関わらず、家には遺影も位牌も置かれていない。葬式だって行われた様子は無い。
あたしの生きた痕跡が残る中で、『存在が無かった』と自然に振舞っている姿は苦笑してしまうほどに不自然極まりなかった。
 
最初は何かの冗談だと思った。
元々あたしは死んでなんていなくて、皆があたしを忘れたフリをしているのだと。
でも事実あたしは死んでいた。何かに触れることは勿論地に足をつけることもできないし、誰に話しかけたところでそれが聴こえることは無い。
あたしはあの時事故で死んだ、それは紛れもない事実だ。
そして、あたしという存在が無かったとされているこの世界…これも事実、現実の出来事なのだ。
 
 
「……朝比奈さん、あの……」
「何?キョン君」
「あの、えっと手、繋いでもいいですか?」
「えっ、あ……えっと、どうぞ……」
「……」
「……」
「……」
「……キョン君?」
「はっ、はい?」
「ふふ……みくるでいいって、何度も言ってるじゃない」
「あ」
「それにその敬語もやめてよね」
「はい……じゃない、……わかったよ、みくる」
 
あたしは、手を繋いで下校する二人のすぐ後ろをつけていた。
距離にして5センチも無いだろう。時折歩くペースが乱れ身体が重なることもあるが、二人が気付くことは無い。あたしの身体はもう物理的接触を行えない。
あたしはただひたすらキョンの顔だけを見ていた。この男の頬が赤いのは夕日に照らされているせいなのか。
それとも。
 
『ねえキョン』
キョンは答えない。
「あさひ……みくる、明日って暇か?」

 

『何してんのよ』
キョンは答えない。
「そうか、よかった。どこか行かないか?」

 

『何忘れてんのよ』
キョンは答えない。
「映画か……そうだな、見たいものでもあるか?」
 
『アンタ、言ってたじゃない』
キョンは答えない。
「じゃあそれにしよう。……俺?俺は何だっていいんだ、みくると一緒なら」
 
『……キョン』
キョンは答えない。
「それじゃ、また明日な……」

無言で見つめあう二人。それを無言で傍観するあたし。
キョンとみくるの唇が重なると同時に、あたしの唇から自然と言葉が零れていく。
 
『アンタはあたしを裏切ったのよ』
軽く触れるようなキスを繰り返す二人。深くお互いを求め合う二人。
抱き合う二人。見つめ合う二人。幸せそうに微笑む二人。
次第に胸の奥底からふつふつと湧き上がる感情。
憎悪。

 

『……許さない』
 
あたしはキョンを憎んでいる。
あたしを忘れたキョンを憎んでいる。
あの言葉を忘れたキョンを憎んでいる。
 
―――地獄の果てまで着いていくぜ、ハルヒ。
 
アンタだけが生きて幸せになるなんて、そんなの絶対に許さない。


 

◇ ◇ ◇
 
 
純愛映画デート。いかにもみくるちゃんが憧そうな王道プランだが、そんな反吐がでるようなベタな事をこの男が好むはずが無かった。
にも関わらずキョンは終始ニヤニヤと楽しそうにしていて、あたしは反吐が出そうだった。
実にくだらない。
使い古された展開ばかりのB級映画に金を払うなんて。
その程度の物で感動してしまうような安い女の涙を拭ってやるなんて。
あたしはこの間抜け面をぶん殴ってやりたい気持ちで一杯だった。
無論、それが可能なら今にも実行していたことだろう。

 

立ち寄った喫茶店でロイヤルミルクティーと鼻水を啜る女に、キョンはハンカチを差し出した。
「いい加減泣き止んでくれよ、みくる……」
「ふええっ、ぐすっぐすっ……ごめんなさぁああい……」
キョンは目の前のみくるちゃんを気遣いつつも、周囲に視線を配っては居心地悪そうに背筋を丸めていた。
店内の客の視線を一斉に浴びてしまうのも無理は無い。傍から見れば別れ話をしていると思うのが自然だ。
ようやくそれに気付いたみくるは、絞れる程に涙を含んだキョンのハンカチで目を懸命に擦る。
「おいおい、目が腫れるぞ」キョンは腕を伸ばしてみくるの手を掴んだ。
「うん…ぐすっ、もう平気…ごめんねキョン君…」
「謝るなって」
キョンは呆れたような声で盛大に溜め息を漏らしたが、行動とは裏腹に、愛おしそうに、大切そうにみくるちゃんを見つめていた。

嘲笑わずには居られない。
馬鹿馬鹿しいことこの上なかった。この男はみくるちゃんを愛してなんかいないし、大切に思っているわけでもないのに。
ただこの可憐でか弱い、男性の理想を具現化したような彼女を気遣う行為が気持ちいいだけ。守ってあげることで気分を良くしているだけ。
要は、自分に酔っているのだ。
自己満足。何て醜いのだろう。

この最低男。
 
「なあみくる……俺の家に寄って行かないか?今日は、その……親も妹も居ないし」
極めつけがこれだ。
――この、最低男。

「えっ……キョン君の、家……?」
その言葉の意味を理解したみくるちゃんは顔を真っ赤にし俯いた。しかし拒否することはしない。それは肯定の合図だった。
「いい……のか?」
「うん……」
「そ、そうか……じゃあ……えっと……い、行こうか!」
喜びを隠せないのか、それとも照れているのか。キョンは慌しく席を立つと伝票を取った。
「あ、キョン君、私払います!」
「いいんだよ、俺に払わせてくれ」
「でも私、映画代もキョン君に払ってもらっちゃったし……」
申し訳なさそうにするみくるちゃんの頭を優しく撫でたキョンは、
「……癖なんだよな」
不思議そうに首を傾げながらそう言った。
何が癖よ。この馬鹿。
 
 
 
堪えきれなかった喘ぎ声と、二人分の荒い呼吸が湿った部屋に充満していた。
経験など微塵も無い。AVの類を見たことも、夜中に両親の真っ最中を目撃したことだってない。
そんなあたしが衝撃を受けるには、初めて同士のつたない行為でも充分すぎるほどだった。
苦痛に顔を歪めつつも、時々悦びの声をあげ上の男にしがみついていて。
欲望に思考を乗っ取られ、機械のように腰を振って女を打って。
なんて醜い行為なのだろうと思った。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
それでもあたしは耳を塞ぐことも目を瞑ることもしなかった。
そうして一部始終を見届けてやったあたしは、行為を終えて余韻に浸る二人に吐き捨てた。
『……不潔よ』
 
「みくる」
「なあに?」
「幸せか?」
「……うん」
「そうか、よかった」
キョンはみくるちゃんの白く細い肩に優しく手を添えると、ゆっくり自分の胸に引き寄せた。
みくるちゃんは満足そうな吐息を漏らし、キョンの胸に耳を当て瞳を閉じている。
淀んだ空気の中、不意にキョンが呟いた。
「俺たち……何もおかしいことなんてしてないよな?」
酷く擦れた言葉だった。
「何……突然言い出すの?」
みくるちゃんは身体を起こそうとしているが、キョンの腕は彼女を離そうとしない。
そのままでキョンは続ける。
「これで……このままで居ていいんだよな?幸せに浸っている俺たち、何もおかしくなんてないんだよな?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
みくるちゃんの声が不安に染まった。あたしも先程まで考えていたことなど忘れ、キョンの次の言葉を待つ。
「みくるは何もおかしいと思わないんだな?」
「えっ、うん……どうして?何がおかしいと思うの?」
「……いや……そうか、そうなんだよな」
キョンはみくるちゃんから離れると、気だるそうに上体を起こした。
「じゃあ、何でもないんだよな。きっと……」
「キョン君……?」
隣に居るみくるちゃんのことなど忘れてしまっているのか。キョンは独り言のようにポツリ、ポツリと呟く。
「これでいいんだよな?…………なぁ……」
宙を見つめるキョンに、あたしは届かぬ問いを投げかける。
『誰に話しかけてんのよ、アンタ』
キョンの瞳は、虚ろだった。
 
 
◇ ◇ ◇
 
 
翌日の文芸部室。
空席…つまりあたしの定位置だった団長席に腰掛けながら、いつも通りの放課後を眺めていた。
 
昨日のキョンの言葉で、あたしは確信した。
キョンはこの不自然さに気付き始めている。
この世界は不自然で、忘れている何か、見逃している何かがある。その何かがわからぬ自分に苛立ち、そして怯えているのだ。
―――それが実に愉快だった。
昨日から笑いが止まらない。止められない。間抜け面が溜め息をつく度噴出しそうになるくらいだ。
全てを思い出した時、キョンの前に姿を現すことができるだろうか。……いや、この際出来なくったていい。
ただこの男がどん底に落ちてくれればいいのだ。
この男が絶望に襲われ、苦痛に顔を歪め泣き叫ぶ姿を見たいがために、今あたしはここに居る。
あたしを忘れ、無かったことにしたこの男に制裁を。
それだけがあたしの望みなのだ。
 
「なあ古泉」
「はい、何でしょう」
「何か違和感とか感じてないか?ここ最近」
「違和感……ですか?特に感じませんが、それはどういった違和感なのですか?」
「いや……それならそれでいいんだが、長門は?」
「……特に、何も」
「そうか。そうだよな……」
そう、それでいい。
キョン以外の人間があたしを思い出すことだけはあってはならない。
一番最初に思い出すのはキョン、アンタでなければならないのよ。
誰かに告げられた事実ではなく、アンタが自分の頭で思い出して一人苦悩するの。
それが最高のシナリオ。
 
 
下校時刻になる。
「それでは、皆さんお気をつけて」
「……また明日」
有希と古泉君が部室を後にし、文芸部室にはキョンとみくるちゃんの二人が残った。
二人っきり――といってもあたしが居るのだが――の空間で少し語らった後、「あ、もうこんな時間」とみくるちゃんが慌しく立ち上がる。
「それじゃキョン君、着替えるから外で待っててね」
「ああ」
返事をしつつも、キョンは立ち上がらない。
「えと、キョン君?」
キョンは答えずに、ポカンと口を開けた彼女を凝視している。
みくるちゃんは何かに気付いたかのようにハッとし、戸惑いながら、
「あの……昨日の今日で言うのもなんだけど……えっと、やっぱり学校だし、着替えくらいは……あの」
「……あ、いや、そういうつもりじゃないんだ、すまん……」
キョンはポリポリと頭を掻きながら立ち上がるが、やはりそこを動こうとはしない。みくるちゃんを見つめたまま立ち尽くしている。
「キョン君、やっぱり昨日から変よ……?」
「何があったの?」と心配そうに尋ねられると、キョンは意を決したかのように真面目な顔をし、
「…みくる、一つ聞いていいか?」
「えっ?」

「そのメイド服は……―――自分で用意したのか?」

あたしは、自然と口端が吊りあがるのを感じた。


「……ほえ?こ、この服のこと?」
みくるちゃんはスカートを摘み上げ自身が纏うメイド服を凝視した。
「……あれ……どうだったっけ……?えと」
「なあ、その服、自分で着たいと思ったのか?」
「えっと……ううん、そうじゃなかったような……あれ……?」
みくるちゃんは心底不思議そうに首を傾げた。
対して私は笑っていた。そう、そうよ。アンタは思い出さなくていい。
「みくるは、そのメイド服を毎日着るよう誰かに義務付けられた……なあ、違うか?」
キョンはみくるちゃんの両肩を押さえつける。
「おかしいだろ?俺やみくるだけじゃない、皆そのことを忘れてるんだ。なあ、これっておかしいと思わないか?」
「やっ……ちょっ、と」
「頼むから思い出してくれよ、みくる」
「わっ、ふっ、やめっ」
キョンはみくるちゃんの身体を激しく揺さぶりながら続ける。
「何のために毎日メイド服なんて着てるんだ?誰に言われて着るようになったんだ?なあ!」
「痛っ、痛いよ、キョン君っ……」
「なんで誰もおかしいと思わないんだ!なんで俺は思い出すことができないんだ!!俺は……俺は一体何を忘れてるんだ!?なあ、教えてくれよみくる!」
一層大きな声で怒鳴りつけると、キョンは我に返ったかのようにみくるちゃんから離れた。
「ひっ……ぐすっ……うっ……う、うっ……」
「あ……す、すまん、すまない……」
身体を震わせすすり泣くみくるちゃんにもう一度手を伸ばすも、それは弱弱しく払いのけられる。
みくるちゃんは先程の言葉とは裏腹に、泣きながらメイド装束を脱ぎ始めた。慌しく着替え終えると、乱暴に鞄を取り小走りで文芸部室を飛び出していった。
 
キョンはその背中を見届けた後、悪態を吐きながらパイプ椅子を思い切り蹴りつけた。
椅子と椅子が激突する音と、キョンの怒鳴り声が文芸部室に響き渡る。
『…キョン…』
その様子を傍観していたあたしは、無意識に間抜けなあだ名を呟いていた。
その声が聞こえたかのように、あたしの居る方に視線を向けるキョン。そのまま凄まじい形相でこちらに近づいてくる。
「何なんだよ!ここには誰が座っていたんだ!……俺は何で思い出せねえんだよっ!!」
キョンが机に拳を叩きつける。渇いた音と共に机が軋む。
「畜生!」
きっと10センチも無いだろう。その先に、キョンの顔があった。
こうして至近距離に居ても、キョンがあたしと目を合わすことは決して無い。
キョンが見ているのはあたしでは無く、この席に座っていた『誰か』なのだ。
 
こんなに近くに居るのに、キョンの荒い息はあたしにかからない。
こんなに近くに居るのに、キョンはあたしに気付かない。
こんなに近くに居るのに、キョンはあたしを思い出さない。
 
『……あたしはここに居るわ!キョン!!』
 
キョンは答えず、俯き、歯を食いしばるだけだった。


キョンが苦しんでいる姿。あたしは何よりもそれを望んでいたはず。
それなのに、どうしてかすごく気分が悪かった。
 
 
◇ ◇ ◇
 
 
キョンが帰路についた後も、あたしは文芸部室に残った。
キョンが苦しみ、取り乱した姿が目に焼き付いて離れない。
今まで間抜けで能天気なアイツばかり見てきたのだから、アイツのあんな様子を見て動揺するのも無理は無い。
しかしあたしはこうなることを望んでいたはずだ。
今のあたしの心境は矛盾している。
どうして願いが叶ったにも関わらず、こんなにも不愉快なのだろう。

ならば、あたしはどうしたかったのだろうか。

 
『笑っちゃうわね。あたしは恨んでいるのよ、アイツを』
『アイツは地獄の果てまで着いて行くって誓ったのよ』
『それなのにアイツはあたしを忘れてみくるちゃんと……』
『許せるはずないじゃない』
『あんな奴苦しんで当然なのよ』
『アイツだけ幸せになるなんて……そんなの……』

 

あたしはアイツへの憎しみを確認するかのように独り言を呟いた。
それでもあたしの心が晴れることは無い。むしろ逆効果だった。

『あたしは…』

あたしはどうしたかったのだろう。どうなってほしかったのだろう。
何故?
今となっては思い出すこともできない。
あたしが何を望み、どうしてここに居るのか。
 
あたしは…何かを忘れている?

 
そんな時だった。
もうとっくに下校時刻を過ぎた今、文芸部室のドアを開かれたのだ。
『キョン!?』
ドアを開いたのは他ならぬキョンだった。
キョンはひどく疲れていたようだった。げっそりとした顔に、腫れた赤い目。よろよろとパイプ椅子に腰をかけると、宙を見つめ呟いた。
「……思い出せないんだ……」
うわ言のように繰り返される言葉。
「忘れてしまったんだ……大切な、何かを」
『……どうして、思い出せないの?』
あたしはこの男の独り言に、無意識に返事をしていた。何となく、キョンが返答を求めていたような気がしたからだ。
当然返事は無い。キョンはそれから目を閉じたまま動かなかった。
再び訪れる沈黙。あたしはキョンの胸中を伺えず、諦めて部室の外へと視線を移した。

 
怪しく浮かぶ月には雲がかかり、この不自然な世界に灰色の光を降らしていた。
灰色の世界。二人きりの学校。

思い出されるのは、おかしな夢、交わしたキス―――……

 

 

 

ああ、
なんだ、そうか。
そうだったんだ。

 

 

 

『キョン……』
あたしはキョンの方へと向き直った。目を閉じている彼の頬を涙が伝っている。
キョンの頬へと手を伸ばし、それを拭おうとした。
触れられない。
もうキョンに触れることすらできない。
死んでしまったあたしには、キョンを哀しませることしかできないのだ。

 

『……忘れていたのは、あたしの方ね』

キョンがあたしを忘れたのは、他でもないあたしの願いだった。

彼を哀しませないためにあたしが望んでやったこと。

涼宮ハルヒという存在をを無かったことにしたのは、涼宮ハルヒ自身だったのだ。
どうしてこんな大事なことを忘れていたんだろう。
全てはキョンが好きだったから。
あたしは一番大切な気持ちを忘れてしまっていたのだ。

 

『……キョン』
もう触れられぬとわかっていても、あたしは何度も彼の頬を拭った。
『思い出さなくていい……もう苦しまなくていいのよ』
拭えぬ涙は止め処なく流れ続けていた。
それでもキョンは心なしか、頬を撫でられ擽ったそうにしているように見える。
キョンの体温が温度を持たぬこの手に伝わってくるような気さえしていた。
『好きよ、キョン』
もう涙すら流せないこの身体。
もう触れることすらできないこの身体。
もうキョンを哀しませることしかできない、あたしの存在。
『あたし……行くわ』
これで最後と、あたしはキョンの頬に手を添えるようにした。
そしてそっと唇を近づける。


灰色で、二人っきりの世界。
アンタはキスをして夢から覚める。
そして次に目を開けた時、アンタは完全にあたしを忘れる。
今度は痕跡も無くあたしは消えるわ。
だからもう苦しまなくていいのよ。
ごめんねキョン。
アンタは生きて……幸せになって。

好きよ。
好きよ。
大好きよ。
誰よりも愛してるわ。
だからあたしを忘れなさい。

あたしはアンタを忘れない。
アンタを好きなこの気持ちを二度と忘れない。


「……ハルヒ」


最後に、キョンのうわ言が聞こえたような気がした。

 

 

「勘違いしないでよ。あたしはアンタを彼氏にするつもりは無いわ!」
「な、なんだと?」
「その代わり、団員その1は永久名誉雑用係に昇進です!」
「……はあ?ハルヒお前、何言って……」
「だからアンタはずっと、一生、死ぬまであたしの傍に居なくちゃならないの。仕事だって今までの何倍も増えるわよっ!覚悟しなさい!」
「…………」
「……ちょっとキョン、聞いてるの?」
「ああ。地獄の果てまで着いていくぜ、ハルヒ」


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最終更新:2020年03月17日 00:38