谷口「皆さんは人の生命という物を、どうお考えですか?」
谷口「人道的な意味でいうならば、大切な物。生物的な意味でいうならば、自己維持や増殖の総称」
谷口「倫理的な観点から言えば、人の命とは何よりも重要なものであり侵すべきではない絶対的なもの、ということでしょう」
谷口「命は大事なもの。だからそれを維持し、支える物も全て大事で重要なもの」
谷口「食料であったり、それを手に入れるためのお金であったり、あらゆる行動を執るための手足であったり」
谷口「もっと直接的なものを言うならば、臓器なども」
谷口「たとえば肝臓。肝臓をなくしてしまうと体内の毒素を分解できず、人は徐々に生命を失っていきます」
谷口「食料。金銭。四肢。臓器。それらに執着を持つことは生命の保持に執着する生物として当然の欲求です」
谷口「では人が生命への執着を捨て、死を望んだなら。やはりそれら全ては不要なだけの物になり下がるのでしょうか?」
谷口「今回ご紹介するお話は、そういった類のお話です」
谷口「ふほほwww」
鶴屋「うるさいにょろ! 誰だか知らないけど夜中に人の部屋でなにをごそごそと……って、なんであんたが私の部屋に!?」
谷口「へひん、やべえ、こそこそ忍んでたのにとうとう見つかってしまったにょろ!」
鶴屋「人のキャラ作りパクルな! 『にょろ』 は私が10年の苦心の末に編み出したアーキタイプの集大成なんだ! 安易にマネしたら訴えるにょろよ!」
鶴屋「って、おま、なにやってんの!? 夜中に人の部屋に忍び込んでると思ったら私の下着かぶってやがる!」
谷口「ああん、僕のひそかな楽しみが鶴屋さんに知られてしまった! 恥ずかしい! ゲスゲスゲスwwww」
鶴屋「てめぇ、ちょっと尻出せ!」
~~~~~
冷たい風が俺の頬をなでていく。世知辛い世の中に適応できなかった俺をあざ笑い厳しい言葉をぶつけるように肌を打つ冬の風が俺の涙までも奪い去っていく。
ぽっかりと風穴が空いた胸の中心をもえぐりとるように、空っ風は吹きつける。
くすんだ色のビルの屋上。暗い灰色の曇り空。その狭間で柳のようにゆらゆらと揺れながら立ち尽くす俺は、ぼーっと、呆けたように、目もくらむ眼下の光景を眺望していた。
ここから飛び降りれば、きっと俺は楽になれるんだ。きっとすごく痛いだろうし、それに、とても恐ろしい。でもそれは一瞬のことだろうし、これからも何十年もだらだらと続いていく苦難の人生に比べればはるかに楽なことで、慈悲深いことなのだろう。
心だけでなく身体からも芯が抜けてしまったかのように、おぼつかない足取りで俺はビルの屋上の端に立った。
遺書をそろえて靴を脱いだ。花束を墓前に供えるようにそうすることが自殺者のこの世で最期の礼儀作法に違いと思ったから。俺はテレビや漫画なんかを見よう見真似で、そっと靴を揃え、その上に白い封筒を載せた。
自分の魂が一足先に身体から抜け出し、天使の輪っかが頭上に浮遊するようにその場でゆらゆらと漂う感覚。ふわふわと魂が、今の俺の行動を逐一見下ろしている。
自分で自分の行いが客観的に伺える。これからビルの頂上から飛び降りようという直前に自分の靴を神経質なまでに整理する自分が、とても滑稽だった。
「よし」
自分を鼓舞するように小さくつぶやくと、俺はコンビニで買ってきたウィスキーの小瓶をぐっとあおり、のどの焼けるような痛みをこらえながら空を見上げた。
この世の見納めがこんな曇天なんて。ついてない。まさに俺の人生そのものじゃないか。いや、だからこそ、こんな空模様の下で逝けることが幸福なのかもしれないな。
思えばついてない人生だった。誰かのせいというわけじゃない。全ては俺自身のせいなんだ。自業自得ってやつさ。
苦しいとか辛いとか、嫌だとか面倒だとか。そんなことばっか言って非生産的で怠惰で反社会的で周囲を気にしない馬鹿な生活を送ってきた俺にふさわしい人生の終焉だ。
目を閉じれば家族や仲間たちのまぶしい笑顔、暖かい体温が記憶の断片からよみがえってくる。それらを思い出すたびに飛び降りを思いとどまりそうになる。
しかし無残で無慈悲な冷たい風が、そんな俺の甘えた思考をねじり取り、吹き飛ばしてくれる。
俺は目を開けた。
いい感じで酔いが回ってきた。頭の奥のあたりがヒリヒリと恍惚感に熟れている。悪くない。今なら気分よく死ねそうだ。
迷いはない。未練はあるが、もういい。もういいんだ。ショートカットの女の像が俺の頭の中で何事かを呼びかけていたが、それも俺の耳には届かなかった。
さあ。飛ぼう。
「お待ちください」
突然のことだったので、ひどく驚いた。不意をつかれたとはいえ、誰もいないと思い込んでいたビルの屋上に俺以外の人間がいたなんて。意外だった。
「どうも。お久しぶりです。僕のこと、覚えておいでですか?」
肩越しに振り返った俺は、わずかに酔いが醒めていくのを感じた。このにやけ顔には覚えがある。
お前……古泉か?
「はい。あなたの高校時代からの友人にして、つい先日まで同じSOS団の団員だった古泉一樹です」
グレーのスーツを肩にかけ、ダブルカフスのカッターシャツ。地味な色合いのネクタイに光る控えめな銀のネクタイピン。その商社マンのような姿が、不思議と古泉には似合いすぎるほど似合っていた。
「……何か用か? 残念だが、俺は忙しいんだ」
しばらく互いに視線を交し合った後、俺は苦笑まじりにそう言った。別に忙しくはないが、今この決意を誰かに抑止されるのはとても不愉快なことだと思った。
てっきり古泉は俺の飛び降りを思いとどまらせようと現れたのだと思っていたのだが、どうやら俺の予想は外れていたようだ。
「そう警戒しないでください。別に僕はあなたの決意を覆そうと思ってここにきたわけではありませんよ」
何の企みもないといった様子で、古泉はつかつかと俺の目の前まで歩み寄ってきた。
古泉に無理矢理屋上の中心まで引きづられるかもしれないと懸念したが、それは杞憂に終わった。古泉は胸ポケットから取り出した一枚の紙切れを俺の眼前に差し出した。
「あなたがそこから飛び降りようと思ったのなら、あなたの中に、それに見合う都合があってのことでしょうし、僕にそれを否定する権利はありません」
慇懃な態度の古泉の手から、俺は紙を受け取る。長方形のそれは厚紙で作られた、ごくごく一般的な名刺だった。
そこには、少しばかり格式ばった字体で古泉の肩書きが記されていた。
「……総合、プランナー?」
満足げに、古泉はそれを肯定してうなづいた。
「はい。今僕は、あらゆる物事をプロデュースさせていただく、トータルプランナーを生業とさせていただいております」
プランナー? 企画者? 確か、披露宴とか葬式とかの進行を企画する人のことだったっけ。
「その通りです。さらに私どもトータルプランナーは、あらゆる物事をよりすばらしいものに演出するお手伝いをさせていただいております」
ふん、と鼻を鳴らして俺は古泉に名刺をつき返した。そのプランナーが、これから飛び降りる俺に何の用があるってんだ? 金ならないぜ。
そう。金がないんだ。俺は自嘲気味にそう繰り返した。
俺は定職に就くこともなくふらふらし、ずっとニートやってきたボンクラだ。収入がないから貯金なんてありゃしない。
それだけならまだしも、中学の頃の友人である国木田が会社を興す時に借りた借金の連帯保証人になっちまって。今じゃ会社の経営に失敗して夜逃げした国木田の多額の債務を肩代わりする身だ。
家族に迷惑かけてる身で、さらにいわれのない、目が飛び出るほどの借金を作っちまったダメ男。
こんな俺に何を期待する? 生きていれば生きているだけ、蔓延する厄病のように害をまきちらす腐れ人間だぜ? 取り柄といえば健康なことくらいだ。学も無いコネも経験もない。俺には何もない。人様に役立てることなんて何もないんだ。
「だからいいのですよ」
俺は一瞬言葉につまり、ムッとした表情で古泉を見返した。世に絶望して死を決意した俺でも、こう言われると腹が立つんだな。
「身体は健康そのものなんでしょう? だったら何も言うことはございません」
どこからともなく取り出した電卓をタンタンと叩き、素早い手つきで古泉はそれを俺に見せた。
「この金額です。あなたの抱えている負債。あなたがご家族に抱いている後ろめたさを払拭するに値する金額。そしてあなたのご家族が今後何不自由なく暮らしていける額。これだけの額をご用意させていただきます」
唖然とする俺に向かって、古泉は感情の読めないニヤニヤ笑いを浮かべたままささやいた。
あなたの臓器を買い取りましょう。
目が覚めると、そこは白い壁に囲まれた病室だった。薬品くさい布団から身を起こすと、浅黄色のカーテンが風に翻った。
「お目覚めですか? ご気分はいかがです?」
とても爽やかだ。いい気分だぜ。
「それはよかったです。これから人生にピリオドを打とうと言う大切な時に気分がすぐれないのでは、未練が残りますからね」
部屋の隅のクローゼットに自分の衣服が収納されているのに気づき、俺はシンプルなガウンを着替えた。
「お約束通り金融会社には僕から負債を返金しておきますし、ご遺族にも残金をお渡ししておきますよ。あなたは、何も思い残すことなく気の済むように命を絶っていただいて結構ですよ」
目はすっかり冴えてしまった。しかし未だに夢の中にいるような心地だった。
いっそのこと、手術が終わった時点で安楽死させてくれりゃ、俺も楽でよかったのに。
「はっはっは。勘弁してくださいよ。臓器摘出だけでも危ない橋だというのに、その上、自殺幇助にまで手は出したくないですよ」
言えてるぜ。ま、自分の死に場所くらい自分で決めるさ。
俺と古泉は静かに窓外に目を向けた。空は、もうすっかり晴れていた。
「キョン! キョンじゃないか! こんなところにいたのか、探したよ!」
またあのビルに向かおうと思い、街道をふらついていた時のことだった。まるでテレビかラジオの向こう側の音のように身近に感じられなかった町の雑踏から、俺のあだ名を呼ぶ声がする。
俺のあだ名を指名してくるってことは、昔馴染みの知り合いか。この面倒な時に、一体誰だよ。
「ごめんね、本当に、ごめんね!」
息を弾ませて俺の背に追いついてきた人物を見て、俺は驚いた。そこにいたのは、俺に多額の負債をおしつけて蒸発したと思っていた中学時代からの知人、国木田だった。
生に執着を失い全てのことに無関心になっていた俺の心に、懐かしい感情、怒りが湧いてくる。こいつさえいなけりゃ、こいつさえいなけりゃ……!
しかしその憤懣も、汗だくで微笑む国木田の笑顔の前に霧散してしまった。
「会社を立て直すための資金を集めるために金策にあちこち駆け回ってたんだ。キミに連絡するのをすっかり忘れていてね。ずいぶん迷惑をかけちゃったんだじゃないかと思ってる」
申し訳ないという様子で、国木田は荒い息を整えようともせずに背負い袋から茶封筒をひとつ取り出した。
「こんなのでキミにかけた迷惑を償いきれるとは思っていないけど、せめて僕にできるお詫びだよ。とっておいて」
茶封筒をあけると、そこには札帯のついた札束が5つほど入れられていた。
……く、国木田? おま……これは?
「迷惑料だよ。とっといて。キミには本当にすまないことをしたからね。例の借金は、全部僕が自分で返したから。もうキミに心配はかけさせないよ」
何がなんだか分からず、俺はさっきまでとは違った意味で呆け、目を点にして立ち尽くしていた。
「僕の狙い通り、我が社で作った商品が市場で大きな反響を得てね。特需といってもいいくらいの莫大な資本ができたのさ! そのおかげで会社は軌道にのるし、株価も跳ね上がるし。いいこと尽くめだよ!」
これも全ては僕の会社興しに賛同して借金の連帯保証人になってくれたキミのおかげだよ!と言って、感極まった国木田は観衆の視線も気にならないという感じで男泣きに泣いた。
「だからね。そんなキミに、是非ともうちの会社の副社長になってもらいたいんだ!」
真っ青な空の下、俺の頭はますますシェイクされたようにこんがらがっていった。
俺はなりふりかまわず走っていた。身体がだるい。やはり臓器摘出の影響だろうか。息が上がるのが早い。
借金持ちだった俺は携帯も解約してしまっている。だから古泉に連絡をしようと思えば家に帰るか、最近じゃさっぱり見なくなった公衆電話を探すしかないのだ。
ようやく緑電話を発見した俺は、ふるえる手で10円玉を2,3枚投入し、焦りながら番号をプッシュした。
『もしもし、あなたの生活をきらびやかに彩るトータルプランナー、古泉一樹でございます』
こ、古泉か!? 俺だ。
『おやおや。どうされましたか? ずいぶんと慌てた様子ですが』
単刀直入に言おう! お前に出してもらった金はそっくり返すから、俺の臓器を返してくれないか!?
『唐突なお話ですね。一体何があったのですか?』
少し困惑気味の古泉に、俺は最初から事情を説明した。最初からといっても、偶然国木田と再会して借金を返す目処がついて就職先も決まったから死にたくなくなったってだけの説明内容だが。
俺が全てを話し終えてからも、古泉はしばらく電話の向こう側で黙りこくっていた。
『あのですね。あなたのおっしゃりたいことも分かりますよ。死ぬ意味が全て帳消しになったから、死にたくなくなった。だから生きるために臓器を返してもらいたくなった、と言うのでしょう?』
その通りだ。都合の良いことばかり言って申し訳ないんだが、腹に脱脂綿の詰まっている俺の身体じゃ、長くは生きられない。早いところ臓器を元に戻してもらいたいんだ。
『無理を言わないでください。僕も趣味でこんなことやっているわけじゃないんですよ。ちゃんと需要があって、その希望にあった物を用意して品を揃え、信用の名の下に取引する。返してください、はいそうですか、で通用することじゃないんですよ』
予想外の古泉の反応に俺は狼狽した。いや、よくよく考えてみればそれが当然なのかもしれない。臓器の密売なんて一般人の俺でも知ってるレベルの重罪だ。そこに個人の私情など挟めるはずもないに違いない。
いかに相手が長年の友人である古泉であっても、たかが友情ごときでどうこうできる問題じゃないのだろう。なんせ、下手を打てば手が後ろに回ることになりかねない事なのだから。
「それでも、それでも俺は生きたいんだ! 頼む古泉、俺の内臓返してくれ!」
ふぅ。と受話器越しに古泉のため息が聞こえた。あきれてるんだろうな。あきれればいいさ。とにかく俺は生きていたんだ。輝かしい未来が突然やってきたんだ。こんなところで死ねるかよ。
『あれはまっとうな取引じゃなかったことくらい、あなたも承知されているでしょう』
ああ。臓器密売なんて公にできる話じゃないしな。
『ですから、返してほしくなったから返してね。であっさり済ませられる話じゃないんですよ。僕にも顧客からの信頼というものがありますし』
お前には悪いと思ってる。本当にすまない。だが、俺だって命にかかわる一大事なんだ。引けないことは分かるだろ?
『仕方のない人ですね。まったく。それじゃ、こうしましょう。あなたが顧客として、自分が売りに出した臓器を買い戻す。客として商品を買う分には、問題ありませんからね』
ああ。古本屋に本を売ったけど、やっぱり手元に置いておきたくなったから改めて買い戻すみたいなものか。分かった。買おうじゃないか。
ふぅ。と、また古泉のため息が電話の向こうから聞こえてきた。
『あなたね。簡単にそう言いますが、分かってるんですか? 臓器各種はけっこうな値がするのですよ?』
お前から受け取った俺の腸、肝臓、膵臓、腎臓などの代金は、合計1億だったな。それを全部つぎ込むぜ。
『1億で買った物を1億で売ったら、純利益がないじゃないですか。手間賃や手術料、そっち方面への上納金などを含めても、1億ぽっちじゃ到底及びませんよ。話になりません』
じゃ、じゃあ、いくらあったら足りるってんだよ? 一応、国木田から500万もらったから、1億500万までなら出せるぜ。
『庶民にとっては大金でも、500万なんて屁の一発でふっとぶ端下金ですよ。そんなの、業者に払う手間賃にもなりません』
そ、そんな……じゃあいくらならいいって言うんだよ!?
『1億5000万。あなたと僕の仲です。割引に割引し、さらに勉強して、その値段で結構ですよ』
ば、馬鹿な! ニートで中流階級家庭の俺に、あと4500万も用意できるわけないじゃないか!
『1億500万なら、そうですね。肝臓と小腸大腸くらいは売ってあげられそうですよ。何せ若い男性の最高に健康な臓器ですからね。もっとも需要の高い、値段の張る商品なのですよ』
足が、ふるえる。頭からサーっと血が引いていくのが感じられる。受話器をつかむ指先も、5本全てがわなわなと痙攣している。
頭が痛い。耳が痛い。指が痛い。首が痛い。胸が痛い。腕が痛い。腹が痛い。内臓が痛い。足が痛い。きりきりと痛い。
体中から血が噴出しているような幻想にとらわれ、俺は力なく両膝をついた。
『死ねばいいじゃないですか』
笑いをこらえるようなくぐもった声で、古泉はそう言った。
死ぬ? 俺が? 何で? どうして? 死ねばいい? いやだ、死ぬのは、いやだ!
生きたい! 俺は、生きたい! あの日、ビルの上で死のうとしてたのは、あれはただの気の迷いだったんだ! そう、ヤケ酒を飲んで酔って、ついついあんな馬鹿げたことしちまっただけなんだ! 俺は死にたくないんだ!
あなたもつくづく、調子の良い人ですね。と古泉が哂った。
ニートで負債をかかえて家族に迷惑をかけたから死ぬ、止めてくれるな、と喚いていたのは酔った勢いなのですか?
酔いが醒めて冷静になっていれば、事態を好転させられるだけの良案が思い浮かんでいたというのですか?
確かに死んで責任をまっとうしようなんて言い逃れは酔いのもたらす逃避思考だったのかもしれませんが、結局はなんとかしようと思えば、今のように身体を売るかそれに準じる何かをしなければいけなかったわけじゃないですか。
むしろあの場に僕が現れてあなたに臓器提供の話を持ち込んであげたから、本当に本当のバッドエンドにならずに済んだんじゃないですか?
なのに、その臓器を買い戻すために大枚をはたく? また新しい負債を発生させようと言うのですか?
ふふふ。結局は、ほら。あれですよ。あなたが死ねば万事解決するんですよ。
「それでも俺は、死にたくないよ!」
あらん限りの力を振りしぼった俺の声は、料金切れで自動的に通話の切れた受話器の向こうには届いていなかった。
俺は、人目もはばからず声をあげて泣いた。
まるで曇り空のあの日に逆戻りしたようだ。ゆらゆらと、さながら幽鬼のような足取り。呆けた頭。だらしなく弛緩した腕。
生に絶望してビルを登ったあの日。しかし、今は違う。死に抗うため、生に執着して、でもそれが叶わなくて、力およばず、力なく。ふらふらと。
気づくと、俺はあの病院の前に立っていた。斜陽が、まるで病院の白亜を巨大な地獄への門のように彩っていた。
ここで俺は臓器を抜き取られた。変わりに脱脂綿を腹の中に詰められた。まあ、それは俺が自分で望んだことだから誰にも文句は言えないのだが。
きっともうここには俺の内臓も、古泉も、いないだろう。ここに来たからといって奴の足取りが知れるはずもない。でも、再度古泉に連絡をとる勇気もなく。
ああ。腹が痛い。
「おや? どうされましたか?」
頭上から聞き覚えのある声がふってきた。それも、ごく最近聞いた声。この声は……
「ずいぶんとしょぼくれて、どうされました? もうとっくにお亡くなりになったとばかり思っていたのですが?」
病院の2階の窓から、夕日に溶暗したように黒々とした古泉の顔がにゅっと突き出されていた。
突然、俺の身体に底をついていたはずのエネルギーが蘇ってきた! 腕に、足に、腹に、頭に、爆発しそうなほどの熱が、沸騰する!
気づくと俺は駆け出していた。病院の扉を突き飛ばすように開き、獣のような勢いで階段を駆け上る。痛みなど感じない。ただ、狂おしいほどの何かが、俺の内部で渦を巻いて猛っていた。
「古泉!」
視界が狭くなるような幻覚の中、俺は古泉がいたであろう部屋の前まで駆け上っていた。そこは大きな会議室のような部屋であろうと、閉じられた扉の規模からして想像がつく。
金属製のドアノブを乱暴にゆすってみるが、しっかり施錠された扉は容易には開かない。
『どうされました? 忘れ物ですか?』
扉の向こうから古泉の声が聞こえる。間違いない。古泉はここにいる。ということはもしかして、俺の身体の一部もこの向こうにあるのか!?
「頼む古泉、開けてくれ! 助けてくれ!」
あらんかぎりの声を張り上げる。死ぬか生きるかの瀬戸際だ。世間体なんて微塵も感じない。
『臓器の件ですか? それについては電話でお話していた通りですよ。1億5000万はご用意できたのですか?』
「ない。そんな金、逆さに振ったって出てきやしないさ。でも、それでも、俺の臓器を戻してくれないか?」
『おやおや。ずいぶんなことをおっしゃられる。代金もないのに、商品をよこせと? これは恐喝か強盗と解されてもしかたないことではないでしょうか?』
「違うな。俺はクーリングオフに来たんだ。強盗じゃなくて客だ」
『またまた。うちは取引から7日過ぎていなくても、クーリングオフは受け付けていないのですよ』
「なら力づくでもクーリングオフさせてもらうまでだ」
『ここへ押し入るつもりですか? 馬鹿な真似を。たとえここへやってきて臓器を取り戻したとしても、それをあなたの体内へ戻す医師がいなければ意味がないでしょうに』
「それでも、俺はやる! その時はその時だ! 臓器を取り戻すことで少しでも生きることへの可能性が生まれるのなら、俺はなんだってやってやる!」
『………。やれやれ。あの日、ビルの上に立っていたあなたはあんなにも弱弱しくて、ビルの上から飛び降りなくても死んでしまいそうな外見をしていたというのに。今はこんなにも生き生きと、生を望んでいらっしゃる』
「ああ、そうだ。あの時の俺はどうかしていた。絶望っていう一過性の毒にやられて、完全に頭がいっちまってた。だが、今なら言える! 俺は生きていたいんだ、と!」
しばらく、俺と古泉は、扉をはさんで黙り続けていた。こうしていると、目の前の分厚い扉も紙のように薄っぺらく、まるで手を差し出すだけで突きやぶれそうな気がしてくる。
『覚悟はあるのですか? もう、絶対に自殺などしない、寿命が尽きるその日まで、あがき続けると』
「ああ! もちろんだ!」
渾身の力をこめた俺の主張。最高に熱のこもった、熱をこめた声が、扉のむこうへ浸透して行った。古泉にその叫びは……伝わっただろうか。
『……分かりました。その言葉を、信じましょう。さあ。こちら側へいらしてください』
静かな古泉の声とともに、すっと巨大な扉が開いて行く。
ああ……明るい……白く、明るい光が……開き行く扉の向こうからさしてくる……まるで、そう。俺を別天地へといざなうかのような………え?
扉が完全に開ききったところで、パンッ!と乾いた破裂音がした。俺の頭上に、火薬くさい紙の束がふりそそぐ。
「遅かったじゃないの! まったく、なにやってたのよ、待ちくたびれちゃったわ!」
そこには、クラッカーの筒を持ったハルヒが立っていた。え? ハルヒ? なんで……ここに?
よく見るとハルヒだけじゃない。俺のよく知っている人たちが大勢、大挙して扉の向こうに立っていた。
「もう、死ぬなんて軽々しく言っちゃダメですよ!」
朝比奈さん? なんで、これ、え? パーティー会場? え? え?
「死というものを曖昧にしか実感していなかった彼に時間を与え冷静さを取り戻させ、改めて明瞭な死を感じさせる。そこでクランケ自らに生への執着を抱かせる。見事な演出。さすがプランナー」
長門? なに言ってんだ、古泉の隣で?
扉の中から押し寄せる知人や家族たちに率いられ、放心状態の俺はパーティー会場の中へ連れ込まれる。
200人規模で会議が開けそうな広い部屋に、「生還おめでとうパーティー」 とヘタクソな字で書かれた大きな垂れ幕が吊り下げられている。
ここに至って、ようやく薄ぼんやりと俺は事の次第を理解し始めたのだった。
「いかがでしたか? プランナー古泉の企画は」
何故かお神輿の上にかつがれて上下に揺さぶられている俺は、どっと疲れが出たのを露骨に顔に出しながら、「最悪だったよ」 と答えてやった。
しかし内心では、まんざらでもないな……と少し思っていた。
「分かっているとは思いますが、安心してください。全ては僕の企画したプランです。あなたの内臓を摘出したというのも嘘ですよ。あなたのお腹の中には脱脂綿ではなく、ちゃんと自慢の臓器が詰まっているのでご安心を」
もうそれが分かっただけでも十分だよ。さっさと帰らせてくれ。今日はとっとと眠りたい気分だ。
「まあまあ、そういわず。全てが僕のプランだったわけですが、ひとつだけ真実もあるのですから」
そう言う古泉の隣で、はにかみながら手を振っていた国木田を見て、俺も思わず笑い返してしまった。これからよろしく頼むぜ、社長。
なんだかんだ言って、楽しいひと時だった。結局途中から俺の生還パーティーではなくただの同窓会になってしまったのだが、それはそれで文句ない。
古泉にずいぶん酷いことを言ってしまったが、悪かったな。騙されてたとはいえ。
「いえいえ。気にしていませんよ」
こんな時は、古泉のこのニヤケ顔もありがたく映る。そう言ってもらえると助かる。
「さてさて。これで僕の今回の仕事は完了です。それでは、最後にこれを」
そう言って、古泉は一枚の紙切れを俺に差し出した。以前同じように差し出した名刺よりも、薄く、大きな紙だ。
「今回のプランの総額ですよ。いろいろと手間がかかってしまったので、この金額になってしまったのですが、まあいくらか引かせていただいているのでご心配なく」
再び俺の腹に、きりきりとした鈍痛が走る。……え、これ、俺が払うの?
その請求書に書かれていた金額を見て、また死にたくなってきた。
~~~~~
鶴屋「尻出せや!」
谷口「ほひぃん! かかか鰹節だけは、鰹節だけはッ!」
鶴屋「往生せぇやあああぁぁああぁぁ!」
谷口「アッー!」
おわり