部室に戻った俺は、部室内を見渡して少し驚くこととなった。
「……長門は?」
 部屋にいたのは、定位置に座って機関誌を読んでいる古泉だけだった。古泉は俺を視認すると、
「長門さんなら帰りましたよ。急に表情が固くなったような感じで、先に帰るからあなたによろしく、と僕に言い残してね」
 両手を広げながらそう答え、席を立って機関紙を長門の本棚へと収納するために歩き出した。
 俺は古泉を目で追いながら、
「……珍しいな」
 あいつがそんな行動をとるなんて思わなかった。まさか、俺と朝比奈さん(大)の会話が聞かれていたのだろうか。
「もしかしたら、俺のさっきの会話がショックだったのかも知れないな」
 俺が複雑な表情を浮かべてそう呟くと、
「その会話とは多分……長門さんが起こした事件についてでは、と僕は推察するのですが」
「……何故お前が知ってる」
 古泉はフッと微笑の息を漏らすと、
「いえ、勘ですよ。あの事件については僕も思うところがありましたので。その様子ですと当たりのようですね。是非詳しくお話を伺いたいものです」
 ああ、嫌でも聞いてもらうぜ。事態はことのほか深刻でややこしいんだ。帰り道で歩きながら話すことにしようかね。
「そうしましょう」と首肯する古泉。
 そう、大人の朝比奈さんの話を早く伝えておいたほうがいい。長門には聞きたいこともあったんだが――。
 今は……そっとしておいたほうが良いだろう。




 そして俺は雨の降りしきる中、古泉と肩を並べて下校しながら、朝比奈さん(大)や朝比奈みゆき、そして異世界の件について出来る限りの詳細をそのまま伝えた。それらを聞き進める度に古泉はなにやら納得でもしたかのような相槌をうち、俺の話が終わりを迎えると、
「……どうやら、僕や『機関』が抱えていた疑念は、あまり良くない形で実在していたようですね」
 傘と雨音のせいで様子をうかがい知ることは出来ないが、多分古泉は微笑しながら言っている感じがする。
「確か閉鎖空間がどうの、ハルヒが神だのと言ってたな」
「ええ、それです。今まで涼宮さんは、閉鎖空間を広げることによってこの世界を改変しようとしていました。ですが、今回は世界そのものを創出してしまった……先日の閉鎖空間の乱発は、新世界を創造するための演習だったのでしょう。そして僕のような超能力者は異世界の存在を僅かながら感知していたために、ずっとやきもきした気持ちになっていたんだと思います。前にも言ったように、これはもしかしたらと考えていた事態ではありますが、実際に世界を創出してしまっていたとは……本当に、杞憂で済んでいれば良かったと思いますよ」
 ……そういうことだったのか。だが、それにはまだ本質的な疑問が残ってるぜ。
「そうですね。恐らくそれが、異世界の問題を解消する鍵となるのでしょう」
 そう言うと古泉は歩みを止め、傘で隠れていた顔を俺に見せながら、
「……何故、涼宮さんは世界を二つに分けてしまったのか。これは、その異世界で彼女の能力が暴走している理由にも繋がっているはずです」
 俺は視線を合わせると再び歩き出し、古泉にも進むように促した。古泉は俺の横に並ぶと、
「それに……彼女が無意識のうちに何かを望み、それを叶えるべく世界を創造したのであれば……その願望とは、一体何なのでしょうね」
「……もしかして、自分を中心に回る世界が欲しかったとかじゃないだろうな」
 古泉は雨の中でもハッキリと聞こえる笑い声を出し、
「考えるまでもない。彼女はそんな人間ではありません。僕よりも、現在はあなたのほうが理解しているはずですが」
 言ってみただけさ。お前の話を聞くまでは異世界についても半信半疑だったし。
「僕はね、その世界の長門さんも言っていたように……やはり、あなたが鍵を握っているんだと考えます。なにか、涼宮さんの願望に思い当たるフシは御座いませんか?」
「ありすぎるが、まさか腹ペコで世界を作ったりはせんだろう。作るとしたらせいぜいオニギリだ。それに……あの大人の朝比奈さんは長門に聞けば分かるって言っていたし、俺たちがやるべきことは、長門と思念体の間にある問題を解消することで決まりだな。思念体が長門が人間らしくなるのを拒んでるなら、そんなふざけた考えを改めさせるしかない」
 …………。
 何故か沈黙が広がっている。雨音は少し強めだが、声が掻き消される程じゃない。
 一体どうしたんだと思っていると、
「――いえ、それは違います。あなたがやるべきことは、そうじゃない」
「……なにが違うんだ?」
 いつになく重い雰囲気で言葉を放つ古泉はそのままの調子を保ちながら、
「あなたは、長門さんが世界を改変した日へと飛ばねばならない。そうでなければ……現在のこの歴史が存在しなくなってしまうかも知れないのです」
 ……なんだって?
「僕は以前、あなたの話を聞いてダブルループ理論という仮説を立てました。しかし……それは恐らく、未来の彼女に立てさせられたものだったんです」
「どういうことだ」
「まず先に一つお話ししておきます。忘れるはずもないと思いますが、かつて涼宮さんが……夏休みのある時期を丸々繰り返していた事件がありましたね。僕の『機関』ではその現象をエンドレスエイトと呼んでいますが、これは藤原さんが話していた時間遡行の理論で考えるとおかしなことになるのです」
 どういうことだ、としか言えないので黙って聞いていると、
「もしエンドレスエイトで、本当に最初に戻って時間をやり直していたならば……一万五千四百九十八回目の時点での僕たちには、一万五千四百九十七回までの記憶は残っていないはずなんです。歴史は上書きされてしまいますので、それまでの記録は消えてしまうんですよ」
 よく回数まで覚えていたなと感心しながら、
「そんなの、それだけ繰り返してたら少しくらい誤差が出たって良いじゃないか」
「いえ、この世界は矛盾しているようにみえて矛盾していない。それはこの世界の理に反するので有り得ません。それに、これは別の理論によって説明がつくのです」
「なんだ?」
「連続する『平方時間体』に、STCデータをどんどんコピーしていくのです。言うなれば、これはノートのページ毎に同じ設定で絵を書いていくということですね。例えば、キリンの絵という縛りを設けます。すると同じキリンの絵でも、書いた回数によって微妙に首が長かったり、短い場合のキリンが作り出されます。ですが、全て同じキリンの絵であることには変わりありません。これは、エンドレスエイトの中で僕たちが毎回微妙に異なる行動をしていたことの説明になります」
「……絵を上から描き直すんじゃなく、同じ絵を次のページに描き直すってことか?」
 おそらく笑っているんだろう間が空き、
「ええ。ですから、時間は重なっているのではなくて、これも連なっているのですよ。だから今までのデータが残っている。これは時間が重なるという現象ではなく、同じような時間が複数個存在しているということなのです。僕のダブルループ理論は同一の時間が複数存在してはいけないという前提によって立てられていて、時間が重なっているという結論になる考察です。なので、ダブルループ理論は成立し得えません」
「……それが、なんで大人の朝比奈さんに立てさせられたことになるんだ?」
「簡単なことですよ。万が一こちらがその秘密を解き明かしてしまう可能性を考えたら、その対処法として別の答えに辿り着くようにするのが定石なのでね。あの日、時間を修正した時にあなたが見た……救急車で運ばれるあなたを涼宮さんや僕たちが見送っていたという光景は、彼女と長門さんに見せられた嘘であった可能性があります。それは、真実を隠す為の布石になりますから。実際僕もそれを聞いて、あの理論を立ててみせたのですからね」
 ……イマイチ良く解らなくなってきた。
「考えてみて下さい。あなたは世界改変の日に修正をしたわけですが、それだとその後の変容した世界の三日間の歴史がなくなってしまいます。遠未来の彼女があの日に戻れというのは、恐らくその三日間を発生させるために必要なのでしょう。そして残念ですが、これ以上僕に解ることはありません。詳しくは……彼女から聞いてみなければ」
「……まだ大人の朝比奈さんから聞くことがあるってことか。不本意だが、待ち合わせの話があるんだ。そこにどうやら行くことになったみたいだな。それにあの人は、これは俺たちが全員協力しなけりゃならないって言ってたから、SOS団全員で行ってもかまわんだろ」
「………………」
 急に雨足が強くなる。古泉がまた沈黙したせいもあるが、雨が傘を打つ音がけたたましい。
「……僕は、行けません」
 ――意味不明なことを言い出した。俺は古泉の姿を確認しようとしたが、あいつはまるで自分を隠すかのように傘を持ち、それっきり黙ってしまった。
「……何言ってるんだ。行けない理由でもあるのってのか? 俺だって行きたくはないんだ。だが、行かなきゃならんだろう。これより重要なもんなんてないだろうが」
 古泉は俺の言葉が聞こえていているのか不安になるような間を置き、
「それが……あるんですよ。『機関』にとっては」
 それっきり、沈黙。俺が話しかけないと次を出さなそうだったので、
「なにがだよ」
「……僕が、何故《あの日》に居なかったのか解りました」
 質問の答えになっていないことを話し始め、
「僕が所属する機関と情報統合思念体、そして未来人の相関図は、どうなっていると思いますか?」
「……正直に言っていいなら、立場じゃ思念体が圧倒的で、次いで未来人、そして機関ってところだな」
「力関係ではね。ですが、僕たち超能力者には、思念体に対して優位な部分があるのです。何かといえば、涼宮さんの心を覗けるということ、つまり精神探訪の能力です。思念体は涼宮さんについて知りたがっているのに、どうしてこの僕の能力を奪ってしまわないのか考えたことはありますか?」
 ん……確かに、そうだ。長門がハルヒの能力を盗んで使えるくらいなんだから、奪えないってのはないだろう。しかも、大体がなんでもありの情報創造能力ってやつを使えるってのに、なんで思念体はまどろっこしい真似をしているんだろうか。
「思念体が情報創造能力を使わないのは、彼らという存在が矛盾を拒むからでしょう。ですが、彼らが精神探訪を行わない理由は他にあるんです。……というか思念体は元より、僕たちの意識に干渉出来るのですよ。といっても、それは認識してすぐの純粋な情報の部分にだけですが」
 俺が聞き返す前に、
「彼らの行動には、僕たちの意識を操作しているとしか思えない部分が存在します。いつの間にか生徒会の秘書になっていたり、目の前にいる彼等を認識出来なかったりなどがね。それにも関わらず、あの朝倉さんが異常行動を行って消されてしまった際には、人の記憶に干渉せずに転校したなどといった処理をしています。これによって一つの予測がたつのですが、これはおそらく間違いではないでしょう」
 確かに……妙だな。みんなから朝倉の記憶を消しちまえばいいだけの話だし、そっちのほうが確実だ。
「気になるな。どんな予測なんだ?」
「それは、人の記憶は消すことが出来ないということ。情報統合思念体が涼宮さんの意識に、というより人間の深層意識に入らないのは……意味がないからです。人間独自の意識はすべて人間の言葉によって形成されているため、思念体には理解が出来ないのですよ。ですが、言葉に変換される前の情報には思念体は干渉可能なので、僕たちに認識できないように操作出来るのです」
「そうか。だが、俺はお前にそんなこと聞いちゃいないぞ?」
「……僕が行けない理由は二つあります。一つは、あの日に僕は存在しなかったため、僕には協力のしようがないのです。仮に僕がそこに行ってしまえば、そこのSTCデータの設定が著しく変わってしまいます。つまり過去が変わってしまって、現在が変容する恐れがある。……しかし、それは僕が行けなかったという結果でしかありません。僕がそこに行けなかった本来の理由は……」
 ……また沈黙か?と思った瞬間、
「長門さんが人間らしさを獲得しつつあるというのは、『機関』にとって脅威だからです。だから僕は、長門さんを助けることなど出来ないんですよ」
「お前、何言って……」
「もとより『機関』は、彼女が感情をあらわにしていく度に憂いていました。何故なら彼女が感情を持つということには、思念体が人間の思想を理解できるようになっていくという意味がありますからね。そうなると機関のみならず、人類全体にとって非常に不利な状況が導き出されるのです」
「……なんだそれは」
「人間の言葉を理解出来るようになれば、思念体は人の深層意識にまで情報操作の手が届くようになる。つまり、人を人たらしめる意識の部分、人類の尊厳そのものが脅かされてしまうのです。人の意識を好き勝手に出来るのであれば、彼らはまず涼宮さんを徹底的に調べ上げるでしょうね。そこには、人間の中でもマッドサイエンティスト程度の感情しか存在しないでしょう。それに加えて、例えば、僕が僕であるという証明すら怪しくなっていくのです。つまり……人類は、彼等の人形になってしまうかも知れない」
 ……これには、なんだか言葉が返せなかった。俺が沈黙していると、
「だから、僕がその規定事項に協力しようとしても機関から行動を制限されるでしょう。軟禁状態に置かれるか、もしくは縛り上げて吊るされて、密室の中に放置でもされかねません」
「待て古泉。そりゃ発想が飛躍しすぎじゃないか? それに、機関がどうだろうと関係ないだろうが。お前は記憶を誰かに消されちまったのか? だが、それはないんだろ。じゃあ、お前は自分の言葉を覚えているはずだ。長門がピンチのときは、機関に不利益だろうと俺たちに味方するってな。それは今じゃないのか。なんでやる前からあきらめちまってるんだよ」
 ――ピタリ。と、古泉の足が止まった。
 俺も足を止めて古泉を確認しようとしたが、未だにあいつの顔を確認することは出来なかった。
「……結果は出ていると言ったじゃないですか。僕は……あの日に行けなかった。それは変えてはいけない、そして抗いようのない不可抗力の結末なのです。しかも不利益を被るのは『機関』のみならず、全人類だ。あなたは、それを彼女との天秤にかけたとしたらどうです?」
 さっきから解説ばかりしていたやつが、今度はバカバカしい質問をしてきた。お前は、それを俺に聞かなきゃならんのか? 
 だったら……答えてやろうじゃないか。
「……俺は、あいつを助けることを選ぶさ。当たり前だろう。思念体がそんなことをするってのは、予想の範疇を超えない内容だろうが。お前は……長門を信じることが出来ないっていうのか?」
「…………」
 古泉は黙って歩き出し、俺も歩を並べると、
「長門さんを助ける……ですか。じゃあ《あの日》について、僕が前から感じていた疑問について話してあげますよ」
 ――なんだ? 何となく古泉から……怒気を感じるが。
「STC理論でいえば、世界を修正する際の一番最適且つ整合性のとれるタイミングは、あなたが緊急脱出用プログラムを起動させた、パソコンでエンターキーを押し込んだ瞬間なのです。そうすれば、あなたが過ごした三日間の後で世界は修正されますし、あなたが病院で目を覚ました時間にも一致しますからね。それに、それは難しいことではないはずなんです。そのプログラムでは余計な時間修正をせずに、ただ、本来のSTCデータで世界を継続させればいいだけですから。その三日間の僕たちの記憶やあなたについては、情報創造能力によって代わりのものを用意しておけば良い。つまり、あなたが昏倒していたという記憶をです。いや、そこで長門さんの状態を戻すだけでも足りるでしょう。その世界も時間連続体で出来ているので、情報創造能力は存在しているはずですから。ですが、仮にそれらが全部ダメだとしても、あなたが時空改変の瞬間に飛ぶというのは変だ。そこで修正してしまえば……僕の知り得る限りでは矛盾だらけになってしまいますからね。だからあなたは、今日、大人の朝比奈さんの話を最後まで聞くべきだった」
 ……だからこいつは怒ってるってのか? と思っていたら、
「ですが……僕があなたの立場でもそうしていたでしょうね。その行動について文句を言うつもりはありません。しかし、もし僕が《あの日》に立ち会っていたなら、あなたとは別の行動をしていたでしょう。僕には……長門さんとあの朝比奈さんがその日へと飛ばした理由がなんとなく分かりますから」
「……何だってんだよ。それは」
「僕が答える必要はありませんね。とにかくあなたは《あの日》に行くべきなのですから、そのときに理解出来るでしょう。もし出来ないとしたら、人の気持ちを考えていないのはあなたも一緒だということです」
 ……古泉の台詞にトゲを感じるのは、俺の気が立っているからだろうか。
「あと……一つ言っておきますが、もしかしたら明日僕は学校に来れないかもしれません。その時は、僕の分までよろしくお願いします」
 こいつは学校にすら来ないつもりなのか? いや、そんなフヌケじゃないはずだ。《あの日》に行けないとしても、出来ることはあるじゃねえか。
「――お願いされたくねえな。とにかく、大人の朝比奈さんの話だけでも聞けばいいだろう。明日は死んでも一緒に来てもらうぜ」
「……無茶を言わないで頂きたい。死んでしまったら、行くことは不可能です」
 ……いちいちそんな所に突っ込んでくるんじゃないと言いたいね。ただの言葉のあやだろうが。
 古泉はまだ言葉を続けて、
「確かにさっきあなたが言ったように、感情を理解した思念体が人間を意のままにするというのは大袈裟な考えでしかありません。ですが、どのような組織であろうと、自らの考えの及ぶ限り不利益をもたらす不確定因子は、徹底的に排除しようとするんですよ。僕の機関の規模を考えると、それこそ……どんな手を使ってでもね。ですので、僕が彼女に会うことすら許されないでしょう」
「……古泉。それは《あの日》に行くのとは違って、お前次第でどうにでもなるんじゃないのか? 俺に非難じみたことを言う前に、お前だってそれをやるために頑張らなきゃいけないだろう」
「……お願いですから、同じ言葉を何回も言わせないで下さい」
 ……なんだ?やたらな雨音のせいでよく聞き取れないが、古泉の声が……震えている気がする。
「機関はそんなに甘くない。それに僕が彼女の話を聞いたところでどうなる訳でもありません。……僕は義務として、この件を上層部に報告させて頂きます。僕個人で動くより、機関が対応したほうが現状には効果がありますからね。それもあって、連絡は絶対に欠かせません。普通に安穏と暮らしているあなたには理解出来ないかもしれませんが」
「……なんだって? 確かに俺は一般的な高校生でしかない。お前が大変だってのも分かるさ。だがな、卑屈になって俺に当たるのはやめてくれ。俺の気持ちがお前に分かるならな」
 マジで、これ以上はまずい。まだこいつがふざけたことを言いやがるなら、俺はもうどうなるかわかったもんじゃ――
「確かに僕は……自分の無力さを今ほど痛感したことはない。分かりますか? 《あの日》に僕が居なかったというのは、僕が学校にすら来ていないのかも知れないということでもあるんです。それほどまでに、僕は『機関』によって警戒されてもおかしくはないんだ。今まで長門さんが感情を示していくのを指を加えて看過することしか出来なかった機関が、わざわざ長門さんを助ける理由などないんでね。その規定事項は彼女が言ったように、現在の長門さんにとって重要なことなのでしょう。それは彼女が人間らしくあるためにね。なので協力は出来ないんです。むしろ、長門さんはおかしいままであるほうが好都合で……」
「―――ッ! 古泉っ!」
 バシャン、と傘が水溜りへと落下した。
 それは俺の傘で、何故落下したのかといえば簡単だ。俺が放り投げたからだ。
 じゃあ、なんで放り投げたのか。それは当然のことをするためだ。


 ――こいつに、その先は言わせない。


 バシン、と続けて古泉の傘も地面へと回転しながら落ちていく。俺は古泉の右肩を引き寄せて体をこちらへと振り向かせ、
「いい加減にしろ! お前だって……長門が人間らしくなっていくのは嬉しいって言ってたじゃねえか! それは嘘だったとでも言うのか? お前のそれは、本当のお前じゃないだろうが! 機関にはめられた仮面にいつまでも乗っ取られてんじゃ――――」
 ……と、俺は今まで隠れていた古泉の顔をみて、言葉を失ってしまった。
 こいつの頬には雨が落ちてくるより先に、水が流れた跡があった。それを確認した俺は古泉の気持ちを理解し、ただ茫然としてしまっていた。古泉は顔を斜め下へと向けて表情を隠すと、
「……僕も出来る限りのことはやるつもりです。彼女の話だって、好奇心を抜きにしても伺いたい。……長門さんのためにも。ですが、彼女から話を聞いた僕は、理屈を抜きにして長門さんを救うほうを選んでしまうかもしれません。例えそれが、どんな結果を招くことになろうとも。今の僕にとって長門さんが苦しんでいる姿を見ているのは……何よりも辛いんです」
「……そうか。すまなかった」
 俺も古泉もすっかりずぶ濡れになっていたが、二人ともその体を動かそうとはせず、
「……あなたは《あの日》、世界を救って元通りにした。ですが……」
 ――そして次に古泉は、小さく、この時の俺には理解出来なかった言葉を呟いた。


「――あの日には、変えなければならないものがあったんです……」

 俺がこの言葉の意味を知るのは、明日になってからだった。が……、


 それを理解するのには、遅すぎた位だったんだ。


第六章・序

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最終更新:2020年03月11日 20:22