<<前回のあらすじ>>
 鶴屋さんのおうちは非常に大きな旧家です。一生働かなくてもいいくらいお金持ちです。旧家ですが、鶴屋さん本人は大変に前衛的な方です。
 もっともっと遊んでいたかったようですが、とうとう働かなくてはいけない時期になってしまいました。これが幸せなのか不幸せなのかは分かりかねますが。
 新築の喫茶店をひとつ任されることになった鶴屋さんでしたが、それがとても面倒だったので公園へ逃げ出してしまいました。
 その後、長門のマンションに連れて行かれたSOS団はハルヒによってショッキングな告白を受けてしまいます。
 SOS団は解散するようです

 

 

~~~~~

 

 

 ハルヒは高校時代、酒で苦い経験をして以来ノンアルコール主義を貫き通している。だから今日のように盛大なパーティーが開かれていても、テーブルの上にアルコールの類は一切構えられていない。まあそれは別にいいんだが。
 盛大なパーティーといっても、どこか大きな会館を借り切って大人数ではやし立てたり、豪華絢爛に着飾った集団がマスカレードをつけて優雅に微笑んでいるわけではない。
 場所は長門のマンションの居間。服装もいつも通りのラフな私服。パーティーなんて大げさな言い方じゃなくて、仲間うちのささやかな会合と言った方が適切なものだ。
 しかし料理は鶴屋さんが用意してくれた豪華食材を使ってSOS団三人娘が腕によりをかけて作られた世界にひとつだけのメニューだ。どんなセレブなパーティーでもこんな食事を口にすることはできまい。
 たとえここが富士の樹海の最深部であったとしても、こんな世界にひとつだけの満漢全席が豪勢に盛り付けられていれば、そこは超豪華グルメパーティー会場と化してしまうに違いない。

 

 まあ、今回はグルメパーティーじゃなくてSOS団解散記念パーティーなわけだが。
 テーブルが布巾で拭かれ、人の心をあやしくくすぐる芳香を放つ料理が次々と並べられていく。待ちくたびれたぜ。この晩飯を腹いっぱい食うために、俺は朝と昼の飯を抜いてベストコンディションを設定してきたんだ。
 こみあげる唾液を飲み込みながらジューシーに揚がった狐色のから揚げに見とれていると、コップを並べていたハルヒに 「ボーっと突っ立ってちゃ邪魔でしょ!」 と怒られてしまった。
 ひとりだけ熊のようにウロウロしているのも悪いので何か手伝おうかと逡巡するも、狭い室内をSOS団メンバー (俺以外) 全員が慌しく動き回っているんだ。手を貸せることは何もない。
 することもないのに同じ室内にいるとハルヒから 「団長が働いてるってのに、雑用がサボるな!」 と突き上げをくらってしまいそうだったから、俺は身を縮めてこそこそと廊下へ避難した。
 とりあえず宴の準備が終わるまで身を隠していよう。皆が忙しそうに動いてる横で暇そうにしてるのも気が引けるからな。

 

 こそこそとトイレに隠れて家に電話すると、妹が受話器に出たようだ。今夜の晩ご飯は食べてくるからいらないと言う旨を両親に伝えてくれと伝言を頼むと、妙に不機嫌そうな声で妹が受話器越しにぼやいた。
『またSOS団のみんなで一緒にいるの?』
 え? ああ、そうだが。それがどうかしたのか?
『キョンくん、いつもSOS団と一緒にいるじゃない。夜くらい家に帰ってきてもいいんじゃない? キョンくんはハルにゃんたちのおもちゃじゃないんだよ』
 ここ数日妹がSOS団の話をする時、わずかな変化だが、不機嫌になっているような節がある。しばらく遊んでやっていないんですねてるんだろうか? まさかな。もうあいつだって立派な大人なんだ。
 辺りを照らす電灯の明かりが、少し傾いだように思えた。

 

 子供だろうが大人だろうが妹は妹であり、何歳になろうとも俺の大切な肉親に違いはない。しかしだからこそ距離をおくことだってある。俺の都合で距離を作ることだってある。たとえ家族同士であろうとも人と人との間に一定の距離は必要だと思うからな。
 その距離を読み間違えた人がKYと言われたり、ストーカーなんて馬鹿げた事をしたりするのさ。距離を図るということは相手を認めるということだ。
 人は他人の存在を認識しているからこそ、相手のテリトリーを侵さないよう留意していられる。もしもそのテリトリーと己のテリトリーが重なり合ってしまったら、人はそれを不快と感じ自己領域から相手を追い出そうとするだろう。
 他人から煙たがれる人は、たいていこの近すぎず遠すぎずの距離が測れていないんだ。
 遠慮して距離をとりすぎる人は相手に背を向けてその存在に心を許していないと受け取られがちだし、逆に近すぎると馴れ馴れしく、相手の領地を征服しようしている暗喩だと受け取られかねない。
 身内同士ということで、俺と妹のテリトリーは互いに同種のものであり、特に警戒を強めることもなく開かれているけれど。それでも、何故か最近は無性に妹との距離感が気になるのだ。
「俺のことを心配してくれているのは分かるんだが、俺のことは放っておいてくれていいぞ。夜が遅くなって迷子になるような年でもないしな」
『ダメだよ。キョンくんは帰ってこないと。家族なんだから』

 

 たまに妹と話が合わなくなるんだが、俺なりにその原因をいろいろと考えてみた。何が誘因で、俺と妹との論上にすれ違いが生じてしまったのか。
 妹は言う。キョンくんのためだから、私が○○してあげるから、キョンくんは△△するべきだ、と。
 朝俺をたたき起こしに来ることも、朝ごはんを作ってくれることもありがたいことに違いはないのだが、なんて言うか、こう言うと悪いが……俺にはそれがおしつけがましく感じられるのだ。
 朝は私が起こしてあげる。ごはんは私が作ってあげる。キョンくんが暇そうだから遊んであげる。夜は寂しいだろうから、私がむかえてに行ってあげる。私が。なんでもしてあげる。

 

 私が、私が、私が、私が私が私が私が───

 

 ───だから、私が必要でしょう?

 

 だから? 俺は、妹にこう言わざるをえない。
「なあ。もうそろそろお前も、兄離れした方がいいんじゃないか?」
『えっ……』
 電話の向こう側の妹の吐息が受話器越しに伝わってくる。まるで俺に何かを言い返そうとして、口外する直前にそれを思いとどまった。そんな感じの躊躇が電子音を通じて感じられた。
 世話を焼きたがる人によくある傾向だ。怠惰な性質の人に世話を焼き (たとえそれが押し付けであろうとも)、自分がその人にとって必要な人間であろうと主張する。
 認められたい。自分を見てもらいたい。私という個人を認知し、肯定してもらいたい。顕在したい。存在したい。でも、それを為すための具体的な方法が分からない。
 そういう人は、自分で自分自身にひどく曖昧で、そこから価値が見出せないから、まるで自分の姿を鏡に映し出すように、他人に自己という姿を知らせ、それが有益なものであると思い込ませようとする。
 有益ということは価値があるということだし、価値があるということは形を持ちえるということ。形を持つということは、曖昧に濁っている自分像をはっきりと目視確認できるということにつながる。
 そういう人は一様に、相手のためだと言いつつも、その実、自分のことしか考えていないことが多い。俺は、大好きな自分の妹にそんな有言無実な人間になってもらいたくない。
『……でも、私がいなきゃ……キョンくんは』
 だから俺は妹に言わなければならない。俺は妹の声を途中で遮り、明瞭な意思で言葉を発する。
「俺は大丈夫だ。自分のことは自分でできる」

 

 俺にも悪い点はある。だらだらと怠惰な生活を送っていたことが、結局妹に悪影響を及ぼしてしまったと言えなくもないんだ。
 負い目を持つ者、自尊心の低い者。そういう人が複数人集まり互いに自分の自己顕示欲をなすりつけ合う。そうして互いに、自分が相手にとって必要な人間であると認識し合う。共依存というやつだ。
 きっとあいつは、日常の何かから逃げていたんだと思う。何に背を向けていたのかは知らないが、何かの苦難から目をそらしていた。しかしそんな自分が嫌だった。そんな自己嫌悪から逃げ出そうとしていた。その逃げ場が、畢竟俺だったのだ。
 妹は俺に依存していた。俺に必要な人間であると認めてもらおうとして、世話を焼いていた。俺がもっとちゃんとしていればそんなこともなかったろうに、そのせいで妹に逃げ場を与えてしまった。
 怠惰な兄の世話を焼くことに自分の存在意義を見出したあいつは、嫌なことから目を反らして生きる術を見出した。楽な道に進み、困難に向かい合って自分で自分の姿 (価値というべきか?) を目視確認しようとする努力を怠ったのだ。
 はっきりしない俺の態度が、あいつの人間的成長を間接的に圧迫していた。だから、それに気づいたから、俺は妹にはっきりと明言したのだ。
 もう、俺にお前の世話は必要ない。だからお前は辛い現実に身体からぶつかっていき、自分を誇って生きてくれと。
 俺は通話を切られた携帯電話を閉じ、重い頭を抱えてトイレから出た。
 そこで怒ったハルヒにつかまった。

 


「団長や他のみんなが一生懸命準備してるのに、料理もしてないあんたが何でトイレにこもってサボってるのよ!」
 あぁ、いや、サボってたわけじゃないんだぜ。今夜は晩御飯いらないと家に連絡してただけなんだ。あと、妹に人生の先達として生きるという意味を哲学的な部分までにおわせつつ講義したりだな……
「抹香臭い言い訳なんて聞きたくないわ! だいたい携帯で家に連絡なんて10秒もあれば十分でしょ。トイレにずっと立てこもっていた理由にはならないわ」
 ……確かに、それはそうだな。ごもっとも。
「罰として、今夜のパーティーの司会進行役はあんたに担当してもらうわ! 意義は認めないわよ!」
 マジかよ。勘弁してくれよ。そんなのはお前か古泉の役回りだろう。俺にやらせたってつまらないパーティーになるだけだぜ。
「いいのよ。SOS団内の雑用は全部あんたの専売特許でしょ。ごちゃごちゃ言わずにやるの!」
 へいへい。ったく、しょうがないな。SOS団での最後の大役をまっとうさせていただきますよ。

 

 

 えー、本日は大変お日柄もよく……
「何つまんない前置き言ってるのよ。さっさと本題に入りなさい」
 ええい、人に司会進行をやらせておいて。文句つけるんじゃない。
「挨拶はどうでもいいから。乾杯が済んだら一発芸をやりなさい、一発芸。思いっきりうける芸じゃなきゃ許さないわよ」
 無茶苦茶言うなよ。俺にそんな才能はない。笑える芸を見たけりゃ、古泉に落語でもさせりゃいいだろ。
「はっはっは。僕もそちらの方面には詳しくないもので、ご期待に沿いかねると思いますよ。寡聞にして、申し訳ないです」
 とにかくだ。俺に一発芸は無理だ。なんならハルヒが手本を見せてくれりゃいい。
「ダメよ。私は採点専門なんだから。司会やるのはあんたの役。役割分担は大事なのよ。分かってる?」
 分かってる?と訊かれてもな。不条理を感じてやまないんだが。役割分担も大事だが、適材適所で司会に向いた人を配してくれよ。
「ぶつぶつ言ってる暇があれば、バック宙返りでもやりなさい」
 お前は俺に何を期待してるんだ。100%成功するはずのない体術をやらせてどうしようというのか。たすけてピコ魔神……。
 俺が反論したところでハルヒが聞くはずもないか。それでもやれ、いいからやれ、とやたらバック宙を推奨するハルヒに根負けして、バック宙の代わりに床の上で後転してやった。後方回転なんて小学校の授業のマット以来だぜ。
 そんな程度の低いバック宙があるか!とやたらご立腹の団長殿だったが、しかたないだろう。これが俺のフルパワーなんだから。

 

「僕らは皆、あなたがバック宙をしようとして怖気づき許しを乞うか、それとも後頭部を床にしたたかに打ち付けるかを想像していたのですが。思ってもみなかったあなたの後方回転という切り替えしにはしてやられた思いですよ」
 いつも通りの慇懃な笑顔で、褒めているのか小馬鹿にしているのか分からないセリフを口にして方を竦める古泉。しかしやはり馬鹿にされているんじゃないかと感じてしまうのは、きっと長年積み重ねてきた経験からの条件反射だろうな。
「馬鹿になんてしていませんよ。あまりにもいつも通りの、SOS団らしい展開だったのでとても微笑ましく、ハートウォーミングを感じていただけです」
 ハルヒと鶴屋さんが朝比奈さんに前転を強要している現場を傍観しながら、俺と古泉はテーブルの後方席でぽつぽつと語り合っていた。別に意味があって古泉と並んで座っているわけじゃない。たまたまだ。
 確かに、こうしていると何の変化も感じない。いつも通りのSOS団だ。俺がため息をつきながら、古泉が傍らで肩をすくめながら、長門が無表情に座り、ハルヒと鶴屋さんが朝比奈さんにかまう。
 今日がSOS団の解散の日だなんて、面と向かって言われてもそれが本当だとはにわかに信じられない。まさに、いつも通りローテーション。気をぬけば明日も明後日も、毎日がリンクするように、変わらずSOS団は継続していくのでは、と思える。
「それにしても。あのハルヒがねえ。SOS団を解散するなんて言い始めるとは。未だに信じられないぜ」
 朝比奈さんがハルヒと鶴屋さんに前倒しに転がされているのを眺めながら、古泉は小さく息を吐き出すように笑った。
「以前、僕が文化人類学の通過儀礼の話をしたことを覚えていますか?」
 通過儀礼? ええと確か、バンジージャンプとか、抜歯とか、そういう痛い話だったっけ?
「そうです。人間が成長していく過程で、次の段階の期間に新しい意味を付する儀式のことです。涼宮さんはこのイニシエーションを経験したからこそ、SOS団を解散する気になったのでしょうね」
 ハルヒが、そんな痛い儀式を? いつのことだ? バンジーだか刺青だか知らないが、ハルヒがそんなことをしたと聞いたことはないし、それにその程度でハルヒがSOS団を解散するとは思えないんだが。
 クエッションマークが浮かぶ俺の頭を知ってか知らずか、膝をつきながら古泉は湯飲みを傾けた。

 

「通過儀礼は、なにも苦しみや痛みを伴わなければいけないというものではありませんよ。むしろ、苦痛を伴ったとしても、自分が人生の次の段階へ進まなければならないという意識を持っていなければ、無意味とも言えます」
 そういや以前、成人式に行ったからと言って大人の仲間入りを果たしたと実感するわけじゃない、という話をお前から聞いたことがあったな。
「まあ痛みこそなかったようですが、ここしばらく涼宮さんはずいぶん苦しんでいましたよ。お忘れですか? 数日前の、世界中の時間軸が数年前まで巻き戻された事を。あれも涼宮さんの苦悩が引き起こしたイニシエーションの一環だったようです」
 ……わけが分からなくなってきたぜ。またそうやって俺をからかって遊んでるんだろ?
「いえいえ。そういうつもりではないのですが。通過儀礼にたとえたのは話を進める上での便宜ですよ」
 湯飲みを机上に戻し、古泉は膝を曲げたまま話し始めた。

 

 

 涼宮さんはずっと悩んでいたんです。
 私たちはこのままでいいのか? いつまでも無職のままでいいというわけはないけれど、だからと言ってどうすれば良いか分からない。
 なんとかしなければならない。就職もしなければならない。しかしそれも思うようにいかず、ままならない。
 社会に出ようとする意欲は十分あるのに、そこでは自分の価値感が通じない。世間と自分の間に温度差がある。いや、本当は温度差など気にならないほど小さな差でしかないけれど、私にはその小さな差が耐えられない。
 社会に出れば思い通りにいかないことも多々あるだろうとは覚悟していたけれど、理性がそれをストレスとして認識してしまう。そして、それを耐え忍ぶよりも。それでも私にはSOS団がある。
 就職先に納得がいかなくても、社会に得心がいかなくても、SOS団に行けばみんながいるんだし。無理して働きに出る必要もないわ。
 でもこの年になってフラフラしてるのも嫌だし、ニートとか無職とか言われるのも癪だし。それに、SOS団にいつまでもこだわり続けるわけにもいかないし。皆も早く一人前に自立しないといけないし。
 逃げていてはいけない。逃げているだけでは凝視しなければならない現実が見えなくなってしまう。ぼやけてしまう。背を向けてしまっては見えなくなることがある。そしてそんな、目線を反らして見えなくなるものこそが本当に大事なものなんだ。
 SOS団は過ごしやすい我が家のようなものだけど、それが皆の視界を覆う目隠しになってしまうのは堪えられない。
 当たり前のことだが、前が見えなければ前には進めない。前を見ようと思ったなら、前を向かなければならない。
 前を向くということは、つまり───

 

 

「歯を抜いたり身体に針を刺したり、分かりやすい直接的な痛みを与えるだけがイニシエーションではありません。人が自分自身を変えようとする苦しみは、どんな形であれ全てイニシエーションに通じます。それが社会に適応しかねるという懊悩であってもね」
 壁に背をあずけた古泉は相変わらずの様子で、ハルヒに促されて前転する長門の動作を眺望していた。
 俺は涼宮ハルヒという人間を誤解していたのかもしれない。と、ふと思った。
 もう長い付き合いなのだから、あいつのことはよく知っていると思い込んでいた。それが、どうやらそもそもの間違いだったようだ。
 あいつは普通であることを嫌い、平凡な日常に悩むことはあっても、それ以外のことには基本的に関心を抱いていないと思っていた。

 

 ハルヒは、そうだった。この世界が常識を保っていられるのは、あいつが誰よりも常識人だったからに他ならないんだ。
 だからハルヒは、常識的であるが故に非常識に憧憬を抱いていたんだ。ただそれだけのことに過ぎなかったのだ。
 きっとハルヒは、俺たちの誰よりも現実を見据えていたに違いない。だからずっとあいつは、この惨めな無職人生に悩み、苦しんで、もがき続けていたに違いない。そう。俺たちに見えない場所で。
 あんなにもハルヒは駆けずりまわっていたじゃないか。なのに俺はそれが、行動力旺盛なハルヒの日常的な姿だとハナっから思い込んでいて。
 こんなにもあいつの近くいたのに。こんなにも長い間あいつの隣にいたのに。こんなにもあいつを理解していると思い込んでいたのに。
「誰でもそうですよ。自ら望み無職であるのではない限り、悩んだり苦しんだり、絶望したり息苦しさを感じたりしているものです。あなたもそうだったのではないですか?」
 きっと俺は無意識のうちに、口をへの字に折り曲げていたことだろう。古泉の問いかけが的を得ていたからだ。
 確かに俺は、そうだった。無職であることに無力感を感じ、怠惰な自分に嫌気をさしていた。
 こんな不景気な今の時代が悪いんだ、政治家が悪いんだ、と大した主張もなく斜めぶったことを考えながらすごしてきた。
 たとえるなら、それは23時59分59秒。いくら時が過ぎようと、1秒経とうと1年経とうと、この固化して変色した考え方を変えない限り、俺の中の時計の日付は変わらない。

 

 忘れ物をしていたことに、今やっと気づいたような思いがする。
「理想と現実のギャップに苦しむことができるということは良いことですよ。苦しみに苛まれている最中にはそれを良いと感じる余裕はないでしょうが、しかしその苦しみを踏破できた時、人はさらに熟成された人間へと進化することができるのですから」
 古泉の言わんとすることも分かる。たとえるならば、俺たちの持つ類の悩みとは井戸を掘る行為に似ているのだろう。
 井戸を掘っている最中は疲れ、汗が噴出し、体力も消耗し、スコップを持つ手が痺れて痛むだろう。しかしそんな痛みに耐えて穴を掘り続けていれば、穴はより深くなり、穴としての体裁を整え、やがては水脈に行き当たるに違いない。
 テストで高得点を取ろうと思えば必死に勉強しなけりゃいけないし、金を稼ごうと思えば額に汗して労働しなけりゃならない。
 そういうことなんだろう。より立派な人間になるためには、それなりの、哲学を学ばなくてはいけないなどと言うつもりはないが、様々なことを考え、感じ、経験し、自分の中でそれらをまとめあげなければいけないのだろう。
 いつだったか、谷口は俺に言った。なんの感慨もなく社会に出たって、大人らしいのが外観だけで中身が伴っていなければ、より大きな苦労を味わうだけだし、後悔に打ちのめされると。
「だから僕らは苦しむのです。悩めば悩むだけ、人が掘り下げる穴は深まります。受け入れが広く、深ければ、それだけ多くのものを内包することができるのですよ」
 ハルヒの方を眺める古泉の表情は、とても穏やかだった。
「涼宮さんのイニシエーションは、おそらく終わったのでしょう。彼女は理想と現実のギャップの苦しみから、彼女にしか知りえない悟り的なものを感得し、その上でSOS団を解散するのが最良だと判断するに至ったのでしょう」
 俺の方へ向き直った古泉の顔は、いつも通りのうさんくさい笑顔に戻っていた。
「俗な言い方をするならば、涼宮さんも大人になれたということですよ」

 


 重い腰を上げて長門のマンションから出た俺は、肌寒い夜風に身震いしながらズボンのポケットに手をつっこんだ。
 俺の一発芸に始まり、回ったり走ったりはしゃいだり、語ったり歌ったり転がったりしていたSOS団解散パーティーが解散パーティーっぽくなくなってきた頃合を見計らい、俺は苦笑しながら食料の買出しに国道沿いのコンビニへと出かけた。
 今日は、とても意義深い日になったと、俺はこみあげる感情をおさえきれずに一人でニヤニヤと古泉のようににやけていた。
 思い返すだけでおかしくなる。まったく、せっかくのSOS団の解散パーティーだと言うのに。

 

 あれは3,40分前のこと。朝比奈さんが 「SOS団がなくなると、寂しくなりますね」 と涙ぐんでいた時のことだった。
「今度うちがさ、新しい喫茶店をオープンさせることになったんだよね。んで、その店の経営が私に一任されちゃってるんだけどさ。従業員も決まってないんだよ。みんなさえ良ければ、職場を提供するからそこで働かないかい?」
 最初は鶴屋さんが何を言っているのか分からなかったが、次第にその意味が分かってきたことで、最高にご機嫌だったハルヒが大声で鶴屋さんに詰め寄っていた。
 そんなに力いっぱい肩を揺すっていたら、鶴屋さんの首がとれちまうぞって言ってハルヒを取り押さえたっけ。
「従業員が5,6人いればいいな、とか思ってたけどさ。まだ竣工もしてない店だし、従業員の募集もしてなかったんだ」
「え、いいんですか、鶴屋さん?」
 困惑気味の朝比奈さんの顔には 「またノリだけで言ってるんじゃないのかしら」 と書いてあるように見えた。
「もちろんさっ! SOS団の皆なら信頼できる人材ばかりだし、立派に店を盛り上げてくれるだろうって確信してるもんね! 私もみんなが一緒にいてくれたら、めがっさ楽しいお店になるって信じられるし!」

 

 ノリだけで話を進めるのはSOS団の悪い癖だが、良い所でもあると素直に思えた。
 新生SOS団の結成と方向性が決まったわね、とまた勢いだけで新団体旗揚げを宣言するハルヒを止める者が誰もいなかったのは、ハルヒを止められないと諦めていたからではない。誰もがハルヒと同じ思いを持っていたからだったからだ。
 一瞬のうちにあっさりと就職が決まり面食らっていた俺たちだったが、少し落ち着いて冷静になってみると、今後の身の振り方をみんなで改めて話し合う必要がありそうだと言うことになり、足りなくなったジュースやおかずをとりあえず俺が買いに行くことになったのだ。
 いつもならパシリに使われることに抵抗を感じるところだが、今日はそんなものは一切感じない。ただ、自分も皆のために動いてやりたいという積極的な心地よい満足感があるだけだ。
 とにかく早く買う物を買って帰って、みんなで新団体の組織構成について話し合いたいと思う。
 いい機会だから団体名をSOS団から変えてみたらどうだろう。俺も雑用から格上げしてくれないか。などなど。いろいろと打診してみるつもりだ。
 俺がコンビニに行ってる間に全てを決められていないことを願いつつ。

 

 

「今日はまた一段と寒いわね」
 街頭のほのかな灯りの下で物思いにふけっていた俺は、背後から聞こえた聞き覚えのある声に少し驚いて振り返った。
「何がいいかしら。私は中華まんなら肉まんがいいけど、みくるちゃんは肉まんよりピザまんとかの方が好きかもね。有希は、やっぱりカレーまんが好きかしら?」
 白いカーディガンを羽織ったハルヒが、早足で近づいて来て隣に並んだ。
「あんたは何がいいの? 肉まん? ピザまん? まさかあんまんじゃないわよね? 私あんまんが苦手なのよ。だから、あんたが勝手にあんまんを買ってこないかどうか見張りにきたの」
 俺の腕の横にある、中華まんみたいにつやの良い頬が少し印象的だった。

 

「お茶買って行きましょう。ジュースばっかり飲んでたら口の中がべたべたするし胸がつかえるもんね」
 いつものことではあるが、今日はよくしゃべるな。そういう衝動にでも突き動かされているのか?
「あら、ペラペラしゃべるよりも、有希みたいに無口な方が良いってこと?」
 極端なんだよ、お前の感覚は。その中間がバランスよくていいんじゃないか。
「なんだか、胸がいっぱいになってるのよ。今はね。だから胸の中にあるものを全部出しちゃいたいような気分なの」
 ふーん。そんなもんかね。
 人通りの少ない宵の街路を、散歩をするように俺とハルヒが並び様に歩いていく。月明かりが、少し暖かく感じられた。

 

 俺、料理免許とろうと思うんだ。ラーメン屋とか、自分の店を持ちたいとか思ってるわけじゃないけどさ。なんか、そんなんもいいかな。なんて思って。
「そう。いいんじゃない?」
 暗い夜道はまっすぐに伸びている。乾いた風が前髪をなで上げるように吹いて行く。垂れ下がったカーテンのような街灯の光が、しんしんと降り積もる雪のように胸の中へしみこんでくる。
 横目でちらりとハルヒの頬に視線を向ける。ハルヒは何かを考え込むような表情で、さっきまでのハイテンションが嘘のように落ち着いた様子で空を見上げていた。
 塀向こうの国道から車のエンジン音が聞こえてくる。遠くの線路から列車の走行音が軽いリズムを伴って響いてくる。そんな当たり前の、違和感ない日常の出来事のひとつとして、隣をハルヒが歩いている。
 ハルヒと肩を並べていることに何の感情も芽生えない。今はそれが当然、当たり前のこと、意識しなくても鼻が酸素を吸い込んでいるように至当のこと。今は。
 ああ。そうか。と、俺はそこに至ってようやく気づいた。
 何に気づいたかって? 野暮なことは訊くもんじゃない。くだらないことさ。

 

 ハルヒ、これやるよ。
 俺はポケットから取り出した銀のブレスレットをもったいつけもせず、ぶっきらぼうにハルヒへ投げてよこした。
「なによ、これ? ブレスレット?」
 ああ。こないだ買ったんだ。何て言うか、お前への誕生日プレゼント。包装もなしで悪いが、別にいいよな?
「私の誕生日? 私の誕生日はもっと先なんだけど。あんた、古泉くんの誕生日と勘違いしてるんじゃない? それならまだ分かるわよ」
 まあ、いいじゃないか。深い意味はないんだ。やるって言ってるんだから、受け取っておけよ。
 手に取ったブレスレットをまじまじと観察していたハルヒは、それを無言で目線まで掲げ上げた。月の光を反射する銀の腕輪は、ハルヒの手の上できらきらと高価な宝石のように輝いていた。本当は安物なんだけどな。
「そういえば、こうして思い返してみるとあんたからまともにプレゼントもらったのって、これが始めてだわ」
 活発なハルヒにならもっと派手な物が良かったかなとも思ったが、こうしてみるとシンプルで落ち着きのある物の方がこいつには似合うんじゃないかと思えてくる。
「ありがと」
 小さな声で、ハルヒはぽつりとつぶやいた。傍若無人な涼宮ハルヒにはあまり似つかわしくないセリフだな。似つかわしくない言葉だったからこそ、普段とのギャップが大きくて。なんだか少し動揺してしまった。
 俺とハルヒは夜風の中、言葉も無く歩いていた。これほど心穏やかになっている自分を意識するのは、本当に久しぶりのことだと思った。

 

 マンションからコンビニまでの距離は決して近くないけれど、道中で人とすれ違うことのない静かな時間だった。
 やたらとまぶしい光を正面から受けながら自動ドアへ近づくと、それまで横に並んでいたハルヒがごみ箱の前で立ち止まった。
「早くしなさいよ。皆も待ってるんだからね」
 お前、入らないのか? 外は寒いぞ。
「私はいいの。いいからほら、行ってきなさいよ」
 いいのか? お前が見張ってないと、あんまん買ってくるかもしれないぜ?
「あんたが好きな物買ってくればいいわ。あんまん買いたいんなら買えばいいわよ」
 ハルヒはくすんだ自販機にもたれかかると、腕に巻いたブレスレットを見つめながらそう言った。まるで欲しくて欲しくてたまらなかったおもちゃを買ってもらった子供のように、しげしげと。
 分かったよ。じゃあ、すぐに買ってくるからそこで待ってろ。肉まんもたくさん買ってきてやるから。
「うん。待ってるわよ」
 顔を上げたハルヒは目を細めて微笑みながら、小さく手をふった。

 

 自動ドアが低い電気音をたてて横へスライドする。コンビニ内の暖かい空気がゆるゆると肌をなでる。
 あったかい。
 そうだ。とそこで思い直し、俺はハルヒの冷えた手をとって引っ張った。
 ハルヒは少し驚いたふうに目を開いたが、俺の手に引かれるまま店内に入ってきた。
「どうしたの?」
 ハルヒの冷たくなっていた手が、次第にあたたかくなっていく。水銀灯のような明かりを含む大きな目が、俺を見つめていた。
 俺だけに買い物を任せるなよ。お前も買いたい物があれば選ぶといい。店の前で待ってるだけなんて、つまらないだろ?
 尻込みせずに、何にでも飛び込んでみるもんだぜ。そっちの方が楽しいし、お前らしいじゃないか。
「そうね。そうよね」
 店内には誰もいない。俺たち以外の客は皆無だ。店員も陳列棚の向こう側でかがみこみ、商品の点検を行っているみたいだ。
 まるでこの場には、俺とハルヒしか存在していないような錯覚さえもする。
「買いたい物があれば、一緒に選んだらいいものね。私たち、これからも一緒なんだし。ずっと、一緒がいいよね」
 ハルヒは銀の腕輪を巻いた手首をなでながら、「うん」 とうなずいた。
 FM放送の送る音楽が流れる中、踊るような仕草で手元の小ぶりな買い物かごを手に取ったハルヒは、押し付けるようにそれを俺に手渡した。
「んじゃ、さっさと買い物済ませて帰りましょう!」
 整然と棚に並べられた化粧品の前を元気よく小走りに通り抜け、大型冷蔵庫の前でハルヒは立ち止まるのももどかしく振り返る。
「絶対に、絶対にずっと一緒なんだからね!」
 髪をかきあげるハルヒの動作が、妙に懐かしい風景のように思えた。
 そうだよな。それがいいよな。と。
 これから先、何が待ち受けているか分からない新しいことへの挑戦だけど。仲間たちと一緒なら不安など何もない。むしろ楽しみなくらいだ。
 何があろうと、大丈夫。きっとうまくいく。性根を据えるほどの覚悟はできていないが、何があっても過去を振り向いたりはしないつもりだ、という覚悟は決まってるんだ。
 俺はゆっくりとした足取りでハルヒの後を追う。ハルヒも手を振って催促しながら、それを待つ。
 焦ることはない。そうさ。今までだって、別に焦ることはなかったんだ。
 時間は、まだまだたくさんあるのだから。

 

 

  ~SOS団の無職 ・ 完~

 


|