(消失を読んでない方は、ネタバレ危険です。一応)

私の選んだ人 第5話 「:古泉一樹」


一樹の体を触診していた私は、あまりにも酷いソレに気付いた。

……彼は助からない……

私の中で何かが弾けたような感覚と共に、世界が静止した。


私が正気に返るまでに掛かった時間は恐らく1秒以下だった筈。でも、その間に自分の頭から完全に血の気が失せていた事に気付く。
恐ろしい予感と気配、そして貧血性の眩暈を感じながら、一樹の顔を確認する。
私の首は、焦る私の意識に反して緩慢な動きしかしない。地面が揺れている。

……しまった。
一樹が目を開けている。私の顔色に気付かれた!
私自ら彼の生き残ろうとする気力に止めを刺すような事を……。
こうなる事を恐れ、救護班を押し退けてまで私がやったというのにッ!

悔恨の念、自責の念が押し寄せてくるのを、私は唇を噛み締め、手首に爪を立てて、痛みで脳の覚醒を図り、振り払う。
落ち着け、落ち着くのよ。私。
今は既に犯した過ちを悔やんでいても仕方が無い。自分を責めるのは後。今私には成すべき事がある。
一樹はまだ生きている。最後の1秒まで、諦めてはいけない。

私は、自分の弱い心をフィルターに掛ける。取り乱すのは、一樹が死んだ時でいい。

意識して呼吸を整え血圧を高めると、フラつく足を無視して立ち上がり、少し離れて救護班の1人に手招きする。
救護係は素早く私の前まで来ると私の口元に耳を向けた。彼も理解しているのだ。私がこれから言う言葉を決して一樹に聞かれてはならないという事を。

「肋骨が6本折れ、破裂した内臓が多数交錯している。脊髄も損傷していると思う。これでは閉鎖空間消滅まで持たない。外傷の応急処置が済んだら、モルヒネを3本打ってから外へ運んで。動かす時には折れた肋骨を肺に刺さない様に細心の注意を。でも早くして。1秒でも」

背後で、今日最初の1体目の神人が崩れ落ちる。
あれは一樹の手柄。
もし死ななければ彼はまた階級が上がるだろう。
もし死ななければ。

「私のここでの任務は終った。負傷した部下に付いて行く。後の事は任せると伝えて」
私と同格のアナリストにそう告げると、彼は無言で頷きながら、担架に乗せられた一樹に目をやる。
が、彼はすぐに顔を逸らした。その顔には明確な諦めの色が浮いている。
でも、私はまだ諦めていない。

私は鬼。だからあなたをこんな簡単に楽にはさせない。

「古泉、1秒でもいいから長く頑張りなさい。そうすれば私が必ず助ける」
私がそう言うと、一樹は少しだけ目を開けてゆっくりと私に微笑みかけ、また瞼を閉じた。彼の眉間には深い皺が刻まれている。彼の身体がシャットアウトしていた突然の多過ぎる痛覚情報が、今彼の脳に向け押し寄せている。モルヒネ3本でどれだけ緩和できるだろうか。痛みによるショック死だけは避けなければ。肋骨が肺に刺さるのもまずい。そうなると仰向けているだけで肺に流れ込む血液に因って溺死してしまうから。でも腹部損傷も激しく脊髄も損傷している為、横臥させる事も出来ない。彼がもし咳を始めたら、高確率で、詰む。

「古泉一樹!」
……意識が既に混濁しかけている。良くない兆候。
「急いで担架へ」
既に朦朧としている一樹を丁重に慎重に担架に乗せる。
涼宮ハルヒの精神が今すぐ安定してくれたら、もしかしたら閉鎖空間消滅がギリギリ間に合うかもしれない。でも、今賭けるべきなのは、その可能性じゃない。

残り時間を予測し、細かく震える指で時計を確認する。一樹の血液に塗れぬるぬると滑る。……見辛い。

救護班の2人が、一樹の乗せられた担架をタイミングを取って持ち上げ、空中で静止して待つ能力者二人に手渡した。




私達が外へ出ると、待機していた新川がすぐに異変に気付いた。彼は黒い偽装タクシーのエンジンをかけると飛び出し、素早く後部座席両側のドアを開ける。地平線へ半分隠れた西日の赤い光線が、太陽の無い世界から帰還した私と担架を運ぶ能力者達の目を直接射る。強く吹き付ける生暖かい風が私の髪を散らし顔を打つ。

新川に声を掛ける。
「ヘリは?」
「既に帰投」
こんな時に限って…。
「多丸は?」
ならば警察車両の方がまだタクシーよりは速いが、もし近くに居なければ仕方が無い。
「私の方が速い。しかし一体どちらへ?」
新川の疑問は当然。本来ならば、手術で助かる様な怪我なら閉鎖空間内に留まった方が生還率が高くなるのだから。
「長門有希の所へ」
「そ、本気ですか?……いえ、この様な時に、些か愚問に過ぎました」
「急いで」
無言で頷いた新川と救護班が一樹を後部座席に担架ごと運び込み固定する間に、一樹の意識がどうやら一時的に回復したらしく、動かされる度に風の音の様な呻きを上げている。顔が苦痛に満ちている。全く動かなくなった彼の左手とは対照的に、右手は何かを求めるかのように虚空を掴んでいる。
その手が、私の心臓を直に掴んでいる様に感じる。

新川が私の耳元で囁いた。
「残り時間は?」
私も小声で返す。……余り意味はないかもしれないけど。
「恐らく、限界まで持って20分。私の勘では14分は持たない」
新川が何かを言いたそうに一瞬口を開きかけた。が、そのまま閉じると顎を引き締め、作業に戻る。

新川が驚くのも無理は無い。確かに時間は無い。でも、それよりも長門有希に助けを求める事自体が、機関の人間なら有り得ない選択。
情報統合思念体と機関は今SOS団を介して一時的に休戦条約を結んではいるものの、基本的に相容れない立場にある。機関は「涼宮ハルヒの永遠の現状維持」を求めて行動しており、情報統合思念体は「進化の可能性となり得る鍵を涼宮ハルヒから引き出す」事が最終目的だから。ただ、私は情報統合思念体ではなく、長門有希自身に、一縷の希望を抱いている。

助手席に乗り込み、衝撃を与えないよう慎重にドアを閉める。
一樹の体の固定作業を終えた新川も、運転席に素早く身を沈め、なるべく衝撃を与えないように足で抑えながらドアを閉める。

車はスムーズなスタートを切り、景色と、一樹を運んで来た2人の攻撃能力者達の暗く沈んだ顔が一気に後方へ遠ざかる。一樹の死を確信している顔。
身体を捻って後部座席へ寝かされた一樹を見ると、歯を食いしばり、夏でも涼しげな顔をしている彼の顔に見慣れない汗がびっしりと光っていて、ありありと激しい苦悶の表情を浮かべたまま、また意識を失っている。
今の内に本部に連絡しないと。
携帯から緊急ラインへ発信すると、いつもの様に1コールを待たずに繋がり、感情の起伏が感じられない低い男の声が流れて来る。

『森園生、どうした』
「古泉一樹が神人の攻撃を受け危篤状態。恐らく13分以内にTFEI長門有希の助力を得られなければ助からない。私はこれから古泉一樹を連れ、長門有希の住むマンションへ向け移動する。長門有希が在宅中か確認したい」
『そのまま待て』
電話の向こうでキーボードを叩く音。
『確認した。TFEI長門有希は12分前に帰宅している。その後外出した形跡は無い』
「了解。では、長門有希の住むマンション前に救急車両1両と人員の緊急手配を申請する。それから新川車両の緊急車両化、長門有希に対しての状況説明を申請する。長門有希を、こちらの到着前にあらかじめ救急車両脇で待機させるよう、手配して欲しい」
『3点の申請を受理する。だが1つ留意点を先に述べる。言うまでもなく我々には古泉一樹と引き換えに情報統合思念体と交換する物はない。そのように動け』
「了解。通信を終える」

長門有希は、間に合いさえすれば間違いなく一樹を救おうとしてくれる。でも、問題は、彼女も情報統合思念体の意思には逆らえないという事。
だからこれは当然予想された注意事項。でも実際に言われるとその冷酷さに内心憤る。が、今はそれを抑え込む。冷静を保たなければ。

すぐに携帯にメールが着信した。「新川車両の緊急車両化」
これで目前の信号は全て青になる。制限速度超過で止められることも無い。この車の進行方向から警察車両は全て移動させられるから。
「新川、来たわ」
「はい」
新川がアクセルを踏み込む。

少し余裕ができた。まず落ち着かなければ。
今私が落ち着かなければ、一樹は絶対に助からない。
深呼吸し、自分の肉体の状態を正常に戻そうとするが、うまくいかない。震えが止まらない自分の手を見て、付着した血が乾き始めているのに気付く。手を拭く事を完全に失念していた。
これが、鬼と呼ばれ恐れられる女なの?フフ……。
手や、血が付いたまま触れてしまった物を拭っていると、また携帯メールが着信。「警察車両が先導する」すると前方に1台のパトカーが徐行しているのが見えた。

「アレの先導に従って」
「かしこまりました」

こちらがそのままの速度で近づくと、そのパトカーは回転灯を光らせサイレンを鳴らし、一定の距離を取って加速する。
それに合わせ新川がアクセルを更に踏み込み、本来ならば高速道路ですら直ちに捕まるような速度に達する。

「新川、到着までは?」
一瞬だけ考えた新川は、今の私と同じ抑制された声で答える。
「……あと8分から9分」

その時間だと、到着してからの余裕は最悪2分程度しかない。
しかも、一樹の気力がそれほど持たない可能性もある。
……なんとか一樹を力付けなければ。

私は振り返ると、担架から零れた一樹の右手を取った。
少しだけ目を開けた一樹が、無理に笑おうとする。
いつから気が付いていたの?
何か声を掛けなければ。でも、「咳をするな」とは、口が裂けても言ってはいけない。彼に咳をするという選択肢を意識させてはならない。

一樹は苦痛を必死に隠し、無理矢理私に笑い掛けようとする、油汗に塗れた彼の醜い笑顔。
それを見た私の胸が酷く痛む。
まるで狂った猫を飲み込んだかの様に内側から掻き毟られる。それを抑制……しきれない。

「無理するんじゃない。あんたは必ず助けるからっ、今は気絶でもなんでもしてなさい!」
自分の声が震えていたのが判った。
そしてそれに気付いた新川がチラッと私の顔色を覗った。

無理するなと一樹には言ったものの、無理しているのは私も同じ。
さっきから手の震えが止まらない。
それを一樹に悟られないよう握る手に力を込めると、一樹はそれに答えて手に力を込める。
でも、私は彼の手から生まれたてのヒヨコぐらいの力しか感じない。それぐらいの力しか、もう残されていない。
それでも、彼は無理にでも、震える手に力を込めようとする。

彼の目は、こう云っている。
……「僕は大丈夫」と。「信じています」と。
私を、安心させようとしてる。
急に一樹の手から力が失せた。また失神したようだ。

信じる?ええ、知ってるわ。あなたは私を信じてる。信じ切ってる。盲目的に信じている。
私を、安心させようだなんて……どこまでもバカな人。

一樹の手を離した私は前を向き、到着まで目を瞑り、呼吸を整え、精神を統一する事にする。
彼の手を握ったままでは、私の心はきっと静まらないから。





「そろそろ到着致します」
新川の声で目を開けると、目の前を走るパトカーとの車間がかなり狭くなり、速度も落ちていた。

救急車の回転灯の赤い光と交互に訪れる夕闇が、周囲に緊迫感をチカチカと振り撒いている長門有希の住むマンションの前に到着した時、一樹は意識を失ったままだった。既に脈の圧力はかなり弱くなっている。タイムリミットが近い。

新川が車を停止させるのももどかしく、私は飛び出し辺りを見回す。

居た。

何故かスーパーのロゴがプリントされた不透明な白い袋を右手に提げた長門有希が、救急車の横にポツンと立っている。
私は彼女の元へ走る。背後では移動式担架を予め外に出し待機していた救急隊員達が、無駄のない動きで一樹を救急車の中に移動させようとしている。

私はこの小さな制服姿に宿る巨大な知性と、そこから繋がる宇宙規模の叡智に、これから1人で立ち向かわなければならないだろう。
情報統合思念体が、機関に対し無償で快くボランティア活動を引き受ける事を期待するのは間違いだ。私は今やっとスタートラインに立ったに過ぎない。

私は彼女の手を取ると、救急車に乗り込み、救急隊員全員に外に出てドアを閉めるように促した。
彼らは救急隊員でもあるけど、全て機関の人間。
何も言わずに淡々と降りると、全てのドアを堅く閉ざした。

器具や一樹の寝かされたベッドに挟まれた細い通路。
病院と同じ薬品の臭いが鼻を突く。

私は一つ深呼吸をしてから、振り返り、長門有希の目を覗き込む。
彼女も私の目を見返す。お互いの目を見つめ合う。

私は一樹の脈拍が測れるよう、左手で意識の無い彼の右手首を掴む。
脈が不整。間隔もかなり長い。心拍停止寸前。

今は彼の顔は見ないようにする。
冷静を保たなければ。
今、彼を守れるのは私だけ。

無表情を維持したままの長門有希は、ゆっくりと一樹の寝かされたベッドの方へ向き直ると、スーパーの袋からステーキ用の骨付き牛肉を取り出し、包装を破り、プラスチック製の皿ごとベッドの上に置いた。そしてまたゆっくりと身体をこちらに向け、私の目を凝視する。
そしてそのまま私が話し始めるのを待っている様だ。


私は自分の呼吸を意識しながら、言った。
「先ず確認するけど、一樹を治すのに掛かる時間はどれぐらい?」

彼女は答える。
「約4.1326秒」

一呼吸置いて、私は本題を切り出す。
「……古泉一樹を治して」

それに対し彼女はこう返す。
「我々への対価は?」

私の返事は決まっている。
「何も無い」

彼女の立場もまた、決まっている。
「情報統合思念体は、何らかの形で対価を要求している」

予想していた展開。情報統合思念体はこの機会に乗じて機関に対しアドバンテージを得ようとするだろう。と考えていた。それが現実になったに過ぎない。でも今は押し問答をしている場合じゃない。

「それなら、対価は一樹が治ること」
「それでは対価とは言えない」

「利害が一致する。という事で手を打って頂けないかしら?」
「対価を支払うならば、協力する」

途切れがちだった一樹の脈拍が完全に沈黙した。
腕時計の秒針を確認する。
彼を彼たらしめる為の脳。その脳の死へのカウントダウンが始まってしまった。
もう1秒も無駄にできない。

機関が知り得た情報により、TFEIが他人の記憶情報をほぼ制限無く改竄可能な事は判明しているが、脳死した人間を元のように治せるのかは知らない。完全には出来ないのではないか。と、私の勘は告げている。記憶では無い部分、人格を形成する部分について、もし思い通りに改竄可能ならば「鍵」をいじってしまえば思い通りに涼宮ハルヒを動かす事ができる筈だから。

ただ1つ例外がある。一樹の報告にあった、昨年12月の我々の知らなかった事件が真実だと仮定すれば、涼宮ハルヒの力を長門有希が利用すればそれは可能だろう。しかし、情報統合思念体がそれに許可を出す可能性は無いと私は見る。長門有希を完全に信用するにはリスクが大きすぎる筈だ。

つまり、これで私には制限時間が出来たという事。それもかなり短い。
対する情報統合思念体には何の制限も無い。
交渉するにはこちら側が圧倒的不利な状況。

心拍停止から、1秒経過。


「あなた方の提示する、我々の差し出すべき対価とは?」

「あなた方がTFEIと呼称する、有機ヒューマノイドインターフェースの活動に今後一切関知しない事。もしくは研究用媒体として有能な個体を1体提供する事。それには、森園生、貴方が望ましい」

……そうきたか

「私をお望み?でも、本当に私が欲しいのなら、とっくに全てを書き換えて中身を入れ替えている筈じゃない?」

「私達に取って貴方の容姿や立場に特別な価値など無い。私達が欲しいのは貴方の生体由来部分、特に感情の制御データ。貴方の意識が貴方の肉体に宿った状態での協力が必要」


脳に酸素を送るため、私は若干過剰気味に深く呼吸をする。
そして私は集中する為に、彼女の言葉、自らの思考、経過時間以外の不必要な情報からのノイズを意識のフィルターに掛け、一時的に思考から遮断する。

私の意思は決まっている。一樹を死なせたくない。
情報統合思念体の思惑は解った。
では、長門有希はどう考えているのだろう。唯一の希望は彼女にある。彼女の立場になってこの状況を再考しなければ。

長門有希から見ても、『機関がTFEIの活動に今後一切関知しない』との条件は、機関そのものを揺るがす制限であり、もし今ここで私が機関上部へ申請しても、結果が手遅れになる前に間に合う可能性すら皆無。私に考える時間を1秒でも浪費させる為のブラフと見て間違いない。

しかし私がもしもう一つの選択肢を取り、機関からの命令を破り情報統合思念体に協力すれば、どちらにせよ私は機関に消される。それも長門有希には解っているだろう。
つまりこれは、一樹の命と私を交換する。という申し出。
そんな事を一樹が許す筈が無い。相手が誰であろうと自分の命を救うために誰かが犠牲になる事を良しとする一樹ではない。その上、私に対する一樹の音声や脈拍、瞳孔の伸縮、視線、表情筋の動きの微細な変化、もしくは彼の記憶そのものを通して、彼の私に対する「感情」に彼女が気付いていない筈が無い。

でもこの提案を受ける事自体は可能。意識を取り戻した一樹が後で何を言っても、情報統合思念体は交わした契約の対価の権利だけを放棄したりはしないだろう。ただ、自らの意思の埒外で私の代わりに生き残される事を強要された彼と、情報統合思念体の意思がどうあれ、結局その提案を私にした長門有希との間に、致命的な亀裂が入る事は疑うべくも無い。
そもそもSOS団の現状維持に反する事を長門有希が求めるだろうか。私はそうは思わない。

つまり、彼女から提示されたこの二つの選択肢には正答が無い。彼女の真の狙いは何か。見誤ってはならない。

長門有希は、間違いなく、SOS団が現状を維持する事を願っている。
一樹を治したい筈。一樹の隣に置かれたTボーン・ステーキがそれを告げている。あれで一樹の欠損した肉体を補うつもりなのだろう。そもそも本気で交渉するつもりならば、彼女は先にアレを取り出したりはしない。アレは一樹を治したいという彼女の意思表示。

恐らく、2つの対価の提案の大筋は情報統合思念体の意思。
ただ彼女は対価を得る事を良しとしていない。彼女は、対価を得る事が後の機関と情報統合思念体の関係性に軋轢を生じさせ、それがSOS団のバランスが致命的に崩れる方向に作用し、結局涼宮ハルヒの精神の安定を保てない状態になる事を懸念しているに違いない。だから提案の肝心の部分を調整し無効化する事で私にメッセージを送っている。正答は別にある。と。

彼女は私と同じ。所属する組織の意向に従わざるを得ないだけ。だから彼女は形ばかりの要求をした。
何も交換無しで一樹を治す。それが彼女に取っての唯一の正解。

つまり、彼女からのメッセージは、「対価を何も支払わなくとも、情報統合思念体が長門有希に対し一樹を治す許可を出さざるを得ない状況を生み出す方法がある」という事。それは情報統合思念体には弱みがあるという意味。長門有希は私にそれを突けと云っている。

でも、弱み?おかしいわ。
私にはタイムリミットと言う明確な弱みがある。私が譲歩する側でなければ辻褄が合わない。

私の弱みであり、情報統合思念体に取っての強み。
タイムリミット。
では、情報統合思念体に取っての弱みで、私の強みは?
辻褄を合わせる。

そう。…そういう事なの。
理解したわ、長門さん。あなたからのメッセージを。


心拍停止から、15秒経過。


私は意識してゆっくりと言う。
「フッ。ならば交渉は決裂ね。SOS団という交錯した天秤の1辺である彼には、まだあなた方にも利用価値がある筈よ?残念ね」

彼女もまた、自分のペースで淡々と話す。
「我々は涼宮ハルヒと、その鍵である「彼」の観測のみを必要としている。涼宮ハルヒ周辺のバランスが崩れる事が齎す影響が、我々に取って必ず悪い方向へ作用すると判断する根拠は無い。因って、あなた方の一員である古泉一樹を救うには、我々は我々の状況を改善するに役立つ対価を要求する」

「しかし、状況が必ず悪くない方向へ進むと断定できる程の論拠もまた、無い。事態が悪化する可能性は捨て切れない。あなた方は、軽薄な行動を禁忌すると私は理解している」

「まさしく。しかし、古泉一樹の命を救う事が軽薄な行動でないとどうして言えるのか。古泉一樹の死によって、涼宮ハルヒが起こす可能性のある環境情報への干渉が、我々の求める物ではないと何故断言出来るのか」

私はこう切り返す。
「あなた方はその可能性を考慮していない。もし可能性があるならば、あなた方はそもそも交渉にすら応じない。寧ろあなた方自ら、古泉一樹の命を奪うでしょう。因って、私はそれはあなた方が求める物では無いと断定する」

「……」
それに対し彼女は何も言わない。
私は追い討ちをかける。
「現状を維持することが、私達機関の願いであり、また、SOS団5名の総意でもある筈。……涼宮ハルヒの願いでもあり、「鍵」である「彼」の願いであり、……長門有希、あなた自身の願い。そうよね?」

「……」
彼女は言うべき言葉をもう持っていない。
私も、言うべき事は全て言った。
自分の意識に掛けていたフィルターを全て取り除く。急に自分が弱くなった様な気がして寒気が背筋を這い上がってくる。……本当は、自分は何も変わっていないのに。

私達は、無言で相手の目を見合う。
無表情な長門有希は、静かな、波一つ無い新月の夜の海のような瞳で、私をただじっと見つめている。
その目に見つめられていると、心を全て見透かされているように感じ、私の胸の中にモヤモヤとした霧が広がる。

……彼女と私はとても似ている。立場も、生き方も、他人の内面を読み取るという点も。私の前に立つ人は、きっとこんな気持ちになるのね。平静を失うのも無理ないわ。私も落ち着かない気分になるもの。でも、中にはその落ち着かない気持ちを全く表さないか、そもそも落ち着きを失わない人も居る。新川も、多丸兄弟も、そう。だから、私の下に配置されている。

静寂。空気すら動かない沈黙。
その中を時間だけが流れて行く。

一樹。
彼は、私が見つめていても、常に落ち着いている。
いいえ、逆に安らいでいるようにすら見える。
しかも彼は、隠している私の本心を逆に透視してくれるように感じる。
そして私はそれを心地良く感じる。

彼にとって私は、擬態していない本当の自分を知る数少ない人間。
そして、想いを寄せる相手。
私にとっての彼は……私は彼に恨まれるべき人間。
私には何を言う権利も無い。

一樹という存在が消えてしまう時のタイムリミットが迫って来る。
そろそろ時間。私は時計に目を据える。
……あと30秒。

私には言葉はもう無い。時間が来るのをただ待つだけ。

……あと20秒。

彼女もまた同じ。その時が来るのを、ただじっと待っている。

……あと15秒。
彼はこのまま死んだ方が、きっと彼も、後で余計に苦しまないで済む。
でも私は少しでも可能性があるなら、それに賭ける。
……時間ね。

「そろそろ時間よ。あと10秒で、彼が元の彼に戻るという保障が無くなる。治して頂戴」

「解った。対価は必要ない」
そう言いながら彼女は非常に素早い動作で右手を一樹の胸に当て、左手を骨付き生肉にかざし、『呪文』と未来人が呼ぶ高速言語を詠唱する。

内出血し醜く紫色に腫上がっていた一樹の下腹部がみるみるうちにへこみ、まるで元々何事も無かったかのように、綺麗に元通りになって行く。反対に彼女の左手の下のステーキ肉が蒸発するかの様に消えて行く。

長門有希が、ゆっくりと手を下ろす。

一樹の力強い脈動が、手首を掴んだ私の指を圧し返す。
終った。彼は、死ななかった。
彼の上に掛けてある毛布のいびつな形の膨らみと、彼の千切れた衣服を汚す血、一樹の顔に張り付いた苦悶の表情と汗が、全てが夢ではなかったことを告げている。

胸に熱いものが込み上げてくるのを、私は抑制した。



長門有希と共に救急車から降りると、新川と目が合った。
私が目で合図を送ると、彼も満面の笑顔になり、大きく満足気な安堵の溜息をつくと仲間達の許へ報告に向かった。

私は長門有希と向き合い、
「長門有希さん、あなたに、本当に感謝します」
そう言って、深く頭を下げた。
すると、その私の頭上から彼女の平坦なイントネーションの言葉が降ってきた。
「あなたは、私の意図を正確に理解していた。「彼」のような直感ではなく、計算に依って」

私が顔を上げると、長門有希は先程と同じ場所に同じように立っている。
長門有希が設計に織り込まれていない筈の感情を微細に表す事がある。というのは、一樹の報告により知っている。
実際にこの目で見たのは、これが初めて。
彼女は、驚いている様ね。

「あなたが、教えてくれたのよ」
「そう。問題はあなたが思考に掛けた時間。人の脳の構造的限界に近い時間しか、貴方は必要としなかった」
「お褒めの言葉と受け取っておくわ」
「人間が通常訓練で習得し得る能力レベルを遥かに凌駕している。私という個体は、情報統合思念体とは別の意味で、貴方に興味を感じている」

今度は私が驚く番ね。私の耳で、彼女の口から「興味」といった言葉を聞く事になるとは。しかも、私に対しての。

「ふふ。私も、あなたに興味を感じていた所よ。機関の一員としての私は別にして。ね」

「古泉一樹は、正しい上司を持った」
そう言い残して、彼女は忽然と歩き出す。

その彼女の残した言葉が、一発のライフル弾の様に、焼き焦がすような激痛を伴って、正確無比に私の心の一番弱い部分を貫いた。


と、突然足がスポンジの様になった。世界が傾げる。
咄嗟に受身を取ろうとした私は、まるでそれを予期していたかのように瞬速で反応した新川の腕によってしっかりと支えられていた。
私とした事が。今日は醜態を晒してばかり。
今まで緊張し過ぎていた為か、あまりに安堵した為か。
それとも、長門有希の残した一言が原因か。

新川の手は、咄嗟に支えに入ったにも拘らず正確に女性を安心させる位置に置かれている。
機関の人間は、皆こう。あらゆる面において非常に辛い訓練を受ける。

「済まない。新川。もう大丈夫よ」
「いえ。差し出がましい真似を致しました」

私と新川は自然な動作で身を離す。


そろそろ一樹が目を覚ますわね。救急車に戻らないと。
それが上司の務め。
上司としての。
……私が正しい上司?

やめて……。
長門さん、貴方は全て解った上でそう言ったの?

やめて。私、それにだけは耐えられない。



第6話「真実の言葉」へつづく

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最終更新:2020年06月10日 02:50