7月7日、七夕。
帰宅の途につこうと、下駄箱に上履きを放り込み、靴を履いて外に出た矢先、どんよりとした雨雲からポツポツと雨粒が落ちてきた。そしてそれは数分も経たないうちに本降りの雨へと変わった。
朝は雲ひとつない晴天だったため、傘など持っているはずもなく、仕方がないので、俺達は通学路の途中にある民家の軒先で雨宿りをすることにした。
「あ~あ、降ってきちゃったね」
「俺、傘持ってねぇぞ」
国木田と谷口が雨雲を見上げながらつぶやく。
「どうするキョン、止みそうにないけど」
「鬱陶しいな、なんで雨なんて降るんだよ!」
「まあ、たまに雨もいいさ。暑さが和らぐからな」
ふと、数日前の文芸部室の光景が頭に思い浮かんだ。なぜ、この状況でそんなことを思い出したのだろう。理由はわからない。
「キョン?」
国木田に呼びかけられて、ハッと我に返る。
「どうしたんだい? 何かボーっとしてたようだけど」
「いや、ちょっとな」
「なんだなんだ、俺達に隠し事か。水臭いぞ、キョン!」
「いや、本当になんでもないんだ。ちょっとこの間の文芸部室のことを思い出しただけだ」
「…………」
ふたりの表情から、少しだけ心配しているような感情が読み取れた。
なんとなく気まずいような感じがして、視線を雨粒が落ちてくる雨雲へと向ける。
だんだんと雨足は強くなり、やがてテレビ番組などでしか見たことのないような、東南アジアあたりで見られるスコールのような豪雨になった。
「おいおい、やばいぞこれ」
「何か変だよ。天気予報では雨が降るなんていってなかったし……」
目の前の集中豪雨を見て、ふたりが慌て始めた。それもそのはずだ。とても日本で振るような雨とは思えない。
不意に奇妙な違和感を感じた。
あの日、朝起きたときに自分の部屋で感じた、入った記憶のない文芸部室で感じた、日常から何かが欠けてしまったような奇妙な違和感。
「何か来る」
自分の意思とは無関係に、俺はそうつぶやいた。
三メートル先すら見えない豪雨の中、それはまるで目の前の景色から黒いインクが染み出してくるかのように現れた。
真っ黒な光陽園女子学院の制服に身を包み、真っ黒な髪をなびかせながら、真っ黒な傘を差している。これだけの豪雨の中、髪も服もまったく濡れていない。
その姿を一目見るや否や、やかましくアスファルトを叩いていた雨の音が止み、物音一つしない静寂があたりを包み込むような錯覚に陥った。
その存在感は圧倒的で、俺は一瞬たりとも目を離すことができなかった。仮にいま、背後で核爆発が起こったとしても、俺は彼女から目を離すことはできなかっただろう。
彼女は、歩くというより空間を移動すると形容したほうがいいような感じで、スーっと目の前までやってくると、俺の目をじっと見つめて言った。
「あなたと共に在った者も、わたしと共に在った者も、皆その記憶を忘却の彼方へと失くしてしまった。
あなたへの干渉を最小限にし、観測のみを行っていたわたしだけが、あなたのもとまで辿り着くことができた。
あなたはもう一度選択することができる。すべてを知り、彼女を失うか。それとも、彼女のためにすべてを忘れるか」
目の前にいる女の子が普通の人間でないことは一目でわかった。
彼女に会うこの瞬間まで、常識を覆すような超常現象など存在しないと思っていた俺の考えを、一瞬で打ち砕き、世界観を変えてしまうほどの説得力を彼女は持っていた。
どんな石頭の学者であっても、彼女を見れば、人智を越える超常現象が存在することを認めざるを得ないだろう。
「もし、あなたがすべてを知りたいのであれば、わたしと共に来ればよい」
そう言って、彼女は傘を差し出す。
彼女の言っていることのすべてを理解できたわけではなかった。しかし、俺の心はどちらを選ぶべきかを既に理解していた。
一瞬だけ視線を下に落とした後、顔を上げ、彼女の瞳をまっすぐに見つめて、静かな声で、しかし力強くはっきりと答える。
「俺には……あいつのいない世界で暮らす意味はない。だから、このままでいい」
こんな状況にもかかわらず、なぜか心はそれほど動揺していなかった。
「そう」
答えを聞いて、彼女は少しだけ微笑んだような気がした。
その微笑を見て、黄昏を背にして文芸部室の部長席に座る女の子と、部屋の片隅で本を読む一人の少女が思い浮かんだ。微かにお茶の匂いがする。俺は右手に将棋の駒を持っている。
「ならば……わたしは――観測しよう――この世界で。あなたの――行く末を。彼女の――行く末を。あなたと……共に在った者――わたしと共に在った者……すべての者の行く末を」
そういい残して、踵を返すと、彼女はそのまま豪雨の中へと消えていった。俺たち三人は、その後姿をただ呆然と見ていることしかできなかった。
彼女が去った後、雨足は急速に弱まり、いままでの豪雨がウソのようにピタリと雨が止んだ。
「知り合い?」
「いや」
国木田のほうを見ずに首を横に振る。
「奇妙な女もいたもんだな。流石の俺でもああいう女はナンパの対象外だぜ。そういや中学のときも変わった女がいたなぁ。
いまの女ほどじゃなかったがな。頭だけは良かったから、いまはどっかの進学校に通ってるって話だが……
確か名前は涼……なんっだったっけ。忘れちまったよ。当時は一生忘れることはないと思ってたんだがな……」
谷口が勝手にひとりで中学時代を振り返り、独り言をぶつぶつとつぶやいている。
「キョン、雨も止んだようだよ。行こう」
「ん、ああ、そうだな」
ふと、空を見上げると、どんよりとした雲の切れ間から陽光が差し込んでいた。まるでいまの俺の心を投影しているかのように。
結局、胸の奥にあるこの奇妙な違和感の正体はわからずじまいだ。きっと一生知ることはないのだろう。
だが、たった一つだけ確信を持って言えることがある。
それは、今後どのような平凡な人生を歩んだとしても、かつて自分と共に在った仲間に、胸を張って答えることができるということだ。
「俺の下した決断に、そしてその後に歩んだ人生に、一片の悔いも無かった」と。
 
 
~終わり~
 


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