ザァア─────ーー……‥‥
 
 土砂降りの雨。
 とある駅前。
 周防九曜は、濡れるのもかまわずに、ただ突っ立っていた。
 天蓋領域の指示に基づき、観測を行なっているのであった。天蓋領域の関心は地球上の様々な事象に及んでおり、その観測は唯一の端末である彼女の仕事となるのである。
 ずぶ濡れで突っ立っていれば、それだけで周囲の注目を集めそうなものだが、周囲の人間たちは誰も彼女を気に止めない。彼女は、デフォルトが半ステルスモードであるからだ。
 そんな彼女を目にとめることができる人間は非常に限られていて、今日は偶然にもそのごく限られた人間がそこを通りかかった。
 
「九曜さん。そんなところで何をしてるのかしら?」
 周防九曜は、顔をあげて、相手を認識した。
 佐々木と呼ばれる人間であることを認識するまでにかかった時間は、3秒ほど。
「────観測────」
「九曜さんは風邪を引くということはないのかもしれないけど、ずぶ濡れで立ってるというのはどうかと思うわ」
「今日の────雨は────少し────ぬるい」
「今日は気温が高めだから、確かにそうかもしれないけど」
 佐々木は、自分の傘の中に周防九曜を入れてあげた。
 必然的に一緒に突っ立っていることになる。
 
 なんとなく子供を扱っているような気分になって、佐々木は溜息をついた。
 自分が子持ちであってもおかしくはない年齢であることを認識してしまったからであった。
 実際には、彼女に子供はいない。というか、そもそもそのために必要な相方がいない。
 口に出すことすらしなかった初恋を終わらせて以降、彼女は恋愛をすることがなかった。
 会社でそれなりの地位にあり給料も充分にもらっているので、生活に困ることもなく、無理して結婚する必要もなかった。
 親はいろいろとうるさいが、無視している。誰にも迷惑をかけているわけではないのだから、文句をいわれる筋合いでもない。
 ……というのは、言い訳にすぎないことは分かってはいた。
 結局のところ、彼に対してまだ未練が残っているのだ。
 彼が誰かと結婚でもしていれば、吹っ切れていたかもしれないのに。
 
 横を見ると、周防九曜はただ黙々と与えられた自分の役割を果たし続けている。
 自分もいっそのことそのように生きてみたいと、佐々木は思った。
 
 
 
 ザァア─────ーー……‥‥
 
 土砂降りの雨の音は、部屋の中にまで響いている。
「有希、濡れなかった?」
 涼宮ハルヒの問いに、長門有希は簡潔に答えた。
「大丈夫」
 長門有希の服は、少しも濡れてなかった。
 傘をさしてきたとはいえ、足元ぐらいは濡れていてもおかしくはないだろうに。
 でも、涼宮ハルヒはそれを指摘しなかった。長門有希が普通の人間ではないというのはなんとなく感じていたけれども、特に追及はしない。いつしか、それが暗黙の了解事項になっていた。
「今日は仕事はないの?」
「今日は臨時休館日」
「そうなんだ」
 
 お茶とお茶菓子が出され、独身の二人は雑談を始める。
 とはいっても、涼宮ハルヒが一方的にしゃべって、長門有希はときどき相槌をうつだけだが。
 涼宮ハルヒが話す内容は、所属する研究所(とはいっても、彼女は在宅勤務だが)での研究内容に関することがほとんどだった。
 長門有希も論文をいくつか読んだことがあるが、その中には未来に普及するであろう諸技術の端緒となる理論も多く含まれている。
 涼宮ハルヒの特徴は発想の飛躍にあり、情報統合思念体もそのことに興味を示していた。無から情報を生み出す力の大元には、そのような思考形態があるのではないかと推測しているからだった。データと論理を重視する情報統合思念体ではありえない思考のあり方。
 長門有希の観測任務の重点は、その点に移っていた。だから、週に一度は涼宮ハルヒのもとを訪れてこうして話を聞く。
 
 とはいえ、この任務は、あまり気の進むものではなかった。
 得意げに話す涼宮ハルヒの表情に、ときどき陰が差すのを見出してしまうからだった。
 涼宮ハルヒの愛の告白を彼がはっきりと断って以来、その陰はずっと消えることがなかった。
 それが、長門有希に、あの12月18日を境に切り捨てたはずの感情(エラー)を思い出させるのだ。
 
 
 
 ザァア─────ーー……‥‥
 
 土砂降りの雨がガラス窓を濡らし、外の風景をゆがめていた。
 こんな日にわざわざ出かける者はごく少数であり、その高級レストランにいたのは、男女一組だけだった。
 男女とはいっても、色気のある話ではない。仕事上必要な情報交換のために会合しているにすぎない。そもそも、二人にはそれぞれ配偶者も子供もいる。
 
「そちらの過激派の動向には、こちらでも警戒しておきます」
「できる限り、内部で処理するつもりではいますけど、万が一のときはよろしくお願いします」
 かつては敵対関係にあった男女二人──古泉一樹と橘京子が、そのような協力体制を築くことになった経緯を述べれば、それこそ何万文字にも及ぶことになるのだが、それも今では当たり前のルーティーンワークとなっていた。
 彼らの属する「業界」では、昨日の敵が今日の友であったり、昨日の友が今日の敵であったりすることは珍しくない。
 
 仕事上の情報交換は終了し、何気ない雑談をする。
 話はいつしか彼のことに移っていた。
「それにしても、彼は罪な人ですね」
「まったくです。佐々木さんがどれほど苦しんだのか、思い知るべきです」
「佐々木さんの場合は、自業自得だと思いますけどね。彼に異性間の友情という命題について肯定的な確信を植えつけてしまったのは、彼女自身でしょう。彼女もそれが分かっていたから、その想いを胸に仕舞い込むことにしたのでは?」
「そうでしょうけど、それにしたってひどすぎるのです」
「まあ、確かに彼の鈍感力はひどすぎますね。でも、それが彼であるから致し方ありません。彼に分からせるには、その想いをはっきり告げるしかない。涼宮さんみたいにね」
「その涼宮さんの告白も、結局は遅すぎたのです」
「そうですね。三年の歳月で、彼のSOS団構成員への友情は確固たるものになっていた。もはや、恋愛感情に変化しうる余地などなかったわけです。何もかもが手遅れになっていた」
 
 二人は、まるでタイミングを合わせたかのように溜息をついた。
 いつからかその胸にこびりついたやりきれない思いは、いまだに晴れることはない。
 
 
 
 ザァア─────ーー……‥‥
 
 土砂降りの雨が傘を叩く。
 
「ひどいものね……」
 朝比奈みくるは、そうつぶやいた。
 花が散った桜並木にたたずむのは、彼女一人だけ。周囲には誰もいない。
 
 突如背後に気配を感じて振り向く。
 忽然と現れた男に対して、彼女は微笑みかけた。
「お久しぶりね、藤原くん。それとも、あなたにとっては、はじめましての方が正しいかしら?」
 男は、不機嫌な表情を作り、傘をわずかに傾けた。
「そんなことはどうでもいい。くだらんことだ」
「そうね」
「わざわざ直接観測とは、あんたも相当暇なようだな」
「それは、藤原くんも同じでしょ。居ても立ってもいられなかった──そんなところじゃない?」
「……」
「ひどいものよ、上書きされてしまったこの時間平面は。藤原くんも同感でしょ?」
「フン」
「あなたたちと私たちの規定事項にはまったく影響がない。二、三人の人間の人生なんて、世界にとってはちっぽけなものでしかないって言われてるみたいで、納得いかないわよね」
「だから、介入するのか?」
「私たちの所属時間平面に上書き効果が及ぶまでにはまだ余裕があるもの。補正は充分に可能よ」
「未来人の都合でいじくられる過去は、いい迷惑だな」
「藤原くんも同じ穴のムジナ。いくら綺麗事を言ったって、私たちのしていることはそういうことだもの」
「……」
「どのみち、藤原くんにも指令が下ると思うわ。藤原くんと私が属する二つの時間軸の分岐点がずれちゃってる。本来だったら、この時間平面は、私と藤原くんが共有することがないはずのもの。それが規定事項にいい影響があるとはとても思えないわ」
「あんたとまた顔を合わせなきゃならんかと思うと、気分が悪い」
 
 朝比奈みくるは、豪雨が降り注ぐ空を見上げた。
「私が知っている史実では、この日は日本のほぼ全土で晴れのはずなのよ。なのに、この土砂降り。いったい、誰のせいなのかしら? 涼宮さん? それとも、佐々木さん?」
「根本原因はあの男だろ」
「確かにそうね。まったく罪な人よね、彼は……」
「あんな男が僕の先祖かと思うと、むなくそ悪くなってくる」
「そう?」
「そういえば、あんたの初恋はあの男だったな。自分の先祖が初恋とはお笑いだ。あんたの史実どおりにいけば、涼宮ハルヒにとられることが分かりきってるのに、愚かなことだ」
「そうね。藤原くんも気をつけた方がいいわよ。あなたのもう一人の御先祖様──佐々木さんは、とても魅力的な女性だから」
「僕は、あんたみたいな愚か者ではない」
 
 二人の腹黒い会話は、真っ黒な雨雲から降り注ぐ雨のように、延々と続いていく。
 
 
 
 ザァア─────ーー……‥‥
 
 土砂降りの雨の中、彼は鞄を頭に掲げて走っていた。
 朝の天気予報では晴れだった。だから傘を持ってきていなかった。
 そこにきて、この土砂降り。
 日頃の行ないが悪いわけじゃないのにな、などとモノローグで文句をたれつつ、ひたすら走る。
 
 自宅のアパートについたときには、全身びしょぬれ。
 スーツを脱いで絞る。これはもうクリーニングに出すしかないだろう。
 下着を脱いで洗濯機に放り込み、シャワーを浴びる。
 ようやくすっきりしたところで、寝間着を来て、自炊を始めた。
 自炊といっても男の料理。簡単なものでしかない。あっという間に平らげる。
 
 しがないサラリーマン生活だが、特に不満があるわけでもない。
 一人で生活していくのなら充分な給料だったし、一人暮らしに文句があるわけでもない。彼は結婚願望が強い方ではなかった。できるに越したことはないができなくたって死にはしないさ、というのが彼の考えだった。
 そもそも、彼は、初恋が終わって以来、まともに恋愛をしたことがなかった。
 過去に、告白されたことが一度だけあった。しかし、それも、丁重にお断りしている。相手が嫌いだったわけではない。友情は恋愛感情には変化しえなかった。ただそれだけのことだ。
 その相手とは今も友人関係を維持できている。断ったことで友人関係まで破綻することが懸念されたが、それは杞憂だった。
 SOS団の絆は、そんなことでは崩れないほど強固になっていたのだ。
 
「次に団長様の招集がかかるのは、7月の合宿か。有休、残しとかなきゃならんな」
 そんなことをつぶやきながら、彼は布団に入った。
 
 土砂降りの雨は、まだ降り続いていた。
 
終わり
 


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