気まぐれに打ち始めた物語は佳境に入った。そこで、指が止まる。プロットなんてない、展開も決めていない。無心でただ、場面場面を繋ぐように文を補足していけば、どうしたって、ラストに近付くにつれ進捗は下がっていった。とにかく先へ進める為にキーを押そうとしても、指は思う様に軽快に動いてはくれない。至って当然の話だ。だってわたしは白雪姫がどうなるのかをまだ、決めかねている。毒林檎を食べて伏せてしまった哀れな白雪姫が、王子様に出遭えず仕舞いで、どんな結末を迎えるのか。
「愛しいひと」にも巡り合えぬままに、生涯を閉じようとする、薄幸の少女。
――ハッピーエンドに、してあげたいのに。


「長門さんどうしたの?こんな時間まで居残りなんて、珍しいわね」
「あ……」
部室の扉を開けて、堂々と踏み込んできたのは、朝倉涼子――朝倉さん。セミロングの綺麗な髪。優等生らしく背筋の伸びた、頼れる女性を思わせる温和な微笑。クラスでもリーダーシップのある才女で、泰然自若としていて人望も厚い。わたしとは何もかもが違うのに、あなたはそれでいいと笑ってくれる、密かにわたしの憧れの人。
「どうして」
「もし帰るのなら、一緒にどうかと思って捜してたの。まだ下駄箱に靴があったから……ああ、それ。書き掛けの小説ね?前に話してた」
「……そう」
PCの前からウィンドウを覗き込むようにした彼女は、ワード文書の打ち掛けのファイルに眼を落とした。白地の上に点滅する、一向に右へ走り出さないカーソル。
「ふうん。途中までよく書けてるじゃない。何か悩んでるの?」
わたしは、素直に打ち明けることにした。幸せな終わり方にしたいけれど、毒林檎を食べてしまった白雪姫がどうすれば幸せになれるのかが分からないのだと。発想が貧困なのか、辻褄合わせが苦手なのか、どうしても思い浮かばない物語の結び。
彼女は、そんなことで悩んでたの、と暗がりを吹き飛ばすように一笑した。
「それなら、書き直しちゃえばいいじゃない」
「え……」
「だってこれは、長門さんの物語なのよ?不都合を消しちゃえ、とまで乱暴なことは言わないけど。どんな風にだって物語は変えられるわ。例えば――」


彼女はにこりと大勢の男子生徒を恋に落としそうな微笑みを浮かべて、
「白雪姫が林檎を食べる前に、急にお妃様に娘を愛しいって想う気持ちが沸いて止めに入ってくるかもしれない。王様がお妃さまが追い詰められているのに気付いて、兵を差し向けて、王様の愛に触れたお妃さまが改心するかもしれないわ。林檎を食べた白雪姫も、王子様のキスじゃなきゃ目覚めないなんて決まってることでもないし。――そうね、他に……もしかしたら目覚めないままの終わりもあるかもね」

「それが、ハッピーエンド?」
「だって、そうじゃない。何がハッピーエンドで何がハッピーエンドじゃないって、誰が決められるの?幸福の道なんて、きっと幾らだってある。それに大概の人が気付かないだけよ。そういう全部を、ご都合主義で片付けちゃうのは寂しいと思うの」

けれど、白雪姫が目覚めない結末は、わたしにはハッピーエンドには成り得ないような気がした。お妃様は、白雪姫を屠って、空っぽの心を胸に埋めて生き続けていく。
――林檎を食べた白雪姫は硝子の棺の中で眠り続ける。小人は王子の現れない白雪姫の傍で、ずっと、白雪姫を護り続ける……。

「でも、それは……」
「長門さんがそんな小人を不憫だと思うなら、それはハッピーエンドじゃないと思うなら、きっとそれも正解。あなたのハッピーエンドを書けばいいの。姫を蘇らせるのは王子様?誰がそれを決めたの?」

わたしのハッピーエンド。
朝倉さんは、微笑っている。独り立ちする子を見護る親のような――そんな喩えを持ち出したら、流石に、叱られてしまうだろうか。彼女は誇り高く、勇ましく、それでいて愛情深い姉のような人だ。
彼女の助言に、胸の支えが取れたような気がした。わたしの望むように、願うように、物語を紡げばいい。その結末に責務はあるだろうけれど、それがわたしの選んだ最終章ならば。
「……やってみる」
わたしはそっと、キータッチを、再開した。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

---------------------------



白雪姫は王子と出遭いはしませんでしたが、小人と共に幸せになりました。
お妃様は白雪姫に赦され、白雪姫を赦して、心から笑えるようになりました。
もう誰も白雪姫を傷つけず、お妃様の心を蝕みません。


皆が皆、――幸せに。
幸せになるために、生きられるのです。



--------------------------- 









雪解けの水から、掬い上げられたような穏やかな覚醒。
蕗の薹が溶け込んでいた夢から覚めた、――比喩を用いるなら、そんな静かな目覚め。古泉は眠りっ放しで上手く機能しない頭を小さく傾ける。夕暮れの陽に彩られたくすんだクリーム色の天井。枕に沈んだ後頭部を持ち上げると、「よお」、と随分と懐かしいような気もする声を聞く。
「やっとお目覚めか」
仏頂面の少年の、それでも安堵感を散りばめた、帰還を教示する一言。古泉が遣った視線の先に、椅子に腰掛け慣れた手つきで林檎を剥いている少年の姿が反転して眼に入る。
現実感を取り戻すのに、長くはかからなかった。――戻ってきた。彼等の居ない封鎖世界から。その安心感が、どんな感慨より先に立って、古泉が初めにした事といえば腹底に貯めこんでいた溜息を自由にする事だった。知らずのうちにシーツを掴んでいた指の端から力が抜ける。

数日間顔を合わせなかっただけのことで大袈裟なことだ、と笑う者もあるかもしれないが。古泉にとってのSOS団は、もう、そうやって笑い飛ばせる程度のものではなかった。

「なんだ、まだ夢見心地か?ここは何処、私は誰とか言い出すんじゃないだろうな」

今一に反応の鈍い古泉を訝しむ少年――キョンに、古泉は苦笑を返す。
「はは、それはそれで中々面白い観測が出来そうですね。いえ、冗談です。意識の方ははっきりしていますよ。機関の……病院ですか、此処は」
「ああ。俺が前に運ばれた時と同じ処だ。その減らず口なら心配は要らなそうだな」
キョンは一端手を止めたナイフを軽く上下に振りながら、疲れた顔を窓の外に向ける。古泉は、上体を起こして彼と視線の先を同じくした。
窓辺は夕暮れ時の光の明澄さに染められている。
数羽の鴉が山なりに並び、夕闇の果てに優艶に飛び去ってゆく、日常の風景。眼に痛いほどに赤い。――古泉が神人を狩ることで護り続け、キョンが昨年にエンターキーを押し込んで明確に選んだ、それは彼等の生きる世界だった。

「……先程の仰り様から察するに、僕が意識を途切れさせてから、何日か経過しているようですが」
「お前と長門が一緒に階段から落ちて、っていう、何処かで聞いたようなシチュエーションでな。意識不明に突入して今日で七日目だ。外傷もゼロなのにお前も長門も眼が覚めないってんで医師もお手上げ状態だった」
「長門さん」
僅かに力の制御が効かずに跳ね上がった声を、聞き咎めた少年が意味ありげに古泉を見る。だが間もなく俺は何も察知しちゃいないと素知らぬふりをする老人のように惚けた表情に戻ると、彼はナイフの切っ先を垂直に立てて、壁面を示した。
「長門なら隣の病室だ。今はハルヒと朝比奈さんが付き添ってる。まだ目覚めちゃいないがな。
お前はともかく、長門が階段から足を滑らせて意識を失うなんてドジっ娘みたいなポカをやらかすとは到底思えん。というか、有り得んだろ。――何があった?」 

「それは、……」
語ろうと思えば幾らでもできる。大本の原因から顛末まで。ただそれは、長門の内面を無遠慮に彼に晒すことだ。
「追々、説明します。ですが今はまだ、諸々の整理がついていませんので。……待っていて下さいませんか。長門さんのためにも」
「やっぱり、長門も纏わってのことなのか」
少年は気難しい思案顔になり、けれどすぐに、「分かったよ」と嘆息して応じた。
「俺はどうやら、今度ばかりは蚊帳の外だったみたいだからな。何があったか知らんが、当人同士の話し合いなら任せる。ただ、事後報告はしろよ」
「了承しました」
「ま、お前の目が覚めて長門が覚めないなんてことはないだろうからな」
その言葉には大いに、古泉も同感だった。大丈夫の筈だ。浄化されてゆく空間で彼女に与えられた声は今も、古泉の耳に残っている。

キョンはやれやれと肩を落とすと、林檎の皮むきを再開した。赤皮がピューレを利用するよりずっと綺麗に、くるくると回転しながら解けるように剥けていく。露になる白い果実を手にとって眺めると、彼は剥き終えたそれを躊躇いなく自分で齧り付いた。汁が少し飛んで、瑞々しい果肉の芳香が漂う。
「おや、僕に剥いて下さっていたのではないのですか」
「其処に積んであるから、食いたいなら自分で剥け」
つれなく突っ撥ねてから、言い訳のように一声。
「……お前が去年のあの時、俺が起きるまで林檎剥いてた理由がよく分かった」
ベッド横に、編み籠にこれでもかとジェンガの如く積まれた林檎の山から、古泉は一つを手に取った。よく熟れた赤い林檎だ。
彼の遠回しの小言が、酷く可笑しかった。
「物を考えたくないときに、手作業が一つでもあるとなかなか便利でしょう?」
「森さんが大量に届けてくれたから、何をするかに悩むことはなかったな。……お前が寝てる内に何個食ったか分からん。今の俺はお袋より早剥きできる自信があるぞ」
「早剥き勝負でもしてみますか」
「いらん。一生分は食ったから、当分林檎は見たくもないな」

少年の目許には、黒い隈が浮いている。
少年の裏表のない悪態は、古泉には何より薬だった。有難いと思う。長ったらしい謝辞を彼が不要としていることは分かったので、古泉は声を抑えながらも笑って、手元の林檎を皮上から齧った。皮の少量の苦さと新鮮な果実の甘酸っぱさが、口の中に広がる。

古泉は思う。
――毒でない林檎の方が、世の中にはきっと、多いのだ。
人の感情の擦れ違いなんて、それに気づくか気づかないかの差でしかないのだろう、と。




「古泉くん……!眼が覚めたのね!」
長門の病室を訪ねた古泉を、沈黙の支配する一室にて椅子に腰掛けていたハルヒとみくるが、立ち上がって出迎えた。何所かしらに困憊の有様が見て取れて、古泉はやつれた二人の姿に胸を痛めた。――七日間に及ぶ団員二人の欠落。少女たちに、この上ない無理を強いたことは間違いない。
古泉の心境を露知らぬ、二人娘の驚愕は笑顔に取って代わった。ハルヒの歓声は悲鳴じみていたし、みくるに至っては笑顔が半泣きへと移り変わって、「よ、かっ…!もう眼を覚まさないんじゃないかって、ふ、ふぇえ」と、ぼろぼろと玉の涙を零れさせる。
「お二人とも、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。僕の方はもう、大丈夫ですから」
「うん、でも、まだ安静にしてなきゃ駄目よ!再検査してみなきゃ、何所が悪いのかだって――キョン!古泉くんが起きたら真っ先に知らせなさいって言ったでしょ!」
「だから、真っ先に連れてきたろうが。あと声量を落とせ、此処は病院だ」
「僕が無理を言って連れてきて頂いたんですよ。――長門さんの様子が気になったものですから」
あ、とハルヒが口を噤む。傍らで眠りに就いたきりの長門のことを思い出したのだろう。ハルヒは肩を竦め、少女を振り返った。
「有希は……まだ眠ってるわ。ちょっとやかましいぐらいで起きてくれるなら、寧ろ願ったり叶ったりなんだけどね」
「で、でも!古泉くんが…起きてくれたんなら、きっと長門さんも起きてくれます」
みくるが涙を服の袖で拭って、そう綺麗に笑う。ハルヒも同調して、「そうよ!そうに決まってるわ!」と吊り上げた眼差しに力強く頷いた。 

古泉は、長門に眼を移す。個室のベッド、あたりは見舞いに持ち寄られた色とりどりの花で溢れ返っていた。長門有希は寝息さえ微弱で、呼吸をしているのかすら一見しては分からない。白皙の姫君のような、静謐な眠り姿。まるで氷の棺に横たえられたかのような。
ベッド横に立つと、古泉は囁くようにそっと、眠り姫に呼び掛ける。


「――長門さん」

世界は戻りましたよ。
これから、また、始めましょう。

――あなたの、恋する一人の少女としての生を。


長門を注視する古泉の眼前で、変化は克明だった。
ハルヒが息を呑み、みくるが掌で口を抑え、キョンは瞠目して、ただその光景を見つめていた。
少女の瞼が、まるで悪しき魔法が魔法使いの手によって解呪されたように、宝石箱がやっとぴったり口に合う鍵を差し入れられたように、―――ぱちりと、開く。
少女は、冷や水のように凛と、雪の柔らかな触感に覚えるような優しさで応えた。確かに、古泉一樹に合わせた双眸を瞬かせて。
「―――おはよう」
「はい。……おはようございます」
お帰りなさい、という言葉は彼等の眼を憚って告げなかったけれど。古泉はただ愛しさだけで、そんなありふれた小さなやり取りさえ、心に刻み付けられるような思いがした。
白雪姫でもお妃様でもない、
『長門有希』は、微かに、古泉の意図するところを汲んで、笑ったようだった。

 
 
 
 
 
 
 
/// 
  

 
 
 
 
『身体検査』の名目で、もう一晩の病院の滞在を命じられた古泉と長門を残し、SOS団の面々は帰宅の途に付いた。ハルヒなどはまだ心配だから最後まで付き添う、とまで言い放っていたのだが、キョンと古泉による渾身の宥めで渋々ながらも引き下がった。
医師が、恐らく大事はないだろうから間もなく退院できると、彼女に太鼓判を押したことも功を奏したようだ。珍しく立場を逆転させてキョンに引き摺られるように仲睦まじく去っていくハルヒを見送る、長門の感情の読めない瞳が、古泉には気懸かりではあったのだが。
みくるは愛らしい笑みを添えて小さく手を振り、二人の後を追って小走りに駆け出していく。早いうちに彼女が淹れるお茶が飲みたいですね、漏らした言葉には長門も相槌を打った。

実質、検査のし直しは形式的なものに留まった。古泉と長門の意識が一週間に渡って昏迷していた事は、古泉の証言で身体的な異常が原因でなかったことがより瞭然としたものになったからだ。森、新川、多丸兄弟らの訪問もあった。二人が昏睡中の折、閉鎖空間が発生の兆しを見せることもあったが、本格的に展開されるまでには至らなかったという報告に古泉は安堵の息を深めた。どうやらキョンが気を遣い、ハルヒを励まして発生を寸でのところで食い止めていてくれたらしい。それでいて古泉と長門を見舞い、当人は表層では平気な顔を貫いてみせていたのだから、「彼」も随分と豪胆になったものだ。
感謝状の贈呈式を「機関」で演出してもいいわね、と本気混じりの冗談を吐いた森に、古泉はひとしきり笑って同意した。

やがて上司等も去り、独りきりになった病室を脱け出して、古泉は長門に誘いを掛ける。
――夜、二人は屋上にいた。 





「少し夜風が冷たいですね。……長門さん、大丈夫ですか」
「平気。あなたは」
「僕も大丈夫ですよ。『病み上がり』扱いとはいえ、身体の方は何ら問題ありません。――今晩は、星が綺麗ですね」 

夜天に煌々と星屑。一度にはとても掴み切れない、無限の空の宝玉。
昨年夏に行った天体観測の記憶を蘇らせて、古泉は感慨に耽った。エンドレスサマーに翻弄された暑い暑い、夏休み。あの頃は、こんな思慕の情に振り回されるようになるとは、思っても見なかった。世界の安寧を何より願いながら、傍らに控える少女に堆積したエラーのことなど、僅かにも、思い馳せたことはなかった。
それが此処まで来てしまうのだから、人というものは分からないものだ。日夜、その考えは流転し、消長し、移り染まる。確かなものなど無いのかもしれないと思いながら、それでも「確かさ」を得ようとして苦しむ。
――それがきっと、長門有希の抱え始めた、面倒な人間の在り方でもあるのだろう。
人故に、持ち続けねばならないもの。長門は着実に「人」に近付き始めている。


「……依然として、エラーはある。『わたし』は統合され元に戻ったに過ぎない。わたしはいつか、また同じ事態を引き起こすかもしれない」
口を暫し閉ざしていた長門が、不意に、忠告のように古泉に投げ掛ける。
「そのとき――」
「それが、どうかしましたか?」
古泉は不遜な調子で、何を敵に回そうとも決してたじろがぬ不敵さで笑った。古泉一樹が垣間見せた笑い方としては初出の、彼の本質を一端覗かせた微笑だった。
「あなたが何度エラーによって世界を改変したとしても、僕が、『彼』が、朝比奈さんが、涼宮さんが――必ず救いに行きます。あなたを取り戻す為に走ります。先程も言いましたが、長門さんの生きたいように生きればいい。己の能力を疎ましく想うなら捨て去っても構いません。その分だけ、僕等があなたを護ります。あなたの想いが均衡を崩すほどSOS団は柔じゃありませんよ」
あなたの力になりたい、手助けを、させて下さい。
どうか僕の傍に居てください。
――最後の一句を、古泉は飲み込んだ。
僕等の、じゃない僕の傍に――などと、気障極まりない台詞を素面で吐けるほど、古泉一樹もまだ心情整理は出来ていない。
彼の上司の森園生くらいの人生経験を積めば、それくらいの積極性も生まれるのかもしれないが。

「わたしは以前から、あなたの視線を知っていた」
「……」
「『わたし』があなたを召還した、それも、恐らく理由の一つだった」

唐突に随分な爆弾発言だ、と思ったのは意識し過ぎだろうか?古泉は格好付けた笑みは何処へやら、少々赤らんだ頬を誤魔化すように咳払いを一つした。
「そ、うなんですか」
「そう」
「では、僕の気持ちなんて、とっくの昔に知られていたということですか」
「そう」
「……そうですか」
どうしよう、気まずい。
古泉は余所見をする振りをして、何時になく激しい音を立てる心臓を押さえつけた。――落ち着け鼓動。
けれども今回の騒動で、大いに吹っ切れていたこともある。古泉は息を吸う。

「『彼』には、どのように話しますか」
「……今回の改変についてはわたしから、説明をする。……わたしの、想いについても決着をつける」
「それは、『彼』に告白をする、ということですか」
直球に直球を返す。長門有希は首を、はっきりと横に振った。「違う」

「そう、ですか。――もしそうなったとしても僕はあなたを応援できませんから、少しほっとしてしまいました」
無機質だった黒の瞳が、コーヒーにホットチョコレートを溶かしたような、ゆるい温度を宿して渦を巻いている。古泉はその瞳に訳もなく口付けたい、という衝動にかられた。触れれば、五臓六腑を丸ごと溶かし尽くすくらいの激しい感情に心が水没 するに違いない。古泉は一握りの勇気を、日常会話するような気軽さに溶け込ませて、

「僕は、長門さんが好きですから」
「……そう」

古泉は気恥ずかしさから逃れるように天を仰ぎ、少女は、煽られる風に任せて髪を遊ばせながら、微かに何事かを呟いた。
古泉の耳にまでは入らなかったその極小の言葉は、白く曇った吐息に混ざる。


「そう」

――それはとても、静かな夜だった。





 
 
///
 
 
 
 
 

退院から数日。
取り戻したごく真っ当な学生生活に、身体はすぐに馴染み、何事もなかったように古泉と長門は復帰した。当時はちょっとした騒ぎであったというが、古泉の目には特にそんな雰囲気を引き摺る様子もない、懐かしい日常だ。

「なあ、古泉。頼んどいたアレできたか?」
昼休み時間。拝むような仕草でやって来たクラスメートに、古泉がしれっとプリントアウトされた紙束を差し出すと、文化祭の劇作家担当である少年は「おー、サンキュ。やっぱ出来る奴に頼むと違うよな!」と調子の良い声を上げ口笛を吹き、古泉 の背を痛めつけるのが目的かと疑うほど激しく叩き、古泉の制止が入るまでそうしていた。クラスのムードメーカーとしての役回りを心得た彼は、一年時から古泉とは見知った仲で、持ち前のテンションの高さで委員長役を務めている。今度の文化祭劇でも誰もやりたがらなかった脚本作業を一手に引き受ける形になり、お陰であちこちで奔走しているようだ。
翻訳を任されていた『Snow White』原版。退院後、数日の間に纏めて翻訳作業を仕上げ、字が汚いとよく指摘されることも考慮してわざわざPCに打ち直した古泉だ。英語は不得手ではない古泉も古い活字を相手に苦戦したが、約束は約束と、期日通りに纏め上げてきたのだった。

「構成の方は出来上がったんですか?」
「いんや、まだまだ。やっぱ原書の方も合わせてみないとなあ。そういうわけで、これから読む。煮詰まってたからマジ助かったぜ」
「……まだ脚本の下敷きが出来ていない状況なのなら、少し、提案があるんですが」
少年は受け取って読み掛けていた紙を捲る手を止めた。
「なんだ、お前から改まって提案なんて珍しいじゃん。――何?」
「この『Snow White』なんですが……優しい話に、出来ないかと」
言葉を区切って、古泉は真摯に語る。
「原書そのまま、でも勿論いいとは思いますが、物語が酷に成り過ぎるのではないかと思いまして。文化祭という場で公表する演目ならば、見終わった人が微笑ってくれるようなものを望みたいのです」
昨年演じたものは、そういう意味では失敗だったと思いますから、と付け加えると、少年は「はーん」と悩んでいるような感心しているような妙な奇声を出した。
「……なんか、あったみたいだなあ。先週の入院から様子変わったなー、とは思ってたけど」
「そう……ですか?余り自覚はないのですが」
「おう。俺の目は確かだね!まあでも、言ってることは最もだ。今度の話し合いんときに議題に出すから、意見提示してくれれば俺も支持するわ。脚本書いてて思ったけど、やっぱ暗い話は性に合わないっていうかさ」

陽気な少年はそうやって翻訳文書を抱えて何処へか、やはり何か打ち合わせがあるのだろう、慌しく去っていった。古泉はほっと一息をつき、腕時計を見遣る。
昼休みは、まだ時間があった。
部室へ寄ってみようかという気まぐれを起こしたのは、古泉自身、錯綜した感情の行く果てを見届けていないからだ。
古泉はあれから、長門とキョンの間にどんなやり取りがあったのかを知らない。事後報告も少女が請け負い、それきりだ。彼の態度にも一見変化はなく、総てが元の鞘に収まったような、そんな日々が続いていた。

変わったのだろうか。あの一連の事件に、幾らか変わることが出来たのだろうか。
少年の、おどけたような言葉が耳に痛い。
――ただ古泉は、優しい話を、少女に見せてあげたかった。裏方担当だろうと何だろうと。文化祭の日に、「どうぞ、見に来てください」と微笑んで長門を招待できる、そんな物語を、彼女に贈りたかったのだ。



――文芸部室の読書愛好家の少女は、其の日、稀なことに書物を手にしては居なかった。


「……何をして居られるんですか?」
「執筆活動」
珍しい――少女は、普段は隅に仕舞われて見向きもされないノートパソコンを立ち上げて、人並みの調子でタイピングをしていた。ホワイトボードに赤い水性ペンで走り書きをされているのを古泉は目敏く見つけ、事態を理解する。「締切・来週まで !ジャンル自由、原稿20枚分」と、かなりの達筆で大きく書かれているそれは、見慣れた団長涼宮ハルヒの直筆。
「これは……もしかして文化祭にも、機関誌の発行をすることになったんですか」
事前にハルヒから聞き及んでいなかった古泉の当然の疑問を、長門があっさりと回答する。
「今朝涼宮ハルヒに遭遇し、わたしが提案した」
「……長門さんが?」
益々予想外だ。ハルヒが独断専行してのことなら、キョンを始めとした面々も言い訳を交えつつ抗議する所だが、それが長門有希たっての提起。古泉が眼を丸くすると、少女は人らしい印象を強めた柔らかな瞬きをして、「書きたいものがあった」と古泉に告げた。

書きたいもの。その察しがつかないほど、古泉は愚鈍でもなければ不敏でもない。
零れ落ちた古泉のその笑みは、古泉も己で意識が追いついていない、ただ、蕩けるように甘やかなものだった。ミーハーな女子ならば、黄色い悲鳴を上げたかもしれない。唇を綻ばせた古泉が、そっと長門に囁く。 


「――タイトルを、お聞かせ願えますか」 


長門は、淡々と打ち進めていた指を止めると、既に印字されていた一枚の原稿を摘み上げて、ひらりと古泉に翳した。窓から差し込む射光に浮かび上がる、黒インクで刻まれた一文。
題名のみがプリントされた、原稿の表紙を飾る一枚。

「これが、わたしの決着」

わたしのあなたへの答え、と。

その声が何処か満足気に、強く胸を打つような感情を湛えて響いたのは――
多分、気の所為ではないのだろう。








---------------------------






白雪姫は王子と出遭いはしませんでしたが、小人と共に幸せになりました。
お妃様は白雪姫に赦され、白雪姫を赦して、心から笑えるようになりました。
もう誰も白雪姫を傷つけず、お妃様の心を蝕みません。


皆が皆、――幸せに。
幸せになるために、生きられるのです。



レクイエムは要りません。
白雪姫は、小人と笑い合って、最後にそうお妃様に告げました。


「わたしを葬るための歌も、お義母様を葬るための歌も、今は必要ありません」

何故なら皆が皆、生きて、泣いて、恨んで、――恋をして、誰かを愛して。
幸福を選び取って、わたしのためにあなたのために生きてゆくのだから。



Snow White Restart.

――この物語終わりが、わたしたちの、お義母様の、始まりになりますように。





--------------------------- 













―――Snow white Requiem.




賑やかな人の群れを縫って、古泉が紛れて消えてしまいそうな小さな少女に大声を張り上げる。鮮やかなビラが撒かれ、ポップが至る所に立ち並ぶ、活力に漲った高校生たちの祭典。一般客も含め、笑い声が、談笑が、そこかしこ溢れる中、波に揉まれながらも彼女の元に辿り着いた演劇衣装を身に纏った古泉。

その格好は、彼の容姿にはそぐわない、道化師のようにカラフルな小人の衣装。

古泉はそっと少女に、何処から持ち出したのか手土産の林檎を差し出し、

 
「――とても、よく似合う」

窓際にて立ち止まった少女は、仄かに首を傾けて、少年に微笑んだ。

    

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2020年03月11日 19:19