あたしが公園へと駆けつけたとき、キョンはいつものようにベンチに座り、あたし達の住む街を見下ろしているように見えた。
その姿を見て、あたしだけでなく、家族やクラスメート、キョンを知るみんなが心配しているというのに、そんなことはお構いなしと言わんばかりに、この公園にきて有希との思い出に耽っているキョンにイラつきを覚えた。
「キョン!」
少し怒り気味に声を荒げて、背後からキョンに向かって叫ぶ。しかし、キョンはあたしの声に全く反応しない。
その光景を見て、あたしの胸にますます怒りの感情がこみ上げてきた。いまから思えば、このときのあたしの怒りには多分に有希への嫉妬の感情も含まれていたのかもしれない。
あたしは、ツカツカとキョンへと近づき、キョンの背後から正面に回りながら、あたしが高校生だった頃と同じぐらいの激しい口調でキョンを指差しながら再び声をかける。
「キョン!! あんた何やってるのよ!」
正面に回りキョンの様子を見て、初めてあたしはキョンの異変に気がついた。キョンは目を閉じ、ベンチの手すりにもたれるように座っている。もちろんあたしの声には微動だに反応しない。
「キ、キョン……? ウソ……でしょ」
一目でわかった。キョンが普通の状態ではないことは。声が出なかった。正面に回ってキョンを見るまで、あたしはこの状況を想像すらしていなかったからだ。
あたしにとって、キョンといっしょにいるということは、呼吸をすることと同じくらい当然のことだった。だから、キョンの妹から容態を告げられたときも、根拠もなく何とかなると信じていた。
いまから振り返れば、それはキョンがあたしの傍からいなくなってしまうという現実からの逃避行動だったのかもしれない。それほどまでに、キョンの存在はあたしの日常の一部となっていたのだ。
だが、そんな幻想はいつまでも続くことはない。心の準備もなくキョンとの別れと言う現実を突きつけられたあたしは、頭の中が真っ白になり、しばらく何もできないまま呆然とその場に立ち尽くした。
「涼宮さん!」
後から駆けつけてきた古泉くんの声を聞いて、あたしはようやく我に戻る。
「こ……古泉くん……、キョンが……キョンが……」
うろたえるあたしのもとへと駆け寄った古泉くんは、キョンの姿を見て状況を即座に理解したようだった。
「落ち着いてください! まだそうだと決まったわけではありません! 冷静になってください!」
古泉くんは、冷静さを失って取り乱しているあたしの肩を抱いて元気付けた後、すぐにポケットから携帯を取り出し、救急車の手配をした。その表情はいつもの笑顔ではなく、むしろ怖いぐらい真剣な表情だったことを覚えている。
「大丈夫です。きっと助かりますよ」
救急車が到着するまで、古泉くんは、普段の温和な表情に戻って、あたしを励ましてくれていた。ふと、ベンチのほうに目をやると、キョンは最初に見たときと変わらず、目を閉じたままピクリとも動かない。
しかし、その表情はどこか穏やかで柔らかく、原因不明の病気で苦しんでいる患者のもののようには思えなかった。そんなキョンの表情を見ていると、言葉では言い表せない奇妙な不安が胸に込み上げてくるのがわかった。
しばらくして、救急車のサイレンの音が遠くのほうから聞こえてきた。
こうやって救急車を待っている時間の一秒一秒がキョンの命を削っていると考えると、救急車が公園に到着するほんの数分程度の時間が、あたしには気の遠くなるほど長い時間のように思える。
ようやく救急車が到着し、あたしは冷たくなったキョンの手をぎゅっと握り締めて、いっしょに救急車に乗り込んだ。後ろのドアが閉まり、救急車はサイレンを鳴らして走り出す。
あたしはいままで神様に祈るというようなことをしたことがない。なぜなら、自ら進むべき道は自らの手で切り開いていくものだと思っていたからだ。
だが、公園で救急車を待つ間、担架に乗せられたキョンとともに救急車に乗り込み病院へと到着するまで、そしてキョンが集中治療室に入って主治医が出てくるまで、あたしは人生で初めてキョンの無事を神に祈った。
正直、神様でなくとも誰でもよかった。キョンを助けてくれるのであれば、例えそれがどのような存在であろうとも、悪魔であったとしても、あたしは彼に感謝したに違いない。
それは多分、あたしが心のどこかで、そう識閾下のさらにその奥で、確信にも似た予感を持っていたからだ。キョンはもう助からないと。
キョンの無事を祈るあたしの周囲では、キョンの家族や高校時代の友人が治療室から主治医が出てくるのを脅えるような表情で待っていた。誰一人言葉を発する者は無く、あたりは奇妙な静寂に包まれている。
感覚が研ぎ澄まされたように一秒一秒がとても長く感じられ、どこか遠くで滴り落ちている水滴の音すら聞こえてきそうな錯覚に陥る。
あたしの頭の中ではキョンは必ず助かるという思いと、キョンがあたしの前からいなくなるという絶望感がぐるぐると堂々巡りをしながらせめぎあっている。
静かに治療室の扉が開き、主治医のもとへキョンの家族が駆け寄った。一同の視線が主治医に集中する。一縷の望みをかけてキョンの安否を問う家族に、主治医は無常にも首を横に振った。
「手は尽くしたのですが、息子さんを助けることはできませんでした」
死刑宣告を突きつけられたような絶望感があたしを襲う。あたしは頭の中が真っ白になり、体中から力が抜け、うなだれるように床に視線を落とした。周囲からキョンの死を悲しむすすり泣きの声が聞こえてくる。
あたしは治療室の前にある椅子に座ったまま、後から後から溢れてくる涙を拭うことなく、目の前にある病院の床をじっと見つめていた。
キョンの家族がキョンにすがりついて泣く間も、キョンの友人がすすり泣きながらこの場から立ち去っていく間も、あたしは溢れる涙が病院の床に滴り落ちるのを眺めていることしかできなかった。
何も考えることができない。キョンのもとに駆け寄り、キョンの死に顔を見ることすらできない。それどころか立ち上がる気力さえも残されていない。
キョンの友人は立ち去り、家族以外ではあたしと古泉くんだけがこの場に残された。あたしの様子を見かねた古泉くんがあたしを慰めようと声をかけてくる。
「涼宮さん……、そろそろ僕達も帰りましょう。もう外も日が暮れてきたよう――――」
「……ねえ、古泉くん」
あたしは古泉くんの言葉を遮るように声をかけて顔を上げる。
「キョ、キョンが死んだなんて……嘘だよね。ほ、本当はキョンは……あ、あたしは知ってるんだから。み、みんなであたしを……からかってるんでしょ?」
「涼宮さん……」
「本当のことを言ってよ。キョンは生きてるって」
「お気持ちはわかりますが、あなたがそんな風に自暴自棄になることを、彼は望んでな―――」
「何よ! 古泉くんまで!! 嘘だって言ってよ!! キョンは生きてるのよ! だって! あたしは、あたしは、キョンがいなきゃ! キョンが死んだなんて、絶対に! 認めないんだから!!」
自分が不条理なことを言っているのは十分理解していた。それでもあたしは叫ばずにはいられなった。感情を爆発させたあたしは、辛い現実から逃げ去るようにその場から走り去り、病院を後にした。
自宅までたどり着いたあたしは、まっすぐ自分の部屋駆け込むと、そのまま着替えることもせずに、ベッドに突っ伏したまま枕を抱えて泣いていた。
いくら涙で枕を濡らしても、深い悲しみと絶望が胸にこみ上げ、後から後から涙が溢れてくる。目を閉じると、キョンの顔が瞼に浮かんできた。
あたしの我侭を聞いてあきれる顔やあたしを怒る顔、有希やみくるちゃんと話して鼻の下を伸ばしている顔、あたしの姿を見て少しだけ照れている顔、そのひとつひとつが懐かしい。
思えば、あたしのことを真剣に怒ってくれたのは、両親を除けば、キョンだけだったし、どんな馬鹿げたあたしの我侭にもつきあってくれたのも、キョンを含めたSOS団のみんなだけだった。
いつの頃からか、あたしはキョンのことを、親のようにあたしを導いてくれる、そして親友として苦楽を分かち合える最も身近なあたしの理解者だと思うようになっていた。
やがて、あたしの思いはキョンへの好意へと変化してゆき、キョンが有希とつきあいだした後も、その想いは変わることはなかった。
そんなあたしにとって、キョンは身体の一部と言っても過言ではなく、そのキョンを失ったことは、自分の身体を切り裂かれることのように辛かった。
どれぐらい時間が経ったのだろう。気がつくと、あたしは真っ暗な闇の中にひとりポツンと立っていた。周囲に人の気配はなく、静寂と暗闇だけがあたりを支配している。
「ここは……」
しばらくあたりをキョロキョロと見回していると、不意に春の匂いがしたように感じた。何の匂いだろう。とても懐かしい匂い。これは……桜……? と同時に、前方から足音のようなものが聞こえてきた。
前を見ると、キョンが有希と腕を組んで楽しそうにおしゃべりをしながら、あたしから遠ざかっていく姿が見えた。ふたりの周囲にだけ春の日差しのような柔らかな陽光が差している。
「キョーン!」
キョンに向かって叫んだ。しかし、ふたりは振り向くことなくあたしから遠ざかっていく。どうやらあたしの叫び声はキョンと有希には届いていないようだった。
「キョン! 有希! 待ちなさい!!」
あたしは咄嗟にその場から駆け出した。しかし、ふたりとの距離は、どれだけ走っても、一向に縮まる気配がない。
『ここでキョンに追いつけなければ、二度とキョンに会うことはできない』そんな何の根拠もない、にもかかわらず確信にも似た予感に追い立てられるように、あたしは必死の思いでキョンと有希を追いかける。
だが、どれだけ走っても距離が縮まらず、ついにあたしは足をもつらせて倒れこんだ。
「キョン! 有希! 待ってー」
顔をあげ、倒れたまま声を振り絞って大声で叫ぶが、ふたりはあたしに気づくそぶりすら見せない。それでも、あたしには、絶望と孤独が襲う中で、ふたりに叫ぶことしかできなかった。
気がつくと、あたしは自分の部屋のベッドの上で枕を抱えていた。
「夢……か……」
日は完全に沈み、部屋の中はうす暗く、窓から月明かりが差し込んでいた。夕食の時間はとっくに過ぎていたため、何か夜食をと思い、部屋のドアを開けると、夕飯の残りがそこに置いてあった。
おそらく、あたしに気遣ってお母さんがおいてくれたのだろう。病院から帰ってきてからずっと泣きっぱなしで泣き疲れたあたしは、もう何もする気力はなく、遅い夕食を食べた後、パジャマに着替えて再び眠りについた。
翌日
「涼宮さん」
大学の帰り道で、不意に声をかけられて振り向くと、古泉くんがそこに立っていた。
「古泉……くん……」
「昨日、相当ショックを受けておられたので心配していたのです。僕が何を言おうと、涼宮さんには気休めにしかならないかもしれませんが、気を落とさないでください」
「うん……、昨日は……ごめんね」
「いえ、別に気にしてませんよ。誰だってあの状況では冷静ではいられないでしょうから」
当たり障りのない挨拶を交わした後、しばらく会話が途切れた。気まずい雰囲気が漂う中、古泉くんが気を利かせるように話題を振ってくる。
「ええと、どうして今日は大学に? もう卒業式まで来ないのかと……」
「教授に呼ばれたの。ほら、あたし外資系の会社も受けてたでしょ。向こうの人事担当者があたしのことを高く評価してくれたみたいで、最初の提示額の二倍報酬を出すから是非うちに来てくれって連絡があったみたいなの。
教授も今後のつきあいとか考えると無下には断れないみたいで、もう一度考えてみてくれないかって……まあ、ようはそこに就職してくれって頼まれたわけよ」
「なるほど、そして涼宮さんは断ったという訳ですね」
古泉くんの問いかけに、しばらく沈黙した後、あたしはさりげなく自然に答える。
「ううん、OKしたわ」
「え! どうしてですか? あれほど地元に残ると言っておられたのに……」
「だって……あたしにはもう……この街に残る……理由がないから……」
少し驚いたような表情をつくる古泉くんを一瞥した後、あたしは空を見上げ、キョンや有希やみくるちゃんがいたころを思い出しながらゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「SOS団を結成した日はこんな日が来るとは思わなかった。あの時は、毎日がとても楽しくて、ずっとこんな日が続くと信じていた。でも、気がついたら有希もみくるちゃんもキョンもいなくなって、いまはもうあたしと古泉くんだけ。
知っていたはずなのに……決してこのときが永遠ではないっていうことを。だからもう終わりにするの。この街にいると、いつまでも昔の思い出にすがりついてしまいそうだから。あたしも大人にならなきゃね」
「涼宮さん……」
自分に言い聞かせるようにそうつぶやくあたしの様子を、古泉くんは寂しげな表情で見守っていた。再び、あたしと古泉くんの間に沈黙が訪れる。
「涼宮さん! 聞いてもらいたい――――――」
意を決したように顔をあげた古泉くんの言葉を、あたしは片手で静止するようなポーズをして遮った。
「古泉くんの気持ちは……わかってるつもりよ。でも、きっとあたし、キョンのことを忘れることはできないわ。だから……古泉くんとは……」
「そう……ですか」
「明日、キョンの葬式が終わったら、東京に向かうつもり。急だから色々準備しなきゃいけないことがたくさんあるしね。だから、もうお別れ。
あたし、ずっと我侭ばっかり言ってみんなに迷惑かけてきたけど、これが最後の我侭だから。ごめんね、そしてありがとう。あたしの我侭につきあってくれて」
古泉くんはうつむいたまま顔をあげることはなかった。落胆した様子の古泉くんにあたしはなんと言って声をかけてよいかわからず、ただ一言「さよなら」と言って微笑み、古泉くんと別れた。
キョンの葬式の日
葬式の参列者の中には、キョンの中学時代や高校時代の友人がたくさんいて、あたしもその中の一人だったが、大学での友人は一人も見つからなかった。
その光景が、キョンの中の時間が有希と別れたあの日から止まったままだったということを如実に物語っていた。
つい先日まで、あたしの傍にいたはずのキョンは、荘厳な箱の中に入れられて、みんなに見送られた後、火葬場に送られた。そうして、あたしの前から永遠に消え去ってしまうのだ。
その様子を見ていると、キョンが亡くなった悲しみとともに、孤独や不安といった感情があたしを襲い、今すぐにでもその場から逃げ出したい衝動に駆られた。
それでも、あたしはキョンが煙となって天に昇っていくまでずっとキョンのことを見守っていた。これがキョンとの最後の別れになるのだから、途中で退席するという選択肢など最初からあたしの頭の中にはなかった。
キョンはいまのあたしの姿を見て何て言うだろうか。ありがとうと感謝するだろうか。それとも、迷惑だと顔をしかめるだろうか。白い煙の立ち上る空の彼方から、いまにもキョンの声が聞こえてくるような気がする。
あたしは、火葬場の煙突から出る煙が完全に消えてしまうまで、ずっとキョンのことを想いながら、その光景を見守っていた。
キョンの葬式が終わった後、東京へ行く前にあたしはキョンとの思い出がたくさんつまっているあの公園へとやって来た。この公園だけは、目の前のベンチにキョンが座っていても不思議ではないくらい、何一つ変わっていない。
あたしはキョンの座っていたベンチに座り、キョンと同じように眼下にある街並みを見下ろす。キョンがいた頃は意識もしなかった静寂があたりを包み、孤独感があたしを襲ってくる。
「これが……キョンの見ていた風景なのね……」
誰に言うともなく、あたしは小さな声でつぶやいた。ふと、空を見上げると、どんよりとした真っ黒な雪雲からパラパラと雪が舞い降りてくる。キョンがこの世界に別れを告げたあの日も、こんな風に雪が降っていたっけ。
切なさで胸が苦しくなる。キョンと出会ってから七年近い年月を過ごしたにも関わらず、あたしは本当にキョンに伝えたかったことの十分の一も伝え切れてないような気がする。
会いたい。もう一度だけでもキョンに会って、いまあたしの胸に残るこの想いを伝えたい。あの日のキョンと同じように街並みを眺めるあたしの頬を涙が伝っていくのがわかった。
ガサッ
背後で聞こえた物音が、あたしを切ない想い出の世界から現実の世界へと引き戻した。あたしが振り返った先には、古泉くんがちょっと気まずそうな表情で立っていた。
「古泉くん……」
「すみません、驚かせてしまって」
なぜだろう。笑顔ではないけれど、普段と変わらない古泉くんのはずなのに、なぜかいつもとは違う雰囲気を纏っているように感じる。
「どうしてここに」
ベンチから立ち上がり、古泉くんのほうに少し歩み寄りながら尋ねた。
「きっとここにいると思いましたので。涼宮さん、ひとつお願いがあるのですが、聞いていただけませんか?」
「何かしら?」
少しだけ間を空けた後、古泉くんは力強い声であたしの目をまっすぐに見つめて言った。
「僕も東京に行くことになりました。ですから、いっしょにお供したいのですが、よろしいですか」
「え? だって、古泉くん……地元に残って法科大学院に進学する予定じゃ……」
「僕も、ここに残っていては想い出にすがりついたまま、何もできないような気がしたのです。幸いなことに、知り合いのつてで東京のシンクタンクに就職が決まりました。ですから、ぜひお供したいと思いまして……
それに、僕も涼宮さんと同じで、そう簡単に自分の好きな人を諦めることができない性質なのです。例えあなたが振り向いてくれなくても、あなたの傍にずっといることができれば、それで僕は満足です」
このとき、あたしはようやく気がついた。古泉くんの目に宿る決意に。きっと長い間悩んだ末、古泉くんは古泉くんなりの結論を導き出したのであろう。
そしていま、古泉くんはあたしの前に立ち、あたしへの想いを告白している。あたしがキョンのことを諦めきれないと知っていながら。その古泉くんの姿が、キョンとともにいた頃のあたしの姿とダブって見える。
あたしはどう答えるべきなのだろうか。
正直、古泉くんの気持ちは嬉しい。それにキョンも有希もみくるちゃんも去ってしまったいま、あたしのことを一番わかってくれているのは古泉くんだけかもしれない。
でも、それでもあたしはキョンのことを忘れることができない。諦めることができない。どうすればいいの、キョン。あたし……あたし……
「涼宮……さん……」
古泉くんがあたしを呼ぶ声が聞こえた。しかし、奇妙なことにその声は驚きに満ちていた。不思議に思い古泉くんの顔を見ると、古泉くんは驚愕の表情で、あたしではなく、あたしの背後を見ていた。
そして、あたしの視界に飛び込んできたのは古泉くんの驚愕の表情だけでなく、舞い降ちる桜の花びら。あたしは一瞬、目の前の状況が理解できなかった。
「桜……」
ハッとなって、あたしは後ろを振り返る。すると、雪の舞う冬であるにもかかわらず、公園の桜の木が満開の花を咲かせていた。
だが、驚いたのはそれだけではない。雪と桜の花びらの舞う向こう側、桜の木の下にキョンと有希の姿があった。いや、ふたりだけではない。みくるちゃんも、古泉くんも、そしてあたしの姿もあったのだ。
目の前にあるその光景は、あたしにとって、いままで見たどんな名画よりもどんな風景よりも幻想的で懐かしく思えた。
この光景をあたしはどこかで見たことがある。そう、確かこれはあたし達が高校生だった頃、キョンが有希とつきあって始めて迎えた春に、SOS団で行った花見の光景。
いまはもう失われてしまったキョンの笑顔がまぶしい。そしてこんな日が来ることを知らずにキョンと笑顔で話すあたしの姿がとても懐かしい。
やがて、その光景が風に吹かれて端の方から消えてゆくと、また次の光景が、まるで紙芝居でも見ているかのように、目の前に繰り広げられる。それは夏の日に有希を待つキョンと、そこに押しかけたあたし達の姿だった。
「これは……まさか、桜の木の記憶……」
背後で古泉くんが小さくつぶやく声が聞こえた。おそらく古泉くんの予想は正しいだろう。確かに目の前にある光景はあたし達の高校最後の年の夏の日のひとコマ。
想い出が走馬灯のように蘇り、耳を澄ませばキョンの声が聞こえてくるような錯覚にすら陥る。懐かしさの余り、目から涙が溢れ出ていることに気がついた。
やがて、夏の光景も消えてゆき、季節は秋、冬と巡ってゆく。キョンと有希の別れ。そして有希を待ち続けるキョンの姿。キョンを想い、何度も何度もこの公園に通うあたしの姿。
季節は次々に巡りゆき、最後にキョンがこの世界に別れを告げたあの日の光景が目の前に広がる。
キョンはベンチに座ったまま身体を後ろに向けている。そしてキョンの後ろには……有希の姿があった。あたしはその光景を見て思わず息を呑んだ。
もし、この光景が事実だとするならば、あの日キョンは、消えてしまったはずの有希に、最期の最期、死の直前にあっていたことになる。通常ならありえないことだが、あたしは確信を持って信じることができた。目の前の光景が真実であることを。
それだけでない。あたしは有希を見つめるキョンの表情を見て、いままで気がつかなかった真実へとたどり着くことができた。キョンのこと、有希のこと、そしてあたし自身のこと……
有希を見つめるキョンの表情はとても穏やかだった。きっとこれは、有希以外誰も、あたしすら知らない、有希だけが見ることのできるキョンの表情。それは、あたしがキョンへの想いに気がついたあの日から、ずっと渇望していたものでもあった。
キョンと有希が見つめあう光景を見て、またあたしの頬を涙が伝う。でも、この涙はいままであたしが流していた絶望や悲しみの涙ではない。そのことはあたし自身が一番よく知っていた。
やがて、いままでよりひときわ強い風が吹きぬけ、桜の木の記憶の最後の光景をかき消していく。
「キョン!」
声を振り絞ってキョンに声をかける。しかし、あたしの声はふたりには届かない。それは当然だ。目の前にあるのは現実ではなく、桜の木が見てきた過去の情景なのだから。
であるはずにもかかわらず、目の前の風景が消えてしまうほんの一瞬だけ、キョンと有希があたしのほうを見て優しく微笑んだような気がした。錯覚? いや違う。確かにふたりはあたしに微笑んだ。
奇跡が起こったのだろうか。時空を超えて、あたしの叫び声がキョンと有希のもとへと届いたのだろうか。真相を確かめる術はないが、きっと届いたのだと、あたしは信じている。
すべてが消え去り、もとの日常が戻ってきた後も、しばらくあたしはそのまま桜の木を眺めていた。そしてそのまま、背後にいるであろう古泉くんに声をかける。
「古泉くん」
「え、あ、はい」
「あたし……ようやく気がついたわ。どうしていままで気がつかなかったのかしら。キョンは……誰よりも有希のことが好きだった。ふたりの間にあたしの入る余地など最初からなかったのね。
なのに、あたしはキョンと有希の間に割り込むことができると、いつかキョンが振り向いてくれると信じて……
ううん、違う。最初からあたしは知っていたんだわ。ふたりの間に割り込む余地などないことを。でも、キョンは優しかったから、あたしのことをふったりはしなかった。だから、いつまでも諦めきれないでいた」
「…………」
「でも、有希を見つめるキョンの顔を見て、あたしは悟ってしまったわ。自分の負けを。結局、あたしでは有希の代わりにはなれなかったのね。
でも……なんだかすっきりしたわ。だって、あんな顔してるキョンを見たら、『お幸せに』って言ってあげるしかないじゃない。あんな……あんな、幸せそうなキョンの顔を見たら……」
これは、古泉くんだけに向けた言葉ではない。半分はあたし自身に対する言葉。ひとつひとつ噛みしめるように紡いでゆくあたしの言葉を、古泉くんは黙って聞いてくれていた。
「ひとつだけ、涼宮さんの言葉を訂正させてもらってよろしいですか?」
「え?」
「きっと、彼はあなたに長門さんの代わりになって欲しいとは微塵も思っていなかったと思いますよ。もし涼宮さんが彼の心を射止めていたとしても、彼はきっとこう言ったでしょう。『ハルヒはハルヒのままでいい』と」
「そう……ね、きっとそうだわ。こんなことでウジウジしてるなんて、あたしらしくないわね」
あたしは古泉くんに背を向けたまま言葉を紡いでいた。だから、古泉くんがどんな顔をしていたかはわからない。古泉くんも背を向けていたあたしの表情を知りはしないだろう。
それを知っているのは、あたしの目の前にある桜の木だけ。
「それじゃあ、気分を一新して東京に向かうわよ! いつまでもクヨクヨしてたら、キョンに笑われちゃうしね!」
何かが吹っ切れたような感じで古泉くんのほうを振り向くと、古泉くんもいつのまにか普段の笑顔に戻っていた。
「そうですね。でも、急ぐことはないと思いますよ。想い出のつまったこの街を、もう一度ゆっくり見て回りながら駅へ向かうのもよろしいかと」
「そうね! じゃあ行くわ!」
あたしは先陣を切って公園を出ると、古泉くんよりも早く坂道を下ってゆく。坂道の途中でふと振り返ると、古泉くんが少し寂しげな表情で桜の木に向かって何かをつぶやいていた。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもありません」
きっと古泉くんにもキョンに言いたいことがあったのだろう。SOS団でキョンといっしょの時間を一番長く過ごしたのは、有希でもあたしでもなく、古泉くんだったのかもしれないのだから。
空を見上げると、いつの間にか雪は止み、雲の切れ間から柔らかな春の陽光が街を照らしていた。
あたしはもう一度花びらの散ってしまった桜の木を見上げ、キョンに告白した高校最後のあの日に、決して口にしないと誓ったはずの言葉を小さな声でつぶやいた。
「さようなら、キョン」
そして、あたしは二度と振り返ることなく坂道を下っていった。
 
~終わり~
 


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