私の選んだ人 第2話 「僕は寝てはならぬ」


「いい車ですね。でも少し意外だな」

色の薄いサングラスをした運転中の森さんは、全くこちらを見ずに、
「皆そう言うのよね。水色は似合わないって。私にはカワイ過ぎるってどういう意味よ。私だって女よ?」
と、鋭い声で僕の「意外」に対する答えを返した。

僕は今、森さんの私用高級国産車の助手席に座っている。メタリックなライトブルーのコンバーチブルで、彼女の言う様に水色に見える。今はオープンカーだが、電動式のルーフを閉じると4人乗りの乗用車になる。内装は赤のレザー。今日は気候が丁度良く、開放感が気持ち良い。風は驚くほど感じない。
ちなみに先に断っておくと、どこへ向かっているのかはまだ聞いていない。

……しかし相当高いなこの車。それになんというか、「カワイイ色」以前に、この車と持ち主を見てカタギだと判断する人間は100人中1人未満だろう。あ、今は僕もそう思われているのか。まぁ機関の人間はカタギとは言い難いし外れてはいない。

「いや、俗な表現だけど、それは森さんが「可愛らしい人か、美人であるか」で言えば、美人だという認識からの発言だし、怒る事でもないと思うけど?」
「ありがと。でも、この車はプライベート専用 。仕事中は皆様方のご想像通りの車に乗ってるわよ。それとも、持つ車全部シック系統の色でマトメろって事?私だってたまには気分を変えたいわ」

先月見たワインレッドのジャガーの事か。あれを下取りに出して、この車を購入した訳では無かったのか……。

「そうか。ごめん、森さん。それに森さんは、カワイイ所もあるというかなんというか」
「ふふっ。何それ?口説き文句にしては情けないわね。大体あんたみたいなヒヨコに可愛いなんて云われると困っちゃうわ」

そう言って森さんは口を尖らせ――ヒヨコの嘴のつもりらしい。まぁ、ヒヨコも鶏も嘴の形は変わらないけど――そのヒヨコ口で「ピヨピヨ。カワイイ、カワイイ」とかやっている。
僕は物凄く馬鹿にされた気分。
しかし機関の人間が今の森さんを見たら、驚愕の余り顔面が凍傷になるかもしれないな。

「…………いえ、そういう、意味では」
「あら、怒ったの?ふふ。ごめんごめん」

それにしても、森さんは、機関からどれ程の高給を取っているのだろう。
非凡で多彩な能力を持つ彼女の事だから、恐らく機関の中でもかなりの地位に居るはず。
異常事態が起きた時のアナライザー、つまり状況分析者としての役割を持つのは知っている。
北高転校当日からは僕の直属の上司で、それまでは僕の上司の上司だったのだろうという事も知っている。
でも詳しい事は知らされていない。
「知らない事は漏らせない」。機関の方針だ。

「機関からもかなりの手当てを貰っては居るけど、それだけじゃ流石に今の私の生活は無理よ。ちょっとした副業してるの。貴金属を買って売るだけの」

……絶対に、ちょっとした事ではないな。第一、それにはかなりの元手が必要だ。
服装も装飾品も僕から見れば途轍もなく高価なのだが、彼女には自慢気な所が全く無く、成金という感じは微塵も受けない。
あまり目立つジュエリーを身につけていたりはしないし、彼女の普段の服装を彼が見ても恐らく「普通のOLの格好」ぐらいに思うんじゃないかな。僕だって機関の訓練を受けていなかったら、どれ程高価なのかは判らなかっただろうし。

「あの子、相手の服装を見て品定めする時に靴を見ないわよね。それって本当にあの子らしいわ。……で、一樹。アンタは今、私の太腿の何を品定めしてるの?いやらしい」

「あ。ええと、済みません。その気は無かったのですが。ところで、僕はそんなに彼の事ばかり考えているように見えます?」

「自分に聞いてみたら?っていうかアンタ、言い方がかなり気持ち悪いわよ、ソレ。自覚してる?まあ、あの子の判断基準や思考を知る事は重要な任務の内だし、一応褒めておく。ただ、私が一目見て解るような事を報告されても困るから」

……確かに我ながら気色悪い言い方だった。これが、数少ない本当の僕を知る人達に「実は天然」と言われる所以か。気をつけよう。擬態中のは、わざとなんだけど。
それにしても、森さんが一目見て解らない事って何があるのやら。

大体、運転してるというのにどうしてこうも簡単に心を読まれてしまうのだろう。
思考透視技術は、まず相手をじっと見る事が基本で、特に目の動きを観察する事は重要だ。ところが、森さんは一瞬でも目を合わせれば相手の考えが大体解ってしまう。

それでも、彼女と全く目を合わせないようにしていれば、それほど心は読まれない。
でも僕はその様な必要は感じないし、絶対にしない。
いつも、ただでさえ、周囲の彼女への対応で、彼女は傷付いている筈だから。
いや逆に、僕に対する彼女の透視がここまで的確なのは、僕自身が内面を知られたいと思っているからなのかもしれない。それでも彼女を想う気持ちだけは、出来得る限り表に出さないようにしていたのにな。

まぁ、今回は運転している森さんのタイトスカートから伸びる脚に思わず目が行っていた僕が悪い。
いや、見ようとしてた訳でもないんだけど、こう、ペダルを踏み込む度に白くて眩しい物が視界の端でチラチラ動くからつい無意識の内に目が行ってしまい、余りにもその肌が艶やかでほんの一瞬呆然としてしまい目を離すという常識的判断ができなくなっていた所を丁度見られたというか。いやでもまだそんなには見てない!って、何を考えているんだ僕は?
大体、今、心を読まれでもしたら大変な事になる。自制しなければ。

あ、まさか、さっきの僕は、もしかして、彼がコスプレ中の朝比奈さんを見る目と同じだったのだろうか。
もしそうなら――個人的には、かなり、ショックだ。


「ま、彼に対するあなたの気持ちは解らないでもない。あなたは彼を人としてかなり深いレベルで理解しているのに、彼はあなたの擬態した姿しか知らない。それが悔しいんでしょう?」
「ええ、まあ。でも任務だし」
「そうよね」

彼女の答えは実にあっさりしていて、その口調からは冷たさすら感じる。
でも、僕は知っている。彼女は本当は心の中で僕に謝罪している。
完全に制御されていて表面には全く出ないけど。
彼女があんな態度を取るのは、この場合、彼女が僕に対して優しさを見せる事は、本当の優しさではないからだ。
それに彼女は、普段から出来る限り他人に直接的な優しさを見せないように注意しているようだ。

でも、森さん。僕に素っ気無い態度を取っても、もう遅いんです。
僕は既にあなたを色々理解しているし、僕の気持ちは簡単には消えてくれそうにありません。

そもそも、他人を理解出来過ぎてしまうあなたの方こそ、僕が彼に対して持っている「悔しさ」を、万人に対していつも感じているのではないですか?

――そう考えつつ、シフトレバーに乗せられた彼女の左手を眺める。
彼女の繊細な造形の手は、いつものように動きに無駄と飾り気が無く、その事がその持ち主と同じ凛とした美しさと気品を与えている。
指輪をしている所を見た事は無い。
唯一のアクセサリは常にしているプラチナの腕時計で、彼女の雰囲気に良く合ったシャープでシックなデザイン。今は腕を動かす度に袖口からその鈍い銀色が見え隠れしている。
今日のネイルカラーは落ち着いた赤だ。これはよく色が変わる。

彼女の顔からは読み取れない時がある心の温かさも、常に手にだけは表れている気がして、こういう時に僕はついこの手を見たくなる。でも、今までは意識して見ないようにしていた。
今は僕の気持ちに気付いている事もハッキリ言われてしまったし、少しぐらいならいいかな?

「なあに?また私の脚でも見てるの?アンタが脚フェチだったとは知らなかったわ」
「いや、脚は見てませんよ」
「脚は。って事は、じゃあ手でも見てたの?手フェチ?」
「どうして必ずフェチズムになるんですか」
「ふふっ。からかっただけ~。あ、先に釘を刺して置くけど、『実は僕、森園生フェチでして』。なんて、キモい事言うのは無しにしなさいね」
「……」

キモいって。まだ何も言ってないのに酷い言われようだ……。やはり、あまり手も見ないようにしよう。
まあ、擬態した「僕」風言葉にしてくれたのは彼女なりの優しさなのだろうけど。

それに彼女のキツい物言いは、言うなれば当然の事なのだ。

彼女は恐らく、子供の頃から既に相当な頭の回転の速さを持っていて、他人の考えも元々かなり読めたのだろう。
他人の考えを読める事に気付かれると怖がられる。と、幼くして気付いた彼女は、自分の能力で知り得た情報をそのまま表に出さないよう生きて来たのに違いない。だから彼女の表情はあれ程迄に自由自在なのだ。
……幼くしてそのような事をしなければならなかったとは、とても哀しい事だ。そして、その事自体が一層彼女の精神を早成させてしまった。

相手の考えを読める事を隠したまま、その相手との親密な友好関係を築けるとは考え難く、また、学校でも1人だけ精神年齢がクラスメイトとは掛け離れていたに相違なく、上辺での友人は居ても、本当はずっと孤独を感じていた事だろう。

相手の欲している物が全て解るのなら、それを与えるのは簡単な事だ。自分が与えられる物の範囲内ならば。
しかし出会う全ての人間に対してそうする訳にも行かない。すぐに自分が疲れ果ててしまう。
だが不運な事に、彼女は本当に困っている相手を見て見ぬ振りできる人でも無いのだ。性根が優し過ぎて。

彼女の口調がきつく、非の打ち所の無い容姿を維持し、相手に対する慈しみの心を表に出さず、総合して彼女が酷く近寄り難い雰囲気を纏っているのは、他者が安易に近づかない様にと計算された物だ。
そしてそれは同時に彼女の高潔な精神を物語っているとも言えよう。

考えてみて頂きたい。もし、朝比奈さんがあの庇護欲をそそる容姿、あのおっとりとした性格に見えて、本当は周りの人間の考えを瞬時に読む事が出来る程の思考速度を持っていたとしたら。……これ以上はハッキリ言わなくても、ご理解頂ける事と思う。
いえ、申し訳ありません。朝比奈さん。貴方がありのままの愛すべき御仁なのは承知しております。

ちなみに、これらは全て僕の想像だ。しかし殆ど外れては居ないだろう。

ただ、今の森さんにこれはこのまま当て嵌りはしない。機関に入った事は森さんにとっては救いだったのかもしれない。
勿論、機関にも中には彼女を見るからに恐れている人間も居る。しかしそれでも、機関では彼女も本当の自分を隠す必要は無い。何せ、他人の心を読む事も技術の1つとして教え込まれるような所だ。
今の彼女が直接的な優しさを他人に見せないのは、やはり人避けではあるものの、別の理由からの物だと僕は思っている。

それにしても、本当は優しいにしろ、やはり彼女の言葉はキツいけど。
……いや、決して先程の一言で僕が傷付いている訳では。


「ところでアンタさ、学校は、SOS団は、楽しい?」

と、いきなり森さんが切り出した。何だろう。質問の意図が掴めない。
でも、今は僕を見ていない。底意は無いのかな?

「非常に楽しいです。実際、自分の能力に気付いてからというもの、僕は心から楽しいと思う事が無くなってましたから。機関は楽しい所とは、まぁ言い難いですしね。だから彼らには本当に感謝しています。それから、森さん、あなたにも」
「――」
僕が彼女に感謝しているという行で、一瞬彼女の体が揺れたように見えた。
なんだろう。少し不安になる。思わず警戒心が働く。

「機関はどう?」
相変わらず彼女の目は前を向いたままだ。でも今度の設問は非常に重い。
「必要なものです。土台、柱、そういったものです」

「……そうね。私もそう思う。ただ、機関自体は、柱では無いわ」
恐らく、何らかの審査だった筈だが、パスできたのだろうか。
益々不安になる。
土台ではあっても、柱では無い?なんだろう。謎々ではないだろうし。

そのまま1分程二人とも無言の内に車は走り続け、十字路の角のガソリンスタンドへと進路を向けた。

完全に停車しエンジンを切ると、彼女は、
「私は、いつでも覚悟は出来てる。あなたは?」
そう言って、顔をこちらに向ける。
彼女の、真っ直ぐに僕の目に合わされた闇夜の様に黒い瞳が、目を通して直接僕の脳の活動を観察する。
今度は透視される。
でも、最初から僕は彼女に嘘を付く気なんて無い。

「さあ。覚悟を決めるには、僕にはまだ人生経験が足りないのかもしれないです」
そう答えると、彼女はドアを開けながらこう言った。

「嘘つき。……私達二人共」


「ちょっとトイレ」そう言い残して、彼女は去った。
どういう意味だろう。僕は嘘はついていない。
それに、彼女が機関の為にその命を捧げる覚悟があるのは、解り切った事だ。

ただ、と、僕は思う。
ただ、彼女の言う「覚悟」が、機関ではなくSOS団に掛かる物なら、話は変わってくる。
やはり彼女は僕の覚悟に気付いていた訳だ。そこには今更別に驚きはしない。

しかし、それは、つまり……。

彼女も、「その覚悟」は出来ていないと言いたいのだろうか?
彼女にそこまで言われても、まだ僕は覚悟が出来ていると、自分自身に断言できるだろうか。

判らない……。


……森さんを初めて見た時、僕はまだ中学2年生になったばかりで、彼女は誰かを尾行中だった。

その時の女性が彼女だったと気付いたのは、その頃の僕の上司から正式に森さんを紹介された後、帰宅してシャワーを浴びながら突然思い出した時だ。
どこかで会ったような気はしていたが、最初に見た彼女は後姿だった為、記憶が繋がらなかったのだ。

そして、同時に、彼女がそこで何をしていたのかも理解していた。
当時、恐らく僕の上司のそのまた上司だった森さんは、彼女の部下、つまり僕の上司が冒したミスが、致命的ミスになる前に防いだのだ。
というのも、森さんが尾行していた対象は、僕の上司が3マンセル、つまり3人1組で尾行していた筈の相手だったからだ。

その頃、僕はまだ訓練を受け始めたばかりで、閉鎖空間内で戦えるという能力こそ持っていたものの、実質ほぼ普遍的な一般中学生であり、ランクの余り高くない閉鎖空間内ぐらいしか活躍の場は無かった。だから上司が誰かを尾行していたのを見かけたのはただの偶然で、丁度通りがかったというのに過ぎない。

任務中の上司を見かけた僕は当然教えられていた通りに、何も気付かない振りをして、元々自分が進もうと思っていた方角にある自宅に向かって歩いていた。

5分程歩いた所で、その尾行相手をまた見かけた。安いボロアパートの前だった。
僕は少し焦った。興味本位で追いかけてきたと思われたら、まずい事になる。
だから僕は咄嗟に反対側の家の塀の影に隠れ、そのままじっとしていた。
――今考えると我ながら最低な判断ですが。

1分程して、様子を見るために陰から少し覗いて見た時に、彼女の後姿を見た。彼女には気配も足音も無かった。
それを見た僕は、彼女は3マンセルの内の1人で、恐らくリーダー格なのだろうと直感的に思った。

でも僕はまだ物陰から出られなかった。3マンセルだから当然あと2人、僕の上司と後誰かが来るに違いないと思って、そのまま隠れていた。
しかし、約5分後に彼女が1人でアパートから出て来るまで、誰も来なかったのだ。
しかもその時彼女は気配を殺していなかった。足音も立てていた。
今顔を出すと見られる。と思い、僕は隠れたまま身動きもせず、気配を殺してそこに居た。
どういう事だか全く理解できなかった。

尾行は通常3マンセルで行う筈。
2人が対象より先行して、1人が追う。
まさか尾行者が自分の前を歩いているとは、誰も思わないからだ。
そして、対象と接触せざるを得なくなった場合は、1人は隠れてバックアップ、2人が前後から相手を挟むのがセオリーだ。

ところが、彼女は1人で気配を消して行き、気配を出して戻ってきた。
……これではまるで殺し屋だ。
彼女に見つかったら殺されるのではないかと、僕は内心かなり怯えていた。
彼女の姿が消えても、そこから立ち去る勇気を取り戻すのに15分近く掛かったのを覚えている。

僕は悩んだ挙句、次の日上司に直接聞いてみた。
彼を偶然見た事を。でも、彼女については口にしなかった。怖くて言えなかった。

すると彼は、「こんな事を部下に言うべきではないんだろうが」と前置きして、
3マンセルの通常尾行をしていた対象が予想以上に手強く、簡単に逃げられてしまった事、
その後少しして、偶然にも目撃情報が入り、対象のセーフハウスを特定できた事、
更に、対象がその自分のセーフハウス内で転倒し、強く頭を打って気を失っていた事を教えてくれた。

彼はその信じられないような幸運の連続のお陰で、始末書と再訓練と減俸だけで済み、九死に一生を得た気分だと言っていた。
それを聞いた僕はやっと何が起きたのかを理解し、見た女性についてはやはり何も言わないで置く事にした。
彼女が裏方であるのを望んでいるのは、状況から明確だったからだ。

森さんを正式に紹介されたのは、それから半年後になる。
僕の全てを見通すような氷のような目、冷たい表情、高価な衣服、髪の毛1本乱れのない容姿、何が起きても全く動じないような雰囲気。……美人だけど怖い人だ。というのが最初の強い印象だった。
その日の夜、森さんが半年前に見た女性だった事に気付いてからは、僕の彼女に対する感情に尊敬という言葉が付け加えられた。

それから少しずつ彼女に会う機会は増え、北高への転入に伴い僕の直属の上司になった。
「古泉一樹。今日からアンタは私のモノよ。働きに期待しているわ」
冷徹さと哀れみ。不思議な事に、その時の彼女の微笑には、その相反する感情が僅かに表れていると感じた。

しかしあの日に、ボロアパート前で彼女の後姿を見ていなかったら、僕は彼女の本質に気付く事無く今でもただ厳しい人だとだけ思っていた事だろう。

ちなみに機関内部で「信じられないような幸運が続いた話」は、これ1件だけではない。
今僕が知っているだけで、他に3件もある。知らない話もあるに違いない。
恐らく、全て森さんが影で動いているのだろう。

その彼女が、暗に僕に頼んでいる。いや、懇願している。
何があっても命を粗末にするなと。
機関を、彼女を、裏切らないで欲しいと。

しかしそれは裏を返せば、何があってもSOS団を見棄てろと言う事に他ならない。いや、長門さんと朝比奈さんに限り、利害が一致しない場合には何かあっても見棄てろ。と言うべきか。
……だから、あのような回りくどい言い方をしたのだろう。
直接言えず、それでも自分の気持ちを僕に伝えたかったのだろう。

だからこそ、心が揺らぐ。

いや、今は考えても仕方の無い事だ。
何も起きなければ、何も問題ない。


笑顔の森さんがバニラの香りがするカフェラテ2つとビスコッティを持って戻ってきた。
「綺麗なお姉さんにこれオマケ。って貰っちゃったわ」
と、ビスコッティを指で半分に折る。……あんな簡単に割れる物では無かった気がするんだけど。

僕に、カップ1つと、ビスコッティの半分、紙ナプキンを手渡した森さんは、自分のラテのカップの蓋を外し、そこにビスコッティを浸しながら、僕の目を見て悪戯っぽい表情を浮かべ、こう言った。

「ところで一樹。もう忘れてない?罰ゲーム」

……そういえば、物凄く無茶な要求をされている身だった。

「ダメよ。ちゃんとやってもらうから。優しく指と指を絡めて、目をしっかり見つめながら、名前は呼び捨てで、本気で心からの言葉だけね。ふふふ。楽しみだわ~。告白されるのなんて、何年振りかしら。あ、そうだ!残りの2回も告白して貰おうかなァ。肌にも良さそうだし」

……いつの間にか「指と指を絡める」が決定事項になっている。
「っていうか、それって僕は何回振られる事になるんですか。お願いです。本気でめげますから、僕の心を乳液代わりに使うのだけは、どうか勘弁してください」

しかし、こんなにも僕の心を見通す人に目をしっかり見つめながら告白なんてしたら、深層意識すら、羽毛まで完全に毟り取られた鶏のようにされてしまうに違いない。いや、ヒヨコか。
それにしても、どうしたものか。本能なんて、制御できない……。

「そうねえ、まあ、色々趣向を凝らしたほうが面白いわよね。ふふ。もっと肌に良い事にしようかしら」
気が変わってくれて良かったのかなんなのか、これでは全く判らない。
……と言うより、余計に不安だ。

「冗談よ。さて、出発するわよ。ガソリンは入れないし。あと20分くらいで着くから、ちゃんと覚悟決めておきなさいね。ほら、とりあえず曲でも聴いてリラックスしなさい」
……どちらかと言うと、その強制告白もついでに冗談だったと言って欲しいです。

彼女がオートで開いた前面のパネルを操作をすると、故パヴァロッティ氏による「誰も寝てはならぬ」が、凄まじく良質な音で流れ出した。
森さん。よりにもよって、なぜ今この曲を?
大変結構な音響効果で、素晴らしい曲ではあると思います。
ですが込められた裏のメッセージが。
リラックスしろと言われましても。
下の名前を呼び捨てにしなかったら死刑っていう意味ですか?これ。
それとも、そもそも3つの罰ゲームで僕があなたを満足させられなかったら、斬首という意味でしょうか。

彼女の粋に過ぎる計らいに戦慄を覚え、余計に硬くなりつつも、僕が告白を強要される舞台についてあらかじめ聞いて置く事にする。……少しでも心構えしないと。

「……ところで、何処へ向かっているんです?」
「私の部屋。ホテルの」
ああ、今転居中だからホテルに滞在している訳ですね。

……って、ええ?ホテルの部屋?
え?そんな密室で、そんな告白するの?僕?

「カワイイ」メタリック・ブルーのミニ・オペラハウスは走り出す。
手にしたビスコッティの様に硬くなった僕をシートに縛り付けたまま。


第3話「古泉一樹の告白」へつづく

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最終更新:2020年06月10日 02:46