「私と・・・別れて下さい」
屋上で、俺と橘の間に吹く風。それは三月と言えどもやはり黄昏時。冷たい。
ただただ沈黙するしかないその場の空気。俺には重くて、耐えられなかった。
「どうして・・・」
絞り出したように細い声を何とかして出した。
「決まってるじゃないですか。私と居たら、キョンくんは不幸になります。ただ、それだけです」
そう言っていつものように笑っている橘は、堪えきれなくなったのか肩を震わせてしゃくり始めた。
それでも笑顔は絶やさずに居る。まるでこれが最後だから綺麗に思い出を飾ろう、と言わんばかりだ。
だが・・・解る。
きっと、その覚悟で彼女はここに立っているんだろうと。
封印していた言葉をぼそりと心の中で俺は自分の感情が猶予うのを感じながら呟いた。
やれやれ。
 
 
橘の香り 第五章「相思相愛柑橘類型」
 
 
「橘、お前・・・自分が何を言ってるのか解っているのか?」
俺は確認を取るべく尋ねる。答えは解っていたけどな。
「解ってますよ・・・解ってます。解ってます、けど・・・けど・・・こうしなくちゃ、いけないんです。私、自分の命がもう短いのを自覚してますから」
ほら。やっぱり肯定したよ。そうだな。解ってるよな、お前は。
俺みたいに馬鹿じゃないし解ってないとおかしいという話になるよな。うん。
「何故こうしなくてはいけないんだ?」
お前は解っている。だからこそ、
「きっとこのまま付き合っていると貴方は優しいから私が死んだら後を追ってしまう。けど、それは嫌なんです」
俺は、
「それで?」
今、
「だから恨まれるような別れ方出来たら、不幸にさせられないかな、って思いまして」
本当に―――
   
「ふざけんなぁっっ!!」
 
―――怒ってるんだな。
「っ・・・・・!?」
こんなに怒る俺を初めて見たせいだろう。橘は明らかに怯んでいた。まぁ、怒鳴り声をあげたというのも理由かもしれないが。
ここまで頭にくるのはいつぶりだろう。まぁ、とにかく久しぶりだろうな。ハルヒにもこれほどムカついた事は無い。・・・いや、あるか。
「もし、そんな事やってみろ! 俺はお前が死ぬ前に死ぬぞ! あぁ、そうとも! 俺はお前が思うほど優しくないから死んでやるさ!!」
橘はただ呆然とした表情で、首をふるふると横に振った。
「駄目、ですよ・・・キョンくんは私の分まで生きて下さい・・・・・」
「うるさい。勝手に義務を持たせるな。それはお前なりの優しさかもしれないが、俺からしたら本当に酷い事なんだ!」
「だって・・・私が死んで、そのせいで苦しむ姿なんて、嫌だもん・・・」
「苦しんで何が悪い! 好きな人が死んで苦しむのは当然だろ!!」
俺は橘に近寄るとその肩を思いっきり掴んだ。
その瞬間、顔が苦痛に歪んだ。だが、そこまで配慮するだけの理性が俺には無かった。
橘もそれを重々理解しているのだろう。痛いとも言わずにただ俺の顔をじっと見ていた。
「・・・・・」
「頼むよ、橘・・・お前にとって一番近い存在で居させてくれよ・・・」
俺はそこで自分の声が凄まじく震えている事に気付いた。
何て情けない。俺は間違いなく過去を引きずるタイプの人種だな、うん。
「貴方は、良いんですか? 私のせいで人生が狂ってしまうかもしれないのに・・・その元凶と居るのに」
「アホ。何かあったらそれは俺の心が弱いせいだ」
「私はその弱い心にダメージを与えてしまう。やっぱり私は加害―――」
こいつはどうしてこう自分で背負いたがるんだろうか。
こういう優しい性格のなのかもしれないがお人よしにも程があると思うんだな、つくづく。
「うるさい」
「ッ・・・」
「・・・・・・・」
もうどうでも良い。とにかく黙らせたかった。こいつは本当に頑固だから困る。
口を封じて、俺はその続きを封じた。橘は目を見開いて俺を近距離から直視していた。
・・・が、しばらくしてその目が再びじわっと潤んだかと思えばすぐに嗚咽が漏れ始めた。
あれ? もしかして俺、あれか? 強制的にキスしたから泣いてる?
訴えられたら負けるんじゃね? ・・・というわけでもなく、
「ぐすっ・・・嫌ですよ。私、離れたくないです・・・本当は離れたくなんか、うぐっ、ないですっ・・・!」
ぎゅっ、と俺を力強く、と言っても病弱なその体で出せる限りの力だが、橘は俺を抱きしめている。その脆い体を俺はそっと抱き返した。
「離れなきゃいい。大丈夫・・・お前は死なない。大丈夫だ・・・」
そのまま俺達は屋上の風に当たりながらずっと抱きしめあっていた。しばらく、長く短い、短く長い時間。
ただひたすらに流れていく時間。強い風すらも感じない程にその場では俺達は、二人だった。
橘の鼓動と、息と、体温だけを感じる。そんな隔絶された二人だけの世界がそこには広がっている。
「私、まだ温かいですよね・・・ずっと、温かいままですよね・・・?」
「あぁ、勿論だ。ずっとずっと・・・ずっとだ」
「良かった・・・」
ニッコリ。
俺を元気にしてくれるとても大切な笑顔を浮かべている。安堵した。
俺達は抱き合っていた腕を離し、そして橘は力無くゆらりと屋上に倒れた。
「橘・・・?」
「ちょっと・・・疲れました。えへへ・・・。病室まで送ってくれますか?」
「・・・バカヤロウ」
俺は橘を持ち上げると早急に、しかし慎重に病室へと戻った。
七夕の頃と比べて、本当に軽くなった。そう実感出来るぐらい細くなってしまった体を持って。
 
その日から、橘は急速に衰えていった。
歩く体力すら欠けていく日毎。苦しみだす頻度も徐々に徐々に増えていく。
それでも、笑顔だけは輝きを微塵も落とす事なくいつもいつも向いていた。
それは無理をしていない、自然な笑顔だ。どんなに辛くなっても笑顔だけは無くさない強さに俺は感動したね、凄く。
「んー。春の息吹を感じる・・・」
橘はそう言って窓から入る風を浴び、くすぐったそうにしている。
「そうだな。もう雪は降らないんだなー・・・今年は。残念だ」
雪だるま作りたかったんだけどな、橘と。
「キョンくん子供みたいですね。ふふっ」
そんな俺の気持ちを知ってか知らずかこんな調子だ。なんか少しムッとするな。
「雪が降って積もれば病室に運んできて橘にベシベシぶつけられるんだがなぁ・・・」
「あ、酷いですね。自分の彼女、かつ病人にそんな酷いいじめをするんですか?」
「少し苛めた方が耐久力もつくんじゃないかという俺の優しさなんだけどな?」
「物は言いよう、ですね・・・」
その場の空気に覚える安心感。
何だかんだでとにかく日々は穏やかに過ごしているという事がそう感じさせるのだろう。
「春と言えば・・・病院の庭にある桜が咲いたら花見しような」
「え? ・・・はい、勿論ですよ。じゃあ、夏になったら海に行きましょうね」
「海好きだな、お前」
「はい、大好きです。ですから以前に海に連れていってくれるって約束したの忘れないで下さいよ?」
「んーいつしたっけなぁ、そんな約束」
「むぅ・・・そういう事言うキョンくん好きじゃありません」
橘はそう言って頬を膨らませて拗ねる。その可愛らしい頬を指で思いっきりつつく。
「安心しろ。忘れてなんかないさ。・・・海、絶対連れていくからな」
「ありがとうございます♪」
ぎゅっ、と俺に抱きつく細く白い手。ちゅっ、と俺にくっつく笑顔と唇。
「ご褒美先払いしておきます」
「先払いして貰った分持って逃げようかなー」
「それは駄目ですよぉ!」
ゆるゆる過ぎていく時間。というか、ゆるゆる過ぎる時間。
本当にこのまま何もかも止まれば良いと俺は思った。幸せだから。
「俺、ちょっとトイレ行ってくる」
「行ってらっしゃーい」
そんな幸せに頬を緩ませながら俺は行くべく病室を出る。
そして笑顔を引っ込ませて閉めた扉の前で言葉を反芻した。
「・・・夏になったら、か・・・」
古泉が言った言葉が甦る。あいつの命は四月持たないと言ったあいつの言葉を。
「こんにちは」
噂をすれば何とやら・・・。・・・使い方あってるだろうか?
ふと俺はすっかり聞き慣れた男の声を聞いてそいつを見てやった。
「古泉か」
「はい。ちょっと用事があったので」
「橘関連か?」
「いえいえ、ご安心を。それにもう済みました。これから何処かへ行かれるのですか?」
「これと言って用件は無いが、小便だ」
「なるほど。なら僕も行きます。いわゆる連れションですね」
「お前の口からそんな言葉が出るとは思わなかったな」
俺達は病院の綺麗過ぎるトイレで並んで便器の前に立った。
「橘さん、貴方の目から見る限り最近どうですか?」
「明らかに弱ってきているな、だいぶ」
「そうですね。いつ死んでもおかしくない状態ですから。ですが、予想よりも病状の進行は幾分か遅いようです。愛の力でしょうか?」
「そうだな。愛の力だな」
先に用を出し終えた俺は手洗い場の水を出して、ハンドソープを使って手を丁寧に洗い上げる。
そういえば、何でトイレにあるようなハンドソープってミューズかキレイキレイなんだ?
「ふふっ。羨ましいカップルですね」
一瞬浮かんでどうでもいい俺の疑問を打ち消すように、横に古泉も並んで同じように手を洗う。
「お前なら彼女の一人や百人楽勝だろうに」
「そう軽いのはあまり・・・。お互いに相思相愛で深く愛しあっている、そういうカップルが良いんです」
「お前、意外に乙女が思考に混じってるな」
何となく古泉が容姿に不似合いなぐらい色恋沙汰が無い理由が解ったな。
本人はと言うと何やら深く溜息をついて回想するように目を瞑る。そのまま
「・・・森さんの影響でしょうかね」
ぼそっ、とそう呟いた。
「森さんの?」
「・・・あ、今の発言は忘れてください」
若干古泉の顔が青いのは気のせいではないんだろうな、多分。いや、絶対。
いつもの古泉スマイルが消え失せて物凄く冷や汗かいてるし。
・・・森さん、か。そう言えばあの人は謎が多くてよく解らないな。
俺達はトイレを出るとそのまま橘の病室へと向かった。
「戻ったぞー」
俺は扉を開けた。見えるのは真っ白い景色に映える
 
赤。
 
 
「あ・・・・・」
たったのこの僅かな間に、何があったのか。
「ぼ、僕は先生を呼んできます!」
走り去っていく古泉の声すら聞こえないぐらい俺は橘が心配で、
「橘・・・」
そんな俺に向けている笑顔から、いつもは元気を貰えるのに、
「ご、めんなさい・・・ちょっと、血を吐いてしまいました・・・・・」
その時、その笑顔から元気を貰う事は無かった。
ただ思った事がある。
 
あぁ、もうこんなにも・・・。
 
 
 
続く。

 


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