空を飛ぶ感覚は知らないが、踏みしめる地べたの感覚は知っている。
 片方の足を蹴飛ばす地面が間髪入れずにもう片方の足を蹴飛ばしてくれているお陰で俺は北高に通えるし、文芸部室まで行って朝比奈さんのお茶を飲み、長門をチラ見し、古泉とチェスかオセロをして、ハルヒと帰ることが出来るという仕組みだ。
 全ては合理的に出来ていて、歯車は狂うことをまるで知らない均整さを誇っていたのだった。
 だったのだが、そういった法則を一切無視して例えばハルヒが「空を飛びたい」と考えたらどうなるか? 答えはいつも私の胸に、じゃなくてつまり――
 飛ぼうと思えば飛べる、空を自由にね。何えもんだかは忘れた。
 
 世界中の人々は皆、空を飛び移動する。
 「飛ぶ」という行為は両の足を交互に動かすより遥かに簡単だ。「飛びたい」と考えて、「よし、飛ぶか」と決意した瞬間、あなたは接地面を失っている。それは地べたとの決別で、つまるところ俺たちは飛んでる。
「じゃあ土曜日、いつもの喫茶店でね!」そう嬉しそうに言うハルヒ。
 理由その①、不思議(俺に言わせれば厄介)探索が、歩いて行っていた頃と比べて段違いに楽になったから。空を飛べば町全体を見渡せるし、二手に分かれて散策している時に、すぐ片方の居場所に向かう事ができるのだ。
 理由その②。空を飛ぶようになり探しやすくなったからかどうかは知らないが、つい先日不思議(厄介)を見つけてしまったから。ハルヒの感情の起伏する理由はいつだってシンプルだ。
 で、その不思議(厄介!)は誰が持ち込んだのかと言うと、西高の1年生の女の子だった。
 
「うちのお店の売り上げが最近激減してるんです」
「興味深いわね、先輩に話してごらんなさい」
 偉そうな奴。クエスチョン、何様なの? アンサー、神様。神様は続ける。
「その前に名前を聞かせてくれない?」
「はい、ええと――」
 俺はその名前に聞き覚えがあった。珍しい苗字だったのだが、なるほど学校指定ジャージを買った店だ。
 売り上げの落ちるスポーツ用品店。何があった?
「はい、実はちょっと前から店の売り上げがだんだん芳しくなくなって来て……」
「ううん……単純に客が減ったとか?」
「でも、減る理由が無いんです。店の近くに大きなスポーツ用品店が出来たとか、品揃えを変えたとか、そういうことはしてません。今までと状況は全く同じなのに」
 これは困ったな。本人たちにしてみれば死活問題だろう。しかし、何故か……?
 彼女は、お願いします先輩、と頭を下げて出て行った。礼儀正しくて良い子じゃないか。それにハルヒはご機嫌だ。「任せなさい、この先輩方がバッチリ解決してあげるわ! 大繁盛間違い無しにね!」そう、ハルヒが喜ぶ理由はいつだってシンプル。
 しかし依頼者が出て行ったあと、俺たちはしばし頭を抱えた。まるで理由が分からない。手がかりが少なすぎるのだ。
「キョンも考えなさいよ」
「考えてるさ」
「もっとちゃんと!」
「うるっさいな、黙ってろよ」
「何ですって!?」
 埒が明かない。というかハルヒがかき回すお陰で、俺や古泉が(長門は喋らない)(朝比奈さんは……察してくれ)案を出してもまるで話が進まないのだ。
 結局その日は話し合いが何も進むことなく解散となった。帰り道、俺とハルヒは空を飛んで帰った。オレンジが段々と白く変わり、群青は濃い深青色になってやがて俺たちに影を落とす。俺たちはお互いの姿が見えなくなるまで駄弁ってから別れた。
 
 さて、家に帰って風呂に入って、宿題……ま、まあとにかく帰ろう、そう思いすっかり暗くなった空を恐々進んでゆくと、公園の明かりが見える。何気なく目をやると、さっきの依頼者がベンチに座って俯いていた。
 俺は何を思ったのだろう? 余計事は避けて通りたいし、触らぬ神に祟りなし、ってのは俺の長年(特にこの1,2年)培ってきた教訓だ。なのに、やっぱ俺はお人好しに生まれてお人好しに死ぬらしい。彼女の元に降りていく。
「よう」
「あっ……さっきの……」
 彼女の目は赤かった。
「……泣いて……たのか」
「あっ、ご……ごめんなさい」
「い、いや俺もすまん……ええと、その……まあ、必ず解決してやるから」
「ホントですか!?」
 彼女の目は希望に輝く。この眼差しを裏切るわけには行かないな、とぼんやり思った。ガラにも無い事だが。
「おう、SOS団は凄いぞ」
 威勢よく言ったのは良かったのだが、いつもの癖で頭を撫でてしまった。
「あ……」
「ん? あ、わ、悪い! いやぁ、妹がいてさ……つい癖で。いや悪かった」
「い、いえ……」
 照れたようにはにかんで依頼者は俯き、俯いて気づいたのだろうか、「あっ、靴紐ほどけてますよ」と俺に教えてくれた。
「あー、本当だ。最近空飛んでばかりだからなぁ、靴なんて……ん?」
 俺は数秒、脳内で思考を整理する。空を飛ぶということ。地面からの離脱。足はもう地べたを蹴って走らない。
 靴の裏は?
 
 翌日、ハルヒにこの事を伝えた。するとハルヒは少し残念そうに言う。
「なーんだ、キョンも気づいたのね。実はあたしも同じ事を昨日の晩気づいたの」
「空を飛びたいって思ってたんだ、だから急に願いが叶って、仕組みは分からないけどとにかく嬉しかった」
「だって空が飛べるのよ? こんな嬉しい事って他にある?」
「でもね、昨日の晩気づいたの」
「やっぱりさ」
 北高の坂道をあんたと歩いて帰るのも悪くないかな、って。
 ハルヒは至ってシンプルで、ついでに言うと俺もシンプルだった。
 
 その日の午後の事だ。みんな空が飛べなくなった。
 いくら飛ぼうとしても無理。飛び方を忘れたというよりは、元の世界に戻ったと言う感じだ。
 ハルヒは少し残念そうだったけど、でも「まあいいわ」とだけ言った。うん、まあいいよな。
 放課後、部室に来た依頼者に、俺とハルヒは事の全容を話した。
 空を飛べるようになった俺たちは靴に関して関心がまるで無くなっていた。靴底がどうなろうと、破れようと剥がれようと、飛ぶのには関係なかったからだ。だから新しい靴を買うことも無かった。
 そして、商店街には靴を売る店が彼女の家にしかない。スポーツ用品店には大抵靴も置いてあるし、わざわざ遠出して他の店で買う事はあまり無い。
 つまり、空を飛べるようになったことが最大の原因だったのだ。
「もう少ししたら、また売り上げは元に戻るはずよ」
「良かったな」
「はい、ありがとうございます!」
 依頼者が帰り、長門が本をパタンと閉じた。部活終了の合図だ。
 
 日が沈みかけている。皆が方々に別れ、俺とハルヒは坂道を下る。
「今度あたしも、あの店で靴を買うわ」
「俺も買いに行こうかな」
「楽しいものね、歩くのって」
「全くだ」
「飛ぶのも悪く無かったんだけどねぇ」
「そうかな、俺はやっぱ歩くのが好きだな」
 並んで歩く影が伸びる。少しうすぼやけた街の灯が、点々と散らばっていた。
 歩く。
 足が地べたを踏みしめて、地べたは俺の足を押す。
 地団駄を踏んでみる。地面はびくともしない。
 急に走り出したくなって、俺は走る。
「待てー!」
 ハルヒも俺を追う。走る二人。
 空を飛ぶ感覚より確かな感覚。
 そう、俺とハルヒは至ってシンプルだ。
 


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