イライラしている時に何かに八つ当たりしても意味がない、それをキョンは知っていたし、また八つ当たりしても大抵のイライラは、便器にこびりついた糞の様に脳味噌の裏ッ側にへばりついたままだという事も知っていた。
 だから、思い切り蹴飛ばした長机は不意に銃で撃たれたみたくぶっ倒れただけ、オセロの白と黒の駒と、お茶とその他もろもろのものは床に散乱しただけで何も変わりはしなかった。"It's no use crying over spilt milk"覆水盆に返らず。その諺もキョンは知っていた。
 全ての視点がキョンに注がれていた。キョンはこの感覚が嫌いだった。注目される事はあまり好きではなかったし、自分は、この世界を物語とするなら明らかに脇役だ、とも思っていた。
 遠くからくぐもったように。
 野球部のノックの音、合唱部のハレルヤ、複数人の笑い声が近づいて遠ざかった。
 ――それなのにこっちは……
 俺は葬式の真っ只中で寝転がってる死人で、他の奴らは参列者。線香臭い文芸部室の中で、キョンはそんなことをぼんやりと考えていた。ぼんやりと考えた後、思い立ったように部室を飛び出したキョンの後姿を、SOS団員は見ていた。ハルヒを除く全員が。

 古泉一樹は別のことを考えていた。
 まずは涼宮ハルヒのご機嫌を伺う力仕事に従事しなければ。それから、長門有希と朝比奈みくるの3人で頭を付き合わせることも忘れちゃならない。
 キョンの気持ちは分からなくも無く、むしろ賛同しても良い程だったし、事実この性格でなければ長机には僕の足跡が付いていたかも知れないな、とも古泉は思った。
 しかし、残念ながら、そして幸運な事に、古泉は波風を立てずに事を運ぶやり方を把握していた。
「団長、僕は彼を追います。申し訳ないのですが後片付けをお願いできますか」
「……わ、わかったわ」
「あ、あたしも行きますっ」
「いえ、朝比奈さんと長門さんは団長と片づけを。男の僕が彼を窘めなければ」
 古泉は自嘲気味に微笑しながらそう言い、踵を返した。
 ドアの閉まる音。その場に残された3人は皆一様に黙っていたが、朝比奈の「ぞ、ぞうきん……持ってきますねっ」の号令を合図に動き出した。

「我慢できなかったのですか」
「……」
「涼宮さんも悪気があった訳では――いや、勿論そこが彼女の悪い所でもありますが」
「……ああ、わかってる。俺が抑えなければいけなかった」
「日頃の、あなたの自制心は相当のものかと」
「いや、その自制心を持ってしてでもこのザマだ……自制心なんて無いのかも」
「あなたは良くやっていると思いますが」
「前にもこんな事があったな。確か映画の撮影で」
「ええ、覚えています」
「あの時もあいつのワガママで、俺がキレた」
「……ええ、覚えています」
「しかしだな、今回は……物に当たるなんて、自分でもおかしいと思うぜ」
「あれは良くありませんでしたね。反省してください」
「わかってるよ……わかってるんだけど、どうしても許せなくてな……」
「僕は別に構わなかったんですけどね」
「……」
 古泉は微笑した。あなたは本当に良くやっている。ただ、耐え過ぎてエラーが蓄積されているのですよ、そう――長門有希のように。
「ダメだ、格好悪すぎる。エラーの解消方法が長机を蹴る事だなんてな」
 古泉は微笑を保っていた。それが人間というものですよ。
「お前も長机を?」
「それは禁則事項です」
「アホか」
 キョンはようやく笑い、立ち上がった。中庭には風が吹いていて、髪を揺らす。
「みんなに謝らなくちゃな……あいつにも」
「そこが、あなたが"お人好し"たる由縁でしょうね」
「だろうな」 

 キョンが謝る姿を見て、朝比奈は心が痛むのを感じた。
「すいません朝比奈さん。ついカッと……」
「いえ、あの……」
 どんな反応をしたらいいのかな、と悩んでしまう。「しょうがないですよ」だと、涼宮さんを責めるようで可哀想だし、「気を付けて下さいね」なんてもっての他だ。言葉を選んで、とりあえず「大丈夫ですよ」とだけ言っておいた。何が?
 キョンは、他の団員にも謝る。
「悪かったな、ハルヒ……だがなぁ、やっぱアレには賛同できんぞ」
「……わかったわよ、あんたも気を付けなさいよね」
「ああ、わかってくれてありがたい」
「あっ……ええと、その……」
「ん?」
「……わ、悪かったわね、あたしも」
「何、お互い様だ」
 キョンが笑う。続いて、「長門、悪かった」
「……いい」
「すまん」
 長門の口が少し動いて、同じ言葉を繰り返す。
「古泉も悪かったな」
「いえ、気にしていません」
「助かる」 

 帰り道、本当に失敗した、とキョンは考えていた。ハルヒのワガママなんていつもの話で、要は俺に自制心が足りないせいだ。物に八つ当たりしても良いことはないのに。
優しく諭せばよかっただけなのに。まだ長机だっただけマシで、ハルヒの腹に足跡のスタンプを2つないし3つ付けずに済んだのは幸いだったし、あるいは机の上にあったカッターがハルヒの頬肉をえぐって制服を切り裂いてブラッドフェスティバ……
「何ボーっとしてんのよ!」
「はっ、え、どうかしたか」
「帰るわよ! もう、だらしないわね」
「そ、そうだな」
「どうかした?」
「断じて何でもない。気にするだけ無駄だ……それより、どっか寄ってくか」
「えっ、ええと」
「いつもの喫茶店とかさ」
「だっ、団長のあたしを差し置いて何勝手に決めてんのよ! ……まあ、そこでも良いけど?」
「決まりだ」
 何はともあれ、「古泉×キョン☆どきどきBLビデオ撮影会」は敢行されずに済みそうだ。キョンは胸を撫で下ろした。

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