『春先の風物詩』
2月も半ばを過ぎてそろそろ3月、春はもうすぐそこまで来ているはずなのだが、その前に学年末試験という嵐が待っている。
「ほら、そんなことじゃ、あんた一人だけ留年よ、留年!」
唾を飛ばしながら、シャーペンでビシッと俺を指し示すヤツの腕には、「超教師」の文字もくっきり鮮やかな腕章が輝いている。
そう、俺は放課後のSOS団のアジトである文芸部室でハルヒ先生の指導を受けて、今日も試験勉強中だ。
朝比奈さんと古泉は、今日は自宅で勉強するので、と言って先に帰っているため、部室にいるのは、ハルヒと俺と長門の3人だけだ。長門はいつもの席でいつものように読書中。宇宙人は試験勉強などしなくても余裕なのだろうが、俺はハルヒに言われたように厳しい状況におかれている。だってそうだろ、四六時中振り回され続けた1年間だったんだから。他の連中と違って生身の人間である俺にはこたえるのさ。
「なーんでこんなとこ間違うのよ!」
「そんなここいったってなぁ……」
「くしゅん」
「……俺だって努力はしてんだから」
「何いってんのよ、授業中だってあんた……」
「くしゅん、く、くしゅん……」
「寝てばっかりだし」
「とにかく、もうすこ……」
「くしゅん、くしゅん、くしゅ……」
「……し、って、どーした長門?」
「有希?」
俺とハルヒは、くしゅん、くしゅんと聞こえる方向に思わず振り返って、そこでこぢんまりと読書しているはずの長門を見つめた。なんと、あの万能アンドロイドがハンカチ握りしめて、つらそうにくしゃみを連発しているではないか。何があったんだ?
「花粉症らしい」
「か、花粉症? 有希が?」
ハルヒ、声が裏返ってるぞ。いや気持ちはわかる。長門が花粉症だって?
「花粉症ってどういうことだ?」
「スギやヒノキの花粉によって引き起こされるアレルギー反応。スギ花粉を抗原として、抗体IgEが増加し、分泌されるヒスタミン……」
「まて、まて、花粉症の定義はどうでもいい。なぜ、お前が……」
「くしゅん……昨晩ぐらいから急に症状が現れた」
「大丈夫?有希……。そういえばここにはティッシュあったっけ?」
いすから立ち上がったハルヒは、お茶の葉の置いてあるキャビネットの扉を開けてティッシュの箱を探し始めた。
俺は視線をハルヒから長門に戻して、小柄な宇宙人アンドロイドを見つめた。
「く、くしゅん」
ハンカチを口にあてて、小さい体をさらにびくっと縮めながら、くしゅん、とやっている長門は、なんというか、変に庇護欲かきたてる。顔をくしゃくしゃにして、くしゅんとやった子猫のような感じだ。そんな姿を見ているだけで、妙な感覚が湧き上がってくる。くしゃみっ娘属性など聞いたこともないぞ。
「ちょっとちょっと!表情がエロいぞ、キョン!」
痛ってー、ハルヒ、ティッシュの箱の角で殴るのは反則だ。
「ほら、有希、これで鼻かんだら?」
ハルヒはそう言いながら、長門の丸テーブルの上にティッシュの箱をポンと置くと、丸テーブルの足元にはゴミ箱を置いた。
「……ありがと、と、とっ、くしゅん」
翌日。
今日も超教師ハルヒ先生の学年末試験対策講習会だ。今日は数学だそうだ。すでに文系に進むしかないと考えている俺には、かなりつらい時間になるのは明らかなのだが、ハルヒ先生が許してくれるはずも無い。そのハルヒは掃除当番なので、
「先に部室行って予習しておきなさい」
ということだ。うちの親に言わせりゃ無料の家庭教師なんてありがたい話だ、ということになるのだろう。くそっ、涙ちょちょぎれるぜ。
喜ぶべきか、悲しむべきか思案している間に部室の前にたどり着いた。今日は朝比奈さんが団活を休むとは聞いていないので、俺は部室のドアをノックして返事を待たなければならない。
「……くしゅん」
長門か。
部室内に足を踏み入れると、長門はいつもの場所で分厚い本を広げていた。机の上の昨日ハルヒが置いていったティッシュ箱もそのままだった。
俺は、長机の上にかばんを置き、いつもの俺の席に腰を下ろすと長門に話しかけた。
「昨日よりひどいようだな」
左手にハンカチを持ち、右手でページをめくっているが、そのスピードはいつもより3割減といったところか。眼も充血している。時折、くしゅん、くしゅん、と体を震わせている長門の姿は心なしかいつもより小さく見える。
「お茶、飲むか?」
朝比奈さんを待ってもよかったが、長門に何かしてやりたくなったので、俺は立ち上がり、お茶の準備を始めるべくポットのお湯加減の確認を始めた。
「俺のお茶でもいいか?」
「いい」
「ちょっと待ってくれよ」
俺はお茶っ葉を急須に振り入れながら、背中越しに長門に話しかけた。
「鼻水とかはどうだ?」
「花粉症の鼻水は、透明で粘性がないため、下を向いて本を読んでいると流れ出て困っている」
あははは、長門ー、わかるぞ、わかる。俺も風邪ひいた時はそういうことがよくある。そんな時は、ちょっと長めに丸めたティッシュを鼻につめておくんだ。牛の鼻輪みたいにU字にして両方の鼻の穴に詰めておくのもいい。栓をしておくと、くしゃみも抑えられる気がするんだ。
などと俺の鼻水対策のノウハウを語りながら、長門と俺の湯飲みにお茶を注いで、よいしょっとお盆を持って振り返った。
「朝比奈さんのお茶ほどおいしくな……なわっ」
目に入った光景に、もう少しで盆ごと覆水するところだった。なんと、長門は、さっき俺が話したとおり、牛の鼻輪状にしたティッシュを鼻に突っ込んだ顔で、こっちを見つめていたのだった。
「おいおい、女の子が人前でそんなかっこするもんじゃない」
「あなたがこのやり方が役立つといった。確かに本を読む体勢に適している」
「家で一人のときにやれ」
「……了解した」
よしよし、素直ないい子だ、長門。俺の話を即、実行に移すなんて……
やっとの思いで長門の前に湯飲みを置いたのち、俺はいつもの席に戻って、自分で淹れたおいしくないお茶をすすっている。
「なぁ長門、得意の情報操作で花粉症なんとかならないのか?」
「それは可能」
「なぜ、やらない?」
「情報改変能力は、非常時以外はできるだけ使用しないように封印している」
そういえば、異時間同位体との同期能力もそうだったな。
「細菌やウィルスなどに対する生体防御として、人間と同様の免疫システムを用意した。ただし十分にフィールドテストができなかったため、花粉に対して過剰に反応してしまった」
「フィールドテスト?」
「人間の場合、生まれて以来、成長とともにじっくりと免疫システムの強化を図っている。私の場合、ここ数ヶ月で急激に身につけた。熟成不十分」
「花粉症ってある日突然発症するって話も聞いたことがあるな」
「くしゅん」
またひとつくしゃみをする長門を見つめながら、俺は思いを巡らせた。
「うーん、すると、今は普通の風邪とかインフルエンザにかかる可能性もあるわけか」
「そう」
雪山で、高熱を出して倒れてしまった長門の姿がフラッシュバックする。あの時はインフルエンザウィルスにやられたわけではなかったが。
「風邪薬は効かないのか?」
「たぶん、効くと思う」
「じゃあ、何かアレルギー性鼻炎の薬でも飲んだらどうだ? このままじゃつらいだろう」
「そうする。帰りに薬屋に寄ってみる」
そうだな、それがいいよな、うんうん。
「こんにちわー、遅くなりましたぁ」
おお、朝比奈さん登場だ。これでやっと純正朝比奈印のおいしいお茶がいただける。
「こんにちは」
「おーっす、有希―、花粉症の具合はどぉ?」
古泉とハルヒもやってきて、ここに本日もSOS団が集合した。
「えー、長門さん花粉症なんですか?」
「おや、それは大変ですね」
「そーなのよ、あの有希が花粉症だなんて、信じられないでしょ?」
「そういえばこの間、花粉症に効くお茶とか見かけましたよ。今度買ってきましょうか」
さすがは心優しいエンジェル朝比奈さん。
「それより有希、鼻水止まらないときは、鼻の穴にテッィシュつめておくといいのよ、やってみる?」
うわ、ハルヒよ、俺と同じことをしているのか……。
それを聞いた長門は、潤んだ瞳で俺をじっと見つめていた。何が言いたいのだ、長門?
その後、時折発せられる「くしゅん、くしゅん」という長門のくしゃみをBGMにしながら、苦手数学の試験対策をハルヒと古泉に叩き込まれた。普段は長門の本を閉じる音なのだが、今日はくしゃみ5連発が合図だった。それをきっかけに俺たちは夕方の部室を後にした。
次の日の放課後。
部室に入るときのノックは欠かせない。今日は朝比奈ボイスか長門くしゃみか、返事はどっちだろうと待っていると、ドアがそーっと開いて、朝比奈さんが顔をのぞかせた。しかも口元に人差し指をあてがって、
「しーっ……キョン君、お静かに……」
って、どうしたんですか、朝比奈さん?
同じように声を潜めつつ、静かに室内に足を踏み入れた俺は、いつもの読書テーブルに突っ伏して寝息を立てている長門の姿を見て、息をのんだね。
音を立てないように注意しながらパイプ椅子に座った俺は、朝比奈さんに話しかけた。
「長門、寝てるんですか、ずっーと?」
「私が部室に来たときはまだ起きてたんですけど……」
といって朝比奈さんはお茶を俺の前に置いてくれた。朝比奈さんが聞いたところによると、なんでも、昨日の帰宅途中に、俺の言にしたがって買った鼻炎の風邪薬を飲んだ長門は、激しい眠気に襲われ続けているとか。
普段飲んだことない薬だから、必要以上に効いているらしい。そういえば風邪薬って眠くなる成分が入っていることが多いんだったな。
「私が着替え終わったころには、長門さんすっかり眠ってしまっていて。でも、すごく気持ちよさそうで、起こしてはかわいそうな感じなので……」
「そうですね、長門、つらそうだったから」
朝比奈さんとささやくように会話を続けながら、俺は長門の姿をそっと眺めてみた。
すー、すー、とゆっくりとした静かな寝息にあわせて、わずかに体が上下しているように見える。俺の座っている位置からは、ショートヘアの頭しか見えないが、きっと見た人が思わず微笑んでしまうような安らかな寝顔してるんだろうな。
その後、俺の隣に座った朝比奈さんとともに、長門の寝姿を見つめたまま、まったりとした午後のひと時が過ぎていく。うーん、お茶が美味い。
「長門さん、大丈夫かなぁ」
「そういえば、未来には花粉症ってあるんですか?」
「え、えっと、『禁則事項』のようですね」
「はぁ、そんなことも禁則じ……」
ばーーん。ゆったりと流れる至福の時間と会話を吹き飛ばす勢いで叩きつけられたドアの向こうから大きな声が響いてきた。
「おっ、まったせー、キョン」
こんな風に入ってくるのは、もちろんハルヒだ。いつしか部室のドアが吹き飛ぶんじゃないかね、まったく。
「なぁに二人してまったりしてんのよ、予習した、予習! キョン!」
「おい、ハルヒ、ちょっと静かに……」
「何?どうしたの」
「後ろ、見てみろ」
「ん、有希? ほへ? 寝てんの?」
「薬飲んだんで寝ているらしい。ちょっとは静かにしてやれ」
「へー、有希がね……。珍しいこともあるもんね」
そういえば、いきなりの大騒音にもびくともしないな、長門。熟睡だ。そんなによく効く薬なのか、今度紹介してもらおう。
「ふぅーん、よく寝てるわね…………あ、そうだ!」
長門の寝顔をのぞきこんだハルヒは、いたずらっぽい笑みをこぼしながら、団長机の引き出しからデジカメを取り出して、長門に向かって構え始めた。
「有希のこんな姿、めったに見られないわよ、記念に残しておかないとね」
うん、いい着想だハルヒ。ベストショットがあったら、後ほどこっそりコピーしておこう。
「キョン、あとでプリントアウトして持って帰ったらダメなんだからね!」
「な、な、何いってんだ!?」
「フン、あんたの考えなんかお見通しなのよ」
俺はハルヒには隠し事はできないな、たぶん。でもmikuruフォルダはまだ見つかっていないはずだ。なんとかしてyukiフォルダも作ってやるぜ。
得意げにカメラを構えたハルヒが、あちこちの角度から何枚も撮っていると、今度ばかりはさすがに長門も目が覚めたようでゆっくりと体を起こした。
「あら、有希、起こしちゃった? ごめんね」
「……いい」
「長門さん、大丈夫ですか?」
朝比奈さんは心配そうに話しかけると、お茶の用意を始めた。ハルヒは団長席にどっかと腰を下ろすとPCの電源を入れて、デジカメのデータを吸い出す用意に取り掛かったようだ。
「そういえば、古泉君はバイト先の打ち合わせがあるから今日はこれないって」
ふむ、閉鎖空間ではないはずだ、最近はハルヒもご機嫌のようだし。単なる機関の会合かなんかだろう。でも、古泉がいないとゲームの相手が……。
「キョン、予習できてるの?」
うっ、そうだった、試験対策勉強会だった……。
「ふう」
ややこしい数式に疲れた俺は、ため息をつきながら顔を上げた。視線の先の長門は、ぼんやりと本を見つめていた。読んでいる様子はない。こんな長門を見ているとなんとなく不安になる。万能宇宙人アンドロイドが、ごく普通の花粉に悩む少女になってしまったんだから。もし、また朝倉みたいなのが襲ってきても、以前のような獅子奮迅の活躍は期待できそうもない。それは即ち俺の死を意味するようなものだ。
うん、これは何とかしないといけないな。
夕方、ハイキングコースの坂道を、前を行くハルヒと朝比奈さんの背中を見つめながら、俺は長門と並んで歩いていた。うつむき加減の長門は、とぼとぼと歩を進めている。
「なぁ長門、もういいだろう? お前の力で、花粉症治してしまっても」
「……」
「花粉症がどんなもので、どんな影響があるのか、十分理解できただろう? お前の親玉にレポートのひとつでも送ってしまって、とっとと情報改変したらどうだ?」
「……」
「もし、朝倉みたいなのが現れたり、雪山の時のような状況に陥ったら、今のお前じゃ自分の身も守れないかもしれないぞ」
俺は隣を行く長門にそう語りかけて、長門の歩く速さに合わせながら答えを待った。
カエルマークのマンホールがひとつ過ぎていく。
「わかった。何とかする」
「うん、そうしろ。早いうちに」
「……心配してくれて、ありがとう」
長門はやや涙目で俺を見上げて、わずかにうなずいた。
「今日は一緒に行くわよ、ちょっと待っててキョン」
掃除当番は昨日までだったので、今日はハルヒと一緒に部室のある旧館に向かっている。
「有希大丈夫かなぁ。あんなにひどくなるなんて思いもよらなかったわね」
「そうだな」
ふと鼻にティッシュを突っ込んでいた長門の姿を思い出して、笑みがこぼれてしまった。
「キョン、なににやけてるのよ。有希に変な気起こしてるんじゃないでしょうね?!」
といって背中をグーでどつきやがる。何すんだよ。
部室のドアをノックしようとしたら、今日はみくるちゃん掃除当番って言ってたから、と俺を押しのけてハルヒがドアを開けて入っていった。
「あれー有希、今日は調子よさそうじゃない?」
長門はいつもの席で、いつもの様子で本を読んでいた顔を少し上げて、少しばかり首を傾げつつ答えた。
「私に適した薬があった。おかげで調子がいい」
「そう、それはよかったわ。団員の健康維持は団長の責任だもんね」
特にハルヒが何かしたわけではないのだが、それでもハルヒはなにかと団員のことを気遣ってくれていることは間違いない、俺の財布の中身を除いてだが。
長門は薬のおかげといっているが、たぶん、情報操作したんだろう。俺はパイプ椅子に座って長門の方に目を向けた。長門も俺の方をじっと見ていた。その目は、もう大丈夫、心配ない、と語りかけているはずだ。俺にはわかる。
やがて朝比奈さんと古泉もやってきた。すっかり復活した長門を見て、
「よかったですぅ」
「さすがは長門さんです」
と予想通りの言葉をかけてくれた。
「今日は早めに切り上げて、有希の快気祝いに何か食べにいこうか」
花粉症ごときで快気祝いは大げさかも知れないが、夕方まで試験対策しているよりははるかにいいぞ。
「この前、鶴屋さんにケーキのおいしいお店紹介してもらったんです。そこに行きませんか?」
「うん、いいわね」
「鶴屋さんもお誘いした方がいいですね」
当事者の長門の希望を聞くことなく話が決まっていくのはいつものことだ。もっとも長門が自己主張するとも思えないが。
まだ春というには少し早いやわらかい日差しが、窓越しに降り注いでいる。ぽかぽかと心地よい太陽光が目にまぶしい。でも花粉は飛び交っているのだな。
「……当然、キョンの奢りよね」
ん、今なんと言った?
「おいおい、俺は遅刻をしたわけでは、は、は、ふわっくしょん!」
「え、キョン?!」
「ふわっくしょん、だから、はっくしょん、ふわっくしょん!」
長門の漆黒のまなざしが大きく見開かれたのが、くしゃみの涙目でかすんだ俺の視界の中に映っている。
今度は俺が花粉症に悩まされるターンというのか?
「やれやれ……ふわっくしょん!」
Fin.