最終章―『幸せ』―
幸せそうな二人を心行くまで眺めた俺たちは、元の川辺まで戻り先ほどと同じ道を歩き始める。俺の記憶違いでなければもう少し行ったところにちょっとした公園があったはずだからそこで長門特製弁当を食おうという算段だ。
涼子と長門はというと、さっきまで見ていた結婚式について女同士花を咲かせていた。いや、すこし違うか。どちらかというと涼子が一方的にしゃべっていて、それに対して長門が相槌を打っている、といった様子だしな。だが長門も適当に相槌を打っているわけではないようだ。本人は気がついているのか気がついていないのかは定かではないが、少なくとも俺から見れば口元に微笑を浮かべているように見える。きっと涼子の方でもそれに気がついているからこそ、しゃべりたいだけしゃべれているんだろう。
ちなみに、このように今の状況を観察している俺は一言も言葉を発していない。
分かるだろ?女の子同士が楽しそうに話している時に割り込もうとした時のあの気まずさが。変なタイミングで入ろうものなら煙たがられるのは必定であり、それでも果敢にアタックしていく漢・谷口がいるわけなのだが、俺にはそんな勇気も度胸もないわけで、それ以前に邪魔してまで話す必要というものがないように思える。本当に用事があるのならまだしも、その場限りの適当な思いつきで彼女たちの楽しい時間を壊したくない。話を振られたら話せばいいし、振られなかったらそのままじっとしていればいい。
俺はただ、一緒にいることができるなら。それでいい。
楽しげに話す二人の横顔を眺めながら歩く。
「・・・あ」
今まで気がつかなかったのだが、涼子の頭に一枚の白い花びらが張り付いていた。
俺は邪魔にならないよう、そっとその花びらを取る・・・つもりだったのだが、手を伸ばしたところで気付かれてしまった。
「なぁに?おとーさん」
「ちょっとじっとしてろよ」
「うん」
どうしたのかなぁ、と顔で話しかけてくる涼子を微笑ましく見ながら俺は頭にくっついていたその花びらをとってやる。
「ほら、これがお前の頭にへばりついてたぞ」
「あ、はなびらだ。ねぇねぇ、これ、なんのはなびらなの?」
うーむ、それは俺もさっきから考えてることなんだよな。どこかで見たことあるんだが。はて、なんの花びらだったかな。はい、分かる奴。挙手しろ、挙手。
「これは薔薇の花びら」
長門がまるで俺の頭の中の質問に答えるかのようなタイミングで答える。驚きだぜ。
「薔薇?じゃあもしかして・・・」
「もしかしてこれ、はなよめさんのぶーけのやつかな!?」
涼子が俺の言葉を続けるようにして、俺が思っていたことと同じことを口にしながら目をキラキラさせてはしゃぐ。・・・なんか俺、さっきから考え読まれすぎじゃないか?気のせいならそれにこした事はないんだが。
それにしてもだ。そんなにうれしいのか?たかが花びら一枚が。
「だってだって、だってだよ?はなよめさんがなげるぶーけをとったひとってしあわせになれるんだって。あ、これおかーさんからきいたの。でねでね、もしこのはなびらがぶーけのかけらだったら、わたしにくっついてたのはしあわせのかけらってことじゃない。それってなんだかわたし、とってもうれしいの!」
まくし立てるように一気にそこまで言うと、にこっと太陽のような笑みをこぼす。
「そっか。そりゃ良かったな」
なでなでと涼子の頭をなでてやると、涼子は気持ちよさそうな顔をする。指の間をさらさらと抜けていく髪の感覚が気持ちよくてずっとこうしていたくなる。
「コ、コホン。おとーさん・・・」
さすがに外でやられるのは恥ずかしかったのか、顔を少し赤らめて涼子が話しかけてきた。俺は頭に置いていた手をあわててどける。でも手をどかす時に、涼子が小さく「あ・・・」と言ったのは俺の聞き間違いではないだろう。あとでまた機会を見つけて撫でてやろうか。
そのまましばらく歩くと目的地の公園に着いた。途中で教会に寄ったので、お昼時からは少しずれてしまっているわけだが、それが幸いしたのか、公園には人影はまばらだ。もっとも、夏の昼真っ盛りに公園で遊ぶ人自体少なそうだが。
俺たちは大きな木の影になっていて少しばかり涼しくなっているところに持参したビニールシートを敷くと、その真ん中に長門の作ってくれた弁当を広げた。
ボックスの中にはサンドイッチ、から揚げ、たこさんウインナー、卵焼き、プチトマトなど、定番ではあるが色とりどりの視覚でも楽しめるものが所狭しと詰め込まれている。
うん。なかなか旨そうだ。遊園地での弁当はおにぎりやらハンバーグやらエビフライやらと中身は定番物だったが、その味は見た目どおりとても旨いものだったので、俺の予想はあながち間違いではないだろう、というか絶対当たっているはずだ。
「「「いただきます」」」
三人で声を合わせて食前の挨拶をしてからその弁当に手をつける。
「んっ!これ、おいしいっ!」
俺の気持ちを代弁するかのように涼子が奇声を上げて、ばくばくとスピードを上げてがっつく。そして俺もそれに対抗するかのように食べるスピードを上げた。
涼子よ。いくらお前でも旨いものの独り占めは許さんぞ。
こうして
のどか・・・とは言いがたい昼食は過ぎていった。
コポコポコポ・・・
これは今長門が俺に水筒のお茶を汲んでくれている音である。俺はそれを一言感謝の言葉を口にしてからぐびぐびと一気に飲みほす。喉を通る冷たい感じが身体の体温を少し下げてくれた気がした。
ふぅ、と一息ため息をついてから回りに涼子がいないことを確認すると、長門に声をかける。ちなみに涼子はというと、先ほど、向こうのほうで遊んでくるとかいうことでどこかへ行ってしまっていた。
「長門。少しいいか?」
「なに?」
自分の分のコップにお茶を注いでいた長門が俺のほうを向く。いや、こっち向くのはこぼれるから全部注ぎ終わってからでいいぞ。
俺は長門が注ぎ終わるのを待ってからもう一度口を開いた。
「正直に答えて欲しい。涼子が消えちまうのは今日の何時だ?」
「………」
場を居心地の悪い沈黙が支配する。俺が質問したのは長門にとっても言いにくいことだろうし、俺にとっても聞きたくないことだったからだ。
だからといって逃げてばかりというわけにもいかない。その時間は確実にやってくるわけであり、こんな事は考えたくはないがもしかするとあと数秒しか残っていないかもしれないからな。だったらもう俺は逃げるわけにはいかない。事実を受け止めなければならない。
「……彼女の情報連結解除時刻は今日の二十時ちょうど」
少し悲しげな顔をして長門はそう答えた。そしてまた沈黙が支配する。
「悪かったな、こんなこと聞いちまって」
「気にしていない」
「そうか」
俺はそう答えると、目を閉じてビニールシートの上で横になって少し考える。
さて、この後はどうしたもんだろうか。時間はもう半日程度しか残ってないぞ。ええい、昨日の俺、どうしてお前は何にも考えてないんだよ。というか普通行き当たりばったりとか思わないだろ、こんな状況で。どうしてそんな事も予想できなかったのかね、俺は。
そんな事を考えているうちに気がつけば俺は眠りの世界へと引き込まれていくのだった。
『ねぇ、起きて』
どこからか声がする。目を開けるとそこに広がっていたのはいつか見た真っ暗な空間だった。
『ねぇ』
気がつけば目の前に一人の女の子が立っていた。だがその姿はぼやけていてはっきりと視認することができない。
『あなたは許してくれたりするの?』
何をだ。
『わたしの罪。消すことのできない罪』
お前が心の底からそれを悔やんでいるんなら、俺は許してやろう。そして後で償えばいい。
『ふふっ、やっぱりあなたは優しいのね』
そうでもないぞ。当たり前のことを言ったまでだ。それに、じゃないと可哀想だろうが。自分の罪を認めたやつがな。罪を認めるって言うのは勇気ある行動だろ。それが許されなくてどうする。
『ありがと。その言葉、ありがたく頂戴しておくわね』
別にお前のために言ったわけではないんだがな。
『いいの。それでも。だって―――さんはきっと許してくれないから・・・』
なんでだよ。そんなの言ってみなくちゃ分からんだろうが。
『無理に決まってるわ。だって私は彼女を裏切った。殺そうとした。大切なものを奪おうとした。こんなわたしが許されるわけないもの』
そう言ってその子は悲しげに笑う。俺はそれを見たときとっさに叫んでいた。
「涼子っ!!!」
ガバッと身体を起こす。
目に入るのは公園の喉かな風景。どうやら俺は眠ってしまっていたらしい。
「長門、俺はどのくらい・・・?」
「二十九分三十五秒。その間あなたは眠っていた」
「三十分・・・か。悪かったな」
「いい」
それにしても今の夢はなんだったんだ?今まで忘れていたが、今朝もこんな感じの夢を見たような気がする。
そして一番不可解なのはさっきの女の子の悲しそうな顔を見て口が勝手に叫んでいた言葉。
涼子。
どうして涼子なんだ?確かに姿はぼやけていたが、背格好はだいたいハルヒと同じ様な感じだったから恐らく高校生だと思うのだが。ううん、全く分からん。
・・・・・いや、一つだけ全てが当てはまるのがあるじゃねえか。
朝倉涼子その人が。
てことは何とかさんてのは長門のことか?そしてあいつが悔やんでいるのはあの俺を殺そうとした事件のことか?
・・・馬鹿らしい。なに謝る前からあきらめてるんだよ。
ああ、確かにトラウマにはなってるさ。一般人なら誰でもなるだろうよ。だが俺はな、事情を色々と知っちまった今となっちゃあのことを恨む気なんてさらさらないんだよ。だから俺はお前が謝るなら喜んで許してやろう。これは俺だけじゃない。きっと長門にとっても同じはずだ。もし長門が許してくれないなら俺が一緒に謝ってやるから。
それにな、あきらめてるやつはあんな悲しそうな顔はしない。逃げてんじゃねえっての。
「おとーさーんっ!」
「うおっ!」
俺の背中に突然衝撃が走って思考が中断される。涼子がジャンプして飛びついてきたのだ。
「おとーさんどーしたの?」
「いや、なんでもないぞ」
「でもおとーさんむずかしいかおしてたから・・・」
「そっか。ありがとな」
俺は頭を撫でてやる。さっきは途中でやめちまったからな。今度はこいつの満足するまでやってやるとしよう。
「さてと。そろそろ行くとするか」
しばらくの間撫でてやってから俺は立ち上がる。
ずっとここにいても仕方あるまい。本当のところ、もう少しくらいいてもいいと思うのだが、いかんせん時間がない。だからといってなにをするかなんてまだ決まっていない。
「ひとまず街に戻ろうかと思うんだが、どうだ?」
「構わない」
「いいよー」
よし、これですこしは時間が稼げる。街に戻るまでの間にこの後なにをするか考えておかなければ。
そして時は流れて時刻は七時。
「ふぅ・・・やっと着いた」
俺たちは今、我らが北高の校門前にいる。校門前にいる、ということはもちろんあの坂を上ってきたということだ。いくら夜とはいえ今は夏。あたりはまだ薄明るいし、気温もそこそこに高く、じめじめしている。不快の一言で全てに片がつきそうだ。
それではなぜ俺たちがここにいるのか。それはこいつのこの一言が原因だ。
「いくいく!わたし、ぶしつにいってみたいっ!」
何故こいつがこんなことを言ったのか、それを知るには少し時を遡らねばなるまい。
それはちょっと早めの夕食をいつも御用達の喫茶店で取っている時だった。
「長門、このあとどうするよ?涼子はどこでもいいって言ってるが時間が時間だし・・・」
ちらと自分の腕時計に目をやるとそこには六時と刻まれていた。
「部室」
俺はあまりの予想外の答えに自分の耳を疑う。聞き間違え、だよな?
「わたしは部室を推奨する」
どうやら俺の耳は正常だったようだ。こいつは本当に部室に行きたがっているらしい。
「構わんがどうしてだ?」
「あそこはわたしたちの思い出が詰まっている。そしてこの子のこともその思い出の一つに入れたい」
そう言って隣でオレンジジュースをストローですすっている涼子を見る。
「そりゃいい考えだな」
「え、なになに?どこかいくの?」
「涼子、お前、俺たちの部室行かないか?」
「ぶしつ?」
「そうだ。部室だ。部室ってのはな、父ちゃんと母さんが学校の放課後に行っているところなんだが、どうだ?」
「いくいく!わたし、ぶしつにいってみたいっ!」
こうして現在に至る。
「ここまで来たはいいものの、鍵が閉まってるな」
考えてみれば当たり前の事なのだが、開放時間はとっくのとうに過ぎ去っているわけで、今俺たちの前に立ちはだかっている門は何物も通さぬようにと固く鍵がかけられていた。
「まかせて」
長門がそういうが早いか、例の高速呪文を唱えると、ガチャ、という金属音がする。
「これで大丈夫」
いや、思いっきり不法侵入なんですが。
「気にしない」
いや、だがな・・・ま、よしとするか。細かいことを気にしているような暇はないしな。だがこれだけは言わせてくれ。
「やれやれだぜ」
昇降口の鍵も長門に開けてもらい部室まで歩みを進める。いつもは騒がしい場所であるはずの廊下には当たり前だが人気が全く俺たちの足音以外物音一つしない。夜の廊下がこんなに違和感の溢れる場所とは思わなかった。
そんなことを考えつつも部室前に到着。鍵の開錠はすでに済ませていたようで、二人とも俺が扉を開けるのを待っており、その目は早く早くと訴えている。
そうあせんなさんなって。今開けるから、な?
俺はドアノブに手をかけ、扉を開いた。
中はつい数日前まで毎日のように通っていたいつも通りの部屋。
部屋一面を見渡すと、どこを見ても必ず皆で撮った写真やら朝比奈さんの衣装やら古泉のボードゲームやら長門の本棚やら団長席やら、SOS団関連のものが目に入る。
長門が言っていたのはこういうことだったんだな。
確かに思い出だらけだ、この部室は。
「おとーさん、なかはいらないの?」
見れば涼子が傍でうずうずしていた。そんなに中に入りたいのか、お前は。
「お、すまんな。それじゃあようこそ、SOS団アジトへ」
俺はわざとらしくも歓迎の意を表して涼子の手をとって中に入った。
「うわぁ、なにこれ!?」
「これは朝比奈さんというそれはそれは麗しい先輩の衣装だ」
「じゃあこれは?」
「これは古泉という似非スマイル男のボードゲームだ。ちなみにそいつはお前より弱いんだぞ」
「じゃあこっちは?」
「これは団長様の腕章だ」
といったようにあっちにいってはこれは何?そっちにいってはこれは何?と質問攻めにされる俺なのであった。だが悪い気はしないは何でだろうな。
こんな感じで柔らかな時間は流れていき、新たな思い出が部室に刻まれていく。
だが幸せな時間というものは短いもので、時計を見ればもう七時半。
窓の外を見ると、あたりはもう真っ暗になっており、部屋からでも分かるくらい星が出ていた。最後は星空の下、なんていいかもしれん。
「なぁ涼子。屋上に行ってみないか?」
「え~、なんで?」
「きっと星がきれいだぞ」
「ほんと!?じゃあいくいく!」
部屋を軽く片付けてから電気を消し、ちゃんと施錠をしてから部室をあとにする。
階段を登り、またもや長門に屋上の鍵を開けてもらうと、涼子が小走りで真ん中まで行き、俺たちもそれに続いた。
「うわぁ~、きれ~い!」
いつの間にか暗くなっていた空は、今や漆黒のスクリーンと化し、ぶちまけられた宝石やミルクをこぼしたかのような一本の河が輝いていた。
「ほんとにきれいだな・・・」
予想以上の美しさでついつい星空に見とれてしまった。
「おとーさん、おかーさん。ありがとね」
突然の涼子のその言葉で一瞬にして体の血の気が消えたような気がした。
「どうしたんだ?突然」
平静を装ってたずねる。鏡で見なくても、今の自分の顔が引きつっていることが分かる。
「ううん、かくさなくていいの。ちゃんとわたしだってしってるから。もうちょっとでおわかれだって」
あまりのショックで俺は何も言えなくなる。だってそうだろ?
知られたくないと思っていたことがすでに知られていたんだし、もしかしたら何かの間違いでずっとこいつがいてくれるかもしれない、と心のどこかで思っていたことが、本人の口で全て否定されてしまったんだからな。
「あ、でもね。なんでしってるかっていわれてもわたしこまっちゃうの。わかるっていってもなんとなくだから」
じゃあ何か?こいつは自分が消えるのを知っていて今までを過ごしてきたというのか?
だったら・・・だったらそれはなんて辛いことだろう。
「涼子。お前、いままで幸せだったか?」
俺はそう聞かずにはいられなかった。
「うんっ。わたしはすっごいしあわせだよ、今も。だってこんなにやさしいおとーさんとおかーさんがいるんだもんっ。だからわたしはせかいでいちばんしあわせなんだっ!」
そう言ってにこっと笑う涼子を見て、俺は不覚にも涙がこぼれそうになった。
「そ・・・そうか。そりゃ良かった。俺もおまえがいてくれて幸せだ」
泣きそうなのをなんとか堪えて口にする。
「それでね、おとーさんにわたしたいものがあるの」
「ん?なんだ?」
そういって涼子はガサゴソとポケットを漁る。
「はいこれ、あげるねっ」
そういって渡してきたのは探索の時にくっ付いていた花びらだった。それは丁寧に丁寧にティッシュに包まれていた。
「・・・いいのか?だってお前・・・」
「うん。いいの。わたし、おとーさんとおかーさんにはこれからもしあわせになってもらいたいんだっ。だからね、これあげるの。わたしのしあわせのかけら。だから・・・だから・・・」
涼子は懸命に涙を堪えている。俺たちに涙を見せないようにと精一杯頑張っている。
「だから・・・ぜったいにしあわせになってね?」
寂しさを押し隠したその笑顔。その目元には小さな小さな宝石。
俺はそれに気付かない。気付いてはいけない。今は、まだ。
「分かった。絶対だ。絶対幸せになってやる。母さんと一緒に、お前の分も」
俺も精一杯の笑顔で答える。そうでもしていないと感情のダムが決壊しそうだった。
「絶対だよ?」
「父ちゃんが嘘ついたことあったか?」
ううん、と涼子は首を横に振る。
「だったら父ちゃんに任せろ。絶対に約束は守る」
「うんっ・・・」
「涼子、わたしからも約束する。お母さんとお父さんは絶対に幸せになる」
「うんっ・・・」
相変わらず懸命に感情の奔流を押さえ込んでいる涼子。いつの間にかその顔からは笑顔が消えてた。俺はしゃがみこんでその小さな身体を包み込むようにして抱く。辛そうに我慢している様子をもう見ていられなかった。
「泣いても・・・いいんだぞ?」
その言葉が引き金になった。
涼子はうっ・・・うっ・・・と肩を何回か揺らしてから俺をその小さな身体で抱き返してきて大きな声を上げて泣き始めた。
「うぅ・・・うわぁあぁあぁあぁぁぁああぁん!!!」
俺は無言で抱きしめる腕に力をこめる。俺の気持ちがすこしでも伝わるように。ただただ抱きしめる。
「おとーさん!おかーさん!やだよおぉぉ!お、おわかれなんてしたくないよぉぉ!うわぁああぁん!!!」
俺だって・・・!俺だってそうだ!お前と別れたくなんかない!
だが俺はその想いを口にすることはできない。無言で頷くことしかできない。
一度そう言ってしまったら最後、俺の感情の奔流は絶対にとまらないだろう。
こいつを笑顔で見送るという俺の誓いが、義務が守れなくなってしまう。
だから俺は唇を血が滲むくらい噛み締める。思いの丈をぶつけるかのように抱きしめる。
気がつけば長門も俺の隣で涼子を抱きしめていた。その肩は小さく小刻みに震えている。
思い出されるのはこの三日間。
全ての始まりの朝。
図書館。遊園地。
俺の家で過ごした時間。
そして探索。
それら全てにこいつの笑顔。笑顔。笑顔。
俺はどれだけこいつに幸せを分けてもらったことか。色々なことを教えてもらったことか。
その一つ一つが俺の宝であり、決して忘れることのできないものだ。
だから。
だからこそ。
俺はこいつには笑顔で旅立ってもらいたい。それが俺の自分勝手な願いだと分かっていても。
「大丈夫。絶対・・・絶対また会える」
気がつけばそう口にしていた。そして俺の口は止まることなく、新たな言葉を次々に紡ぎ出していく。
「どんなに離れていても、必ずまた会える。それが・・・・・」
そんな保障はどこにもない。そんなことは分かっている。分かっているんだ。もしこう言う事が罪になるのなら喜んでこの身に罰を受けよう。それでも俺は信じる。だってそれが・・・・
「それが、家族だろ?」
そう言って俺は涼子の小さな額に軽い口付けをする。
「そう・・・だよね。きっとまたあえるよね?」
「きっとじゃない。絶対」
「ああ。絶対にまた会える」
涼子の顔にはもう、涙は浮かんでいなかった。あるのは笑顔。太陽のような笑顔。
そしてその笑顔がスイッチになっていたかのように涼子の身体が淡い光に包まれる。
「もうおじかんになっちゃったね」
「ああ」
まるでなんでもない会話かのように話す。
「わたし、もういかなくっちゃ」
「ああ」
俺と長門は涼子に回していた腕を解いて立ち上がる。その身体はもうすでに半分ほどが透き通り始めていた。
言いたいことはたくさんある。それこそ話しても話しつくせないくらいに。
だが言葉として出てこない。言葉自体が出るのを嫌がっているかのような錯覚を受けるほどに。
無言のまま、時間は残酷にも過ぎ去っていく。
もう涼子の身体のほとんどが透き通ってしまってからなんとか俺は言葉を搾り出した。
「いつでも、いつでも帰ってこいよ。待ってるから、な」
「・・・うん。それじゃあおかーさんとしあわせにね」
「ああ。約束だ」
「わたしがかえってきたときにけんかとかしてちゃやだよ?」
「大丈夫だ。喧嘩なんか絶対しない。というかやっても絶対勝てん」
「ふふっ、そうだよね」
「こらっ、少しは父ちゃんの応援くらいしたらどうだ?」
二人して笑う、最後の戯れ。もうすで涼子の身体は消えかかっていた。
「それじゃ、おとーさん、おかーさん。またね」
今一度太陽のような笑顔を俺たちに向けてそう言うと、パァァァと涼子の身体の回りを包んでいた光が一瞬強く光ったかと思うと、急速に小さくなっていく。
「涼子っ!!!」
俺はもう一度だけ涼子を抱きしめようとして腕を伸ばす。
だが俺の腕はその光を通り越してしまった。
「ねぇ、おとーさん。わたしがきえちゃうまで、このままでいさせて?」
俺は大きく頷き返すと、涼子を抱きしめる形を腕でとる。
「うん、ありがとね」
完全に涼子が消えてしまうまで時間にしてわずか数秒。だが今の俺にとっては何物にも変えることのできない時間。
それは当たり前のごとく一瞬で過ぎ去り・・・
「おとーさん、おかーさん。だいすきだよ」
そして涼子は俺の腕の中からいなくなった。
永遠にも感じた一瞬の後、俺の身体は支えを失ったかのようにその場に崩れ落ちる。その手には涼子に渡された花びらを持って。
「大丈夫?」
そんな俺を心配してくれたのか、長門が俺に声をかけてくれたのだが、俺は顔を上げることができなかった。
「なぁ。お前さえ良ければ、今日も家に泊まってくれないか?」
「………」
「あの家に一人は広すぎるんだよ」
一瞬の沈黙。
「構わない。わたしも寂しいから」
俺は差し出された長門の手を借りて立ち上がった。今まで気がつかなかったが、長門の宝石のような目にも涙が浮かび、俺の姿を映している。
その瞳から視線をずらし、空を見上げるとそこにはさっきとどこも変わらない満天の星空が広がっていた。
「ああそうだ。それとな、長門。もう一つだけ頼みがあるんだが、聞いてくれるか?」
思い出したようにそう言う。
「なに?」
「一言だけ、涼子に向かって、許す、と言ってやってくれないか?俺の言っている言葉の意味が理解できなくても構わん。だがどうにかお願いできないか?」
それがあいつの。朝倉の本当の願いだったから、と心の中で付け加える。
「分かった」
長門はそう言うと、空を仰ぐと透き通った声で空に放つ。
「涼子。わたしはあなたを許す。いや、許している」
その呟きに答えるかのように。涙するかのように。一筋の流れ星が天を駈ける。
ポタ、ポタ・・・
「雨、降ってきたな・・・帰るぞ、長門」
「………了解した」
俺はもう一度だけ満天の星空を仰ぎ、長門の方を向かないようにして家路へと着いた。
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