それから数十分後……

「…………」
「――――」
「…………」
「――――」
「……むにゃ……」
「――――」
「……た、助けて……」
「――――」
「……うわ……捕ま……」
「――いい加減――起きろ――」」
「へぶぅ!!!」

 あたしは突然九曜さんに殴られました。しかもグーで。
「何をするんですか九曜さん!」
「暇だ――からといって――時間を――蔑ろに――すべきではない――」
「無駄になんかしてません! あたしは……その……」
 徐々に昇りつつある太陽を眺め、ふんっと鼻を鳴らし、気合を一発注入しました。
「今まで別世界の旅人となってアナザーワールドをさまよっていたのです。そして異世界の悪魔に追いかけられていたのです!」
 そう、そうなのです。あたしは異世界へと降り立ち、右も左も分からないこの世界を彷徨っていると、突然この世のものとは思えない何か――悪魔が、あたしに襲い掛かってきたのです。
 そりゃびっくりしましたよ。食べられるーと絶望に打ちひしがれたりもしました。
 でも、あたしは命からがらこの世界に戻ってくることができました。ふう、危なかった。もうこれであの悪魔とはおさらばなのです。
 ん? 待てよ? もしかしたらこの世界にも悪魔がやってきてるかも。そしたらこの世界にも危機が……
「寝てて――悪夢を見てた――って――素直に言えば――いいのに」
「ぎくぅ!」
 ち、違います! 寝てなんかいません! 本当です!!
「寝言が――まる聞こえ――だった……」
 ぐ……いつもボケーっとしているわりに、なかなか鋭いところをついてきますね、九曜さん。
 そりゃー、ほんのちぃーとばかりボーっとしていたのは確かですけどね。もう少し穏便な言い方があるじゃないですか。瞑想をしてたとか、精神を統一していたとか……
「あなた――は――――夢の世界に――旅立っていた――――いい加減――認めなさい――」
 ううう……正解……なんて絶対言わないのです。ここでそれを認めたらなんか悔しいですから。こうなったら言い訳で押し通してやります。
「ほら、この時期ってみんなの霊魂が出雲大社にいくじゃないですか。あたしもそこに旅立っていたんですよ。その途中悪魔に……」
「それは――八百万の――神――それに――今は卯月――――神無月には程遠い――」
 く、九曜さん……古事を何時の間に覚えたんですか?
「つい――さっき――――取得した――」
 ええー! ……って言いたいですけど、九曜さんですから何でもありですね。よく考えたらキョンくんのモノマネをやるなんて言い出したときも突然でしたしね。
「言い訳は――もういい――それより――面白いことは――ないの――?」
 九曜さんは首を1ミリラジアンほど動かしました。いつもは微動だにしない九曜さんがこれ程大きな動きをするとは……相当暇をもてあましているみたいですね。
 九曜さんもああ言っている事ですし、あたしの夢の話……いえ違います、異世界の冒険話はこっちに置いときましょう。
「うーん、そうですね。確かにホケケーとしていても、こんなにいい天気だから眠っちゃうのがオチですね。ちょっと散歩でもしませんか? 九曜さん?」
「――――」
「? 九曜さん?」
「わたしは――今――彼である――周防――九曜なる個体は――この空間内に――存在しない――」
 ま、まだ彼のモノマネを引きずっていたんですか? 本気の本気で暇をこいてますね、九曜さん……いや、操り主の天体観測……あれ、違ったっけ? 変態両親……?
 まあどうでもいっか。
「わかりましたよ、九曜さ……キョンくん、散歩にでも行きませんか?」
「わかった――」
 そういって九曜さんはベンチから立ち上がり、ストストと歩き始めたのでした。彼女の気の赴くままに。

 はあ……何だか、小さい子のお守りをしているみたいです。あたし。

 




「あっ、待ってください。あたしも……って、あれ?」
 九曜さんが徐々に離れていくのを見て、あたしも後を追いかけるべくベンチから立ち上がろうとした瞬間。
 あたしは自分の足に違和感を覚えました。何かがまとわりついているような感触が。
 ……なんか見たくないような気もしますが、見ないと話が進まないので見ることにしましょう。あたしは目線を下ろし……
「あ……」
 傍から見れば、あたしの顔は綻んでいたんじゃないでしょうか? それくらいびっくり且つ微笑ましいものがそこにいたんです。
 あたしの足元にいたのは、なんと犬さんでした。 それも白い毛をモコモコとさせた、とってもかわいらしい犬さんです。
 犬さんはあたしの足元、ロングブーツの周りをうろつき、時たまあたしの方を見ては匂いをかいでいました。
 うわぁ……かわいい……頭ナデナデしちゃおうかしら。
 あたしはしゃがみこんで、この愛玩犬の頭を触ろうとし……



 ジョロロロロロ……



「うおおーっ!!」
 ちょい待てぇ! 何してけつかんねんこのクソガキャ!!! 言わしたろかい!!!!


「はしたない――叫び――」
 ええっ! しまったぁ!! 善良な市民があたしに白い目線を向けている!! このままじゃあたしが作り上げてきたセレブリティが音を立てて崩れ去ってしまう!! フォローしなきゃ!
「……エェー、コホンッ! 今のは腹話術です。決してあたしの心の叫びなどではありません。お願い信じてください」
『…………』
 ……よし、おっけーです。皆が一斉に違う方向を向き始めました。作戦成功なのです!
「目を――合わせたくない――――だけ」
 九曜さん! そんなことはありませんって! キョンくんみたいなツッコミは止めてください!
「だって――わたしは――彼――」
 ……はいはい、わかりましたよわかりました。キョンくんやめてくださいね。

 さて、横槍が入りましたが、今あたしの身に起きたハプニング。なんだか分かりましたでしょうか?
 分かりませんかそうですか。ならば解説するのです。
 この犬さん、なんと、いきなりあたしのロングブーツにショ○ベンを引っ掛けやがったのです。
 あたしが苦労して着服した……もとい、バイトでためたお金で買った靴なのに、なんて事を……
「わん」
 わんって言われても困ります! 責任とって下さい! って言っても犬じゃ無理か……飼い主さんでてきなさい! さもないと、こいつにフライングスーパーエクセレントダイナミック京子アタックダッシュダーボをぶちかましてやるのです!!
「大人げ――ない――」
 うるさいです九曜さん! あなたにあたしの気持ちが分かってたまるもんですか! 一度痛い目にあわないと反省しないですよこういう輩は!!
 ああもうっ! 我慢できません……おい犬っころ! 出てこない飼い主が悪いんですからね! 覚悟なさい!!

「ルソー、ルソー、どこ行ったの? でてらっしゃい」
「わん わん」
 タタタタッ……

 すかっ

「え……? うそっ!? うわぁぁあ!!」

 ゴキャ プチッ ゴキャ プチッ

「…………」
 あまりの出来事に、あたしは思わず沈黙してしまいました。
 あたしがこのクソ犬に正拳を喰らわそうと、思いっきり殴りかかった瞬間、犬が声の聞こえたほうに走り出したんです。
 つまり、あたしは思いっきり豪快に空振りしました。 そして勢い余ってそのまま母なる大地に抱擁をかまして……
 へええ……い、痛いですぅ……

「あら、こんなところにいたのね。ダメでしょ。勝手に走っていっちゃ」
「くぅぅん」
  あたしは顔を突っ伏したまま、このやり取りを聞いていました。っていうか、顔面が痛くて動かせません。
 で、でも……声のする方を見なきゃ……飼い主かもしれないし……
 痛みを堪えてそちらを見ると、茂みから出てきた少女と戯れるクソ犬の姿がありました。少女はあたしと同じくらいの年齢でしょうか……そして、おそらく飼い主でしょう。じゃれあう姿が正しくそれものです。
「全く……いつまでたってもやんちゃさんなのね」
 ……なるほどなるほど。ならば謝罪させてやるのです。弁償するまで許さないんですから。
 あたしは起き上がってパンパンと埃を払い、この少女に駆け寄ったクソ犬と負けず劣らずの速度で、彼女を追いかけました。
「ちょっと待って! ……あなた、この犬の飼い主よね?」
「え、ええ……そうですけど」
「この犬、あたしのブーツに……その、おしっこをかけちゃったんですよ。どうしてくれるの?」
「ええっ! 本当なの? ルソー!?」
「くーん」
「ちょっと確認させてほしいのね」
 彼女はあたしのブーツに顔を寄せて、そして匂いを嗅ぎ始めました。ちょっと女王様チックで憧れる……ごめんなさい。なんでもないです。
「……この匂いは確かにルソーのものなのね。ごめんなさい。今きちんと拭きますから。すみません。靴を脱いでもらえますか?」
 少女は持っていたト-トバッグから如雨露とウエスを取り出しました。あたしは不承不承ながらも靴を脱ぎ、彼女に渡しました。
 そして彼女は公園の水道水を如雨露に入れて、ウエスを湿らせながらあたしの靴を拭き始めたのです。



「……………」
 あたしは黙ってその作業を見守り続けていました。本当は飼い主であろうこの少女に怒鳴ってやろうと思っていましたが、彼女の態度の毒気を抜かれたからです。
 あの如雨露やウエス。本来は電柱に引っ掛けたものを洗い流すためのものなのでしょう。見ていてなんとなく分かりました。
 そして彼女のトートバッグ。作業中にチラ見をさせてもらいましたが、ビニール袋やスコップ等、恐らく犬用の下の処理を始末するためのグッズが満載でした。
 彼女はペットを飼うことの意義をきちんと認識した、責任感のある飼い主のようです。当然しつけもちゃんと行き届いているのでしょう。
 ならば、この犬があたしに引っ掛けたのは恐らく偶然か何かってことになります。
 あ、もしかして。あたしの種族を超えた美貌に驚愕して、思わず失禁してしまったのでは? そうですね。そうに違いありません。
 だとすれば、こちらがわめき散らしたら罰が当たります。犬がその辺で用を足すのは自然の摂理ですし、雄犬が縄張りを確認するためにあのような行動をするのは当然ですもんね。

 少し寛大な気持ちになったあたしは、この犬と飼い主さんを許すことにしました。
 あたしってば慈悲深い人間でえらいと思いませんか? えへへ? やっぱりそう思いますか。
「っへっへっへ」
「こらっ、もうこんなことしちゃ駄目だぞ?」
 あたしはなおもあたしの周りをうろつく白犬にやれやれと頷き、この犬をなでようとして……
「きゃぁぁあああ!! そのポーズはもしかして!!」
「ルソー! それは電柱じゃないのね!!」

 ……そしてそして再び目標を見据えて発射されました。
「逃げてなのね!」
「ひぇええええ!!!」
「わぉ~ん」



 か、勘弁してくださぁ~い!!



 はあはあはあはあ……こ、ここまで来れば大丈夫でしょう……
 でも、あたし何か悪いことしましたか? 何で犬の標的にされなきゃいけないんですか?
「――ユニーク――」
 九曜さん……それ、キョンくんのモノマネじゃないですね……
「おや――こいつは――うっかり――――」
 もういいです……



「本当にごめんなさい。まさかルソーが人様に向かってあんなことをするとは思わなかったのね」
 彼女……阪中さんと名乗る彼女は、頭を深々と下げ申し訳無さそうにあたしに謝罪しました。
 ここまで卑屈に謝られたら、あたしも許さないわけにはいけません。少々納得できないものもありますが、ここは淑女の対応を致しましょう。
「いえ、まあ、犬のすることですし……飼い主が反省しているのならもういいです。でも、もう今後こんなことはしないようにしつけをお願いします」
「うん……そうします。でもおかしいなあ。今まで人に向かっておしっこを引っ掛けたことなんて無かったのに」
「――彼女の――足が――よほど気に入った――」
 九曜さんが変な事を言い出しました。
「そういえば……なんとなくこの子の好きそうな足の形をしているのね」
 この人も意味不明なことを仰りやがりました。あの、それってどういう意味でしょうか?
「うーん、平たく言うと……その、なんと言うか……」
 ……? どうしたんですか? 何か言いにくい事なんですか?
「いえ、まあ……円柱型で、ええと、色もちょっと……何て言うんだったっけな?」
 彼女の言葉は、歯切れの悪いものでした。もう。いいですからちゃんと言って下さい。
「大根――足」
 え゛……
「太くて――不恰好――」
「そうそう、そう言いたかったの。まさにそれなのね……って、どうしました?」
「…………」
 ううう、みんなひどい……自分では『バッチリ チリ脚♪』だと思ってたのに……

 




 その後、責任を感じた彼女は染み抜きが家にあるからお詫びがてら是非来てくださいと、あたし達を彼女の家に招き入れたのでした。
 あたしや九曜さんは断るすべもなく――というか、当然の対応ですし、何より暇ですし――彼女の家に向かったのでした。
「ここなのね」
 彼女が普通に指差した建造物を見て、あたしは彼女に対する恨みは忽然と消えてしまった――くらいのそれは豪奢な佇まいでした。
「ちょっと待ってて」
 彼女は鍵を取り出し、ガチャガチャと鍵が複数ついたキーホルダーを取り出し――
「ルソー、もう少しの辛抱だからじっとしてるのね」
 そうこうしている間に鍵が開き、ドアを開けたとたん、ルソーは一目散に駆けていきました。
「さ、入って」
 あたし達も阪中さんに釣られて中に入り――
「うわあ……」
「――――」
 思わず声をあげました。なんとこの犬。ちゃんと玄関のマットで足を拭いているのです。自分ひとりで。
「ちゃんとしつけているからね。外から帰ってきたら足を拭くように」
 へえええ、凄いですね……頭良いんですね。
「でも――自分の縄張りと――橘――京子の――足は――区別できない――」
 九曜さん……嫌な事思い出さないで下さい。せっかく忘れてたのに……
「彼の――マネ――ツッコミ――」
 はいはい。わかりましたよキョンくん。ひどいですぅ。そんなこと言わないで下さい。
 これで良いですか?
「感情が――篭っていない――」
 あなたに言われると無償に腹が立つんですが……

 




 阪中家のダイニングでのんびりくつろいでいると、彼女のお母さんが現れ、あたし達に陳謝していました。あの子ったらルソーのこと甘やかせ過ぎだとか、今染み抜きしているから、お菓子でも食べながら待っててねとか……
 こうしてみると、彼女のお母さんもいたって普通の人でした。なのであたしはお構いなくと社交辞令を交わした後、九曜さんと談笑していました。
「うわぁ! このシュークリーム美味しいのです! これならいくつでも食べられるのです!」
「――――」
 九曜さん? どうしました?
「あんまり――食べ過ぎると――太るぞー―」
 大きなお世話です! というか、まだキョンくんのモノマネ継続中なんですか?
「そう――」
 もういい加減やめたらどうですか?
「――やだ」
 はいはい、そうですか。何が彼女のやる気を爆発させているんでしょうか? わけわかりません。
「わたしは――今日一日――彼――彼の名前――で――呼んで欲しい――――」
 ふう、と溜息一つつきました。こんなに強情な九曜さんは初めてなのです。
 もしかしたらいい考えがあるのかもしれませんね。こうなったらずっとキョンくんと呼んでやるのです。キョンくんと思って接してやるのです。もう開き直りました。
「わかりましたよキョンくん。どうですか、シュークリーム。食べますか?」
「食べる――あーん」
「ふふふ、キョンくんったら甘えんぼさんですね。はい、あーん」
「美味しい?」
「美味し――い――」
「あ、ほら。唇にクリームがついてますよ。だらしないな、キョンくんったら」
「拭いて――くれ――」
「こら、甘えんぼさんなんだから。あたしがいないと何もできないのね」
「面目――ない」
「はい、拭き拭きしますね――うん、綺麗になったわね」
「――やれやれ」
「ふふふ、本当にキョンくんらしいのですね。ふてぶてしい態度なのに、あたしに甘えるところなんかそっくりなのです。いっつもこんな調子ですもんね」
「――そう」
 キョンくんってばかなりのツンデレですからね。二人っきりになるともっとすごいことをやってのけましたからね。
 っと、でもこんなことは本人の前では言いません。怒られちゃいますしね。勿論佐々木さんや涼宮さんの前では禁句です。命がいくつあっても足りません。

「お待たせ。大分綺麗になったのね」
 阪中さんがあたしのブーツを持ってきました。さっきまで染みになっていた部分は跡形もなく消え去りました。
「本当にごめんなさい。お詫びといっちゃなんだけど、お母さんの新作、3種のクリームが入ったシュークリームがあるからたくさん持っていって」
 かなり大き目の袋からは、香ばしい香りが漂ってきました。
「いいえ。こちらこそ色々貰っちゃって。ありがとう」
「ううん。もともとはあたしが悪いんだし。これくらいじゃ罪滅ぼしにもならないけど」
「いいのよ。あたしの知り合いに比べたらマシな方よ。わざとじゃないかってくらい鈍感なのがいるしね」
「あの、それって……」
「え?」
「ごめん、なんでもないのね。それじゃ、また」
「ええ。また遊びに繰るわ。メガーヌにもよろしくね」
「……それ、うちのお兄ちゃんと同じ呼び方。しかもルソーじゃなくてルノーだし」
「え? そうなの? じゃあ、フロンティアオビタルセオリー。略してFOT、フォットよ!」」
「それもお兄ちゃんと同じ……もうルソー関係ないし」
 色々とツッコまないで下さい。あたしだってこの辺のことはよくわからないんですから。
「うん。どうでもいいよね」
 ルソー。もうあんな事しちゃ駄目ですよ?
「わわん!」
 わかったみたいですね。それじゃあこれで。シュークリームご馳走様でした。
「さようなら」



 あたしはこうして、たっぷりと貰ったシュークリームに気をよくして、この高級住宅街を後にしたのでした。

 




 あたしとキョンくんの真似を継続中の九曜さんは、さっき頂いたシュークリームをはぐはぐと頬張りながら、街道沿いをえんえんと歩いていました。
「美味しいですね、このシュークリーム」
「美味――しい――」
「いっぱいもらったから、キョンくんにもわけてあげるのです」
「そう――かい――――サンキュ――」
 言葉のテンポはゆっくりですが、確かにキョンくんっぽい喋りをしています。九曜さん。
「次は――どこに――いこうか――」
 そうですね……シュークリームがあまりにもおいしかったから、あたしの食欲に火がついたのです。丁度おやつの時間ですし、ケーキでも食べませんか?
「いい――」
 実はすぐそこのデパートで、ホテルのシェフ謹製ケーキのバイキングイベントが開催されているんです。期間限定ですし、行きたいなーなんて思っていたところなのです。いい機会です。そこに行きましょう。
「分かった――」
 九曜さんは頷き、一人でスタスタとデパートに向かって歩き始め、あたしもいそいそと追いかけたのでした。


「うっわぁー! すっごいです!!」
 ベージュ色を基調とした、シックな感じの広間。元々はイベントホールか何かなのでしょう。しかし今はパーティションやカーテンで区切られ、甘い香りでむせ返っていました。
 大きいのから小さいの、形もデコレーションも種々様々なケーキたちが溢れかえっていました。
「早速食べましょう! 九曜さん!!」
「わたしは――周防――九曜では――」
 ああそんなことどうでもいいのです! 早く食べましょう!!
「やれやれ――」

 




「ふう……おいしかったのです」
 あたしは心行くまでケーキを堪能し、食後のセイロンティーを口に含みながら悦に浸っていました。さすがホテル業界、デザート部門で一、二を争うシェフの腕は素晴らしいです。
 甘くって、コクがあって、それでいて重くなく……これならいくらでも食べられるのです。
 これで1000円は安すぎです。普通なら1つでそのくらいの値段ですよ、このケーキ。
 非常に残念なのは、今週までのイベントということですね。これから毎日通って食べようかしら? うん、それがいいかも。
 九曜さんもいきますよね?

 ・・・・・・

「……あれ?」
 九曜さん? どこいったのですか? 九曜さん?
 ふと横を見ると、隣の席に座っていた九曜さんがいつの間にかいなくなってしまいました。
「おっかしいなー。お手洗いかな?」
 とりあえずその場で待機することにしましょう。
 っと、どうせだからもう少しケーキを食べますか。甘いものは別腹ってよく言いますし、実際その通りですからね。

 誰ですか、だから太るんだって言った人! ……どうせその通りですよ。悪かったですね!!

 




「遅い……」
 それから数分後。九曜さんは一向に戻ってくる気配がありません。心配になって化粧室に見に行ってみましたが、しかし九曜さんの姿はありませんでした。
 はっ! もしかして食い逃げ!? あたしにお金を払わせるつもりなんじゃ!!
 ……って、ここは先払いのシステムでしたね。会計はもう終わらせてあります。この前の合宿で組織から前借りしたお金もそこをつきかけているので、ついお金に過敏になっていました。
 でも、九曜さんったら本当にどこに行ったのでしょうか?

「お客様、そろそろ時間でございますので――」
 そうこう考えているうちに、タイムリミットが来てしまったようです。バイキングに時間制限はつきものですし、仕方ありません。
 あたしは店員さんに光陽園女子学院の制服を着た黒髪長髪の女の子が戻ってきたら連絡下さいと伝言し、席を後にしました。



 イベント特設コーナーから出たあたしは、九曜さんが行きそうな店を回ることにしました。
「まずは、本屋ね」
 宇宙人は読書好きって言うのが定番ですし、ここにいる可能性が高いですからね。それでは向かいましょう。


 ・・・・・・


「居なかった……」
 長門さんとは思考回路が違うのでしょうか? 九曜さんは、リーディングではなく、ライティングが趣味なのかもしれませんね。
 ……はっ! と言うことは、文房具屋か画材屋に居るのでは? そっか! そうに違いない!! さえてる今日のあたし!! 折り好くこのデパートには総合文房具屋がありましたし、そこに違いありません。
 では早速文房具屋にレッツラゴー! なのです!


 ・・・・・・


「居ない……」
 おっかしいですね……あたしのカンが外れるなんて。
 ライティングでもないと、オーラル? オーラルといえば……確か最上階に歯医者があったはず!
 なるほど! 九曜さん、思ったよりケーキを召し上がらないと思っていましたが、実は虫歯だったのですね! ダメですよ、ちゃんと歯は毎日磨かなきゃ。それでは歯医者さんに行きましょう!

 




 あたしは最上階行きのエレベータに乗り、ガラスの窓で区切られた歯医者さんに単身乗り込みました。
「あのー……」
「はい、初診の方ですか? どうされました?」
「い、いえ、連れを探しているんですが……」
「連れですか?」
「ええ。光陽園学院の制服を着た、髪の毛の長い女の子ですけど、こちらに来ませんでしたか?」
「えーっと、少々お待ちください。探してみますから」
 受付のお姉さんは治療室に入っていきました。どうやら診察室の方を確認しているようです。
 しかし……この消毒薬のにおい。そして歯を削るドリルの音。どうしても好きになれませんね。あたしは歯医者は大っ嫌いなのです。
 昔々、親に連れられて虫歯を治した思い出があるのですが……二度と行かないって誓いました。あんな痛い思いをするなら、きちんと歯磨きをしなければ、などと心に誓ったことが記憶の片隅に残っています。
 おかげで学校の歯科検診では今まで虫歯ゼロ。どうです? 素晴らしいでしょ。

「お待たせ致しました。どうやら、今治療中の方にそのようなお嬢さんは居ないようですね……」
 受付のお姉さんは、あたしの予想を裏切る返答をしました。
「そうですか……ここにはいませんか、ありがとうございました」
 長時間ここに留まっていても仕方ありません。早急に違う場所へ……
「あ、お嬢さん。ちょっと待って」
 はい? 何でしょうか?
「あなた少し口臭がきついわよ。ちゃんと歯磨きしている?」
 え? そ、そんな! 毎日欠かさずしていますよ!!
「本当かな? その匂いはサボっているようにしか思えないんだけど」
 やってますって!
「そう? なら、ブラッシングが間違っている可能性があるかもよ」
 ブラッシング?
「つまり、歯の磨き方よ。いくら毎日磨いても、磨き方を間違えちゃ意味は無いわ。虫歯やその他の歯の病気にかかりやすくなっちゃうわ。そうだ、今から診断しましょうか?」
「い、いえ……結構です。連れを探さないといけませんし……」
 丁重にお断りを申し入れました。決して歯医者さんが怖いからでは……ないですから。そこ、笑わないで下さい。
「まあまあ、そういわずに」
「だから、あたしは」
「そのままじゃ、彼氏にも嫌われちゃうよ?」
「!!」
「口臭が原因で彼氏と別れちゃうのはあなたもいやでしょ?」
「あ、あたしはキョンくんとそんな関係じゃ!」
「ふーん、キョンくんって言うの。彼氏。かわいい名前ね」
「だ、だから、彼氏じゃ……」
「ふふふーん。じゃあそういうことにしておきましょうか」
 ぜ、絶対勘違いしてるし……
「それはそれとしてさ、お姉さんに任せなさい。特別タダで診断してあげるから」
「え? タダですか?」
「もちろん。あ、でももし治療が必要だったらお金は貰うけどね。それより何より、今のままじゃいろんな人が不快に思うかもよ? だから診断は必要だと思うの」
 そうですか……佐々木さんに嫌われたらあたしの存在意義がなくなっちゃいます。ここは1つ、診断をしてもらうことにしましょう。
「はい、毎度あり~♪」
 お姉さんはやたら陽気に、野菜を売るおばちゃんみたいな声を放ったのでした。

 




 あたしは簡単な手続きを済ませた後、歯科用の治療台の上に座らされました。こうやって座っているだけで、あの時の恐怖が蘇ってきます。
 口が動かなくなる麻酔、ドリルの高周波音。痛いと思ったら手を上げてねという歯医者の気休め。
 ううう、今から引き返してもいいですか?
「お待たせ。それじゃあ診察始めるわ」
 あれ? 受付のお姉さんが診察するんですか?
「ええ。口の中を見るだけだし、これくらいのことで先生の手を煩わせる必要は無いわ」
 そうですか。怖い顔のおっさんがドアップで迫ってくるよりは精神的苦痛は無さそうですね。腕のほうは心もとないですが……
「もし治療が必要なら先生に任せるわよ。だから心配しないで。それじゃ大きく口を開けてください」

 あーん。

「…………」
「…………」
「…………おや?」
「…………??」
「…………ふむふむ……なるほど……」
「……あほ、ろうれふか?」
「……うーん、これはすごいわね……」
「へっ? はひはふほいんへすは?」
「あ、口はもう閉じていいわ。うがいして頂戴」
 ふうー。疲れた。

 あたしは横においてあるコップをとり、ガラガラとうがいを始めました。でも、『すごい』って、一体何が凄いんでしょうか? まさか虫歯……?
「大丈夫。あなたの歯には虫歯は一本も無かったわよ。健康そのものの歯ね」
 な、なんだ……びっくりしました。凄く含みのある表現だからどんなひどいことになっているかと思いましたよ。
 それに言ったとおり、あたしの歯には虫歯が無いのです。目指せ8020運動なのです!
「でもね……」
 あたしが心の中で息巻いていると、お姉さんの口から信じられない言葉が発せられました。
「歯石の沈着が酷すぎるわ」
 へ……? しせき?
「そう、歯石。歯垢とカルシウム……唾液の成分が結合して、歯茎に堆積しちゃうのを歯石っていうの。歯周病の原因になったりもするわ。口臭の原因はこれね。なるほど、これもひとえに間違ったブラッシングのせいね」
 ええっ!!
「とりあえずこの歯石を除去しましょ。それから正しいブラッシングを教えるから。それじゃあ始めるわよ」
 ちょ、ちょっと! 今からですか!!
「すぐ終わるから、ほら、暴れないで。まずは右奥から行くわよ。痛かったら手を上げてくださいねー」


 ギュイイイーン――


 消毒薬のにおい……ドリルの音……意味の無い挙手……
 いやぁー!! 昔のトラウマがぁーー!!!


 たーすーけーてーぇーーぇぇーーーぇーーー!!!


 ………
 ……
 …


 うう、あたし乱暴された……
 痛い痛いって叫んだのに、『我慢してねー』って言って、いやがるあたしを強引に……
 これじゃあ強○ですぅ。訴えてやるのです。
 もうお嫁にいけないわ……
「何アホなこと言ってるのよ。歯石が取れたんだから良かったじゃない。それからさっきも言ったように、ブラッシングはきちんとやってね。それと歯石除去代は頂くから宜しくね」
「…………」
 泣きっ面に蜂。踏んだり蹴ったりです。例えではなく本気で泣きたいです。
 もう二度とここにはきません。こっちからお断りです。

 ――そんな感情を心の奥底にとどめ、あたしは歯医者を後にしました。

 




 あたしが口を押さえて歯医者から出ると、あたしを呼ぶデパート構内放送がかかりました。
『迷子のお呼び出しを申し上げます。橘京子ちゃん。橘京子ちゃん。お連れのキョンくんがインフォメーションセンターでお待ちです。繰り返し迷子の――』
 ま、まさか……ともかく、インフォメーションセンターとやらに向かいましょう!

 あたしは一階にあるインフォメーションセンターまで駆け足で移動し、そして例の黒い物体を発見しました。
「やっと――来た――」
「九曜さん! 何ですか今の放送!」
「わたしは――彼――」
「相変わらず彼のモノマネですか……それは百歩譲っていいことにします! でも橘京子『ちゃん』ってなんですか!」
「迷子――だから――ちゃん付け――」
「迷子になったのは九曜さんじゃないですか!」
「わたしは――ずっと――あそこに――いた……――勝手に居なくなったのは――あなた――」
 へ?
「奥に――いた……――シェフと――話を――してた――そしたら――――あなたが勝手に――出て行った――」
 九曜さんが進んで人と話すなんて……予想外にも程があります!
「わたしは――彼「もうそれはいいです。しつこいから」」
 何故九曜さんはこうしてまで、彼のモノマネに拘っているんでしょうか?
「わかりましたよ、あたしが勝手に出て行ったのが悪かったんですね、悪うございやしたすみません!」
「反省――してないぞ――」
「彼の真似はいい加減止めてください!!」
「そんな――態度だから――彼に振られたんだ――ぞ――」
 ああ!! もうっ!!! あること無いこと仰らないで下さい!!!

 クスクスと笑いを上げる受付嬢を尻目に、あたしは顔を赤くして九曜さんを引っ張っていきました。
 ……しばらくこのデパートにこれないですね……さよなら、愛しのケーキバイキング……



橘京子の退屈(後編)につづく

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最終更新:2020年03月12日 00:58